*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月1日(月)
■2024年・謹賀新年・scos

菌が・・?
金が?新年・・・
謹賀新年

文字の変換候補は平常運転ではありますが・・・

明けましておめでとうございます
新しい年を迎え皆様のご健康と
ご多幸をお祈りします
本年も宜しくお願い申し上げます
令和六年 元旦 スコス
 

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■2024年1月5日(金)
■一日一文章トレーニング。

「人の器とは決まっていると仮定すれば、(+)得ると何かがぬけ落ちて、(−)捨てると何かの新しいものが入ってくる、常にカタチの変化しない変な初夢を見た」

令和6年の年の始まりは1月1日から大変なこととなりました。
被災した人々に最大限の救済が行われることを祈っております。
実家に帰ったならば、早すぎるスギ花粉症のような鼻ムズなアレルギー症状を起こしました。
これは地震のショックなのかもしれませんが東京に戻ったら不思議と治ります。
暖房アレルギーなのか?よくわからないアレルギー症状でもありますが、帰宅後に初売りの人混みにもまれたならば鼻がムズムズと止まらなくなったので、暖房等で舞い上がるハウスダストに反応しているのかもしれません。
とりあえず、鼻をムズムズさせて鼻をかんだりしていると、これはアレルギー症状であると思っても他人からは風邪のように思われる世知辛い世の中でもあります。
今年の鼻は1月1日からムズムズはとても敏感に反応しているので、杉花粉の時期には完全防備で挑む必要を感じております。

ところで、

初夢です。
「一富士二鷹三茄子」と今年はどれが初夢なのかわからないぐらいにたくさんの夢を見ています。
なにせ、食っては寝ての眠すぎる毎日の11時間睡眠で夢もたっぷりと見るのも当然です。
最初の夢はマイカーがトラックのように車高の高い視線から見下ろして走る夢で、車高の高さを乗用車と比較しながら体感する夢であったような、なかったような。
そして、そのドライブは煩悩を捨てる変な夢へと続きます。
世の中にはギバー(与える人)とテイカー(受け取るだけの人)、マッチャーと呼ばれるそのどちらでもない人々の3種類に分ける分類方法もありますが、それに近いような夢のお話しです。
因みに、ギバー&テイカーの一般論ではほとんどの人々は中間層で、組織中に一人でもテイカーが現れるとギバー達は一斉に口を閉じ新しい事柄を一切行わなくなるお馴染みの現象でもあります。

夢の話しではありますが、私が夢の世界で+と−のやり取りをしていました。
それはとても不思議なお話しで、私が貪欲に+10・+30とたくさんのプラスな出来事をたくさん吸収すると、私の体の一部分が−10・−30と欠けて結局+−0になる現象の夢です。
何度も、何を取り入れても私の体は大きくならないので、私は体の一部分の−5と取り出して外界と取引を始めれば、不思議とその失った−5の部分に湧き水のようにジワジワと新しき何かが溢れてきて体を満たします。
この溢れて隙間を埋めるものは何かと思い夢の中でギブ&テイクな物事の取捨を繰り返しながらトレードを続けていたならば、この夢の世界では人を足らしめる器のカタチは人それぞれで一定の大きさで決まっていることに気付きます。

何かを得ると何かを失う。(同等のものがすっぽりとぬける)
何かを与えると新しき何かを得る。(ジワジワと溢れて回復する)
人の器は一定ですでに決まっている。

これは経済に近いのかもしれません。
これが夢の世界ではなくて、現実の世界ともリンクすると仮定すれば、昨今の経済状況の分け与えたものがジワジワと回復しなくジリ貧になるというのは、どこかで誰かがその源泉を搾取する仕組みがあると考えられます。
特に長期不況にはその仕組が文化となり、人々が当たり前のことに疑問に持たなくなっている可能性は高い。
私が起業した当初のことを夢の中で思い出していても熱心に働けば働く程に、お金は循環しますが家族や友人と疎遠となり失う時間というのもあります。
たくさんの商品やコレクションを集めると、物は増えますが、空間やお金が失われることも同じこと。
子供の頃の吸収の速さとは人の器が空っぽであるからにして何でも吸収できるのかもしれなくて、宝くじで大きなお金を手に入れると何か代償みたく人生の大切な何かも失うことは、よく耳にするお話でもあります。
キャパシティとは一定であり、何か得ると、何か失う典型的なものでもあります。

新年草々に何日も見る夢は「煩悩を捨てよ」みたいなお話で・・・m(_ _)mT。
これは、世間一般に言われるプラス思考的が良くて、マイナス思考が良くないと言われることと真逆なことでもあります。
この考えで行くと、必ずプラスに加算するよりも引き算して空いたスペースに新しきものを入れる方が大切のような気もします。
夢の中で私は体の一部を切り取り、世間と取引することで新しき面白き充足感を絶えず得ておりました。
これは長く「一日一文章トレーニング」で知見や経験呆則の譲渡を行ってきた私の一つの目線の広がりに繋がったような気もします。
人は手放すことにより新しい知見を得ることは確かにあるのかもしれません。
これは夢の戯言か?人の器の大きさとは最初から決まっていたと考えれば、人の生き方も少しは変わってくるものではないのかと思うのですがいかがでしょうか?

 

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■2024年1月5日(金)
■指揮者。

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■2024年1月6日(土)
■一日一文章トレーニング。

「スコスの座右の銘は他力本願です」

去年の年末のこと。もんもんとした室内に漂うテーマは来年のお話し。お茶を飲み、お菓子をボリボリと食べて「どーする、どーしよう」と話すものの、それは何をどのようにしたら良いものなのか纏まらないお話ばかりである。話しは本当に煮詰まらないので、結局、毎度のワコム購入話しへと脱線する。そして、めでたく年末に液タブを購入したので、ワコム買う?買わない?話しがもう話せないことは少し寂しいことでもある。ですが、やることリストから一つ項目が消えることは良いことだ。まだまだ、慣れた親しんだiPadを多用してしまうところはありますが、早く慣れる為にも、とっとと購入していた方が良かった液タブであります。左手にタブメイトを握りながら描く液タブは結構便利で使い勝手の良いもので気に入りました。

ところで、

会議です。私は煮詰まった空間を飛び出しトイレに駆け込むと、トイレのあの狭い閉鎖空間で集中力を高めます。正にロダンの考える人のポーズとはこんなポーズであるものだと思いながら、「考える人は確か便器の上に座っていたよね!」と思い検索すると考える人は石っぽい何かに座っておりました。そりゃ便器に座っていたならば崇高な芸術性が損なわれるかもしれません。ですが、その石の角度はなんとも便器っぽいカタチでもあります。ロダンは発注者の意向なのか?便器のカタチを芸術風に作り直したようにも思えます。岩の削りも幾分雑である。一様ロダンが考える人を作った1881-82年には便器ぐらいは存在してそうにも思われます。しかし、考える人の苦闘とはもっと壮大で意味不な悩みでもあります。ダンテ(座る人)は岩の上に腰を下ろして詩想に耽っているようなのですが、目の前には扉があるそうで、これはトイレの中の扉とも符号します。しかし、ダンテの背後には「神曲」の私が知らない有名人全員が立っているようで、これはちょっと落ち着かないおトイレでもあります。ダンテと言えば「新曲・神曲(ドヤッ)」なので、物語の展開についてあれこれ考えていたのかもしれません。そう考えると、ロダンの考える人とはとても良い作品であるように見えてきます。しかし、芸術関係の文章だけは何度読んでも理解できなくて困った困ったなのであります(>_<)ノ。

結局、あーだ、こーだ、と考えても何ともならないのが人生です。全ての事柄は他人によって生かされるものであって、自分で「これは良いぞー」とどれだけ叫んでも、それは無人島で騒ぐムダ騒ぎのように毎度感じることでもある。私達は常に自分たちが主体的に動くことを望んではいるのですが、主体となったところでそれがどのように転ぶかなんて全くわからないことをが他人次第の「他力本願」でもある。さっそく、おトイレを飛び出して来年の言葉の「他力本願」を発表したのでありました。(・_・)88888

念の為、辞書で調べると「他力本願」は仏教用語でもあります。意味は全て他人任せ。阿弥陀如来の誓願にすがり極楽浄土を願う有り難い言葉であるそうだ。ただ、座右の銘が「風任せ」や「他力本願」である人物とは信任は少なく、人としての何かが足りてないような気もします。だがしかし、それでこそ我らの何かを体現しているような言葉でもあります。

ということで、

「他力本願」を今朝、書き初めを行いました。結構、何枚も書いて上手書けたと思ったら、力(リキ)が少し惜しかったり、願いが弱かったり、字が震えたりと、なかなか上手に書けないものである。いくら書いてもなかなか納得いく「他力本願」にならないので、一番上手に書けたこれで善しとする。ふ〜疲れました。

 

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■2024年1月6日(土)
■他力でホイホイ、本願してホイホイ。
「他力本願」の文字をHPのデスクトップ画像に置いておりますが、
それをデスクトップ画面に貼り付ければ此れ本物の他力本願也(なり)。
 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月7日(日)
■一日一文章トレーニング。

「ほうれい線を可愛らしくアップグレードする研究は火急の懸案であります」

液タブで検索をしていたならば、他の人はどんな絵を描いているのかと気になります。さっそく、他の人達の液タブ作品を検索すると私の描く顔の画風とは微妙に異なります。画風の違いは根本的な用途の違いであると思うのですが、何が違うのかと詳しく調べる為に「顔面研究所」を立ち上げます。目と鼻、口とかは一様に全部同じなのですが、根本的に何かが違うもので、結局、全部異なっております。「参ったー」のご愛嬌です。当然、他の人もほうれい線なども描かれることもなく線は完全に抹消されております。ネットに画像をアップするような人たちはサラサラとペン書きのように上手に描くものでありますが、マイピクチャーを見ると本当に申し訳ない気分にもなります。おまけに、高解像の「他力本願」のフォントまでデスクトップ画像までも丁寧に付けているので\草/でもありますが、ダウンロードして利用して下さいね。

私の中ではほうれい線などをしっかり描いてもかわいくなるような絵にしたいとの思いは強い。そして、何より絵はできるだけ忠実にかわいく描きたいものであります。ほうれい線は1本描くだけでも10年の歳月ぐらいは加算するものであります。描いては消して、消しては描いてギリギリの線を攻めたのが上記画像。「あ〜、もっともっとほうれい線をしっかりと描けるようになりたい〜」。ということで、私は美しいほうれい線とは何かと思いながら、躊躇わずにほうれい線を付け加える動物を見つけます。それは愚輩の猫である。「そこにほうれい線はあるんかい?」と私の猫画はちょちょいと線画で鼻の線もほうれい線もしっかりと描いております。そして、何より線を描くことでかわいらしい(たぶん?)。猫にほうれい線をしっかり描いても年齢不詳で老化現象が起こらないことは不思議なことでもあります。

メモ:人は猫画のように年齢不詳に描け。

顔面研究所では猫画のほうれい線の秘密を暴くことにより、人間画でもほうれい線を描いてもかわいらしくなるのではと予測しています。しわくちゃな顔の犬などを見ても「かわいい〜」となってしまうあの感覚を持っているのに、人の顔でそれを再現できないことは不思議なことでもあります。犬や猫を見ると根本的にかわいいと思ってしまうから仕方がないことではありますが、そのかわいらしさが人間に適応されないのは謎でもある。

なぜ?犬猫はかわいいのだろうか?犬や猫の可愛らしさの秘密は、毛のない裸ネズミが気持ち悪く見えてしまうように、人間の顔は毛むくじゃらではないので生々しくリアルに見えるものでもあるのかもしれません。犬も猫も毛むくじゃらだからかわいくて、スター・ウォーズのチューバッカでさえ、その辺を散歩していたら「かわいい〜」となると思うので毛むくじゃらのワシャワシャは可愛さの一要素で間違いありません。だからと言って、毛むくじゃらの人間に数ミリもその可愛らしさは適応されることはありません。

メモ:人と猫ではかわいらしさの基準が異なる。

研究所では猫と人間の顔を比較して共通項を見つけます。それはフラット30である。いやいや、人の顔も猫の顔もどちらも他の動物に比べて平面なこと。勿論、彫りの深い人はいるのですがその他の動物が持つ凹凸に比べれば全面に向けてフラットであることに間違いありません。猫も人も顔がややフラットであると考えると、ほうれい線が目立つ理由は人の顔が平面であることに由来するのかもしれません?人間の口が犬のように全面に飛び出ていたならばほうれい線も消えていたのかもしれません。ただ、「ガルル」と凶暴性溢れると危ない人間社会になったのかもしれません。

メモ:人も猫も顔が平面的でしっかりとしたほうれい線がある。

犬の鼻の下にも黒くて目立たないのですが1本線を見つけます。盛り上がった鼻は角度によってはほうれい線のように見えます。どんな動物にもほうれい線のようなものはあるのでしょうか?動物にとってほうれい線みたいな線が可愛らしさの妨げにならないことはマイ世界の七不思議でもあります。今さらですが、我が辞書にはほうれい線の記載がなくて焦ったのですがネットにはたくさん記載があるように鼻の下からハの字に広がる顔のシワはほうれい線で間違いありません。因みに、花の下の2本線は人中(じんちゅう)というらしい。お母さんの中で最後までくっついていた名残らしいのですが、「ほんまかいな?」な事柄であります。世の中には本当にどうでも良いことって存在するのですね。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月7日(日)
■ほうれい線レーダーに見つかるな。
■2024年1月8日(月)
■一日一文章トレーニング。

