*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月1日(日)
■一日一文章トレーニング。

「もう9月だよ、1杯のコーヒーを飲むことで片頭痛がなくなる不思議を見つけた」

のろのろ台風は迷走中。
来るぞ!来るぞ!といつやって来るのかの不明な台風ではありますが、九州に上陸したら次は四国に渡り、海に出てからも停滞して、現在は日本列島に再上陸する機会を虎視眈々と狙う台風でもあります。
予報によると再上陸後に熱帯低気圧となるそうで、のろのろ・うろうろと私にも似ていて何をしているのかの混迷ぶりでもある。
台風も長く居座ると雨や曇の日ばかりが続くもので、そのような気候が続くと私の頭の中も気圧病的な片頭痛を起こるのであります。
暑くて溶けるような天気も嫌なのですが、蒸し蒸しと厚い雲が覆う蒸し暑い気候も嫌なものだ。
「あ〜悩ましきお天気、そして、頭が痛くて痛いのであります」
しかし、ナロンエースやバッファリンを飲む程の痛さでもなくて、静かに頭の中に広がる鉛色の空の痛みを耐えるのであります。

そして、もう9月なのです。
明日のジョーもリングから立ち上がり、ガンダムも立ち上がれるというので、そろそろオレたちも立ち上がって人生の何幕目かに向かって歩み始めるフェーズに来ていると思うのであります。
なのに、頭も痛くてそのような気分にならないもので、そんな時にはとりあえず、ホットコーヒーでブレイクです。
勿論、ホットコーヒーはブラックでポタポタとドリップさせながらまったりと飲むに限ります。
ドリップとは一滴一滴のコーヒー汁を滴るように落下させる儀式のことですが、あの香り立つコーヒーの時間は特に心が落ち着く何かはあるものだ。
「アチチ」と飲むコーヒーに育ちの良さは現れるもので、ちびちびと飲みながらぼんやりしていると「あらら不思議」なことに、なぜか頭の痛みも消えるものであります。
なぜ?コーヒーを飲んだら頭痛の痛みが消えるのか?
目の前に広がる空は曇っているものの、頭の痛みはキレイさっぱり、人生の中でもコーヒーを飲んで頭痛が消えたのは初めてのことであります。
早速インターネットで調べると低気圧の気圧変化は私の頭の中で血管の拡張を起こしているようで、そのような血管の拡張はズキズキな痛みを生み、それはコーヒーを飲むことで収まっているようである。

仕組みは下記の通り。

1)低気圧への変化によって頭の中の血管を「拡張」させ片頭痛を起こす。

2)その中身は血管の拡張に伴い炎症反応を起こす。
または、局所的な脳圧の変化も生み痛みを起こす。
それらは三叉神経(さんさしんけい)を通し脳に信号として送られ片頭痛の痛みを感じることになる。

3)コーヒーを飲むとカフェインが接種されます。
それが中枢神経系に働き脳内の拡張した血管を「収縮」させて頭痛を抑える生理反応を起こす。

とのこと。

頭が痛い時は薬を飲んで痛みをブロックする感じではありますが、こちらの方が拡張した血管を元に収縮させるので痛みの根本原因を正すような感じでもあります。
詳しくは病院に行って治す必要があるのかもしれませんが、気圧変化の頭痛は私の場合、病気ではないのでコーヒーで抑える方法を見つけてラッキーである。

ということで、

コーヒーは薬のようなものでありますが、厳密に言うと薬ではなくて単なる黒いドリンクであり、薬にも使用されるカフェインの成分が血管を収縮させ頭痛を抑えていることのようであります。
なので、エナジードリンクでも効く可能性もあるものだ。
冷蔵庫の中には先日のエナジードリンクがまだ1本残っているので、次に頭が痛くなったならばエナジードリンクを飲んで試してみましょう。

 

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■2024年9月1日(日)
■最強のオオタニバット。

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■2024年9月2日(月)
■一日一文章トレーニング。

「物体を識別する足の肌感覚となかなか優秀です」

この暑い時期は裸足でうろうろするのは基本です。
裸足でパタパタと裸足ですりすりと家族でペタペタと床を歩くのが日本の夏の定番です。
これは部屋でも靴を脱がないかもしれない外国人にはびっくりの生態かもしれませんが、裸足でうろうろとしていると足裏の感覚も敏感になるものだ。
今朝の足裏の接地面である床温度は24.1℃。
エアコン入り!!ですが真夏の床温度は28℃ぐらいあったので、一番暑かった時期と比べると−4℃ぐらい下がりすこす秋を感じる朝であります。

そして、

昨晩からそのようなキッチンの床を歩く度に何か踏んでしまうものである。
しかし、足をひっくり返しても床をみてもそのような踏んだ物体を見つけることが出来ない不思議である。
これはおそらく固まった米粒だと予測するのですが、うろうろと歩く度に、お風呂上がりに通ったとしても、昨晩だけで軽く5回は踏んでしまう地雷である。
普段なら床上で踏んでしまう異物とは足裏に付いたゴミをポイっと捨てることで解決できますが、このゴミはなぜか足にくっつかないタイプのゴミで発見出来ないのであります。
道に落ちる種や枝などは上手に見つけることは出来るものの、この家の中のゴミはキョロキョロと探しても見つからないゴミなのであります。
LEGOを誤って踏んだ時のような痛さはないものの、カピカピに乾いたお米を踏むような感触はあり、それなりの存在感はあるものだ。
踏めば「あれっ」と感じる硬さとは微妙な痛さでもあります。
そして、遠目に見てもその物体Xは見えないもので昨晩から床に目をやり凝視して探しているのですが、これは明日に掃除機で吸い取るゴミだと思い諦めるのであります。
そして、今朝です。
眠気眼にトイレから戻る途中にヤツを踏んでしまったのであります。
痛くはないけれども、それなりのイタタの硬めのゴミ。
顔を床面に近づけあれこれ探してみるがやっぱり見つからず、諦めて進んだ瞬間に私は偶然に物体Xをキックしたのであります。
「ついに見つけたゾ!」
物体Xは2センチ程の長さのスパゲティーの破片。
ホットクックに長いスパゲティーが入らなかったので乾麺を真ん中でポキっと折った時の破片のようであります。
スパゲティーの麺は細麺よりも太ければ太い程に好きなもので、うどんのようなスパゲティーな麺だと尚も美味しいスパゲティーでもあります。
この麺は太麺で平たいタイプの麺の破片で、お米と麺は同じ穀物系でもあるので足裏の感覚とは大体で正しい感触を識別出来る肌感覚を持っていることはわかります。
これは明らかに金属ではないし、プラスチックでもなく、乾いた穀物の感触であると、触れただけで材質を識別できる能力とは微妙にすごいことのようにも思われるものだ。
このスパゲティーの破片が完全な麺のカタチであればすぐに識別できたものの、これは一方だけが鋭利に尖った形状となり、もはやスパゲティーの形状はないものであります。
普通のスパゲティーの形状をしていれば恐らく秒で見つけたゴミでありましたが、このカタチがうまく床の柄に擬態していたようでもあります。
絵を描くのも面倒なのでゴミ箱に捨てたスパゲティーの破片を拾って写真に撮ろうと思いましたが、小さなゴミは当然ゴミ箱の奥に落ちているので拾うことを断念。
絵も何だかホラー映画のワンシーンのようダ。

 

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■2024年9月2日(月)
■ブーンブンブンブブブブン♪

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■2024年9月3日(火)
■一日一文章トレーニング。

「インクペンはインクを吸わして補充することで再利用することができ、目線は内から外へ変えることで新たな視線を得るものだ」

悲報です。
お店にとっては悲報ですがユーザーにとっては朗報です。
その朗報であり悲報とはインクの出が悪い水性のフェルトペンは補充できること。
カスレたフェルトペン先を万年筆用の補充インクに漬けると、ほぼ無限に使用することが可能です。
これは使い捨て社会のアンチテーゼなのか、いやいや、リチャージングする社会の求めなのか?ペンはポイポイ捨てるのではなくて補充することで長く愛用できるものだ。

インクペンで絵などを描いている時に色で面を塗りつぶしたくなる時は多々あります。
そして、そのような面塗りをしていると途中でインク息切れを起こす日常でもある。
A4ペーパーの1/10でも真っ黒に塗りつぶせば十分にインクもカスレる予感で、線描きではインクが無くなるまでカスレませんが、ペン塗りのインク減退は定番行事のようなものだ。
全部真っ黒に塗りたいけれども、塗ればインクも無くなると思えば手も止まってしまうものである。
漫画家はつけペンなど使い面をぬりぬりと色のカスレのないように面塗りをしているのでしょうか(今やデジタルかもね)、一般ピープルな私たちはつけペンなどを利用するには少しハードルは高きことでもあります。
絵の具などで一気に面を埋めてしまう方法もありますが、こちらも紙が水分でヨレヨレとなるので嫌である。
やはり、面塗りはマジックの線を重ねて塗るのがキレイで早いのだ。
面塗りに適したペンとは先が太くて安物のカラーペンなどが最適です。
それらは安くてすぐにインクも無くなり使い捨てのペンである。
そして、我貧乏性は小さな頭を捻り考えたのである。
カラーペンのペン先から万年筆用の補充インクを吸わすとエセつけペンのような「万年インク」となるのではなかろうかという考えである。
そして、実際にペン先からインクを吸わせるとインクをどんどん吸引して吸引力が全く落ちない大損(ダイソン)なのである。
なので、あまり教えたくないけれど無駄な出費は極力防ぎたいと思う消費者の味方は書くのである。
長く嫌がらせ長文を書いていると時には有用な情報提供も織り交ぜていきたいと思うものであります。
そして、そのような文章の底には無数のアイデアが埋まっていて欲しいと願うのが制作者の願いでもある。
インクペン先はフェルトペンだけでなく、ファイバーチップペン先でもインクはよく吸います。
ボールタイプのペン先は無理ですがインクを吸うタイプペン先だとインクを吸わせることは可能です。

昨今のインフレな世の中でもありリチャージング技術などを使い生活防衛も必要です。
電気料金も上昇し、米など主食も上昇し、世界はとってもインフレで円安となれば輸入品の価格の全てものが上昇する傾向にあります。
日本はゆっくりにインフレが進行していますが、これは価格決定権が諸外国よりも弱いことを示しているように思うものだ。
マスクや米騒動のように緊急時の買い占めなどが起こらない限り価格は急激に変動しない安定性はあるものだ。
最近はPS5の価格が1万円以上の値上げとなりましたが、これは最近プレステの本社が品川から米国に移り適正なレートで価格決定権を行使するグローバル資本主義の一端を見るような感じでもあります。
その面からも日本に於ける価格決定権とは資本主義的なマーケットで動いているというよりも社会主義的な側面の業界の村で変動しているように思うものだ。
取引先が多いと値上げをするのにも手間と交渉が必要なものであり、価格は市場で変動して決まるとなればホイホイと価格が変動するのが資本主義というものである。
それが良い悪いという話ではありませんが・・・

0金利やマイナス金利というのは本などを見ても未知なものであります。
これは別の目線から見ると資本主義の否定のようにも見えて、0.25%の上昇でこの世の終わりと評論家が吹聴している姿を見ると何か狂っているような感じがするものだ。
僅か0.25%で金利のある世界は狂っているのか?それとも、金利0やマイナス金利が常識なのか?
確かに如何なる政策も日常となるものだ。
彼らは金利のある世界を否定するものではありませんが時期やタイミングについて言葉を濁すものである。
しかし、いつでも何時もどんな時でも0はおかしなものである。
マイナス金利になった時に多くの経済人は普通にバズーカを批判していたように思いますが、非日常が日常になると非日常が日常となって、また新たらしき日常となるようなそのような感じの中では、そのようなアベノミクスを批判していた人たちはどんどん消えていなくなったものであります。
これはネズミーランドのスタッフがそんな非日常世界で働くと今までの非日常は日常となり乖離する新しい日常が生まれるような感じの新しい日常を国民が受け入れた瞬間かもしれないものだ。難解!
ネズミーランドは働いたことがないので脳内シュミレーションですが、新しい会社や学校に身を置くとまた新しい視線や嫌な部分も見えて、内目線と外目線の違いはあるものだ。
それらは根底に広がる内側から見る世界と外側からみる世界の相違とも言えるのかもしれない。
確かに金利は上がることは大変ですが、私はどちらかと言うと今までは預金者の預ける銀行口座から正々堂々とお金を泥棒されているように思うものである。
この国の不思議は政治の不正も外国の宗教団体との癒着も言葉を変えれば泥棒行為や賄賂なども正当な行為となるようなことである。
本質でなく表層の言葉をすげ替えるだけで何ともなる人達はいるのであります。
千と千尋でも本当の名前を奪われればその人のパーソナリティを消えてしまうように、正しき伝令者は惰性で権力の言葉をニュースや制作物等を通して拡散し、それ以外の全ては部外者であり、素人でありと排除することで加担者となるのであります。
頭から腐ってきている証拠は内から外に目線を置くことで見えてくるように思うものだ。(たぶん)
8月も終わったので少し経済にも触れてみた。

 

