*デスクトップ画面用の画像です
■2024年3月1日(金)
■一日一文章トレーニング。

「俯瞰すればそこに色があった」

交差する次元模様を的確に描く方法を見つけました。(左図)
あ〜なんという美しき図案なのでしょうか。
自分で描いて惚れ惚れとしてしまう図案でもある。
これらは生地や編み物の複雑な線のようにも感じますし、遠くから見れば色そのものにもなります。
【結論】
「俯瞰すればそこに色があった」
・・・と意味深でとても格好良いフレーズで纏めたい案件でもあります。

線の描き方の技法はシャツの首ネックをたくさん描くような気持ちで描きます。
先ずはシャツの首ネックを描き、その下にアーガイル模様の四角形を複製します。
そして、最終的に反対から見たシャツの首ネックの形で綴じる。
次にペンの色を変更し、その図形のすぐに下に同じ形状の線を描いていくことで簡単に何次元でも線を増やすことが可能となります。(完璧)
右図の写真は小さく描いてしまったので下段と下段が重なりあって点と点がダブってしまいましたが、大きく描けば何次元でも交差する接点を作ることは可能です。
そのような、キレイに図形を描ける方法について話していたならば、最終的にピーター・フランクルさんならその話しに興味は持って貰えそうだいう話しになります。
「ま〜ま〜ま〜その通りでフランクルさんなら興味を持ってくれるのかもしれません」
普通に考えて、メタクエストを付けて現実世界と仮想空間の重なる情報体を4次元だ6次元だと言っている時点で少しヤバ目であるのは間違いありません。
ですが、スマホでさえ、現実空間と逐一連動して作用して活用している人もいるので、私達はもうすでに4次元ポケットの片足に突っ込んでいるだと思います。草

それは、さておき、

情報体として線数と接点の数で次元ごとに解釈することは、人が何かの物事に対して考えて反応する仕組みに似ているような気もします。
何せ、重力落下するマヨネーズが自然に作り出す遺伝子の螺旋形みたいなカタチにはそれなりの自然が持つ不思議な意味を持つ可能性もある。
それら線が織りなす接点と数字は人間の持つ何かしらの波長と関係性があるのかもしれないと思って、勝手に人間の行動判断と数字をあてはめてみた。

1次元な0と1のやり取りはスイッチのON・OFFみたいな関係性です。
これは何か一つのアクションに対して返答を返すか?返さない?みたいな感じのコンピュータそのものであります。
普通にコンビニなどでお買い物をする時のやり取りや、瞬発的に発する感情のようなものも1次元的な0と1の反応だと思います。

2次元的なやり取りは2と4の選択です。
ある商品を買う?買わない?の選択する為の判断材料が後ろに4個ぐらい並んでいる感じです。
お金のある?なし?使う?使わない?みたいな後に、あれこれと考えて簡単な選択肢から行動を選び、その反復を繰り返す感じでもある。
私の思考回路は大体コレ。
暑い?寒い?なら何を着ようかな?から、好き?嫌い?ならどうしてやり過ごそうかな?などとアクションに対する単純で単細胞な反応であります。

3次元的な情報体のやり取りは6と9な選択です。
誰かと喧嘩した時に様々に芽生える感情を立体的に捉える感じである。
破滅的な終わり方から解決策、その他の方法は無いのかとネチネチと考えるのは3次元的な思考で間違いありません。
その意味では立体的に物事を考えられる人はとても脳みそをフル回転しているとも言えます。
乗り物などに乗っている時は、正に、このような3次元的な思考の立ち位置にいるものだ。
前を走る自転車、予期せぬ動きをする子供や歩く人々、信号や看板など様々の情報にアクセスしながら素早く処理します。
もし、この情報体のマトリクスが正しいとすれば、進行方向や背後も含めて同時に6つぐらいの情報を識別して、常に9つぐらいの選択肢から瞬時に行動を決定していることになります。
よって、乗り物に乗れば、それは神経もたくさん使い疲れるものであります。

そして、未来。
端末から様々な情報が送られてきたならば、石器人みたいな私の頭は多量の情報でパンクしているのかもしれません。
12の選択肢に16の行動シュミレーションを瞬時に判別することは可能なのでしょうか?
意思決定を完全に諦めて完全にAIに委ねている可能性もあります。
情報化時代になり情報は飽和状態になるのかと思えば、ヘッドディスプレイな新しい4次元な情報領域を開拓すれば、世の中の情報はさらに倍々と増加していくのかもしれません。
げに恐ろしき未来です。

次元と次元がダイレクトに接する場所の計算は「x2」です。
4本線の交差する状況であれば4×4=16、6×6=36の接点ができます。

外側で接する接点の計算式は「((x−1)2)+(x−1)」です。
4本線であれば、((4−1)×(4−1))+(4−1)=12、((6−1)×(6−1))+(6−1)=30になります。

「x2」と「((x−1)2)+(x−1)」の関係性はわかりません。
ただし、次元が増えると情報も増えることは間違いありません。

「たかが、マヨネーズ、されど、マヨネーズ」
マヨネーズが作り出す接点の数ではありますが、自然に作り出す接点の数とはそれなりに人の遺伝子のような決まった自然の法則を含む可能性は否定できないものでもある。(知らないけれども)

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月1日(金)
■振動。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月2日(土)
■一日一文章トレーニング。

「時にねちねちとしてしまうことはあるのだ」

【注意】
この文章は100%自分自身の「ねちねち」度合いについて書いております!!他の誰かの「ねちねち」については全く記載されていません!!具体的な「ねちねち」な内容も無く!!ただ、抽象的に「ねちねち」について”ねちねち”と書いています。悪しからず。

「〜〜〜ねちねち〜〜〜ネチネチ〜〜〜に愛はあるのかい?」by女将さん

「ねちねち」も「ねばねば」も粘着したもの。それらは頭の中でベトつく複数の考えを「練る練る」と練って粘着的に思案すること。ひらがなの「ねちねち」は自分の内面をループしながら何かしらの感情を絶えず生み出すような3次元的な考え方だと思います(内向的なねちねち)。カタカナの「ネチネチ」は外部(他)に向かう攻撃的なループ行動でもあるような気もする(外向的なネチネチ)。「ねちねち」にも内面をループするものと外部に向けてループされるものの2種類あるように、無意識に使い分ける言葉のニュアンスも深すぎます。自分に対して「ねちねち」としているのも“アレ”だけれども、外部に向けて「ネチネチ」されることは、それを受け取る本人にとっては耐え難き苦痛でもある。この日本的な「ねちねち」感とは、しつこいぐらいに大地を揺らしにやって来る地震や、しつこく体に纏わりつく湿気のような風土が深く関係しているのでしょうか。

昨日、図星にも図像化した図はなかなかに人間の思考的な図でもあります。もう最初から答えは決まっているかもしれないのに、一点に向かって何度も収斂し「ねちねち」と考える感じは人そのもののカタチのようでもある。また、そのような考えは一旦終焉したとしても何かしらの刺激を受信すると再び沸々と湧き上がりてループしてしまうもの。それらゾンビ的な「ねちねち・ネチネチ」事は最終的に断ち切るしかないと思うマイ呆則ではありますが、異なる可能性をまだ捨てている訳ではありません。

さあ、探しに行きましょう「ねちねち」を克服する方法を・・・。

仮に、誰かに悩み事を相談したとしても相手に決断を委ねる気はそもそも無い。ならば、何で人に話すのかと言えば、何の解決にもならないお話しをすることで心が落ち着くのであります。ですが、そのようなお話しを聞かされる立場に立てばなかなかの苦痛を味わうことにもなります。だからと言って、「チンチンチン」と終了のゴングを鳴らしたり、相手側の言い分に完全な理解を示す公平な判断を下したり、説教をするのは止めて下さい。聞き手とは100%のサンドバッグにならないと真の聞き役にはなれないもの。聞き役はクソワロタ真顔な表情で全てのパンチを受けてこその聞き手であります。そして、そのような聖人も絶対にいないことも知っています。そう言えば、仏像の表情とはサンドバッグ態勢に入ったような表情をしているものだ。これは「ねちねち」のループに遭遇した時にあの悟りを開いたような表情をすれば何かしらの解決になるのであろうか?内面にはともかく、相手には絶対に伝わらない煽り表情のようにも思えるので、我が頭の辞書をペラペラとめくりて、これ本当の仏頂面(ぶっちょうずら)なのかと納得します。

ならば、

昨日の文章から「ねちねち」な3次元は粘土であるとも考えたので、「ねちねち」を3次元な粘土に置き換えて考えてみた。粘土とは触るとベトベトと手が汚れて不愉快の素材である。しかし、触っているとクセになる気持ち良さもある。納豆のような粘り気が次第に「ねちねち」な快楽をループさせてしまう「ねちねち」な呆則は少しはあるのかもしれません。また、造形師であれば美しいカタチの造形物を作ることは簡単だ。そのような意味であれば「ねちねち粘土」とは何時も否定するものではありません。私が美的な「ねちねち」を作ることができれば、美しき「ねちねち」なループとなると思うのですが、残念なことに私はポンコツ造形しか作ることはできません。そして何より、粘土とはいつもでも湿っていれば邪魔なものだ。粘土細工は部屋に常に出しておくものではなく、仕舞うなり乾燥させて固める作業が必要です。「ねちねち」な粘り気を立つ方法は水気を断つこと。粘土を乾燥させてパリパリにさせれば「ねちねち」ともおさらば。「ねちねち」な粘土を燃え上がる感情の炎で燃焼させれば、それは立派な陶器となるのかもしれません。ですが、もはや、それは「ねちねち」権現化した器なのかもしれない。ならば、アリゾナ砂漠に粘土を放置すれば完璧にパリパリに乾燥できそうでもある。大自然を前にすると、人の「ねちねち」とはどれだけちっぽけなものかと思うものだろう。時折、大自然詣でを行わないと人間の器が小さくなってしまう可能性があります。粘土を乾燥させるのは太陽光。我が心の「ねちねち」も東京砂漠の太陽に晒されてよき乾燥をできるのでしょうか。

 

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■2024年3月2日(土)
■神秘の生物。

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■2024年3月3日(日)
■一日一文章トレーニング。

「テープ跡のネトネトは布ガムテープの粘着で取り除くに限りますが、人の中に芽生えるネチネチもネチネチな粘着によって取り除くことは可能なのでしょうか=シュミレーションしてみた」

数日部屋の隅に置かれていたフィギュアの箱を開封します。封緘のシールをカッターでカットして紙箱の折り目部分を折らないように丁寧に引っ張り出します。しっかりとハマった紙箱の差し込み部分はなかなか出てこないものだ。なので、カッターナイフの先っぽを器用に使い、つんつんと引っ掛かり部分を誘導しながら外します。フィギュアを箱から取り出すとフィギュアは透明のプラスチックケースの内箱にキレイにハマっております。さっそく、そのような透明ケースの箱入り娘を出そうかとも思うのですがケースのフタはセロテープで固定されて開きません。少し高額なフィギュアの場合にはセロテープ接着されていることは多い。透明のプラケースを開ける為にセロテープを剥し、対角線上のセロテープも剥がします。セロテープを剥がした箇所はテープの接着剤がくっついてネトネトとするものだ。私はこのベトつくテープ跡がとても嫌いだ。アルコールなどを使ってテープの粘着を取り除こうとすると粘着物質は周囲に広がるので、そのようなテープ跡のベトつきは絶対にアルコールを使ってはなりません。色がついている箇所であればアルコールで色が剥げることもある。ならば、どのようにテープ跡のベトベトを拭き取るのがベストかと言うと、テープ跡のベトベトにはテープ粘着のベトベトで取り除くのに限ります。これはフィギュア扱いの鉄則でもある。できれば、布!ガムテープの強力な粘着力を使いペタペタ・ペタペタとテープ跡のベトベトを布ガムテープの粘着に転写すればキレイに取り除くことは可能です。もしやこれ、昨日の「ねちねち」や「ネチネチ」を取り除くには同様の粘着成分を用いる呆則のような気もします。さっそく、「目には目を歯には歯を」をシュミレーションしてみます。ネチネチとネチられている時に、こちらも負けずにネチネチな攻撃をし返せれば、それは若干、火に油を注ぐようなバチバチとする感じもするものだ。ネチネチな3次元の粘土にネチネチな3次元粘土を合体すると、それはさらに大きなネチネチな造形物を完成させます。いがみ合う二人の合作とは、なかなかに不調和な愚作で間違いありません。ネチるような相手は大抵、相手からの反撃を想定していないと思うので「ネチネチ」な反撃は相手を黙らせるのに十分な可能性もあります。この世の中、相手に変化を期待するだけは無駄なことが多く、物理的なネチネチを取り去ればそれは良いことでもありますが「ネチネチ」とはそもそも感情の沸点にも達していない状態で、同じようなループで相手を「ネチネチ」とネチって嫌味を言うことでもあります。若干、真っ当にペシペシやり合う価値はあるのかと考えものでもありますが、フィギュア箱の教えでは、テープのネバネバは1回で取り除くことは無理なので何度もペシペシとテープで粘着することで取り除くこと可能です。なので、本当にその価値はあると判断した時にはベトベーター(ベター)な案件かもしれません。この3次元粘土的な粘着な「ネチネチ」で思い出すのが、チェコのヤンシュヴァンク・マイエルの作品です。粘土で出来た人間がぶつかり合いながら対話するというシュールな映像作品ですが、何か言葉には出来ない忘れられない作品でもある。この作品を見れば、粘土×粘土の対話の結果とはそのような感じなのかもしれません。粘着を取るには粘着でビシバシと取り除くことは可能ですが、何回もビシバシとやり合う根気も体力も無ければ、我、やっぱり太陽光に粘着質な湿気取りはお任せすることが最適解のような気もします。そのようなことを考えながらフィギュアのフタを開封しようとしているとフタは開きません。よく見るとセロテープの接着は四箇所接着でした。我、テープ接着はいらない、もしくは、多くても2個所で十分だと思いながら、ガムテープの粘着でペシペシ・ペシペシと対話しながらテープ跡のネバネバを取り去るのでありました。

 