「他力本願とその反対語である自力作善を比較してみた」

意外に崇高であると思える「他力本願」について考えます。
他力本願は前述のように他人の力によって願いを叶えることであります。
その名の通りに我身は他人に生かされていることを意味し、他人が存在しなければ我が願いも叶うこともありません。
自分自身の願いの為に、あなたも、そこの通りすがりのあなたも、知らない他人の全ては必要であるとのことになります。
逆に、他力本願の反対語は何かと思ってネット検索すると「自力本願」ではなく、仏教用語で「自力作善」というらしい。
これは「本願」が裏返っていないので、自力で何かを成すのであれば本願の祈りは存在しないという解釈なのかもしれません。
お正月の初詣に、賽銭を入れて己の自力達成の祈りを誓願するものではありますが、これは「自力本願」に近いもののようにも感じますが、神社仏閣のお力を借りて願うとなれば、「他力本願」そのものようにも感じられる禅問答な感じです。

宗教とは善行や正しさを語ることが多いもの、時折、そのような善や正しさを嫌うところも仏教的な価値観でもあります。
自力で成し遂げるものと言えば、独裁、独善、独占、独断・・・と単独によって達成されるものであります。
「独」が付くと途端に雲行きが怪しくなるところはありますが、文化的にご先祖様達がそれらを好ましく思っていなかったことを感じることはできます。
世の中には清廉潔白であれば独裁によって政治を司ることは最も正しいことであると考える人達もいますが、世界中のどこを見渡しても正しき独裁は存在しないように、間違いを起こさない正しい人間もAIも存在しないことは周知な事実でもあります。
そして、自分のテリトリー内で独善的に物事を進めて何が悪いという誘惑にも常に駆られるものです。
独善とは自分だけが正しいという意味で、これも自分でやるのはまだしも、他人にやられたり感じたりすると不愉快な気分になるものです。
独占とは少数が市場を独占して支配することで、別の言い方で「独り占め」です。
西欧的な考えであると独占はExclusiveと呼ばれマイナスイメージは少ないようではありますが、富が偏在化する理由がそのような文化的な側面にあるのかもしれません。
物事を独占する弊害というものもあって、独占を禁止する法律なども存在しております。

私の商売人の呆経験則から言うと、やはり、「自力作善」より「他力本願」の方がしっくりとくるものであります。
それは自力で何事も成し遂げることができない能力の低さも理由にありますが、何より商売をしていても他人様によって生かされていると思うことは多い。
以前にも書きましたが、これは間違いなくこの商品はバカ売れするだろうと踏んだものが全く売れなくて「あれっ?」となることはあります。
そのような同じ商品でも売る場所が異なるだけで、良く回転しだすこともあります。
置く場所も変われば、他力によって商品が生きてくる面白き事柄でもあります。
逆に、間違って仕入れてしまい絶対に売れないだろうと絶望する商品がポンポンと瞬く間に売れて「あれっ?」となる不思議もあります。

商いとは正に飽きないで他力によって生かされているようなものでもあり、他力本願をある程度感じないと良い結果が成就されないような気もします。
そして、わかってはいるのですが、ついついやってしまう「オレらはこうしたいのだ〜」と意気込みで新規で自力開拓する事柄は悉く良い結果に結びつかないのも世の中の不思議な仕組みの一つでもあります。
恐らく、仏教ではそのような自力で何かを成し遂げるような事柄に戒めの言葉を残しているのかもしれません。
よって、「他力本願」とは案外、意味深な言葉であるのだと思います。

 

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■2024年1月8日(月)
■ブロンズ像「ボールで遊ぶ人」。
ほうれい線やシワは絵画のように描けば気にならない。


■2024年1月9日(火)
■一日一文章トレーニング。

「六角形の石を見に京都・六角堂に行ったならば四角形の石がありました」

ガクガク・ブルブルと震えて布団から出られない今朝の室内温度は13.8度・湿度59%。
室温が13度台になると途端に布団から出るのが苦痛になることがわかりました。
布団のミノに包まれて目をパッチリと開けて動けなくなる様は新年にふさわしい形状でもあります。
目を開けているだけでも起きれないのでタブレットをもぞもぞと探りて、筋肉をピクピクと痙攣させながらネットサーフィンをすると布団の隙間から冷気が雪崩込んで寒い寒い。
例年の室温・湿度との違いは空気がカラカラに乾燥することがないことだ。
ということで、布団から出て、今年も早いものでもう9日間も経過しました。
何を成したのかと何も成さない9日間ではありますが時の流れとは無慈悲なものです。

ところで、

お正月に京都の六角堂を見に行ってきました。
いつもの目の前にある電車に迷わず乗ってしまう癖と、一人でヘッドホンをして頭の中の適当な地図感覚でアウェイの京都の街をおよそこの辺りだと目星を付けててくてく歩くと案の定迷子になります。
前述の通り音楽が薪であるとすると、音楽を聞いている間は薪がどんどんと燃えて足もどんどん進むものであります。
何の躊躇いもなく進むと二条城まで出ます。
そこまで、進むと流石に「あれっ?」となり、音楽をストップして地図を確認します。
やはり、音楽とは薪の燃焼でありイケイケモードにするもので、これは左脳を使った冷静沈着な判断を阻害するものでもあります。
今度、詳しく書きたいと思いますが、薪を燃やし刺激を得て絵を描いたりする、創作する仕組みは計算でいうところの「内積」であると思います。
「→a・→b=|→a||→b|cosシーター」みたいな単調な右脳燃焼である。
ですが、左脳は恐らく「外積・行列」のようなもので選択肢がどんどんと膨らんで増える感じもします。
選択肢の多さはAIの強みである。
AI処理も外積の計算から抽出していると思うのですが、薪を燃やして火を火力にすることは二条城まで走り続ける燃焼エネルギーとなるので、それはそれで一点集中突破の魅力もあります。
人の頭の中の動きが計算で再現されることはげに恐ろしきことでもありますが、脳みそも電気信号で作用する人の脳とはそのようなものなのかもしれません。

道をまた逆走して、やっとこ六角堂に到着します。
早速、お寺に参拝して京都のへそを探すと小さなお寺なので、すぐに京都の中心、いやいや京都人であれば日本の中心であると言うのかもしれませんが、写真を撮ると「あれっ?」と四角形をしています。
赤いふんどしを付けた大層な石なのですが四角形です。(令和6年の困惑)
六角形の石は盗まれたのか?いやいや、お正月で里帰りしているのか?と境内をぐるぐる回りますが、六花形の石はやっぱり見当たらず。
狐につままれた気分で、わい何十何歳は何か妄想の六角形を見ていたのかもしれないと思ってトボトボと帰宅しようかと思う。
ついでに、お守りなどを見ていると壁に貼られた新聞の切り抜きに六角形の石を発見します。
やはり、この境内のどこかには六角形の石はあるのだと確信してさらに周回を重ねますが、六角堂のお堂を何度も回れども、やっぱり六角形の石は発見することはできません。
「あれっ?どこにあるのだろう?六角形の石」ということで、他力を頼ってお正月からお掃除をしているお坊さんに六角形の石の場所を聞くと私のすぐ後ろにありました。
マイアイとは本当にどこに目を付けているものかとも思うぐらいに節穴です。
写真を撮っていると六花形のことを何も知らないと思われる人も寄ってきて写真を撮る撮影スポットとなります。
お賽銭が入っている単なる六角形の石なのですが、京都の中心はこんな「六花形」の水準基標でもありました。
今度、街の中にある単なる窪みを見つけて、1円などのお賽銭を置いてイタズラをしたら皆が写真を撮ったりするスポットになるのかもしれないとの悪巧みを思い浮かべます。
それにしても、はみ出してお賽銭を置く人は何やろうね?2円にムズムズするわ〜。
※手前に1円も刺さっているわ〜。
次は街の中にある奇石や穴を探しましょう。
六角形をかわいく六角戦隊に描く試しは頓挫しておりますが、実際のお寺に辿り着いて満足だ。
新聞の切り抜きを発見しなければ自分の勘違いであったとそのまま四角形の石だけを見て帰宅するところであったので、私の旅は毎度毎度の珍道中であります。
それにしても、あの大層な四角形の石は曲者です。
もしかしたら、これは六角形の石を探して境内をぐるぐる歩いて、ご利益を得るというマニ車寺のような仕組みなのかもしれません。

 

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■2024年1月9日(火)
■四角形と六角形の土俵入り。
■2024年1月10日(水)
■一日一文章トレーニング。

「私のヘソは布団の中心にあり」

いやはや、今朝も寒いもの。1月の成人式辺りが1年間で一番寒いと感じる時期でもあります。そのような寒さを感じ出すとその寒さを改善したいと思うのが人でもあります。そして、布団の包まり方も日々、幾分進化しております。寒くもなるとホットドッグ・寝袋型の布団で寝ることが定番ではありましたが、最近はお花ブーケ花束型と呼んでいる形状の布団に包まれて寝ています。布団を折りたたみ折り紙のように寝ることは本来の正しい布団の使い方ではありませんので悪しからず。布団の折り方は口で説明するのは無理なのですが図のような感じです。面白いことに、このような説明は言葉や絵で描いても上手く説明できないもの。ポイントは足冷えを強く感じるので足だけを上下の布団で挟み込むこと。これによって足の保温性は担保されて温かであります。湯たんぽやアンカーのようなもので足を温めれば良いのですが、一部分だけが温められると結局、熱くなりすぎて明後日方向にそれらは蹴られる運命にあります。なので、日本文化に習いて折り紙布団が現在の快適睡眠方法でもあります。このような花束型にすると軽やかな体重で踏み潰される羽毛布団ダメージもかなり改善されます。そして、最近は別途追加の毛布によって完全な布団包みとなります。お布団の寝方がお花畑のようになり幾分痛いのではありますが、寒くてブルブルと震えるよりマシなこと。もはや、もう普通に布団で寝ることはできませんが、面白いことに朝になれば大抵、通常の布団に戻っております。こんなに寒い寒いと言いながら朝起きると汗をかいていたり、一種寝ることは大運動会のように忙しいもので、最終的に普通の布団のように戻る矛盾は寝相が大変よろしゅうことでもあります。また、花束のような布団に包まりて顔は花のように出ているのですが、布団から顔だけ出していても寒く感じないものは不思議なものです。「心頭滅却火もまた涼し」と精神を統一すれば、体も寒さにも慣れて寒く感じなく無くなるものなのでしょうか?(絶対にやらないし無理だけれども)

ところで、

京都の生け花のお寺でもあります六角堂・頂法寺が京都の中心点があるように、日本のへそはどこであるかというお話です。群馬県の渋川市では東日本の交通の要所ということで「へそ祭り」を実施しているようであります。写真をみたら本当にキモい写真なのだけども、よく見ると面白くも見えるので一度は見てみたいへそ祭りでもあります。腹顔と体のアンバランスさが面白いのかもしれません。着物を着れば、このぐらいに腹が出るくらいが丁度良いものでもありますが、洋服を着るとなれば恰幅の良い人達は肩身が狭くなるものなので、このようなお祭りは良いお祭りなのかもしれません。また、千葉県の銚子市は離島を除くコンパスで円を描くと中心点になるらしい。兵庫の西脇市は日本標準時子午線で考えると日本の中心であるようだ。日本列島は毎年、地震や火山活動で国土を広げて成長しています。日本の中心は常に動いていると考えられて、海洋を含むと広い国土は見方を考えればどの地域でも日本の中心点を唱えることができます。なので、住む街が日本の中心地でもあるのですが、皆が楽しそうで面白いので日本へそは群馬県の渋川市で良いと思います。(個人談)ならば、私の中心点(へそ)はどこであろうかと思って考えました。全ての一日の始まりの中心点の布団の中であるとするとマイ中心点は布団の中にあります。寒さに耐える為に毎日布団の折り方を試行錯誤するこの布団が私の中の中心点・へそです。この布団を中心に一日の動きをグラフ化を妄想すると「あれっ」となかなかにバランスの悪いカタチです。布団の中をゼロとすると行動グラフは人の行動を可視化するものであります。プレイベート情報を含むのでマイ行動図を公開することはできませんが、一方向に偏った図形です。ゲーム脳であれば特質系かバランス系かと成長のパラメーターを考えるものではありますが、円形にはならない一方向に偏ったグラフが特質系のカタチです。このような文章を書いているだけでも全くバランスが良いとは言えないので、これは仕方なき事柄でもあるのかもしれません。結局、強みを活かせるのはバランス系よりも神秘や魔法、技能等の一方向に強さを振ったキャラは最終的に狂った強さを見せるものでもあるので、これはこれで善しであると考えるようにしました。

 

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■2024年1月10日(水)
■メタ・ネコ2024。

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■2024年1月11日(木)
■一日一文章トレーニング。

「説明文とは説明できる程の詳細を把握していないと説明できないもので、行動で教えた方が早い」

昨日のような布団の折り方を説明文で書くことは難しい。
なぜ、難しいかと言うと直感的な感覚でちゃちゃと折って、布団の中に潜り込んでいるような布団の折り方を最初から筋道立てて思い出しながら文章に書き出すことはとても面倒なことでもある。
そして、そのような文章を書く方も読む方も面倒だと思う。

説明文で思い出されるものは道の説明がありますが、こちらも布団の折り方同様に説明することは難しい。
道を聞かれたならば、東京に住んでいる人は冷たい人ばかりだと言われないように、できるだけ懇切丁寧に答えてあげたいものです。
だからと言い、道を説明することはとても難しいものである。
勿論、目的地まで連れて行ってあげる程暇ではない。
(暇なのだけれども・・・)w
聞かれる道順とは、知らない初耳な場所も多く、番地やビル名で聞かれてもほとんど答えることのできない道順でもあります。
先ず、番地の区切りも知らなくて、そして、隣のビルの名前も知らないのが現実です。
なので、知っている場所であっても、大抵「あっち」とアホっぽく方角を指差すことだけになります。
よく聞かれる質問であれば1個目の信号を左に曲がった先の右手のように定型文的で説明することはできるのですが、信号の数や路地の数を瞬時に思い出して話すことは無理ゲーに近い。