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■2024年9月3日(火)
■とりあえずヌルヌル。

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■2024年9月4日(水)
■一日一文章トレーニング。

「冷しゃぶの鍋にこびりつく油をどのように取り除くべきか?」

今朝はクーラーはいらない程の涼しさであります。
外気温を測ると25.0℃・湿度64%で吹き抜ける風は少し肌寒くも感じるものだ。
久しぶりに全ての窓を開放し部屋の空気を完全に循環させております。

ところで、夏と言えば豚の冷しゃぶです。
「れい」と入力して第一候補に「霊」の文字が出てくる不吉はあるものの、ホットクックの低温調理機能を使い豚を茹で、そこに別茹でのオクラと、水にさらした玉ねぎを入れてポン酢をかけるだけで美味しい晩飯であります。
これは無言で箸が進むタイプのお料理で幽霊でも何でも呼び寄せるかもしれない美味なのだ。
ネットで検索するとお店の料理ですかと思うぐらいのキレイ盛られた冷しゃぶもありますが、このような3品だけでも十分に美味しいのが豚しゃぶです。
前日に食べた豚料理は完全に火が通っていたのでカチカチなお肉ではありましたが、低温調理した豚はなぜか柔らかくて美味しいお肉でもある。
豚料理とはパリパリに焼き目がつくぐらいに焼くのが好きですが、しゃぶしゃぶ用の豚肉だけは柔らかく低温調理した方が美味しいように思うものである。
さっそく、ネットで低温調理のお肉が柔らかい理由を調べると下記のようになる。
肉は加熱することでタンパク質を固めますが低温調理だとゆっくりタンパク質を変質させて、しっとりとした口当たりとなるようだ。
また、低温調理することにより肉の細胞の破壊も少なく肉汁を保持することも可能となり、そうすると肉の柔らかさを決める成分であるコラーゲンが長時間の低温調理によってゼラチン化し肉はますます柔らかくなるようである。
やはり、コラーゲンと肉とは「YESボス=行け天才」の(byブルーロック)な関係性である。
しかし、豚肉とはよく熱を通さないと危ないお肉でもあります。
低温っていっても70℃ぐらいで調理しているので推奨の60〜65℃ぐらいの低温よりも少し高めではありますが、十分に柔らかくて美味しいお肉でありました。

ということで、

美味しいお肉を食べた後には釜や食器のお片付けが待っております。
本来、コンピューターに頼みたいことはこのような後片付けな面倒事ではあるのですが、頭脳仕事はエー愛さんにお任せして、肉体労働は人間様がやる本末転倒でもある。
冷えた鍋を覗き込むと鍋底や鍋横にぎっしりと貼り付く油があるもので、美味しい料理の後には余計な油が残った洗い物も残っているものであります。
先日、スッポンを使ってシュポシュポスッポンと排水溝をお掃除したので、そのまま排水溝に流すには何か気が引けるものである。
早速、皆はどのように冷しゃぶ後の油水を捨てているのか調べると、ラップで油をすくい取ったり、それぞれの対処法はあるものだ。
油は水と完全に分離しているものの、水に浸かった油だけを取り出すことはとても難易度が高いものである。
遠心分離機にかけて完全に水と油を分離するとしても、このような大きな鍋にどのようにして遠心力をかけることが出来るのでしょうか?
そこで、我、閃いた!!
たくさんあるラッピング用の紙袋に排水を流し込み油成分を完全に袋でキャッチしてしまおうとするアイデアである。
紙袋は強度を増す為に3重にし、そして、どぼどぼと紙袋に排水を流すとちゃんと袋は水を受け取るものであります。
しかし、「あれっ」である。
水を袋から流す方法を考えていなかったので、水はいつまでも袋内に滞留し溜まっているのである。
とりあえず、「どうしよう、どうしよう」となり、紙袋の一枚を剥ぎキッチンペーパーを排水溝の上で受け取ろうとあたふたとしていたならば、袋は完全に裂けて油水はドドッと排水溝に流れ出たのであります。
完全なる失敗、完全なる無駄な作業と無駄な時間。
そりゃ単なる紙袋でもあるもので、その内に水の浸水によって紙は破けるものであります。

そこで、次なる冷しゃぶの排水に向けて改良点を考えてみた。
紙袋はやぶけて水を排水する前提で、紙袋の中に排水溝につけるストッキングネットを装着し、破けた時の油分をそこでキャッチすれば良いかもしれないと思うものである。
そして、ネットの中にちぎった紙をパラパラと投入して油を紙に吸着させると、層を成したフィルター効果を発動してキレイな排水として流せそうな予感であります。
他の人たちは冷しゃぶの排水をどのように捨てているのでしょうか?

 

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■2024年9月4日(水)
■あの名シーンを思い出しながら描いた。

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■2024年9月5日(木)
■一日一文章トレーニング。

「鳩たちは風に飛ばされ、私は草むらで怪しい毒キノコを見つけて、小さな秋を感じるのであります」

チチチチと未知な小鳥の鳴き声が外から聞こえてきます。
窓を開けてキョロついたならば、遠くに飛んでいく小鳥の残像を見るもので何の小鳥なのでしょうか。
雀よりも小さいような気もしますが、私がニョキッと顔を出すので驚いて飛んで逃げる野鳥であります。
鳥の観察者はどのようにして透明な存在となって鳴き声のする鳥を見つけ観察するのでしょうか。
私なんて目の前にいるメジロでさえ警戒されて飛んで逃げてしまうような鳥観察不適合者であります。
何かしらのオーラーを醸し出しているのか、動きが早すぎて鳥を警戒させてしまうのか、目がギョロギョロしているのか。
公園で体に雀や鳩をまとわり付けている変な人もいますが、あの人たちは鳥を警戒させない何かの技術を会得しているものである。
「私は樹齢100年の大木である」モゴモゴと念じていれば鳥に好かれるのでしょうか。
鳥は遠くから発見し双眼鏡で覗き徐々に距離を縮めるのが一番手っ取り早き観測方法ですが、街中で双眼鏡を持ちうろうろ覗いている奴はとっても怪しい人間でもあります。
また、時にこの街にはカラスに向かってな何かペチャクチャ言っている変な奴もいて、都市でのバードウォッチングは自宅の窓からお目々をギョロリが定番であります。

そして、朗報としては、この周辺に住み着いていた鳩たちが一つ前の台風で大多数いなくなり、最近のノロちゃん台風で全3羽どこかに飛ばされたようであります。www
いやはや、風の力は凄いもの。
このような風のパワーで飛ばされるならば、どこかにホコリが溜まるようにやたらと鳥たちが集まる場所があるのかもと思ったりもするものだ。
台風の方向をメモっていたならば良かったもので、その方向に向かって歩けば鳥たちが飛ばされて集まるサンクチュアリーな場所を発見できるのかもしれません。
確かに、台風後の街に鳥はどこに行ったのか?と思うぐらいにあんまり見かけない鳥たちでもあります。
これは落ち葉が風で吹き飛ばされて隅っこに集まるような方程式のようなもので、次の台風で風の方向をメモっていれば飛ばされる予測地を割り出せる可能性もあるものだ。
何という暇人なのでしょうか、しかし、予測通りに本当にたくさんの鳥たちが飛ばされる楽園を見つけたならば、すこす感動で泣いちゃうかもしれないものであります。
\草/ 

それにしても、私は自然の法則に逆らい鳩の天敵であるカラスをパパラッチカメラで追い払う負い目はあるものであります。
そして、それなりに鳩も増えるとどうなるやらと責任を感じていたものである。
しかし、今は鳩数0羽。鳩圏消滅、めでたしめでたしの完璧なハッピーエンドであります。

そして、窓を開けると朝の涼しくて気持ちよかな風が入ってくるもので、あ〜風も電波みたいな波なのかな?と思ったりもするものだ。
調べると風は周期的に振動しエネルギーを運ぶという性質に於いては一種の波であるらしい。
風は空気を媒体として他の風と干渉し強まり、弱まったりしながらエネルギーを遠くに伝えることになります。
異なる点は電波の速さは高速で一定ですが、風は気圧や温度によって変化し、電波は波長の長短はあるもので、そのような相違点はあるようだ。
山の上のトビなども見ても風を読み旋回したりするもので、鳥たちは人には見えない風の方向や強さが見えているのかもしれないものだ。

ところで、

昨日、変なキノコを見つけました。
空き地の草むらに生える白いきのこ。
写真のキノコはピンポン形ではありますが、周辺のキノコは傘が開いて円盤状になっています。
さっそく、ネットで名前を調べると「オオシロカラカサタケ」という種類のキノコのようであります。
春から秋の季節の変わり目に生えるキノコのようで正に季節の変わり目は気候以外の土の上からも見えます。
このキノコは日本ではレアキノコであったらしいのですが、私が見つけてしまうぐらいに最近は頻繁に見かけるキノコでもあるらしい。
理由は地球温暖化によって生息域を広げているらしいのですが、私などはこのキノコが芝生などによく生えるそうなので、そのような芝生に寄生して生息域を広げているようにも思うものだ。
勿論、毒性で食べると嘔吐や下痢をするような危険なキノコであるようであります。
このような怪しいキノコは誰も拾って食べようと思わないと思うのですが、何でも拾いたい私が一瞬キノコをもぎって収穫してたいと思っていたので食べてしまう奴もいるかもしれないものであります。

 

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■2024年9月5日(木)
■ドライブ。

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■2024年9月6日(金)
■一日一文章トレーニング。

「目の前に立ちはだかる柵を越える」

「急がば回れ」とは全人類的な教訓です。
それなりに長い人生の中で「急がば回れ」は子供時代から何度も口にしてきたことでしょう。
そして、今日のテーマは「急がば回れ」で文章を完成させようと思ったものの、根本的な言葉の間違いに気付くのであります。
それは「いそがばまわれ」を今まで「いそばがまわれ」と「ば」と「が」をひっくり返し言っていたことに気付くのである。
誰も気付かないし、オレも気付かない、夢の中で「ばが」ってどういう意味だろうという夢を見て、今朝はじめて辞書を調べることで根本的な間違いに気付くのであります。

「急がば回れ」とは急いで目的地に到着しようと近道を選択することで、かえって道に迷って目的地に着くのも遅くなる教訓でもある。
同類の言葉だと「急ぐ鼠は雨に会う」や「急ぐ鼠は穴に迷う」みたいな言葉もある。
急いで物事を推し進めることの戒めのような言葉でもありますが、チューチューと道を急ぐ鼠の無駄な動きをみて着想を得た言葉かもしれない。
しかし、実際に急いで近道を選んだとしても良い結果とならないことも多々あるので、これは結構正しき言葉で間違いないものだ。

先日、道を歩いていた時にぐるりと大回りするのも面倒に思ったものである。
歩数で言うと数百歩以上は確実に増えるだろう道を歩むならば目の前の柵をサクッと跨げば時短で近道となるものだ。
我が脳みそにはもうすでに大回りで歩く選択肢はないものでスタスタと柵に近寄りサクッと足を上げてまたぐのであります。

「あれっ」と意外に柵は思ったよりも高さのあるものだ。
柵に跨る乗馬スタイルとなってはじめてヤバいと思う上手も手から水が漏るるな感じでもある。
足が短いのか想像よりも背の高かかった柵に少々ビビり、次にもう一方の足を跨ごうと思うと体が固くて「あれれイテテ」とかなりきつい。
利き足ではない足はそんなにあがらない足でもあり、颯爽と柵を跨ごうと思ったものの最後の一歩の足があがらなくて苦戦するのであります。
もう一方の足があがらないので柵の端っこまでイモムシにように移動しようかと思うのですが、多少の足の長さも足りなくて、そのようなお作法も出来ないものだ。

人生には絶対に越えなければならない壁があるものだ。
そのような柵の壁にまたがり、私は「いそ-ばが-まわれ」と間違った言葉で反省するのであります。

技術や体力で足りなくて越えられない壁や山脈は気合と根性で越えてきたもので、ドゥーマイベストを尽くせばもう一方の足も確実に上がるはずと頑張るのである。
「イタタ」
イタタのパンデミック以来運動不足とは常々感じるもので、ここ数年運動らしき運動はしていないものであります。
このような柵は昔であればササッと越えられた壁であったかもしれない壁ではありますが、無理な体勢に足をあげると忘れられていたカチカチのコチコチの体に気付かされるものである。
同時にこの「イタタ」の筋肉の感覚とは微妙に気持ち良い体の痛さでもある変態性。
一人で蜘蛛の糸にひっかかったような虫のように、「イタタ・イタコの戦い」をやっていると何かと足をひっこ抜くことが出来てギリギリのセーフ。
通りすがりの足の長い外国人に何をしているのかと見られながら「わらわは自分自身の限界を越えているのだ」と思うものである。
何事もなかったようにスタスタロードを歩みパン屋でパンを買って帰るのである。
道とは常に切り開かれるものであり、私の前に立ち尽くす壁はないものだ。
私が歩いた道が踏みしめられて道となり、あの柵はもう二度と跨ぐことはないであろうと誓った。
正しく言えば、「いそがばまわれ」である。
私以外にも間違って言っている人は多いような予感のする言葉であります。

 

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■2024年9月6日(金)
■あ〜かわいい〜バイクカーたちだ。

