*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月1日(木)
■一日一文章トレーニング。

「墓場のランナーはこのパリオリンピック期間中の移動は慎重に動くように気をつけるのであります」

英国のエイブラハム・ニューランド(1730年頃−1807年)は墓石には下記のような碑文が墓石に刻んでいます。

「この石の下には老いたエイブラハムが横たわる。誰も笑わず、誰も泣かず。どこへ去ったのか、どうしているか、誰も知らない、誰も気にせぬ
"Beneath this stone old Abraham lies; / Nobody laughs, and nobody cries. / Where he has gone, and how he fares / Nobody knows and nobody cares."」

なぜ?この島国に彼の名言???墓石の碑文が伝わっているのか?不思議なものだ。
墓石に字を刻むならもっと含蓄の深い文章もあるようにも思うものである。

そして、

オリンピックと猛暑の最中、誰も気にしないはずの墓石の碑文を拾って私はその文章を調べるのであります。
さっそく、インターネットでAbraham Newlandを検索すると彼はイングランド銀行の主任出納係であったようだ。
有名な大銀行資本家で、人々に嫌われ、妬まれ、亡くなった金貸しの碑文との初見のイメージは見当違いであった。
以前もあったフランス紙幣の回でもLE GAL(秘書・コントロール・レジ)などのサインの記載があったように彼のサインがないと紙幣は流通しなかったようでもある。
https://www.scos.gr.jp/useing2022q.html#R040806Nimai
なので、「エイブラハム・ニューランド」は重要人物でもありながら、且つ、「エイブラハム・ニューランド」という言葉には紙幣の意味があったようである。
今で言うところの、一万円札を諭吉や栄一みたいなお札の別名みたいなことに似ているのかもしれない。
彼の逸話は少し変わっており、ハイベリーフィールドという閑静な高級住宅に立派な邸宅を構えながらも、その家にはほとんど帰ることもなく25年間のほとんどをイングランド銀行で寝泊まりして暮らしていたようでもある。
「ムムムッ」
この猛烈な働きぶりは何か典型的な汚職隠蔽を予感させるのに十分な証拠でもあります。
ですが、本当に紙幣を発行するには昼夜問わずサインを書くような激務だったのか?紙幣発行に関する重要人物でもあったので警備上の関係で会社で寝泊まりかもしれない。
そのような訳はないか。
碑文には誰も何も知られないことを望んでいるようにも書かれており、中二病目線からは正に墓場まで何かを持っていくお話にも読めるものだ。
墓場まで持っていくような秘密とはとんでもない秘密かもしれないものだ。
そのようなとんでもない秘密ぶりとは全く想像も出来ない秘密でもあるので全くわからないものでもあります。
しかし、それら秘密が誰しも興味を持つかと言えばそうではないし、そもそも、誰も知らなくて墓場まで持って行った秘密とは哲学的な視点に立てば(奥がましきことでもありますが)・・・墓場に埋まった秘密とは墓荒らしに合うその日までは存在すらしていないことと同義でもあります。
昨日の綿帽子であれば、それをキャッチして認識しないと室外機に吸引されている綿帽子にも気付かないことと同じで、認識さえしないものは存在しないことと同じなのであります。
しかし、遠く離れた日本では結構知られる墓石の銘文かもしれなくて、これは謎が謎を呼び謎は確実に存在しているということは、哲学者の禅問答のように難しく言うと、エイブラハム・ニューランドは情報として確実に日本の島国に存在していることでもあります。
笑われもせず、当然泣きもせずに、この人は何のことを言っているのかと謎を生み出したのである。
そこで、エイブラハムの碑文を再読します。
年老いたエイブラハムは墓石の下に永眠する。誰の笑顔なのか?誰も笑わなく? 誰の悲しみなのか?誰も悲しまない? 何がどこに去ったのか? 誰が何をしていたのか? 誰も知らないし誰も気にしない・・・とこれはすぐに迷探偵呆難(ホームズ)のいるベーカー街にメールを送らないといけない案件なのだ!!
「じっちゃんの名にかけて」この碑文には大いなる壮大なドラマの片鱗が隠れているものだと思うのですが、私には解読できないものだ。