海外旅行など行っても道を聞かれたり写真を撮ってと頼まれることは多々ある。
いつも道に迷い、どこから、どう見ても異国人のツーリスト・我に道を聞くお主は大丈夫なのか?と思うのですが無害感だけは漂っているのかもしれなくて質問しやすいのかもしれません。
そもそも、海外では怪しい人物には近づきたくないものであります。
また、道を聞いてくる人物その者が旅行者を鴨にする詐欺グループ団の可能性もある。
安全な日本国内でも話しかけやすい人、そうではない人も存在しております。
道を聞く人を選ぶ選眼の目というのも確実にあります。
人は道を聞く人物を注意深く選んでいます。
横着は「オーバーゼア」と方向を指し示すだけのボンクラ具合でもありますが、この「オーバーゼア」でも進むべく方角が大体わかる情報です。
もしかしたら、人生の目標設定も「オーバーゼア」で十分なのかもしれません。
説明文で物事を筋道立てて説明するには正確な情報が必要となりますが、不確実な未来に、これこれと正確な道順を説明できるだけの情報を持っていないことは至極当然なことでもあります。
なので、正確な情報がなければ「オーバーゼア」のアバウトな情報でも仕方なしで、間違った正確っぽい情報を教えられるよりも100倍マシであります。
ですが、「あっちの方と」と教えてから、その舌も乾かない内に誰かに道を質問しているのを見ると信用されていない感がヒシヒシと伝わって悲しくなるものではあります。
「まーまー」な方角さえ分かれば「まーまー」と何となくなるもので、六角堂みたく二条城まで行っても最終的には目的地に辿り着き、迷い迷いながらも六角形の石を見つけることができるものであります。
旅先や始めての場所で一瞬の迷いもなく目的地まで辿り着くことはなかなかに難しいことであります。

ところで、世の中には難読な本がたくさんあります。

1に芸術を語った文章。
2に折り紙の折り方の本。
3・・・etc。

これら難読書は何を読んでいるものかと???不思議な気持ちになるものです。
特に一見、絵がたっぷりで私にとってもわかりやすそうな折り紙の本を読んでいても、折り紙を折り折り・山折り、谷折りしている途中で「どういうこと?」となるものです。
ボンクラ共が集まって、これはどう折るのかと議論しても結局、誰も折り方の説明を理解する者はいなくて、結局、その折り紙本は「そーっ」棚の奥に仕舞われることになります。
誰か折り方を知っている人がいれば、その折り方を真似すればすぐに理解できるものですが説明文・絵だけでは決して辿り着けない折り紙道でもあります。
入試の試験に折り紙の文章読解力を試されたならば、確実に正解に辿りつける者は数人の鼻血ものであると思います。
ネット検索すると、私のように折り紙本が難しいと言っている人はたくさん存在しております。
そのような折り紙本が難しいと言っている人に対して、折り紙マスターは基本の折り方を理解しないと折ることはできないと言っております。
さっそく、基本の折り方とは何かと調べたものの、よくわからない折り方で混迷を深めるということで、
昨日、適当に布団の折り方を誤魔化したものを懇切丁寧に書こうかと思ったのですが、やっぱり辞めた。

(-)(-)
| ̄ ̄ ̄|
| 説 |
| 明 |
| 文 |
|   |
 ̄ ̄ ̄ ̄
は行動で示した方が早い呆則です。
 

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■2024年1月11日(木)
■ファッションブランド。

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■2024年1月12日(金)
■一日一文章トレーニング。

「八朔文字を作った」

「オレはやった〜」
去年の年末大掃除で冷蔵庫の中をキレイにした。
何年ぶりかの冷蔵庫内のお掃除。
夏場の猛暑の中、冬になれば絶対に冷蔵庫のお掃除しようと企んでいた場所をお掃除できた。
暑い時期だと掃除中に冷蔵庫の温度が急上昇してしまうので暑い時期のお掃除はご法度です。
冬の寒い時期に限定されるお掃除でもあるので、この時期を逃すと次の冬まで掃除することはできないのでなんとか気力でお掃除出来て良かった。

冷蔵庫や冷凍庫の中身を全て取り出してケースをキレイに洗浄します。
冷凍庫には長年凍ったままのミカンやアイスクリームがあったけれども、それらは捨てず再び凍った世界に戻します。
アイス枕や保冷剤も大量に出てきたけれども、地震などで停電する可能性もあるので、それらも捨てずに戻します
冷凍庫の中のお掃除は外に出したものたちが溶けないように時間との勝負です。
サッサ・サッサとキレイに洗浄、拭き取りスピーディーにお掃除を進めます。
一番、汚れているのが野菜室。
野菜の葉っぱや土、カピカピのゴボウ、人の毛なども入って何ともカオスに汚れているものであります。
冷蔵庫ゾーンではカビついたハッサクや、賞味期限切れの調味料がゴロゴロと出てくる。
白菌・黒菌と毎日観察している割には食べ物のカビはサクッとゴミ箱行きです。
それ以外はあまり面白きものは出てこない冷蔵庫お掃除であります。

ところで、

ハッサクです。
ハッサクを漢字で書くと「八朔」となります。
「朔」とは月と太陽が同じ位置にくることを意味することで、月と太陽の黄経が等しくなった状態のことを表します。
12支でいうところの北や子(ね)の方角でもある。
そのような意味から朔日と、月の第一日目のことを指す言葉となります。
「八朔」について面白く思う部分は「八」と「朔・1日目」の文字が同居していること。
これはどのような意味かとネットで検索すると「八朔」は江戸時代末期の現在の広島県尾道市因島にある恵日山浄土寺の境内で自生した原木が「八朔」の始まりであるようである。
「朔」の一日目という意味は始まりの日を表していると思うのですが、「八」の意味はよくわからないものであります。
恵日山浄土寺は因島八十八ヶ所霊所でもあるようで、八十八ヶ所参りの中で巡礼者の方々に「どうぞ美味しい八朔を食べて八十八の巡礼を続けて下さいな」との想いを込めた「八朔」のフルーツであるのかもしれないと思いましたが、どうなのでしょうか?
カビらせたハッサクですがスーパーで見つけるとついつい買ってしまうものであります。
皮が固くて剥くのも大変でネットを調べると皮は上下を包丁で裁ち落として皮を剥くのが食べやすいらしい。
確かにハッサクの皮は包丁で剥くのが一番です。
今までは超人ハルクのように切れ目を入れて怪力で剥いていたの\草/であります。
ハッサクを食べる時に薄皮を剥く必要もあるのですが、それらの皮も予め(あらかじめ)包丁で裁ち落としておくと食べやすくて良いです。
ハッサクの酸っぱいオレンジの柑橘系汁は時折、体が欲するものでもあります。
歯や胃腸の汚れとかもキレイに落としてくれそうな強烈な酸味もあるのでムシャムシャと食べてビタミン補給です。

ということで、

ハッサクを食べながら八朔文字を作りました。
ハッサクをキレイに並べて文字にするとデジタル文字のようなジューシーなフォントとなります。
次、何かある時にはこの八朔文字を使い何かを作ってみたいと思います。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月12日(金)
■ネコネコ〜ネコネコといつも言っているのですが触ったこともないんやで。

*デスクトップ画面用のにわとりだけ画像です。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月13日(土)
■一日一文章トレーニング。

「風見鶏に注目すると」

「あっち」や「オーバーゼア」的な概念は遠くの未来に対する目標であります。目標さえあれば、人はその方角に向かって突き進むことができますが、一方で世の中には風の吹く方向をくるくると回る風見鶏(迷っているように見える)というものもあります。それは遠くの未来に対する行動と少し異なります。風見鶏は一箇所にとどまりくるくると回転するもので「あんたは風見鶏を見たことがあるんかい?」と女将さんに聞かれるとこれまた日常生活に全く見覚えない風見鶏でもあります。人を風見鶏に例えて揶揄することもありますが、その風は風向によって意見をコロコロと変えるタチの悪い人の例えでもあります。ですが、この風見鶏とはよくよく考えると面白き目線(ベクトル)を持っているように思えます。鳥の視野がどれほどのものかもしれませんが、絵に描いても写真を見ても確かに鳥の目は真横に付いております。これは3次元視覚の欠如とも言えますが、目が真横に付く鳥たちは恐らく、進行方向の前方を見ているのではなく真横も見ながら前に進んでいることになります。頭の角度を変えて前方確認を行い、何となく前方は見えているのかもしれませんが、真横を見ながら前に進める感覚は不思議でもあります。競馬の馬も顔の前を隠すことにより一生懸命前方に全力疾走できるそうだ。目的である前方がそれ程、しっかりと見えない方が前に進めるということは面白き事柄でもあります。この視界が良好でない方が良い状況について考えると、この場所が仮に戦場であるとしたならば、ぼんやりと霧がかり良く見えない世界を前方に進むのと、怖い虫や人間のエゴ、死体がゴロゴロ転がるのが明瞭に可視化された世界を進むのでは、不確かで曖昧で良く見えない世界を歩んで脱出する方が進みやすい道なのかもしれません。

これを人間に例えると横を見ながら、前に進むような感覚でもあります。幼少の頃であれば道歩くにも注意散漫で歩きながら電柱にぶつかったり、または、ドブに落ちたりとの経験はあるものです。真横を意識しながら前方へ進むことは一種の高等技能でもありますが、逆説的に考えれば、人間はその時々で関心のあるものだけしか見ていないことにもなります。パー券議員であればお金や粗利のことであり、異性目線であればそれらを追っていることになります。これは人の頭の方向が風見鶏如く関心のあるものを指し示している可能性があります。人の頭の向く方向や目線とは口よりも正直なのかもしれません。これは風見鶏の如く、人が見ている目線さえ追い続ければ、その人物が何に興味があり、何を考えているのかを知ることができるかもな論理でもあります。表面だけ見ていても人の中身はわからないもので、人の目線を長く観察することでその人の人なりはわかる呆則であれば大変便利である。

ということで、

自己分析で検証を行います。昨日、私の目線は猫画です。触ったこともない猫に執着して絵を描いておりますが、これは意味のわからない猫画でもあります。「まー」四足動物が道を歩いていれば見るには見ますが、「かわいい〜」と近寄ることはありません。横目でギロリと顔たれるぐらいの四足動物とは好敵手なのかもしれませんが?、もちろん、猫を飼いたいと思ったことも無く、猫に首ったけということもない。むしろ、犬好きで、猫師匠好きでもあり、猫グッズをアホみたいに売ったことで猫様々と大好きなったところもある。ならば、毎日書いている意味不な文章から何かを見出せないかと言うと、そこにあるのは気合と根性だけでもある。毎日書き(描き)たいことは悲しきかな1ミリも無く。そのようなゼロな状態から、アクセルをブンブンと吹かし適当な事柄をよく書くものである。これらは一種伝統芸能なようなものかもしれない。文章を書くのもしんどいのですが絵を描くのも大変で猫の手を借りるぐらいは仕方がなきこと。昨日の絵は酷い画力ではありますが、後ろ向きに座る猫の顔が180度回転させてこちらを見る感じが面白いと思い描いた絵でもあります。文章の中や絵の中は私の関心事の全てではありますが、文章とは気合と根性で風見鶏のようにくるくると回して書いているようでもあり、これが私の人間性を体現しているのかは疑問でもある。この文章が風見鶏であるとすると我が歩みは1ミリも前進していなく、そもそも、お布団内を起点にした行動範囲をグラフにしても限られた範囲でしか動かないものであります。今日も明日も小さな風をコンデンサーで増幅しながらクルクルと風見鶏を回しながら描くのである。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月13日(土)
■猫のステップ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月14日(日)
■一日一文章トレーニング。

「ヘルプ!寒すぎて朝起きれない」

もぞもぞと遅起きの今朝の室温は12.6℃。いやはや、寒い寒い。室温も12℃台で布団から出るにも勇気が必要です。「トリャ〜」=(ガッバリ)と掛け声を上げて布団から這い出るのですが、昔は横着も度も過ぎれば、温かい布団から出るのが嫌すぎて布団に入ったまま学校まで移動できるカプセル布団のようなものを夢想しておりましたが、未だそのような未来装置は開発されておりません。世の中は本当に進化しているのだろうかと思うものでもあるのですが、この数十年の世界の発展は実体ある物よりも仮想空間を拡張する時代であったようにも思われます。また、再び物の世界は戻ってくるものでしょうか?体も寒さに慣れれば何でもない寒さでもありますが、1℃下がるだけでも体感気温は随分と変わるものであります。とりあえず、冷たくなったおにぎりとコーヒーを食べて文章を書きます。そして、昨日は雪がちらつく寒さでもあったので、話の種不足の救世主でもある百人一首を読みながら前文を温めることにします。

朝ぼらけ 有明の月と (写実)
見るまでに (事件・行動)
吉野の里に ふれる白雪 (写実・心境)
by 坂上是則(さかがみこれのり)