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■2024年9月7日(土)
■一日一文章トレーニング。

「この世は相手に対する気遣う文章が足りていないような気がしたので手紙の構造から探ってみた〜伝えたいことは相手への敬いの言葉でサンドイッチすることで吉となる?」

アツイ!!暑いのです。
暑すぎるので残暑御見舞い申し上げるお手紙を書きたいものである
さっそく、辞書にてお手紙の書き方などを調べると、巻末には丁寧にも生活の知恵や手紙の書き方などが詳しく書かれています。
お手紙を書くこととは一世一代の大仕事でもあり、手紙なんてここ何年も書いていないものでもある。
何とか頭を捻り伝統的なお手紙の文章構造を分析したみた。

こんなにも暑い日も続くので「残暑お見舞い申し上げます」と書きたいところではありますが、残暑とは8月の慣用的な時候の挨拶であり、9月の文章としては適当ではないようだ。
ならば、9月のこの暑さを何と表記すれば良いのかと調べると「秋の日差しはまだまだ強く」「秋暑(しゅうしょ)なお続きますが・・・」と書くようである。
秋の涼しさの欠片を感じるのであるならば、「秋涼の候(しゅうりょう・秋になって感じる涼しさ)」「初秋の候(しょしゅう)」と書く方法もある。
前文は読む相手の共感を得やすい現在の気候を記載して、文章の締めには「夏の疲れが出やすい折からご自愛下さい」「台風の季節ですのでお気をつけ下さい」「しのぎやすい秋が待たれますが健康にお気をつけ下さい」のように相手側に気遣う文面で文章を締めるのが大人の流儀のようである。
そして、このような流儀は私に足りていないものである。

分析すると下記のような構造となる。

・前文→(拝啓)ありのままの季節を表記し「お元気ですか?」と相手の挨拶と気遣いを文章に込める。
・内容→ご自由に。
・結びの挨拶→相手の健康とご多幸を祈る気遣った文章で締める(敬具)。

・拝啓の「啓」は口を開けて啓上(けいじょう・申し上げる)ことで、相手へのお辞儀と敬意を示しながら文章を開始することになります。
・敬具の「敬」は相手を敬愛し(敬い、愛すること)、「具・お供え物」を供えることで文章を締める。

このようなお手紙文章をすらすらと書ける人は本当にスゴイものであります。
私なんてどのような文章を書くとなれば、前文の挨拶は「オッス」の3文字から始まり、結びは「乙」の一文字で終わる文章である。

・前文→オッス!
・内容→短文で。
・結びの挨拶→乙。

このような手紙はこの世の終わりのようで、なかなか酷い文章である。
それもこれもあれもどれも全部スマホが原因だと思うのですが、「オッス」は挨拶でもあり「乙」とは「おつかれ」の乙でもあるので多少相手の気遣いもあるものだ。
スマホやメール等でやり取りする文章とは自分の言いたいことだけを簡潔に表記する感じでもあり、余計な事柄を書かないことがまともな人間の書く文章でもある。
今や「。」をつけるだけでもハラスメントと言われるので、「拝啓敬具」などの相手への敬いの言葉も消えて自己中心の言葉が連なるものである。
ビジネス文章みたいな伝達のみの文章であれば、ご自愛とか相手への関心とは全く不必要であり、求められるのは正確に正しく短く記載することである。
そう言えば、はじめてメールを書いた時にどのように文章を書いていいやらと悩んだものでありますが、そのような文章とは横文字で綴られた外国語を見るようにも感じたものである。
文章の良し悪しを問うものではありませんが、技術進化が一方的な伝達装置となり脳内思考も切り替わっているように思うものである。
文章には言葉の念というか言霊のようなものがあるものだ。
現代人の文章には相手の敬いを伝える機会は少ないとなれば、言いたいことだけの言葉がピンポンと飛んで打ち返すだけの殺伐とした他人に対する敬いのない世界である。
形式的でも相手への敬いが感じなければ、人との接し方にも変化があるのが人というものである。
カタチだけでも相手への気遣いを文章に込めれば、このギスギスとした概念世界にも多少の癒やしはあるのかもしれないと考えればお安いものでもある。
拝啓、敬具、拙者と重たい文章ではありますが、相手の気遣いと敬意をすこす取り込んだ手紙の定型例を作ってみた。

皆様

拝啓

こちらは秋暑溶けるような日差しが降り注ぎ、雲が日差しを隠してくれまいかと思う毎日であります。皆様お変わりなくお元気にお過ごしでしょうか。

オッス〜です〜乙

虫鳴く秋は待たれますが、夏の疲れが出やすい折からご自愛下さいませ。

敬具

拙者

令和6年9月7日

勿論???です。
ですが、重要なのは相手に対する敬いの言葉が前文と結びの挨拶にあること。

・前文+内容+結びの挨拶の構造は
・(相手に対する敬い)+(内容)+(相手に対する敬い)でもある
・自分言いたいこと、求めること、伝えたいことは相手に対する敬いでサンドイッチにすることで一つの定型文と成す先人の知恵である。

 

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■2024年9月8日(日)
■一日一文章トレーニング。

「拝啓と敬具で言葉を囲う意味は十分にありそうだ」



メジャーリガーのアルファベットが書かれた帽子は格好良きもの。
しかし、アルファベットには数の限度がありそれなりに文字の飽和状態が来ているように思うものだ。
キャップのデザインとはアルファベットだと格好良く決まりますが、漢字やひらがな、カタカナだと何か変な感じにもなる。
カージナルス球団みたいな鳥マークだと素敵ですが象徴としてのロゴマークをデザインに落とし込むほどの、こだわりのマークもない。
そう言えば、イチローさんが昔かぶっていた「b」の帽子が気になりネットを調べると全く出てこない帽子であります。
オリックスやシアトルチームの帽子、メッセージ性の高いTシャツなどは検索結果に出るものの、探している帽子のマークは全く見つけることが出来ない帽子だもんだ。
私がイチローさんのイメージを頭に浮かべると昔球場で見たレーザービームな感動の返球と「b」の帽子を被った姿が頭に浮かぶものである。
野球は打ってなんぼではありますが、単に打たれたボールをキャッチして返球するだけで「おお〜」となるのがイチローさんのスゴイところである。
この帽子は私の妄想かもしれないと諦めていると、検索ワードが「イチロウ」になっているよと指摘されます。w
そういうことで、もう一度検索ワードを見直して入力し直すと今度は「イチョロウ」となって恥ずかしいものだ。ww
パソコン入力を横から人に監視されると妙に緊張するものだ。
答えはDJホンダの「h」マークでありました。
そもそも「b」でも無くて人の記憶とはあやふやで不確かなものである。

昨日「拝啓+手紙+敬具」の定型文は日本文化のカタチを表しているように思うと書きました。
例えば、武道であれば「礼に始まり+試合+礼に終わる」が典型的な日本の型である。
しかし、日本の武道でなくともラグビーであれば「ハカ+試合+ノーサイド」みたいなこともある。
危険なスポーツだからこそ相手を敬い、お互いに健闘を称えあい試合を終える必要もあるものだ。
このような何かと何かで挟む構造とは数式であれば関数の函のような感じもするもので、HTMLのプログラムであれば<div>コード</div>タグにも現れ出るものである。
面白いところだと、優秀な方のAIさんの返答なども「はいその通りです(相手を敬い)+内容+参考文献リンク先」を貼る感じのサンドイッチ構造である。
この形状は身の回りの様々な部分に存在しているもので、AIさんのカタチもたくさんの文章量をこなすからこそ自然とそのようなカタチ収斂していくのかもしれない。
私の文章構造も「前文+内容+まとめ」というような形状になることも多い。
文章構造とは通常、起承転結みたいなテンプレを思い出すものの、数をこなせばこなす程に、そのような思い込みは崩れ「前文+内容+結び」のような構造に辿り着くのが世界の普遍性でもある。

ネット文化の文章には相手に対する思いやりはほぼ見られないものである。
恐らく、ご先祖さまたちは文章や言葉は呪文であり、呪いでもあり、武器でもあると考えたこそ言葉の前後に「拝啓敬具」などの相手を思いやる言葉を添えたと思われます。
これは言葉をつむぐことが格闘技などと同じく危ないものであると感じていたからこそ、昔の人は拝啓敬具な文字で言葉を挟んだのかもしれないものである。
365日×10年間、SNSに降り注ぐネット文字のシャワーを浴び続ければ人はどのようになってしまうかと想像すれば、想像通りの結果になりそうな予感でもある。
ここは先人の知恵を借り、もう一度我、襟を正し学び直す時ではないかと思うものである。
人工知能の文章でさえどのような相手に対しても敬いと情報をサンドイッチした構造にあると考えれば、人が如何に未熟で暴力的であるかと理解出来るものだ。
私も何か相手にメッセージを送信する時にそのような相手に対する敬いの言葉を添えて包み込める存在になりたいものだ。
相手への敬意とは第一に挨拶を行こない相手の名前を覚え(初見でこれはなかなか難しい)、その人の売りや特技に関心を持つことで相手への敬意は生まれるものである。
そして、これは一期一会の精神とも読めるものである。
しかし、打算で行動してしまうのも人であり、こういうのはとても当たり前だけれども大人になればなる程に出来なくなる不思議でもある。
これは私自身の反省でもある。

ということで、

朝から習字で「押乙」した。
墨汁が手やあちこちに飛ぶ惨劇でA4コピー用紙にプラモデル用の筆で書いた。
小学校以来かもしれない習字です草、押乙の精神を忘れないように壁に貼っておきましょう。


 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月8日(日)
■押乙☆

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月9日(月)
■一日一文章トレーニング。

「押忍と乙の挨拶から甲乙の関係性を見出すものである」

昨日、墨汁で「押と乙」と書きましたが墨があちこちに飛んで酷いことだ。
書いた習字を乾かしていた下の辞書の上にも墨は付着し、勿論、手も墨で真っ黒だ。
そして、そのような手で触る洗面所のスイッチにも丁寧にも墨はつくもので、筆を洗う為の移動の際にも墨が床にポタポタと落ちてそれらをキレイに拭き取る余計な手間が増えるものであります。
筆と墨で文字を書いていると文房具なペン類が発明されたことが本当に偉大な大発見だったことがよくわかるものだ。

プラモデル用の筆も洗面器で洗っていると墨が真っ黒と広がって大変だ。
何が大変かと言うと洗面器の白が薄墨で染まってしまう感じの大変だ。
黒は黒でももっと漆黒な黒が欲しく思うものの、筆を洗っていると墨汁の黒でもそれなりの黒さはあるものだ。
筆は洗っても洗っても絶え間ない黒の色を流し続けるものであり、いつまで水は流し続ければ墨汚れは洗浄できるのでしょうか。
それは永遠に黒を流れ続けさせるようなエンドレスな感じでもある。
今度、墨筆の黒が完全に落ちるまでの時間と限界の底を探ってみましょう。(種ゲット)
これは筆塗りの他の色でも同じこととではありますが、プラモデルの色は強力な溶剤で溶かして洗浄するので水洗いなどはしないのであります。
お陰様で白かった筆は真っ黒である。

汚れた洗面器にはオレンジ洗剤をぶっかけて墨汚れを拭き取ると以前よりキレイにピカピカな洗面器となるのものだ。
これは正に怪我の巧妙というべき事柄であります。
部屋の汚れとは食べ物や飲み物をこぼすことで拭き取られてキレイとなるものであります。
月日で積み重なる日々の汚れとは部屋を汚くするのですが、不慮な事故で発生する汚れとはそれらを拭き取ることでキレイな部屋となる呆則でもある。
これは他の事柄にも言えるもので、規制で防ぐチリ積もる闇よりも、事件は起こってからその都度取り除く方がより風通し良き世の中となるような気もする規制撤廃派の考え方でもあります。
これらは生活することでキレイに保たれる家の不思議でもあり、ニュース番組にならない闇より100倍ましな汚れであります。
関係ないけれども、先日、歩き歯磨き中に歯磨きの液体を床にこぼしそれを拭き取れば、その拭き取られた床面は磨き粉の粒効果によって白く美しくなったものである。
拭いた後にべとつくこともありませんし、床のお掃除には安い歯磨き粉を雑巾に塗って拭き取ることがベストかもしれない。

ところで、

言葉の前後につける呪文について考えていました。
しかし、適当な言葉は思いつかないもので、長文ならば前文に何かしらの敬意を込めることは可能なものの、短文は言いぱなしな槍投げでもあるので何かしらの敬意を含めるなんて無理な話である。
永遠の毒投げのような感じもあり、時折、ゆるふわなお話で場を和ますしか方法は思いつかない。
フロムゲーでも毒やクソ団子を投げていたならば投げた本人にも毒は蓄積して毒に侵される仕様でもある。
フロムゲーの凄いところはそのような些細なところにも人生の教訓みたいなものが含まれているところが面白い。

「オッース・オツ」とは大変便利なものではありますが、それは部活の挨拶みたいなものでもあります。
そして、昨日は「押+乙」と漢字で書いていると大変な事柄に気付くのであります。
それは「てへん+甲+乙」の構造となること。