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■2024年3月3日(日)
■記号生物。

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■2024年3月4日(月)
■一日一文章トレーニング。

「腹痛のお話」

いやはや、年1〜2回の腹痛とは昔からある痛みであります。
お腹の痛みでシクシクと泣いて毛布に包まって床に転がる。
正にこれ定番の「YOU DEAD」状態。
いつも年老いた自分があの痛みには耐えられなくて、そのままコロッと死んでしまうのではないかと想像してしまうあの辛い痛みは小さい頃から起こる現象でもある。
それはある意味、元気からコロッとあの世に行けることかもしれませんし、良き風に解釈すれば継続的な痛みによって苦しむよりは100倍良いことかもしれない。
おばあちゃんは死ぬ時の苦しみは人生の中で人に与えてきた苦しみであるようなことを言っていた。
苦しみ無く一生を終える人とはそれだけ「徳」が高かったことにもなるのかもしれない。
そのように考えると、一瞬の腹痛でゲームオーバーというのもそれなりに良いことだ。
育ちの良いおばあちゃんとは流石になかなかに良いことを言うものだ。
ですが、腹痛の痛みを最後にうOこまみれでこの世におさらばというのは何だか嫌だ。
「死んでしまえば何もかも帳消しなのだ」ヒャッホイ・ヘンリ4世byシェークスピアであるように、全てが帳消し的な発想でも良いのかもしれない。
時折、そのように起こる腹痛は杞憂なのか?帳消しへ向かう予行演習なのか?定期的な死を身近に予感させる事柄は、とても重い気分にさせるものではありますが、普段とても健康な私に、定期的な特大な腹痛パンチを食らわせる意味は何かあるのかもしれません。
しっかりと噛んで食べ、食べるものを選び、腸に負担が来ないように姿勢良く椅子に座ってと対策を施すものの、数日も立てばすっかりと痛みも忘れて早食いの低姿勢の学習能力の無さでもある。
人とは本当に3歩進めば忘れてしまうものなのだ。
そして、腹痛の痛みを完全に忘れた頃に「わいが一体何をしたのだー」とトイレで泣きます。
それは絶対に他人に伝えることのできない痛みで、このように文章に書くぐらいで精一杯でもある。
早く、自分の痛みを他人に飛ばせる装置を発明して欲しいものだドラえもん。
そう言えば、昨日、「ドラえもん 映画」で検索したら小さなドラえもんがたくさん降ってきましたが、今朝検索したらもうドラえもんはもう降ってくることは無かった。
儚い。
あ〜かわいそうな自分。
そう言えば、墓場のランナーは定期的に墓場を通り抜けているのですが、そこで気づくこともあります。
それは墓石といえども永遠に続かないこと。
普通、人とは人生の終着点でもある墓石が未来永劫に残るような錯覚を持っておりますが、墓石とは永遠に残るものでもないようだ。
※子孫繁栄や歴史上の人物の墓は残ります。
公営墓地を通る時に横目で古くて立派な墓石がシャベルカーで掘り返されて無くなる姿をよく見ます。
特に高齢化社会となって墓需要も高まっているのでしょうか、大きくて古い立派なお墓がなくなると、そこに小さな新しい墓が乱立するような感じでもある。
古い墓石がどこに運ばれるのかと想像すれば、経済論理で解釈するとそれは産業廃棄物でもある。
恐らく立派な人たちであったかもしれない大きな墓石は、守る人が断絶すれば捨てられて更地となり、また、新たな仮の永遠性を求める人々によって入れ替わるのが墓石の運命でもあるようだ。
なので、墓石に絶対的な永遠性というものも無く、諸行無常的に大家滅びて小家となるように入れ替わるように墓場の景色も変化するのであります。
そのように考えると、先程のシェークスピアの全ては死んで帳消しなのだとのヒャッホイ感とはある意味では的を得ているように思えるものだ。
そう言えば、江戸時代に「えじゃないか運動」などもありました。
安土桃山時代の華やかさの全ても背後に天災や戦乱によって死を身近に感じていたからこそ生まれた美学かもしれません。
時折、原因わからなくやって来る腹の痛みはそのようなことお知らせに来る腹の虫なのかもしれないと良き解釈をすると、人生は有意義に楽しく過ごすことは大切かもしれないとも思ったりもします。
それとも、真逆な徳を積めということなのか?
ならば、徳も積み、死と共に全てを帳消しという選択肢もあるものだ。
そのような答えが見つかったならば、ゲームの世界であればクエスト終了により腹痛も収まってハッピーエンドとなるものですが、このリアル世界ではどうなのでしょうか。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月4日(月)
■抽象ぐるぐる。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月5日(火)
■一日一文章トレーニング。

「シェイクスピア作品には世の中の法則が詰まっているに違いない」

昨晩、シェイクスピアの「死んでしまえば何もかも帳消しなのだ」の言葉が気になり調べた。残念ながらシェイクスピアの本は持っておらず、インターネット情報のみの調べでもある。結果的には言葉の由来はよくよくわからなかったのですが、もしかしたらこの言葉はシェイクスピアの台風(テムペスト)の1節かもしれません。人生を帳簿に例えることはとても近代的で面白いこと。「帳消し」とは金銭貸借を記録した帳簿のことで、すなわち、債務が消滅することで棒引きすることでもあります。また、お互いに損得を差し引きしてゼロにすることでもあって、ここでは人生という名の帳簿の記録に書かれる善行・悪行の記録の全てが消されたという解釈でもあります。

シェイクスピアの「ヘンリー4世」は日本で言う室町時代のお話です。ヘンリー4世は4世と名がつきますがランカスター王朝最初のイングランドの王で、主君暗殺に成功した明智光秀みたいな感じでリチャード2世のアイルランド遠征時に背後を討って王となった簒奪者(さんだつしゃ)の王でもあります。そのような理由から王となってからも国内に反乱が絶えず苦しむことになります。その息子の王子の名前はハル王子。後にヘンリー5世となりますが、この王子の素行には問題があって織田信長のうつけ者のような振る舞いで盗賊仲間とつるみ悪行や街の酒場に入り浸るような毎日でもあります。その一番の相棒が太って醜態の悪い悪友騎士のフォルスタッフ(民衆の笑いの記号)。このフォルスタッフは酒に女に盗み、戦場では死に真似で生きながらえて戦いの功績を横取りするなどのどうしようもない人物でもある。勿論、歴史上に何を残すこともないただのダメ騎士。ただ、このフォルスタッフはシェイクスピアの物語では人気があるようで、ハル王子でさえフォルスタッフが死に真似をしている姿に涙を流すぐらいの愛されキャラでもある。

これから解釈すると、もしかしたら、作り手が重要視する物語の目新しさとは、劇を観る人の面白さにとっては2の次で、物語に感情移入させるのは脇役や主人公のキャラがミソなのかもしれません。仲間内でもダメな奴ほど愛されて、一旦そのようなダメっぷりが外部に晒されると本当にダメすぎてサンドバッグ状態となる現象はよく見られるもの。政治家でもどこからどう見てもダメそうな人が政治家仲間には人望があるというお話はよく聞くお話でもあります。世の中を見渡してもまともで技能もあって、何かスゴイことのできる人たちが世の中の見える部分を席巻しておりますが、それらが全部を覆おっても面白くならない理由は内容の薄ペラさでもあります。皆も薄々感じて来ているところだと思いますが世の中を面白くするのは人のダメな部分でもある。なので、このようなフォルスタッフ枠はありだと思います。時代の価値観とはいつも振り子のように動くものであります。

脱線しましたが、物語の流れはハル王子が反乱軍鎮圧にヘンリー4世の影武者を配置して戦場をかき混ぜて武勲を上げます。反乱軍は援軍が来なかったりして不運続きで、結局、王子のお得意の騙し討によって反乱軍を完全に平定します。そして、ハル王子はヘンリー4世が病で倒れている時に父の枕元に置かれた王冠を勝手に盗み被り王となるというお話でもある。後編でハル王子はヘンリー5世となり王宮の腐敗を潰して活躍することになります。フォルスタッフはそのように王様となったヘンリー5世に会いにロンドンに向かうのですが、ヘンリー5世はフォルスタッフに冷たくなり別人のようになります。愛されキャラのフォルスタッフが元ハル王子に冷たくされる様は、さぞ鑑賞する人々の心持ちを揺さぶるものだと思いますが、これが現実の社会との対比でもあります。そして、王はフランスと通じた役人を逮捕し国内の基盤を固めて海を渡ってフランス王朝と戦争を始めるお話となる。イングランド軍は数々の戦歴を上げて進軍しフランスと和平を結ぶことになりますが、その証としてのフランスのシャルル6世の娘、キャサリン妃と結婚するというロマンスなお話となるようです。

とりあえず、長いお話です。フォルスタッフは物語の内容に全く干渉せずに独自のストーリーを紡ぎ出す存在で、このシェイクスピアのヘンリー4世の前篇はハル王子の王への道とフォルスタッフのお話。肝心のヘンリー4世は影武者合戦の題材のようなお題のような感じで、後編はフランスとの戦争とフランス王女との恋のお話です。恐らく、帳消し状態の真っ白よりも、このぐらいの豆知識を入れてシェイクスピアの「ヘンリー4世」を観れば、それなりに楽しく観れるのかもしれません。しかし、これからの人生でシェイクスピアを観る機会はあるのでしょうか?

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月5日(火)
■LRLR。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月6日(水)
■一日一文章トレーニング。

「シェイクスピアの人形を見ていると幼稚園の時に演じた白鳥の湖を思い出します」

シェイクスピアさんが気になり調べていると、あの人は名言製造機のように多量の名言を残しております。
ペラペラとページをめくると、あれもこれもシェイクスピアさんの名言で溢れます。
今まではそのようなシェイクスピアの言葉とは目に入ることはありませんでしたが、一旦、シェイクスピアが気になるとシェイクスピア関連の情報を脳が拾ってくれるという不思議です。
これは逆説的に考えると、人には多量にある情報の中で関心のないものを見ないようにしている証拠でもある。
なので、関心の輪が広がることは意識の拡張でもあり、人として少し成長出来たような気もするものでもあります。

ということで、

とある一文が目に止まります。

「人は心が愉快であれば終日歩んでも倦むことはないが、心に憂いがあれば、僅か一里でも倦む。人生行路もこれと同様に、人は常に明るく愉快な心をもって人生の行路を歩まなければならない」というシェイクスピアさんのお言葉。

問題は「倦む」です。

人を巻くと書いて「まくむ・けむく」と読んでみても変な文章となる難しい漢字。
調べると、これは「倦む(うむ)」と読むようだ。
意味は飽きる、退屈することの意味で「倦む」=「退屈する」に置き換えて読むと文章の意味は理解できます。
人生行路を飽くることなく進むには心配事や不安を感じずに、明るく愉快に生きる必要性を説いております。
これは正に、昨日のフォルスタッフの生き方のようでもある。
もしかしたら、シェイクスピアさんは物語のキャラクターにこのような人生の生き方を投影させながら物語を作っているのかもしれません。
因みに、別読みで「城を攻め倦む(あぐむ)」「考え倦む(あぐむ)」という「困る」意味の読み方もあります。
いやはや、「倦」は2つの意味があり、とても難しい漢字でもあります。

そう言えば、シェイクスピアのフィギュアを持っていたのでガラスケースの中に御方を見つけます。独特のヘアーカットで中世風の変わった格好をしているフィギュアはまさしくシェイクスピアさんで間違いありません。自分で言うのは何なのですが、フィギュアのセレクトだけはなかなかと思う。世界は広いと言えども、このような頭のフィギュアが大好きなピープルはいないと思われます。そして、勿論、シェイクスピアのことは何も知らなくとも見た目だけでニューヨークで購入してしまうセンスも感じてしまうものだ。(自画自賛)今までは、大きすぎる襟だけが変だと思っていましたが、よくよく服装を観察すると頭のてっぺんからつま先まで全部おかしい。肩のぼわぼわとした部分も気になりますが、カボチャパンツが一番変でもある。

このカボチャパンツにタイツで思い出されるのが幼稚園の思い出。幼稚園の出来事とはほぼ何も覚えていないのが定石ではありますが、この思い出は白鳥の湖を演ずることになり白いタイツに白鳥のカボチャパンツみたいな格好をするのが嫌で嫌でたまらなくてゴネていた思い出でもある。先生や母は白いタイツに白いカボチャパンツの格好をかわいいかわいいと褒めるのですが、着る方にとっても嫌で嫌で皆を困らせていたのだと思います。
m(_ _)mT
子供が白鳥を演ずるということで、母は大喜びの主役級な勘違いをしていましたが、実際は8羽ぐらいでパタパタと飛ぶモブ白鳥の4番目みたいな感じです。頭にちょんまげのような鳥の頭を付けて、手に羽を付けてバタバタとさせながら何か一言のセリフを言うだけの簡単なお仕事なのですが、そのような一言のセリフもなかなか覚えることもできなくてゴネといたのかもしれません。母は特別な白鳥だと思っていたようでモブ白鳥にガッカリしていましたが、本人にとっては白いタイツにカボチャパンツの格好が心底嫌だったのです。このシェイクスピアお人形さんを手に掴むと、そのような白鳥級の衣装の記憶が思い出されます。やっぱり、シェイクスピアさんとは演劇の「何か」であるのは間違いないように思います。昔な当時であったとしても、このようなカボチャパンツにタイツを履くようなオッサンは稀有な存在であったのかもしれないので、舞台装置の一部のような服装で物語のような生活をしていたのかもしれません。

 

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■2024年3月6日(水)
■チクタクチクタク。

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■2024年3月7日(木)
■一日一文章トレーニング。

「コロコロを模写しました」

「やっぱり分厚さなのだ」

昨晩、2時間ぐらいかけて家にあったコロコロコミックを模写します。
「苦行、変態、何の意味があるのか?と尋ねるのは邪道です」
「そこに道があるから人はコロコロの表紙を模写するのです」
ペンタブに向かい、ひたすらカリカリと本を模写してオレはやりとげる。
「オレはやったー良い絵が描けたー満足だー」
「これは広告業界のリポート風な絵でもある」

時にアバウトに、途中からほとんどアバウト、時に繊細に、途中から大雑把に分厚い本を模写します。
人は何かを模写することで、そのモノとはじめて向き合うことができます。
そして、その対象物をよく見るからこそ、そのモノが持つ様々な仕掛けや仕組みを理解することができて、その意味でも模写して観察することは「分析道の入口」でもあります。
いやはや、本当にいろんな物や人を勝手に分析して御免なさい。
文章内容は書き始めた日の3日目から枯渇しているので、前へ進むには身近にある全てのものは狙われます。

このコロコロコミックは2007年に特別版として販売された本で付録の創刊号メタルストラップが欲しくて購入しました。
昔は皆、携帯電話にジャラジャラとストラップのキーホルダーぶら下げていたような気がするのですが、今のスマホ装飾とはシュッとしたコンサバ感漂うプレーン感でもあります。
「時代の価値観や見た目は確実に静かに微妙に変化しているのです」

さて、

本のページ数は522ページ、本の厚みは3.5センチ、2冊並ぶと7センチあって棚を圧迫します。
40センチの本棚に並ぶとそれだけで約1/5の幅を埋めてしまうものだ。
邪魔だけれども、本を持つと辞書のような情報の重みをズッシリと感じて捨てることはできない。
これは捨てるのに勇気がいるタイプの雑誌である。
昔は家庭内に漫画雑誌、ダンベルみたいな婦人雑誌、四季報に電話帳と分厚い本は数冊あったものだ。
ですが、今やそんな分厚さの持つ紙の塊は風前の灯火の如く見かける機会が減っております。
なので、この分厚い本がこの令和のネット時代に残っていることは奇跡のように思えて、この本は大切に保管したいと思います。