ほのぼのと明ける朝空に 有明の白く輝くお月様がぽっかりと浮かんでいます 
そのような月光照らす明るさかと思うと
吉野の山里に 白雪が降り積もって白くキレイでした

との解釈です。

「有明」とは陰暦16日以降のお月さまのことで夜が明けても夜空に浮かんでいる月のこと。夜空に浮かぶ黄色いお月さまのことではなく、たまに見かける明るい空に浮かぶ青白くぼんやりとしたお月さまのことです。陰暦の月の数えとは新月から1日(朔日)が始まって15日頃に満月となり、月が隠れて新月となった後に新しいお月さまが現れて新しい月が始まる数え方であります。ならば、有明の反対の月は何かと思い調べたならば、夕月や宵月(よいづき)と呼ぶそうだ。夕月とは夕方にぽっかりとお空に浮かんでいる月のことで、朝空に浮かぶ有明の反対であります。宵月はこちらも日が暮れてから間もない時に現れるお月さまであるそうだ。月の名称は望月(満月)、若月、弓月・・・とたくさんの月の名称がある予感です。今度調べて整理してみると面白いかもしれません。

坂上是則は蹴鞠で206回の記録を打ち立てた文化系というよりも運動系な人物であったようです。役職は天皇の詔(みことのり・命令書)を作り記録する係で、その役職柄なのか奇をてらわずに真っ当・無難に纏めた文章のようにも思えます。あまり冒険心も感じられないので個人的には面白みの少ない句でもあります。昔の人たちは早起きで何よりですが、朝に弱い和歌読みは今のところ百人一首には存在していないような気もしますが、清少納言は「夜をこめて 鳥の空声は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ」のような夜型監視人みたいで面白さはあります。

ということで失敗談。

昨晩、晩ごはんを食べ終わり後ろを振り返る部屋の中がともんもんとした煙で充満しておりました。「何だ?この煙は?」ということで早速、煙の発生源を調べると魚焼きのグリルから煙がもんもんと上がっておりました。グリルの火は消えているのですが煙が発生するのは不思議なことでもあります。煙の発生理由を調べるとグリルの下に落ちた魚の破片が自然発火したようであります。不完全燃焼の炭化となりて静かに煙を上げていたようだ。昨晩、雪ちらつく寒さの中で窓全開にして空気を入れ替えますが、こんなにも寒い中で窓を全開にしているのは我が家だけかもと思い煙を出すのですが、煙はなかなかに出てくれないものであります。野球のジェラ団扇(うちわ)などを使って煙を外に押し出しますが、長時間の窓の開けっ放しでやっと煙は薄くなる感じでもあります。窓全開の割には室温17℃と外気に比べて割りと温か。これは部屋に充満する煙が冷たい外気の侵入を拒んでいたのか、はたまた、単に外の空気は室内の下の方に下降気流で下に流れていただけかもしれません。煙は部屋の上の方ををモクモクと曇らせるものではあります。煙の正体は水と二酸化炭素で黒い煙であれば炭素も含まれているのかもしれませんが白い水蒸気みたいな煙であったと思います。

「雪空に 窓全開の 
煙追い出し 
寒さに震え 団扇をあおぐ」
センス無しm(_ _)mt。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月14日(日)
■けむはれた。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月15日(月)
■一日一文章トレーニング。

「ロバート・ウォールポールに繋がった」

毎日文章を書いていると、自然と何か見えざる手によって導かれているのではと思うことはあります。それがどのような道に繋がるのかは分からぬものではありますが、長いこと続けていればそれなりの真髄へと導いてくれそうな気もするセレンディピティでもある。今朝の起点はホレス・ウォルポール(英国)の「この世は考える人たちにとっては喜劇であり、感じる人にとっては悲劇である」と言っています。世の中の出来事を深く考えることができれば、それら出来事は人を面白おかしく笑わせるエンターテインメントになるのですが、それらを感じてしまうと途端に悲劇になると彼は言っております。私にはその言葉の真贋を判別する術はありませんが、その言葉は哲学的であり深い言葉のようにも思えます。ホレス・ウォルポールとはどのような人物かと言うと政治家であり、ゴシック小説の小説家でもあったようで、また、セレンディピティ(serendipity)という言葉の概念も生み出したのもホレス・ウォルポールであるようであります。セレンディピティの意味は何かを探している時に偶然それを発見する幸運な出来事を指します。政治家としては3流であると散々にコケ降ろされていたようではありますが、兄のロバート・ウォールポールが英国史上最初の内閣総理大臣(プライム・マイスター)と呼ばれる程に歴史に名を残す大政治家でもあったので、その人物と比較するとなると仕方がないことなのかもしれません。アン王女崩御によるスチュワート王朝の断絶により、急遽アン王女のいとこでもあるドイツで生まれドイツ育ちのハノーヴァー朝のジョージ1世に白羽の矢が立ち英国の国王として即位することになります。ジョージ1世は全く英語を喋ることができなかった為に、変わりロバート・ウォールポールが内閣総理大臣としての白羽の矢が立って20年の長期安定政権として国政を担うことになります。ロバート・ウォールポールが頭角を現した事件は「南海泡沫事件」というバブル経済の走りのような経済混乱を収拾させたことであるようだ。「南海泡沫事件」の概要は本業の業績が芳しくない南海会社(貿易会社)が巨額の公債引受を条件に株式発行の許可する権利を落札して、その株取引の投機によってお金を膨らましたことが事件の発端である。当時の英国は中産階級による大量の資金が市場にダブついており、それら資金が南海株に流れて株価の乱高下を起こす要因となります。1720年1月に100ポンドであった南海株は6月24日には1050ポンドの10倍程に高騰し、「南海会社規制法」が作られた以降は株価の急降下によって多くの人達が経済的な損失を被る大事件となります。アイザック・ニュートンも株価上昇で7000ポンド儲けた後に▲20000ポンドの損害を被ったようであります。南海会社のバブルの仕組みは下記のようになります。

1)株と公債の交換(バーター取引)は時価で行う。
2)南海株が100ポンドの市場価格が200ポンドの場合には、株と公債の交換も時価評価で行うので200ポンド公債1枚と南海株100ポンド1枚の交換となる。
3)南海株価の上昇により南海会社は100ポンドの利益を得る。
4)また、株式発行可能数は公債との交換額に応じて南海株を増やすことが可能であったので、200ポンド分の公債交換は200ポンド分の株式発行を可能となる。
4)南海株の発行数増加によって時価200ポンドの利益が出る。
5)この一連の100ポンド分の交換取引により100ポンド+200ポンド=300ポンドの利益を得ることが可能となる。

南海株は株と公債の取引をすればする程に右上がりにどんどんと上昇し、利益が出るとさらに株価も上昇するという本業の業績と全く関係のないバブル経済が生まれたのでありました。
毎日書く文章がなぜ?ロバート・ウォールポールにつながるのかなということは不思議なことではありますが、過去の出来事は大変勉強になる教訓でもあります。

 
■2024年1月15日(月)
■わん。
■2024年1月16日(火)
■一日一文章トレーニング。

「ホレス・ウォルポールの「物事を感じてしまうと悲劇になる?」という言葉が気になり考えていたら、もしかしたら、それは右脳左脳の違いなのかもしれないと思った」

そう言えば、「考えるな 感じろ」という言葉はホレス・ウォルポールの言葉と真反対な概念でもあります。
調べると、それはブルース・リーの映画のセリフでもあるようだ。
ブルース・リーはドヤっとした表情で「考えるな 感じろ」と言っております。
当然知っているブルース・リーであるものの映画を観たことはないので、それらについて語ることはできません。
ですが、スポーツなどをやっていれば、あれこれと考えなくとも心や体が自然と感覚的に動くことはあります。
恐らく、それらを感じて動くことが良いことに繋がるという考えなのかもしれません。
そして、「考えるな 感じろ」的な思考で物語がラストに向かって進行することは物語進行の定番であるような気もします。
最後の山場で主人公が一休さんようにあぐらをかいて頭をくるくると撫でながら禅問答を始めれば、物語のテンポが少しおかしな事にもなります。
そもそも、あの植物は「あーだこーだ」で拾おう、あの鳥は「どーのこーの」と写真を撮ろうと、一つ一つ目につく事柄を順追いながら拾っていたならば物語は脱線ばかりで全く進行しません。
それは、このような日記のようなものでもありラスボスも無ければ、糸の切れたタコのようにどこに向かっているのか全くわからない物語でもあります。

しかし、心に感じるままに進行したとしても毎度良い結果を生むものではありません。
先日の六角堂への道を振り返ると右往左往しながら目標の六角堂・六角石まで辿り着くことになりましたが、これは右脳左脳と直感と論理的な思考の葛藤であったような気もします。
右脳を使い「だいたいあの辺りだな」と自信を持って直感の感じるままに音楽の薪を燃やしながら進むと二条城に到着しますが、これは「考えるな 感じろ」的に動いた結果でもあります。
そのような言葉を語るブルース・リーのお姿はとても自信満々でもありますが、直感で行動する時の私も負けずと劣らず自信満々でありました。
そして、「あれっ?おかしいぞ」と気づいてから左脳を使って地図とにらめっこしながら方向修正して目的地に到着することになります。
これはホレス・ウォルポールの「この世は考える人たちにとっては喜劇であり、感じる人にとっては悲劇である」に近き教訓でもあります。
この言葉には英国人の皮肉や教訓気質がたっぷりと詰まった言葉にも思えます。
英国的な思考とは右脳・直感的というよりも、左脳・論理的お国柄で間違いないのかもしれません。

ところで、

昨日、道の分かれ道、真っ直ぐに進むか、曲がって進むかと悩んで、道を曲がって進むことにしました。そうして、しばらく進むと背の低い樹木の隙間から抹茶色の小鳥が見えて「メジロ」に遭遇します。メジロはぴょんぴょんと表に出てきて撮影日和の道の選択は正解でした。メジロとは都内でも結構目撃談のある珍しい鳥ではありませんが、私は全く見ることができない鳥でもあります。少し見かけたとしても一瞬の緑の影を見るぐらいで、未だ目の白さを肉眼で確認したことはありません。そのようなメジロが目の前に2羽いて、さっそく、携帯でパシャリと撮影すると日陰のコントラストの差で上手く撮影できません。ズームして画面内にメジロを拡大して収めようとしているとズーム画面にメジロが見えなくて戸惑っていると、工事のおじさんがわざわざ撮影している真横を通ってメジロは遠くに逃げてしまいました。工事のおじさんは逆方向に曲がっていったのになぜ?わざわざこっちに寄って来たのかとプンプンとなります。写真は遠目の全景を撮影したもので拡大すると何となくメジロとわかるような粗悪画質。メジロと私とはつくづく相性が悪いものであります。そう言えば、今年の冬はハクセキレイを全然、見かけておりませんが、どうしたのでしょうか?

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月16日(火)
■運送会社。
■2024年1月17日(水)
■一日一文章トレーニング。

「白い共生菌の観察日記」

今朝は室温が12.4℃と12℃台にまで下がります。
15℃台から13℃台まで下がると体感温度にも変化はありますが、13℃台から12℃台への変化は温度計の数字を見ないとわからない程の温度変化でもあります。
植物に共生している白菌たちは室温が13℃台まで下がると急に勢力を減退させましたので、15℃・13℃という温度帯の変化は植物の生育(白菌の生育)にも影響する温度帯でもあるのかもしれません。
分散して鉢の各部に広がり表面に露出していた白菌の多くは、見えなくなって土の中や鉢の中に潜ったようであります。
そのような白菌が消えた場所は黒菌がいない場所でもあります。
先日、多肉植物に白菌を感染させるようなスポットな場所でもあるので、白菌の都合からすると寒い空気中に露出する戦術的な意味はないのかもしれません。
ですが、今まで見えていた白菌が見えなくなると急に寂しく思うことは不思議なことでもあります。
すっかり頭の中まで白菌に侵食されているようでヤバイ。
菌とは本来、拭き取ってキレイに排除するのが人間らしい生活でもあります。
ですが、この白い菌は植物を生かす生命線の菌でもあるので仕方なきこと。
そう言えば、植物界のお嬢の受け皿に黄色の菌が発生しました。
白・黒・緑に黄色と何とも賑やかな菌が鉢の世界にあり、とても不気味なことであります。
家の中に多種多様な菌を飼って本当にm(_ _)mTなさいである。
顕微鏡があればどんなツラしているのかと気になるのですが一般家庭に顕微鏡などはありません。
虫眼鏡で菌を見るぐらいが精一杯でもある。
お金を出せば拡大ズームしてくれるサービスはあるのだろうか?
いやいや、知らないところから訳のわからない菌が送られてきて、それを分析するサービスとは毎日ホラー映画みたいな緊張感があるもの。
誰か電子顕微鏡を持っていないだろうか?いやいや、そんなのは誰も持っていないことだけは確信できます。
他の変化はこんなにも寒いのに植物が実をつけたこと。
2度目に付ける実の数は総数5個で再び花を咲かして実を付けることになります。
そして、本題の白黒菌の激戦地の鉢の表面では白が真っ白に濃度を上げて雪が積もったようになります。
以前は白菌と黒菌が混じり合ったようなグレー色をしておりましたが、こんなにも白菌が積層するとグレーな感じは全くありません。
白菌が攻めたゾーンが白菌濃度の上昇でオセロの白黒がひっくり返った状態。
新しく白菌が黒菌のテリトリーに攻め入ることも今はないので白菌と黒菌との戦闘は膠着状態となります。
ですが、白菌ゾーンの白の濃度は確実に上昇しているので力を溜めている感じは伝わります。
春からどのように変化するのか楽しみ。
白菌が一箇所に固まって濃度を上昇させる状態は、寒い冬を乗り越える為に菌の皆で集まって暖をとっているようにも思えます。
せっかく、黒から奪ったテリトリーを撤退して失うことは勿体ないこと。
菌が酵素分解や化学反応などの生命活動をするとそれなりに熱は発生するようにも思えます。
菌の濃度を高めて暖をとれば、それなりの熱を持つのでしょうか?次は菌の表面温度を計測してみましょう。
足の温度や水の温度、菌の温度まで計測するものが多くて忙しい。
ということで、
現在の状況は、寒くもなって鉢の表面に露出する白菌は減少しましたが、白い部分の濃度を上昇させて暖をとっている感じでもあります。
この植物が枯れてしまうと貴重な白菌の生命活動も失われてしまう可能性もあるので、そろそろ新しい植物を導入して白菌を感染させる必要性を感じています。
白菌を感染させるならば長持ちする樹木系が良いかな?
実家の庭にも移植しておく方が良いかな?
この植物を生かす白菌種は長く繋げていきたい菌でもあります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月17日(水)
■あぎょう〜うんぎょう。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月18日(木)
■一日一文章トレーニング。