そして、昨日も墓場からたくさんの外国人観光客が出てきます。
ぞろぞろと墓場から出てきて、墓石を撮影し、墓場で何をしているのかと思うものであります。
面白いのは墓場観光を行うのは西欧人が多いこと。
桜の時期は別としても中国人や東南アジアのツーリストが谷中霊園を散策している姿は見かけないので、西欧人は墓場に文化的な見どころを見つけているものだと思うものであります。
谷中霊園に何があるのか?と自問自答しても、墓場には人怖はあっても亡霊の怖ささは全く無いもので、墓場のランナーが近道の通り抜けをするだけのただ墓石が積み重なる場所でもあります。
ツーリストたちは墓場に何をしにやって来るのか?と不思議になるものの、私がフランスに行った時には地下墳墓のカタコンベを歩いたし、大きな教会の天井を見上げて立派なキリスト文化の片鱗を感じたものであります。
西欧と日本では全く文化圏が異なるので墓場の違いだけでも面白いものであります。
なので、異国の墓場には海外からのツーリストが興味持つことはとても自然なことでもあるものだ。
個人的にそのような墓場好きなトラベラーに一推しする場所は高野山のデッカイお墓たちがオススメです。
遠い昔に巨人は住んでいたのだと錯覚するような大きな巨石の墓がドンドンと巨木と苔に埋もれながら建っている姿は壮観でもあります。
高野山の大きな墓石は戦国武将や大企業の社長の墓石などもたくさんあり、人間の欲とか見栄を立派に具現化して自然がそれらを浄化していくような感じにも見えるのであります。
墓場のランナーの一推しの墓場は高野山の墓場で間違いありません。

ところで、

暑さなのか?オリンピックで寝不足な人が多いのか?昨日は注意散漫に路地から急に人が出て来てビックリすることが多かったものだ。
絶対にこっちを見ていない車のドライバーを目視で確認し警戒し、道の横丁からも墓石の裏からも急に人が出てきてビックリするものであります。
こういう飛び出しは自分一人で注意しても仕方がないことでもあり、ゆっくり慌てず警戒しながら慎重に移動するのに限るものであります。
私はすぐに寝てしまうのですが、時差7時間のオリンピックは人を寝不足にして注意散漫にさせるのに十分な時差でもあるものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月1日(木)
■ロンドン・パリ・NY・平安ジャポンスタイルのYou Need Meファッションです。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月2日(金)
■一日一文章トレーニング。

「着物から洋服に服装が変化した時代に、服を着ることは服務のような感じだったのでしょうか?」

昔の古文書の絵などを見ていたら袖と服の部分が分かれたようなデザインの服を着た人々が闊歩しています。
毎日暑いと服と袖が分割したような昔の服装の通気性が気になるものだ。
さっそく、これらの服がどのよう仕組みになっているのかを調べると、これは水干(すいかん)と呼ぶそうだ。
上記は服の構造図です。
服は絹素材であり丸首で着物のように着てヒモで結んで綴じます。
当時はボタンの概念がないのかと思い調べるとボタンは5000年前ぐらいにモヘンジョダロで発明されているようでもあり、ヒモの締め付け度合いで調整出来る方が便利かもしれないもので、暑い時には前をだらりと全開に温度調節し、寒い時には首までぴっしりと綴じて首の暖を温めたのかもしれません。
現代の服がTシャツのようにすっぽりと被るだけの楽な服が多いのと比べても大きな違いのある服であります。
そして、袖と服の部分は図のようにしっかりと繋がったデザインでもある。
腕の関節部分に構造的な変化をつけることで服に立体感も出て素敵な意匠となるものだ。
撫肩体質の日本人でもあるので、このような水干構造は肩がピンと張って格好良くも見えるものかもしれません。

これら水干の服は平安時代から着られる日常着でありましたが、鎌倉時代には武士の正装となったようでもあります。
面白いのは男女・大人子供・身分の貴賤を問わず皆一律にこの水干構造の服を着ていたようでもあります。
※十二単やお坊さんの着物などはあります。
高貴な人々の服は良い生地でのりをパリっと効かせた水干構造の服で、それは現代の神社の神主さんが着ているような服に近いのかもしれません。
また、普段着の人々の服はのりをつけない柔らかい服を着ていたので、古文書の庶民の服がゆらゆらと波打ったゆるい線の服を描いているのは、恐らく柔らかな生地であることを表現しているようにも思うものだ。
最近、私も布キャラ画を描こうと何度かチャレンジしていますが、布画はとても難しくて昔から布の柔らかさの表現とは難題かもしれません。