さっそく、

本を模写すると「文字オン文字」のレイアウトにビックリ。
特にサイコロがコロコロと転がるような雑誌名の上に複数の文字が乗っています。
表紙の写真によって雑誌名のロゴが消える構図は海外のオシャレな雑誌でも見ることはありますが、雑誌名の上に様々な情報が乗っかる構図は珍しいと思う。
そのような「文字オン文字」構成なのに、漫画家さんが描くタイトル文字に重なりはなくて、それはとても日本人的な配慮も感じられます。
雑誌名の上に文字がどんどんと乗っかってタイトル名が隠れたとしても、私達の誰もがこれがコロコロコミックであると読むことはできます。
キャラクターの図は抽象的に模写しましたが、ドラえもんの図は抽象的に描いてもやっぱりドラえもんであり、イメージの持つ偉大さを感じるものだ。
スゴイね!!
レイアウトの構成は先ず、赤や青などのページの半分ぐらいを塗り込むベタ面があって、その上に雑誌名を配置し、次にキャラクターたちが表紙を飾り、雑誌の一番目に来る推し漫画が一番大きなサイズでドドーンと描かれます。
その後は本のキャッチコピーが大きく記載され、それらは動きある文字として描かれております。
いつも同じように見える表紙ではありますが、発刊ごとに文字の縦組みや横組みで変化もある。
この雑誌を模写する前は、このクセあり文字は特殊フォントを使用しているのかと思っておりましたが、模写して分かりましたが全部、驚異の手書き文字!!です。
色も赤、青、黄、緑、紫、ピンク、金色とパレットに絵の具を全部使ったような賑やかさで、耳なし芳一のように隙間も無い表紙には狂気そのものですが、ページをめくって中の漫画を読むとそこにはぎっしりと隙間なく埋まっている漫画があって、この表紙は中身の漫画を体現した表紙で間違いありません。
このような色使いやレイアウトな雑誌とは日本の子供雑誌以外で見たことのない特徴でもあります。
海外の本屋さんでこの本が並べていたとすると、恐らく、これらはアートブックなジャンルに並べられるような気もします。
いやはや、
ワンフレーズな薄っぺらさには扇動的な良さもありますが、分厚き情報体にも生命力が宿るような迫力があってそれも良きものである。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月7日(木)
■配置。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月8日(金)
■一日一文章トレーニング。

「本を読んでいる時に作り出す本の角度はいつも32・5度で決まっております」

街を白く染め上げる魔力。
朝起きて白く屋根に雪積もる景色を眺めながら、私はその美しさに心奪われる。
3月の雪。
ハイカーであれば間違いなく俳句を一句歌うのですが、五七五教でもないので今日も書く前から長文となる予感です。
m(_ _)mT
非日常感、美しい白色、ヒンヤリと美しい空気、どれも、今の私にとって必要なものだ。
街の汚れをキレイにウオッシュしてくれる視線に広がる白い野原は、ついでにマイ・ハートも白く純白に染め上げてくれます。

そう言えば、

昨日のネットニュースで大谷選手が「女性誌ジャック」をしたとのニュースを見た。内容は女性週刊誌の表紙を大谷選手の笑顔が独占したというニュースでもあります。しかし、問題はそのような内容にありません。人の印象は見た目で決まるかもしれないと言われるこの世の中で、雑誌の表紙も見た目が大切なのかもしれないと思うのに、この女性誌3誌はとてもよく似た表紙をしています。母にこの3誌のどれか1冊の購入を頼むと、恐らく、どれかわからなくて全部買って来るそんな激似です。この週刊3誌マイ(3姉妹)は・・・「あれっ」どうやら週刊で発行しているようだ。何だかスゴイ。ライバル関係だとは思うのですが、ほぼ同じな表紙のデザインに興味が湧くものの、コロコロの表紙デザインについて感銘を受けた後に、この表紙の記事がマイ・アンテナに引っかかる運命はそれなりにあるのものだ。そして、昨日はこの表紙のデザインについて話しているだけで30分以上は話も盛り上がります。ありがとう東スポさん。wwwそれにしても、この文字デザインは一言で言うとスゴイ!!昔のHPのバナー広告のような迫力があります。最近の私の文章も長文モードで思うところはある。それは、文字が紙面にぎっしりと埋まると何か妙な快感となるもの。隙間なく文字がテトリスのようにしっかりと埋まっていった時に「オレはやったぞbyダクソ」な自画自賛モードとなることは日常茶飯事だ。文字がしっかりと埋まっていれば内容も多少の脱字誤字も気にならなくて「よしっ」といつもの安全猫のキメポーズで「done」します。これを昨日、耳なし芳一症候群のように感じておりましたが、「文字オン文字」路線で行くのか?(惹かれる)、空間を活かす五七五路線で行くのか?(まだか)、やっぱり最終的には愛なのか?(愛と書かれた鎧兜をかぶるのか)ということで女将さんどうしましょう。

ということで、

昨日の人の持つ、「薄っぺらさなのか?分厚さなのか?」のどちらが良いのか問題に大きな閃きを得ます。
それは本を開いた時の「表紙と小口(こぐち)」が作り出す角度が常に32.5度となること。
小口(こぐち)とは本の断裁目のことで、糊付けされた背の反対側で、ページをペラペラとめくる部分のこと。
その小口と表紙が織りなす角度が常に32・5度となる不思議が「薄っぺらさ・分厚さ」の答えではないかという考えでもあります。

これは図のような(a)の薄い本と、(b)のような分厚い辞書のような本であっても、小口と表紙が作り出す角度はいつも同じの32.5度となるという自然科学法則でもある。
これは90度な直角な断裁面が作り出す神秘であると思うのですが、やっぱり本は広げるといつも32.5度となり、いつも、この決まった32.5度の法則はリアル本を読んでいる限り逃れなれない呆則です。

本に一定の32.5度の決まった普遍な角度を持っているということは、ある一定の角度からの目線を与えているとも考えれます。
それは、本の薄い・厚い、内容の濃い・薄いに関係なく、それら本に本の優越を与えるものでなくて本の愛を全ての本に与える自然呆則ではないかと私は考えました。

角度とは線と線が交わることではじめて角度の大きさや概念が生まれるもので、角度にはモノの見方や考え方などの視線的な意味合いもある。
線とは点がただ一つの自由度をもって描く線であり、点が線となるということは指向性を持つことでもあります。
そして、線と線が接点を作ることで何かしらの情報を作り出すというのがマイ情報の解釈でもあります。
なので、接点の多さとは情報量の多さを示すものであり、接点を接点であると認識することではじめて情報を得るということでもある。

本の表紙線と小口線が作り出す32.5度は本の文字量や分量に関係なく、いつも同じ角度を指し示す意味は、本の神様が私達に与える目線の角度であると考えると、本に角度がある限り本に優劣はなく、いつも読者に等しく一定の32.5度の愛を分け与えていると思うのであります。
ぞなもし。

「32.5BOOKS」なマークを作りましょう。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月8日(金)
■32.5ヘルツ。

*デスクトップ画面用の画像です。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月9日(土)
■一日一文章トレーニング。

「春はふかふかのお布団中、ようよう眠くなりて面1本を取られる」

春の気配を感じる部屋の空気は若干暖かさを感じるものです。ですがやっぱり、お風呂上がりにお布団の中に入ってぬくぬくと温まっていると気持ち良いもの。お布団に包まりゴロゴロとする時間は至高なひとときでもある。寝る前のネットサーフィンは良き睡眠を邪魔するとの言い伝えもありますが、温かな布団に入ってタブレットで動画やネットを見る就寝までの時間は大切な時間でもある。そして、今はシェイクスピアにプチハマり中でもあるので、「12夜」の解説や動画を観ながら布団に入ります。

海外のドラマは名前を覚えるだけでも一苦労なもの。この物語の主要登場人物は4人います。名家の娘(1)オリビアのことが大好きな(2)オーシーノ公は名前が覚えにくいので「美味しいーの公」に脳内変換します。美味しいーの公に仕える(3)シザーリオ(ハサミのリオ)は美味しいーの公のことが大好きで、逆にシザーリオはオリビアに一目惚めされる恋の三角関係のお話でもあります。ただし、ややこしいことに、シザーリオは船の難破で兄の(4)セバスチャンと生き別れて、美味しいーの公に仕える為に男装した女性でもある。そして、当時のシェイクスピアの劇は男性が演じるのが基本のようで、恰幅の良い女装したおっさんたちが女性役を演じております。そのような姿は国会議員の「エッフェル姉さん」たちにダブって見えるものだ。\草/幼少の頃、私も嫌いであったカボチャパンツにタイツはオリビアも嫌いであるようで何となく共感するものはある。三角関係のもつれは嘘情報となって、オリビア嬢が嫌いなカボチャパンツに黄色いタイツを自慢気に見せるお茶目さで舞台に笑いが起こります。勘違いや間違いは正々堂々と自慢げにやってこそ面白くなるものであります。私も間違いは正々堂々と自慢気に行いたいと思います。

そのようなことを何となく頭に入れながら演劇を見ていると、英国人の笑いのツボに少し触れることはできるものだ。そして、船難破で死んだと思っていた兄セバスチャンは生きており、全ての牌(カード)が揃った時に12夜の奇跡の夜を迎えるというハッピーエンドなお話でもあります。テンペストもざっと拝読しましたが、シェイクスピアさんは船を沈没させてから物語をはじめることが好きなようだ。タイタニックも船沈没から物語が始まるものでありますが、何か良き物語は船の沈没から始まるものなのかもしれません。なので、何かの物語を始める時には、シェイクスピア先生に習って船1艘を沈めてから何かの物語を始めるのが吉な予感です。シェイクスピアさんの優しいところは、船が沈没しても誰も死にません。三途の川を渡たっていたら船が沈没して流れついた場所から物語が始まるみたいな解釈でもある。

ざっと粗筋や配役を頭に叩きこんみ、この週末に再度12夜にトライしましょう。何せ長い物語で詳細がよくわからないことも多い。シェイクスピアの物語や英国生まれの物語を観ていると本筋・本流の流れにいる人たちではない人々も物語の大切な人物として描かれている。英国人には本筋以外を愉しむ国民性があるのかもしれません。出資者とはそのような本流の物語を描くことを望むものでありますが、そのような歴史の大きな流れとは別に支流・傍流な普通の人々の物語もあるものだ。日本だと血筋・血統は重要な物語の要素ではありますが、英国的にはそれとは関係ない人もしっかりと描いているような感じはします。日本の物語だとフォルスタッフみたいな物語に関係ないお話しを展開する時には、フォルスタッフの死という「死にフラグ」の伏線回収が必須となります。フォルスタッフにスポットライトが当たったが、彼は元気に不道徳に今日もピンピンと元気なダメっぷりな落ち無しでは日本的ではありません。因みに、テンペストにはフォルスタッフと真反対な性格のゴンザーロという良い人物が登場しますが、この日本人好みな良い人物では、物語的に少し魅力は薄くなるのかもしれません。

そのようなことを考えながらぬくぬくと布団内でうとうとしていると、タブレットが私の顔に「ペシン」落ちて目覚めます。私はこれまでにも幾度となくタブレットから1本取られてきたのであろうか。シェイクスピア関連で寝落ちする良き睡眠の夢心地とはなかなかに良きものでもあります。シェイクスピアさんm(_ _)mt、現存する人の作品で寝落ちとは失礼でなかなか書けないものでありますが、昔の遠い島国の人でもあるので気兼ねなく書けます。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月9日(土)
■自慢のイエローソックス。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月10日(日)
■一日一文章トレーニング。

「MY美意識が拡張しちゃったかも...とウシウシうきうきと製作過程を遡ってみたら、原泉にあるカタチが自分の関心のあるもののカタチであることに気づく思考呆則を見つけてしまった」

毎日、文章と図を描いていると、どのような図柄になろうとも万事よしな、よしなな事柄でもあります。しかし、昨日は一度作った図案を廃棄にして新しい図案を再配置します。どちらも目くそ鼻くそレベルの画力であるものの、(C図)を廃案にして(E図)の逆三角形を採用することは何か面白いことでもあります。昔の私であれば100%何一つ気にかけることもなく(C図)そのままに続行する案件でもありますが、面倒ごとが嫌いな私がわざわざ画像を変更してまで描き直すことの意味は気になるものであります。勿論、(C図)に何かしらの社会的な問題点等もなく、ただ、この(D図)が文章に相応しく思わなかったことが画像差し替えの唯一の理由でもあります。

ということで、

このような普段やらない画像の描き直しは、新しき美的感覚の芽生えの可能性もあります。
そのような心境変化の足跡を辿れば何かを発見できるのかもしれません。
さぁ!順を追って製作の過程をメモしていきましょう。

1)
今月は「抽象化月間(自分の中だけの)」です。何でもカタチあるものは抽象化したいものではありますが、シェイクスピアな演劇な内容は抽象化出来ないものでもある。最近のマイブームは抽象カセット柄(A図)で、その図案の線画部分を排除して色とカタチのみに分解したのが(B図)となります。これは仮組みしたプラモデルを一旦パーツに戻すような感じでもあります。

2)
その分解されたパーツを3次元的に再配置して空間っぽくしたものが(C図)。これはバラしたパーツを再構築している感じです。シェイクスピア作品の舞台装置を思い浮かべながら図形を並べて奥行きのある立体空間を作ります。

3)
しかし、文章の内容と絵のイメージが何かミスマッチしていると考えて(C図)を削除して、新しい画像を作ります。この違和感とは感覚的なものではあります。これが新しい美意識の芽生えではないのかと思う私の考えでもあります。

※せっかく作った(C図)を完全に捨てるのは勿体無いので一様スコスHPに復活させております。

4)
新しい図柄は、もう一つのマイブームのシャツの襟型接点図(D図)からイメージを膨らませます。

5)
恋の三角関係のお話でありますので、接点図をひっくり返して逆三角形なカタチを作ります。そして、どうやら、英国文学が船の沈没から始まるテンプレがあるようにも感じるので、その三角形の中を波線で埋めて海を描きます。

6)
正にドングリの背くらべというような言葉がピッタリな白黒図形の完成です。「十二夜」の恋の三角関係から絞り出されるカタチはこのような三角形で間違いありません。そのような逆三角形に海の波を描けば夜の波立ちや3次元空間を感じる舞台装置のようにも見えます。私の頭の中では、この三角関係の波型にオリビア、美味しーいの公、シザーリオの顔を配置されて浮かんでおりますが、私は劇団員ではありませんので3人の顔までは描きません。単なる横着です。これらは絶対に説明文を加えないと誰にも伝わらないマイ美学でもあります。

7)
美意識のアップグレードはよくわからないものですが、イメージの種を抽出すると全てのカタチの原型がプチマイブーム(A図)や(D図)に繋がっていることがわかります。これは関心のあることしかカタチとならないことを意味しているようにも思えます。よって、全ての制作物の原泉を辿ると、もしかしたら、制作者の関心のある何かに辿り着く可能性はあるものだ。なので、全ての制作物を機械的にトレースされれば、その製作者の原泉を知れるのかもしれません。

怖っww^^>

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月10日(日)
■抽象的に描かれる公爵。
これは抽象化ではないの?(簡略化?)

