*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月1日(木)
■一日一文章トレーニング。

「人の内面に住む鬼とは般若のことかもしれないと思い般若とは何かについて調べる」

仮面を怖く思う理由はその下の表情が笑っているのか?怒っているのか?わからないところ。なので、パンデミック下の全員マスクは当然不気味ではあります。おどけた笑顔で近寄って来るピエロももちろん怖いし、無表情で真顔の能面も怖い、子供がかぶる仮面ライダーのお面でも怖く思う時もある。猫や犬が仮面をかぶった飼い主のイタズラに、「うー」や「しゃー」と恐れ警戒するのも頷けるもので、私も同じく仮面をかぶるの人を怖く思うものであります。そのような薄気味悪さを感じるマスクの中でも異彩を放つのが般若です。般若の鬼面の表情は平安っぽい髪型の能面をベースに下半分が怒り顔で、上半分は悲しみの表情を浮かべて角を生やしております。この面は完全に人を怖がらるように作られたお面であります。もし、般若のお面がお家に飾られているようならば夜一人でおトイレに行くのも怖いだろうし、浮遊する幽霊でもあっても近づき難き悪霊退散の効果があるのかもしれません。

この般若がなぜ?仏教の大切な若波心経(はんにゃしんきょう)の名を語っているのかと思うところが問題です。「般若=怖い」とは私達の常識なのですが、「般若心経=仏教の経典」というのも常識です。私はこの般若な共通点から単純に解釈して、この般若のお面が当時の廃退する仏教に対する彫師の怒りや悲しみをこの面は表現しているのではないのかと思いました。恐らく、お面を作る人とは物語や踊りを書いて創作する人でもあります。また、お面を彫る時間やお金の余裕や技術も必要です。般若という難しい言葉を名付けるところからも、これを生み出した人は文化人であることは間違いないと思われます。そのような怖い面から仏教界の権威に対する批判のようなものをひしひしと感じるものであります。さっそく、日々の鉢皿の”なめくじ検査員”はネットをパチパチと調査します。どうやら、定説は固まっていないようでありますが、どれも仏教のたいそうな礼賛な教えを肯定するものばかりで腐敗する宗教界に対する怒りの表情という仮説は見当たりません。どうなのでしょうか?作者は奈良県の般若坊(お坊さん)との言い伝えがあるようです。

ならば、「般若」とは何のことかとなります。般若とはいっさいの迷いに囚われずに心理を導く「智慧(ちえ)」のこと。無常、苦、無我の全てを理解する「空」のことで?智慧とは一切変化の無い物事の普遍的な成り立ちのことを意味しています。ヨーロッパ大陸哲学のような普遍性のような感じでしょうか。反対に私達が普段使う「知恵」とは経験則的な英国や米国、日本のような海洋国家的な考え方のような気もします。「無常」は一切のことは生滅、変化して常住しない、人生の儚さのこと。「苦」は苦しみ。「無我」とは私心が無いことで、存在する全てのものは仮のもので永遠不変の固定的実体・我は存在していないという意味であります。「般若」は全ての存在は「空」であるとを示しております。

節分の「鬼は外、福は内」は確かに空な空間に向かって投げるものであります。もちろん、鬼の仮面をかぶってに鬼に扮する人にも投げて浄化するものでもあります。抽象的でうまく言葉にはならないものではありますが、般若の意味を知ると、「空」ある空間に「魔が差す」ことも度々起こる現象でもあります。「空」な空間(空気)に豆(魔滅)を投げるおまじない的な意味は十分にあるように思われます。図は般若のイラストです。左は何も見ずにイメージだけで描いたもの。右は般若の画像を検索してから描いたもの。最初の絵の方が雑ではありますが味のある般若や鬼のように見えます。第一印象とは大体、正しく表現されているということもあるものです。(呆則)

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月1日(木)
■じゃぶじゃぶブタ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月2日(金)
■一日一文章トレーニング。

「昨日は何十頭ものブタ画を描きました」

時折、忘れた頃に勝手にオススメして来る過去写真の思い出。
普段ならガン無視でもありますが、昨日は、私が昔に描いた落書きをパラパラ風に紹介してくれるので見入ってしまうものでもあります。
「あ〜そう言えば、このような落書きをしていたもので」時折、気に入る落書きとはあるものだ。
そのような落書きは捨てるのが勿体ないので写真に撮ってから捨てます。
クシャクシャのポイである。
変な音楽と共に流れる写真を見返していると変なブタの落書きを発見します。
上下反対でかなりのピンボケで、まるで走りながら撮ったようなブレブレなブタの落書き写真であります。
ゆるゆるで適当なブタのえ。
当時もそのような雑でゆるいブタの絵が気に入ったのだと思われます。
私のハートにブタの炎が「ボッ」と点火します。
MYブタブーム到来の予感です。

ということで、

昨晩はブタの画をたくさん描いてすごしていました。
描けば描く程に変なブタが出来上がるもので、正に「変なブタの製造機」でもある。
変なブタがたくさん作られると、このブタ画が本当に魅惑的であるのかの疑義が立つものではありますが、変なブタも数集まればそれなりに面白く思えるブタでもあります。
そして、そんなブタの絵を描いていると「ブタとパンとキノコ」に、とあるスクロールなカタチの共通点(呆則)を見つけます。
それは「ブタとパンとキノコ」が同じカタチであること。
「ほらほら」とご覧くださいませ。
「ブタとパンとキノコ」は皆同じカタチですよ。
白黒の影だけ問題で、「さて、このカタチは何でしょう?」と質問すると、多くの人はパンやキノコだと答えるでしょう。
しかし、答えは「ノーノーノー」ブタです。
「A:ブタ」
ブタのカタチはパンやキノコと一緒なのだ〜と思いながら、ブタをネット検索すると本当のブタのカタチは全く異なる形状でした。m(_ _)mT
いやはや、本物のブタを見たことのない怖さとはこのような感じなのかもしれません。
ご愛嬌なブタでよろしくです。
そう言えば、私はブタが主人公の映画「ベイブ」がとても大好き。
「バーラムユー・バーラムユー」(吾輩の願いを聞いて下さいませ)と、ほとんど内容は忘れておりますが、あの映画は名作で間違いありません。
もちろん、ブタ肉も大好きでブタの知能が犬などよりも賢いことも知っています。
なので、ブタ肉を食べる時は心が痛むものでもありますがブタ肉は大好きでもある。
ブタ肉は焼き目がしっかりとつくぐらいにカリカリに焼くことが大好きで、やわらかい豚肉よりもカリカリな豚肉の方が好みでもあります。
なので、柔らかいお肉などととろけるお肉の柔らかさも良いのですが、とりあえず、歯ごたえ重視の味覚です。
最近、牛ステーキなどでも「ウェルダン」な固い肉の魅力も段々と理解してきております。
高級ステーキ店で、肉の焼き加減を聞かれて「ウェルダン」と答えたならば、ウェルダンを頼むような奴はどのようなツラをしているのか?と、さり気なく、皆、ストレッチをするように後ろを振り返るのかもしれません。w
とりあえず、ブタはカリカリに焼くのが大好き。w w
そして、
ブタ画の体までしっかりと描いたならば、甲殻機動隊に出てくるラスボスみたいだ〜と思うものでもあります。
「トグサ、私のゴーストはまだまだ囁いているのよ(草薙素子)」
と、登場人物全員がこの手のブタで甲殻機動隊絵巻を描いたならば、電脳社会の仕組みを理解できるかもしれません。
いやはや、暫くはブタ時代の到来の予感です。
特にブタの手のピースサインがお気に入りです。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月2日(金)
■これ何だ?






黒電話
きのこ
パン
ブタ
バッタの顔
 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月3日(土)
■一日一文章トレーニング。

「我、花瓶につく気泡から新たな酸素取引を予感する」

いやはや、節分です。

1月25日に購入した切り花は白菌に感染させて10日間過ぎても元気です。ただし、お花系は日ごとに茎が折れ曲がっていくものであり、シャキリとした真っ直ぐで元気な茎にするには茎をカットしてあげる必要があります。茎をカットすると白菌のネットワークは効果薄であるような気もして、白菌が本当に生命を伸ばす効果はあるのかと疑念はまだ残ります。ただし、お花以外の植物は茎を一度もカットせずとも元気に育っており効果は絶大です。果たして白菌に植物の寿命を伸ばす効果があるのか?と思いネット検索すると、切り花の冬の寿命は7〜10日間ぐらいなので、本日、その期間を経過したことになります。

切り花をしていると花瓶に付着する気泡に気づきます。私はこれらの花瓶や茎につく気泡が何の成分なのかと気になり調べます。白菌が活動しているならば窒素や分解されたアンモニアという可能性もあります。「ダメな空気」と言われる空気中のほとんどは窒素でありますが、反応性の強い酸素と隣り合って存在していても酸化することもなく強固に結合しているのが窒素の特性です。人は空気中の窒素を吸っても体内に吸収することはできなくて食物として食べることで初めて栄養源として吸収することが可能です。生命活動に必要で空気中にはたくさん存在しているのに単独では吸収することができない窒素とは本当に不思議な空気であります。植物にとっても窒素は必要不可欠でありながら空気中から接種することはできないので、植物は窒素を共生菌や微生物に分解してもらうことではじめて栄養源として吸収することができます。植物の長生きさせる白菌はおそらく好気性の菌でありますが、調べると共生菌は植物の根に窒素を固定し、アミノ酸・糖類・有機酸や養分等の植物を活性化する物質を生成するようでもあります。因みに、化学肥料のように人工的に窒素を分解するには強力で膨大な電力(エネルギー)が必要となります。

そこで、強欲な私の花瓶のまわりにつく水滴が酸素であれば良いのにと思う野望は砕かれます。植物を生かす菌でありながら、酸素も出すとなれば酸素取引として企業に売れるのではないかとウシウシと悪巧みしておりましたが、残念ながら共生菌が放出するのは酸素ではありません。酸素取引とは酸素を生み出す仕組みを作れば、企業がそれを購入して排出する二酸化炭素と相殺して環境に良いことをしているアピールできる何か凄い取引市場でもあります。樹木を植えて酸素を放出していると主張して、取引成立すれば寝ていても確実にお金が入ってくる新時代の錬金術です。植物は二酸化炭素を吸収して3/4の酸素を放出して、1/4の酸素を再度吸収するサイクルです。なので、3/4の計算でいけそうだ。人はそのような植物によって作られた酸素を吸収して食物を燃焼させて活動しております。面白いことに生物が出す排泄物は再び植物の元に戻り、栄養源として吸収されることで生き物の命を繋ぐ暗黙の生命の協定が成立します。

ところで、

本題です。恐竜時代に生物が巨大化した理由は地球上の酸素濃度が上昇したからだと聞いたことがあります。「燃やす空気」酸素とは生命を活発に必要不可欠な燃焼剤でありながら同時に触れる全てのものを酸化させる猛毒でもあります。そのような酸素レベルは古代の植物が光合成することにより急上昇して酸素爆発が起こり、恐竜や昆虫などの生物も巨大化して現代に化石として発掘されると聞いたような記憶です。なのに、今、最先端のインターネットの情報空間では「恐竜時代の気温」と検索すると現在の気温よりも10℃以上高く(今より気温が高いのは変化ありません)、二酸化炭素の濃度も5倍以上高いと記載されております。「二酸化炭素の濃度が5倍?どうなっているのでしょうか???」計測なければ数年前のことでも数字なんて出ないこの世の中で、数億年前の過去の出来事とは人類の叡智を結集しても決して辿り着けない数字でもあります。火山活動などが活発なところで計測すれば酸素濃度が低くなる可能性もありますし、適度に酸素濃度を上げることで細胞活動が上昇することは常識の範囲でもあります。まことしやかな数字で記載されていることに驚きを感じながらも、私の直感は眉をスリスリ、唾をゴクリと飲むのであります。化石が残す生物の巨大化と酸素濃度の関係性は二酸化炭素問題にとりアキレス腱なのかもしれません。もしかしたら、酸素をこの地球全体を束ねる新たな絶対神へと祀り上げようとする新時代の宗教への布石なのでしょうか???酸素の反応性の高さは確かに神的でもあります。また、知らないけれども、そのような考えはヨーロッパ的でもあります。とりあえず、今のところ酸素を生み出すシステムを作れば酸素取引ができて何だかおいしい酸素で間違いありません。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月3日(土)
■なんだろ〜なんだろ〜。
■2024年2月4日(日)
■一日一文章トレーニング。

「乙です」

昨日、根津神社で節分のイベントがありました。13:30開始ということでスタンバっていましたが、まだまだ時間がたっぷりだとゲームの協力プレイに参加したり、お昼ごはんを食べたりと、土曜日の午後の一時を過ごしていたならば、すっかりと豆まきのことを忘れておりました。気付いたならば夕方(トホホ)。仕方なき事でもあるので我が家で豆まきを行います。「鬼は外、福は内」。外に向かって豆は勢いよく投げつけるものだ。家の中の「福は内」では豆を投げずに家の中の棚の上に数粒の豆を置くような感じでもある。家に豆を撒けば後で豆を拾わないといけないのでこんな感じ。そう言えば、「福は内」のフェーズでも豆は外に向かって投げていたよなと、「福は内」でも豆を外に撒く。実際に豆まきをすると「あれっ」と思うことは多々あるもので、まーどちらでも良いのだと言い聞かせます。このおまじないのミソは何もない魔空間に豆を投げること。もちろん、パソコンやマウスにコツコツと豆の呪文をかけておきました。機械を豆で浄化するとはなかなかに乙(おつ)で面白きこと。パソコンやマウスにも福が入って万事順調であります。