「お得用サイズのごろっとした霧吹きの先端を模写して、”大きなのっぽの古時計”のリズムに合わせて文章を書こうとしたお話」

新調した液タブに慣れる為に壊れた霧吹きを模写します。“iPad使い”でもあるのでほぼ同じように難なく使えるのですが、日常使いの道具となる為には毎日使い倒してこその道具でもあります。そこで、目につくものや、思いつくものを片っ端から“描き描きぬりぬり”と描いていると「壊れた霧吹き」も模写してしまうものであります。昔の人は大きなのっぽの古時計という有名な歌を作ったように、壊れた緑色の霧吹きをテーマにしても何かそれなりの文章を書けないものかと思う魂胆でもあります。

「家にあった緑色の霧吹きはお得用サイズなのでパントリー棚に入らなく棚に引っかけて置いていた。
90日ぐらいは十分にひっかかったまま放置はされている。
その大きさはおじーの1.5倍ぐらいの大きさであろうか。(そんな訳はないわ)
そして、その重さは1円玉ぐらいの誤差かな。(そんな訳もない)
おじーが生まれた日に買ってきて・・・」
いやいやいや、ムリ無理ムリ、絶対に無理。
毎度の見切り発車で書き始めたのですが、最終的におじーを天国まで見送るような文章を壊れた霧吹きとダブらせながら書くような不謹慎なことは私にはできません。
そもそも、小さなこびとみたいなおじーって誰やみたいなお話でもあります。

因みに、大きなのっぽの古時計はアメリカのポピュラーソングであるようで、原曲の歌詞を見ると「おじーの時計は大きすぎて棚に入らなくて90年間放置されている・・・そのサイズはおじーの1.5倍で、重量はおじーの体重と同じで・・・その時計はおじーが生まれた日の朝に購入されてから時を刻み始めて・・・おじーのご自慢の一品であったのですが、おじーが死んだ時に止まってしまってもう動かない・・・チクタクチクタク・・・」という元気に楽しく歌っていた曲ですが何だか悲しい内容であります。棚に入らない時計や90年間放置だとか私達が知っている「大きなのっぽの古時計」と多少異なります。また、壊れる時計の寿命と人間の一生をリンクさせて表現することは、日本の蝋燭の大きさで寿命が決まっている昔話に近いお話でもあります。続編を書くとすれば、チクタクチクタクと腕利きの時計職人が我が家にやって来て、おじーの時計を修理するとおじーもピンピン、古時計のチクタクチクタクと軽快に動きだして「めでたしめでたし」という駄文しか思いつかないものである。こうして、古時計という他力本願を利用して一文を成すという野望は打ち砕かれることになります。

そもそも、なぜ?この霧吹きの先端を模写したかと言うと半透明だからであります。外皮が透明であると中身の構造が見えて面白いこともありますが、壊れた原因も一目瞭然で確認することができます。今回の霧吹きであればハンドルの動力を伝える部分がポッキリと折れていることを確認できます。もし、この霧吹きが不透明のプラスチック素材であれば壊れた原因も知ることもなくゴミ箱に「ポイッ」と捨てられてお終いでもあります。なので、それなりトランスパレント化の意義はあったと思われます。壊れた原因や箇所がわかったとしても、これを分解して直すこともありませんが、人生経験としての教訓を得ることはできます。それは力を伝える接触部分は使用や経年劣化などで壊れてしまうということ。もしかしたら、エネルギーの伝達が多い摩擦部分では人も物もポキっと折れてしまう呆則はあるのかもしれません。それらパーツが金属素材であれば強度さを増すということはできますが、これこそが「見える化」の真髄なのかもしれません。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月18日(木)
■「トン」と「くるりんッパ」。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月19日(金)
■一日一文章トレーニング。

「これから暫くは花の観察日記となるであろう」

いやはや、今朝もものすごく眠い。
この毎日の眠たさは何であろうかと思ったりもする。
前世が人間でなかったらしい「ガルル〜」なので\(草)/冬眠や昼寝が定番である体なのかもしれません。
年を重ねれば重ねる程に眠気も失せて朝方に変わっていくような話も聞きますが、今のところそのような人間らしい成長の気配も感じられません。
ホレス・ウォルポール先生の言葉を借りるならば「物事は感じるのでは無くて、考えろ」が定石でもあります。
人間っぽさを感じるのではなく、毎日の眠たさを考えてエンターテインメントに仕上げる必要もあります。
特に冬場は夜も眠くて朝も眠い。
夏のようにコケコッコーと目覚める感じでもなくて、「うお〜」と叫びながら熊が巣穴からもぞもぞと這い出てくるような朝起きでもある。
マイ生活はシエスタのあるような国に行けば、いい塩梅な眠気具合なのかもしれません。
一度、本場の正しいシエスタ体験というもの体験したいものであります。
お昼寝って何か良いね。(>_<)
かねがね、日本人の生産性の低さについて議論されることになりますが、これは睡眠も大きく関係しているのではないでしょうか。
ごろごろと寝ていたならば怒られることは常なこと。
楽してお金儲けをしても怒られて、粗利が多すぎても怒られる。
何かとせかせかと汗水を垂らして働いている感じを醸し出さないと、真っ当な大人であることが認められない世の中なところはあります。(楽ダメゼッタイぬ(に))
そのような、真人間なりた〜い養成講座の受講カリキュラムを考えながら、私は今日も寝ながら移動できるカプセルに乞うご期待しながら文章をパチパチと入力します。

ところで、

昨日、白い共生菌に支えられた植物が二度目の開花をしました。
根が生えていなかった切り花時代も数えると3回目の開花です。
元切り花が3回花を咲かすことはなかなかにあり得ないことと思うので、一本の切り花から何回もお花を咲かし生命を延命させる共生菌は千利休大先生にもお裾分けしたい白菌でもあります。
花火のようなそのお花はとっても変わったお花ではありますが、毎日の変わらない生活空間に変化を加えるものであります。
部屋に花が咲けば、笑顔の1つや2つは生まれるのかもしれなくて、家元のようなお花を飾ることはできなくとも家にお花を飾れば変化の少ない日常に彩りを加えることは可能です。
そして、そのような「話の種不足」な中から新しきテーマを発見します。
それはこの花を通して先人たちが作った花に関する諺の真贋を検証すること。
花にまつわる諺はたくさんあって、話に事欠すことはありません。
ご先祖様のことは信用していない訳ではありませんが、毎日の「話の種不足」の中で何を書こうかと心を悩ますことは日課でもあります。
よって、この花の諺の真贋を検証することは良い教材でもあります。
例えば、「花七日(はななぬか)」という諺がありますが、本当の花散るぬ期間はわずか7日間であるのかということです。
この諺が正しければ1月24日(水)までは花が咲いている予定です。
私の嗅覚が気になる部分は、なぜ?花七日を(はななのか)と読まずに(はななぬか)と方言みたいに訛って読むのか気になるところ。
私の予測では花は7日間でぴったりと散らないことも多いので、訛っておちゃらけていると踏んでおります。
なので、この新しいかわいいお花は人工受粉も行わずに自然に任せたままに花の人生7日間の行く末を観察します。
私は先日の倒語(とうご)話から「話のタネ」みたいな言葉を使うことを辞めました。
理由は「話の種」とは「話の種様」と様付けしたいぐらいに崇高な「話の種」でもあります。
「話のネタ」と下品に裏返して書けばせっかくのお話にも傷が付いてしまうような予感です。
これは私が感じるこの数年間の「一日一文章トレーニング」の中で唯一な成長した人間的な部分であるかもしれません。
※言葉の悪い私のことでもあり、「話のネタ」を完全否定することありませんので、時折使用する「話のネタ」であるm(_ _)m候。
ということで、この植物先生の一週間の様子を観察しながら「話の種」を拾いて、「話の花」を咲かすことができればと思っております。
アーメン。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月19日(金)
■ナイスキャッチ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月20日(土)
■一日一文章トレーニング。

「風流と実利による戦さは何千年にも渡り現在も進行中です」

花にまつわる多くの諺を読んでいると、花というキーワードが「風流」な価値観の記号であることに気付きます。花とは美しいものではありますが、そのような浮世離れたことばかりを言っていれば批判の対象になることは、この国のお決まりルールでもあります。※お花畑。「風流」な価値観とは時に価値の押し付けのようなものもあり、当然、鼻につくこともある。よって、昔の人たちは言葉上手なもので「花の下よりも鼻の下」(意味:花の下で花を眺めて風流を楽しむよりも、鼻の下の口を満足させる方が大切である)という諺を生み出します。この言葉の始まりは平安貴族に対する批判だったのかもしれませんが、風流を愛でる(見る)前に食べ物やおしゃべりでお口を満足させる方が100倍大切であると説くことは、なかなかに説得力あることでもあります。

一方で「花より団子」という諺もあります。こちらは少しややこしい諺だと思っておりますが、「花=虚栄の風流」を楽しむよりも、「団子=実利」を選ぶことの例えであります。ですが、「花より団子」には真逆な意味としての風流を解さない実利主義者を批判するお題目としても使うこともできるグレーゾーンな言葉でもあります。「風流」も「実利」もどちらも、快楽寄りではありますが「水と油」のように相反する価値観の違いを対比させるところが注目ポイントです。そして、この「風流」と「実利」のバトルは今も昔も変わらずに行われている事柄のようにも思われます。(現在は圧倒的に実利の勝利)

「風流」とは何なのでしょうか?

辞書を調べると、
「風流」とは俗っぽくなく、趣きがあること。
「俗っぽさ」とは世間一般の風習のことで、下品や低俗なことも意味します。

確かに、「風流」という言葉には文化的要素はあるものですが、同時に大衆文化を卑下するエゴもあります。これは若かりし頃の自分自身に置き換えると、皆が大好きな音楽を「それはちょっと違う音楽のだ〜」と「洋楽サイコ〜」とカッコつけていた時代にも似ています。それは自分の大好きな音楽以外の価値を認めることもなく、他者が持つ価値観に寄り添うことも当然しません。そして、何より、そのような「風流」目線とはなかなかの上から目線でもあるので他の価値観を持つ人達とバチバチと火花を起こすものでもあります。そして、面白いことに、そのような絶対的な音楽の価値観を修正するのも音楽であります。失敗して購入した音楽を貧乏性なので何度か聞いている内に徐々に大好きな音楽と変化する不思議。食わず嫌いなのか、思い込みなのか、視野や価値観の拡大は同じ音楽によって成されることになります。

ならば、「実利主義」に走れば、それは正解なのかと言うと、それはそれで間違いであるような気もします。現在の世の中を見渡しても若干面白みを少なく感じるのは文化が花開いていなことが理由かもしれないと思うからです。時は安土桃山、元禄、化政文化と勃興する時代とは町民文化が花開いた時代であります。今も、何十億のタワマンや高級外車にハイグレードな何々はあるとは思いますが、それはそれで良いのですが多くの人々を焚き付ける令和文化の代表と呼べるものではありません。恐らく、何かしらの文化が花開いているのであれば、風流な事柄が闊歩して、経済も活況で人々は安定を第一に求めたりはしません。その意味に於いて、現在の世の中は隅々まで「実利主義」によって満たされていると言っても間違いありません。奇抜な服装の子が道を歩いていると私は何だか安心します。田舎であれば、「そのような格好で歩かないで」と親に怒られるものではありますが、東京に住んでいれば他人から怒られることもありません。ですが、街を歩けば今や真っ黒でグレーで昔の東欧の街のような停滞感でもあります。そして、何より、何かよくわからないデザインなものにも価値を見出すことは見える世界を拡張することでもあります。よって、「実利」も「風流」もどっちもエゴであることがわかります。この失われた30年をざっくりと総括すると最初の10年はバブル経済崩壊の後片付けで経済のポンプ役でもある銀行が萎縮して新しい発展の芽が削がれた。小泉改革によって新しい息吹が芽生えかけたと思えば、今度の新芽は花を咲かす前に司法の正義の鉄槌により破壊された。さらに、東北の地震の後は東京の空気感はガラリと変化してしまった。そして、安倍政権の意味不明な美しき保守主義の安定によって「実利」という実はますます膨らんでいるように思われます。「実利」であることは無意味なものはこの世の中に必要なきことと同じです。古き諺から、昔から変わらない「風流」と「実利」に戦歴の後を見出すことができましたが、少しでも「風流」な巻き返しが起これば少しは未来は拡張して広がるのではなかろうかと思ったりもします。なので、「風流」と「実利」が対峙したならば少数派かもしれませんが「風流」である方を支持したいと思います。

因みに、

はじめて「花より団子」を耳にした時、私は髪の毛を団子頭に纏めて花の髪飾りを付けた状態をぼんやりと頭に浮かべておりました。(>_<)

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月20日(土)
■未来の配達車両。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月21日(日)
■一日一文章トレーヌング。