この着物の「水干」の言葉に辿り着くまでには右往左往がありました。
インターネットを検索して、あれこれと言葉を打ちて調べてみてもよくわからない当時の服のデザインであります。
なかなか見つからないものでもあるので、辞書で“ころも部”を調べていると衣部の漢字が服と関係のある言葉が多いことに気付きます。
衣・表=見た目・衷心=まごころ・袂・袈裟(けさ)・袖・袋・被服・袴・裁・装・補・裕福・裏・褐色・裾(すそ)・製・・・という感じで“着ることに関する言葉が多いものであります。
現代人の私にとれば昔の着物は「着物」であり、今着ている洋服は「着る服」の着物であっても「着物」と表現しない「服」となります。
その言葉の表現の違いは不思議なことでもあります。
なぜ服を着物と言わないのか?気になるもので「服」を調べると、「服」には服役、服罪(判決に従うこと)、服従、服飾、服装、服務、服薬、服用と何かと自身に身につけ、自分の意思とは関係なく付帯させる感じが強いものであります。
着物という和装から洋服という服に変わる変化の時代に当時の人々は「着物」と「服」を明確に分けたのだと思うので、当時の感覚からすると洋服は着るものというよりも服務に近く、洋服を着せられているような感覚だったのかもしれません。
もし、明日から宇宙人の服みたいな服を着なさい、若しくは、平安時代みたいな水干を着て過ごしなさいと言われれば、それは何だか嫌なものであります。
着る服の変化とは人生のとっても大きな変化でもあり、着る服装が変われば否応なしに時代の変化も感じるものでもあります。
何より奇抜なデザインとは見たことのない服装であればある程に気恥ずかしいものである。
10年後の日常風景な格好だとしても今はとっても変わった風貌で変わりありません。
そのように考えると、服装の変化とは時代を進める一つの手法でもあり、変わった服装をした若い子らとは新しい時代の扉を開く卵かもしれないので、大切に温かく見守ることは必要なことであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月2日(金)
■弓騎兵。
■2024年8月3日(土)
■一日一文章トレーニング。

「今、エナジードリンク空き缶を机の前に並べながら緊急で動画を回しております」

いやはや、激動の8月です。
エナジーはチューチュー吸い取られるのか?いやいや、エネルギーをチューチュー注入するのか大問題です。
私はところどころでエネルギー補給です。
色とりどりのエナジードリンクの空き缶を机への上に並べて眺めていると青、オレンジ、ピンクと鮮やかな色がメタル缶に眩しく輝いていて美しいです。
エナジードリンクの好きなところはこのような美しい色でありながら、どこか怪しげなジャンキーさを持っていること。
生命力とは本来自然界の生物的なものから溢れてくるものかもしれませんが、このような人工物からも確実に生命力を感じるものであります。
エナジードリンクの横にナチュラルエコライフを置けば、瞬く間にナチュラル脳はチューチューされるかもしれません。
アンディー・ウォーホルが生きていれば、キャンベル缶に加えてエナジー缶も描くかもしれないエナジー缶であります。
本当に悪趣味にも程があるもので、エナジードリンクの缶々を机に並べると机上に廃退感が漂うものであります。
そこで、エナジードリンクの缶を格好良く並べる方法を考えました。
3本ぐらいに数を絞り並べると現代アート風な美しさがあるものだ。
よって、写真のように空き缶の集合させてはいけなくて、エナジードリンクの缶々は3本ぐらいに絞ってゆったりと並べて飾ると格好良く見える呆則です。