ところで、

豆まきのイベントの名前には「追儺(ついな)」とも言うらしい。この「追儺」何と読むのかと調べると「にんべん+難」の検索で出てきます。インターネットがない時代に読めない漢字を調べるだけでも大変なので、世の中大変便利になりました。人につく難を追い払うと書いて「追儺」とは、人の身につく厄を落とすのにピッタリな言葉でもあります。宮中行事であれば旧暦の大晦日に行われる「鬼遣(おにやらい)」という節分の行事もあるようだ。旧暦の大晦日とは1ヶ月ぐらい遅れでもあるので、丁度、今ぐらいの季節感です。天皇の元に鬼がやって来るとは恐れ多いことでもあるので、宮中の豆まきは鬼も遣唐使のように使わされてやって来る「鬼遣」と表現されているところが面白い。鬼役は舎人(とねり)と呼ばれる天皇や皇族のお世話をする役人が鬼に扮して、その鬼役の人に向かって豆まきをするようでもある。小さい頃はTVなどで豆を投げられる鬼役の人は可哀想だと思っていました。子供の私はサンタも鬼も「どうせ人間だろ」と全く信じないので、鬼役の人に同情していたものであります。ですが、今なら人が持つ鬼も豆の魔力で抜け落ちて、たっぷりと福も入るかと思うので、特に厄年な人にはうってつけな鬼役なのかもしれません。

ところで、

言葉遊びではありますが、昨日の酸素が新しい神として祀り上げることが可能なのかと実証実験を行います。酸素(O2)を乙(おつ・オーツー)と書き変えて、酸素と人間との関係性を記載します。そして、最後に乙の主語を神に置き換えて読んでみるお遊びです。

「乙は透明で私達のまわりに存在しているのですが目で見ることはできない。もし、乙が私の回りから消え去った場合に、私の命はほんの数分の酸欠状態で朽ちます。私達は呼吸無しには生きることはできない。なので、乙が存在することで私たちは生きることが可能である。そして、乙は何かの成分と代用できない絶対的なものである。この世の中の人間事とは、私の代わりとは何用でも簡単に見つかるものである。乙の代わりとは全く存在しないものである。乙は化学変化しやすいので火と結びつけばよく燃える。そのような反応性の高さから生命エネルギーを燃やし生かしてくれる存在でもあるのだが、この反応性の高さとは逆に触れるものを悉く酸化させることになる。乙に長く触れれば酸化して錆びる(老化)。つまり、乙とは生と死の両方を司る存在でもある。天空を見上げれば、遥か上空の宇宙との境界線上に乙3(オゾン)は存在している。乙は乙3と物質を変化させて上空のほとんど乙の存在しない場所に存在しているのですが、そもそも、乙が薄くなる上空の遥か上空に乙が存在していることも不思議なことでもある。そして、乙3の役割は宇宙空間が飛来する紫外線や宇宙線など生物を破壊する危険な光を除外する役割を持っている。もし、最前線にある乙3が忽然と消えたならば私たちは宇宙から飛んでくる脅威に直接的に晒されることになる。乙3は私達の目に見えない知らない場所でひっそりと私達を守っていることになる。乙は植物の光合成によって生まれる。乙の発生には太陽の光が大切なのでありますが、乙にはそのような危険な光だけを除外する役割も持っていることになる。そのようにして、乙は地球上に住む多くの生命活動と深く結びつく大切な存在である。」

はて、さて、

O2を神と読み替えると宗教っぽく読めるものでしょうか。おそらく、私達が自然を大切に愛おしく思う気持ちは無意識にも感じる、このような事にあるのかもしれません。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月4日(日)
■いらっしゃいませ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月5日(月)
■一日一文章トレーニング。

「鉢植えを避難させます」

いやはや、来るぞ、来るぞと本当に雪は降るのでしょうか。
とりあえず、サボテンや多肉植物は雪に弱いので全部を室内に避難させました。
サボテンや多肉植物は寒さにも強く、暑さにも強いので、私の真反対のような性格でもあります。
気まぐれな朝起き一番の水やりだけでも十分に勝手に元気に暮らしているので、私のような横着者にはピッタリな相棒でもある。
ですが、唯一の弱点が冬の雪に埋まってしまうこと。
雪に埋まると、氷点下の低温で霜焼けのように葉っぱにダメージを受けてしまうものである。
なので、とりあえず、鉢は全部室内に避難します。
このような鉢全体の避難は台風や大雪、工事などのイレギュラーな時しかないもので、ここ最近何年間もこれ程の大規模避難はありません。
野生児の植物たちはどれも葉っぱを大きく広げ、根っこも鉢からはみ出す程の元気さです。
こんなにも鉢から根がはみ出ると言うことは、この鉢はもう小さいことを意味しております。
どうしましょう・・・。
遊戯王なアフリカ勢はもはや環境に順応して寒さにもへっちゃらな感じなのですが、大きく成長しすぎてバランスは悪い。
少し押せばコロリと転がる感じのアンバランスさ。
そういえば、夏の終わりに遊戯王はクーラーの室外機から落ちました。\草/
室外機の上から落ちても尖った先端が丸くなったぐらいで柔道選手が受け身をするように上手に転がった。
鉢も割れなく完璧なセーフ、もちろん、鉢を間違って押して倒してしまった私が一番悪いのですが、アフリカ勢もすっかり我が家に馴染んで、とってもうれしい。
このような鉢を持って移動させていると「鉢が小さいよ〜」と言っている植物たちの声が聞こえてきます。
われ大丈夫なのか?と思うものでもある。
どうしましょう・・・。
これ以上鉢が大きくなると手で持ち運べなくなる可能性もありますが、春がくれば大きな鉢に植え替えてあげましょう。
この家最大の鉢は多肉植物の鉢。
鉢の大きさ30センチぐらいなのですが、葉っぱを広げると横に1メートル程の幅があります。
もはや、鉢植えというより森で、”この家のぬし”を彷彿させる存在でもある。
これも根が外にはみ出して、大きい鉢なのですがもう手狭です。
この鉢は小さなサボテンや多肉をミックスして大きな鉢に並べたものがズンズンと成長して、もやは樹木レベルの大きさを持っております。
何でこのように大きく成長したかと思うと、恐らく、JRのイベントで電車の枕木を止める鉄杭を血迷って購入したことに原因がありそうだ。
その杭は鉄製で重いし錆びて汚いので置き場所に困って鉢植えの飾りとして置いていたのでした。
そうするとサビの鉄分が栄養源となったのでしょうか?げに恐ろしく成長を促しております。
鉄分たっぷりで育つ子とは元気イッパイな植物たちでもあります。
単なる、多肉やサボテンがこんなにも大きく育つ要因はそれ以外に考えられません。
ただ、この森のような多肉植物は秋の雹害を受けて葉っぱの半分を落下させております。
なので、鉢の半分は葉っぱがありません。
その分だけでもコンパクトなサイズになっているのですが、それでも、この大きさがあることに驚きです。
小さい鉢はホイホイと避難できますが、大きい鉢の植物は筋肉をプルプルと震わせる重量感です。
ここ最近、筋肉をこんなにもプルプルと震わせることはなかったので新鮮な感じでもありますが、枝がカーテンにひっかかり室内に入らないので、慎重に鉢を運ぶのですが何より重い。
重いので「エイッ」と中に強引に中に入れてしまうと枝は折れてしまうし、鉢を微妙に回転させながら運んでいると重さに耐え切られずに鉢を落としてしまいそうになります。
私は心の中で「バルス・バルス・バルス・・・」と唱えながら、「重い、重い、ヘルプ、ヘルプ、無理、無理」と鉢を落とす大惨事を頭によぎらせながら気合と根性で耐えて室内に入れます。
もはやナメクジ監査などはどうでも良いものであります。
筋肉が小刻み震わせて顔を真っ赤に、何とか私の小さな書斎デスクに置くと、この鉢一つで机の上は埋まります。
もう一つの中型の鉢を机の上に置くと完全なる定員オーバーな机になるぐらいに立派な成長です。
これが海外の洋館であれば、雰囲気ある鉢植えに見えると思うのですが、小さな我が家に置くと巨大なラピュタのフィギュアにしか見えないものだとフムフムと鑑賞するのでした。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月5日(月)
■ブタふみふみ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月6日(火)
■一日一文章トレーニング。

「いやはや、街を白く染める雪景色はキレイです」

雪降る時には静けさも一緒にやってくるものでもありますが、今朝は、小鳥たちが「チュンチュン」と騒がしく、子供たちもわいわいと楽しそうな朝でもあります。
さっそく、雪が降る路面の写真を撮影すると、雪に輪だちがついています。
一つの輪だちはその他、輪だちとリンクしてネットワークな線を結びます。
雪が降ることで人の導線は可視化されたようでもあります。

ということで、

話の種不足の救世主でもある「百人一首」を読みます。

田子の浦に うち出でてみれば (写実)
白妙の (事件・事故・心情)
富士の高嶺に 雪は降りつつ (写実・心情)
山部赤人(やまべのあかひと)

「田子の浦に 「いざ出陣」と行き山を眺めたならば 真っ白の富士の高嶺に 雪は降っています」という句です。
この句を聞いたならば、前方に広がる山の頂きにキレイな真っ白な雪を降らした「富士山の心のイメージ」が広がるものであります。
ですが、私は少し異なるイメージを推察します。
それは「この歌が雪降る富士山を見ることができなかった」句であるということ。
ポイントは「白妙の」で「雲」なのか「雪」なのかということで、白くガスった雲は見えていても雪積もる山の頂きは見えなかったと歌っているようにも思えます。
恐らく、田子の浦とは富士山を眺める当時の名所であったのかもしれません。
多くの人々が一度は旅したい富士山を眺めることのできる憧れの場所を旅したのに毎日毎日富士のお山に雲がかかりて、その美しき景色を見ることはできなかったと歌っているのだと思います。
山部赤人は宮廷歌人です。
「キレイな富士山を俺は見たのだぞ」と自慢話をアピールして歌を歌うとなると品はありません。
また、
都住まいの皇族たちとはある意味、自由を奪われてその場所に永続的に拘束される宿命な身分でもあります。
なので、キレイな富士山を見たと歌えば嫉妬を買って大怪我をする可能性もあります。
そこで、山部赤人は熟考して富士山の頂きに白い雪が積もった「心のイメージ」を歌ったのだと思います。
来る日も来る日も富士のお山に雲がかりて、結局、私は何と不運であるのかと、遠出はしたもののキレイな富士山を拝山することが出来なくて私は皆様と同じなのですよ「テヘッ」と言うのがミソです。
この歌が千年語り継がれる面白みとスゴ味はそんなところにあるのかもしれません。
田子の浦まで徒労して富士山を拝めなかったエピソードは皇族や貴族たちを笑わせて喜ばせるのに十分なガソリン投下でもあります。
そのようなことで、山の官職名であるような山部姓を頂いたのかもしれないと思ったりもするのですが、個人的に赤人は絶対にキレイな富士山を眺めていると思います。
富士山が毎日、曇って見えないこともなく、時折見えるキレイな富士山をつま味にお酒を楽しみ窮屈な宮中生活からも開放されていたのだと思います。
そして、もちろん、そのような赤人の嘘は皇族や貴族たちも十分に承知なことかもしれなくて、何という伏魔殿な感じもします。
「あかひと」という若干とぼけたお名前からも、お調子者で道化師として四方を丸く繋げることに尽力できる人物であったのかもしれません。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月6日(火)
■ブタはお食事です。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月7日(水)
■一日一文章トレーニング。

「ビックリ!!壊れたタブレットが勝手に直った」

先日、布団に入って動画を観ていたならば、急に画面がずんどうと重くなり固まる。完全に固まる画面にできることはハイスピードなタップの連続で画面の再起動を促すぐらいである。タブレットは無反応でピクリと動くことも無く、再起動を施すフェーズでもある。しかし、このタブレットは物理電源が壊れていて画面タッチからでないと操作はできません。そうなのです。このタブレットはもうすでに壊れているのであります。どうしましょうと思い画面をトントンと叩いていたならば物理電源ボタンが正常に作動します。「あれ?あれ?あれ?あれ?あれ?あれ〜」画面が固まってしまったと思ったら、壊れた物理電源が直っていました。念の為に物理ボタンから再起動してもやっぱり壊れた電源ボタンは完全に直っております。怪我の功名。壊れた電化製品が勝手に治るということはあるのですね。☆☆☆

さっそく、「機械 勝手に直る」と検索すると「機械が勝手に動く」にひっかかります。機械が勝手に動き出す幽霊の仕業なのような現象に怖がっている読者からの質問に、ベストアンサーは違法無線電波などの電波を拾って機械は勝手に動くことがあると説く人がいます。確かに、地震の時に勝手に電源がONしたりするものだ。いやいや、勝手に機械が動き出す幽霊騒動とは怖いものでありますが、故障した電化製品が自動修理する現象について調べなければなりません。

調べると、

質問:調子の悪い家電を叩くとなぜ直るのですか?
質問:壊れた家電を買い換える話をしているとなぜ?家電は治るのですか?

