■2025年6月2日(月)
■一日一文章トレーニング。

「この週末はエルデンリング・ナイトレインで遊ぶ」

このゲームはバイオハザード4に於けるマーセナリーズみたい立ち位置に近いかもしれない(個人の感想)。
ゲーム制作者が個人的に作り楽しんでいた世界がそのままゲームとなったような感じ。
因みに、バイオハザード4のマーセナリーズとはコンボを繋ぎ高得点を競うゲームのおまけです。
通常ゾンビーとはダッシュで逃げるものですがマーセナリーズの場合はこちらからゾンビーの集団に向かって走って行き、攻撃して怯んだところをキックでふっ飛ばし得点を稼ぐ。
このナイトレインも島の中には幾多のボスが点在しており、それらの中ボスを時間内に見つけ倒しレベルを上げて夜の王に挑む。
夜の街の王に戦いを挑むお話とは新宿決戦のような感じでもありますが、レベル1の初心者が新宿の街に繰り出しても終始迷子となるような感じで地図を読めない私もチンプンカンプン。
1ゲームの道中も長くて結構な長丁場でしんどい。
ゲームも毎回レベル1からスタートするので攻略の戦術も必要で、野良3人集まってもそのような意思疎通は出来ないので、結局、先輩のような人の後ろを走る。
そして、終始皆ダッシュで走り回っているのですがゲームの詳細を調べようとよそ見でもすれば、すぐにゲームの世界で置いてけぼりの迷子となる。

現在公開可能な情報は、教会に行けばエスト瓶を増やせる。
夜や雨がやって来ると反対方向に猛ダッシュで逃げる。
第一の夜の王「三首の獣(グラディウス)」は1回しか討伐していませんが、レベル11で倒せた。
レベル11まで上げようと思うと、それなりに効率的にたくさんのボスを狩らないといけないので、なかなかしんどい。
攻撃しても怯まない強敵とは遠くから弓でチクチクと弓チク攻撃するのが安定ですが、夜の王を倒した時は弓をゲットしていなくて絶対に死なないような回避と、死んだ人の救助に徹する。
そうなのだ、役割分担も必要でこのゲームは死んだ仲間は剣や弓でバチバチとダメージを与えて復活させるゲームでもあり、ブラッドボーンの禁忌「死体撃ち」もこの世界では唯一仲間を復活させる方法だ。
夜の王とはチーム一体として団結して挑まないと難しい強敵である。

エルデンリング・ナイトレインの発売日は私のフォローしている海外のエルデンPSチャットのグループも大騒ぎであった。
いつも英語で「PVP(1対1の対戦)やろうぜ」みたいなチャットも騒がしい。
私もナイトレインは予約していましたが発送されたのは発売日の翌日でその波には乗れない。
そして、予約者全員に貰えるらしい雨のポーズの予約特典もついていない。
チャットは就寝中もピコピコと音を立ててうるさいので、私はiPadの電源をOFFにする。
すると携帯からもピコンピコンと通知音が鳴り響き、携帯の電源もOFFにする。
しかし、まだピコピコと通知音が寝室に鳴り響くもので、私はタブレットを見つけ電源をOFFにする。
これで全ての電子機器の電源を切り安らかな眠りに入れるものかと思ったのですが、その見る夢とはPSの設定画面から通知音を消す夢だ。
夢の中でも設定をいじるのはしんどい。
そして、朝起きて実際に正夢で通知音を操作できないかと調べるがそのような方法はないようで、そして、その日からエルデンリングのチャットもシーンと静かだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月2日(月)
■およげ名ニャ~。
■2025年6月3日(火)
■一日一文章トレーニング。

「ビギナーズラックを整理する」

あ~今日は雨。
マイ室内データによると空気の入れ替わりの変換点は近づいているようで、あと数日もすれば私の中の季節の分岐点は越えるような予感。
水は外気の温度を吸収するもので、雨もたくさん降れば大地の隅々まで温度を平準化するのかもしれない。
このような温度も気にならない雨の天気ではありますが、私の中では季節の変わり目はすぐそこまで来ているようだ。

昨晩、本棚の隙間に積み上がった本の一部が崩れる。
数センチの本棚の隙間に積み上がる本とはとてもアンバランスな状態であり、それは少しでも棚収納を有効活用させる知恵でもある。
本棚の2層がなくなれば、もっとキレイに片付く本棚かなと思うもので次の整頓目標は本棚の前に置かれたモノたち。
単行本や文庫本を1列で並べる棚とは背表紙もキレイに揃って憧れでもある。
本の容量を減らさずに本棚をキレイに収納させる方法はないのでしょうか。

崩れたものたちは先日後ろにある本を取リ出す為に動かしたものたちだ。
そして、崩れて床に散らばったものたちを片付けていると床にヒラリと舞い落ちる壱万にゃんのお札を見つける。
何?これ?舐猫銀行券・壱万にゃん???
棚からぼた餅とはよく言ったもので、棚から落ちるお金とは猫のお札でも何だかうれしい。
さて、このような1万にゃんはどこでゲットしたのでしょうか?
ガチャガチャと回してゲットしたような気もするもので、ヒラリと床に舞い落ちる壱万にゃんなシチュエーションとはなかなか存在しない行幸でもある。