「私がここ最近で学んだ人生の学びは「ぬ」の否定形で訛って活用することである」

受験真っ盛りなこの時期に花散る日数を数えるこの不謹慎さをお許し下さい。
アーメン。
観察中の花が散る日数を数えると僅か4日。
1月18日(木)花が咲き。
1月20日(土)おしべが抜け落ちて。
1月21日(日・今朝)花が散る。
あ〜なんとも儚い4日間の諸行無常。
冬の空気は冷たくて室温も低温なので余裕で10日間ぐらいは咲くだろうと思っていた予測は完全外れます。
「ことわざの粗(ARA?・あらっ?)を見つけてやろう」と思う私の悪巧みは完全に打ち砕かれます。

正確には7日間ではなく4日間ですが花咲く日数が短かったことに間違いはありません。
なので、「花七日(はななぬか)」とはだいたい正しいと思います。

「花七日(はななぬか)」にもう一つ学びがあるとすれば、「ぬ」の否定形で訛ること。
自信のないこと。
完璧性を担保できないこと。
「Maybe」な全ての事柄に「ぬ訛り」必須です。
私は「ぬ訛り」の「ぬ」の否定を入れ込むことで如何様にも逃げ道を作ることの可能性を見つけます。
この「一日一文章トレーニング」であれば「一日一文章トレー(ヌ)ング」と訛ることが正しい。
そして、私が会話途中に突然、「ぬ訛り」で訛り始めたならば、それは確証の持てないことを話しているのだなと思って間違いない。
世の中とは確証性のない事柄で溢れております。
左に進むのが近道であっても、道を真っ直ぐに進んでしまうのが私達生物の宿命でもある。
世の中にはそんな不確実性が溢れているとすれば、「ぬ訛り」で中庸を保つことは必要なことだ。
それにしても、良い「ぬ」否定を見つけてしまったものだ。
しめしめ。

花の芽はあと4つあって、次の花の開花時には人工受粉で花咲く日数に変化が起きるのかも試してみたいと思います。

ところで、

花の命とは「花七日」と儚い夢でもありますが、「花一時人一盛り(はなひとときひとひとさかり)」という諺も見つけます。
これは花が咲いて盛んになる時期は一時の間でもありますが、人の隆盛(りゅうせい)もほんの短い間であると言っています。
「花は咲き」で「人は盛り」と花の短さに例えて両方短いことはとても悲しいことでもある。
人生の花咲く瞬間も短いので、サイクルの短い花で人生を例えて、人生をもっと有意義に生きろと言っているのかもしれません。
よくよく考えてみると、この白菌が感染した花でも3度目の開花をしています。
切り花で無く根を下ろした植物であれば、何度でも花を咲かすことは可能だと屁理屈は浮かぶものだ。
そして、私の人生に「人一盛り」な時期があったのかと考えてもよくわからない「人一盛り」でもあります。
花の場合は「咲き」であっても、人は花を咲かせないので「盛り(さかり・もり)」が大切なようである。
ここは人が人らしくある為には、もっと人工的にもりもりと何かを盛って”てんこ盛り”の(ぬ)事にする必要がありそうだ。
まだ知らぬ「人一盛り」。
これからやって来るかもしれない「人一盛り」なビックウェーブをイメージしていると、年齢を重ねてから耳にする「大器晩成」や「福耳」なお言葉に似ており、私には何だか少し切なくてムズムズとした気分にさせるものである。
アンバサー。(byデモンズソウル)

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月21日(日)
■かわいいモンスタートラック。

左:イカルドの家 右:ボブの家
*デスクトップ画面用の画像です。

パトリックの家
■2024年1月22日(月)
■一日一文章トレーニング。

「素敵なお家を部屋に飾ると夢の世界がパッと広がるような気分になるものだ」

先日、納屋を漁っていたならばスポンジボブのお家を見つけます。
大きさは20センチ〜25センチ程ある大きなお家。
以前に購入しておいて、良かったと思うお家です。

左の青いラメ入りのモアイ像みたいなお家はイカルドの家です。
頭の上にハトカーを置いてみたならば、まるで既製品であるかのようにしっくりと収まったので、さっそく、ハトカーはマスキングテープで固定します。
鳥が木の上に止まるように、木の上に鳥を止まらせたく思うことは人の持つ一つの習性なのかもしれません。
イカルドのお家は頭の上の回転テーブルをクルクルと回転させることで眉毛と目を回転させることが可能だ。
家の表情を変化させることのできる家とは子供の夢の家をそのままカタチにしたような家でもあります。
そのようなお家を部屋に飾ることは子供の頃の夢を部屋に飾るような気分である。
もし、ここに見えない世界があると仮定するならば、このような顔っぽい家の下にはさらに大きな体が埋まっているものであります。
敵の襲撃や緊急時には「ズズズズン」と土の中から這い出てくる身長2メートル超の巨大ロボットとなる予感。
巨大なロボットとは少し憧れるフィギュアでもあります。

そして、右のオレンジ色のパイナップル型のお家はボブの家。
煙突付きで、素敵なバランスの窓がご愛嬌。
スベリ台で外出することもできて、これまた子供の夢が詰まったようなお家である。
確かに、パイナップルの形状とはコビトの家を彷彿させるような果物でもある。
これら家には扉が付いているので、ガチャリと「こんにちは」と扉を開閉させて遊ぶこともできます。
さっそく、家の中に王と騎士を配置すると、中世童話の微笑ましき舞台装置となる。
イカルドとボブの家をブリッジする青い花のようなものはよくクルクルとよく回転するもので、ピンク色のクラゲを吊るすことが可能だ。
しかし、クラゲを接続すると取り外すのが固くて大変そうなので取り付けておりません。

聖パトリックのお家は単なる半球の造形物。
少し、物足りなく思われる造形物のお家ではありますが、パトリックはヒトデでもあるので何かの下に潜ればそれはそれで立派なお家となります。
パカッとかぶれば、それはもうお家とはそれはとても新しき概念でもあります。
そのようなパトリックのお家でも避難所よりも数倍良いお家であることは間違いないこと。
そう言えば、ヤドカリなどはお家を背中に背負って移動していると考えると狂気じみた面白さがあるものだ。
回遊魚のようにお家を持たず動き続ける生物もいるとは思うのですが、生き物にとってのお家とは前述の布団みたく一日の始まりのグランドゼロのようなものだと考えることはできます。
「一日は家から始まって、家に終わる」
そのような一日のプラス・マイナスをゼロにできる唯一の装置が家でもあります。
パトリックのお家にはクラゲを飛ばせる機能が付いているので、イカルドやボブのお家を攻撃して遊ぶこともできます。

「あ〜なんて素晴らしきお家なのでしょうか?」
フィギュアを飾ることも良いのですが、家の中に家を飾ることもとてもオツなことのようにも思われます。
そして、そのような家がカラフルなイカした配色と造形であることで味わい深さも爆上げします。
暫くはスポンジボブのお家を部屋に飾りて賑わいを持たせませう。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月22日(月)
■顔(KAO)劇場「動く家」。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月23日(火)
■一日一文章トレーニング。

「WalPole3000」
<※注意:架空の物語のお薬でそのようなものは存在しません!!>

今回はホレス・メディカル社の「ウォルポール3000」をご紹介させて頂きます。
こちらのお薬は頭の回転を促進させる薬剤となります。
1回1錠、食後に飲むことで朝起きの頭がしゃっきりと明瞭活発に活動させるお薬となります。
薬を飲むことによって、「大先生」→「ダンディ」→「かっこいい」→「K大学嫌い」のように、キーワードを結び繋げていくシナプスな記憶の電気信号を素早く補助をする薬剤となります。
きみぃ〜はいつも一言が多いんのだよ。
最後のキーワードだけは広めんでくれよ。(ははは〜)
おっしゃるとおりでございます。
承知つかまりました〜。(直角パシッ)

ホレス・メディカル社は創業10年未満(みまぬ)のまだ新しいベヌチャー企業ではありますが、紅茶ぬ含まれる成分が脳の電気信号を活性化させることを発見しまして、こぬ度「ウォルポール3000」として製品化しました。
ホレス社の名前の由来は約300年前の英国の政治家で小説家のホレス・ウォルポールの名前に由来しております。
ホレス・ウォルポールは「この世は考える人ぬとっては喜劇であり、感じる人ぬとっては悲劇である」という名言を残した人物でもあります。
きみぃ〜何で急に訛っておるのだ。
いやはや、ついつい田舎訛りが出てしまいました。
しっかりとした滑舌でご説明させて頂きます。

その薬品の効用から社名と製薬名をホレス・ウォルポールから名付けたようであります。
しかし、紅茶の成分から発見された成分でもあり、英国の紅茶消費量が一日平均5〜6杯、年間消費2.5Kgと、もともと頑固で理屈っぽい英国人はたくさん接種する紅茶の成分でもあるので英国国内では効果薄でもありました。
ただ、面白いことに、この「ウォルポール3000」はアジア人に対して絶大な効用を発揮するようでありまして、その理由はいろいろと研究されているのですが、空気感に流されやすいアジア人の気質と、理屈っぽくて面倒くさい西欧人の性格の違いが「ウォルポール3000」の摂取量にも関係するのかもしれないとの報告もあります。
「ウォルポール3000」は「感じるな・考えろ」というホレス・ウォルポールの名言のように、空気感を感じ取って、考えることもなく物事を受け入れることに何かしらの拒否反応を示すお薬となります。

きみぃ〜この業界もこの社会も国も空気感で出来ているというのがこの世の中の仕組みであることをきみぃ〜は知っているのかね。
患者様が賢くなり考えでも始めれば、そりゃ世の中に困ったことも多数も増えるというものである。
空気感とはベースでもあり、そのような薬の採用はなかなかに難しいものである。
おっしゃるとおりでございます。

このお薬には思いがけなく付随する副効果も報告されております。
それをセレンディピティ効果と呼ばれており、薬を接種することにより、新しい発明などの多数の閃き効果が多数報告されております。
それは恐らく考えた分だけ何かしらの新しい発明も生まれるだろうという単純な憶測でもありますが、次のノーベリッグド賞の最有力候補との噂もあります。
きみぃ〜あの賞はいかんよな〜。

そして、
何よりK大学病院様からも、すでに3セットのご注文を頂いております。
・・・
きみぃ〜〜〜では、うちも6セット程貰っておこうか。
ありがとうございます。(直角パシッ)
次も新しいものにも期待しているよ。
お買い上げ、ありがとうございます。(直角パシッ)

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月23日(火)
■かわいい六角形を考案中。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月24日(水)
■一日一文章トレーニング。

「私の考えた 考えることと感じることの違い」

人々が物事に考えるようになる薬「WalPole3000」を物語風に検証しましたが、いやはや、「考えれば喜劇、感じれば悲劇」となりましたでしょうか?

大抵の名言とは文脈のわからない一から二行程の短い文章であります。ホレス・ウォルポールの「この世は考える人たちにとっては喜劇であり、感じる人にとっては悲劇である」との名言がどのような背景や文脈で語られているものかについては知る由もありません。それは、もしかしたら、お手伝いさんや秘書な方々が「あの人はこんなことをいつも言っていたよー」という発言が切り取られただけの話しかもしれませんし、または、作品のどこかでそのような一文が存在しているのかもしれませんし、はたまた捏造なのかもしれません。それでも、何かしらの名言とは文章や言葉の中から自ら飛び出して独り歩きするところが面白いところ。この短い文章が独り歩きして西欧の島国から極東アジアの島国に住む私の興味をそそるだけでも、その言葉に人々を魅了する何かが詰まっている証拠でもあります。

私の考えた「考えること・感じること」の利点と欠点。

一億総国民が頭で「考える」ことは国全体で俯瞰すると調和の無いバラバラのベクトルとなります。これは意見の相違で分断を招くようで纏まりのないギスギスとした欠点のようにも思えますが、一つの難問に対して1億総国民がシミュレーションするとなれば、そのいく人かは最適解を見つけ出す可能性は高いとも言えます。考える人の頭数分だけ最善の方法を知るという未来の可能性を広げることになります。しかし、その最善の選択肢が実施されるかどうかは別問題でもあります。多数決だけが常なる正解ではないという多分、説得スキルや真贋を見極める目が必要とされる案件でもあります。そもそも、人と人とは最初から別々な存在でもあります。私は私であってあなたではなく、私の物は私の物であり、私のものはあなたの物ではないというような当たり前のことです。分断どうのこうのと言うお話は眉唾に近いお話しかもしれなくて、一人一人が物事を考えることの必要性を説いているのだと思います。

一方で考えることを捨てて「感じる」選択肢とは、群集心理的な「空気感=フィリング」であるように考えました。これはあなたと私が同一であることに近き感覚でもあります。私の頭の中からだいぶと消えましたが、パンデミック時のあの空気感とは正にそのような悲劇でもあったように思います。これは全体を覆う雲や霧のようなふわふわとした塊となって一方向に動く大きなベクトルです。このような大きな一方向に進む力学の中では、もはや個人の意見などは不必要なものとなるので、ホレスの言う悲劇とは正にそのようなぼんやりとした力学に事柄を預ける悲劇のことを言っているのかもしれません。感じることの利点は考えるという手間を省けるという一点です。わからないこと、知らないこと、そのような面倒事を誰かや、全体の空気感に任せて乗っかれば楽ちんであることは間違いありません。ですが、ホレスは「感じるな・考えろ」とそれは間違いであると言っているのだと思います。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月24日(水)
■惑星資源探査ロケット。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月25日(木)
■一日一文章トレーニング。