甲乙とは契約書などにも表記される言葉であり、優劣、第一第二と「甲乙つけがたい」と表記するもので、熟語としては甲乙はつけない平等性が鉄板でもある。
甲とは甲冑の意味であり、木の兄(きのえ)のことを意味しているようで、これは乙の兄となるようだ。
乙は木の弟(きのと)で甲の弟となり、甲乙で十干(じっかん)の1番と2番となります。
十干とは後漢時代の中国で生まれ10日間を一括りにする暦で、十干十二支(じっかんじゅうにし)で年月日と時間を捉える仕組みであります。

「押忍」や「乙です」とは体育会界隈で普通に挨拶される言葉であります。
私も昨日まで何にも考えずに無意識に口にする言葉でもありますが、甲乙な意味の関係性から眺めるとお師匠様と弟子みたいな関係性を見出すことも可能です。
単なる偶然かもしれませんが何か意味がありげそうにも見えるところが面白いところである。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月9日(月)
■なっとう。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月10日(火)
■一日一文章トレーニング。

「昨日、Kのミニコンポが急に電源が入らなくなりました」

電源を押せどもコンセントを抜き差ししてもうんともすんとも動かないコンポである。
このコンポの電源が入らなくなるのは2度目のこと。
音は良いのですが一度お金を出して修理したものが1年程で再び同じ症状で壊れるのも何だかな〜と思うものである。
このコンポはまだ現行品らしく、まだ普通に買える商品もでもある。
もっと古いコンポでも現役でバリバリ動いていることを思うと構造上の何かの問題があるような気がするものだ。
ネット検索すると私の他にも多くの人たちが電源の入らないコンポに悲鳴をあげているようで、これはハズレ機種で間違いないものだ。
何か電化製品を買う時にレヴューなどを読んで購入を検討することも大切ですが、同時に「その製品名(品番)+故障(動かない・電源が入らない)」で検索する呆則の必要性だ。
何せ、故障した電化製品とは単なるゴミの塊である鬱陶しい以外の感情は浮かばないものである。
もやは、ブランド名のみを信じて電化製品を買うことはリスクかもしれなくて、経験は教訓として積み重ね、同じ被害者を出さない為にも多くの情報共有は必要なものだ。
ネットにはこの製品の故障記事が多数記載されており、一度は壊れて、この噂も知っていたのに無駄な修理代金を払ってゴミを再取得してしまったのかと情弱な私に反省するものである。
そして、どうにかコンポの中からCDが取り出せないかと試行錯誤していると、ほとんどのネジは修理時に新しく付け替えられたネジであるようで、その中の一つに怪しいネジを見つけるのであります。
そのネジは(+)(−)ではなく特殊形状のネジである。
明らかに開封出来ないように修理内容を隠しているようにも思うもので、そうなれば、あまのじゃくな私は修理されたコンポの中身を見たくなるものであります。
もはや、私の価値観はコンポ1台よりもCD1枚の方が天秤にかけて重いもので、解体分解でCD救出に動くのである。
筐体を開封する為の重要ポイント2点あり、1つは特殊ネジを使い開封出来ないようにしており、もう一方のネジは閉めてから丁寧にネジ山を軽く潰しネジを回せないようにしているような感じでもある。
修理した中身を絶対に見られたくない気持ちがよく伝わるもので、日本の製造業ってこんな感じだったけ?な感じの感想でもある。
特殊ネジはパソコン開封の為に我が家にはあるものでネジを回すことは可能であり、そのネジをグリグリと回していると空回りするだけでネジを取り出すことは出来ないものだ。
「どういう仕組みになっているのか」と調べるとネジ穴のサイズよりも大きいネジをブチ込むことでネジ機能を破壊しているようで開封出来ないのである。
このような荒業があるのかと思うのですが業務用の電動ねじ回しがあれば簡単なことでもある。
これはもはや確信犯であり日本の製造業の闇を感じるものだ。
そして、これがコンポの中身である。
コンデンサーがやられているのでしょうか?
都市鉱山にもならない基盤と内製化部品の全く無いゴミ。
もう一つの呆則を加えるとするならば、カタログ等で中身の技術について記載のないような商品は大抵このような感じの中身かもしれないものだ。
昔の電化製品のカタログなどを思い返すと製品の透過絵などを使い自慢の中身の技術についての記載は多かったような気もするのだ。
今やそのような絵も見ることは少ないような気もするので、そのような製品は多かれ少なかれこのような感じかもしれない。
水平分業の時代とは言え、内製化部品の全く無い製造業とは少しやばいような気もするもので、もしかしたら、今や製造立国な日本の製造業とはこのような外装だけのブランド器だけの商売が基本なのかもしれないものだ。
因みに、これはマレーシア製です。
何か購入する時は人の噂を頼りにするだけでなく、故障の書き込みの多さや、内製化部品のあるなし等を見ることで賢く消費したいものである。
コンポぐらいでこのようなクオリティーを求めるのは無理あることかもしれませんが、昔の古い機種のコンポはこのようなスカスカでもなく重量感もあり、それなりに品質も高そうな感じでもある。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月10日(火)
■メモリーチップ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月11日(水)
■一日一文章トレーニング。

「文章のいろいろ気になる感覚とは、それは人が持つ手や足や目などと同じく身体感覚であると思うのだ」

昨日、T−岡田さん引退のニュースを見て、「T―岡田」の文字が全角で気になって仕方がないという話になります。
私の文章もアルファベットも数字も全部全角で記載することがデフォでもある。
なので、あまり気になら半角全角ですが、この文字のこだわりは人によっては一種の身体感覚を持つようである。
文字というのは概念であり、身体とは全く関係ないものではありますが、自分の体の一部のように体裁を整えたいと思う感覚は不思議とあるものだ。
人の部屋に他人ドカドカと入り込んでやって来て、棚の位置はここじゃないな〜、このカーテンはセンス良くないとは言わないものですが、文章も読めば自己の体内に取り込まれて、棚の配置はちょっと違うな〜、カーテンは邪魔だから取り外しておこう〜みたいなそのような感覚にもなるものだ。
これはとっても面白いことである。
自分が書いた文章でなくとも他人の文章でも自分の目に飛び込んだ瞬間に自己の身体と同化するような感覚である。

そう言えば、私は最近半角変換を全く行っていないような気もして、全半角ボタンはキーボードのどの辺にあったのけという感じでもある。
しかし、探すと左上にあり、ファイル名は半角入力しないといけないので毎日毎分毎秒とブラインドタッチでカチカチ押しているものである。
文章を書いているといちいち全角半角と文字の体裁を整えることが面倒だ。
思いつくままに「ぶわ〜」と文章を一気に全部入力したいタイプでもあり、寧ろ一文章を完成することにもおれなりの労力が必要なのである。
なので、そのような見てくれの細かい部分まで神経を回す余裕がないと言うのが本当のことなのかもしれない。
全半角変換を頻繁に行うと半角の「T-岡田さん」や全角の「T−岡田」が文章内に混在することになり、それならば文章をオール全部全角で書けば文章の統一感も保たれるという魂胆である。

ただ、私にもハイフンのこだわりはあるものだ。
書くとなれば「T−岡田さん」を選択するもので、「T-岡田」「Tー岡田」「T―岡田」は選択しないハイフンでもある。
短いタイプの「−」を選択するのは私の文章中の美学で間違いないものだ。
それでも、別のハイフンを普通に使用することもあると思うし、全角半角にも切り替わっていることもあると思うものだ。
文章の体裁など気にしていたら筆も進まないし、それほどこだわりはないものだ。

今朝のニュースだと「PS5 Proは12万円」は「PS5Proは12万円」となります。
「えーえーーの12万円!」ですが、今や9万円ぐらいで買えたアイパッドプロも2倍以上の値段でもあるので、世界標準は倍倍くらいの常識かもしれない恐ろしきインフレ。
価値観の変化の波は私たちの物価感覚を2倍程に上昇させるとすれば、善良な市民は適正価格になるまで、あるもので上手にやりくりするか?高くとも買うしか選択肢はないものだ。

これらは人それぞれ持つ美学でもあります。
このような文章の美学とは明朝体の文章は絶対に許せない人もいるし、数字にカンマを付けないと気になって仕方がない会計の人もいるものだ。
デザイナーは文字をできるだけ小さく組み、文字組みはイラレなどを使いグリッドでピッシリと揃わないと気持ち悪いという感じでもある。
私の明朝体の文章はメイリオなどに訂正され、数字は百千万と0のみの数字で書いているとカンマを付けて下さいと言われるものだ。
デザイナーに文字はもっともっと数倍にデッカくして欲しい、カチカチではなくてゆるいラフな文字組みにして欲しいとお願いすると、人にはそれぞれ触れてはいけない美学の地雷原があることを知るのである。

私にも文字の美学はあるのかもしれませんが、とりあえず荒削りでも完成させてしまったら納得のタイプでもある。
これを別名で呼ぶとすると「完了主義者」であるのかもしれないものだ。
それは以前にも書きましたが東北の仏師の彫刻のように雑でも脱字誤字や間違いがあったとしても、そこに仏像が立てば今日のノルマは達成して全て満足するタイプであります。
なので、たたき台を作れば、後は誰かがヤスリがけしてくれたら尚うれしい。

ほらほら、Wikiには「T-岡田さんと書かれているよ」と言うことで半角岡田さんが正解のようであります。

ということで、

「次の阪神の監督は誰になるのかな〜」などと話をしていると、どうやら、T−岡田さんはタイガースの岡田監督とは別人のようであります。
世間知らずとは本当にどうしようもないホラーでもあり、100%勘違いしている人の話で今まで長時間かけて、あれこれハイフンのカタチ云々と、美学はこうあるべきだなんて延々と話している自分にビックするものでもあります。
たぶん、ヨーロッパのおばさんたちも駅で絶え間なくずーっと何かをペラペラと話していますが、このようなどーでも良いことを永遠に話しているかもしれないものだ。
面白いことに一日話しすぎると夜アゴが疲れて疲労するのであります。草
冷静に考えればニュース記事で岡田監督をT−岡田監督とあだ名のように省略するのはおかしいような気もする。
いやいや、G−慎之介、(DeNA)浜の番長などと常々言っているので、おかしくないような気もする?
関係ないけれど、母がDeNA球団のことを「DeNA?ディーナ??」と戸惑いながら言っているのは面白いことである。
セ・リーグはトップ混戦模様で熱くて面白き野球であり、個人的には岡田監督の「ARE」に続く名言を期待しております。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月11日(水)
■メモリーチップ2。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月12日(木)
■スコスはすこすお休みです。




*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月17日(火)
■一日一文章トレーニング。

「スコスは新アプリを導入しました!!」

昨日は低気圧の曇り空で頭が痛いものです。
エナジードリンクの缶収集ファンでもある私にとれば、これはカフェインの人体実験の好機でもある。
さっそく「頭いて〜わ〜」の状態からエナジードリンクをドーピングしトイレに行って帰ってくると頭の痛みも和らぐ不思議である。
関係ないけれども、最近、「ZONEエナジー・ユートピア」の缶をゲットした。
ワクワク!
やはり、低気圧による頭痛はカフェイン摂取で緩和できることで間違いないようである。

苦いコーヒーをちょろちょろとドリップさせる方が効果てきめんで間違いありませんが、エナジードリンクのカフェインでもそれなりに低気圧の頭痛には効くようです。
普段コーヒーを飲むと頭が痛くなる人はいますが、この場合は反対の生理反応で脳血管がカフェイン摂取で収縮することで、脳みその血管は低気圧で拡張しても、カフェイン摂取で収縮しても片頭痛は起こるかもしれないものだ。
エナジードリンクの話しになると体に悪い話しとなりますが、その原因は糖分とカフェインの過剰接種であると思われるので、カフェインの接種は時と場合を鑑みて飲むことが大切です。

そして、この気圧の谷間で発生する頭痛にはトイレの狭い空間で暫く籠もると良い感じであります。
この狭い空間で守られている感じは小動物が狭いところに隠れることに似ているもので、トイレの狭い空間の中にいても何だか心も落ち着くものである。
昨日、東京の狭い家のメリットについて熱弁を振るっていたならば妙にウケて納得されたものであります。
エッヘン!
それは大きい家だと汗ダラダラであっち行ってこっち行って何往復しての何倍も時間もかかるお掃除作業であります。
その点、狭い家なら朝の短い時間でホイホイホイのキレイに出来るお掃除で、これは無いものねだりの可能性もあり?負け惜しみなのかもしれないが?大は小を兼ねるものでもあり、そして、それも一長一短で世の中とは本当によく出来た神秘である。