福沢又吉殿の肖像画である1万にゃん札はどの位の価値があるのか?とあいつに聞くと、1万にゃんの交換レートは1万円らしくATMにも使えると言っています。ww
バンザーイ・バンザーイ素晴らしいにゃん!!オレの壱万にゃんを買い取って下さいまし。ワクワク

ということで、

ラッキーはラッキーでも、先日のビギナーズラックが起こる要因の関係性を整理してみた。
注意:言葉遊びです!
ビギナーズラックに注目すると、そこには「経験者」と「初心者」という一つの境界線が見えてくる。
また、異なる視線で線引きをすると「運」と「ビギナーズラックは存在しない」という考えもある。
「ビギナーズラックは存在しない」には確証バイアスという心理現象が存在するようで、これは運の存在自体を否定している。
果たして、運は存在するのか否か?私には答えることは出来ませんが、自分に置き換えてみると確かにビギナーズラック的な記憶はいくつかある。
賭け事では、初めて競馬場に行った時に何回も馬券を当てて黒字となったこと。
馬券の買い方も何も知らない私が競馬新聞を片手に文字並びの語呂などから適当に買った数字が当たるアレ。
ここは社会主義国なのかと思うぐらいのデッカイ巨大な建物に圧倒されながら、走る馬に熱狂する群衆の歓声に圧倒されてビギナーズラックを当てるもので、友人やまわりの知らないおっさんたちにも当たって申し訳ない気持ちになる。
しかし、2回目以降の競馬場では全くかすりもしないもので、秒で飽きる
それ以来馬券は買っていない。
初心者がハマるにはビギナーズラック+2度目以降の成功体験や報酬が必要かもしれないもので、いずれにしても、ビギナーズラックとは単なる「運」でもあり、そのようなものは存在しないと言う人もあるので書きにくいのですが、経験者とは時になぜか初心者に負けてしまうものでもある。

まず、経験者とは豊富な経験やデータ、分析力もありスタイルも完成した人であるとも言える。
様々の方法論を駆使し、このような時はこうするとか複雑な物事の解決方法を持っていると思う。
複雑さであるということは、参入障壁があり素人が幾多の壁を乗り越え、やっと参加できるようなシステムでもある。
これは経験者が持つ複雑性にあるのではなかろうかと思うもので、経験を積めば積むほどに情報は積み上がり複雑になり、複雑性とは守る技術であるように思う。

一方で初心者は何も経験がない。
これは簡単に教えられた基本に忠実に行うことで不可能や可能などの経験値もなく先入観もない。
あれこれと試行錯誤しながら良い道を選んで修正するもので、勝って当たり前のようなプレッシャーもない。
これは学び初めの初心者の優位性の一つでもあるように思う。
先程の経験者の複雑性と比べてシンプルであること意味するもので、参入障壁もなければ自由闊達に多くの初心者が参加するとなれば、それは経験者よりも数の上でも優位になるかもしれない。
そして、ビギナーズラックを発動させない初心者もたくさんいると思う。
先日、イメージはシンプルにとの考えを持ったものではありますが入口がシンプルであることが勝利のポイントなのかもしれない。
シンプルであることを攻めの姿勢であるとも言える。

経験者ー複雑にー守る
初心者ー簡単にー攻める

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月3日(火)
■三ねこ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月4日(水)
■一日一文章トレーニング。

「私の得意技は箱を作ること」

この交換日記のプロフィール欄に得意技をカキカキと書き込む。
ただし、そのような得意技も急に「作ってみろ」と言われても緊張して失敗してしまうかもしれない程度の得意技。

よく「絵を描くのが得意です(ドヤッ)」と自信満々に話したならば「何か描いてみて」という話にもなるもので、急に何を描けば良いのかと迷ってしまうものだ。
似顔絵はほうれい線やシワまでしっかりと描くと事件となり、ゆるい絵をカキカキと描くと「ふ~ん」と気まずい雰囲気になる。
絵とは筆記具と紙さえあれば描けるもので、絵心がある人も多い中で迂闊に「絵を描くことが得意技です」とは控えた方が良いかもしれない。
そこで、得意技の箱作りだ。
「私は箱を作るのが得意です」と神秘性もあって面白い。
ほとんどの人は箱作りの経験もないので特に話も広がらず・・・寡黙な時間も流れ、「箱を作って」と言われても「材料を用意しないと、残念だけれども作ることは出来ないね☆」と醸し出せる。
あ~完璧な箱作りの得意技。
そもそも、得意技とは他人から評価や資格、仕事などのプロフェッショナル感がないと主張してはいけないものでありましょうか?
得意技とは自己申告でも良いと思う。