という、私のような人たちを見つける。

壊れた家電をバンバンと叩いて直すことは正に昭和時代みたいな感じではありますが、固まった画面にパンパン・パパパン・バンバン・バババンと超高スピードな衝撃を与えて、「あ〜も〜う」と柔らかな布団のクッションにタブレットを投げるだけでも接触不良が直る可能性はありそうだ。秋の恐ろしき雹害の時に学んだ呆則は「折檻はダメ、ゼッタイ」にである。暴力が良き刺激になることは限りなくゼロに近いことを学んだのですが、ものに対してぞんざいな扱いをする自分がいます。私の機械に対する扱いは、生物のそれと比べても全く異なる扱いであります。機械に物理ダメージは修復の糧となるのでしょうか。アンサーは叩くことによって、ほこりが落ちたり、接触不良な部分が直ることの可能性について書かれております。

では、壊れた家電を買い替えようか?と家族会議をしていると機械が勝手に直って次の日から快調に動き出すことも時折経験することでもあります。これは「家電に耳あり」と機械は再び頑張りはじめる七不思議です。なので、不調な機械に対して「ちゃんと動かないとポイしちゃうよ」と脅すこともある。動かないと捨てるとは何とも野蛮。機械が接触不良で何であれ勝手に修復してくれると、おサイフにも優しい(利益)。生き物には決してやらないような悪い人間性が出てくるものではありますが、機械に対してゴミにしちゃうぞと脅すことは、その人の持つ人間性が物の扱いとしてカタチに現れているような感じもします。物を大切に扱わない人はヤバいかもしれないゾと思い気をつけないといけません。アンサーは接触不良が偶然直っただけなので、また再発しますということのようだ。「まー」一度壊れて直った家電はその内にまた再び壊れるものであります。その時に家電は完全なる終了を迎えることになります。

「機械に意思はあるのでしょうか?」「そんな訳ないよね」☆☆☆ですが、動くことは生きていることであります。私達の行動も微弱な電気信号で動いているとすれば、その辺の機械とも対して違いがないような気もします。生きていることの定義とは哲学でもありますが、機械や物にも魂が宿るという考え方は古来から伝わるとても日本的なものでもあります。なので、機械にやさしく、道具にもやさしく大切に使って、人にも動物、植物にもやさしく思いやりある人となりたいと思うのであります。ですが、Gやナメクジにもやさしくできるのでしょうか。ん〜ジレンマです。どうしましょう。「果報は寝てまて」とその内に答えがでることに期待しましょう。※果報とは因果応報のことで人の手ではどのようにすることもできない事柄です。幸せはそれがやって来るその時期まで静かに待っていろよ!という意味であります。私の波長と機械の波長が程よくマッチングして、接触不良も程よく直ったと考えて道具も機械も大切に扱えるような人間になれますように精進したいと思います。そう言えば、パソコンやマウスにもコツコツと魔滅(豆)をぶつけましたが、「それらも魔が抜けたのか?」と快調に動いております。大豆のおまじないとは案外効果ありなのかもしれませんね☆☆☆知らないけれども。

※もちろん、タブレットに豆はぶつけておりません。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月7日(水)
■ブタ・ダンス♪

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月8日(木)
■一日一文章トレーニング。

「季節の伝統行事とは確かに子供だましのような迷信ではありますが、季節の折々で行うことによって邪気の存在は常に身近にあることに気づき、自らの振る舞いに自制をかけるように仕組まれた昔の人の知恵なのかもしれないと思った」

お買い物をしていると、他のお客さんが選んで購入する商品は結構気になるもの。

先日、スーパーでお買い物をしていると、知らないおばあちゃんがスーパーのお花売り場で楽しそうにお花を選んでおりました。
私はそのような姿を横目に必要な食材売り場に向かってスタスタと向かいます。
私にとってスーパーのお花売り場とは今まで全く目に止めないノーマークな場所でもあります。
スーパーの配置にもよりますが、先ずは特売品売り場を吟味して、野菜、フルーツ、肉、魚、納豆、牛乳、パンと店内をぐるぐると回りながらお買い物する感じでもあります。

そうすると、先程のおばあちゃんと何度か遭遇します。
大きなディズニーランドでも何度も会う知らない人と出会うように、スーパーの中でも何度も出会う人はいるものだ。
おばあちゃんは枝付きの桃のお花を手に持って何かウキウキと楽しそうにお買い物をしております。
何かかわいらしいおばあちゃんでもある。
桃のお花を手に持つだけで、こんなにも楽しそうな気分になるものでしょうか。
桃の花は枝ごと伐採されたもので、丸くふっくらと膨らんだピンクの桃の花が良い感じに並んでおります。
「あっぱれ、あっぱれ、あっぱれな〜」と「おとめ妖怪」な踊りにピッタリな桃の枝にも見えてきて、何だか自分も欲しくなる。
因みに、おとめ妖怪では桃の枝は剣となりて妖怪をぶった斬る武器と変化します。
節分が終われば、もう桃の節句の準備です。
日本の文化には季節の変わり目の節々で邪気を追い払うことに余念はありません。
昔の人はこんなにも邪気を嫌っていたのに、今やメディアを賑わす「邪」とは大盛りのてんこ盛りで、話し尽きることはありません。
これはメディアが重箱の隅を突くとか、完璧な純白な社会を求めすぎているとの意見もありますが、私は世の中、自制が効かなくなっている人たちがあまりにも多すぎるような気もします。
鯛は頭から腐っていくとは正にこのような感じなのかもしれません。
もちろん、豆まきや桃の枝で鬼や邪気を追い祓うことは、迷信でもあり子供だましのようなものでもあります。
ですが、効く?効かない?とはその人の考え次第でもあります。
考え次第であるとするならば、数千年続く世の中の習わしとは、その時々でそれなりに人の邪念に自制を効かせ気付かせる意味があるのではと思ったりもします。
本当に人とは薄情で物忘れの多い生き物であります。
なので、特に偉い人たちはすぐにスーパーで桃の花を購入して下さい。
数百円の投資で、昔の人たちの文化も感じることができて、お手軽に自分自身を戒めることができれば安いものであります。(たぶん)
恐らく、「邪気」とは常に空気のように存在していると感じることが大切なのだと思います。

ということで、桃のお花は購入しました。888

桃の花を持って歩いていると確かに何か心弾むものはあるものだ。
さっそく、桃の花を花瓶に挿すと「デカっ」と大迫力のお花です。
お花を上手に生けることのできる人であれば、これは素敵に飾れる桃の花であると思いますが、お花経験のない自分では「よろしゅうござんす」とけなされるだけでもある。
しかし、我が家の仕来たり習って白菌に感染させてから生ける特別なチューニングを施したので楽しみな桃のお花でもある。
3月3日にはピンクの桃のお花は咲くのでしょうか。
できれば、根を生やして、土に植え替えてみたいものであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月8日(木)
■久しぶりの不忍池。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月9日(金)
■一日一文章トレーニング。

「人生右往左往でござる」

ものを作る人であれば誰しも一度は考える「アイデアの源泉は枯れてしまうものなのか問題」。年齢や発案する数は有限なのか?と思い悩む日々もあります。打ち出の小槌のようにポンポンとネタが出てくればラッキーですが、気合と根性で何かしら書いて・描くのがこの一日一文章トレーニングです。そして、生みの苦しみとは最終的に気合と根性の神通力みたいな場所に辿り着くものでもある。このような文章を構成することは外積のような数字の集合体に置き換わる可能性も高く、生物とは結局、何であろうかと思ったりもするのですが、ネタの泉から湧き出て源泉が枯れてしまうというのは少し異なる現象ではないかと思ったりもします。なにせ、ブログを書きはじめて3日目にはネタ切れを起こすのに、まーまー長く続けて書ける理由は、このような作業を昔から長く続けているからのような気もします。ある意味それなりのベテランよりも年月だけで長い可能性はあります。

あくまでも、これらは自分流の書き方です!!

私の書き方は「話しの種」を繋いでいくスタイルです。それはヨーロッパサッカーなスタイルなのか南米スタイルなのか?とボールをキーワードのように繋いで書きます。流れが悪い時にはボールをポンポンと廻してキープして、それを断ち切り自分のリズムを作り上げます。このようなサッカーもどきのようなことを自分と自分の一人で行っているのがこの文章です。これは自分でボールを蹴って、自分でボールを拾い、自分でゴールポストに蹴るという完全一人遊びのエコシステムである。何という寂しき一人サッカー遊びなのでしょうか。小さな頃から一人遊びが得意で、お友達と遊んでいても「ぶつくさ」と一人、お人形遊びに没頭するタイプでもあります。そのような性格でもあるので「独り言」は小さい頃から定番のクセのようなものかもしれません。wwwww

独り言を「仏仏」と言っていると「えっ?何っ?」と聞き返されて「独り言〜」と答える時にヤバさを感じます。人の耳に入ってくる大きな声の独り言って何なのでしょうか。寧ろ、普通の会話です。独り言を言っている自分に気づいた時にいつもお口にチャックと思うのであります。wwww

これは完全にヤバ恥ずかしい独り言なので、さっそく修正してかわいい猫語の「ミャーミャー」な独り言で場を誤魔化します。猫語の「ミャーミャオ」にはリズム感がありますが、残念なことに猫語を喋りながら頭の整理はできません。「ミャーミャー=(訳:我右手を前に出して、次に左手を出す)」との変換は行われません。単に猫の鳴き真似をしているだけの変な人です。大抵の独り言とは意味のないことではありますが猫語の独り言とは音楽に近いのかもしれません。そう言えば、フィンランド語は猫の言葉ってありました。にゃごやの人たちもみんなみゃーみゃーいってるんにゃー。ということで、猫の言葉とは知的でもあります。www

猫に触ったことのない人間が猫語で「ミャーミャー」と言っているだけでもヤバいのに次は「わんわん」と犬語で荒ぶります。犬猫の鳴き方を比較すると、犬はワンと怒るように鳴き、猫はニャーと知的的に鳴くものである。また、街で「ニャーニャー」と猫に話しかけていると他人と目が合う気まずさはありますが、流石の私でも犬に向かって「わん」と吠えることはありません。ww

仮に、犬に「ワン」と吠えるとどうなるのでしょうか。おそらく、犬は「ワン=(なんや?俺をおちょくっているのか?)」と真顔の太い声で鳴き返してくると思います。今度、その辺の犬に「ワン」と言って吠えてみましょう。おそらく、ほとんどの犬は「ワン」と怒って吠え返してくれると思います。w

そのような感じで私は独り言を「ぶつくさ」言いながら文章をパチパチと入力します。そして、我らの風向きとなればポンポンとボールは気持ち良く繋がるゴールとなります。ですが、そもそも、グランドにボールがないことも起きます。そのような時には先ずはボール探しから始まり、今のように彷徨いながらボールを探しながら書きます。そして、今回は何とか昨日のボールを拾うことができましたが、もし見つけることができなかった場合には手にシャベルを持ち替えて穴を掘り新しいボールを探します。私はこれを異なる階層に向かうことだと考えております。新しい階層にモグラのようにディグると視野も変化して新しい話しの種を拾うことができます。源泉の泉を信ずることは社会や他者から流れてくるものを期待することであるとも思うので、「話しの種」と「源泉から流れてくるネタ」はこのように少し異なります。

そのような訳で、我がグランドには芝も無く、雑草も生えて泥々のボコボコと土が掘り返されたグランドです。ボールがどこに向かって飛んで行くのか全くわからないのが面白味で、私はそのような一人泥んこサッカーが好きなのです。

南無〜♪

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月9日(金)
■あっドライビング・ガール。
萌ガールを目指しているのですが、やっぱりこのような画になる。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月10日(土)
■一日一文章トレーニング。

「方言と犬」

犬みたいに話す人、猫のように話す人はいるものだ。あの人は猫っぽい小声で話しますが、あの人は重低音の効く犬っぽく話すものだ。猫らしさと犬らしさを分ける話し方の境界線とはどこにあるのでしょうか。イントネーションの大小な感じもします。そのような意味でイッヒ・ダス・何々・・・と話すドイツ人とは何か犬っぽい話し方のする人々でもある。ボソボソと話すフランス語は犬でも猫でもニワトリでも無くて、何か呪文のような言葉でもあるのでエスカル語?フランス語を何の動物を例えましょうか。ヘイ!キートスなフィンランド人がニャーな感じの言葉であれば、名古屋の人たちがミャーミャーと話すのでしょうか。いやいや、今や、超コンサバのド真ん中なのかもしれなくて標準語です。東京にいれば方言の影とは薄くなる一方ですが、それなりにいろんな地方や国々な方々が住んでいて、いろんな言葉がごちゃ混ぜに飛び交うものであります。特徴のある方言が無くなることは、それは何か勿体無いような気もします。江戸時代であれば、藩の国境をまたげばチンプンカンプンな言葉を話す人々が暮らす土地があったという昔話でもある。方言が如何用に駆逐されてきたかは、とても気になる事柄でもあります。

さっそく、日本の隅々まで標準語を広めた真犯人探し始めると秒で見つかる「あれ」と「あれ」かもです。それは冒頭から「犯人は俺らです」ではじまる3時間30分の超長編映画の予感。冥探偵も私達視聴者も「ポカーン顔」でもうすでに犯人を知っています。なので、事件は冥宮入りすることもなく、あと3時間25分人々を徹底的に教化・洗脳するだけのお時間のはじまりです。「犯人は俺らです」とは実はホラー映画なのかもしれません。「あ〜くわばら、くわばら」ということで、そのような制作現場には反逆者が必要です。普段は完全なる標準語で話して週末に隠れて「スナックおなまり」に入り浸るトップ人気司会者やそのような方針に反旗する人々であります。彼らの反逆とは永遠に面白くない作品をわざと作り続けること。人々を嫌な気分にさせて如何に椅子の上からいち早く客を立たせるのかというサボタージュ合戦の物語でもあります。これはアノニマスのガイ・フォークス仮面で有名な映画「Vフォー・ヴェンデッタ」みたいでもある。あの映画は情報統制される英国社会を描いていて面白い映画でもあります。一つの闇を隠すことにより、さらに大きな闇が広がるという何か今の社会問題を彷彿とさせるような、アクションもとても良い映画です。その土地の言葉を聞いたりしていると「ドキュン」とハートが撃ち抜かれることもあるもので、いつまでもその土地、土地の方言が誇りとなることを祈っております。

ところで、

ドイツ語が犬っぽいかなーと思いドイツの街のことを思い出していると、そう言えば、ドイツの電車に乗れば犬が一緒に電車に乗っていることもあります。大人しくてエッペラく、汚い床に寝そべり本当に賢いワンちゃんです。最近では飛行機にペットを乗せるか?乗せないのか?の議論もありますが、ヨーロッパでは電車に自転車を持ち込むことも可能な場所もあります。車内にマイ自転車を持ち込めることはすこす憧れでもあります。人口も減り乗車率も減るならば、自転車持ち込み可能な車両の導入で新しい需要を開拓できるのかもしれません。街を歩けば犬に鎖を付けずに御主人様と一緒に散歩している犬も多い。毎度のことながら、犬のサイズもビックサイズで、この犬は本当に人を噛まないの?おトイレは大丈夫なの?と興味津々です。文化や風習とはその土地に根付くものであると思うのでドイツにはドイツならではの犬と人間の文化が育っております。中には相棒のペットが馬である人たちもいますので驚き桃の木山椒の木でもある。話しは変わりますが桃の花が膨らんできましたよ!!