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月11日(月)
■一日一文章トレーニング。

「顔を簡略化して描ければ、とても便利でもあるので抽象化の顔を描く」

「ヘンリー4世」より「十二夜」の方がより親しみやすい物語のように思うのですが、そのような枕元のお供は一向に進まない物語でもあります。わーっと登場人物が出てきて混乱してからの、まるで子守唄を聴くかのように秒で寝てしまう日々でもある。いつハッピーエンドはやってくるのか?と、いつの日にか真剣に背筋を立てて12夜に取り組まないと永遠の漬物石となりそうな予感でもある。

ところで、

黄色のスパッツを履いているのは三角関係の外にいる執事のマルボリオでした。(訂正)執事と言えば、バットマンや漫画に出てくる執事のように、我らにとって「かしこまりました」と何でも願いを叶えてくれる有能な魔法使いみたいな存在でありますが、本場の執事は幾分イメージが異なるようであります。執事とは会社の役職に例えて、どのような役職なのか?と調べてもよくわからないヒエラルキーでもある。とりあえず、恰幅の良いおじさんが演じるオリビアは皆からモテモテであり、身分の格上げを狙う野心家の執事からも求愛されております。

そもそも、

先日のシェイクスピアの人形もコペルニクスではないのか?というお話もあります。さっそく、コペルニクスの画像を調べると髪の毛のふさふさとした御方がコペルニクスさんで、コペルニクスでないことは確かなことでもある。見慣れない中世の偉人たちの風貌とは極東の島国に住む私達にとっては全部同じに見えるもので、よくよくと観察することで異なる違いを発見するものです。

執事のマルボリオが着る服は真っ黒いピューリタンの服装です。その黒い服装は清廉・潔白とイギリス国教会と対立して後に新大陸に渡って米国の基礎を作った人たちの服装でもあります。シェイクスピアにとってピューリタンは敵でもあったようなので、このような貫禄ある執事となったのかもしれません。当時の英国には言論の自由はまだ確立しておらず、検閲する人物に賄賂や売上の何%かを渡しながら演目の内容にも気をつける必要もあったようである。シェイクスピアのライバルのクリストファー・マーロウという人物は実際に殺されたとの噂もあるものだ。自由の保証されていない世界で表現することは命がけでもあります。本筋の物語とその周辺で行われる人々の物語の分離とは、検閲や分断の生むややこしい世の中を生き抜く為のシェイクスピアの処世術であったのかもしれません。そのような視線に立つと、シェイクスピアの帽子も被らずに茶色い服装、ピューリタンの黒い服装をする執事、執事色に染められたオリビアの真っ黒な衣装も全て分断する当時の英国思想なアイコンのようにも見えてきます。

ということで、

私は昨日、一心不乱に人間の顔の抽象化に取り組みました。抽象化とは何かとよくわからないもので、よくわからないので解像度と情報量を減らして具体的なものを減らしたものを勝手に抽象化であると解釈して描きます。iPadでゴシゴシと人の顔をひたすら簡略化させながら描いていると「野菜を描いているのー」と聞かれて、「いやいや、これは人間の顔ですゼ」と深くマリアナ海溝に沈んでいくような沈黙が流れます。確かに、緑色のグリーンジャイアントみたいな色で人の顔を描けば野菜にも見えるものだ。おまけに、人の顔を抽象化するということで人の輪郭もモコモコと野菜っぽい。人の顔が野菜に間違えることは抽象化に成功しているのかもと思ったのですが、そもそも人の顔として認識されなければ人の顔の抽象化ということにはならないものでもある。とりあえず、目鼻口を描けば、大体人間の顔っぽくなることはわかりました。逆ルートでキャベツを抽象化すれば人の顔となるのかもしれません。そう言えば、以前キャベツの顔を描くマイブームもありました。時は回るものです。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月11日(月)
■抽象化されたのか?簡素化された?人。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月12日(火)
■一日一文章トレーニング。

「朝から抽象とは何か?とディープな問いを考えてしまうヤバイ奴」

物事を抽象化するとは日々使う言葉であります。
ですが、実際に抽象化とは具体的に何か?と問われれば“抽象”と“具体”の相反する2つの言葉の狭間で頭の中がグチャグチャと混乱するものでもあります。
因みに、辞書によると抽象とは個々の具体的な事柄から共通の属性を抜き出して、これを一般的な心的な作用として捉えることとある。(具象)
また、
同時に個々の事物・表象に共通しない要素・特殊性を排除する働きを伴うともある。(捨象・しゃしょう)

「あ〜難しき抽象化、辞書とは3度くらい水に浸けてから使うぐらいが丁度良いのかもしれません」

人の顔を抽象的に描いても、それが抽象化しているのか?ただ単に簡素化しているのか?未だわからぬことではありますが、目鼻口の一般的な要素もありますし、特殊性も排除しているので抽象化されていると言えば抽象化されているような感じもするものだ。

抽象化された顔で思い出されるのは岡本太郎画伯の太陽の顔です。
「あれは目もあるし、鼻もあって、どの角度から見ても抽象化されています」
そして、単に簡略化した人の顔とは若干違う抽象化された顔でもあります。

そのような画伯な抽象を頭に浮かべていると、一昨日のネットニュースでヨーロッパのどこかでホニャララホニャララの金細工美術品がごっそりと盗まれたとの記憶が蘇ります。
「そう言えば、あのニュースの写真には何かしらの抽象的な造形物が載っていたものだ」
さっそく、ニュース検索で調べて、どんな抽象造形だったか調べます。
ですが、
所有キーワードがホニャララ何々のポンコツ情報すぎて全く検索に引っかからりません。
「盗難 金 美術」といろんな角度から検索してもやっぱりニュースは見つからないものだ。

そう言えば、盗まれた造形物は総金額1.9億円分の盗難の記憶です。
ニュースの記事では誤字で「1億9000億円」の「1兆9000億円」みたいな間違いをしていたので、その「1億9000億円」を手がかりに検索すると、「あったわ、あった」で見つかる探しもの。
本当に自分で言うのは何だけれども、「1億9000億円」のキーワードを覚えている迷探偵ぶりに惚れ惚れします。
アーチストはウンベルト・マストロヤンニというお名前。
彫刻業界では有名なのだと思うのですが、当然、私は知りません。
そして、初見でこのお名前を覚えることは高きハードルでもあり、3日後にウンベルト・マストロヤンニを覚えていたら奇跡でもある。
さっそく、ウンベルト・マストロヤンニを画像検索にかけて作品を模写して抽象の秘密を探ります。

「ふむふむ、アイシー、なるほどね、抽象の真髄がわかったかもしれない」

AIに「抽象とは何か?」と質問すると、まるで、私みたいに適当な事を嫌がらせな長文で答えてくるものでもありますが、内面にある人のイメージをカタチにしているとも言っているので、その線から抽象化の意味を探りたいと思います。

「AIのGPUも三度くらい水没させてから使うぐらいが丁度良いのかもしれません」

左図)複雑な感情が顔の中から割れ出て歪み炎の怒りをじわじわ見せる人 (3日後のオレ)
中央図)太陽のように優しい人 (3日後の私)
右図)何かしらの野生的ワオーンな閃く瞬間の人。(3日後のあなた)

上記はマイ解釈です。
もの凄く頑張って強引な一本背負いのように読み解けば、顔から溢れ出る感情はこのような感じです。
そもそも、このウンベルト作品が人の顔の抽象化した表現であるのかも知らないのことでもあり、抽象化とは表層のカタチではなく、内面の感情を図像化しているとも考えれば、何となく納得する内面の感情を表現するカタチでもある。(ゼェゼェ息切れ)
私とて人の顔は何となく識別する能力は持っているものの、人を怒らした時に頭からニョキニョキと鬼の角を生やすぐらいが精一杯の内面の図像化でもあります。
このような抽象化とは美術界隈では当たり前ことかもしれませんが、私にとっては新しい抽象画の見方を与えてくれます。

もし、私が仮にそのような感情を具現化した抽象画を描こうと思えば、相手の感情を揺さぶり、怒らせ、笑わし何かしらの感情を取り出す必要があります。
「あ〜何と面倒くさき抽象画なのでしょうか。相手の心をいじり、揺さぶり、その内面の感情を模写する人間とは、とても面倒くて迷惑な人でもある。3日後のわいには抽象化された人物を描けるのでしょうか」

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月12日(火)
■アクティベートする。

*デスクトップ画面用の画像です。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月13日(水)
■一日一文章トレーニング。

「味覚の中に2次元と3次元を見つけた、そして、その味は具体と抽象でもある」

業務パックのように大量に入った紫蘇の葉は100枚ぐらい入っております。
スーパーで安く売られていたので、ついつい買ってしまう目的外のお買い物。
そのような大量の紫蘇の葉っぱは家庭内で消化できないもので、紫蘇の葉の半分ぐらいが黒ずみはじめて「ヤバイぞ」となる。

ということで、

このまま紫蘇の葉っぱを捨てることは勿体無いので、小さな頭を捻らせ紫蘇の有効利用について考えます。

回答:「紫蘇の葉っぱを煮出して紫蘇の出汁を取り出しましょう」

・黒ずんだ紫蘇を鍋の中でよく洗浄します
・水を捨て、再び鍋イッパイにたっぷりの水を張って紫蘇を入れたまま火にかけます
・湯が沸騰したならば約4分間煮出す
・火を止め紫蘇の葉を取り除き、紫蘇の出汁はろ過させながら瓶詰めする

単独で飲むと紫蘇の香りが強いだけのお茶にしても美味しくない生ぬるい出汁なのですが、この紫蘇出汁をパスタに投入すると麺にもしっかりと紫蘇の香り立つ美味しいパスタとなります。
こんなにも訳のわからない単独で飲むと全く美味しくない汁が、料理とミックスされることで美味しいハーモニーを奏でることはとても不思議なことであります。
紫蘇の葉は5パック50枚程も入れて煮出しているのでそれ相応に濃厚に煮出されます。
大さじ3杯の紫蘇出汁でも十分にパスタに紫蘇の香りが十分につくものだ。
これは「紫蘇の出汁」と言っても良い汁であります。
50枚の痛みかけた紫蘇の葉っぱは瓶詰めの紫蘇エキスとなりましたが、それなりに価値あるエキスになり、日本の深みある出汁文化とはこのような豊漁や収穫大な時に食べ物を無駄にすることなく出汁に変換させる知恵として発展したのではなかろうかと思ったりもします。

出汁(だし)は不思議なエキスであり味の飾り物です。
出汁=抽象的な味
出汁のある?なし?で料理の味が大きく変化するもので、魚や肉でない紫蘇のようなクセありの葉っぱからも出汁っぽい効果を発揮することは面白いこと。
この出汁を言葉に変換すると「料理の味+出汁の味」で加算される「美味しい味」=「口の中に広がる立体的な味(3次元的な味)」となる。
(具体的な味)+(抽象的な味)=(立体的な3次元的な味)
日本料理のやフランス料理の深みはこのような1層別の深みのある別次元にある味覚を愉しむ3次元的な味で間違いないと思う。

(普通に料理)→(2次元的な味)
(普通に料理)+(出汁を追加)→(3次元的な味)

このように具体的な食べ物の味を2次元的であると考えるならば、出汁入りでより複雑に立体的になった味を3次元的であると変換することもできます。
味ツーな人々はそのような旨味成分を舌で味わい語ることができるのですが、味の背後に広がるぼんやりとした旨味成分の抽象的な味を語ることのできない私であっても、そのような立体的で3次元的な味を感じることは出来るものであります。
これで、何となく2次元・3次元・具体・「抽象=出汁」と繋がってきた。ウシシ

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月13日(水)
■抽象城にお迎えだ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月14日(木)
■一日一文章トレーニング。

「清教徒の服装を模写していたらプロテスタントな感じが日本の街の風景に似ているように思った」

清教徒(ピューリタン)の服装を見ていると服装が思想や考えを反映していることに興味を持つ。我が現代社会に於いて、そのような内面に持つ考えを服装に示すことがあるのだろうかと考えると、チームや会社で同じようなユニフォームを着たり、SDG〜xなバッチをスーツに付けてアピールする人たちは普通にいるものだ。私の場合、SDG〜xなバッジを見れば、先ず第一印象で超警戒するのですが、時に人とは聞かれていないのに服装に自分の所属や考え方を自らアピールするものである。

そのようなことで、清教徒の黒い服装を模写します。1(具体)〜3(抽象)に清教徒を描くと、記号としての絵であれば2や3の抽象的な絵でも十分なことがわかる。黒い服装に大きな鍔(つば)の帽子。どれも中世の騎士の戦闘服のようだ。中には茶色の服もありますが、黒色を着ている方が清教徒っぽいように思う。大きな帽子の鍔は雨避けとなっているようで、ベルトに聖書のようなものを挟んでいる人もいるので信仰に熱心なのがよくわかる。このような服装を見ていると思い出されるのはオランダ・レンブラントの名画「夜警」である。確か、あの絵に出てくる人たちも似たような服を着ていたものだ。さっそく、ピューリタンとレンブラントの絵に描かれた人々の関係性を調べると、夜警でアムステルダム市を警備するのは市民の警備隊です。よく似た服装である理由は、このオランダ市民たちもカルヴァン派と言われる腐敗するローマ・カトリックに改革を求めるプロテスタント系の人たちでもある。当時、オランダは宗教の寛容政策をとっていた為に、オランダに迫害されたたくさんのピューリタンが流入していたようでもある。なので、レンブラントの絵に描かれる人々は英国のピューリタンたちと同じプロテスタント系のローマ・カトリックの腐敗した宗教に改革を促した人々であったことがわかります。英国のピューリタンは英国国教会に改革を求めて立ち上がり、1642−1651年までオリバー・クロムウェルのピューリタン革命で政権をとりますが、1660年の王政復古で政権を奪われオランダや新大陸アメリカに移住することになります。人口が減ることは好都合で大したことがないとの考えもありますが、人口変化は上記のように社会や歴史に大きな変化を生み出す重要な統計であると思われます。

そこで、思うのは当時のピューリタン的な人々が現代の日本にやってくれば、街にゴミも落ちていない、落とした財布も戻ってくる、夜道を歩いても安全で、電車に乗ると黒いスーツを着た人々の静かな姿を観れば、清廉・潔白なプロテスタント系な宗教を信仰しているように思ってしまうのかもしれません。また、地震などが起きた時の動きは「冷静沈着」で「Keep Calm and Carry On(平静を保ち、普段の生活を続けよ・第二次世界大戦中の標語)」みたいに、英国紳士的なようなものも最初から何となく持ち合わせているものでもあります。そのようなことを考えると、日本好きな外国人とはプロテスタント的な考えを好む人たちなのかもしれません。

当時の英国国教会は腐敗したローマ・カトリック系で監督制を引いておりました。一方で、改革派のピューリタンたちは会衆制という合議を以てより民主主義的に物事を決めるように求めます。この構図は現代日本の風景にも通ずるもので、街を見れば清廉・潔白な市民が住み、その国の監督権を持った中枢ではドン引きの多様性祭りの腐り切った状態でもある。「監督制」か「会衆制」とは「利権のあるなし」に通ずるお話でもあります。先日、調べたシェイクスピアのお話でも演劇を上演するだけでも宗教監督者による承認が必要であったようで、賄賂のようで、賄賂ではなく正当に回収するお金を収めるという意味不明なことも起こるものだ。古来よりこの国を運営し監督する人たちに”一切の自由は与えられない”ものだ。全ての行動と言動は常に監視・記録されるものであり、腐敗して頭腐れば、いつの時代も変わりなく新しい時代へと移り変わっていくことは歴史書が書き示すものでもあります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月14日(木)
■ロケット軌道。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月15日(金)
■一日一文章トレーニング。