ということで、

昨晩、頭痛が収まったので人生ではじめての漫画を描きます。
漫画を描くといってもPS4の「マンガ・カ・ケール」というゲームで制作するマンガです。
4コマ製作で約30分。
何が面白いのかと言われても何のアイデアも無いところからマンガを描けと言われても描けないので、テンプレートの画像を使いバトル学園の戦闘シーンを配置して描くのであります。
ノープランからこれだけ描ければ何かスゴイものである。
画像はCG画像なので自由に動かしてレイアウト出来て、少しずつ微調整しながら熱いシーンを作っていくのであります。
アプリはPS5でも問題なく作動し、チュートリアルを経て、完全にフリーに描くと画像のような作品となります。
金属バットをフルスイングR18な暴力シーンではありますが、自分で描いてもこのような図は思いつかないものである。
キャラクリまでは手が回らなかったので登場人物は全て同じ顔なのですが、それは御愛嬌です。
今後、新しい顔を作って変化を出したいと思っております。
アプリのお値段何と815円ジャパネットです。
安っス!
もちろん、完全部外者の回し者ではありません。
これは何か画面付きのプロットを作っているようでもあり、これを使いこなせるようになると我の絵にも空間力がつくような予感である。
高騰するゲーム機器な新時代でゲーム機器の遊ぶ以外の使い道はないかと考えて、これで文章や商品を持たせるマネキン販売員を作ってみたいと思ったのであります。
スコス専属のマンガ販売員を作るのが目標です!!
我が家にはPS3(未接続)・PS4Proデスストバージョン(稼働中)と6万円台の時に買ったPS5(稼働中)があり、ゲーム機の頭脳を何か活用出来ないものかと考えて辿り着いたビーチが「マンガ・カ・ケール」なのであります。www

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月17日(火)
■あつい。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月18日(水)
■一日一文章トレーニング。

「まだまだ暑い日は続きますが床の温度変化から計測すると秋は9月3日の足もと下から秋は始まっております(マイ計測)」

暑い、暑くて唸りながら目覚める朝です。
おまけに夢の中でもなぜか英語の学習をして寝坊する朝でもあります。
もちろん、学んだ英語の何も全く記憶に残らない素晴らしさ。
これはそろそろ三日坊主の英語を学ぶべしというお告げかもしれないものだ。

さて、

「暑さ寒さも彼岸まで」で暦通りの暑さだと仮定すると、この暑さも明日の9月19日(木)〜9月25日(水)の間に秋の気配はやってくる気配でもある。
さて、この記録更新の暑さであるので、どうなりましょうか。
毎日の床温度の計測ではクーラーの効いた部屋の床温でも微妙に下がってくるものであります。
そのデータを見る限り足元の床温度からは秋の気配は感じます。

夜寝る前と朝起きる前の床温度の記録は下記のようになります。
このデータは足が床の温度差から体温を奪われていき足冷えの状態となることを知り、そのような室内の床温度の変化を計測しているものです。
そして、関係ないけれども「手のささくれ日記」も計測しています。
指のどのあたりから、どの位の期間を経てササクレが発生しているのかというなかなか面白い記録であります。
これもササクレの記録がある程度の量が集まったら集計して公表したいと思います☆

8月18日(月)朝:26.6℃・室温26.8℃
8月18日(月)夜:26.8℃・室温25.2℃

8月22日(金)朝:25.8℃・室温26.2℃

8月24日(日)夜:28.8℃・室温27.1℃

8月25日(月)朝:24.8℃・室温25.7℃

8月31日(土)朝:24.6℃・室温25.6℃
8月31日(土)夜:26.2℃・室温26.7℃

9月1日(日)朝:24.2℃・室温25.4℃

9月3日(火)夜:23.2℃・室温26.2℃
9月4日(水)朝:22.4℃・室温24.9℃
9月4日(水)夜:21.0℃・室温26.5℃
9月5日(木)朝:20.2℃・室温25.3℃

9月6日(金)朝:18.8℃・室温25.3℃
9月6日(金)夜:20.0℃・室温26.6℃
9月7日(土)朝:17.2℃・室温25.0℃

9月8日(日)朝:16.2℃・室温25.7℃
9月8日(日)夜:17.0℃・室温26.3℃
9月9日(月)朝:14.6℃・室温25.7℃
9月9日(月)夜:16.8℃・室温26.1℃
9月10日(火)朝:15.6℃・室温25.2℃
9月10日(火)夜:13.4℃・室温26.6℃

9月11日(水)夜:15.6℃・室温26.9℃
9月12日(木)朝:14.2℃・室温25.4℃

9月15日(日)夜:22.0℃・室温26.3℃
9月16日(月)朝:15.6℃・室温25.7℃
9月16日(月)夜:22.0℃・室温26.6℃
9月17日(火)朝:18.6℃・室温25.2℃
9月17日(火)夜:16.6℃・室温26.8℃
9月18日(水)朝:15.8℃・室温26.1℃

暑い時の床温度は大体室温と同じとなる感じではありますが、最近は室温に関係なく床の温度は低くなる傾向にあります。
これは面白いことでコンクリート建築の性質なのか?気密性の低い日本の建築に理由があるのかもしれませんが建物の温度変化が床温度にも影響を及ぼしていることがわかります。
これは冬になると室温よりも床温度は低くて裸足で歩けないように、気候の変化とは室内の床温度に如実に現れ出るものであることがわかるものだ。
そして、データは抜粋ではありますが連続で温度変化を繰り返す地点は床温度の変化から見る季節変化の床温度のティッピングポイントのようにも思えるものであります。
なので、9月3日から床温度から見ると秋が始まっているとも読めます。
毎日、残暑は暑くて暑い日が続きますが、このような家庭内データの定点観測からも小さな秋を見つけることは出来るようです。
個人的には足冷え日記よりもササクレ日記にドはまりで、残暑まだまだ続きますが皆様ご自愛下さいませ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月18日(水)
■ドライブ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月19日(木)
■一日一文章トレーニング。

「アレっと気になるのはパスタ麺の食感とご自愛下さいの言葉であります」

いろんな種類のパスタを適当に買って食べる度に「アレっ」となる麺であります。
パスタの麺とはそれぞれ個性があるもので、「米高ければパスタを食うべ〜」とインフレ時代の生活防衛には様々なオプションが必要なものである。
昨日はスパゲティーを食べていたならばイタリア産のデュラムホニャララを作って食べる。
味は美味しいのですが食感が何かおかしい感覚はあるものだ。
茹で時間が間違っているのか?茹で時間の短い早炊きスパを食べるような違和感はないものの、本場のスパを食べて何か微妙になる感覚はある。
確かに、私はイタリアで本場のスパゲティーを食べたことはない。
なので、本場の味を知らないので何とも語ることの出来ない味でもある。
麺は太麺であれば太い程に好きな麺であり、スパゲティーは本物志向な味覚ではないことは確かである。
料理は香りがとても大切であり、その後に味と食感も重要で、料理って本当に難しいこと。
因みに、デュラムホニャララとはデュラム小麦のセモリナのことである。
翻訳するとデュラムとは高温・乾燥地域で栽培される硬い小麦のことで、セモリナは粗い製粉で食感はモチモチとしたコシの強い食感の意味のようである。
今思い返すと茹で時間が短い感覚はセモリナ麺のモチモチ度にあるのかもしれないもので納得である。
ならば、麺は麺の特性に合わせ味付けをする必要があるようであり・・・モチモチ食感の麺の味・・・そのような麺にあわせる味付けとはなかなかの無理ゲーである。
スパゲティー通な人たちは麺の種類に合わせて味を考えているのでしょうか?

ということで、

ご自愛(じあい)です。
この「ご自愛」の言葉は「自分の体を大切にしてください」という意味で、自分の利益優先のことで利己的になれ!と言っているようにも聞こえるものだ。
これは自然的な自己保存の感情であり、自然環境の厳しい残暑の中で何よりも自分優先で体をいたわって欲しいと願うものでもあります。
自愛とは何か自己中心的な感じもするもの、伝統的な文章にはこの自愛の祈りが込められていることが面白く思うことである。

ならば、自愛の反対語は何かと言うと他愛(たあい)である。
他愛とは自分の利益よりも他人の幸福を優先的に考えることで、これは利他的とも考えられるのですが、そのように捉えると、自愛とは利己的な言葉であり、他者を思う精神が薄まってしまうような気もするものだ。
自己愛か他者愛なのかと考えれば他愛の方が人間性高く、自愛は自愛で、自己愛は自己愛で分けて考えたいものだ。

この自愛か他愛のことを考えていると、おねだり知事のニュースが頭に浮かぶものだ。
あれこれ語ることはしませんが、ただ一言だけを言うとすれば「公僕」という言葉が世の中のてっぺんな頭から失われているように見える一つの現象と見えるものだ。
もしかしたら、このような感じが世の中に蔓延している可能性はあるもので、それは知事の様子を見るだけでもひしひしと伝わるものである。
また、
権力にすり寄り補助金や富を得るという考え方はいつの世もどの世界にもありますが、今や隠すこともせずに公言する人も現れているもので、それだけ、世の中は腐ってきている可能性はあるものだ。
これは仏教的な欲を断つということが失われているのか?自制がないのか?いやいや、自愛も大切であり、他愛も必要なので、我、頭の中がこんがらがい答えが出ないものであります。
権力も地位も無いのでその人のような気持ちはわかりませんが、「ご自愛下さい」な言葉から世の中の複雑さは感じるものである。
そして、このようなニュースがちゃんと記事となって報じられることは救いである。
このような闇が表に出てこない世の中とは見ている部分の全てが美しくてキレイで完璧な世界であり、これは何か既視感もあるのですが、美しい日本の政治スローガンみたいな腐敗した部分はブラックボックスの中に隠されて決して表に出てくることのない世の中でもある。

ちなみに、他愛とは「たあい」と読む以外に「たわい」とも読むことも出来ます。
他愛のない話しについて話す時のみ「他愛(たわい)のない話し」と「あ」を「わ」に変化させて読みます。
これは他愛のミソのような気もするものだ。
「わ」は「和」とも読めるし、「たわいのない」のない話しに「愛」の変わりに「和」を入れた昔の人の知恵を垣間見るような感じでもある。
おそらく、他愛ない話しとは人として生活する中で必要なものである。
「他愛のない話し」とは思慮分別がない、幼い話し、とりとめのない、正体のない、手応え・はりあいのない話し・・・という意味であり、そして、私は日本語の言葉の中に日本人の哲学は埋まっているのではと思うのである。
自愛も他愛も大切な表裏一体であり、私も毎日「他愛のない話し」を書くもので、いつの日かガラス張りの思考の中で自愛と他愛の迷い迷われたまう本質を知ることが出来たならば良きこと也。
今日は難解なことを書いたので頭がメタパに状態である。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月19日(木)
■新デザインのフルフェイス・ヘルメットがかわいい。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月20日(金)
■一日一文章トレーニング。

「新型バイクヘルメットのデザインの概要」

バイクに乗る為の未来的なフルフェイス・ヘルメットを考えていたら平安時代のかぶりもの、蜂栽培農家の帽子みたいな懐かしいカタチになるものだ。
未来の最新ファッションが先祖還りしていて面白いものである。
先日、絵巻物の変な走り方をしている人を検索していたので平安時代の菅かさ(すげかさ)風のメットになったのかもしれない。
このようなヘルメットの利点はコロコロと転がらないことである。
頑張ればスタッキングで重ね置きできるし、宇宙用のヘルメットにも最適にも思う。
宇宙のいろんなSFを見ても農家風の宇宙ヘルメットは見たことない新デザインである。
暑い夏の日差しを避ける為にキャップをかぶっていたならば、髪の毛は蒸し蒸しと汗で蒸し上がって暑くなるものだ。
このような頭のてっぺんに空洞でもあれば蒸れ具合もすこす涼しくなるかもで、実際に作ってかぶらないとわからないのですが頭身の割合が少し面白いものである。
頭のでっかいグレイな宇宙人も頭部を守るでかいヘルメットだったりして。w

先日の外気温を吸収するコンクリート床温度の件、ヨーロッパの煉瓦はミツバチの巣のような穴の空洞が空いているようで壁の中にたくさんの空洞を作ることで建物の気密性を高めているようである。
来年は絶対に買うぞと思っている工事の人が着ているベストしかり、ダウンコートしかりそのような仕組みである。
なので、帽子の空洞部分に蜂の巣みたいなスペースを作れば事故ってもペシャンと壊れることもなく頭を守れて、涼しげな頭上の空気も保てる予感である。
平安時代も今の夏みたいに暑かったと聞いているので先祖戻りもあるや無いか。
このような奇抜なデザインをかぶれるイノベーターはそうそういないものであります。

そして、このメットは徹子さんの飴玉みたい飴を隠し持つことが出来るものだ。
なぜ?頭に飴を入れているのか?
それはわかりません。
頭は情報の収納だけではなく、飴も収納できる機能を持っているかもしれないものだ。
母も何だか移動に飴玉を持ち歩いているものだ。
なぜ飴玉を持ち歩いているのか不思議ですが、うるさい子がいたならば飴玉一つで大人しくなれば安いものである。
また、ハイキングのような糖分補給と考えても備蓄品を持ち歩くような周到な準備を感じるものだ。
そして、そのような飴はバックに入れぱなしだと溶けてぐちょぐちょになりますが、いつもキレイな飴なので定期的に整えているところが几帳面で面白いところ。

因みに、

平安時代の女性がかぶっていた帽子の名前は市女笠(いちめがさ)という帽子です。
雨の日や髪型が崩れないように男性もかぶっていたようですが、市女(いちめ・市場の売り子)のかぶりものとして平安時代に流行し、その後、上流階級の女性にもかぶられようになった帽子であるそうだ。
通常、上流階級から文化は降りてくる感じがしますが、このファッションで言えば下位上達的な庶民の文化が広く世の中を覆う感じでもある。
このような帽子はカタチを変え、江戸時代まで長く愛用されていたので生活の質を一変させるような帽子であったことは間違いない。
そして、大切な上部の空洞部分は巾子(こじ)と言われており、寒い時期には防寒用に綿を詰めたようである。
帽子は漆塗りのものが高級品で、薄い布を垂らすことで顔を隠していたようであります。
当時の女性のファッションはイスラム圏のような女性が顔を隠して歩くような感じでもありますが、扇子で顔を隠しながら話したり、手で口を隠すようなクセは伝統的に受け継ぐ事柄なのかもしれません。
しかし、古文書の絵など見ていると顔丸出しの女性も結構いるので、虫除けや日焼け防止の為のキャップかもしれないものだ。