ということで、

小さい頃の私は犬と一緒に学校に行きたいと思っていましたが、それは叶わぬ夢でありました。電柱みればピュッピュッとおしっこをする日本の犬でありますが、ドイツでそのような犬を見たことはありません。そもそも、電柱ってあったのかな?記憶は定かではありません。ドイツの犬と人間の関係を見れば、犬にもマナーを教えれば、それなりに学べるような気もします。パリの道には犬の糞が落ちているイメージがあるので、ヨーロッパ内でも犬の躾(しつけ)は異なるような気もします。犬も学ぶ仕組みがあれば人と犬はもっと良い関係になれると思います。犬の漢字を見ても「人」の字に「棒と点」が付くぐらいに昔から人と犬との関係は身近なものです。未来の日本では犬に首輪や鎖をつけることもなく、お互いに仲良く生活できていれば良いものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月10日(土)
■猫ガーヒーロー。
■2024年2月11日(日)
■一日一文章トレーニング。

「食べ物はしっかりと感謝して食べて精進しなければなりません(耳が痛い)」

萌えるキラキラと輝くキャラクターを描きたい。ですが、なかなかに描けない萌えキャラ。ならば、マイ・イラストの目に白い点でもしこたま入れれば萌えキャラになるかと思うのですが、残念なことにそんなに単純なことではありません。それらは言葉に出来ないものではあり、また、自分の中の好き嫌いの類のもでもあって正解の出せないものである。ならば、本心はかわいい萌え萌えしたものが嫌いであるような気もするのですが、目がキラキラと大きな目でニッコリなかわいいものは大好きだ。でも、描いてもなかなかに萌えキャラにならないことは何か不思議なことでもあります。そのような理由を考えると、人が描くものには、その人が持つ何かしらのパーソナリティが反映されているのかもしれないとも思う仮説です。マイ絵に萌え要素がない原因は、悲しいかな描いている人の目がキラキラと輝いていないのではないかと思ったりもします。そして、「そろり」と鏡を覗いてみると真顔に黒目の私がいます。「うわ〜、これがDead fish eyes」なのかである。www萌え画の先生たちは皆、目をキラキラさせながら描いているのでしょうか?燃える闘魂をメラメラと燃やして描く人の目は描くキャラの目に炎は宿るのでしょうか?謎は深まります。萌えキャラの先生の目が「Dead fish eyes」であれば、笑いが止まりませんが、私の仮説も栄一な谷中墓地に「そおっ」と閉まっておきます。

私がキラキラと目を輝かせていた瞬間とはどのような瞬間だったでしょうか?子供の頃に走り回っていた時には目が輝いていたのかもしれません。直近では仮想通貨を掘れた時に目をキラキラと輝いていたのかもしれません。いや、あれはギラギラか。目の輝きを入魂するには楽しいことや、うれしいことが必須です。街中を歩けばキラキラと目が輝く場所はあるのでしょうか?電車の中とは正に死んだ魚の眼ばかりです。歩いている人たちの目は輝いているのでしょうか?自転車ママチャリの目は大型魚な感じもします。ジャンジャンと混じり合う雑音が聞こえてパチンコ台にズラリと並ぶ猛者たちの目がキラキラと輝いていたら何だかそれは嫌でもある。これこそ、ギラギラであって欲しい。私が萌えを描くにはうれしいこと、楽しいこと、足りてないのかもしれない。キラ目を探す旅に出よう。

単に目をキラキラと輝かせたり、大きく丸々とさせるだけでは萌え道に辿り着けないことはわかりました。内面のキラメキを磨かなければ、筆やペンにその内面は表現されないとすると、今までのこれら文章を見ても適当やディスりはあるけれどもキラ目は感じられないものだ。腹空かした狼の目なのか、何だかキラ目でないことは確かである。ならば、世の中にはそんな行程を経て悟りを開いた人もいるはずです。キラキラと眩しいくらいな爽やかな文章・・・いやいや、悟りを開いた人の目は半眼の可能性は高い。仏師は仏を半眼で描くもので、漫画やアニメなどで全員、半眼(悟り目)だったりするとそれはそれでひっくり返ってしまうかもしれない。仏師や人形師も最後に目を描いて入眼すると聞いたことがある。昨日に描いた猫ヒーロー画は確か耳から描いて、目を描き上から下の足を描いて腕を描く感じでもある。入眼も足りていなければ、内面も磨かれておりません。そりゃ、外面は出てこないはずである。\草/感情の起伏は結構小さい方なのですが、今度、同じ絵を心境の変化で描き比べて画風の変化を調べてみましょう。話しの種に感謝。

ところで、

先日、あーさんと話していました。ブタの絵がマイブームでかわいくなるように描いているのだが、空想で描く豚と実際の豚は随分とカタチが異なるものだというお話です。私の中の豚はシルバニア・ファミリー的な豚で、実際に豚写真を調べてみたら全然異なる形状です。それでも一様豚には見えるのだがリアルな豚と私のイメージの中の豚は随分異なるものでもあります。そのような豚の目を観察していたならば、何とも悲しい目をしているもので、「豚の目はなぜあんなにも悲しい目をしているのかな〜」と話していました。
すると、あーさんは一言、「豚は運命を悟っている」
「やめてくれ〜」
「あ〜悲しすぎる。大好きな豚肉をパリパリにして食べるのです。なので、そんな豚の悲しき豚の記憶を伝承して生きているのかもしれないと思うと豚さん御免なさい。私何十何歳生きていく為に大量の豚さんを食べてきた。牛も魚も、これからも食べないと生きることはできないので勿論食べる。ですが、豚さんの気持ちもカタチにできるように、しっかりと感謝・精進して食べたいと思います。あ〜目ほどに真実を語るものはないものです。おそらく。」

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月11日(日)
■バトルパートナー。

*デスクトップ画面用の画像です。 

■2024年2月12日(月)
■一日一文章トレーニング。

「シルバニア製の車、あれは良い車だ」

The Pigs pick up a truck dose not pose.
I think that pigs definitely put my foot down.

「豚はトラックを拾うポーズは取らない。
あの豚は絶対に私の足を引っ張ったと思う。」
何じゃ?このメモ?
これは豚の耳のカタチを考えていた時のメモに記載された謎文で、意味はわからないのですが何かじわじわとくる面白さがあります。
豚の耳が立つのか?寝ているのか?とはそれは大問題です。
そして、現実の豚耳は立っておりますが、シルバニア・ファミリーの豚耳はペタリと前向きに寝かせております。
お父さんブタもお母さんブタも3匹の子豚たちも家族みんなで耳は倒れているので、私のブタキャラのイメージはこのシルバニア製のブタ家族がベースにあると思われます。
そして、豚の耳の部位をミミガーと言い、食べたことのあるような、ないような耳よりなミミガーな耳のカタチを書いている時にこの不思議なポエムを書いているのでした。

そのような、耳たれるシルバニアの豚さんたちを探していたならば、もともと乗っていた車がスヌーピーな人に乗っ取られています。
豚さんたちが缶々の中に幽閉されていたのと比べても、シルバニア製の車は金髪青年が乗ってキャンプ地に移動中でもある。
姉さん事件です。
さっそく、車を停車させて取り締まりだ。
車は24センチの大きなサイズでワインレッドのクラシックカーで意外にちゃんとした車です。
車にボートを載せて運ぶことが出来て、オールも2本も付いているのでお池遊びもできます。
ボートを止めるゴムはまだ経年劣化はしておりませんが、その内にベタベタとしそう予感もするので、即刻ヒモに取り替えた方がキレイに保管できると思います。
なので、この文章作業が終わったならばヒモに付け替えましょう。
車の中には黄色のピアノが入っております。
ピアノを持ってキャンプに行くなんてなかなかのオシャレさんです。
だがしかし、車の中にはグレー色のベートベンの胸像も一緒に入っています。
ベートベンの胸像を個人所有してキャンプにまで持っていくとは、どんなにベートベン好きなのでしょうか。
そして、その造形はなかなかにベートベン・ベートベンしております。
さておき、その他所有物の検査をすると、赤色のバーベキューグリル×1と、大きなキャンピングバスケットケースにはお皿×2枚、バンバーグのバンズ×1、レタス×1、トマト×1、とうもろこし×1、魚×1、バーベキュー3本、アップルジュース×1缶、それらをキレイに並べるバスケット皿×1。
車の後部座席にはエビフライとかウィンナーの入ったお皿×1枚に、もう一つの後部座席にも空の皿×1枚。
それにフォールディングテーブル×1にフォールディング椅子×2の、今すぐにでもキャンプ出来そうなフル装備である。
さらに、詳しく所持物検査を行うと後部座席がカラカラと何かが落ちているので詳しく調べると、新たに、お皿×2、オレンジジュース1缶、サンドイッチ×3、バーベキュー×1本、バーベキュー用のトング×1、フォーク×1が落ちていた。
恐らく、全アイテム欠品なく揃っているように思います。888

この車には本当にいらないものがイッパイ詰まっているものですが、これらはマイカーでもありませんし、私がどうのこうのと言うような問題でもありませんので無罪放免です。
真顔でこのように遊ぶことが「真の一人遊びニスト」に与えられた楽しみで、元あった場所に「そおっと」戻しておきましょう。
ぞなもし。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月12日(月)
■ドクターキラ目の教え。
輝け!輝け!と唱えながら描くのです。



■2024年2月13日(火)
■一日一文章トレーニング。

「ドミソ味噌ドミソ♪ファララレレレ♪」

昨日のシルバニア製車を運転する知らない子はピーナツのシュローダーです。ネット検索すると確かに彼はベートーベンの胸像を置いてピアノを弾いております。ベートーベン大先生を前にしていつも鍵盤を叩いて練習している努力家でもある。実際に彼の演奏はとても上手で、いつまでも聴いていたいと思わせるピアノ演奏でもあります。彼のように音楽を自由に音を奏でることができるのであれば、それは人生も何倍も楽しいだろうと思う。こういうのは自分もできるのと、他人のものを見たり聴いたりするだけでは楽しさや充実な面で雲泥の差はあります。そして、そのような楽しめる技量まで辿り着くことが最も大変なことである。それはゲームとて同じで、3D空間を感じ直感的に上手く動かせる操作域まで達することで楽しめるゲームであり、例え遊びのゲームでも、操作性がよくわからなくて上手く動かせないとなると秒で飽きてしまうものである。諳んじて、夢中に楽しめるところまでいくことが何事も大変なので、人が持つ好奇心や好きだと思う気持はゆっくりと大切に育む必要はあります。ところで、シュローダーの自宅のパントリールームにはベートーベンの胸像をいくつもストックされておりました。ww壊れても、壊されてもストックの胸像がいくつもある安心感です。これは物量に任せた精神的な余裕なような気もします。また、彼は鼻にキスされることも嫌いなようなのですが、ベートーベンをジョージ・ワシントンと馬鹿にされることだけは最も許されないことのようでもあります。本当にベートーベンのことを尊敬しているのですね。よって、恐らく、私にも机の前にもベートーベン先生のような像が必要です。

ということで、

私の中で、胸像を置きたいと思うような人物や事柄について考えるのですが残念なことに見つかりません。今の私に最も必要なものは癒やしでもあります。この世知辛い世の中で、唯一無二の癒やしをもたらしてくれるのは、それはシルバニアファミリー的である、たった一つの癒やしなのでしょうか。あのつぶらな瞳、小さくてかわいいキャラクター達は他の何と比べても段違いな可愛さを持っております。昨日、そのようなシルバニを久しぶりに見ていたならば、ヤバい奴を見つけます。それはハリネズミの赤ちゃんのお家セット。さっそく購入。手のひらサイズに乗るハリネズミのカタチのしたお家にはポストが付いており、お手紙を投函するとお家にポトンと落ちる仕組みです。また、外まで煙突が伸びる暖炉に、ハリネズミのカタチの机、憧れのスベリ台、ハリネズミ風の扉、寝袋まで付く充実具合です。髪の毛が80年代ロック風にボリューミーに膨らんだハリネズミは超絶かわいい。寝袋に収納すれば持ち歩くこともできるのですが、それはヤバさMAXのかわいらさでもある。あ〜かわいい〜かわいいハリネズミ。この家も実際にハムスターに与えたならば家として住んでしまいそうな空間でもあります。我が家にあるシルバニアファミリーの子供たちを全部集めたならば総数8人いたので、さっそく、中に全員入れて写真を撮ります。パシャリ♪

あ〜また、余計なものを買ってしまったと思いながらも、しばらくは、私にとってのベートーベンは、この小さな癒やしのハリネズミなのかもしれません。しばらくはこれをパソコンの前に置いてキーをパチパチと叩きましょう。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月13日(火)
■夕焼けのふみふみ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月14日(水)
■一日一文章トレーニング。

「“あれ”が“あれ(1)とあれ(2)”であったならば、話は全く食い違うので共通認識の一致は大切です」

床にピーナツが落ちているよ。
えっ?
床に柿の種のピーナツが落ちているよ。
えっ?どこどこ?
ほら〜(あそこを指さして)、そこにピーナツが落ちているよ。
えっ?ナメクジ?
えっ?マジ?(ピーナツを凝視、やっぱりどこからどう見てもピーナツである。)
えっえっえー、やっぱりナメクジ?
えーマジで大丈夫なのか?いやいやいや、どこからどう見てもピーナツでしょう。(どんな目をしているのだと軽蔑な眼差しです)
ほら〜やっぱり、ナメクジ?
ほらほら〜ピーナツだ。(面倒くさいから自分で拾う)
いやいや、そこそこそこ。
えっ?うわッ?何これ?ナメクジ?何だ葉っぱだ。
(恐る恐る凝視するのですがやっぱり、どこからどう見ても葉っぱである。我、そのまま葉っぱを拾うと思うのですが、多少の疑念はあるものだ。一抹の不安が頭をよぎると行動もストップするものである。ティッシュを使い葉っぱを拾うとなると完全に床に落ちた葉っぱにビビっていると思われます。先ほどのピーナツにビビっていることを小馬鹿目線で見ていたので、我が葉っぱにビビることは何となく許されないことでもある。ここは素手でサラリと葉っぱを捨てたいものでもある。ピーナツは100%ピーナツと言い切れるのですが、奴ら、昆虫という生物たちは擬態することもある。そして、葉っぱとは微妙に芸術的な生物のカタチを作り出すものでもあるので目視では何とも言えないところは多少ある。そして、昨日は小春日和であり啓蟄(3月5日)はまだまだなのですが・・・虫たちが這い出てくる可能も無くはない。葉っぱを捨てようと素手で触ったならば、その瞬間に葉っぱが動いたらどうしようかと思うと正直怖い。しかし、ビビリながら拾うものも何だか嫌なので、どうする?GOする?竹野内さん?どうするの〜?であります。ということで、我、「エイッ」と一か八かの素手で葉っぱを掴むのであります。)
ホラホラ少しホラ〜な葉っぱだよ。(手が震えて裏声です)
あのナメクジの感触とは手に記憶が残るものであり、本当にナメクジにビビるものであります。