現状のご報告をすると、机に並ぶエナジードリンクの空き缶は全部11本で冷蔵庫の中にはキンキンに冷えた缶が2本入っています。
6月24日(月)の記録では空き缶は5本所有していたので、約40日間で8本のエナジードリンクを購入したことになります。
https://www.scos.gr.jp/useing2024m.html#R060624Ps5
この数は多いのか?少ないのか?5日で1本のエナジードリンクを消費するような計算であります。
コンビニによっては充実したエナジードリンクコーナーを築いている店舗もあるもので、私はコンビニの前を通りかかっては外から新商品をチェックしエナジードリンク情報を得るのであります。
そして、昨日は「ZONE ENERGY SUMMER VIBES 500ml」を見つけて購入します。
このサマーバイブスの缶もエナジーフル満タンで素敵なデザインです。
さっそく、レジに持っていくといつもと同じ、どこからどう見てもエナジードリンク好きに見える風貌のお兄さんのお会計です。
エナジードリンク好きの見た目とは風貌から判断できるような気もするもので、店員も自分の好きな商品を推し気味にディスプレイを作るものであります。
私の妄想ではこのエナジードリンクコーナーを作り発注しているのはこの兄やんで間違いないものであります。w
そして、私自身も「こいつはいつもエナジードリンクを買ってんな−」と思われているかもしれないものだ。
その内にコンビニ内でエナドリというあだ名がつくかもしれません。
それにしても、エナジードリンクを飲んでその空き缶を集めるという頭のおかしい趣味を始めたものでありますが、「あー」何だか楽しきエナジードリンクの空き缶集めでもあります。
今は10数本で許容範囲ではありますが、数十本と集まれば大変に邪魔になりそうな予感でもある。
集める空き缶は厳選したデザインのものを選ぶ必要があるのかもしれません。
飲んだドリンクの缶はキレイに洗って保管しているのですがmlの容積分、結構な幅を取るものだ。
メーカー配送の時のエナジーボックスにでも入れて保管すればキレイに収納出来るように思うものの、エナジードリンクの箱買いとは何かヤバさを感じるものであります。
変わりにビールの箱にエナジードリンク缶を保管する手もあるのですが、それは私の美的感覚が許さないのであります。

ということで、

下記にマイコレクション・エナジードリンクのリストを記載します。

001)MONSTER ENERGY 355ml
002)MONSTER ENERGY PIPELINE PUNCH 355ml
003)MONSTER ENERGY PAPILLON 355ml
004)MONSTER ENERGY ULTRA VIOLET ZERO SUGAR 355ml
005)MONSTER ENERGY ULTRA ZERO SUGAR 355ml
006)MONSTER ENERGY MANGO LOCO 355ml
007)MONSTER ENERGY AUSSIE LEMONADE STYLE 355ml
008)ZONE DIGITAL PERFORMANCE ENERGY 500ml
009)ZONE ENERGY SUMMER VIBES UTAHA in the ZONE 500ml
010)HYPER ZONE ENERGY ALL NEW 400ml
011)Red Bull ENERGY DRINK 250ml
012)Red Bull ENERGY DRINK 473ml
013)デジモンアドベンチャー02 ZERO TWO THE BEGINNING X SAMURAI ENERGY 250ml

これだけ集まればエナジーもMAXに溢れてくるものではありますが、この空き缶を実家に置いていたならば次のゴミの日に確実に捨てられている完全な空き缶のゴミであります。
※上の2本はまだ飲んでいません。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月3日(土)
■相撲。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月4日(日)
■あつい〜むり〜むり〜

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月5日(月)
■一日一文章トレーニング。

「蚊をめぐるエトセトラ???」

部屋の中に蚊を一匹見つけます。
蚊は鉢植えの受け皿の上に止まっているので叩き落とすことは出来ません。
素早くティッシュペーパーを抜き取りソロ〜リと近づいて押し潰す魂胆である。
しかし、蚊は50センチぐらい近づいたところでヒラリとカーテンの奥に逃げる用心深さを持っているものだ。
世の中には“用心深き虫”と“用心深くない虫”がいると思われて、人間の目に触れてしまう虫とは用心深くない部類の虫であると思われます。
勝手な分類でm(_ _)mT候。
何せ、生物の7割は昆虫と言われ、世界には物凄い種類の昆虫が生きているようでもあります。
なのに、街中で暮らしていれば、そのような昆虫のほとんどは見かけないものであります。
時折、見かけるのは玄関開けるとひっくり返ったカナブンを見つけるぐらいで、足でツンツンすると手足が動いてビックリするのであります。
しかし、そのようなカナブンでさえ今年の猛暑の中ではまだ見ていないものであります。
この逃げ足の速い蚊は幼少期からの蚊撲滅運動家の目線から見ても用心深き蚊であるようにも思えて、本物の蚊は向こうから勝手に近づいてくるものであります。
このまま蚊を放置すれば、深夜に耳元でブ〜ンと飛ぶ蚊の音が頭をよぎり、あの蚊は絶対に撃墜するのだと蚊ハンティングを始めるのであります。