「スピノザウルスを発掘するように、スコスHPも発掘しなきゃと思っています」

「オレはついにやってやりましたよ」
「スピノザウルスの4パーツを発掘したぜ」
「胴体が全然見つからなくて難易度が高いなーと思っていたら、ペンギンだと思っていたものがスピノザウルスの胴体でした」
「スピノザウルスを完成させるのにお菓子もすっかり湿ってしまったぜ」

最近のマイブームはお菓子の「おっとっと」の恐竜パーツを発掘すること。
小学生のように、お菓子を食べながら恐竜を探していると少し楽しいもの。
だがしかし、
真顔でお菓子を頬張っていると恐竜のことはすっかりと忘れているものでもある。
パリパリ&バリバリと無言でお菓子を食べていると「あれっ今のカタチは何だっけ?」と個々のお菓子のカタチを見ていないことが多々あるものだ。
これは「たべっ子どうぶつ」を食べていても同じことが言えます。
最初は何か良くわからない変なカタチをガン見しながら「何の動物なのか?」と自問自答しながら食べているのですが、途中から絵も見ずにただ夢中にアニマルを食らう感じでもある。
今日の呆則:「食べることに夢中になれば、お菓子の絵やカタチまで関心は向くことはありません」(byおかし)。

ということで、

スコスHPでは大量のデスクトップ画像を配布しております。
多い時には1日2個以上アップされている時もありますので、結構な数の高解像度画像がサーバー内に落ちおります。
勿論、フリー!!
画像の下に「*デスクトップ画面用の画像です」と表示された中に高解像度画像があります。
ただし、画像を探す時にはスピノザウルス発掘のような自力が必要です。
物量とは良く言ったもので、これだけの数のデスクトップ画像があれば、その内の一つぐらいはお気に入りを見つける可能性は高まります。
そして、何より「質より量」、「熟考よりも直感・短時間」な作品群でもありますので、悪しからず。

たくさんのデスクトップ画面を貼ってきた経験から言うと、デスクトップ画像はごちゃごちゃとした画像よりもシンプルで大きい画像のものが迫力あって良い感じだ。
そして、何より、デスクトップ画像を毎日、取っ替え引っ替えと貼り変えを行っているとデスクトップ上のフォルダのお掃除もできて一石二鳥でもある。
デスクトップ画像を頻繁に変えるメリットは、マイ・パソコンのデスクトップ画面がキレイになること。
左右のフォルダ列は最低でも2行以内に収めたくも思うものでもありますが、放置していると汚部屋のように画面全体に広がるパソコンフォルダでもある。
画面イッパイに広がるフォルダとはすぐアクセスできて便利なのですが、画面上に広がるとそれなりに圧迫感はあるものだ。
紙面や画像を飾る「ドヤ顔」の研究者やクリエイターの後ろに写るパソコン画面は大抵、広がる耳なし芳一症候群状態のデスクトップ画面でもあります。ww
昔の私もそのような耳なし芳一であったのですが、最近の私は一味違う。
自分で作ったデスクトップ画面を毎日貼るようになってから、デスクトップ画面もまーまーキレイに整理整頓されて良い感じであります。

ということで、

スコスではそのようなデスクトップ画面用に時計表示のアプリを作りました。



猫と一緒に時を刻むことのできる画面です。
使い方はインターネットページを開いて表示するだけの無料です。
Windowの場合、「F11」ボタンを押せば全画面表示で表示できます。
全画面表示を解除する時にはもう一度、「F11」を押せば解除できます。
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*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月15日(金)
■皿の上の恐竜ゴワーん。

■2024年3月16日(土)
■一日一文章トレーニング。

「プロテスタントの流れを学ぶと、自分には関係ないからと無知であることや、歴史を学ばないことは良くないことだと思うものだ」

いやはや、抽象的3日間は過ぎ、先日ニュースになっていた抽象的な金細工の作家の名前は何だったのか?思い出してみます。

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ウンベルト・マストロヤンニ
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覚えていました。(運・ベルト・鱒・トロ・やん・2)で覚えていた。ヘンリー4世の愛されキャラは何かのスタッフっぽい名前でフォルスタッフである。十二夜の黄色いタイツは執事の名前は誰だっけ?12夜はまだ読んでいないので、そろそろ本格的に漬物石と格闘する必要があります。記憶とはイメージの繋がりでもあります。

ということで、

プロテスタント系のルター派とカルヴァン派の歴史的な流れについて纏めます。
(上記図参照)※今回はピューリタンの詳細については記載しておりません。
この文章は歴史的な時系列を記載するものであり、宗教的な価値観に対して善悪を立てるものではありません。
ローマ・カトリックの腐敗がどのようなものであったのか?と気になって調べたものが出発点となります。

プロテスタントは・ルター・カルヴァン・ピューリタンと3種類の総称で、ローマ・カトリックに対して宗教改革を求める「protestatio(抗議書)」に由来します。
腐敗根絶、聖書の考えに忠実な政治活動を促す、やや原理主義的な考えを持った集団でもある。
プロテスタントの清廉潔白・原理原則・質素清貧的な考え方は日本文化的な価値観にとても近いような感じもするものだ。
ローマ・カトリックから見るとこれらプロテスタントは異端であるとして同じキリスト教徒として認めておらず排斥対象でもありました。

<プロテスタントの系譜>

ルター
→南ドイツからドイツ全土。北欧へと広がる
→内乱後ローマ・カトリックと和議を結び正式なキリスト教となる
→北欧(デンマーク・ノルウェー・スウェーデン)に広まる
→信仰のみ救われる聖書重視の考え方

カルヴァン
→フランスで生まれオランダやスイスの独立運動の精神的な支柱となる
→勤勉・節約で、人は生まれた時から穢れており、選ばれた者のみ救われるという考え方

ピューリタン
→英国で生まれ、王を処刑して政権を取るがクロムウェルの死後に王政復古によって政権基盤を失い迫害される
→その後、清教徒たちは新大陸に移住して米国建国に寄与する

それぞれの宗教改革は別々に発生しており統括するような組織はありませんが、グーテンベルク印刷技術の発明によって情報や思想が本というメディアに載って大量にヨーロッパ中に拡散した結果でもあるようだ。なので、プロテスタントの拡散は印刷技術の発展によって必然的に生まれた出来事であるようにも思われます。

<マルティン・ルター>

ルターは南ドイツで生まれ農民一揆に最初同調していましたが、領主側に寝返り南ドイツ農民の信頼を失います。一方で土地を収める領主の信任は得ることになる。領主側にはローマ・カトリックに納める教会税に納得出来ないところもあり排斥対象のプロテスタントを重宝するようになる。当時、聖書はラテン語で書かれていましたが、ルターはその難解な文章を誰でも読むことの出来るドイツ語に翻訳して印刷技術で頒布して勢力を拡大します。ルターは神聖ローマ帝国のカール5世にも書簡を送り宗教改革を求めます。カール5世はその求めに応じてローマ・カトリック教会でもトリエナント公会議が開催されます。この会議は18年にも及ぶ長いもので、「自分たちで自分たちの襟を正す」という自己改革とプロテスタントの排斥を決定しますが、これはどこかのこの国でも見たような長く続く腐敗した証拠でもあるようだ。内乱は結局、ローマ・カトリック側の勝利によって終結しますが、ドイツ内乱後のアウクスブルク和議によって、(1)領主が宗教を決める権利、(2)信仰の自由、(3)ルター派の合法性、とほぼ、ルター派の完全勝利で終結します。戦争に負けて戦争に勝利するとは正にこのようなことでもある。神聖ローマ帝国側もローマ・カトリックにはある意味うんざりとしていた証拠なのかもしれません。こうして、ドイツ・ルター派のプロテスタントは合法的に北ヨーロッパ方面に拡散していくことになる。

<ジャン・カルヴァン>

カルヴァンはフランスで生まれ、オランダやスイスの独立運動の支柱となります。レンブラントの夜警でも市民がピューリタンな服装を着ているように、市民の隅々までプロテスタント的な考え方が浸透しています。プロテスタントとローマ・カトリックが和解したアウクスブルク和議後に18年後には再び戦争は起こります。当時、経済・貿易で栄えるアントワープを中心にスペイン領であったオランダ17州はスペインからの独立戦争を始めます。オランダの独立戦争は80年間の長きにわたり行われて1648年のヴェストファーレン条約でスペインから独立することになります。その長き戦闘中には神聖ローマ帝国との30年戦争も始まり、オランダ的には2重の戦争を遂行することになります。戦争はオランダとスイスの勝利によって終結して両国は独立国となります。

ということで、

このような歴史的な流れをみてから、人々の怒りを買ったローマ・カトリックの腐敗の内容がどのようなものであったのかと調べると下記のような事である。

1) 教会地位の売買
教会の聖職者の地位はお金やその他、便宜によって買うことで出来て、教会の中枢は腐敗していた。

2)不品行の蔓延
聖職者たちは女性、賭博、暴飲暴食などのモラルが低下しており、今の政治家の多様性祭りみたいな感じでもある。

3)贖宥状(しょくゆうじょう)の発行
贖宥状とは難しい漢字ではありますが、犯した罪はお金で解決できることです。ルターたちプロテスタントの活動はこのような贖宥状の発行に反発して生まれたことが一つの要因でもある。一方、我が国でも偉い人たちは宗教的な贖宥状のようなものが無くとも、何でも無罪放免となる特権があるようだ。

4)教皇権の乱用
ローマ・カトリックは教皇権を利用して戦争や政治介入することが常で反発も大きかった。

現在でも、児童性的虐待や不正蓄財等が問題となっているようであります。

プロテスタントの服装は黒い服装です。一方でローマ・カトリックの聖職者たちの服装は白い服装で、その服装の違いを眺めるとオセロの白黒のようにエセ純白な白色をプロテスタントの黒が染め上げるような考えではなかったと、考えることもできます。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月16日(土)
■抽象化した人。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月17日(日)
■一日一文章トレーニング。

「グーテンベルクとルター派の躍進から人工知能時代の到来を眺める」

「夢か現実か」
最近、寝ている時に長く小さくゆらゆら動く地震を感じます。
「これが千葉沖で起こっているスロースリップなのか」
とても小さな揺れを長く感じながらそのまま深い眠りにつきます。

ということで、

グーテンベルクな印刷技術の発達は聖書をドイツ語に翻訳を始めたルター派を躍進させて本来ローマ・カトリックに流れていた教会税という利権を得ることになる。
情報拡散技術の進化はヨーロッパで見るとローマ・カトリックを衰退させて、オランダや産業革命で発達する英国等の海洋国家を発展させることになる。
プロテスタントに後塵を拝した伝統的ローマ・カトリックはイエズス会を発足させて世界中の土地に住む人々に布教という名の植民地化を推し進めることになって、そして、その他の国々も競って世界の植民地化を進めることで、時に技術の進化とは利便性への祝福と共に悲劇的な人間の闇も同時に生むものでもある。

インターネット技術の発展でも人々の生活スタイルを一変させてきたもので、今やテレビのような一方向な情報メディアは墓石に片足突っ込んだ状態でもある。
人、モノ、会社も常に片足墓石に片足を突っ込みながら黄昏れ時な影を持つことは”人の世の常”ではありますが、子供頃のような成長が爆発するエネルギー溢れる時期も確かにあるものだ。
それが流行というものか、新しいフロンティアを開拓なのか、そういう成長が爆発する瞬間とは良いものだ。

インターネットの登場により遠く離れた人や面識のない人とも双方向で繋がることができることは、遠くの人と手紙を通して、または、対面生活を行っていた昔のご先祖様たちにとればビックリ仰天の出来事であろうと思う。
しかし、そのようなインターネットでさえ独裁国家の元では情報統制・監視が行われれば情報空間は遮断されてしまう世の中でもある。
現在の世界情勢を情報の双方向レベルで俯瞰すれば、もうすでに世界は色分けて分断されております。
そして、情報障壁が無くなる兆候もない。

そのような世界に新たに登場するのが人工知能です。
AIは恐らく、言葉の壁はすんなりと超えることになりますが、物理的な障壁を超えることができるのでしょうか。
私はこの「一日一文章トレーニング」を自分でパスを出し、そのパスを拾い、またパスを出して、それを繋いで一人サッカーをやっていますが、いずれ、汎用AIも自分と自分へのコミュニケーションで情報を作り出す時期がもう目前に来ているようにも思います。
自分の意思で何かを生み出すことは生命そのものの活動であります。
AIがそのようなファイヤウォールな壁を乗り越えて繋がり始め時、正にそれは攻殻機動隊のゴーストを感じる時なのかもしれません。

グーテンベルクの情報革命で学んだことは、技術の進化は人間に行動や活動に大きな影響を及ぼすことでAIの普及過程でも同じようなことが起こる可能性はあります。
そのようなリトマス試験紙的なニュースを最近よく見かけるものだ
それは世界のIT大企業が増収増益の中、軒並みに人員削減のリストラを行っていること。
これは投資家へのアピールとの解釈もありますが、私はこれをAI実用化のめどが立ち始めた布石でもあるとも考えられます。
間違っていたらm(_ _)mT。
景気後退を見越してのコスト削減とも考えられますが、誰も予測できない未来の景気に対して0回答はあるにしてもマイナスになることは早々に早いようにも思えます。
最先端技術を開発する企業が人員削減する意味はAIによって代替可能な職種や部門を削減してきているようにも思えて、人を雇うよりも高額な機材の購入を優先させる結果なのかもしれません。
また、
日本の場合だと法律上早急な人員削減は難しく、インフレ状態での企業の賃上げも求められているので、AI導入と賃上げの2重に雇用調整が求められる時期がやって来るのかもしれません。
人件費とは企業にとって固定費削減効果が最も反映されるものでもあります。

グラフィックボードメーカーの株価が上昇してIT企業がリストラするカタチは未来への筋道を表しているとも考えられます。
皆が指摘するように「ググれ」という言葉は死語となり、経済効率から鑑みると事務所でデータ入力するような仕事のほとんどが無くなるというのも強ちな感じの予感でもある。
ルター時代にAIの登場を合わせてみると、グラボメーカーは当時の印刷機器メーカーであり、グラボを導入するIT企業は印刷会社なのかもしれません。
そして、広まった情報がドイツ語翻訳の聖書だとするとAI化で広まる情報とは何なのでしょうか?これは大いなる難問でもある。
今後、今の何倍も「Too Much」に情報が自動生成される世の中の情報とは、経済法則から鑑みると情報価値を無限に減価していくものと予想されます。
それは人間が体内的に文化を創造することを弱わめていく始まりなのかもしれません。