巾子(こじ)の「巾」は巾着(きんちゃく)の「巾」でもあり、中に貴重品を入れていたかもしれないものであります。
「腰巾着」は特定の人にへつらい従う者のことの意味であり、現代人であればポケットに財布を入れているので大抵腰巾着かもしれないものだ。ww
頭巾着であれば頭(ズ)も高くて何かしらの自立心も感じるもので、徹子さんの頭の飴玉には単なる面白さだけでなく深くて高貴な飴玉の不思議を感じるのであります。www
勝手に適当に分析してゴメンm(_ _)mTなさい。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月20日(金)
■51-51!!パチパチパチ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月21日(土)
■一日一文章トレーニング。

「現代社会に失われているものが判明しました!!それは懐である」

「出ました!!」
街で1億の物件情報の看板を見かけることはたまにある。
そんな時、我らは一十百千と数字を数えながら「出ました一億」を安いだの高いだのとアホ談義に花を咲かせるものである。
そして、昨日ついに2億の物件の看板を見つけて驚くのです。
この手の街中に置かれる看板で「出ました2億」の数字ははじめて見るもので、「ついに出た!」の希少物件の看板もついに2億円大台に乗ったようである!!www
この看板を歩きながら見つけて「2億だ〜買うべ」となる大富豪は存在しているのでしょうか?
数字と文字の情報だけの怪しい看板であり、これは富裕層ホイホイかもしれないと懐疑的にも思うものだ。
そのような物件の看板を見ながら我らは物件の良し悪し、文字情報のみを追いながら妄想談義を始めるのであります。
そうすると、我らの横に1台のバスが止まって「ピー」と鳴りてドアオープンするのであります。
いえいえ、我ら2億円物件の看板を冷やかしているだけの只の通りすがりです。
「お前ら乗るのか?乗らんのか?」の微妙な間がバスと我らの間に流れるのですが、バスに乗る予定はないものだ。
そのようなジェスチャーをしようかと思った矢先、後方から高速に走る人の影あり。
おばあさんが老体にムチ打ちながら駆け足で走って来るものであります。
私達がバス停の前で2億の看板を見ていたことにより、おばばはギリギリセーフで何とかバスに乗れることが出来たのである。
バスとは1本逃すと当分やって来ないもので、この場所で2億物件の立ち話をしていなければサッサッと先を急いで通り過ぎてしまうバスでもありました。
なので、我らはおばあさんの役に立ってしまったものであります。エッヘン

面白いことに、プロスポーツ選手の年俸みたいな2億の看板が道に立っていても歩くほとんどの人は無反応なこと。
その意味でも我は怪しい不動産業者の広告にまんまと釣られる鴨のような感じでもあるのですが、鴨は鴨であっても2億なんて全く鼻にも棒にもかからない無駄鴨なのである。\草/

とりあえず、

2億円は大金です。
2億の容積とは想像もつきませんが昨日の話しだと腰巾着でも多分持てない金額である。
今やバックに財布を入れたとしてもいつも腰巾着のような位置にあり、オレ電子マネーの勝ち組みな人でもポケットに入れるマシーンの位置は腰巾着である。
胸ポケットに入れるとしゃがんだらスマホが落ちてパリンであるのでポケットやバックか手から離さずしかないものだ。
ご先祖様がワープしてきたならば、これはお叱りなる案件である。
さっそく、昔の人たちは財布をどの場所に身に着けていたのか?調べると、答えは懐(ふところ)のようだ。
懐とは着物を着た時の胸の辺りの隙間で、どうやら昔の人たちは大切なものを懐に入れて大切に持ち歩いていたようである。
懐に仕舞われる言葉とは
懐刀(ふところがたな・秘密など信頼して相談出来る知恵のある部下のこと)に
懐抱(かいほう・抱き抱え、親が子を愛し育てること)、
懐妊(かいにん・身ごもること)、
懐古(かいこ・昔の思い出を懐かしく思うこと)、
懐旧(かいきゅう・昔を懐かしむこと)、
懐郷(かいきょう・故郷を懐かしくおもうこと)、
懐疑的(かいぎてき・疑いをもって怪しく思うこと)、
懐柔(かいじゅう・相手の懐に入り込み巧みに手懐け従わせること)
と「懐」とは体の中でもとても大切な部分であることがわかります。
今や完全な脳化社会でもあるので、このような懐(ふところ)なんて端にも棒にもかからないことかもしれないものだ。
ユニコーンのダグバダグザさんもパナージに頭で考えるのでは無く自分の胸に聞けと格好良いことを言っていたものだ。
ユニコーンガンダムは本当に勉強になるのであります。
明治以降の西洋化の中で服装も変わり一億総腰巾着みたいな感じでもある。
それによって懐具合も忘れて胸の温かみも忘却されているかもしれないものだ。
これは大変なのであります!!
さっそく、しまむらやユニクロの偉い人にお手紙を書いて大切なものを保管する懐ポケットを格好良くデザインした洋服を作って貰えるように要望書を書く必要があるものだ。
私達現代人は物理的な懐の喪失することにより、大切なものを抱えていた懐の位置や存在も失っているかもしれないものである。

ということで、

さっそく、我5円玉と50円玉で作る腰巾着な財布を作りました。
時代劇とか見ていたら寛永通宝などの穴銭に紐を通して腰にぶら下げているような財布である。
これだと確かに雅懐(がかい・風流な心)な趣がないものだ。
コンビニでうだうだとこの穴銭で支払いをしていたら皆を苛立たせてSNSに晒される品でもある。
そして、これを腰にぶら下げて歩いていたならば、本懐(ほんかい・のぞみ)や胸が温まるものも全く感じることも無く腰巾着と言われても仕方無きことである。
「懐」を寂しくないように、「懐」を感じ、「懐」を温めて大切に育みたいものであります。

 

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■2024年9月21日(土)
■YES筋肉。

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■2024年9月23日(月)
■一日一文章トレーニング。

「ふところの再取得は火急の案件であります」

昨日も今日も朝は随分と涼しくなったものだ。
窓を全開にして過ごしていると涼しい風が通り抜けて、秋はこのまままっしぐらに深まって欲しいものである。
ですが、
このような季節の変わり目の雨も地続きな遠い能登半島では水害をもたらすものであり、秋を到来は何とも無慈悲なことでもある。
東京で風が吹き雨降れば遠くのどこかの場所では災害級の雨を降らす可能性があることは、私達の身の回りに常にある何かしらの境界線とは、結局、俯瞰すれば全ては繋がって無意味に感じるものである。

先日から朝晩のベランダの植物たちへの水やりをしているとアルミサッシの隙間に白い虫の卵のようなものを発見して怖く思うものであります。
怖いから見ないようにしていたのですが、それらが孵化してウジャウジャと虫が這い出て来たならば、なお恐怖でもある。
ティッシュで潰そうかと思ったのですが、気持ち悪いので「まーいいか」と思い放置していたのであります。
そして、昨日はなかなか風吹く涼しい天気でもあったので窓を全開にし外の空気を取り込んでいたもので、湿度はそれなりにあるものの風が吹き抜ける度に心地良い気持ちになるものだ。
我、家の用事を「ちゃちゃり」とこなし床を見ると恐怖の白い虫の卵みたいなものが吹き飛ばされて室内の絨毯の上に転がっているのを発見するのであります。
「あーあ」卵の存在に気づいた時にぶっ潰していれば良かったものだと後悔するのです。
その白い物体を詳しく観察すると虫の卵でなく、どうやら発泡スチロールの破片のようで「ほっ」と安心。
何たる節穴の目の持ち主でしょうか。
風で吹き飛ばされてひっくり返るまで発泡スチロールだと判別できない真贋の目で、私が骨董品や美術品を買い出したら、良い鴨になりそうな予感である。
これではAIの絵の真贋も見極めれないことも仕方がなきこと。
昨日は「ダグザ・マックール中尉」を仮面ライダークウガの怪人の「ン・ダグバ・ゼバ」な「ダグバさん」に間違えているものであります。
「心に従え」という記憶も不安になるもので、先日も「燃え上がれガンダム」の歌を「立ち上がれガンダム」と解釈していたぐらいに記憶とは心拙い(つたない)ものである。
ガンダムは兵器なので敵が乗れば敵になるし、主人公機でも結構燃え上がってしまうものでもある。
さっそく、飛ばされた発泡スチロールは摘んでゴミ箱にポイします。
第一印象で虫の卵であると誤認をしているので、無意識に直接手で掴んだ時に「えっ」と何か気持ち悪く思ったものである。
風が吹けば発泡スチロールの欠片などはベランダにも飛ばされ、部屋の境界線を越えて侵入してくるものです。
数々の境界線を探していた無意味さも感じる秋のもんだ。

ということで、懐(ふところ)のお話であります。

懐とはその感覚を持っているのか?持っていないのか?により、人たる器を決める重要な要素のようにも思うものだ。
昨日は一日考えて図のような結論をまとめるのであります。
それは地続きで繋がる世間との繋がりを「懐」というワンクッション持つことで、昔の人は大切な心の壁を作っていたように思うこと。

<昔の日本人は2重の壁を持っていた>
外界:他人の目→内面:{(A服)+(B懐=心)+(C体=脳)}

<現代人は1重の壁を持つ>
外界:他人の目→内面:{(A服)+(C体=脳=心)}

現代人は心が欠如しているのでしょうか。
脳と心を一緒にしているような気もするものだ。
生きていれば、そのように思うことも多々あるもので、昔の人の方が身体と外界が繋がる前に懐という物理空間(壁や器の場所)を設けることで、今の私達よりも+1の(懐=心)の壁で少しゆとりがあったようにも思われます。

なぜ、そのような空間のある・なしが重要かと言えば、例えば、上記図の「メメクツ人体図」のようにハチマキを頭に巻くと「気合と根性」も高まり戦闘モードで集中力も深まり通常以上の力を発揮することは可能です。
また、腹に力を入れなければ体から湧き出る力も発声なども出ないもので、これもまた腹の力を入れることにより持つ力以上の力を発揮できる仕組みでもある。
このような物理的な何かを感じることで力に変換するシステムとは現代人の私たちでも日常的に行うことである。
ただし、胸にある懐の存在を感じることで力として何かを発揮するようなことはないもので、前述の通り明治以降の西欧化によって私達は洋服のパーツから懐の機能は物理的に失うことになる。
たかが服装ですが、されど服装なのです。
私達は懐という感覚を失うことで心の器も失っているようにも思うのであります。
これは年をとればとる程に懐の存在や力を忘却するものであり、若い頃は恋愛やちょっとした出来事でも胸を潰されるような気持ちはあったものである。
若い頃には自然と野生的な胸を痛める感覚とはあったものの、しかし、それを「むにゃむにゃ」とよくわからない気持ちとして懐に定着出来なかったものであり、大人になるとそのような胸の痛みは完全に消え失せて、ぽっかりと穴が空くような感じでもある。
そして、全ての事柄を頭で考えることで脳化され一億総腰巾着のようになり果てているように思うのが現代日本でもある。m(_ _)mT
一億人を腰巾着とは言い過ぎですが、私自身も胸を張って腰巾着と言えるものである。
青春時代に感じた胸キュンな痛みもなければ甘酸っぱさもないもので、物理的にも精神的にも懐を感じながらそれを力にすることは出来ないものである。
今やブラックホールのような穴に心という感情の全ては落ちていくような感じでもある。
世の中の表れ出ている狂ったように見える現象の全ては「懐=心」という名の身体機能の欠如にあるのかもしれないものだ。

懐とは着物と胸の間にある小さな隙間です。
このような小さな隙間な空間に大切な何かを留めることはとても面白いことである。
それは場所を示す言葉であり、物に囲まれた場所や所持金=大切なお金の意味もあり、また、小へんを持つ懐は「心に抱く」という意味でもある。
また、「懐を見透かす」や「敵の懐に飛び込む」など、お金以外のその人が持つ大切な考えも含める先人の知恵でもある。
これがどのような意味を持つかと言うと私見ではありますが、昔の人は当然頭で考えもしていますが、(身体=頭脳)とは別の(心=懐)に投影していたのではなかろうかと思うのである。
格好良い言い方をすると「デュアルシンキング」や「CPU+GPU」仮想メモリを胸の懐の隙間に作るようなもの。