蚊撲滅運動家である私の子供の頃の蚊撃退方法は朝夕の蚊が活発な時間帯に庭に出て、自分の足や腕に蚊を止まらせてから1匹1匹蚊をバチバチと叩き潰す方法です。
外に出ると入れ食いのように血に飢えた蚊が飛んでやって来るので蚊を探す必要もないものだ。
特に目が届かない手足の後ろ側などを狙う賢い蚊もいて、そのような部分を刺されるとても痒くなるものであります。
神経を研ぎ澄ませ、夏の終わりまで毎日何十匹と蚊を撃退しても永遠に絶滅しない蚊の数でもあります。
蚊の豆知識だと、
蚊は止まった時に筋肉をギュッと締めつけると血を吸う蚊は針を抜いて逃げることが出来なくなり、羽をつまんで生きたまま捕獲することが可能です。
蚊の生け捕り方法とは結構難しいので、この呆法が蚊を生け捕りする一番簡単な方法であります。
今考えれば網で捕獲すれば良いものだ。
また、蚊を叩く時にも、できるだけ大きな音を立ててバチンと叩くことが必要です。
もし仮に運悪く蚊を撃退そこなっても衝撃波で蚊を地面に落として靴で踏み潰すことは可能です。
虫を叩いて潰す時は衝撃も一緒に作り出して叩くことは必須な呆則でもある。
今思えば子供とはとても野蛮な生き物でありますが、それもこれも毎日血を吸われている愛犬や家族から血を吸われることを防ぐ為の愛なのでした。
お盆時期がやって来ると、おじいちゃんが虫の亡霊がやって来るので蚊退治はしないようにと言われたものでありますが、まだ、お盆時期ではないのでギリギリセーフであります。
因みに、お盆とは正式名称は盂蘭盆(うらぼん)と言うそうだ。
陰暦の7月13日〜16日(お盆休みは8月13日〜16日)の前後を含む御先祖の霊を祀る仏教の儀式であります。

目を眼にしながら蚊の飛び去った方向のカーテンと扉の隙間を覗いていると蚊が窓の下の方に止まっているのを発見します。
外に逃げようとしたらガラス窓に遮られている状態にあるようだ。
このような逃げ道を塞がれた状態とは映画等でもよく見かける絶望的な状況でもある。
私は再びソロ〜リと近づき蚊を押し潰そうとするのですが、やはり蚊はヒラリと身をかわしてからカーテンの奥に逃げるのであります。
蚊はふわふわと飛んでいる分には撃墜しやすいのですが、このように物に止まって逃げる蚊は色が黒くて見つけにくくて、手でパチンと潰すことも出来ないものであります。
再び、目を大きく見開いて蚊の行方を探しているとカーテンの奥に止まる蚊を発見します。
カーテンに少しでも触れれば飛んで逃げてしまう蚊でもあるので叩き潰すことはほぼ不可能。
叩けない蚊は掃除機で吸ってしまおうと考えるのであります。
あれこれ角度を調整し掃除機の細い先端を蚊の方面に持っていこうとあれこれいじっていると、蚊はふわふわと飛んで逃げるものであり、そう言えば、試供品でもらった家庭用の殺虫剤をあることを思い出して、それでプシューとかけて一件落着であります。
この執拗に蚊をハンティングする目線とは映画で言うところの襲う側のホラー側目線でもあるものだ。
13日の魔物も、チャッキ−ちゃんも全部怖くて観ないのですが、このように蚊を試行錯誤しながら追い詰めているのでしょうか???
蚊の映画館でもあれば血を吸うのか?叩き潰されるのか?ドラキュラの末裔・蚊VS蚊撲滅運動家のホラー映画は絶賛上映中かもしれないものだ。
蚊が主役であれば、私は蚊にやられてしまうバットエンドとなってしまうので、シナリオを書き換えるか、または、蚊撲滅運動家2の続編を書くのであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です
■2024年8月5日(月)
■豊作願い鳥獣戯画。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月6日(火)
■一日一文章トレーニング。

「物を書くことは人を確か(正確)にします(By ベーコン)」

名言とは短くて言葉は一人歩きするものです。
これら名言とは正に困った時の助け舟で、偉人の威光を借りながら自分なり解釈も出来て、良き一文章を書ける解釈次第の便利ツールでもあります。
“他人のふんどしで相撲を取る”こととは最低な事ではありますが、書くこともなければ気合と根性で臭いかもしれない他人のふんどしを着ける勇気も必要なものだ。