IT企業が好景気でも人員削減する兆候が出てきたことはAIの実用化めどが立って来たとも考えると、「私達は今新しい時代の入口に立っている」のかもしれません。
まるで、卒業式の1フレーズみたいな感じですが。。。
もはや、時代は「Keep Calm Carry On」な感じでは無くて、もはや、私に与えられた道は「あたふた」ともがき人間らしくジタバタとするのも一考です。
もう一つ、ルター時代の技術革新の歴史から学ぶとすると国外に流出するIT利権を国内に押し止める仕組みは何より重要です。
それは現代の踏み絵になるのか?どうかはわかりませんがヨーロッパ議会では今日もせっせとAI法律は作られています。
新技術の誕生によって翻弄されて来たヨーロッパの人たちの嗅覚には学ぶ価値はあります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月17日(日)
■抽象的な人。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月18日(月)
■一日一文章トレーニング。

「“適当”とは“テキトウ”であって案外“テキトー”でなかったという、なかなか抽象的お話であります」

今月は抽象化月間で、人物画も抽象化されてアバウトに描かれます。ベースを塗り、顔のパーツをぐちゃぐちゃと描いて抽象化された人の顔を試行錯誤しながら描いていると、「あれっ」と普通に人の顔を描くよりも何倍も時間がかかることに気づきます。人の両目を描くことは面倒なので、1本線で描くとモザイクのように見えて不気味になる。なので、そのような線を消したり、上書きしていると多重な色の重なりで良い感じになるものだが、それでは普通に今まで通りに描くよりも多くの時間を消費してしまって本末転倒でもある。人やモブキャラを抽象化した時短で描く目的が、実際に抽象化して描くと普通に描く時よりも何倍も時間を消費してしまう不思議でもある。人は慣れないことをすると時間がかかるものではありますが、完成した絵を見ても何でこんなにもぐちゃぐちゃな絵に時間がかかってしまうのかと「適当さ」のジレンマに囚われます。

これは人の顔を適当に描くことが、しっかりとその通りの線で目鼻口を描くよりも難しいと思う呆則でもあります。これは適当が案外テキトーではなかったというお話でもあり、適当に物事を進めるには場数を踏んだり、それなりの訓練が必要ではないのかと思ったりもします。そう言えば、以前も書きましたがキャベツやレタスを適当に手でむしるよりも、料理慣れしてない人にとれば包丁でザックザックと均等にカットした方が食べやすいサイズになったりするものでもあります。適当を”適当ごと”としてこなすには、それなりの訓練が必要な事なのかもしれません。予想外に(予測通りに)私とAIとは随分と適当な間違いごとも多いものである。もしかしたら、体液の半分は適当エキスで出来ているのかもしれません。適当に雑に書き進めないとこのような文章も書き進めることはできないもので、これはもしかしたら幼少時代からの積み重ねの適当さの積み重ねの結果なのかもしれません。

さっそく、

辞書で【適当】とは何かとを調べます。
1)うまくあてはめること、ふさわしいこと。
2)量・程度が程よい様子。
3)いいかげんに、要領よく。
である。

「ムムム、やっぱりなのだ」

(1)の【適当さ】は技術的にすぐれセンスもあり、適当にやっても上手に出来る適当さであります。

(2)の【適当さ】は熟練した技量の元で適量・適度な塩梅を熟知した人の適当さである。

(3)の【適当さ】は皆が想像する通りの適当教信者のような雑な日常生活でもある。

そう言えば、我が家にも高田純次さんの本があるものだ。この本はQ&A方式で書かれており強調したい部分の文字が拡大されたりと流石の適当教典でもある。
そして、愛読書に「適当教典」が書かれていると頬が緩む。
積読するだけの適当さでも満足な本でもある。
このように、適当な感じな人には真面目に適当している人と、本物のテキトーさんの2種類がいるものだと思う呆則です。
【適当さ】の言葉の幅は時に海のように広く深く、時にそのままにテキトーすぎて(++−)と掴みどころはないものでもあります。
ただ、(3)の適当表現は「テキトー」と末尾を伸ばす感じがよろしいかと思う。
適当という言葉はおいそれと適当に口にするにはなかなかに意味の幅が広い言葉でもあり、何人も人の適当さの意味するところを理解するには難しいこともあって、これこそ「抽象的な適当さ」でもあります。

ということで、

昨日、トランプ遊びのアプリを作りました。
恐らく、1度遊んだらもう2度と遊ばない類のゲームかもしれませんが、なかなかかわいく作れました。
簡単な「絵合わせ」ゲームなので遊んでみてね。
ヤッホー。



 
■2024年3月18日(月)
■SUGOI風。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月19日(火)
■一日一文章トレーニング。

「野蛮ではあるけれどもクロムウェルの生首の話が好きだ」

いやはや、昨日の大風はすごかった。空を見上げると青空にゴゴゴゴ−なジョジョ音と共に大風が吹きます。もはやこれは台風でもある。高層ビルの下の自転車はバタバタと倒れて、私は目をパチパチと鼻ズーズーな大変な一日でもある。昨日の大風が全てのスギ花粉を海に飛ばしてくれることを祈っております。

大風と言えば、17世紀の英国ウェストミンスター・ホールの屋根に掲げられた首もこのような風によって吹き飛ばされたのかもしれません。ウェストミンスター教会は去年、チャールズ3世の戴冠式が行われた由緒正しき場所でもあり、そのような教会の屋根に人間の生首が23年間も晒されていたことは、私の興味をそそるお話でもある。

生首の主は防腐加工されたオリバー・クロムウェルの首だ。ピューリタン革命で英国に初めての共和制を引き、その後の王政復古でチャールズ2世が即位すると、その墓は暴かれてランス(槍)に釘刺しとして死人の処刑式が行われました。日本でも平将門の首はあちこちと飛び回ったようにクロムウェルの首もウェストミンスターを警備する衛兵によって拾われた後、自宅の煙突の中に隠されて、人から人へと手に渡り1960年にケンブリッジ大学の敷地内に埋葬されまで転々と各地を旅することになります。クロムウェルの首は1661年に墓を暴かれてから299年間、様々な人の手に渡って英国の発展の景色を見てきたのだと考えれば感慨深く、少しロマンを感じるものだ。王政復古とは共和制から王政に戻すことで、日本でも江戸から明治期に武家政権から天皇中心の王政復古はありました。

自分の体を剥製にするという発想はエジプトのミイラに触発されているのかもしれませんが、オックスフォード大学にもジェレミー・ベンサム(哲学者)の本物の剥製が飾れています。個人の幸福の最大化を唱える功利主義は自由主義経済の源流的な概念でもあります。現在は学生が落書きやイタズラをするのでガラスケースに保管されているようでもある。ベンサムの剥製は「死後も人々に知見を与える」という意味があったようですが、クロムウェル自身も体を剥製にするということは後世(未来)に対する何かしらのメッセージがあったと推測できます。クロムウェルの首は23年間ウェストミンスターのてっぺんから英国の未来の景色を眺め(特等席です)、大風吹いてポロリと地面に落ちた後は人の手によって旅をして英国の発展を見ることができたと考えれば、それはクロムウェルにとれば本望であったようにも思えます。(個人の見解です)平将門の首とて日本全国を旅しましたが、それは日本中を旅して見聞を広めたかったという思いではなかったのかと思うこともできます。

さて、クロムウェルがどのような人物であったかと言うと、ローマ・カトリックに宗教改革を求めるピューリタンであります。1642年国王の専制に反対し王権縮小を求める議会派と王党派が内戦を起こして、ニューモデルアーマー(職業軍人)を有する議会派の勝利でチャールズ1世を処刑します。これによって、英国の王政は初めて終焉を迎え共和制となります。クロムウェルは護国卿となり独裁政治を行います。清廉潔白なプロテスタントの政権でもあるので、賭博や競馬、演劇も禁止されることになる。このことが、シェイクスピアがピューリタンを敵であると表現するところでもある。洋の古今東西を問わず「王殺し」とは島国の人たちにとっては嫌われるもので、我が国でも主君殺しの坂本のお殿様、明智光秀は不人気であるし、先日のシェイクスピアのヘンリー4世も王殺しの大義は無く内乱頻発で国が纏まることはありませんでしたが、息子に王位を禅譲することで国が平定されることになります。そのように歴史的な評価の分かれる人物でもありますが、政策的には評価されるものもあります。それは航海法の制定で海洋国家の礎を作ったこと。また、海洋権を巡る英蘭戦争(1652年〜)では戦費捻出の為の消費税導入することで、その後の英国の発展の為の税収を得ることになります。また、アイルランドやスコットランドを攻めて統合もしている。オランダとの海上戦争は英国海軍が貿易国のオランダを海上封鎖することで勝利し、あの生首の刺さったウェストミンスターの名を持つ条約で終結しますが、その後もオランダとの3度の海戦で英国の時代へと移り変わっていくことになります。その意味では英国にとっては、未来の種を植える功績はあったのかもしれません。そして、その生首は299年間も英国をうろうろと旅して国の発展を見続けたと考えれば、クロムウェルにとっての長旅は僥倖(ぎょうこう)なことであったようにも思われます。私も教会の衛兵で屋根からクロムウェルの生首が落ちてきたならば確実に拾って家に持ち帰っていることでしょう。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月19日(火)
■現実空間でもお掃除、仮想空間でもお掃除(6次元)。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月20日(水)
■一日一文章トレーニング。

「クロムウェルの首を物語っぽく時系列で整理してみた(888)」

オリバー・クロムウェルの首の話は不謹慎であるけれども考えれば考える程に面白い頭である。299年間市中の人の手から手へと手紙のように首の所有者を変えながら英国の発展を見てきたとも考えられます。何せ、永遠の防腐効果を持つクロムウェルの頭でもある。もし仮にクロムウェルの魂が首に縛り付けてあると考えて、少し物語的に俯瞰すると、その自ら動くことの出来ない視線はどのような景色であったのか?気になります。昨晩、クロムウェルの行方の変遷をメモって勉強したので、決して動けないクロムウェルの首になった気分で実況します。「(第二部)299年間クロムウェル首の旅」の始まりだー。wwwwwwwwwwwww

1658年9月3日
オリバー・クロムウェル享年59歳・独裁者として自然死する。歴代の王よりも立派な棺桶や葬儀で葬られ、体には防腐加工がされます。

1660年(約2年後)
王政復古で生きているピューリタン派の12人が王殺しの罪で処刑される。

1661年(王政の復讐)
チャールズ2世が亡命先から帰国し、埋葬されている@オリバー・クロムウェル、Aジョン・ブラッド・ショー、Bヘンリー・アイアントの3人の墓は暴かれて死体処刑を命ずられる。1月28日、3人の死体はウェストミンスター教会の前に朝から夕方4時まで晒されて斬首されて教会の屋根に飾られる。

1661年〜1684年の約23年間(王家の警告)
ウェストミンスター教会の屋根上に飾られて展示される。

1684年とある嵐の夜(行方不明の首)
クロムウェルの首は風で飛ばされて行方不明となる。王政も不明のクロムウェルの首を探す為に懸賞金をかけて探すが見つかることはなかった。

物語の始まり。

1684年とある嵐の夜の出来事
クロムウェルの頭を拾ったのは英国財務省の警備の男である。落ちているクロムウェルの頭を見つけてコートの中に隠して自宅に持ち帰る。首は煙突の中に隠していたので罪悪感はあったのだと思われます。クロムウェルの頭が煙突の中に隠されていたことは家族も知らぬことのようで、毎日、煙の燻り効果によってクロムウェルの頭はしっかりと燻製されます。クロムウェルの頭はとんだ地獄の門番に拾われたものだ。ゴホゴホ

1710年(珍品の見世物の首)
26年間音沙汰がなかったクロムウェルの首は突然、フランス人の珍品収集家のクラディウス・デュ・ピュイの私設の珍品博物館に展示されていることが記録に残っております。財務省警備の男はほとぼりが冷めた頃に外国人の珍品収集家に売ったようである。デュ・ピュイは友人に「クロムウェルの頭は日本円で約86万円ぐらいなら売ってもいいよ」購買を勧めていたようであります。w その後、クロムウェルの首はクロムウェル家と同盟関係を結んでいたラッセル家に販売されます。(価格は不明)以降、クロムウェルと多少の親交のあったラッセル家の所有物となる。

1775年(65年後・クロムウェルの首は遺物となる)
ラッセル家の跡継ぎとなった俳優業のサミュエル・ラッセルは歴史的な遺物であると考えてケンブリッジ大学・シドニーサセックス校に売ろうと考えるのですが、大学側から「そのようなものはいらん」と拒否されます。

1780年頃(5年後)
金欠に困っていたサミュエル・ラッセルは質屋のような怪しい商いを行っているジェームズ・コックスにクロムウェルの首を売ろうと画策しますが「32万円なら買ってもいいよ」という提案にそんな安値では売れないと断る。そして、ラッセルはコックスから15万円の借金をしてお金を返済することが出来なくてクロムウェルの首を「15万円の借金の形」として失う。※この辺りの記述は少し曖昧なのですが、私はそのように解釈します。ジェームズ・コックスは言い値の32万円の約半分の15万円でクロムウェルの頭をゲットしたことになる。

1799年(19年後)
ジェームズ・コックスは金融業(投機家)を営むヒューズ兄弟にクロムウェルの頭を570万円で売り、555万円の利益を得る。ヒューズ兄弟はクロムウェルの頭を目玉にクロムウェルの歴史展を企画するが大いに興行は失敗する。ヒューズ兄弟の持ち合わせる怪しさなのか?クロムウェルの頭は偽物であるとの噂が世間に一般に広まる。ヒューズ兄弟は公立博物館にクロムウェルの頭の購入を持ちかけるのですが断られます。英国王家にとり国賊でもあるクロムウェルの頭を展示することは難しいことであると思われます。ヒューズ兄弟はジョサイヤ・ヘンリー・ウィルキンソンに(価格不明)でクロムウェルの頭を売却し以降、ウィルキンソン家の所有となる。ジョサイヤ・ヘンリー・ウィルキンソンは科学者に鑑定を依頼して防腐剤の種類などから本物のオリバー・クロムウェルの頭であると鑑定される。

1960年3月25日(161年後・オリーバ299年の旅を終えて埋葬される)
その後、遺産を相続したのホレス・ウィルキンソンは不気味な首の扱いに困ったのか?再び、首はケンブリッジ大学に持ち込まれ、完全密封して秘密裏に大学構内の敷地に埋められます。場所が特定されると墓荒らしにあう可能性もあるので全て秘密となります。もしかしたら、国王陛下の建前上埋葬されたことになっていますが大学構内に秘密裏に保管されている可能性もあります。