真っ平らな板ダンボールから「ちょちょいのちょい」と折り線を入れて組み上げる立体の箱。
「ちょちょいのちょい」も変な言葉でもありますが、少しばかりのちょっとした力学により平面のダンボール板が立体物な箱に変化することは魔法みたいでもある。
折り紙とて、そのような不思議もありますが、折り紙は折れない。
私の中の折り紙とは切り貼りの材料である。
オレがオれるのは箱だけと、何かの役に立つのかと考えても何の役にも立たない謎スキルでもある。
しかし、今回は折り紙収納の箱を作りて役立った。
このようなピッタリに収納できる箱とは家には存在しないもので、自作しないと専用ケースは作れないものだ。

もし仮にRPGや物語の主人公の唯一の得意技が箱を作ることであれば、敵を箱に封印する最強魔法かもしれない。
どのような強敵であれ、戦闘するよりも動き封じて箱詰めにすることが世界のピンフでもある。

ということで、昨日、私は折り紙を入れる箱を作った。

使用中の折り紙たちとはドサリっと本棚に積み置かれて見栄えが悪い。
本棚の整頓には先ずは積み上がったものたちを整理する必要があるように思うもので、本以外から整頓する。
積まれた折り紙たちとは大まかな容積を計測し、底面となる部分に記しを入れ、縦横、マチ、のりしろと線を引いて、カッターやハサミで切り出して、組み立てれば完成だ。
20×13×16センチの50サイズ内に収まる小さくてかわいい箱。
さっそく、外に出ている折り紙たちをキレイに詰める。
無地の箱でもあるもので、箱詰めすると中身を忘れてしまうのでマジックで内容物を書ける。

ということで、箱である。

箱な意味を持つ漢字を調べたら、「箱」「函」「筥」「匣」「筺」「箪」「笥」・・・とたくさんの漢字を見つける。
日常的に使う「はこ」とは「箱」と「函」ぐらいかもしれませんが、私達のご先祖様たちはそれだけ箱好きであったのかもしれない。
確かに、箱にキレイに収納できた時には幸せな清々しい気分になる。

「箱」とは木竹紙などで作られた方形の器のこと
「函」は関数の箱でもあり、蓋のある箱のことを言う
「筥」(はこ・キョ)は丸い筒状の箱のことで
「匣」は小さな箱
「筺」はパソコン筐体(きょうたい)な箱であり
「箪・はこ」「笥・はこ」は箪笥(たんす)な箱のことである。

ハコガマエという専用の辺の「はこ」が存在しているのに、ハコには様々な箱があって面白い。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月4日(水)
■かお。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月5日(木)
■一日一文章トレーニング。

「箱を作る得意技は十八番(おはこ)のこと」

昨晩は大雨が降る。
豪雨と言い換えた方が良いような大雨で、雨レーダーを見ると赤い小さな離島のような雲が局所的に大雨を降らしていた。
まさにピンポイントな大雨。
昨日はとても暑かったので窓は全開にしていましたが、雨は横殴りとなり室内にも入ってくる勢いなのでバタンバタンと窓を閉めて部屋は完全な箱となる。

ある意味「箱を作る得意技」とは「十八番(おはこ)」のことだ。
なので、我が「箱を作るのが得意(十八番)です」と言ってもおかしくはないもので、なぜ?得意技のことを「おはこ」と言うのかと調べる。
前にも調べたような予感ですが忘れたので仕方が無い。
十八番は歌舞伎の市川家の秘蔵芸として18の題目の台本を桐の箱に入れて大切に保管していたことから「おはこ」と呼ばれるようだ。
歌舞伎とは敷居も高く1度しか観たこともなく、その時の内容もよく覚えていなくて語ることは出来ませんが、お値段が高そうな前座席に着物や綺麗に着飾るお姉様方がいたことと、近くにいるジェームス・ボンドみたいなインテリ外国人が小難しい顔で歌舞伎を見ていたことはよく覚えている。

「舞台~より~人~が気に~なる~歌舞伎~かな」

であるm(_ _)mt

ドレスコードは舞台な箱作りにとっても必需品かもしれないもので、次に歌舞伎な演目を観る機会があるならばビシッと気合いを入れて観たい。
このような劇場の器のことを「はこ」とも言うし、18番な番を組むことは番組とも言う。
また、出番を待つようなことは十八番の番から来るようで演者の世界の根底には歌舞伎用語が流れている。
そして、そのような大切な家宝とはやはり桐箱に入れて仕舞われているようで、この「仕舞う」という行為にさえ「仕える」+「舞う」との構造を見つけて舞楽の世界を感じる。
本当に大切なものとは次に舞う時の為に大切に仕舞われて箱の中から取り出すことで輝きを増すのかもしれない。
正に伝家の宝刀だ。
そして、箱に仕舞わずに出しっぱなしの「出し物(上映作品)」な言葉もある。
絶賛上映中な演目とは桐箱に仕舞わずに、出し物として出しっぱなしするのが良かなことで、これにより多くの人々の目に触れることになる。
箱に仕舞ったり、箱から出したりと忙しいものではありますが、人生とはそのような側面もあるもので、人生という名の箱の中に何を入れているのか?何を出すのか?の命題もまた人生である。
通常、「無」の反対語は有為無為(ういむい)と「有」と表現するように思うのですが、この歌舞伎な十八番を調べていたならば、「無」の反対は「舞」と表現するのが粋なようにも感じる。
「舞う」は「無」から両足な飾りをつけて動的な躍動性を感じるもので、「無」の反対が「舞」であることはとてもステキなことだ。
人とは無から舞う(動く・表現)ことによって有な輝きを得るのかもしれない。