話の共通認識とは必要なことです。
“あれ”が“あれ(一)とあれ(二)”であれば、見ているものが全く違うものとなります。
よって、話の内容も上手く噛み合わない。
そして、葉っぱなゴミを拾って安堵する私の心には、ふつふつとある疑念が浮かぶのです。
それは床に落ちた柿ピーと葉っぱのゴミを拾わされているのは私であり、何かの全てナメクジの策略上に上手くハメられているような気がするのです。

ということで、

一、二と始まれば三である。
今回の床上のピーナツが1であれば、2はナメクジのような葉っぱでありますが、世の中には「一から十まで」な諺もあって幅広く世の中を捉えることは必要です。
「一から十まで」は「初めから終わりまで、何から何まで」という10進法的な言い回しです。
ならば、「一か八か」とは8進法なのでしょうか。
「一か八か」の意味は「のるかそるか、運を天にまかせて思い切ってやってみること」の例えであります。
調べると、「一か八か」の1か8かは数字の計算方法と全く関係ないようです。
昔、サイコロを振って賭博をする人たちが「丁(ちょう)・半(はん)」と言っていたことに由来するようで、丁とは偶数のことで、半は奇数のことであります。
その丁の漢字の上部分の「一」を取りして「一」。
半の上の部分の点々を取り出して、ひっくり返し「八」と読んで「一か八か」となったそうな。
「丁・半」の遊び方は偶数奇数という何とも単純な博打ではありますが、単純なルールの遊びとは、とっても重要なことでもあります。
偶数と奇数の50%な感じであると、「一か八か」も強ちそのような感じで間違いありません。
それは天命に任せることでもある。
このようにして「一か八か」という言い回しが生まれたそうではありますが、もう一つの「一か八か」には仮説があります。
サイコロの目に「一か八(罰・ばち)か」としくじるような意味もあるそうだ。
これは賭博することを恥じるような意味ではなく、サイコロの目がコロコロと外れることによって賭博の神様(どんな神やねん)に罰せられたとの表現でもあります。
罰するのは神なのか?人なのか?ですが。
賭博をすることの罰でなく、数字が外れることの罰であることは、これまた見ているものが異なっていることでもあるので、面白いことだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月14日(水)
■前から見た。

■2024年2月15日(木)
■一日一文章トレーニング。

「バレンタインデーの思い出について大いに語る(ド長文)」

バレンタインデーが〜来れば思い出す〜はるかな尾瀬〜遠い空〜

バレンタインがやって来るといつも思い出す話があります。
遠き昔に記事にしているのですが、あまりにも古い文章なのでサーバー上にも落ちていないかもしれません。
勿論、新しいパソコン上にもないのでバックアップのハードディスクからデータを探す。
大量のデータ、無数のフォルダ、お目当てのものを見つけるのは大変だ!いやいやすぐに見つかる、俺を呼んでいるバレンタインデー。
昔の文章を読むと過去の記憶が鮮明に蘇るものだ。
先ずは原文を読み、後半で補足解説を入れていきたいと思います。

ビビビー、はじまり、はじまり♪

「125オイロ」

2 月 14 日 聖バレンタインデーの夜。(ドイツにて)
小腹が空いたのでホテルにある唯一のレストランに行く。
店内は落ち着いた感じで紳士淑女がお食事中。
メニューを頼むと 125 ユーロ!!スペシャル・バレンタインメニューだけが記載されたメニューが出てきた。
125 ユーロと言うと日本円で 16000 円(現在価格で20000円)ぐらい。
汗・汗・汗・
ちょっとお腹が空いて気楽にお食事にやって来て二人で合計 32000 円。
汗・汗・汗・
店先に他の普通メニューが飾ってあったので、他のメニューはないのか?聞くが・・・
本日はヴァレンタインデーでこのメニューだけらしい。
それでも、ねばるとシュニッツェル(西欧カツレツ)があるらしいのでスープとサラダとシュニッツェルにビーア(ビール)を頼む。
なんとか「ホッ」としていると前菜にパンといろいろ出てきて、これは、もしやバレンタインメニューとしてオーダーが通ってしまったのかと不安になる。
もう一度、ウェイトレスさんと話すが意味がわからなく、いよいよ心を覚悟して 125 × 2 個の食事を楽しむことにする。
しばらくすると、若いカップルがご来店。
彼らもバレンタイン ONLY メニューを見て固まっている。なんだかホッとする。
次に銀行マンらしい仕立ての良いスーツを着た紳士が入ってきた。
女性はまだのようで一人で一杯やっている。
しばらくすると、ドレスアップした女性が入ってきて我々のウェイトレスさんがバレンタインデーの特別メニューを持って登場。
しかし、男性はバレンタインメニューに怯まず。
大人のリッチマンは余裕だね。
その後も次々に身なりの良いリッチマンがたくさん入店。店内は、すでに満席です。
自分たちの食事も進みますが、何だかうまく喉を通りません。
シュニッツェルのサイズは人の足裏× 2足分程の大きさがあって食べきれない。
でも、どうせなら楽しんで食べようと仕事の話や今後十年後のスコスについて話す。
ですが、やっぱり「125 × 2 オイロ」のことが頭から離れません。
※ドイツ人はユーロのことをオイロと言います。
私はこの不安な気持ちと、胸と胃がイッパイのこの気持ちを残す為に一眼レフカメラで撮影を始めた。
シャキーシャキーシャキー 連写です。
そのとき、リーゼントに大きなサングラス、
巨大な 3 センチ程の指輪をつけたドイツのロックスターが入店しました。
店内も上品にざわつきます。
ロックスターは店内をぐるりっと歩いて見回った後、私の一眼レフカメラに警戒したのかレストランから出て行く。
私はパパラッチではありません。スターさん・・・・・・。
バレンタインメニューに固まっていたカップルも今やテーブルの上で手を握りあっています。
料理もいよいよ佳境に入る。
出てくる料理も他の人たちと異なるので 125ユーロ でない安心感が出てきて、まわりの人たちも、私たちの料理がバレンタインメニューと違うので気になるようでチラッチラッと目があいます。
次にデザートのお兄さんがやって来ました。
お兄さんは何だか動きがぎこちない。
ケーキがたくさん出てきて、最初の三つだけを説明するがあとはスルー。
なかなか選ぶのが難しいので「Your Recommendation ?(オススメは?)」と聞く。
すると「It’s Free (無料です)」と返事が返ってきた。???
何だか会話がかみあわないままチョコレートケーキを頼む。
お兄さんはスプーン 2 個を使いケーキを掴むがケーキを上手くキャッチできません。
アートなケーキがどんどんクラッシュ。
ケーキのお兄さんを励ます為に「ノープロブレム」と言いました。
こうして、お食事はフィニッシュ。食事代は…と恐る恐るチェックプリーズする。
代金はバレンタインメニューではなく ホッと安心。
チップに 10 ユーロつけました。
Tip:10ユーロ
決して 125 オイロが高いわけではありませんが、ちょっと小腹がすいた夕食が 125ユーロでショックなだけでした。
みなさまも異国での聖なるバレンタインの夜にはお気をつけあそばせ。
メルシー♪
ところで、あのスターさんは、その後、レストラン奥のプライベートルームに入っていきました。
そのプライベートルームに入るには私たちの前を通り過ぎるしかありません。
なんだか、いろいろなことがあってお腹がイッパイなお食事でした。

【解説します】

仕事でドイツに行っておりました。
お腹が空き街を散策したものの全滅で全部閉まっており、仕方がないのでホテル内のレストランでお食事する為に入店するとバレンタインデーメニュー125ユーロというメニューが出てきてビビります。
※ドイツのお店は祝日・休日はほとんど全部、お店が閉まっているような感じです。
今日がバレンタインデーであることに気づき、ある意味、そのような気づきとは本当に大切なのですが、そのようなことはすっぽりと頭から抜け落ちているものでもあります。
欧州ではバレンタインデーとは結構重要な日なのかもしれません。
高額メニューのボッタクリショップに入店してしまったようにビビる我らは当然、ノーマルメニューを要求します。
今の円安計算だと絶賛20000円超えでもあるので当然である。
もともと、ユーロは高めではありましたが、今の日本円では当時よりも4000円高くお金を払わないとバレンタイン料理は食べることができません。(食べないけども)
安い人件費の後には、安い円安の絶賛バーゲンセール中でこの国の政治は本当に頭スポンジ・ボブのような感じでもある。
他のメニューを見せてと言うと、ウェイターはバレンタインデーの特別メニューのみだということなのですが、お腹も減ってそこは粘る我らでもある。
我らはこのホテルに宿泊していて少しお腹が減って気軽に食べたいだけなのであると伝えるのですが、本日はバレンタインデーの125ユーロの一点張り。
そこで「ファット・バレンタインデー?って何なのだ〜?」と基本に立ち返り質問すると、難問なのか?答えるのが面倒くさいのか?キッチンに交渉してシュニッツェルならOKだよの許可を貰って来てくれます。(ダンケシェン)
恐らく「店長〜変な外国人がバレンタインデーって何や?って言っていますよ〜どうしましょう」みたいな感じで「ん〜シュニッツェルならOKだ」となったと思います。
その後も、あまり会話は通じなかったこともあり、それなりのしっかりとしたメニューがやって来て、「これは実はバレンタインデーメニューではないか?」という疑念を持つのですが、どうせ食べるのであらばお金のことは気にせずに楽しく美味しく食べようことになります。
そう言えば、写真を撮っていないのでカメラを取り出して食べかけのシュニッツェルをパシャパシャと連写したのが先程の写真。
周囲はものすごくイチャイチャと手と手を机の上で握り合い、見つめ合って、ものすごく場違いな感じを打破する為にもカメラマンのように肉を連写します。
そんな我ら肉タイムに現れるのが、ヨーロッパの有名芸能人です。
変な日本人がわらじのようにデカいシュニッツェルを、こんなに大きな肉を一人で食えるのかな〜?とパシャパシャ連写しているとスゴイオーラーを持った御方が入店し我のパパラッチのような連写音に気づき、(気づきは大切なのです)我と目と目が合います。
ざわざわと空気間が変わった店内をわいのシュニッツェルを捉える一眼レフがパシャパシャ連写音を響かせるカオスです。
誰か知らないけれども、皆、ざわざわしていたのでスゴイ有名人で間違いないと思います。
それでも、自分がシュニッツェルの写真をパシャパシャしている時に現れるそなたとは絶対にパパラッチに気をつけた方がいいと断言できます。
有名人は一旦、退散するのですが、我らでもここしか食べるところが見つけることが出来なかったので結局戻って来ることになります。草
ここはこの辺で唯一のオアシスなのです。
キレイでスタイルがハリウッドな女性を連れて、アホっぽい我らの前を通り抜けてプライベートルームに向かうのでした。草
デザートを運ぶお兄さんは3つしかケーキの説明をしないし、「This ワン」と我が頼む芸術的に美しいチョコレートケーキは掴むのに苦心してぼこぼこに崩れてしまうし、本当笑えるバレンタインデーの思い出です。
昔、バイトしていた時に「子羊と〜のパイ包みを〜ソースをかけました」(エヘッ)とそれ風に話していたことを思い出します。
堂々とプロバンス風なメニューを読み上げれば、結構皆納得するものであります。
やっぱり、バレンタインデーは本場に限るのです。
あえて言うならば、我旅はいつも「ごまめ扱い」のような感じで、本当に無事に帰国できているのが奇跡なようでもあります。
肉に甘いソース付きというのが外国っぽさであり、いやはや、旅って本当に良いものですね。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月15日(木)
■Power Niku Niku。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月16日(金)
■一日一文章トレーニング。

「境界線上にギャンブル性はあるものだ(呆則)」

「一か八か」なギャンブルな神様が負けの罰を与えるということで、気になって調べると一神教以外の世界中にたくさんの賭け事の神様がいるそうだ。
よくよく考えると、日常の幸運事も、賭け事によるラッキーさもさほど幸運に正しき違いは無いものでもある。
ゲーム遊びなどしていても幸運(ラッキー)の神様は突然降りてくるものであり、そして、そのような神がかった時に人々は幸運の神を身近に感じるものでもある。
私達はラッキーなものを身につけ、幸運なご利益を願いながら暮らしていますが、ギャンブルな勝利運を願うことは薄皮一枚でほとんど同じような祈りに見えるものだ。
神社・仏閣で明日のスポーツ等の勝負事に願掛けすることは、とても普通なことでもある。

賭け事のことわざを調べると、パスカルの「全ての賭け事をする者は、不確実なものを得る為に確実なものを賭けている」と語っております。
確かに、当たるか?、当たらないか?の賭け事を賢者の善悪なフィルターにかければ、未知な未来に対して賭けることは、確実なるお金を消費して減らすだけの間違ったお金の使い方でもあります。
なので、パスカル的思考に立つと当選確率の悪い宝くじを買うことや賭け事をすることは馬鹿な行いとなります。

だがしかし、そのようなことを言えば、我々のビジネスや投資を含めても全て不確実なる未来に対する投資で成り立つ現実もある。
昨今の経済状況を鑑みて、未来に向けてギャンブル・投資をする人が少ないとなれば、国内から新しい商品やサービスが生まれなくなる現実を皆、肌身で感じるものだと思います。
必要なものだけ、現状維持、将来への備えと新しい分野への投資は行われなくなる可能性は大いにある。
私たちはいつからか、どこからか、パスカル的な正義の壁を作っているのでありましょうか。
この世の中は誰かが身銭を切って、未来に投資することで将来のゲイン(利益)を得る仕組みでもあります。
「消費」が「投資」という名前に変わるだけで、ビジネスとは賭け事の要素で成り立っていることは間違いありません。
既存のビジネス以外の新規領域を開拓するとなれば、新しきものは常に辺境の地にあることになります。
そのようなフロンティアを開拓する時にギャンブルの神様はより身近に感じるものであるので、世の中が新しい価値感で発展するということは中心から遠く離れた辺境の地が開発されているということになります。

日本にもサイコロの神様、賽神(さいしん)がいました。
「賽」とはそのままのサイコロの神様のことですが、名前を変えて妻神(巫女)や猿田彦(さるたひこ)、道祖神(どうそじん)と違う名で呼ばれることもあるようだ。
巫女的な占いにはギャンブル的な要素はあります。
猿田彦神社も道祖神も悪霊や疫病など邪気が外部から入ってこないように祀られた守りの神様のようである。
情報が少なくて確実なことは言えませんが、これら賭け事にまつわる神様が中心から遠く離れた国境線上や境界線上に配置されていることが個人的には面白いと思う発見でもある。
このような神様は邪気の流入を阻止するという意味で境界線上に配置されている解釈ではありますが、ビジネス目線で俯瞰するとギャンブルな神様が中心から離れたところに配置される理由が、未来の発展するギャンブル・投資領域がこの境界線上の外にあると示しているようにも見えます。
そして、
おそらく、そのような中心地にいない神様たちは現在粗雑に扱われているようにも思います。
もし、この国が八百万の神々の国だとすると、のるか?、そるか?と社会から失われる野生的なサイコロ感とは、そのような僻地の荒れ方と比例して減退しているのかもしれません。
辺境にある寂れた賽神、妻神、猿田彦神社、道祖神を見かけたらお参りしましょう。

ということで、

恋愛もギャンブルではなかろうかと思いて、さっそく、広瀬香美さんの「ロマンスの神様」の歌詞について調べます。

どれどれ、

あれっ?