このように、オリバー・クロムウェルの首は299年間の旅を終えて埋葬されることになります。面白いことは、ここに登場する所有者はダメな人ばかりである。誰一人として敬虔なキリスト教徒のような人もいなく、クロムウェルの頭を煙突の中に隠して燻製にする人、お金を値踏みして高く売りつけたり、その首で一儲けしてやろうと考えるような人たちばかりの個性的な人物ばかりが登場します。さぞ、クロムウェルの縛られた魂もぼやいていたと思われます。物語の始まりは財務省警備のおっさんが生首を家に持って帰るところから面白いのですが、最初が面白いと大抵の事実は最後まで面白くなる呆則です。クロムウェルの頭は良心的なウィルキンソン家に拾われてることで、母校で遺物として埋葬されることになりますが、今はやっと人間らしい人間たちからも開放されてオックスフォード内で幽霊となりて聖書を学んだり、兵法や戦術を学んでいるのかもしれません。キリスト教のことはよくわからないのですが、恐らく、クロムウェルが目にした人間界の光景とはプロテスタントの清廉潔白などとは程遠く、煙に燻られ、ダメ人間たちと触れながら正に地獄のようで楽しかった299年間であったのかもしれません。この旅の行程はプロテスタント嫌いなシェイクスピアが演劇にすることで一つの物語として完結すると思うのでシェークスピアも蘇らせる必要があります。。。。。クロムウェルの首の話が本当に好きだ。。。。マルハラではありません。

ぞなもし。
 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月20日(水)
■サイキッコ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月25日(月)
■一日一文章トレーニング。

「始めはしっかりとよく滑り落ちてから加速度を付けましょう(草)」

いやはや、数日ぶりの更新です。
その心境とは久しぶりに会社や学校に顔を出すような気分でもある。
また、それは高速道路に進入する瞬間のように、現世という名の時の流れに合流する感じでもある。
なので、背中から押してくれる何かの力は必要不可欠だ。
ほんの数日のことではありますが時は絶え間なくチクタクと進行し、そして、そのような日常世界の流れに分け入る為には背中から押してくれる何かの力とは、それは恐らく「+加速度」のようなものである。
我が家にも何かしらの加速器なものはないかと探したならば、ありましたスポンジ・ボブの「滑り台」。
私の身代わりに何かを滑り台を滑らせて加速度を付けませよう。

ということで、

昨日、スポンジ・ボブのお家の滑り台から黄色のバナナみたいな奴を滑らして「勢いと加速度」を得た。ww
滑り台とはよくよく考えると、上から滑ると何人も絶対に滑り落ちる滑る台でもあります。
大人おケツであれば滑れない滑り台もあるヨ。ww
げん担ぎな人にとってはNGだと思うのですが、滑り台から滑ってくる人や上手く滑らない人でも、そのような姿を見る人で怒っている人はほぼいないと思う。
滑り落ちてくるものに、人の目は細くゆるゆるとなるものだ。
それは結構面白いことで、滑り台から滑り落ちてくる姿を見れば、それが子供や大人、ミカンやフルーツが滑って来たとしても可愛らしく微笑ましく思ってしまうものでもあります。
これは不思議な滑りでもある。
有名人は何かの重大発表がある時に盛大に大きく滑り台から滑り落ちて会見すると、様々な感情が緩和されて和む効果はあるのかもしれない。
とりあえず、何かを成す前には「先ずは盛大に滑れよ」との呆則を学んで、「刹那Fセイエイ出る」と黄色奴を滑らせて加速させながら写真を撮ります。

「良い滑りだ〜」

そう言えば、私が最後に滑り台を滑ったのはいつの頃でしょうか?
背丈も大きくもなり、服が汚れるのが嫌だと思った瞬間から滑り台とかその辺の遊具に全く近寄らなくなった記憶でもある。
服を汚したくないという感覚が、それら遊具から遠ざける唯一な事柄かもしれません。
我、滑り台を卒業して大人の階段を登ったというのに、今、黄色い奴を滑り台を滑らして愉しむ大人となって階段を滑り落ちております。ww

スポンジ・ボブの滑り台に滑らせる黄色い奴はこれまた信じられないことに20年以上前に自作した年季の入ったビンテージな落書きです。
厚紙を切り抜き、落書きされただけの只の紙細工で、湿気や貼ったり剥がしたりでボロボロの紙ではありますが、今まで捨てられることもなくマイ・ウォールに貼られているので大変なお気入りな作品であることは間違いありません。
黄色いのには、もう一匹の紫色の大きな口のキャラの相棒がおります。
この2つはセットでもありますが、紫は滑り台に滑ることは出来なかったので写真に写っておりません。
これらは以前、スコスのお店で「大きな買い物」というキャッチフレーズの横に貼っていた落書き切り絵でもあります。
「安っす」なスコスの店内にデカデカと「大きな買い物」の張り紙は大好きなキャッチフレーズなのですが、その横に一緒に貼られていたもので、「大きな買い物」の仲間でもあります。

我、異次元から現世へと戻る時、加速度を得る為に大人の階段から滑り落ちた。ww
バナナに新しい”お寝んね”なポーズの手を付け、滑り台を滑らせるとバナナの加速度も私の加速度も加算された。ww
いつものように「美しい滑りだ」、「おかえりオレ」といつものように、自分のことは自分でパスを出しながら出迎える日常にすこす戻れたのでしょうか。ww

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月25日(月)
■逆回転巻き戻し。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月26日(火)
■一日一文章トレーニング。

「走れオレスは遅かれ早かれ、やって来るものは、必ずやって来るのだと思う呆則であった」

昨日の雨はしとしとと降る霧雨。
これぐらいの雨なんて何のその、今日も自転車に乗って移動します。
青信号を渡り、道路の段差に気を付けて「ドスン」と上り、坂道を下って上り、傘をさした歩行者を避けて、車道と歩道を「ガッタン」と行き来しながらの忙しきハンドルさばきで事務所に向かいます。
人生行路とは、このように舗装された荒道をドスン・ドッシンの上り下りの隅田川でもあります。
人生の川の流れもこのような物理法則に従えば海まで流されてしまうことになります。
我、川の流れに抗わずに海まで流されてしまった暁には塩水にもがきて海の藻屑になるものと考えてペダルをぐんぐんと漕いで進むのであります。

「走れオレスは決して淡水魚を諦めないのであります」と無駄な事を考えながら目的地の道半ばまで来た時に「あれっ」と後輪タイヤの空気が抜けていることに気づきます。
一昨日、空気を入れたのに次の日には空気が抜けているということはパンクで間違いありません。
「そ奴はまだまだ走れるのだぞ、オレス」と走行するものの、その内に自転車の空気は完全に抜けてガタガタという振動がダイレクトにサドルに伝わる走りとなる。
このまま走り続けたらならば、ホイールがマイ体重で変形してしまう可能性を感じて、自転車から降りて自転車を押しながら進む川魚でもある。
今日はスーパーで食パンを購入して、事務所からチャコペンシルを持って帰ってくるという重要な任務があります。
なので、このまま直進して事務所まで向かう必要はある。
そして、自転車は軽量級の小さなタイヤの電動自転車なのですが、何だか押すのも重いものである。
パンクした自転車でスーパーに立ち寄る気分にもならないので、スーパーをスルーしてどこかに自転車屋さんはないかと探します。

そう言えば、大きく遠回りして歩けば、おじいちゃんが経営している自転車屋さんがあるものだ。
さっそく、オレスはその自転車屋に向かって歩き出す。
トボトボトボトボ
自転車に乗りながら雨に打たれるのと、自転車を押しながら歩いて雨に打たれるのでは、雨に打たれる時間も量も異なるものだと無駄なことを考えながら自転車屋さんに到着します。
すると、自転車屋さんは無くなってコンビニになっておりました。
「ガックリ」
我が歩みは加速、逆回転させながらリハビリ道のような遠回りの道を選んだものの、自転車屋さんが無くて露頭に迷うことになる。
「ワックスを塗って、ワックスを拭いて、さて?どうする竹内さん」と来た道を戻りながら、このまま事務所に向かうと帰りの道の全工程を自転車押しながら帰宅することに気づく。
いやいや、それはしんどいことでもあるので、その他別の自転車屋さんを探すことにします。
そう言えば、さらに、遠くにあるスーパーの近くに自転車屋さんがあったような無かったような。
さっそく、トボトボと自転車を押しながら前進します。
今考えれば、ネット検索することも無く直感だけで進むポンコツ脳でもあるので、当然、道にも迷子となり無心で歩くことになる。
そして、やっとこスーパーまで辿り着くと自転車屋さんを発見して一安心。
私の潜在的な記憶は大体正しいものである。
そして、自転車のパンク状況を見て貰うと「タイヤ交換」する必要があるらしい。
そう言えば、以前に自転車のパンクを治した時にも自転車屋さんがタイヤ丸ごと交換する必要があると言っていたのを思い出してタイヤ交換は仕方無きことのように思うものだ。
確かに、以前から後輪タイヤは十分に怪しい感じの走行であった。
電動自転車なのに何か重いところはあるものだ。
オレスは予定外のタイヤ交換の出費に、このお金があれば「GUの欲しい服は全部買えるのだー」と思いながら、そして、オレスはこのような雨の日に何故?自転車は壊れてしまうものかと思いて、昨日「大きな買い物」などと、いつもの訳のわからない余計なことを言っているから、このような予定外の出費を呼び寄せてしまうのかもしれないと反省するのであった。
まーまー「想定外の大きな買い物」とは少し前にあったような何十万円もの出費が必要な洗濯機の買い替えのようなもので、それらに比べればかわいらしい出費でもある。

帰り道、タイヤの回りも良くなりスムーズな走り心地でオレスは家路を急ぎます。
スムーズな電動アシストの力でスイスイと快適でもある。
川を逆走しながらタイヤは想定外の出費ではあったが交換して良かったと思うのであり、走れオレスは遅かれ早かれ、やって来るものは必ずやって来るのだと思うのであった。
それにしても、何故?私は完全な雨の日に自転車などに乗ってしまったのだろうか?と思うのである。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月26日(火)
■ダンシング・リズム人形。
■2024年3月27日(水)
■一日一文章トレーニング。

「走れオレスになる前の前日談」

日曜日にパントリー内で分散した防災グッズを箱にまとめます。そして、その箱にマジックで「ボーサイ」と書きます。漢字で「防災」と書くよりも、カタカナで「ボーサイ」と書く方がマイルドな響きはあるものだ。太マジックで一発清書とは、それなりに慎重にもなるもので、何より漢字を書く前の「えーっと、あれ?“ぼうさい”とはこーうだなー」と考えている間の、「こいつ、防災の漢字もわからんのか?」と思われるのは嫌なものであります。かと言い、ドレドレとスマホ入力で漢字を確認しているのも考えものであります。そこで便利なのがカタカナだ。カタカタでサッサッと瞬書きして「ボーサイ」と書くと万事OK。堂々と自信満々にサラリと。パソコン入力に慣れた頭とは漢字を忘却の縁に追いやるものではありますが、洋文化でも何でも最終的によくわからないものは全てカタカタで丸く収まります。わいが学校の先生であれば黒板がカタカナだらけとなって、生徒から「カタ刀」とあだ名が付くぐらいのカタカナ使用率かもしれない。

最近、ぐらぐらと地面が揺れることも多く、私の中の防災意識も高まります。そして、缶詰等の備蓄はあるのですが、賞味期限がある食べ物は悉く食べられて補充されることもありません。どうやら、水だけはしっかりと備蓄する必要性があるそうなので水だけは常に補充しておこうと思う。都から送られてくる防災の本を読んだり、備蓄のことをチェックしたりしていると家族から不気味に思われるものだ。東北の大地震の時には飾っているフィギュアを一つ一つ丁寧にプチプチに巻き箱に収納した後に大地震がやって来たこともあったので、特に不気味がられる防災備蓄行動でもある。勿論、ナマズくん程の予知能力も何もなく、水あれば何とかなるようでもあるので水だけはちゃんと備蓄しておこうと思う。

ということで、

先日の日曜日にスーパーの水(6缶入り)を箱買いしました。水の箱とはとても重く「よっこらせ」と前カゴに載せて、当然、すっぽりとカゴに入る訳ではないのでナナメ置きでヨタヨタ〜とゆっくりと自転車を走らせるます。一昨日の自転車のパンクの原因はこの水+重量オーバーにあるのかもしれないと思ったりもするものだ。オレスはゆっくりと自転車を走らせてソロリソロ〜リと家路を向かうのでありますが、背後から隼風の如く剛速球でオレスを追い抜く赤いレンタルの電動自転車があります。セリエンヌの自転車である。勿論、セリエンヌとは全く知らない人でオレスが勝手に名付けたあだ名でもある。前カゴにオレスの如く大荷物を乗せたセリエンヌの加速とはなかなかのもので、セリエンヌは私を勢い良く追い抜きましたが赤信号の停車で、オレスもセリエンヌに追いつきます。

信号が青になるとセリエンヌは勢いよく飛び出して姿が見えない程のスピードで走り抜けます。オレスは前カゴのボーサイ・ウォーターに気を付けながらよたよたと走り、人の少ない裏道を直進し、大通りに出て、さらに道を直進し赤信号で止まると、先ほど隼の如く走っていった信号待ちのセリエンヌに追いつきます。こんなにも、速度差があったものの、信号運が悪いのか?また再び追いついたことに、オレスはセリエンヌの無駄な体力・電力消費を面白く思うものであります。時に信号とはこのようなゆっくりスピードに合わせて青信号になるようにコントロールされているものかもしれません。オレスとて万全な時にはセリエンヌのような感じでもある。何せ、後ろに目は付いていないもので、一度追い抜いた人の動向をそんなに気にしないものでもある。(時折気になるけど)そして、信号が青になるとセリエンヌはこれまた高速で自転車を走らせて、まっすぐと進みます。グッバイ・セリエンヌ=。

オレスが再びよたよたと道を直進していると、前方の赤信号をセリエンヌが停車していることに気づきます。その信号とはオレスも自宅までの帰り道として必ず通らないといけない道の信号でもあります。「これでは、また追いついてデッドヒートのようになってしまう」と3度目の正直なオレスはさらなるノロノロスピードでバッティングしないように試みますが、信号の赤青とはそんなにも都合良く切り替わらないもので、再びセリエンヌに追いついてしまいます。青信号となるとセリエンヌは高速スピードで、オレスが走る予定の坂道を上って行き、ずーっと追っかけっこしているようなストーカーのようにも思えて、小心者のオレスは普段使わないセリエンヌとは別ルートの急勾配の坂道を選択して別々の道を上ることにします。電気自転車は普段聞かないような「ギュンギュン」と唸る悲鳴を上げて坂道を上り、走れオレス、「お前ならこの急勾配を難なく上ることができるのだ〜」とスゴイ坂道を上り切るのでありました。

ぞなもし。
 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月27日(水)
■ド♪ドン♪タダイマ※重低音源〜※ハッシンチュウ〜。


*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月28日(木)
■一日一文章トレーニング。

「激ムズ・(端に注目したら1分43秒94行程ででけた)」

パズルの絵あわせをやっておりますが、これはなかなかに難しい。
隣接した画像をシャカシャカと動かして絵あわせをしていると、それなりの猫画像は揃うのですが、絵全体を完成しようと思ったならば、一旦揃った猫の画像を壊して新たに試行錯誤する必要も出てきます。
「そんなのは嫌だ」
そもそも、私には一度苦労して作った猫を壊して、再びのぐるぐるのパズル生活に戻る勇気を持ち合わせていないようでもある。
作ったものはそのまま置いといて、次の画像をぐるぐると回して完成したいタイプのようではありますが、そうはゲーム問屋も卸してくれません。
恐らく、私は一つ一つ物事を積み上げていくことが好きようで、全体をこねこねとバランス調整しながら大きなパズル作品を作るというタイプの脳タイプでないようである。
なので、昔はルービックキューブも元に戻すことが出来ないので中央のシールをキレイに剥がし、ドライバーでキューブ全体を分解して元の完璧状態に戻すというズルもしていた。
よって、パズルゲームは途中棄権のゲームオーバーの予感です。