私達の普段使う日常用語とはこのような舞台の言葉から広く伝播し文化となるもので、舞台が一つの装置となっていたことは伺い知れる。
大陸国家とは覇権が文化を広めることとすると、英国のシェークスピアのように島国国家とは芸能が文化を広めた側面はあるのかもしれない。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月5日(木)
■ねこ(= =)

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月6日(金)
■一日一アスキーアート・トレーニング。

「げたねこのポエム」

げたねこ(〓 〓)ちょーかわいい。
目が二ー二ーでちょーかわいくない?
げたねこは得意技の箱を作る魔法を打つとさ。
[封印]
めでたし、めでたし。
会社の重(要)書類にはコピペで必ずねこを付けませう☆
そして、
今日も一日の養分を使い切ってしまったようで☆
全ての敵を箱詰めにする最強魔法が欲しい☆
ナイトレインのくそ狂った「喰らいつく顎」は箱詰めラッピングにしてタコ殴りしたい☆
池袋の街が箱だらけであらば、それはげたねこの仕業です☆
何を封印したのか絶対の秘密☆
箱の開封はダメ、絶対に☆

<2コママンガ>

1,
|\    /|
|    ̄ ̄   |
|  (〓 〓)
|   (  ⊂  )
|       |
|         ̄ ̄)~~~~~~~~~~~~~~~//*□*
|       | ̄ ̄
|      /
|/ ̄ ̄\ |

2.
 \//
| ̄ ̄ ̄|
| 封 |
| 印 |
|    |
 ̄ ̄ ̄ ̄
微調整もした、おしまい

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月6日(金)
■箱作りの魔法。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月9日(月)
■一日一文章トレーニング。

「去年の9月以降から計測している(約280日)私の爪のササクレは69回目をカウントする」

右・左・右・左と文字を追っていると重力間隔が失う変な気分。
英語風にカッコ良く発音すると「サ↑サ↑ク~レー↓」で、今朝も立派な大きなササクレを記録する。
ほとんどは手のササクレで、時折、足にササクレが出来る。

手のササクレは65回
足のササクレは4回

数字だけ見ると4日に1回程度のササクレで春頃にササクレ回数は大きく減少する。
そう言えば、春はササクレないなーとは思っていましたが、改めて数字を見ると少ない春のササクレだ。
4月は15日に1回と最も発生回数が少なく、発生回数は多い12月・1月では3日間隔でササクレる。
春になぜ?ササクレが減少するのか?それは謎。

2025年今現在の6月9日現在は2回のササクレを計測して増加傾向
2025年5月は6回(5日に1回)
2025年4月は2回(15日に1回)
2025年3月は7回(4日に1回)
2025年2月は7回(4日に1回)
2025年1月は11回(3日に1回)
2024年12月は10回(3日に1回)
2024年11月は8回(4日に1回)
2024年10月は8回(4日に1回)
2024年9月は8回(4日に1回)

ササクレの1/3は中指でササクレるのも不思議。
中指は指の中で1番長くて先端に出ているので布や物との摩擦も多いかもしれませんが、使用する指であれば親指や人差し指がササクレるのが妥当でもある。

中指のササクレは33回
薬指のササクレは22回
人差し指のササクレは10回
小指のササクレは4回
親指のササクレは0回
※足の親指のササクレとは深爪のことかな?

指のササクレる部分は、左手は左側に出来ることが多く、右手は右側に出来ることが多い。
これは外側に向けてひっかかりササクレの成長を促しているように思う。

左手の左側は25回
左手の右側は1回
右手の左側は17回
右手の右側は22回
右足の左側は3回
右足の右側は1回

私のササクレ情報程に無意味なものもありませんが一応データも付けます。
ササクレが出来てもニッパーでパチンとカットするので何も不利益はありませんが、されどササクレ。
カットする断面から新たなササクレを生んでいるような気もする。
今度、ササクレの絵に描いて詳しく調べましょう。