懐の関わる熟語とは「懐が寒い」「懐を痛める」「懐を肥やす」「懐と相談する」など、ほとんどお金にまつわる言葉が占めるものだ。
昔も今も人を悩ませるのはお金事情が原因の候でもある。
現代人は頭で考えて金銭具合を悩ますものではありますが、昔の人達は脳みそで金策を考えるだけで無く、懐具合の胸でも感じていたことになるものだ。
これは脳に直接お金の悩みを持っていくのでは無く、関節的にワンクションの胸の懐で温めて考えていたように思うもので、これは身体とお金が直接結びつかないような先人の作った健康を保つ知恵であるような気がするものだ。
このような感覚を失ってしまった私達とは脳と直接直結してしまった現代人の悲劇かもしれなくて、外国人が心をどこの部分で心を感じているのか?私には知る由もありませんが、明治の文豪たちも何か失った心をたくさん文章に書いていたような記憶もあるもので、それが原因なのかもと思うものである。
具体的に何かと言われても思いつかないのですが、近代文学のぼんやりとした不安は自我の確立云々プラス、物理的な懐を失ったことの喪失かも知れないのだ。
!! www m(_ _)mT ごめんなさい www !!
現在でも着物を着た文豪さんなどを見ても、スーツをバシッと決めた人よりも遥かなる人なる器の大きさを感じるものだ。
それもこれも懐という力を持つ人と、持たない人の差ではなかろうかと思うのです。
毎日、懐に大切なものを持ち歩くだけで本当にハチマキを巻いたり、腹に力を入れる倍々にする力を得ることが出来るのでしょうか?
そのような力とは本当に神秘で確実に存在する力でもあると思われます。
私には「懐」がないので書けない「力」ではありますが、おそらく、確実に存在している力であります。
懐の隙間の存在を感じ、それを温めるだけ失われた日本人の心の一部分の力は確実に取り戻せるような気がするものだ。
そして、それが特にそのような懐が必要だと思うのが心穴だらけの大人たちである。
懐の再取得は火急の案件なのであります。

 

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■2024年9月23日(月)
■めめくつ。

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■2024年9月24日(火)
■一日一文章トレーニング。

「涼風吹いてすこす寒く感じる秋である」

朝晩は十分に涼しくもなり薄手の夏用布団に包まり寝ていたのですが、急に寒くなりむくりと立ち上がり全開した窓を閉めに行くのであります。
窓は全部閉めないで気持ち10センチぐらい窓を開けたままにする開閉具合である。
クーラーを消して寝むる秋を堪能したいのである。
そして、全開の窓と10センチ程度開いた窓の差は快適に眠れる十分な温度差があるように思えるものだ。
全開の窓だと少し寒く感じるものの、少しでも窓を閉めるとその開かれた窓の何%分か少し寒さも和らぐのである。
先日まで毎日暑い暑いと言っていたのが、次は涼しくなってもう寒いと言っているおかしさである。
開放された外と内の空気中の温度は変化しないと思うので、窓の開け閉めにより外界との接続の大きさを調整することで外から入る空気の分量を調整しているように思うものだ。

小さな秋の深まりを感じたのも3日前からのこと。
昨晩、寒く思った寝る前の室温湿度は26.0℃・55%。
そして、今朝の室温湿度は24・8℃・52%。
クーラーいらずの涼しさでもあります。
毎日家庭内のデータを蓄積していると面白いことにも気付くもので、この温度はクーラーを入れた状態の直近の3日間の平均温度の26.15℃とほぼ変わらない同じ温度でもあります。
残暑厳しい暑さの室温26℃はクーラーを止めようなんて思わない普通に快適に過ごせる室温であるのに対して、クーラー要らずの昨晩の室温26.0℃は肌寒く感じてしまう不思議である。
同じ温度なのに人が感じる温度の違いは変な感じでもあります。
人が体感する温度とは温度計の数値のみに非ずな感じなのでしょうか?
人の感じる感覚の曖昧さとは幾度となる呆則で学ぶものであり、これは体が温まり冷えること寒さかもしれなくて、体が温まってからさらに温まる猛暑から残暑の蓄積、冷えた体が温まる温かみのような微妙に感じる連続的な温度変化かもしれないものだ。
いやいや、
都会の空気と山の滝の空気だと明らかに異なる空気でもあるもので、同じ温度であったとしても出どころの異なれば、電気を帯びた循環するエアコンの空気と自然の空気は分子的に全く異なる空気かもしれないものである。
よくわからないけれども、同じ温度でも温度の感じ方は違うものである。

ということで、

先日、栗ご飯を食べました。
ご飯に栗を入れるだけではありますが、栗ご飯が食卓に出れば秋だな〜と思うものであります。
栗を蒸した時のご褒美は栗を半分に割り、それをスプーンで掬って食べる味見である。
最初はゴロリと栗の実も掘れるものの、最後の方は皮の部分をこすって食べる感じの薄皮もこすって食べるのもご愛嬌である。
栗を茹で殻を割って食べるまでの手間に比べればあっと言う間に食べ終わってしまう栗である。
冷蔵庫の中にはそのような余りむき栗4個が保管されております。
その栗は押しつぶしてパンの上に散らし「ちらし栗パン」にして食べようかと思うものであります。
何の話かな?の秋なのであります。

 

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■2024年9月24日(火)
■ごくり・・・。

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■2024年9月25日(水)
■一日一文章トレーニング。

「オレのマウスを持つ手がプルプルと震える筋トレもできる筋肉マウスを修理した」

快適と寒さを感じる26℃の壁は確かに存在する境界線です。
昨晩の室温湿度は25.6℃・51%、今朝は24.6℃・51%でもう何だかもう肌寒い。
さっそく、寝間着は長ズボンとなり、上着はまだ早いだろうと思いて半袖を選択するのである。
関係ないけれども半袖と言うとスター・ウォーズのハン・ソロを思い出してしまうものであり、この半袖は寝巻きは間違いで24℃−25℃台の境界上ではもう十分に長袖を着ても良いのである。
昨晩はあまりにも寒くも感じられた夜でもあったので、夜中に急に目覚め小窓をバシャンと閉める。
深夜の住宅街を走る車がブーンと遠くからやって来てブーンと走り去る何時かわからない深い闇のとばりが降りた時間である。
そして、「やっぱり夏用のペラペラ布団だけだと寒いややん」とむくりと立ち上がるのである。
タオルケットを取り出して家族の寝る布団にもかけて我の布団にもかけて寝るのだ。
2℃(度)寝ならぬ深夜の2度起きは、いやはや、もうすっかり眠気も飛び失せているもので、「あ〜」もう寝られないと思っていたら朝であった。
それは秋の夜の儚い夢のようでもあり・・・シェークスピアのお話のようでもある。

これは冬から春に感じる室温湿度と、夏から秋で感じる室温湿度は体感する感覚的な誤差がありそうに思うのでメモを残しておくようにしておきましょう。

・夏のクーラーで冷えた26℃は快適
・・・夏から秋の26℃の境界線・・・
・秋到来の外から流入する26℃の空気は肌寒く感じる
・24−25℃は十分に肌寒く長袖長ズボンを推奨、夏布団+タオルケットの二枚重ね推奨

ということで、

我のノートパソコンのマウスも我と同じく結構なぼんくらである。
見た目だけのデザインで選んだマウスだけであり買った当初から反応がもっさりする部分もあったものだ。
最近は左クリック1回しても反応しないことが度々ありカチカチ・カチカチと2回3回とクリックすることで反応してくれるへそ曲がりな筋トレ用のマウスとなったものだ。
おかげで腕の筋肉が疲労しているのである。
変わりに加水分解でベトついた古い有線の同じメーカーのマウスを接続すると気持ちよく快適に動くものである。
特にマッスル仕様がひどくなるばかりでマウスで画面をクリックする時には「トイヤ〜」と人差し指に念能力を纏わせながら押す感じでもある。
「本来は加水分解したベトついた何かを捨てるところだが、そろそろコイツも買い替えの時期かもしれない」と真剣に話していると何か急に反応が少し改善したりもするものである。
マウス兼アレイにはメーカーの作ったオリジナル絵文字を使える特殊ボタンもあったのですが、いつの頃からボタンを押せども反応なしでパソコン上のアプリも消滅して何かの問題があったような予感のする筋肉マシーンとなったのである。
マウスを脅しながらそれなりに反応は良くなったものの、やっぱり、どこかもっさりとする筋肉をプルプルと震わせる部分はあるもので、そのような筋肉養成ギブスのようなマウスのお話しをしていると「接触部分に接点復活スプレーを吹けばよいんじゃない」という話しになる。
この接触スプレーはソニーのデュアルセンスや任天堂のプロコンのアナログスティックが壊れて誤動作を修復する為に買ったものではあるが、何の効果も発揮せずに家の重石となる接点復活スプレーのようである。
さっそく、マウスの中身を開けると内部はドライバーなしにパカッと開くもので、接触部分は丸見えなのでそこの部分にスプレーをシュッと吹きます。
「どれどれ」と操作反応をチェックするとカチカチと1回で反応してくれる普通のマウスである。
秋の夜にスプレーを吹いて筋肉マウスはお利口さんとなったのであります。
お気に入りのマウスなので良かった、良かった。
888

 

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■2024年9月25日(水)
■たくさんの栗。

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■2024年9月26日(木)
■一日一文章トレーニング。

「世の中に名言はたくさんあるものだが」

昨日はそのような時代を移す鏡のような名言を思い出すのであります。
何の話からこのような名言なお話になったのか皆目思い出せないのですが「物を売るっていうレベルじゃねぇ」の話になります。
早速、「それは何だっけ?」とネットを検索すると
https://www.nicovideo.jp/watch/sm10874456
であります。www
これはゲーム史に残る名言です。

PS3はデモンズソウル、フォールアウト3、スカイリム、オブリビオン、ダークソウル、レッド・デット・リデンプションなどなど・・・名作ぞろいで遊んだものである。
そして、この名言はPS3の発売日にビックカメラに押しかけた客が押し合いへし合いする中で吠える男性の言葉である。
ニュース番組で放送されたらしいのですが、よくぞ誰かが録画して保存したものであります。
映像見た時の感想は横腹が激しく痛く面白いのであります。
ですが、大勢の人が押されて「キャー!」「ララー!」と悲鳴が飛び交い、怪我人が出れば販売を中止しますとのアナウンスもあって大変な光景でもある。
自分の経験呆則から考えても、このように大勢で並んだりする思い出は結構楽しいものである。
夢中になれる何かがある時とはとんでもなく面白いのが人生である。

これはPS3の発売という一時代の熱い瞬間を切り取った映像であります。
我はどのようにPS3を購入したのかと考えるとほとぼりが冷めた頃に普通に並んでやっと買えた感じでもあります。
この後にはWiiの販売も控えていて、とっても良い時代ではありました。
Wiiの方はもっと入手困難であったような気もするもので、Wiiはあの棒みたいなコントローラが秀逸でとても面白かったものである。
バイオハザード4はマーセナリーズを含めても何周も狂ったように遊んだものだ。

一度目は面白く、あの名言以外の映像にも面白さを見つけるものであります。
二度目は「確かにこれは物を売るレベルじゃねぇ」と思い、並んだ人たちは無事に購入出来たのかと心配するものである。
三度目の視聴はあの名言の人も怖くなり、真顔のアナウンサーの読み上げ映像が始まると「来るぞー来るぞー」とジェットコースターに乗る前のような気分になるものだ。
何だ?この感覚??確かに「物を売るレベルじゃねぇ」は本当のことでもあります。
この構造を分析すると1)面白く、2)怖さもあり、3)ごもっともなご意見である。
www
この発言にはそのような3要素を兼ね持つもので、当時の新しい時代を切り開いた名言で間違いないと確信するのである。

3要素と言えば、1)衣服と、2)懐=大切な心と、3)体=脳です。
この三要素で架空の懐の隙間を妄想してみるもやっぱり本当に大切なものを身に着けないと、そのような懐心を定着出来ないものである。
懐が付く言葉にはお金にまつわる話しが多いようにゴールドなどを身につける小さなポケットを作るのも一案だ。
金のブレスレットをじゃらじゃら付ける・・・あの人たちには大切な懐心があるようにも見えるものだ。
また、男性でなくとも武家に生まれた女性であれば身を守る為の懐剣(かいけん)な短刀を懐に大切にしまい凛として過ごしていたようでもある。
懐とは言葉でも何でも大切に思うものを薄っぺらな空間に大切な精神として忍ばせることであり、自分の考えやポリシーに則するものを胸に近い場所に仕舞うことで効果を発揮するものである。

1)お金=これがないと生きていけない。
2)懐刀(ふところがたな)な命を守る短刀=切腹で自らを自害する刃でありながら、魔除けの意味もあり婚礼衣装でも身につける命の生き写し(懐剣)。
3)大切な考え=本人が大切と思っているものを身体から離れた隙間に写すことができる。

これらはどれも生きる為には必要不可欠なものである。
これの「ある・なし」により人の人格形成にも影響を及ぼしているようにも思われるもので、昨今の表に出る人たちの薄っぺらさは、このような懐具合の不在に関係していると思われます。
というか、それは確信でもある。
この構造の面白さは人の心が肉体から離れた部分の懐の隙間に心を宿すこと。
心とは何かといろいろ思うところはあるのですが、心を人体から切り離し外のモノに宿してしまう考え方は面白いものである。
その効果は何かと考えると、身体の中庸性も高まるかもしれませんし、そして、その懐具合こそが「人たる器」のカタチであると思われるのである。

「人たる器は懐である」

さて、どのように物理的に懐を作るのでしょうか?
懐を感ずるには先ず胸の隙間の物理空間に大切なものを保管し懐を温める必要があるように思うものであります。
さて?どうしましょう?