あれっ あれっ あれっ?

「年齢、住所、趣味に職業 さり気なくチェックしなくちゃ」
えっ?取り調べ中なのか?

「待っていました合格ライン 早くサングラスを取って見せてよ」
えっ?第一面接?サングラスをかけているの?

「笑顔が素敵、真顔も素敵、思わず見とれてしまうの」
クソワロタ(真顔)

「幸せになれるものならば 友情よりも愛情」
ぶるぶる

「ボーイミーツガール ロマンスの神様」 の歌詞の抜粋です。

歌を聴いても歌詞は全く聴いていなかったものではありますが、「ギャンブルの神様」や「ロマンスの神様」にしても世の中とは本当に不思議で奇々怪々であります。www

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月16日(金)
■失敗ドラム。
■2024年2月17日(土)
■一日一文章トレーニング。

「合致」

GDPがドイツに抜かれました。GDPの増減が生活の質に影響ありませんがGDPが増えることは所得の増加、失業率の減少等の良い面はあります。これは数ヶ月前の過去経済を表すもので現在の姿ではありません。また、インフレ率がGDPのカタチを歪めることもあります。それは、例えば前期の国内総生産10兆円経済が、財、サービス、ストラクチャーに変化がなくともインフレ率10%の上昇で11兆円経済、1兆円のGDPのかさ上げを成します。ドイツのインフレ率と日本のインフレ率の差は知りませんが一部の国を除いて世界中の国々がインフレに悩まされていることを考えると、現在、世界中のGDPは歪んでいることはわかります。しかし、国民は常にGDPの増加を求めるものです。その意味でGDPのマイナスは間違いなく失政です。民間需要の減少は国の財政出動で穴埋めするのがこの国の政策ではありますが、それも国の借金も膨らみすぎてだんだんと限界に来ているのでしょうか。国の借金が膨らむと何が問題なのかと言うと、民間需要を穴埋めしたつもりの国の借金が、さらに民間の需要を減少させることになります。国の財政の健全化は普通の経済の為には必要な不可欠なことですが、ただし、これも国民性や制度、運、様々な要素から成り立つ一要素です。

ビジネスとギャンブルの似ている件について昨晩、ビジネスには仕入れ、固定費と多層的かフラットかの違いはあるものの、やはりギャンブルとビジネスは似た者同士な結論に辿り着きます。詳細はまだまだ漠然としておりますが、ギャンブルをする人は善良な市民価値観から判断すればダメな人で間違いありません。「馬券を握りしめ、パチスロ、パチンコちょっと待て」と吾輩でも止めるギャンブル野郎です。ネットで検索していたならばギャンブルが原因で彼女と別れそうで、とりあえず気分転換にパチンコに行ったら(どういう意味?)大当たりして運気が回ってきた!という度肝を抜かれる話もあります。つっこみどころは多いもの「ちょっと待てよ」その単語をビジネス(仕事)に置き換えると同じような話しは事欠かないものでもある。ギャンブル中毒もビジネス中毒も、人生波あり谷ありの中で似ているものだ。個人的にはギャンブルの問題点は闇経済だけ。仮にギャンブルで破綻したからと言って、その人の人生が楽しくて充実した人生を送っていないと判断することはできません。勿論、我慢の会社勤めが絶対に幸せであるとも言えない。私にはそのような他人の人生の測る定規は持ち合わせていないものである。また、道祖神のカタチを見ても古来より続く日本に文化とはそのような寛容性を持っていたと思う。完全なる正義の実行追求とは狂気そのものであり、その裏に完全なる闇を生み出すこととなるので、ほどほどの中庸が大切である。偶然性に頼るのがギャンブルであると意見もあります。果たして、ビジネスに偶然性は無いのでしょうか?確かに、前述のように経済とは中心に向かえば向かうほどに右から左に流すだけのギャンブル性が消失するものである。その意味でビジネスに偶然性は無い。しかし、中心経済のみの運営でこの人口減と共に経済のシュリンクに歯止めは効かないことも確かなこと。ただし、インフレで物価を上昇させて、減少分を国の借金で賄い経済規模を拡張すればカタチだけの経済拡張は可能だ。ですが、人々が豊かにならないのは確実で、たぶん、アベノミクスはそのような愚策。経済の拡張は辺境にあるゲームや漫画、新規領域や希少性等の新しい市場を獲得することで初めて広がるもので規制緩和、意識の改革は必須です。これは、新しきものに「偶然性」や「ギャンブル性」がつきまとうサイコロの神様が教えてくれる境界線の呆則です。ビジネスマンの計画が計画通りに進まないのは常識であるように、ギャンブルな人たちも偶然に頼らない勝つ為の計画はあるはずで、辺境のビジネスとギャンブルには相似性は高いと思われます。

ということで、

恐らく、この数十年で行われる新規ビジネスに対する叩きとはギャンブルに対する叩きと同じような気がします。辺境のビジネスマンとギャンブラーはどこか似ているとすれば、そのような人間になってはならないという考えはあるのだと思う。独立するなんてもってのほか、人生の選択肢とは中央にある安定したお給料制のお仕事につくことの一択です。全員が中央を向けば正にこれ内向きと言う。新芽とは大切に育てないといけないのに、なぜ?新芽は悉くブルドーザーによって踏み潰されるのであろうか?との疑問は少しずつ答えに近づいているような気もします。汗水垂らさずに楽なお金儲け、好き勝手にやることの辺境のビジネスマンやギャンブラー達とは中央に繋がる人々にとっては鬱陶しくて許されない対象であることは間違いありません。このような分析してみましたが、いかがでしょうか?

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月17日(土)
■成功ドラム。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月18日(日)
■一日一文章トレーニング。

「我が家の桜の花が咲きました」

生けた桃の木は徐々に芽を膨らまして花を咲かせる準備をしております。あと数日もすれば2輪ぐらいは咲きそうな予感です。ですが、2本の桃の木では如何様にも寂しいもの。桃の木とは大きく枝を広げ立派な木ではありますが、ガラス瓶にささる裸木とはどこか冬枯れた原木を飾っているようでもあります。どこか寂しく感じられるものであるので、水換えの度に、桃の木の配置を変えて、角度を考えてオサレ木になるように努力するもののボリューミの無さは何用にも変えられない現実です。家元な人々であれば、そのような少ないお花でも真っ直ぐに立て、下部に異なるお花を盛り、また、常緑樹と組み合わせて素敵に調和したお花世界を作るものです。お庭があれば、そのような植物をへし折って持って来ることはできるのですが、コンクリートに囲まれた都市生活とはそのような自然と気楽に戯れることはできません。その意味でも私達は昔の人たちよりも貧している部分はあります。そのような欠落を埋める為にもお花を部屋に飾る意義はあるものだ。

華道とは仏前に飾る三足具でもあり、それぞれの植物の持つ良さを生かして「他を生かして共に生きる」気持ちで花瓶を華やかにすることでもあるようだ。花はダイニングテーブルに生けられて、愛でることはあっても、他を生かし共に生きてはいる感じはしないものだ。以前、購入したお花がまだ枯れずに残っているので、そのお花と一緒に飾られる花瓶です。他を生かす為に何が足りないと考えるとズバリ、それは桃の木の本数であるとも考えます。さっそく、お花屋さんに追加投入するお花を購入しに行くと、当初は桃の木だけでお花をいけるつもりが桜の木に目移りします。常緑樹と組み合わせ、桃の木をもりもりと盛る計画は一瞬で桜と桃の組み合わせにチェンジされて、桃1桜2を購入してお家に帰ります。さっそく、我が屋の生け花瓶にそれら木々を挿すと、剣山とか言う文明の利器はないもののボリューム感はよか感じになるものだ。野生味は拭えないものの、木々が盛りっとすると植物の生命力も倍増します。これは正に他を生かすような気もする。まーまー初心者とはこのようなレベルから始まるものであります。その内に、誰に見せても恥ずかしくならないようなお花になれば良いものです。

ところで、

今朝、ダイニングテーブルのお花を見るとたくさんの桜の花が咲いておりました。
1・2・3・4・5・・・こんなにすぐに花咲く桜の木なのでしょうか。
30輪ぐらいは咲いています。
我が家にはもう春がやって来ました。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月18日(日)
■動いてはダメ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月19日(月)
■一日一文章トレーニング。

「今年もあのソースが花粉症に効きました」

あ〜マスクの季節です。
いよいよ花粉症の季節がやってきた。
3日ぐらい前の大風の春一番から感じる鼻ムズムズと目のゴロゴロ。
2月の中旬からもう春の雰囲気とはちと早すぎないかなと思う暖冬なのですが、家庭データーから見ても、今季、室温湿度計が乾燥カラカラを計測したのは一度きりでもあるので、やっぱり暖冬です。
関東平野の冬の乾燥とは普通のことでもありますがカラカラが1回とはこれは少し特異なことでもある。
なので、加湿器の出動は一度もなく、それだけ西高東低の冬型の気象配置が弱ったことを意味しているのでしょうか?
春が早まることは植物たちにとっては楽園でもあります。
そうなれば、花粉の時期は長期化するのでしょうか?
花粉時期の長期化とは神掛けて嫌なことであります。
そして、冬が短いとなると普通に考えて夏は長くなるものであります。
太陽の活動次第ではありますが、この夏も猛暑が続く酷い暑さの夏の予測をしてしまうものだ。
今年は1月1日から大変な1年間の予感です。
覚悟しましょう。

そのような少し早すぎる花粉症の出始めの時期は、出かける時にマスクするのを忘れガチである。
そして、「まーいいや」と大きく外気を吸い込んでいると、毎年もやっぱり花粉症は完治治しなかったというオチでもある。
信号待ちで目がしょぼしょぼ、鼻ムズムズとくしゃみが出そうになりながらもパンデミック生活のクセで、くしゃみを耐える忍耐力はあるものだ。
そして、そのような我慢のくしゃみとは変な感じの「フューン」なくしゃみをする。
我慢に我慢して出るくしゃみとは変な顔で変な小さなくしゃみである。
マイくしゃみとは花粉症でご安心あれと、こころやすし感をアピールしたいところである。

というわけで、

自宅に戻ったらならば、自家製のとっても怪しい秘伝のソースを舐めます。
毎年、実験しているあのソースが今年も登場です。
不思議なことに、この怪しいマスタードソースを舐めると花粉症の鼻ムズがスカッと即効性で止まります。
何だろうかと思う長年冷蔵庫の端っこで熟成されたものは、乳酸菌の予測である。
毎年、疑心暗鬼で舐めるものの今年もやっぱり鼻ムズに効いてビックリだ。
そして、今期、最初に舐めたのがカラカラ乾燥した怪しいソース。
こんなものを舐めても本当に大丈夫なのかと思うのですが実験体Aは舐めます。
これは、以前、風邪を引いた時に鼻詰まりで寝れなくて舐めたのものが容器に入ったまま乾燥したものである。
一様ラップしていたのですが時間が経つとカピカピに乾燥するようだ。
恐る恐る舐めたならば無事に鼻は開通するものでビックリ。
お腹が痛くもならなかったし、乾燥していても大丈夫な怪しいソースであります。
やっぱり、今年も花粉に効いたので何かしらの効果はあるのは間違いありません。
また、植物の白菌(共生菌)にも大きく面白い変化がありました。
怪しさと面白さ満点の検証結果をご報告できると思います。
白菌や花粉症対策の自家製ソースなど培養して、げに楽しき我が家であります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月19日(月)
■すべてのハートを撃ち抜くのだ。
■2024年2月20日(火)
■一日一文章トレーニング。

「ママチャリ・ライダーさんからの質問です。」

先日、夕方の帰り道、友人からポケットを貸して欲しいと言われました。自分のポケットがあるのに、この人は何を言っているのだろうかと意味がわからなく、「自分のポケットを使って」と返答しました。その後、友人と私は自分のポケットに手をつっこみながら夕焼け道を帰宅しましたが、このような時、どのようにポケットを貸すのを断われば良かったのでしょうか。