2024年9月9日,右手右側,薬指
2024年9月16日,右手右側,中指
2024年9月25日,左手右側,中指
2024年9月25日,左手左側,中指
2024年9月25日,右手左側,中指
2024年9月25日,右手右側,薬指
2024年9月28日,右手右側,人差し指
2024年9月29日,左手左側,中指
2024年10月5日,右手右側,中指
2024年10月10日,左手左側,中指
2024年10月18日,右手左側,薬指
2024年10月19日,左手左側,中指
2024年10月20日,左手左側,中指
2024年10月22日,右手左側,人差し指
2024年10月27日,左手左側,中指
2024年10月29日,右手右側,薬指
2024年11月2日,左手左側,中指
2024年11月5日,左手左側,中指
2024年11月6日,右手右側,中指
2024年11月10日,右手右側,薬指
2024年11月13日,左手左側,人差し指
2024年11月18日,右手右側,薬指
2024年11月20日,左手左側,中指
2024年11月25日,右手右側,人差し指
2024年12月3日,右手右側,薬指
2024年12月3日,右足右側,小指
2024年12月5日,左手左側,薬指
2024年12月13日,左手左側,中指
2024年12月15日,右手右側,中指
2024年12月16日,右手左側,薬指
2024年12月22日,左手左側,中指
2024年12月25日,右手右側,人差し指
2024年12月27日,右手左側,薬指
2024年12月31日,右手右側,中指
2025年1月7日,右足左側,小指
2025年1月9日,右手左側,薬指
2025年1月11日,左手左側,中指
2025年1月12日,右手左側,人差し指
2025年1月15日,右足左側,小指
2025年1月19日,左手左側,中指
2025年1月19日,右手左側,中指
2025年1月20日,左手左側,中指
2025年1月20日,右手左側,薬指
2025年1月25日,左手左側,薬指
2025年1月25日,右手右側,人差し指
2025年2月1日,左手左側,中指
2025年2月4日,左手左側,薬指
2025年2月5日,左手左側,中指
2025年2月11日,右足左側,小指
2025年2月15日,右手左側,中指
2025年2月20日,右手左側,中指
2025年2月24日,右手左側,薬指
2025年3月1日,右手左側,薬指
2025年3月6日,右手左側,中指
2025年3月7日,右手左側,人差し指
2025年3月9日,右手右側,中指
2025年3月17日,右手左側,薬指
2025年3月21日,左手左側,中指
2025年3月23日,左手左側,中指
2025年4月21日,左手左側,中指
2025年4月26日,右手右側,薬指
2025年5月2日,右手左側,人差し指
2025年5月6日,右手左側,人差し指
2025年5月9日,右手右側,薬指
2025年5月10日,右手左側,中指
2025年5月11日,左手左側,中指
2025年5月23日,右手左側,薬指
2025年6月7日,右手左側,薬指
2025年6月9日,左手左側,薬指

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月9日(月)
■指運動のお時間でーす。筋をよーく伸ばしてストレッチ。おいっち、にー、さん、のーびーのび♪

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月10日(火)
■一日一文章トレーニング。

「左右を調べていたら右往左往な谷間にはまる」

最近、寝ている最中の布団の中で足がつりそうになる。
眠りながら「うーん」と体を伸ばした時に右足のふくらはぎがつる寸前までいく。
それが3日連続起こり由々しき事態。

「イタタ」と一瞬で目が覚めて、痛みに耐えながら瞬間で眠ってしまうような夢の時間。
しかし、朝起きると実際に足は少し痛いのでメンタムをたっぷり塗ってケアする。
メンタムは擦り傷、打ち身によく効くもので、今回の足つりも治りそうな予感。
知らないけれども。

さっそく、この布団の中で伸びした時に足がつりそうな現象をインタネットで調べると、睡眠前の水分不足や運動不足に原因があるようだ。
確かに寝る前に水分をたっぷり飲んだかと問えば、最近、水分の摂取量は少ない。
運動不足かと言われれば確かに運動不足かも。
私の場合、1回の足つりはクセで2度目の足つりを発生させる傾向もあり、実際に今回は3度目を発生させている。
そして、面白いことは起きてから全力で伸びしても足は健康そのもので全く痛くない。
この現象は寝ている時にだけにしか起こらない不思議な筋肉痛なのだ。

ところで

昨日はササクレの絵を描いて「かわいい」と褒められる。
そして、どれどれとよく見ると「やっぱり、気持ち悪い」とも言われて、これが「キモかわいい」かなと思ったりもする。
いやいや、順番的には第一印象はかわいくて、よく見ると気持ち悪い“指の絵”なので「かわキモ」かもしれない。
対象物に2つの感情が同居する現象は面白いもので、楽しいけど悲しい、など相反する2つの感情が同居する状態はとても興味深い。
そして、指はどこか人間っぽさがあるもので、今日もう一度描きましたがどの辺りがかわいいのか?さっぱりわからない。

寝ながら足がつりそうになるのは右足のふくらはぎで、昨日はササクレの場所を調べながら右手・左手・右側・左側と文字を追いかけて右左の境界線も曖昧となる。
世の中広いと言っても、「右」と「左」を辞書で調べるボンクラは私以外にいないと思う。

?右\(>_<)/左?