 

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■2024年9月26日(木)
■やき栗。

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■2024年9月27日(金)
■一日一文章トレーニング。

「本当に上野はカオスすぎる」

人まばらな不忍池を自転車で走っていたならば目の前を歩行者スピードで走るおじいちゃんの自転車を追い抜くのであります。
私も公園内の緑を感じながらゆっくりと走るのは好きですが、それよりも超超超スローな感じは逆にハンドル操作が難しいようにも思うものだ。
ゆっくりと走っていると回りの景色もよく見えるもので、前方に公園監視員みたいな腕章をつけたおじいさんがものスゴイ形相でベンチの方を見ながら立っているものだ。
何を監視しているのでしょうか?
それとも自転車の走行を監視しているのか?
とりあえず、鬼のような形相でとても怖い感じなので触らぬ神に祟りなしである。
ベンチの方を見ると背もたれ部分にたくさんの張り紙を確認することが出来るもので、毎日、通る道ではないのでわかりませんが、そのような張り紙は比較的に新しいようにも思うものだ。
自転車移動中である為にそこまで詳細に識別することは出来ませんが禁煙?飲食禁止なのか?赤丸に斜線の記号マークは視認できた。
あーなんだか嫌なものだ。
通り過ぎてしばらく進むと後ろから笛みたいな音が鳴っていたので、あの公園監視員が鳴らしているかと思うと、私は「くわばら・くわばら」と思いながら先を急ぐのであります。

郵便局や公共施設などに貼られる張り紙を見れば、その街の雰囲気は何となくわかるもの。
引っ越しの際、その街の雰囲気を知りたければ公共施設の張り紙を見れば何となく感ずる街の雰囲気でもあります。
しかし、キレイに整備された公園の背もたれに悪趣味な張り紙をバンバンと張っていればそれは何となく美的感覚を損なうような気もするものである。
兎に角、上野公園と言えばカオスな巣窟で公園管理整備の立場にあらば毎日様々なことが起こっても不思議は無いものである。
しかし、広義に捉えると公園は国民主権の原則の元、公共の利益、民主主義国家に於ける国民の権利から鑑みて国民の共有財産であると思うものであり「公園は誰のものか?」は私達国民が政治に興味を持つ面白いキッカケのような気もするものだ。

そのような公園を抜けて長い信号待ちしていると信号はなかなか青にならにものである。
ぼんやりと公共性について考えていると、外国人のツーリストが数組やって来て、手に私も買ったことがないような和菓子屋さんの紙袋などを持っていてマニアックである。
街の雰囲気も海外の都会のような雑な感じもありツーリストたちにとっては自国に似た環境なのかもしれないものだ。
だいたい、皆普通に使用していますが「インバウンド」とは少々おかしな言葉である。
「inbound」を辞書で調べると英語で「本国に帰る」という意味で、これは少々意味不明。
また、列車などの「インバウンド=上り、アウトバウンド=下り」みたいな言葉もあるようで、どちらかと言うとこの上京するみたいな「お登りさんキャンペン」と「おもてなし」な「お帰りなさいませ」の歓迎を含めたセットかもしれないものだ。
インバウンドのページに行けば正確なことが書いてあると思います。

信号が青になり、やれやれ行くかと思うと先ほど公園内で抜かしたおじいさんに先を越されます。
さっそくの秒で追い抜き先を急ぐのである。
すると前方の角から男女カップルが出てきて道を塞ぐように歩くのであります。
見た目も怖い感じのカップルで、私はその後ろを静かにのろのろと走るのである。
次の信号もまだ赤であり、このまま歩行者にあわせてのろのろ行けばその内に信号も青となりて丁度良い感じの計算である。
・・・
すると、先程追い抜いたジジーが私の後ろからベルをジンジン・ジンジンと鳴らしているのであります。
「やめてくれ〜」
さっきまでお主超のろで走っていたのではなかろうか。
そのような荒ぶる大きなベル音でジャリジャリと鳴らされたならば、まるで、私が怖いお兄さんとお姉さんに向かって自転車のベルを鳴らしているみたいでもある。
怖そうな男性は「おっと」と言いながら道を開けてくれたのではありますが目の前の信号は赤信号で私は隅によってじっと信号が青になるのを待つのである。
自転車のベルのチリンチリンは後ろの自転車から鳴らされると、歩行者から見るとまるで後ろの自分が鳴らしているようで、とっても嫌なのであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月27日(金)
■ディリリ〜ン。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月29日(日)
■一日一文章トレーニング。

「むかーし、むかーし、キッチンに置かれた邪魔な瓶が数本あったそうじゃ」

キレイな空き瓶は捨てずに何かに使用したいと思う瓶である。
しかし、具体的に何に使用しようかと皆目わからない空き瓶である。
いつでも何どきも使えるようにキレイに洗い、シールもキレイに剥がす空き瓶が何個か溜まれば、そろそろ箱に仕舞なければならないものであり、そして、昨日、重い腰を上げて空き瓶の入った通称ゴミ箱を取り出すのである。
何せ人気のないキッチン置き場に置かれた箱である。
先ずは周辺に置かれた同じくあまり使用しないものたちを動かす必要があるものだ。
「あっ」これは「僕カルダモン」です。
グアテマラ産で料理の香り付けをする為のスパイスで干からびたピーナツみたいな実がイッパイに詰まっている瓶だもんだ。
消費期限は2016年5月3日!
「えー」ですが蓋の上に溜まったホコリを拭き取り、蓋を開封してクンクンと香りを嗅ぐとエスニックな香りがプンプンと香るのであります。
これはたぶん大丈夫です!

数ミリ残ったごま塩の容器はポイである。
中身の入っていない味の素の空き瓶やドライニンニクの空き瓶もポイである。
今まで捨てられなかった奇跡のような瓶たちはポイポイと捨てるのであります。
忘れられたスパイスは恐らくどこの家庭にも存在しているかもしれないスパイスであり、シナモンはマイ・アップルサイダーブームの時に使用していたものである。
冬の間によく飲んだアップルサイダーも夏の暑い時期になると忘れられてしまうドリンクであり、スパイスも同時に忘れられてしまい時が止まってしまうものだ。
最近だと大根価格の高騰により大根スープのビシソワーズも全然作っていないものである。
一時の流行りは旬に気候に価格変動と様々の要因によって忘れられてしまうものである。
GABANの蓋を開けるとシナモンの爽やかで甘い香りが漂ってくるものだ。
GABANと言えば、メタリック戦隊な感じですが、こちらの容器も十分にメタリックである。
シナモンの香りは西欧の香りであり、りんごや柑橘系の味の隠し味にピッタリなスパイスでもある。
もう一度蓋を開けて香りを嗅いだとしても、このシナモンの良い香りは部屋中に充満したい香りでもある。
因みに、消費期限は2019年12月31日でクンクンクンと、これもまだまだたぶん大丈夫なのだ。

ものは容器に仕舞うと忘却するし、再び出して使う手間も考えると億劫となるもので、使用するまでの工程が少なければ少ない程に良い日用品となるものだ。
しかし、出しっぱなしにするとゴチャゴチャとゴチャつく部屋になるものだ。
すぐに使えるコンロの側に置いおけばすぐに使うことは出来ますが、油が飛んでベタベタと触りたくないスパイスとなってしまうものある。
収納とは仕舞って見えなくすれば忘れてしまい、表に出していれば汚くなってしまう人生の複雑さでもある。
さて、どうしましょうか?

ということで、

この2本の発掘されたスパイスを使いティータイムを楽しむことにします。
イギリスの習わしにのっとり美味しくまったりと過ごすお茶タイムである。
秋にもなり温かいお茶を飲むことも良いことだ。
本当にお茶のない人生なんて何だろう・・・考えますが何に例えるべきかの隅田川なのである。
座り心地の良い椅子のない人生というのもあります。
生活空間に良質なものを揃えることは必要なことでもある。

そして、完成したお茶はチャイであります。
残念ながら写真を取り忘れていたので絵に描きましたが一口飲めば甘ったるさの中に口に広がるエキゾチックな香り広がるとんでもなく美味しいチャイである。
これは自宅の消費期限切れのスパイスで作ったのは想像できない完成度で、残念ですがどこのお店のどこのプロが作ったチャイと比べても数倍の突き抜けたナンバーワン美味しいチャイである。
時折、自宅のお料理でお店の味を越えてしまい本当にごめんなさいである。
m(_ _)mT 

忘れられたスパイスからエキゾチックなチャイを作ることが出来て、めでたし、めでたし。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月29日(日)
■栗戦隊1号2号。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月30日(月)
■一日一文章トレーニング。

「我、宇宙年齢203歳は」

昨日スパイスのパッケージを模写する中で「さぼりースパイス」という気の利いたフレーズを見つけるのであります。
「さぼれるスパイス」とは何とも素敵な言葉であります。
広くは心の広さを感じ、小さくは小さな瓶に詰まった神秘を感じるのである。
こういうのはちゃんと模写し、詳細に描かないと見えてこない情報でもある。
ならば、私が商品パッケージの何を見ているかと考えると下記のような感じである。

アプリケーション“視認”について
 アクティベート
 薄茶色のパッケージ全体の雰囲気からスパイスとして選択
 視認する
 ガラスに透けるカルダモンの中身の実を選択
 視認する
 CARDAMONの文字を選択
 視認する
 カルダモンの文字を選択
 視認する
以上

プログラム的に解釈すると、スパイスを一瞬で認識する行為とは上記のように書けるもので、工程で言うと8工程。
パッケージデザインの情報から瓶の中身を認識するとは大抵このような感じである。

なので、小さく描かれる「SAVOURY SPICE」の文字は視認される情報ではないので不必要な文字かもしれないものだ。
だがしかし、レイアウトのバランスから考えるとパッケージの下に何かしらの文字情報を配置する意味はあるように思えるもので、この小さな文字があるからこそ締まったパッケージになるような気がするものだ。

さっそく、私は、「さぼりースパイス」の「サボリー」の意味を調べる。
SAVOURYは正式にはサボリーでなく「セイボリー」と読むようである。
1)味や香りが良い。
2)塩辛い。
3)(英)夕食の最初または最後に出される風味の良い料理のこと。
このような意味を知ると納得のセイボリーなのである。

そこで気になるのは「サボる」である。
私は直感的にこの「サボる」という言葉が外来語として輸入された概念であるように思い調査するのである。
「ビンゴー!!」
「さぼる」は日本語で言うと「なまける」という意味の言葉ではありますが、その語源はサボタージュ(外国語)を略語したサボを動詞に活用させる言葉のようである。
サボタージュとは労働争議の一種で、就業はするが意図的に作業効率を下げて会社の価値を毀損し破壊活動の一つである。
労働生産性の低い日本とはよく話題にはなりますが、そのほとんどは一部のサボタージュ行為により不祥事や欠陥を起こし、企業価値を著しく下げた後は外国に安く売る破壊行為なものである。
そのような危険な概念を持つ言葉が私達の日常用語の「さぼる」の語源となって浸透していることにビックリなのである。
失われた30年とはこのような些細なところからも散見されるもので、「さぼり」の語源を広めた源流を辿れば、わざわざ新しい言葉を作り概念を広めた人物の素顔を暴けるかもしれないものだ。
「さぼる」は極力使わないように気を付けましょう。

ということで、

昨日はサボることもなく熱心に壊れた椅子を修理します。
新しい椅子を買うのも一考ですが、気に入った椅子は長く大切に使うことも大切なことであります。
椅子の足の接続部分のダボみたいな部品が折れて隙間に開きグラグラしているのを直すのである。
足元がグラつけば心持ちもぐらつくのである。
早速、工具箱からパーツを取り出してきてL字金具で固定し修理を行う。
先ずはドリルで穴を開けネジ穴を開けます。
いきなり、ドライバーで穴を開けようかと思ったのですが椅子の木材とは結構硬いようで人力でネジを差し込むことが不可能である。
なので、昔、店や倉庫の棚をガチャコンと組み立てていたインパクトドライバーを使い穴を開けネジをぎゅぎゅっと締めてL字金具を固定するのである。
恐らく、椅子は変な横の力をかけない限り壊れることはないでしょう。

そして、そのような工具箱をガサゴソしていると「モア犬」のソフビを発見するのである。
たいそう真っ黒に汚れた風貌で、熱心にオレンジ洗剤でゴシゴシ積年の汚れを落とします。
そして、洗剤でも落ちない頑固な汚れはメラミンスポンジを使い細かくゴシゴシと落としキレイになったモア犬くんを見て下さいまし。
モア犬のカタチは机の上に飾るような形状ではないので、地べたに置くしかないソフビでもある。
なので、床に置いているとすぐに汚れてしまうモア犬なのであります。

関係ないけれども、昨日今季はじめて長袖を来てお米を買いにスーパーまで出かけました。
長袖を来る境界線は9月29日(日)とメモし長袖を来ている人は3人ぐらいしか見なかったものだ。
時代の先取りなのか、秋なのか、されどネジを締めたならば汗がポタポタと落ちる秋であり、もあ犬はいつもでたっても飽きないのであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月30日(月)
■秋ない遊び。