「マイエンジンは自画自賛で間違いありません」

「オッス」と液タブの扱いも徐々に板につきます。
しかし、毎度、間抜けなところがあるもので、それは年末セールで購入したクリップスタジオVer.2をアップグレードせずにVer.1のまま使用しておりました。(>_<)
使っていて、あれっ?と気づく、アプリのバージョン。
恐る恐る更新ボタンを押してみると、Ver.2にアップグレードされました。
購入時点で全て更新されていると思っていた変な勘違いなのですが、Ver.2になっても何が変化したのかわからない不思議でもあります。
しかし、年末のセールで一緒に購入したTABMATEは大変重宝しております。
これは絶対的に購入して良かったもの。
液タブで絵を描いている時にわざわざキーボードまで戻る手間は横着人たちにとって面倒なことでもあります。
そのような一手間を使っていない片手で完結できることは大変便利で、間違った線をワンボタンで消去、線幅もボタンを押し押し液タブ見ながら変更して自由自在です。
iPadのプロクリエイト用にもこの手の端末を欲しくなります。
おぼつかない手つきで「このボタンはアレでこれはコレで」と考えながら操作していると、普段全く使用していない脳みそ部分が使われているように思う良端末であります。

ということで、

六角形のキャラクターも何となくかわいくキャラ立ちしてきました。(自画自賛)
このように何となくまともに見える感じになる時がとってもうれしくなる瞬間でもあります。
よくよく考えると「自画自賛」とは素晴らしき言葉でもあります。
意味は自分で描いた絵に自分で賛美を記す少し痛い言葉ではあるのですが、自分でかわいいかわいいと思っていると、冷静に見てあんまりかわいく思われないキャラクターであっても何となくかわいく見える満足度はあります。
このような「自画自賛」という言葉があるくらいなので、昔からたくさんの「自画自賛人」が生息していたのだと思われます。
そもそも、古き時代であれば、自分の描いたものを発表する場所と言えば神社仏閣の境内に奉納するぐらいの掲示板ぐらいしか思い出せないものであります。
なので、自分で描いて「自分でええな〜」と言っているのが日本の伝統美術の基本でもあるような気もして、よくわからないものを作り、それを自画自賛しながら楽しむことが鉄板なのかもしれません。

まだまだ、ヒーロー感はありませんので引き続き開拓する必要はありますが、この手の開発には大変な時間がかかるものです。
どのくらい時間がかかるのかと日記を遡り数える必要がありますが、シクロヘキサンがどうのこうのと意味不なことを言っていた頃からなので時給に換算するとそれなりの時給が加算されるはずです。
シクロヘキサンをまだ覚えていることにもビックリなのですが、それは「そのようなコストを払っても生み出す価値(愛)はあるかい?」と実利主義者な女将が這い出てくる場面でもあります。
六角形はそんな実利主義者共をバッタバッタと斬り倒していくお話で良いと思う。
実利とはとても大切なもので間違いありませんが、人間とは経済効率だけでは生きていないように無駄な部分をたくさん抱えて生きている生物でもあります。
もし仮に、そのような実利のみにスポットライトを当てて生きるとするならば、生物としての当然、無駄なものを持つ自分自身とどのように白黒の決着をつけるのかと言うお話でもあります。
戦え風流なシクロヘキさん、オレの代わりに実利な化け物をやっつけて下さいな。
ぞなもし。

 
s
*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月25日(木)
■カクカクな世界を覆う夕焼け。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月26日(金)
■一日一文章トレーニング。

「我が家には2つの大切な棒がある」

先日、柿の種をポリポリと食べていたら案の定、奴はころころと床に転がって行方不明となった。そして、ダイニングテーブルの裏側を覗き込んで探すものの柿の種は見つからず。どこに行ったのであろうかの柿の種である。柿の種が異次元にワープして地球の裏側で寝ているブラジルのあんちゃんのお口に落ちたならば、それはそれで良いのですが部屋の隅で人知れずカビだらけになるのは嫌なものであります。なので、椅子の上から立ち上がり床に落ちた柿の種を探すのですが、柿の種は見つからず。机から落ちるお菓子類の軌道とはいつも思うのですが、恐らくNASAの科学者でも読めない複雑怪奇な軌道で転がるものであります。視線の片隅で転がった方向とは真逆に転がることは度々あることで、反対方向もしっかりと探索します。それでも、やっぱり見つからない柿の種。冬の冷たい床に顔をギリギリまで近づけてLEDライトで棚の下の隅々の隙間まで探索範囲を広げます。そうすると、棚の下の暗闇に柿の種を見つけます。棚の奥の深いところにホコリまみれの柿の種が一つ。本当に手間のかかる柿の種であると思いながら、どうしたらそんなところに入っていくものか?と不思議に思います。もし仮に、私がわざとその場所に狙って柿の種を落としたとしても絶対にそこには転がらないと思う絶妙な場所です。さて、どのように取り出しましょう。

我が家には2つの大切な棒があります。
一本はマジックハンドで、もう一本はボー・ピープが持っている魔法の棒である。
これらは全家庭に必要な棒であると思います。

マジックハンドは握力を使って、棒先端にある工業ロボット風の手をガシガシと動かして手の届かないものガッチリと掴める道具です。玩具のようなものではありますが、年に2〜3回役立ちます。もし、このマジックハンドがないとすると棒や長い定規に両面テープを貼り付けて対象物をくっつけて取り出すか、落としたこと自体を忘却して引っ越し時や棚替え時まで待つか、もしくは、棚をズリズリと動かして落ち込んだ物を取り出す一種のプチ大掃除みたいなことが必要となります。

人や物が落ち込んだものをすくい上げることは大変なことでもあります。自力で戻ってこいとも言えなくて、救い出してくれる人がいるだけの幸せはあるものだと棚隙間に落ちた柿の種を救出する方法を考えながら実感するものであります。結局、柿の種は救出されたとしてもホコリまみれでゴミ箱にポイッとされるだけでもありますが・・・自分事として考えると落ち込んだ時には自力で這い上がるのが定番でもあります。そのような訳でマジックハンドは隙間に入り込んで落ちたものを簡単に取り出してくれる心強い味方で大変重宝します。マジックハンドは一家に一本、家庭の必需品で間違いありません。しかし、今回のような棚の下の小さな柿の種を取り出すのには少し無理がある。

そこで、もう一本の棒がボー・ピープが手に持っているプラスチック製の棒です。ボー・ピープは以前にも書きました顔色の悪いフィギュアたちの血色を塗り直す為の血色の良さ基準となるトイ・ストーリーに出てくるフィギュアでもあります。何度も箱に仕舞われる危機を迎えながらも、我が家の棚の一等地に飾られています。ボー・ピープの手には約38.5センチの羊飼い棒があって緊急時にはその棒を手から拝借して使用することになります。この棒の良いところは、先端がS字フックのように曲がっているので落ちたものをそこに引っ掛けて引っ張り出すことが可能です。柿の種であれば隙間に差し込んでS字フックな部分に引っ掛けて引っ張るだけでOK。そのようにして、床に落ちて棚の隙間に落ち込んだ柿の種を無事に救出することができました。良かった。良かった。

絵は昨晩描いた。
今年に入って夜時間を有意義に使うことができているような気もします。
実際の柿の種は覗き込まないと見えない棚の隙間の奥の奥にあって、サンキュー ボー・ピープの棒であります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月26日(金)
■攻防。

*デスクトップ画面用の画像です。

■2024年1月27日(土)
■一日一文章トレーニング。

「イワシLOVEニーゼロニーヨン」


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私はスーパーの人がイチオシしている商品が気になる性格でもある。
そのような、お店イチオシの商品を手に取ると「買うのか・買わんのか・いやいや買いでしょう」と脳内に堕天使がくるくると舞い降りてきます。
勿論、お店の信用度にもよるのですが、旬のものであり、脂も乗って、今お買い得となれば、お店推しのビックウェーブに乗らない手はないのとの考えるタイプでもあるので「買い」ます。
それは、一方でお店の推しにホイホイと乗ってしまう鴨ネギなところを感じさせますが、それはそれで良いのです。(たぶん)
お店のオススメに乗っかって損したと気分になることはあまり無く、大抵は自分の趣味嗜好を乗り越えて、世界観の拡大や視野の拡張が行われる良い結果になることも多い。
恐らく、毎日営業のハード業務な中で、お店の担当者が「コレがイチオシだ〜」と叫ぶムンクな気迫を感じるのがお店のイチオシ推しです。
先日であれば、まるまると太ったイワシであり、昨日であれば、ワカサギである。
若いサギとは変な名前でありますが、氷に穴を開けて魚釣りをするワカサギなんて昨日はじめて食べましたが揚げてポリポリと食べたら美味しかった。
今日はそのままフライパンで焼く予定。

イワシは国産の17センチ程の大きさで、まるまると太って、まるでデフォルメ魚のようなかわいらしさのあるお魚であります。
一見、どのように食べるのだと思う魚なのですが網で焼いて食べると激ウマです。
骨まで食べることのできる美味しさで、たんぱくな身はぷりぷりとして大根おろしに醤油をかけるだけで、ここ数年来で一番美味しく感じるお魚さんでもあります。
「イワシが最ウマである」と公言すると、「君ぃ〜は普段どのようなお魚を食べているのかね〜」と味覚を疑われてしまう案件でもありますが、私はイワシが大好きなのです。
頭の方の苦味もまた美味しくて、あの魚の苦味は子供の頃は苦手なのですが、大人になるとお酢の酸っぱさを楽しむように脳みそを刺激する謎の魚の苦味を愉しむものでもあります。
そして、このイワシが巨大魚であれば文句なしなのですが、ぺろりと一瞬で平らげてしまう美味しいお魚となります。
イワシは弱い魚と書いて鰯で、痛みやすい魚の由来のようです。
調べると外国のオイルサーディンもイワシであることを知りました。
スペイン料理のお魚も美味しいので、あれらお魚もイワシかなと思うとスペインでは「鰯の埋葬」という素敵なお祭りもあるようです。
もうすぐ、節分でもあり扉に飾るお魚の頭も鰯であるので、イワシさんとは私達の生活に密着したお魚さんでもありますが、本郷界隈にも謎のイワシ屋さんがたくさんあります。
ただし、イワシは食用の他に肥料や飼料ということで、私の大好物の大豆も食用の他に肥料や飼料ということで、どうやら、私は飼料や肥料にする程に大量に穫れる食べ物が好きなようでもある。(トホホ)
高級なものであれば数の子は大好物なのですが、信じられないことに、お寿司はあまり好きではありません。
お寿司で一番の好きなものは「スタミナ巻き」で、もう食べることはできないのですが実家の近所のお寿司屋さんが納豆に山芋、まぐろに紫蘇やアボガドみたいな何か?緑のものをキレイに巻いたスタミナ巻きが一番美味しいと思う邪道な寿司痛う(ツー)でもあります。
なので、お寿司の良さがわからないような者に、真の魚の良さは語ることのできない風潮は私には少しばかりの心苦しゅうさを感じさせるものであります。
イワシのあの丸さや、目に藁を通しているあのような粋なラッピングにも食をそそる何かがあるのかもしれませんが、やっぱりイワシは美味しいな〜と思う今日この頃です。
いわしうま♪

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月27日(土)
■カンパイ♪
■2024年1月28日(日)
■一日一文章トレーニング。

「新感触を得てしまった(>_<)」

「私達が恐れないといけない唯一なことは恐れそのものである」byルーズベルト
そうなのだ〜、恐怖とはその恐れを克服して打ち勝った時にこそ真の勇気が生まれるものである。
我何時も恐怖を恐れず草。
勇気の杖を持ちたりてそれを打ち砕く草。
青き衣に身を包みて金色の野に降り立つ草。
(我5章沈黙草より)

恐怖とは足音を立てずに忍び寄ってくるものであります。私達はその存在に気づいた時には時すでに遅し。そこに残るのは悲鳴であり、私やあなたの恐れおののく真顔である。未来を予言するとならば、恐怖発動はすでにあなたの足元まで近づいて発動1分前なのかもしれない。備えろオレオレ・・・と文章を書いていたならば本当に地震がやって来てビックリなのだ。地震がグラグラと小さな揺れから大きく揺れと「うわっ〜」と怖くとなるタイプの地震です。

ということで、

何の話しなのかわからない怖いお話ではありますが、昨日、外の植木鉢を部屋の中に入れました。工事の都合上、ベランダの植物たちを室内に入れる為の訓練である。外の鉢植えは冬でもあり見栄えも汚くて観葉に耐えうるレベルに達していない野生感がある。そのような鉢をお家の中に入れるとなると植物の散髪も必要となります。とりあえず、目に見える汚れをパンパンと拭き取りキレイにします。鉢を持ち上げて100均一で購入した室内の鉢受けに置くと、鉢の下にナメクジがおった。恐怖!さっそくたっぷりの食塩をかけてやっつける。ナメクジの怖さは何とも不気味な姿でもありますが、調べると殻を背負ったのはカタツムリで、殻を背負っていないものがナメクジであるようだ。デンデンムシムシ・カタツムリとは全然怖く無くて触ることもできるのですが、マイマイと地面を這うナメクジは怖いもので絶対に触ることは無理な生き物でもあります。因みに、フランス共和国パリの都の象徴でもあるエスカルゴはサザエに近い生き物であるようだ。若干汚いベランダの鉢植えを昨晩室内に取り入れて、生姜のソーダ割りドリンクを飲みながら、まったりと夜時間を過ごしていると暗い部屋の下に置かれた鉢植えの受け皿に葉っぱが落ちているのが見えます。ちょっと環境が変わっただけで葉を落とすようなやわな植物なんてあるものだと思いながら、その落ちた葉っぱを拾おうとすると「あれっ?」なんかぶよぶよとしています。そうです。その葉っぱと思った物体はナメクジでした。