ママチャリ・ライダーさん、ポケットは人から借りても良いものです。最近のファッションは良く出来たもので、シャツからアウターまで大抵ポケットは付いております。むしろ、のっぺら坊〜としたポケット無しコートを探す方が難しい位に、皆ポケットの保有者でもあります。誰でもポケットを持っているからこそ、ポケットは自分のものを使えという気持ちはよくわかります。ですが、将来いぶし銀の効いたイケオジ・イケオバとなる為には自分のポケットを気持ちよく友人に貸してあげる度量も必要です。他人からポケットを貸してと言われた時に何の躊躇いもなく「あ〜いいよ」と返答できる人は、きっとポケットの懐も広いものです。実際に他人のポケットに手をつっこむと「何ってこのポケットは小さいのだ」と思うこともあるかもしれませんが、長年ポケットのカタチを研究しているW大学先端科学研究所のA准教授によると、理想のポケットは斜めに入り、手のすっぽりと収まる感じが吉であると説いております。その角度であると、もし仮に他人にポケットを貸したとしても程よくポケットインできるようです。但し、斜めったポケットデザインだと直線的な配置のポケットよりも洗練さが落ちます。A准教授はこれらを「ポケット人のジレンマ」と呼んでいます。外見はシュッとした直線的なデザインで中のポケットは斜めに大きく広がるポケッの普及活動を進めております。ポケットのカタチは様々で仲買人のトンネルみたいなポケットもあれば、ちょっと良いブランド服を購入すると、ポケットの入口が縫製されて使えないこともあります。糸を切る度胸無しや、面倒臭がり屋さんは塞がったままのポケットを使っている人もいると思いますが、准教授によると、それは他人にポケットを貸す機会損失であるそうだ。ポケットは自分の手や物を入れる為のものではありますが、未来永劫、自分専用という訳ではありません。なので、人から「ちょっとポケットを貸して欲しいのだが・・」と言われた時には喜んでポケットを貸してあげて下さい。人にポケットを貸してあげると、その人との距離も縮まるものであります。人と人との距離が縮まることは親密になることでもあります。なので、恋人にも友人にもどしどしポケットを貸してあげましょう。何なら両手のポケットを貸してあげれば、あなたはBに両手のポケットを貸してあげて、BはCに両手のポケットを貸してあげ、CはDに両手のポケットを貸してあげてイモムシのような楽しげな夕焼けの帰り道となります。ママチャリ・ライダーさんの充実したポケットライフのご返答を待っております。

ということで、

昨日のフィギュアの説明をしておりませんでした。自転車に乗るのはヴァンプ将軍。先日のやや大きめな地震でヘッドとガラス面で支えるように倒れていたのですが、気にはなるものの、わざわざガラスケースを開けて救出する勇気もなく「ずーっ」と放置状態でありました。ですが、このシルバニア製の自転車を見た時に、先ず最初に頭に思い浮かべたのがヴァンプ将軍です。彼以外にこの自転車にピッタリとハマる人物はいないと考えました。ハリネズミの子を自転車の後ろに乗せると完璧です。100%とぴったりとはいかないものの、サイズ感や自転車との相性はピッタリだ。そもそも、ハリネズミの子を自転車に乗せようと思ったお話しは結構長いお話でもあります。端的に言うと、先日購入したハリネズミの子はアイラブティーのリプトンのカップにインさせるとかわいかったので、このまま何かケースに入れてキーホルダーにできないのかと思い100均一や何やと理想的なサイズのケースを探すものの見つかりませんでした。すると、お菓子の空き箱があったので仮に収納してみるとキレイにかわいく収まりました。しかし、ケースがお菓子の入れ物ということで若干の香料が残るものであります。タバコを吸う人と1日中共に行動すると冬コートのボア部分のふさふさにタバコの匂いが残るように、ハリネズミの子のふさふさした80年代ロックヘアーにもお菓子の匂いがついてしまう可能性はあります。「これは何とかしないとダメだぞ」と危惧して、さっそく、シルバニアの自転車を購入して、ヴァンプ将軍を乗せ、神がかってしまったというお話であります。いつも、人間界必須のオチというものを書こうかと思うものですが、オチで落とす仕組みがよくわからないものでもあります。なので、今日もオチ無く意味不明なことを長々と書いてしまいm(_ _)mT。いやはや、一文章を書き成すこととはげに大変なことであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月20日(火)
■ポージング。

*デスクトップ画面用の画像です。

■2024年2月21日(水)
■一日一文章トレーニング。

「他を生かして共に生きる」

とはどのような意味なのでしょうか。花瓶の中で体現される世界とはとても小さな空間でもあります。根や茎はところ狭しと重なりて花瓶の外の大きな空間に葉や枝を広げる。花瓶空間を1とすれば、その広がる花空間は何倍も大きい。他の植物と生命活動に必要な水をシェアする部分を「共に生きる」と仮定すれば、私達が直接目にするお花や枝の広がりを「他を生かす」部分であると解釈できる。

他を生かして=愛でるお花の部分
共に生きる=水挿す根っこの花瓶に隠れる部分

生け花はこんなにも小さな花瓶に密集して生きていながら、私達が愛でる部分は花の織りなす美しさの部分だけでもあります。つまり、生け花とは「共に生きる」部分は花瓶の中で可視化されずに、「他を生かす」部分だけを見せていることになる。これやもしや。お花を生けて世界を作る者は、その世界の創造主でもあるので見える世界と見えない世界の両方に責任を持ち、その両方を意識し大切にお花飾りをして下さいとの華道の教えかもしれません。枝と枝が重なり合わないように、花や新芽が枝とぶつかりてポロリしないように細心の気配りでお花を生けるとお同じ位に根の重なり部分も大切であると。根の位置が決まれば、枝の先端の部分の位置も決まることであり、水のキレイさも同じく大切で、お花がキレイに見せるだけで無く根っこの部分のお花環境も整えようとの言葉であります。私の場合には枝の切り口に白菌の共生菌を塗り込んで感染させていますので、広がる枝の部分と同等に水挿す根っこの部分にも毎日注目しています。なので、そのように思うだけなのかもしれません。おそらく、そのような視点に立つと、見る人が見れば、生け花の生け方からその人の性格や人間性まで見えてくる可能性はあります。直感的にテキトーなお花飾りの写真をアップしなくてつくづく良かったと思う今日このごろ。しおれた花や見栄えの悪い枝を容赦なくポイポイと捨て上っ面の美を求めれば、そのような人なのかもしれない。また、剣山でグサグサと根を刺して、枝や茎をばつばつと切り1ミリの誤差も許さない完全な美を求める飾り方であれば、そのような性格かもしれない。おそらく、私の考えであれば、この「他を生かして共に生きる」という言葉は植物の個性を生かしその先から末端までの全てを一つの空間として表現する優しさに溢れた言葉であるように思います。と、お花の初心者は勝手にそのように考えるのです。

花と花瓶の小宇宙をあれやこれやと思いながら眺めていると枝の広がる迫力をましましを感じるものであります。そして、これはなかなかに良きものが出来たと思いても、翌日の水換え時にお花の配置は崩れてしまいます。最初からやり直してお花並べをしていると「あ〜」また再びお花を並べ替えることは面倒だとの泣き面でもある。高級ホテルの正面玄関などに飾られる芸術的なお花たちも毎日の水換え時に差し替えてと毎日頑張っているのでしょうか。水換えの度のお花の移動とは私にとっても花にとっても負担です。面倒なので小さなポンプで水を吸い新鮮な水を投入したくも思うものの、そのような万能ポンプも無い。なので、日々の鍛錬である。そして、昨日も「我ながら大迫力に飾れる花なのだ〜絶賛すばらしい〜」と自画自賛していたならば、枝に何か動くもの探知します。最近、2月なのに春のような温かさでもあったので鉢から生え出る小さな羽虫を3匹撃墜した。幼少時からの蚊撲滅運動家でもあるので、そのような五月蝿い小さな羽虫の絶対に見逃しはしません。そして、動いた枝部分に神経を集中して羽虫にロックオンすべくガン見していると「枝が動いた〜え〜恐怖ホラー」と正に先日のピーナッツ事件の予言を実体化するような虫の擬態である。どこからどう見ても枝であると思ったものは小さなかわいいミノムシでした。ミノムシはそんなに怖くない虫でもあるのでティッシュで掴んで紙の上に置いて観察します。死んだふりをしているのか?ピクリとも動かないミノムシ。脳裏に「他を生かして共に生きる」の言葉が頭によぎります。ですが、我が部屋にミノムシとの共存の選択肢はありません。「みのちゃんごめんね」(>_<)ニワトリなどを飼っていれば餌にも出来ますが、そのような便利な生き物もいません。たいそうな「他を生かして共に生きる」仮説をのう立てて起きながら、みのちゃんを生かすことも、共に生きることもできずにゴミ箱行きです。今朝も素晴らしく咲く桜の花と枝ぶりを見ながら、冷静にこれが高級ホテルの正面玄関に飾っていたならばと思うと、「ぞっ」とするみすぼらしき冬枝でもあります。侘び寂びと迫力はあるものの、華は無くて利休感からは抜けないものである。

 
■2024年2月21日(水)
■猫キーホルダーを作ったよ。
https://www.scos.gr.jp/ScosShop/html/products/detail/700
■2024年2月22日(木)
■一日一文章トレーニング。

「2月なのに日本列島に梅雨前線が重なっております」

今朝の室温16.4℃・湿度72%。
昨晩は深夜2時頃に布団の中が蒸し暑くて目覚める。
布団の中もじめじめと、寝間着も変な汗をかき、新しい寝間着に着替えると、洗濯したばかりの新しい寝間着を1日も経過もせずに次の新しい寝間着と交換するのは何か損した気分でもある。
さっそく、このような蒸し蒸しと感じるこの不快感な原因を調べる為に、お布団の中で天気図を検索します。
すると、日本列島に梅雨前線のようなものがかかっていることを見つける。
曇った空、雨続きの毎日の要因はズバリこれだと確信します!。
2月なのに、このような梅雨前線がかかるものかと不思議に思い過去の天気図を調べると、前線は2月でも発生するには発生するですが、例年だと日本のさらに南の台湾やフィリピンの辺りで発生しているようでもある。
※地図の台湾と前線の関係性は少しおかしいのですが御愛嬌。
梅雨前線が日本列島まで北上していることは、何だかこれは一大事な予感です。
過去天気図を読むと、今発生している2月の梅雨前線のカタチは2020年にやや似ています。
2020年は日本列島でどのような気象現象が起こったのか?と調べれば、最高気温41.1℃という最高気温を樹立した年でもあるらしい。
毎年、高温をたたき出した地域の人々の「暑いわー」とのコメントニュースは定番ではありますが、毎年、うんざりとする程に暑い夏でもあるので、特に2020年の夏の暑さがどのような暑さであったのかの記憶はありません。
そのような暑かった2020年でも前線は近くにあれども日本列島に上陸することもなく海上にあったので、今年の夏は最高気温41.1℃超えは間違いなしと夜中に目覚めたエセ占い師は安直な予言をするものであります。
とりあえず、朝目覚めて書く内容をゲットできたことは良いことだ。

梅雨の発生時期は通常5月から7月が定番で、2月に、このようにしっかり、はっきりと梅雨前線が日本列島に張り付くことはこの10年間の傾向と対策でも稀有な現象です。
雨は温かい水蒸気が上空の冷たい空気で冷やされることで雨となります。
前線のような雨が継続的に降り続くようになるには、温かい空気と北からの冷たい空気の継続的なエネルギー投入が必要です。
2月の冬なので冷たい空気はもともとあると考えて、温かい空気は南から運ばれて来ることになります。
梅雨前線の水源がどこら辺に存在するのかわかりませんが、西や南の地域が強い太陽照射により蒸発して水蒸気となり日本列島まで運ばれて寒暖差の谷間で冷やされて雨となっているのとの判断です。
それだけ、太陽光線の熱量がものスゴイとも言えますし、どこかの地域では強烈な高温を出しているとも考えられます。

毎日、水道水の置き水、一番水、ある程度使った外気温に近い水温を測っていると、水と空気の温度は相関性を持っていることに気づきます。
例えば、昨日、寝る前の室温は18.6℃でコップに溜めた水温は18.2℃で、今朝、起きてその置き水を測ると17.4℃で室温は16.4℃というような感じです。
室温と水温の関係性は計測すると、室温変化に合わせて水温も+−1〜2℃の範囲で同じように推移します。
ついつい、私達は水があれば空気中を冷ましてくるような錯覚にもなりますが、水が冷たく感じるのは体温よりも水の温度が低いことで冷たく感じることであり、水自体はありのままの外気温をそのまま吸収すると考える方が正しき呆則のような気もします。
空気の温度を上げるのは太陽の熱で、太陽熱が水を蒸発させると空気中に水分を含みます。
そのような空気が空気中をふらふらと浮遊すれば、水は外気の太陽の熱を吸収してさらに空気は暑くなります。
そして、暑くなった空気は風によって流されて冷たい空気と出会うと、性質上すぐに外気温の影響を受けて冷えて雨となりて我が頭上を雨として降らすのだと思います。
前線を作るぐらいでもあるので、温かい空気も冷たい空気もポンプの如くエネルギーを供給されているのが今の状態です。
このようなジメジメとした不快指数な寝れない夜を、このようなことを眠いことを考えながら・・・むにゃむにゃと知らぬ間に寝てしまって朝を迎えるのが一日の始まりです。
真贋の正しさを証明するものは何も持ち合わせておりませんが、水が外気温を吸収してほぼ外気温と同じ温度になるということは間違いないとであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月22日(木)
■わ〜にゃ〜。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月23日(金)
■一日一文章トレーニング。

「時間をたっぷりかければジャージーな文章となる」

じめじめとした布団は嫌いですが、しとしと冷たい雨降るじめじめとした天気は結構好き。このグレー色の空の魅力とは、時に新宿の超高層ビル群などを眺めると建物に雲や霧がかかりサイバーパンク感を感じたりもします。また、コートをしっかりと羽織りて行き交う人々の景色を見れば霧の街を彷彿したりもできます。このような冬の雨の休日は外出を億劫にさせるものですが、一端、外出すれば案外ヒンヤリと冷たい空気が気持ち良くて、鼻を真っ赤にさせながら雨の非日常感を楽しめることもできそうである。頑張って出るか?