右とは「口」で助けるとの意で、左は「工」の工具を使い手助けするという形。
この言葉はカタカナ読みするのではなく、左手に「工な道具」、右手に「口な言葉」で役立つと解釈するようだ。

右のつく言葉だと「座右の銘」「右筆・ゆうひつ」「右に出る者」などがありますが「右」とはどこか口達者な感じもする。

「座右の銘」とは自分の傍らに常に置いておく戒めの言葉。
「右筆」とは天皇や地頭などの権力者に仕え、文章を書き記し、助言なども行う執事のような職業のこと。
「右に出る者」とは他より優れた能力を持った人のことで、「右に出る」があれば、「左も出て」も良いもので調べるとこの言葉は中国の右を上位と尊ぶ外来語のようだ。
一方で日本の伝統では右よりも左の方で上位で、右大臣の上に左大臣がいるように中国の風習とは真逆な価値観でもある。
右と左の価値観の差とは正反対でもあり、このような政治機構の違いからも日本と中国が昔から鏡の反対側のような立位置にあることはよくわかる。

左は道具を使って助ける意で、「左官」、「証左」、「左右を顧みて他を言う」、「左遷」などを書き出す。

「左官」は壁を塗る職人のことで、官僚でもないのに左の官の字が付く不思議な大工仕事だ。
「証左」は証拠のことで、口頭だけではなく物証として残るツール的な意味を持つ。
「左右を顧みて他を言う」とは都合の悪い問いに対し、左右の人に他愛のない話をしてごまかすこと。
「左右・さゆう」とは反対にすると「右左・みぎひだり」と読めて、日本語の曖昧さと言うか奥深さを感じる。
ひっくり返した文字を2通りの読み方で普通に意思疎通できる言語とは一般的にあることなのでしょうか?
「左遷」とは地位や権力を剥奪され低い地位や官職に落とされることの意味で、左大臣の方が上位であるので文字通りに脳天気に読めば左に左遷されれば栄転とも感じとれる。
この左遷も右が上位となる外来語で、このような意味とは何であるかと考えれば、「左遷」とはもともと日本の慣習や風習にはなかった輸入された概念かもと思ったりもする。
また、権力闘争の末の追い出した人を左の上位に行ったように見せかける曖昧さなのか?心遣い?としての右遷でなく左遷かもしれない。
真意はわかりませんが、言葉を生み出す人にはそれなりの考えがあるようにも思うもので、やっぱり日本語には日本人の考え方や哲学が詰まっているように思う。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月10日(火)
■スタイリッシュな奴ら!

*デスクトップ画面用の画像です。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月11日(水)
■一日一文章トレーニング。

「+新しい感情を追加するのは連想」

ここにキッチンの温度計がある。
鉄の棒のセンサーを水やお湯に浸し液体の温度を計測する機械で、この温度計は持ち手のプラスチックが溶けて変形している。
丁寧に「手に持ってご使用下さい」と書かれているのに、手放して使うことでこのように鍋の金属部分の熱で溶けてしまう。

温度の計測時に温度が確定するまで「じっ」と待つことは結構な苦痛だ。
棒センサーを水に付けて温度確定するまでの数秒間とは「まだか、まだか」と温度確定するまでの時間が待ち遠しい。
これはパソコンやスマホのほんの少し読み込み時間でも待てないイライラな時間帯だ。
我々は電車が通っても通っても開かない開かずの踏切に耐えて我慢していたと言うのに、電子機器の数秒の待ち時間を待てない。
犬でも「待て!」と待つのに現代人の私達はそのような数秒も待てない。
私たちが便利になった結果に慣れれば慣れる程に、短気な人間へと調教され増える感じでもある。
レジ作業でも少しでも待たすとキレる怖い人たちがいる。
そのような時には笑顔だけではもう無力で、「我々は非常にテキパキとヤッテイマス」な演技力を醸し出すことでしか切り抜けることは出来ない。
なので、ホットクックの「今ガンバっています」な“やっています”アピールはとても重要で、いずれにしても、電子機器の待ち時間とは物理的な待ち時間よりも長く感じる。
これは電子機器に触ること自体が1対1(私の脳と画面)の直接脳内対話な運動のような感じでもあり、現実世界は便利になり物理的な肉体感覚を通さことも少なくなり連携するスイッチも短くなっているように思う。

ところで、

キッチンの温度計の液晶部分が溶けていたならば計測表示は見えませんが裏面だけが溶けているので使用可能だ。
また、電池部分も開閉可能なので電池交換も出来るので末永く使える。
ですが、プラスチックの表面が変形することで接続部分に1~3ミリ程の隙間が開いているので、水が侵入すれば基盤まで一直線でショートする。
なので、絶対に水没禁止ではありますが、この溶け具合とはワイルドでもありフラットではなくなった表面に自然のような美しさを感じる。
これはデザインされて型から抜かれた工業製品とは真逆にあるもので、この熱で溶けたプラスチックの表面はどこか自然回帰な感じもあり格好良い。

このような溶けた温度計を見ていると“連想”されるのがNYの任天堂ミュージアムで見たゲームボーイだ。
湾岸戦争当時に遊んでいたゲームボーイが戦火で焦げて変形した姿を展示している。
ものすごい見た目ですが、液晶画面にテトリスがピコピコと起動する。
移動中のテトリスとは時間を忘れて永遠に遊べるゲームでもあり、NYの任天堂ミュージアムではマリオなTシャツを購入したりして楽しかったものだ。

そして、

このような「連想」させることが、先日の指のキャラクターがなぜ?かわいく見えて、その後に気持ち悪く見えるのか?のキーワードではなかろうかと思う。

さっそく自分の中で起こった感情の推移をスイッチな連動図で描く。

先ず、第一印象の見た目とはかわいらしさだ。
おそらく、可愛らしさとはまん丸さであったり、小ささであったり対象物の「形」のことであると思う。
可愛らしさの追求だけであれば形状をかわいいカタチや小さくすれば大抵かわいくなると思う。