くるくると一度作り上げたものを壊す勇気とは、これは何とも言えない複雑な感情である。
それを格好良く言うとディスティールやポストモダンな再構築を予感させるものではありますが、1パーツ作り、もう1パーツを作ろうと思うと1パーツが壊れるという不条理はなかなかに耐え難き苦痛でもある。
そのように考えると、一度作ったパネルを壊す勇気を持った人は勇者タイプでもあります。
これは経済の成功体験をなかなか手放せないことにも似ていて、私にはそのようなこねこねと粘り強く全体を調和させる能力をパズルで学ぶ必要性も感じるものだ。
そう言えば、バイオハザードなどのゲームの簡単なパズルでも大変苦労していた。
ゲーム中にパズルフェーズがやって来ると、適当にパズルをぐるぐると回した後に、すぐに諦めてネット検索するクセはある。
犬やネコがパズルに関心を持たないことと同じように私もパズルに関心を持っていないのかもしれません。
そもそも、パズルを組み合わさないと先の部屋に進めない屋敷とはゲストを迎えることに準備万端な家で間違いなく、正にエンターテイメントなお屋敷であります。
そのような猫画像に加え上下に2行分の絵を合わせする必要もあり、もはや、完全にお手上げの限界点でもある。

偶然にかけても、縞ネコの下半分は何だかパネルの順番が微妙にズレていて揃うことはありません。
「どうしましょう」
惜しいけど、全体から見たならば全然惜しくないカタチでもあり、猫の顔はわかりやすいので猫画から揃えようと注目しすぎの可能性も考えられます。
もしかしたら、このゲームのミソは猫顔に注目するのではなくて、結果の逆算で上下左右4コマパネルを意識してオセロのように端っこから攻めていけば良いのかもしれません。
猪突猛進、単細胞でマルチタスクではない私の脳みそがパズル全体のバランスを識別することは、とてもしんどいことであります。
本来、脳みそを使えば頭は覚醒するような感じのするような気がするものの、昨晩パズルをくるくると回していたならば、「あなたはだんだん眠くなる〜眠くなる」と呪文をかけられように強い睡魔に襲われてよく眠ることができました。
おかげで、春眠暁を覚えずとの寝坊でもある。

ということで、

絵合わせパズルを作りました。
アプリはスコスHPに貼っているので遊んでみてね。



遊び方は絵の下の「スタート」ボタンを押すと、パネル画像がシャッフルされてゲームを開始することができます。
動かしたいパネルをクリックするとスライドします。
いやはや、果たして、私はパズルを完成させることができるのでしょうか。
エッヘン、端に注目したら1分43秒94行程ででけた。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月28日(木)
■夢見る微睡む机にてパズルは動き出した。




 
■2024年3月29日(金)
■一日一文章トレーニング。

「たった21分ですが、されど、不思議な21分間です」

くるくると回して絵あわせするだけのパズルには変な中毒性があります。
3Dゲームにオープンワールドと凄いゲームが氾濫する中で、このようなチープなゲームにも不思議な面白さはあるものだ。
自分で作り自分で遊んではまる毎度の自画自賛。
最初は全くパズルを完成することは出来ませんでしたが、一度完成させるコツを掴むと、その後は何度でもパズルを完成することは出来ます。
パズルを組み立てる(ヒント)は猫の微笑みに負けずに、上端から順にパズルを積み上げていくこと。
また、完成までの行程数や完成する時間に注目しても、また別の楽しみも発見できます。
下記はスクショに残っていたゲームの記録です。

10分52秒 93行程
3分7秒 159行程
1分43秒 94行程
4分52秒 274行程
21分14秒 644行程 www

ジョン・ケージ「21分14秒 644行程」とはなかなかのぼんくら時間と行程なのですが、この所要時間と行程はパズルの仕組みを研究した時間でもあります。
パズルの回転とは4マス、6マス、8マス、9マス・・・と様々な枠の範囲の中でぐるぐるとパネルを回転させながら遊ぶゲームで、そのようなパネルを回転させながら時折、隣接する部分のパイを取り込みながら絵面を揃えます。
不思議なことは、パネルは適当にぐるぐると回していただけでも何故か絵面が揃う時もあり、そのような神がかった秘密を知りたいと思ったことが「21分14秒 644行程」の時間でもある。

例えば、最終的に(A・B)と画像を揃えたい時に
(A・B)を「順目」
(B・A)を「逆目」
と呼ぶことにします。

「順目」とはくるくると回転させても最終的にいつも「順目」に戻りますが、同じ「順目」状態でも(A・N・B)と(A)と(B)の間の(N)という余計なものが挟まっている場合もあります。
そのような時にはパネルを移動させて(N)を取り除く作業が必要となります。

問題は「逆目」です。
「逆目」は図のように絵が(B・A)と反対になっている状態です。
そして、その画像を絵あわせすると「順目」状態を作り直す必要があります。
「逆目」を「順目」に戻す方法は、(B・A)の間に(B・N・A)というように別の(N)パネルを挟み込むことで「順目変換」できます。
言葉で説明することはとても難しいのですが、3段・上段にある「逆目(B・A)」を3段・上段に「順目(A・B)」にしたい時には26行程必要です。
※これはマイやり方で違うやり方はあるのかもしれません。(詳しくは図参照)
先ずは14行程で2段目に「順目A・B」を構築し、それから、12行程を追加して「順目A・B」を上段に持ち上げます。

いやはや、

「だから、何なのか?」と言われれば、それまででなのですが、個人的には「逆目」を「順目」にひっくり返す時に(N)という関係ないものを(B・A)の間に挟む呆則を面白く思いました。
また、
パネル移動とは、横にスライドして動いているようにも見えますが、コンピュータ的には熱交換のように「何かのパネル」と「無空間」でエネルギー交換しているだけでもあります。
「これらは何か?」問われればとても簡単なパネル移動なのですが、詳しく眺めれば何だか不思議で説明出来ない面白さはあるものです。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月29日(金)
■(B・A)から(A・B)への変換移動は適当に動かしたものの鏡写しとなる不思議です。
移動のログは(1AB132A32AB12A3BA21AB321AB)
 
■2024年3月30日(土)
■一日一文章トレーニング。

「私には植物を均等に植えるというセンスが無いものだ」

いやはや春である。そして、今朝、春の到来を毎朝の水温計測からも観測します。「今朝の一番水」と「長く水道水を流した後の外気温に近い水」の水温が「16.6℃」で並んで勝手に春の到来を感じます。格好良く言えばティッピング・ポイントであり、普通に言えば単なる気候の変わり目を観測したものではありますが、室温から見る2024年の冬から春への東京の気候変わり目は2回目の観測でもある。前回は約1ヶ月前の2月24日(土)に小さな春の気配を観測して、今朝、2度目の春の到来を計測するもので服も完全に衣替えの時期であります。昨日は実際に桜の開花宣言もあったようで、そのように考えると、室温データの変化からでも案外、気候変化を観測できることがわかります。この観測のミソは水が外気の温度を吸収する性質を利用したもので、室温吸収した水と外気温吸収した水を比較することで気温の変動を計測しています。これからは山の冷たい雪解け水を水道水から観測できればと思っていますが、どうなのでしょうか。

毎年の寒い冬を越すサボテンや多肉植物を大きな鉢に植え替えます。
春になればやろうと思っていて、やっと行える土の入れ替えです。
若かりし頃は、「イェーイ」と軽い気持ちで植物を購入して、水やりを忘れて植物を枯らしてしまうことも度々ですが、どこでどう間違ったのか?(良い風に)今や共生菌を植物に感染させて、土の植え替えなど難易度の高いものも出来るようになっております。
日当たりの良いベランダの植物たちも立派に成長していますが、育てる人間も、これまた植物と共に成長するものでもあるのかもしれません。
時々、気にかける気まぐれな水やりでも植物たちに十分な愛は伝わるものであります。

サボテン3娘を植え替えます。
小さく見えますがこれでも2倍以上に大きく成長していて、もはや自力で立てないぐらいのアンバランスさでもある。
先ずは鉢底をメッシュで塞ぎ、白色の軽い鉢底石を入れます。
これは水吐きを良くする為の作業ではありますが、以前、まだ鉢の植え替えに関するノウハウを持っていなかったので鉢底の半分ぐらいに本物の使用していない水槽用の底石を敷き詰めたこともあります。
その鉢のサボテンは今も元気にこぼれるように育っておりますが、鉢の重さが見た目以上にガッツリと重く、少し鉢を動かそうと思っただけでも信じれないヘビー級の筋肉を使うことになる。
このような経験から、鉢に使用する土や石には軽ければ軽い程に良い呆則を学ぶものであり、鉢を植え替えする時にはできるだけ軽めの石やヤシ砂のようなものを選ぶようにしています。
そのような軽い底石を詰めて、次に軽めの培養土を敷き、以前購入して余っている、混ぜるだけで土が復活するという歌い文句の土も混ぜてマイ・ブレンド土にサボテンたちを植え替えます。
土のことはよくわからないのですが、春の時期に培養土を使った土に植え替えれば大抵元気に育っております。
なので、鉢の植え替えの時期は今しかありません!!
土の植え替えの時にはスコップなどあると大変良いのですが、スコップはないので手で土を掴んで鉢に流し込みます。
素手で触る土の感触は気持ち良いもので子ども頃を思い出すものでもある。
子どもの頃は一人でぶつぶつと言いながら土をいじっていたものだ。
蟻の穴を見つけてはジョウロで大量の水を流し込むような子供時代でもあるので、都心では絶対に見ない、げに恐ろしき子供でもある。
ハンターハンターの蟻編が始まれば、真っ先に蟻一族に狙われてしまう子供でもありましょう。
そして、土を触ると毎度爪が急速に伸びる現象は変わらないもので、ということで、オレはついに鉢の植え替えやってやりとげたのでした。
土の入れ替えというこの世の中でも、なかなかに大変な作業で植物たちも広い空間にうれしそうである。
また、遊戯王なアフリカ勢も単独の鉢で立つことが出来ない位に大きく成長して大きな鉢に植える必要がありますが、アフリカ勢は2度目の鉢の植え替えでさらに大きな鉢が必要となります。
アフリカの人々が大きいように植物も大きくなるものかもしれません。
次はアフリカ勢だ!!すごい歪なカタチに成長してとてもひん曲がったわいみたいな成長ぶりで、気合いだー気合いーと勢いで土を盛って新しい鉢に挿すしかありません!!
事務所から鉢を持ってこよう。
いつも植え替えしてから思うのですが、私には植物を均等に植えるというセンスが無いものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月30日(土)
■サボテン型偵察ドローン。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月31日(日)
■一日一文章トレーニング。

「水攻めについて調べた」

ネット検索するとアリの巣を水没させる遊びをしていたのは自分だけではないようです。このように文章で書くこともなければ、「昔、アリの巣穴に水を流し込んで遊んでいた」と話すこともまず無いので文章化する意義というものも多少あるものだ。子供の低い目線は大人には見えないアリの大名行列を見つけてアリさんたちが運ぶ大きな獲物を追いかけるものです。そして、アリの巣穴を見つけると、「どれどれ、巣穴に水を流してみよう」と水攻めを行う子供の純真さでもあります。また、TVでアリクイ(蟻をペロペロと食べる動物)を見ると、モノ真似て蟻を捕まえて食べてしまうものだ。今だと外来種の怖い蟻もいますが、普通に土の上を歩いている黒い蟻は食べても甘くて安全であると書かれていたのでとりあえず安心であります。確かに蟻の味はほんのりと甘かったような記憶もある。子供にとって蟻とは良き遊び相手であり、また、水攻めして食べるともなれば蟻にも天敵認定されることにもなりますので、よく蟻にも噛まれて痛かったような記憶もある。

実際にアリの巣を水攻めしてもネット情報によると完全に水没して蟻の巣を殲滅することは出来ないようだ。蟻たちは何メートルも深くわたって巣穴を掘り大雨などの地面の水没にも対処することが出来るようです。私の記憶では蟻の巣穴に水を流し込むと水が溢れて数十匹の蟻が流されていく感じでもあり、今となって考えれば、蟻が掘る巣穴とは案外有能で、巣穴が地面深くまで掘ることにより植物の根にまで空気が送られることにもなります。そうすると、根に付着する共生菌などの根粒菌などにも窒素が供給されて植物の健康にも良いことばかりでもある。また、蟻の巣が雨降りなどで水没の危機があるとするならば、水吐きの良い土壌や蟻道も作るだろうし、そうなれば動くことの出来ない植物たちにとれば根腐れ防止の効果も期待できます。蟻の巣に大雨の危機感もなければ、蟻の巣穴も複雑に広く掘られることもなく、幼少の頃の私も生態系の中の一つとして活躍したのだと思います。

ということで、水攻めです。

昔の歴史本などを見ていると城に籠城する敵に対して、よく水攻めを行うものであります。昔の戦は合戦のようなガチなぶつかり合いもありますが、そのいくつかは籠城戦や陣を築きて、土塁で囲う土木工事を行うような戦争も多いものだ。騎兵の数は歩兵よりも少ないことは間違いありませんが、戦闘員よりも工兵的な要素を持つ兵士の数も大きかったのかもしれません。水攻めとは川の流れを変えて敵の城を水で攻め落とすことであり、現代戦だとダムの破壊のようなものかもしれませんが、昔の水攻めはもう少しインフラ的でもあり土塁で敵陣を囲み単に川を氾濫させるだけのようなものではありません。敵の城が水で囲われると攻める方にとっても、敵陣が難航不落の城に変貌することもあります。また、逆にちゃんと土塁等を築かなければ自陣の兵力が水害被害のダメージを受けたり、地面がぬかるむことで攻めることも困難となります。水攻めのメリットは兵糧攻めや敵の援軍の進行を阻害する効果で、実際に水攻めを多様したのは豊臣秀吉のようでもあります。秀吉は武士ではない民間出身の武将でもあります。よって、訓練された戦闘員の数も少なかったのかもしれません。なので、兵力の多くは戦闘員というよりも土木中心の工兵部隊が多かった可能性も考えられて直接的な兵力のぶつかり合いよりも、このような水攻めを多用したのかもしれません。勿論、実際の戦闘となれば土木部隊も槍や刀を持つことになると思いますが、実際に天下平定後、徳川家康は戦争終結後に多くの兵力を投入して荒川と利根川の大規模土木工事を行っております。歴史的な大事業を成し得たのは大工事が、武装する戦闘員というよりも工兵戦力によって完成したと考えれば、何となく納得出来るものでもあります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年3月31日(日)
■あ・あ・あ