そのようなお天気のお供は、「人間をダメにする」との言い伝えのあるジャージが最適です。ジャージで街をうろうろとすることは本当にダメな代名詞のようなでもあるが、濡れても・汗をかいてもすぐに乾き、汚れても気にならないジャージとは、何より伸縮性もあってとても履き心地がよろしい。こんなに良いものがあるのに皆、なぜ?履かない思うジャージ素材。田舎のコンビニのヤンキーなイメージが強いのは確か。先ずジャージと聞けば思い出すのが中高時代のジャージです。あの線は2本線だったか?3本線だったか?なかなかに悪趣味な色をしていましたが、素材感も悪くて機能性もありません。ですが、今や一見普通なパンツのように見えるジャージ素材のパンツもあります。着込んだ服やコートなどのボリュームさに対比して、下部をジャージ素材の細目にスラリとさせれば、それは、なんだか、OKなような気もします。今年の目標は変な箇所を2〜3個所を作ることでもあるので、ジャージを履けば、そのお役目を十分に果たせます。(去年も一昨年も履くジャージなのですが)ジメジメとしたこのような天気に速乾性のある素材はすばらしくて、湿気を吸って重くなる綿素材よりも遥かに軽くて動きやすい。ただ、一度履いてしまうとジャージの魔力に取り憑かれてなかなか手放せなくなる恐ろしさはある。

さっそく、素材のタグを見ると複合繊維(ポリエステル)66%、ポリエステル34%、ベトナム製とある。何と!ポリエステル100%のジャージです。ですが、ポリエステルの複合素材と、普通のポリエステルの2種類に分けて表示されております。調べると、複合素材とは様々な種類の化学繊維を組み合わせて作る高機能な生地のようで、動きやすさと快適さの秘密はこの66%にあるようだ。

ジャージは楽な格好であり、何かしらの人間を堕落させるような魔力を持つものである。バシッと服を着込めば、それなりに身も引き締まり気分もキリリとしますが、楽な格好をしているとダレる気分はわかります。「名は体を表す」ように「服装が体を表す」ことであれば、それは大いなる問題です。そして、今、私の頭の中には新ジャージを買いたいとのイメージがふつふつと湧きます。「1部:手袋を買いに(新美南吉)」「2部:ポケット貸して(私)」「3部:ジャージを買いに(私)」と、今からジャージという新しい堕落アイテムを買いに行きたい予感。ただ、この寒い雨降る祝日を一歩外に踏み出すことができるのでしょうか?祝日でたっぷり時間があるということで、まったりお茶を飲み、お菓子をつまみ、楽な格好で部屋をうろうろと、時折ダイニングテーブルでパチパチ入力する文章とは結構進まないものです。不思議なもので、やることは短時間で勢いを持って一気に書き上げるのが吉であるという呆則は大体正しい。何かを成す時に時間をかければ何かなるというのは私の場合はフィクションで、何でも一気に作り上げたい性格でもあります。

  

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月23日(金)
■にゃ〜にゃ〜にゃ〜。
■2024年2月24日(土)
■一日一文章トレーニング。

「2月24日の今朝、マイ室温計測が今年始めての春の気配を観測しました」

今朝は昨日の冷たくて寒い天気がどこかに消えてしまったような爽やかな朝。
気温は暑い夏や寒い冬に向けて決まった大きな流れに沿って変化しますが、変化の胎動は細かく上下に変動しながら大きな趨勢に収斂します。
面白きことに、今朝、毎日の水温計測でそのような小さな変化を見つけます。
これまでの冬の室温計測では室温に近い水が室温の温度を吸収して温かくなり、より外気温に近い長く使用した水が外気の冷たい空気を吸収して冷たくなる現象が決まり事でもありました。
そして、今朝、そのような法則事を反転させる、室温に近い水よりも外気温に近い水の方が温度が高くなる現象を観測します。
僅か0.4℃の差ではありますが、この温度の反転する時期を観測する為に今まで計測していたと言っても過言ではありません。
部屋の中で春を感じることもありましょうが、一般的に人が春の気配を感じる瞬間とは一歩家から出た瞬間に感じる春の空気でもあります。
おそらく、今朝、家から出る一歩が春を感じる一歩なのかもしれません。
いやはや、明日は雪降るかもとの天気予報ではありますが、マイ室温データは勝手に2月24日の朝に春の兆しを観測してしまいました。
ごめんなさい。m(_ _)mT
春ですね。

2月24日(土)朝の水温計測 (晴れ)
室温:14.7℃
置き水:14.0℃
一番水:14.2℃
外気温に近い水:14.6℃

残念なことは昨日の朝の外気温に近い水を計測し忘れておりました。
肝心なところで歯抜けを起こすうっかり計測です。
ですが、昨日は雨降る非常に寒い天候でもあったので反転現象を起こす可能性はほぼほぼゼロだと思います。

2月23日(金)朝の水温計測 (雨)
室温:15.8℃
置き水:15.6℃
一番水:15.8℃
外気温に近い水:未計測

ということで。

もう少し、幅広く室温の変化の分布がどうなっているのかと思い床から天井まで上下に小アナログ温度計で計測してみました。
温度計の間隔は約30センチずつで床面ぎりぎりから天井スレスレまで8回計測。

A:16℃(天井)
B:16℃
C:16℃
D:16℃
E:16℃
F:15℃
G:15℃
H:14℃(床面)
床の温度:15.6℃
※暖房エアコン等付けておりません。

むむむっ。
何となくデジタル温度計が計測する温度とアナログのドイツ製の温度計に差異はあります。
なぜだろう?と思い冷蔵庫にくっついているタニタのデジタル温度計の横にアナログ温度計を置いて計測すると(写真)アナログとデジタルの温度計大体同じ。

左(アナログ小):14℃
中央(デジタル):13.8℃
右(アナログピンク):14℃

ドンマイ・ドンマイ。
部屋の温度とは測る場所によって微妙に異なるのかもしれません。
冷暖房を入れると、どのくらい室温変化が生まれるものなのかは気になるので、100円均一でデザインが良ければたくさん買って測定してみるのも面白いかもしれません。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月24日(土)
■1キャットフラン。
■2024年2月25日(日)
■一日一文章トレーニング。

「PBRは素晴らしき定規である」

昨晩、暖房のスイッチをONにして部屋のあちこちの温度を計測します。本格的な春がやって来れば、暖房もつけないので今計測しなければ、来年まで計測できない室温変化の計測です。マジックハンドでタニタの温度計を掴んで筋肉をぷるぷると震わせながら1分間天井の温度を計測します。天井の温度を計ると20.2℃。しばらくしてもう一度計ると23.9℃。暖房をつけると天井の温度は3.7℃上昇します。逆に床の温度を計測すると23.3℃から21.3℃まで2.0℃温度下がります。暖房をつけたならば、なぜ?床の温度は下がるのでしょうか?この原因は温かい空気が生まれると上昇気流が発生して周辺から冷たい空気を引き寄せて床の温度が下がるのかもしれません。ならば、上に集まる温かい空気を撹拌して混ぜると床の温度も上昇させることは可能なのでしょうか。冬の寒さとは床面の冷たさが一番寒く思う部分である。床暖房並に即効性ある床温めができたならば、それは意義あることでもあります。さっそく、昔、プレイステーションの熱を下げる為に回していたUSBファンで空気を循環させます。一様、空気は循環して天井の温度は21.4℃まで下がって安定しますが床の温度は上昇することはありませんでした。

2月24日(土)室温・湿度
暖房のスイッチON
1) 20.2℃・62% 天井
2) 23.9℃・58% 天井
3)23.8℃・58% 天井
4)23.3℃・50% 床面
ファンの微風で循環させます
5)22.6℃・55% 天井
6)22.3℃・54% 床面
7)22.2℃・57% 天井
8)22.1℃・54% 床面
9)21.8℃・53% 床面
10)21.4℃・58% 天井
11)21・2℃・56% 床面
12)21.2℃・58% 隣の部屋の床面
13)21.4℃・61% 天井
14)21.3℃・58% 床面

「あ〜、一目で温度変化を識別できるプレデターの目が欲しい」
いろんな場所の温度を気になる順に計測していると温度は次第に撹拌されて安定してくる感じは伝わるものの、バラバラな情報を見ても無茶苦茶情報すぎて意味がわかりません。
「あ〜意味がわからない温度変化なのだ〜」と言っていると、
「突っ張り棒で温度計測しているおまえが一番よくわからない」と言われて、
「そりゃそうだ」と思う。

温度とは常に上下変動するものであります。現時点の上り下りの先端を捕まえたところで、それは瞬時に上か下かのどちらかに動くだけの運動情報でもある。なので、大きな時代の潮流を捉える変動のモメンタムを取り出すことが大切なような気もします。

ところで、話しは変わるのですが、

エジソンは「成功とは結果で計るべきではなくて、それに費やした努力の総計で計るべきだ」と言っています。エジソンの言葉を良い風に解釈すると、石の上にも30年耐えた日本経済の努力の総量は相当に溜まっているものと思われます。また、日本の停滞は冷戦後のグローバル市場の拡大やデジタル化の波に乗れなかったことでもあり、今や中国・ロシアも意味不明に勝手に自滅しているので新興国ブームにも陰りが見えております。世界のお金はしっかりと逆流しているような感じもして、これは間違いなく時代の分かれ目に立っているようにも思われます。

先日、「PBR」について学びました。PBRとはPrice Book-Value Ratioの意味で企業の資産価値を100とした場合に上場企業の株価水準が120であれば、120÷100=1.2で所有する資産に対して株価が1.2倍の価値を持つとの投資判断となります。逆に「PBR1倍割れ」とは資産価値を100とした時に、上場企業の株価が80であれば、80÷100=0・8倍で1を下回る状態となります。この状態を「PBR1倍割れ」と言います。投資家はこの状態の上場株式を上場する意味のない株式で、上場廃止で現金を回収した方が投資利益に叶うと判断します。一見、転売ヤーのような発想ではありますが、これはなかなかに良きものでもあります。恐ろしきことに、ほんの少し前まではT自動車みたいな優良大企業を含めても上場企業の半分は「PBR1倍割れ」であったようだ。※現時点は株価が上昇してきているので、その数値も少しは解消してきているのかもしれませんが詳しいことは知りません。低金利で刷られるお金のほとんどが国や大企業の低成長分野、または、建てたらすぐに資産価値が減価する建物の投資などに使われる現状を考えると、それはPBR1倍割れなるのも当然かもしれません。前述の「中央と辺境の概念」に当てはめると、これらは正に中央をぐるぐると回るだけのお金であります。ならば、企業がどのような資産価値をプールしているかと言えば、それは現金や土地、株式などで、この単純なPBR計算にはそのような企業経営にプレッシャーを与えるだけの何かはあるものだ。PBRから判断すると日本の株価が今まで十分に安かったことになりますが、そのような問題だけではなくてPBR1倍超え目標という大きな物差しを与えてくれているような気もします。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月25日(日)
■クエン酸タラティ野。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月26日(月)
■一日一文章トレーニング。

「ダダをバイクに乗せて泡盛を運ばせたらデスストのワンシーンを再現できた」

仮面ライダーのバイクにダダを乗せて飾ります。昔、買って集めていたバイクが、このように再び活躍の日の目を浴びる日がやって来ようとは想像もしていませんでした。先日、シルバニアの自転車にヴァンプ将軍を乗せて以来、私の中で乗り物にフィギュアを乗せて飾るブームがやって来ています。どこのどの角度から見ても「あ〜」完璧なプロモーション。モノトーンなダダに似合うのはこの仮面ライダーWのハードボイルダー・スカルボイルダー以外には考えられません。後ろの席に乗せて運ぶのは泡盛の壺だ。瓶詰めのガラクタ入れに入っていた泡盛の壺を見つけてバイクの後ろに乗せる。そして、バイクの後ろに荷物を乗せて運ぶ姿はデス・ストランディングの配達中毒者のようでもある。今朝もこの完璧なバイクとバイクの乗り手を愛でながら自画自賛している。こっそりとこのバイクを美術館に飾っていたならば、皆、真顔でこの造形美を眺めるだろうと思う。もはやこれは芸術品でもある。バイクの後ろに荷物を乗せて運ぶ姿は今や常識の風景でもありますが、小島監督がそのような未来の風景をデスストで普通に描いていたことに驚きでもある。「人は人の為に何かを運び、人に常に何かを届けて、人はそれを受け取り、人と人を繋ぐ」という小島監督は天才すぎます。そう言えば、先日、デススト2のトレイラーを観た。前回悪役のヒッグスがギターを武器に音楽を奏でながら戦闘しております???かっこいいヤバイ最高!!そして、今度は未来の宇宙船のような乗り物に乗って、フィギュアな相棒を連れて世界を繋ぐ?旅をするようでもある。2025年発売予定のデススト2は遊ぶ用と保存用の2枚のディスク購入することは、もはや確定してしまいました。いやはや、本当に楽しみ。

ということで、

問題はダダなのです。既成の価値観をぶった斬るというダダイズムとは一度は聞いたことがあるものの、どのような絵を以てダダイズムと評するのかは知らぬところ。さっそく、ダダの絵を検索するとこのダダ星人や太宰治などが出てきてもはやカオス。結局よくわからんダダイズムな絵なのではありますが、何よりも恐ろしきことは、私がこのダダ作品を一度も観たことがないこと。毎度ながら観たことのない作品なのに買ってしまうフィギュアは、完全に見た目の重視のデザインだけで購入してしまうタダのダダっ子でもある。ダダは以前にも発売されていて「買おうか?買うまいか?」と頭を悩まして結局購入することを辞めた。「買う?買わない?な悩みは購入してから悩む」という呆則から逸脱し「わいはもうフィギュアから足を洗い卒業するのだ〜」と息巻いて購入しなかったフィギュアなのですが、再販ダダの選択肢が再び回ってくると最終的に「ポチッ」てしまうダダ人形である。この縞々の服とこのつぶらな表情を見てしまうと買わずにはおれないものだ。「本当に君は何という顔をしているのかね」と教授が尋ねるように、ダダはとても素敵な顔をしています。顔も3種類付きでアフリカの民芸品のような造形を選択します。詳細を調べるとダダは宇宙からやって地球を侵略しに来た宇宙人のようだ。研究用の人間標本を集める昆虫学者みたいなヤバイ奴で、日本語も英語もフランス語も何語でもペラペラの博学でちょいヤバ目なマッドサイエンティストかもしれません。そのような宇宙人には我が家で泡盛を運ぶ配達依存症となってもらい最初から人生修行を積んでもらうことにしましょう。「あ〜」今日も完璧なバイク乗りを作ってしまいました。「あ〜どうしましょう」バイクのフィギュアはまだまだイッパイありますので、まだまだイカした奴らを飾ることは可能です。そもそもですが、フィギュア遊びとはこのようにバイクや乗り物に乗せて愉しむのが王道で間違いないと思うのですが、どうなのでしょうか???

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年2月26日(月)
■ダンス♪ダンス♪ダンス♪音楽が溢れる♪