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無理ムリ無理。恐怖。怖い。勇者秒で退散。さっそく、テイッシュで「ふぇ〜」なナメクジを掴み取り、たっぷりの塩をふりかけてゴミ箱に捨てる。ナメクジを握りつぶす勇気は例えティッシュの上からでも決して出来ない。たっぷりの盛り塩でお清めて天国に行ってもらうことにします。手に残るあの「ブヨっ」とした感触は記憶に残る感触でもあります。そのような記憶に残る感触には以前にも書きましたが、中学校時代に家のステレオコンポの前でノリノリにロックを聞いていたならば、足の親指に一筋に飛んでくる黒い物体があり、そんなGが私の親指の裏にしっかりと止まった時に近い感触です。カナブンやカブトムシがしっかりと掴んで離さないように、反抗期で尖った毎日を過ごしていた私が「ママー」と叫びながらひっくり返って泣いていたあの感触は未だ消えない記憶でもある。そして、トラウマな感触第二弾。葉っぱと思いて掴んだならば葉っぱはブヨっとしたナメクジだった感触も絶対に忘れない感触遺産登録です。マイマイとは漢字で「舞舞」と書くようで、ご先祖様も恐らくマイマイを触ってしまい舞い舞いと私のように舞って驚いていたのだと思います。世の中にはこんなにも怖いことがイッパイであるのに、あのルーズベルトなおっさんは本当にとちった迷言を語っているものであります。私の中に新たな怖い感触が追加されてしまいました。アーメン。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月28日(日)
■パン♪コンサート。
ドレスコード全員コックさんの格好でご来場下さい。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月29日(月)
■一日一文章トレーニング。

「ヒイラギ・イワシの頭飾りとイワシの埋葬は似ているような気がします」

話の種を毎日探していると日本の風習も気になるものだ。そのような風習をよくよくと考えてみると西欧文化との繋がりを感じることも多い。西欧と極東の島国、遠く離れた地域に位置していても、何となく似ているものはあります。そんな似ているものを発見すると地球は一つに繋がっているのだと思う。

例えば、節分のイワシの頭に柊(ヒイラギ)の葉っぱに刺して戸口に飾る風習は、西欧の柊のクリスマス飾りにイワシの頭を飾っているようなものであります。洋の東西を問わずトゲトゲと痛い柊の葉っぱは邪気を退散させる魔力があると言われております。それを戸口に飾ることで無病息災を願うおまじない的なコトも同じ。ただし、日本の場合にはグロテスクにもイワシの頭を戸口に飾ることとなりますが、それはそれで「イワシの埋葬」のお祭りと似ているようにも思う。

柊は「疼木(ひいらぎ)」とも言われるトゲトゲした葉っぱを持つ木です。西洋柊と日本固有種の柊との違いは日本に自生する柊は赤い実をつけなくて、白い花を咲かせるぐらいの違いです。どちらもトゲトゲした葉っぱを持っているのは同じ。今年の節分は2月3日(土)なのですが、節分とは「立春の前日」を節分の日と定める季節の変わり目を示す暦です。大抵のご家庭では豆まきや恵方巻等で鬼を退散させるイベントではありますが、魚の頭に柊の葉っぱも飾るという風習も全く見かけないものではありません。正月にクリスマスツリーのように常緑樹の門松を飾りつけて年神様をお迎えしたと思ったら、今度はまたクリスマスっぽい柊の木を使って鬼退散の行事を行う面白さはあります。

先日も書きました「イワシの埋葬」というお祭りはすこす気になるお祭りでもあります。さっそく調べると、これはスペインのお祭りで儀式の最後に悪徳や放蕩行為を行った人物や旬な事柄をイワシの象徴に例えて造形物を作り、それを盛大に燃やす行事です。四旬節(しじゅんせつ)の灰の水曜日に行われるキリスト教のお祭りで、四旬節とはキリスト復活までの40日間の絶食する時期を意味しています。お祭りの最後にイワシのオブジェやその他の造形物を燃やして埋葬すると、炎によって燃やされ灰となったイワシが力強く復活して、それによって新たな変革された社会も復活するということになるようであります。

ここで気になるのが、

キリスト教の四旬節の時期と節分の時期に似ていること。また、私の勝手な見立てだとイワシを燃やすというイメージは柊の葉っぱを炎として考えた時に燃えたイワシの図像そのものでもあります。これはあくまでも見た目だけのことで何の確証はありませんが、「ヒイラギ・イワシの頭」は「THE日本版イワシの埋葬」ではと勝手に思ったりもします。日本家屋とは木製で燃えやすいので火気厳禁です。火を使い派手に燃やすと大火事になるかもしれないので「ヒイラギ・イワシの頭」を玄関先に飾ることでイワシは燃やされて何か新しく生まれ変わるイワシの埋葬的な表現をしているのでは?と思いました。これらはあくまでもおまじないではあるので、信じるも信じないその人次第のことでありますが、「ヒイラギ・イワシの頭」が「イワシの埋葬」とどこかで繋がっていたならば、人々の願いは皆同じ変わらぬ願いであるのでうれしく思います。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月29日(月)
■よしよしネコカー。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月30日(火)
■一日一文章トレーニング。

「トゲトゲを探して何数里」

トゲトゲの葉っぱを見てみたいと思い通り道の木々の葉っぱに注目しながら進むと、どれも丸っこい常緑樹の葉ばかり。ネットの情報によると公園などにトゲトゲはよく植えられているという情報を仕入れたので、我らにとっての公園でもある谷中霊園を目を凝らしながらトゲトゲの葉っぱを探して移動します。しかし、墓場にはトゲトゲは生えていないようだ。トゲトゲの葉っぱには邪気や浄化して鬼を退散する魔術効果があるらしいので、仮に墓場がトゲトゲの葉っぱで埋まってしまうと、お化けが「エライコッチャ〜」と墓場から抜け出して住宅地住まいになってしまうかもしれません。「そりゃそうだ!」と、谷中霊園に怖い人間はいても、怖いお化けなんていないものでもあり、自分の墓場に魔術的なトゲトゲ機能のある植物を植えるような人もいないと思う。トゲトゲ1本ぐらい生えていても、時折、浮遊する幽霊が「痛っ」となる程度なので何の問題もないトゲトゲだとも思うのですが、霊園にトゲトゲの木は生えていません。※注意:通り道を木の葉っぱを見ながら通っただけなので全部調べた訳ではありません。

さらに、道を進みて公園の横を通るとなんと葉っぱがトゲトゲしていた。人は本当に関心のあることしか見ていないもので、普段、何も気にせずに横を通り過ぎる道にトゲトゲの木を発見する喜びとは何に例うべきものなのでしょうか。(滝廉太郎)公園の縁にトゲトゲの木を植える理由を考えたならば、私のような横着者が公園の最短ルートな獣道を作ることを拒む公園設計者の知恵であるような気もします。人とは駅や目的地までの最短ルートを見つけて進んでいくものであります。朝の1分1秒を競って「スタスタ・カツカツ」と歩みを進めるもので、公園を斜めに進むことができれば大幅な時短ルートが完成します。そのような人が作る公園の獣道とは結構あると思います。トゲトゲとは痛くて鬼退治する木でもあるので、そのような最短ルート開拓する者たちをチクチクと痛みつける魔力は発揮するものであります。そのように考えるとこの世界の真の「鬼」とは「オレたち」なのか?と思うものであります。いやはや、鬼は外、福は内とやっている場合ではなく、真の鬼たちは子供たちに浄化されて外のネオン街に消えていくのかもしれません・・・。

このトゲトゲしい葉っぱも街に生息する鬼たちから公園の結界を守る大切なお役目があると考えると、トゲトゲの棘とは身を守る結界を守る魔術的なお役目があることになります。そうすると、メタルな人たちがジャラジャラ・トゲトゲと身に着けているのも繊細なボディーやハートを外という怖い鬼たちから守る棘なのかもしれません。もし仮に、私が全身トゲトゲの服を着て現れたならば、それは世間に住まわるという鬼から完全防衛防する為の服装であると思います。www

トゲトゲの葉をiPadで模写すると、このトゲトゲの葉っぱの木の名前は何だっけ?と「冬」の「木」と書いて「柊」であることは覚えているのですが、その「柊」の漢字の読み方はド忘れしてしまうものでもあります。調べると「ヒイラギ」です。「そうそう」とヒイラギという響きはなかなかに馴染みのない異国の言葉のようにも聞こえますが、魚にもヒイラギはいるようなので日本の言葉で間違いないのかもしれません。聞き方によれば「ひいらの木」とも聞こえますし、「平たいぎ(訛)」のようにも聞こえます。そもそも、「柊鰯」という古来から続く風習でもあり、おまじないのようなものであります。下記のように言葉を整理して書き出すと「冬弱」の暗号が出てきます。「冬弱」とはまるでワイみたいでありますが、私の場合には「寒さに弱く、暑さにも弱い」ので「鰯と柊」の他に夏に弱い「榎(えのき)鰯」や「嗄(しゃがれる)鰯」を添えておくことで完成します。

柊→ひいらぎ→冬の木→木→魚
鰯→いわし→弱い魚→魚

そして、このトゲトゲの葉っぱはヒイラギではありませんでした。調べると、「ヒイラギモクセイ」と呼ばれる品種でトゲトゲの棘が少し弱いものであり、また、葉っぱのカタチも丸い。もはや、これは真のヒイラギではないのですが、私はその葉っぱに愛を見つけます。柊の模様を模写していると葉っぱの子葉に多層に重なるハート文様を見つけて私のライフゲージも全回復するのでした。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月30日(火)
■ネコトラックだゴー(シャー)。
■2024年1月31日(水)
■一日一文章トレーニング。

「節分の過ごし方について考えた」

最近というか購入時からマウスの反応は悪い。マウスは見た目のデザインでだけで購入するので使い勝手は最初から期待していないのですが、時折、マウスを何度もカチカチとクリックさせながら画面が反応しないことがあります。昨日、パソコン入力をしていてマウスの反応が悪いという話になります。例えば、このリンクを押そうとすると反応しないの時もあるのですが、マウスは普通に反応します。もう一度トライして「ほらほら」このような感じでマウスが機敏に反応しないというお話です。マウスの反応の悪さも気まぐれで、すんなりと動いてくれる時とカチカチと何度もマウスをクリックすることで、やっと反応する時があるものだ。私のマウスのポインターを指す位置が悪いのか?ブルートゥースが悪いのか?と言う話もあります。確かに微妙にズレた位置をポインターでカチカチやっている時もある。そのような職人感覚的なマウスの反応について口頭で説明することはとても難しいことでもあり、実際に使わないと何とも説明がつかないものではあります。要はマウスの指示位置を正しく指すことと、クリックをしっかりと押さないと無反応状態になることがたまに起こってカチカチ&イライラとなります。マウスで操作を指示しているのに、それに機械が反応しないことは結構ストレスとなるもので、それは液晶を触っている時に、見たくもない広告や記事に飛ばされる誤動作に近いあのストレスと似ております。

どうやら、マウスの設定はパソコン上で細かくできるようなので、先ずはそれにトライ。マウスのポインターの移動速度を速くして、クリックの反応を設定できる項目を探すのですが見つかりません。もっと深くマウス設定のリンク先に進んでいくと、「ホバーした時に非アクティブウィンドウをスクロールする」の項目を見つけます。

「ホバーした時に非アクティブウィンドウをスクロールする」

「どういうこと?」

「魔法使いのスクロールか?パソコンが大丈夫なのか?それとも、オレが大丈夫なのか?」とさっそく、ネット検索で調べると、ウィンドウに複数の画面を開いた時に、いずれの画面もマウスのスクロールできるという技であるようだ。「こんな機能は必要なのか?」と思うのですが、一様ONにします。結局、「ホバーした時の非アクティブ云々なお話」で盛り上がるだけで、マウスのクリックの反応を良くする方法は見つけることはできません。IKEAのカタログのように今や取り扱い説明書的な類は文章なしで説明することが常識な世界でもあります。それなのに、パソコンとは最先端ヅラをしながら、このような意味不な文章で満たされているものであります。まるで石器時代の道具のようでもあります。

ところで、

昨日の話の続きです。仮に人その者が葉っぱのトゲトゲで浄化される鬼であるとするならば、「鬼は外、福は内」で豆まきをする相手は架空の鬼では無くて、人間に向かって豆を投げる必要があるのではないであろうかと考えました。先ずは浄化されるのは家の外の空気では無くて、鬼を体内に隠し持つ私の中の鬼であります。オレらは雪合戦のように大豆の投げ死合い(試合)を行い。我「痛たた〜」と豆に当たりて体内の鬼が抜けて浄化され福が入ります。私は知らない誰かに向かって思いっきり大豆を投げつけて発散して、知らない誰かの体内に住まわる鬼が抜けて福が舞い降ります。耳栓、水泳のゴーグル必須ですが、体が大豆のパワーで浄化されてスッキリと楽しい気分になると思います。勿論、古く長く続く豆まき文化の一種のおまじないでもあるので、家の外の見えない空気に向かって豆まきをすることも必須です。家も浄化されて、我らの体内も浄化されて一件落着。節分の次の日から皆、すっきりと「渡る世間は福ばかり」な世の中へと変化しているかもしれません。これまた信じられないのですが、あの国民的な番組を一部分しか観たことがないのです。恐らく、あの中華料理屋さんも「人間こそが真の鬼」であると語っているのだと勝手に妄想しております。

2月3日の節分に、当然、このクソマウス(機械)にも大豆をぶつけて「鬼は外、福は内」をするのですが、吾輩にも豆をぶつけて我が体内にいる鬼を退散させるのであります。www

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年1月31日(水)
■クレーン作業。