そして、

第二感情の気持ち悪い感情とはキャラを詳細に見た結果のことで、指を「連想」することによる新しく生まれる感情だ。
指にはシワがあり爪も生物っぽい生々しさもあって、丸い形状からのかわいさは指を連想することで気持ち悪さな感情が追加される。
「連想」とは「~みたい」と何かと何かを繋げる接着剤のようなもので、雲を見てソフトクリームを連想して「ソフトクリームを食べたいなー」と思うような一連の感情である。

1)
丸い形状を見て→かわいく思う

2)
指を連想して→+気持ち悪く思う

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月11日(水)
■かわいいに触れる。

*デスクトップ画面用の画像です。
*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月12日(木)
■一日一文章トレーニング。

「アイム意味不明な言葉を紡ぐレスラーデス」

毎日室温や水温計測をしていると普段は目に見えないような空気の入れ替わりが見えることもある。
今朝の室温は24.7℃・湿度74%、置き水は25.5℃、1番水の水温は25.3℃で水温は室温を超えている。
外気温に近い水の温度は24.2℃で、あと0.5℃の山を超えれば完全に季節の山の頂を超えて季節の境界線を超えたと言えるのかもしれない。
※これは私が勝手に計測している目安です。
ですが、「季節の変化が一雨ごとに進む」という言葉があるように数字からも雨は季節を進行させている。
先日も書きましたが水は温度を吸収し反応性の高く、大雨が隈なく水が土地に浸透すればその外気温度も隅々まで広く伝播する。
雨は温度という情報を伝え広げるメディアみたいなものだ。
因みに、今年も雪解け水は計測出来なかった。
もともと、昔、春頃に感じた冷たい雪解け水を街角の一室から観測しようと思ったものですが、それは幻想であったのかもしれない。

そして、

昨日は横殴りな雨に打たれながら水溜まり避けてぼちぼちと歩く。
東京の路上は雨水は溜まらないもので、昨日や一昨日のような大雨でないと道には雨は溜まらない。
なかなかの大雨でもあるので歩く人もかなり少なく街には閑古鳥が鳴いている。
時折、前からやって来る人に道を譲り、水溜まりを飛び越え避けながら歩く。
移動中にやることと言えば、雨水を避けて、人を避け、永遠の「どうしようかなー」の一日一文章トレーニングのテーマに悩むぐらいで、そして、水溜りのカタチが面白いと思ったのでこれをテーマにする。
さっそく、面白く思った雨水の形状を頭の中に記録して図にするが、この雨水のカタチから文章を作成するのも至難の業。
なぜなら、水溜りに興奮して突進するのは犬であり、または、笹舟を浮かべる子供時代くらいなもので、私に水溜りの思い出は特にない。

私はなぜ水溜りの写真を撮らなかったのであろうかと後悔しながら、曖昧な記憶の水溜りの絵を描く。
たぶん、このような感じで水が溜まっていて、それを避けながら長くて険しい行路を歩いていたように思うもので、水溜り模様とは服の模様には良いかもしれない。
ホルスタインな牛の模様は結構好きな模様の一つ。
ですが、今度は牛柄の服を着ていたならば「おまえは審判なのか(しましまの服)」に続く「おまえは牛か(牛模様の服)」の三部作に近づける予感。
牛が何の模様に擬態してあの模様になっているのかわからないのですが、このように絵に描くと迷彩模様にも見える。
そして、そのような水溜りを避けて進んでいると、それはどこか音楽的でもあり、実際に木陰の下を歩くと雨音もとても静かになり、車が横を走ればザーと雨を斬る音もなかなかに騒がしく、車の雨よけの屋根の打つ雨はドッタンバッタンな騒音となる。
街には人も少なくてとても静かですが、自然の雨音はある意味コンサート会場並に騒がしいと思ったのが水溜り模様から感じた感想です。

そう言えば、私が思い浮かべる雨水のカタチ(記号)と、ドイツの雨注意な梱包用シールの雨粒の形状が異なる。
ドイツの雨粒のカタチはアシンメトリーな雨粒で横殴りな雨をしている。
雨の表現一つとってもお国柄や人によっても雨粒のイメージは異なるようだ。

ということで、

「言葉をつむぐ」なのだ。

雨降る道をとぼとぼと歩き毎日文章を書いている文章とは「言葉をつむぐ」ことであるように思うもので、これは昨今話題になる言語化とは異なる。
「言葉をつむぐ」とは文豪みたいな人たちが使う言葉でもあり恐れ多いのですが、ほぼ毎日それなりの小さな文字の山を積み重ねていれば、それなりの紡ぐ感はあるものだ。
それらは連なる文字の山脈を歩くような感じで、尾根を伝い登り下って山々を目指すもので、今日の文字山脈レベルを例えるとシダ類に引っかかり悶え苦しむ歩みでもある。
たまに、しっかりと書ける時もあるのですが、何にも書くことがない時にもにシダ類と戯れて力ずくで書く。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月12日(木)
■幽体離脱ニャンダフル♪

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月13日(金)
■一日一文章トレーニング。

「グローバリゼーションについて調べる」

グローバリゼーションはヒト・モノ・カネの国境の壁を無くすことを目的にすること。
これは誰かの意思で動いているというよりも人の持つ正義感や良心、過去の反省や理想等、様々な人々の思いがカタチとなり広がった思想体だと思う。
勿論、世界で活動する企業にとって国境とは邪魔な存在で、無いに越したことは無い。
1989年のベルリンの壁の崩壊や鄧小平の改革開放路線により西側諸国のグローバリゼーションは地球規模で広がり人や経済を繋いできたように思う。
ですが、私の解釈ではロシア・ウクライナ戦争、中国の戦略物資や政治思想によるヒト・モノ・カネの移動を阻害、米国の関税や移民排斥とグローバリゼーションは風前の灯火にシュリンクしているように思う。
もともと、国とは自国中心主義であるものの、そのような本音を隠さなくなっただけとも言える。

日本の場合、

「ヒト」はインバウンドを入口に徐々に開放するフェーズにあると思う。
欧米諸国は移民に耐えることが出来ずに疲弊していることを考えれば日本も無理なような予感。

「モノ」は戦後のグローバリゼーションの波に則り経済復興を果たしたが、その後、中国などのWTO加盟の拡大などによって世界経済の負け組となる。

「カネ」は1980年に外為法改正により対外取引の自由化が行われる。
「モノ」「カネ」とは金融でもあるので、例えばX国でA1というサービスを行う企業が3%の利益を上げるとして、隣のY国で同じようなA2というサービスをする企業が10%の利益をあげれば、壁のない金融資本はどこに投資するかとは一目瞭然である。
グローバリゼーションとは世界と同水準の収益を求めることで、これは雇用でもグローバルな天秤に人件費等の資本コストが安い国にお金は流れる。
境界線の有る・無しとは言葉よりも現実的な厳しい世界を見せるもので、これも失われた30年の一つの現実でもあると思う。
国境を跨ぐことに為替リスクがあるとすれば、次に考えるのが経済統合で、ユーロのような共通通貨を使うことにより為替による損失をも無くそうと考えるのがグローバリストの考える一物一価だ。
世界はフラットに拡大し、同質で同じ商品は世界のどこでも同じ価格と壁のない世界に自由に動くのがグローバリゼーションでもある。

グローバリゼーションを調べていると、昨今頻繁に言われる多様性とグローバルは同じ世界線上ではない別物と気付く。
宇宙から地球を見た宇宙飛行士が「地球に国境はない」と言う言葉に感動する、私のぼんくら具合の地球規模な錯覚でもありますが、勿論、同質の匂いは感じる。

そして、

世界は激動期にあるもので金と交換できない不換紙幣は湯水のように世界に溢れる。
実際に金価格は上昇し、モノの価格も上昇し、これらは経済用語でインフレ期待とも言うようですが世界は予測通りに物価上昇している。
因みに、インフレ期待の“期待”とは予測のことで、儲かることを期待しての予想かもで、要は人々の不利益であっても儲かる人は存在する。
しかし、不換紙幣が流通する世界でグローバリゼーションの楔が世界経済の安定を機能させてきた側面は確実にある。

第2次世界大戦後の世界はブレトン・ウッズ体制で米ドルの固定相場+金本位制なシステムにより運用され、1971年8月13日のニクソン・ショックで保有米ドルと金の交換を停止されたことによって価値の裏付けのないペーパーマネーは誕生し、金本位な安定も消失する。
金本位制の誕生はジョン・ロックが王の采配により自由に金銀を作り出す世の中は国民の財産権を侵すものだとして、「貨幣は安定と持続の価値を持つべし」と貨幣論を展開しポンドに含まれる金の含有量を一定にしたのが金本位制の誕生秘話だ。
金本位制により英国金利は戦争の混乱期とニクソン・ショックを除いて安定して、世界はニクソン・ショックにより未体験なインフレな世界へと足を突っ込んでいくことになる。
過度なインフレとは国民の財産権を奪う行為であるとは妙を得て、国がインフレとなれば金利の利払いも少なく得であり、生活者にとってインフレは不利益となって国民VS国という対立関係となる。
国家社会主義であることの問題点はこのように対立した時に優先されるのは国民よりも国家(利益団体)であることだ。
今、世界で起こっている事柄は今まで数十年続いたグローバリゼーションの終焉で、中国は国内経済の低迷を戦争で景気浮上する方法を考えているだろうし、トランプさんの「モノ」な関税な経済政策はニクソン・ショック程ではないかもしれませんが世界中の物価を上昇させるには十分だ。
そして、同じ島国でも日本には見ざる言わざる聞かざるとジョン・ロックのようなロック魂を持った人はいないように見えるのが悲しい。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年6月13日(金)
■うめ~梅干しは月日が経つのを待つだけ。