ベーコンは英国ルネサンス期の哲学者で経験哲学の創始者であります。
演繹法に反対し、帰納法を力説して知識によって自然を支配するには一切の先入観(イドラ・偶像)を廃し実験と観察を重視して経験から出発するべきだと語っています。

・演繹法(えんえきほう)とは確立された一般的原理から個々の事柄や認識を推論する方法で、経験や事実に頼らずに論理的必然性のみで命題から別の命題を導き出す推論方法。
・帰納法(きのうほう)とはいくつかの特殊な事実から一般の原理を推論する方法。

何のことかの???小難しい入口で挫折する演繹・帰納案件ではありますが、私のほとんどの血肉も呆な経験則の積み重ねとイドラの排除は心の片隅にあるものだ。
一方で、その反対に君臨するのがカントなどの欧州大陸型の人間の不変性か普遍性の(どっちなのでしょうか?)原理から追求する考え方であります。
科学的な根拠がなくとも原理原則のようなもの?から話はスタートしてしまうので、そもそもの物事のスタートの地点が異なって、話のくい違いとは常に起こるものであります。

因みに、フランシス・ベーコンは厳正なカトリック教徒のジェームズ1世のもとで政治家としても大成しましたが晩年収賄で失脚しているようであります。

この文章を私なり解釈すると。
正確さとは確かさのことでもあり、時計の針が正確な時を表すように文章を書くことはその人の確かさの何かを表しているようにも思うものでもあります。
何時何分何秒と積み重ねる時とは経験則の塊とも解釈できます。
それらは、過去を記録して、現在の今の心境を書き示し、その先に広大な未来の時空が広がっているようにも見えるもので、よって、自分の手で文章を書きあげる人には(私の呆経験則からも)今という確かなる何かを刻むことができると言っているのかもしれません。

ところで、

なぜ、フランシス・ベーコンの名前がベーコンなのか気になるものです。
ベーコンとはあの美味しいお肉ではありますが、時に体にも悪いとも聞かされても食べたくなるあの魅惑なお肉の名前でもあります。
インターネットという機械で検索すれば、16世紀末、海洋国家として世界の海原に出ていく海洋船の塩漬け保存食品として政治家・哲学者のベーコンが大量製造させたからベーコンの由来となったという記載もあるものだ。
それに加えて古いドイツ語やフランス語の背中肉のことをベーコンと呼んでいた記載もあるもので、どちらが本当なのか?と思うものの、私の中ではフランシス・ベーコンはベーコン好きだという解釈に落ち着きました。

ということで、

おいしいベーコンには美味しいコーヒーが入ったマグカップは必要です。
写真は今週末から作りはじめた絶対に飲めないマグカップです。
飲み物を入れる機能がない為に飾って眺めるだけのカップとなります。
今のこの感じでも良いのですが、オリジナル手描きの絵を描いて棚に飾ろうと思っております。
エナジードリンクやベーコンのリアルのものを作っても面白そうであります。

 

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■2024年8月6日(火)
■音楽♪

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■2024年8月7日(水)
■一日一文章トレーニング。

「人と人はわかり会えることはできるのでしょうか?スタート地点を定義してゴールを決めれば望む道は出来そうな予感でもあり、そのための最初の一歩を考えてみた」

この考えは懇切丁寧に説明しないと伝わらないことではありますが、世の中には演繹法的な視点に立って物事を考えるような人もいれば、帰納法的な経験則からスタートする人もいます。
そして、もっと異なる考えの人もいます。
顔も見ただけでこれらの考え方の違いを判断することはとても難しいもので、私のような単細胞フットワークの軽い経験談を毎日ペラペラと語っていれば「それはあなたの感想ですね=YESタカスクリニック」と識別しやすいものだ。
ですが、ほとんどの人は能面の皮の下にどのような神秘を隠し持っているのか皆目わからないもので、昨日の話でも話のスタート地点が異なれば噛み合わない話も多々あるものです。
そこで、よ〜いスタートで始まる開始点をしっかりと定義することができれば、向かっている未来のゴール地点も自ずと見えてくるものでもあります。
大陸的な思考であるからにして演繹的であると安直に考えたとしても、もしかしたらその人は日常的に経験則の積み重ねで生きている人かもしれないものでもあります。
そのような最初から判断の間違い、認識の違いは最後まで続くすれ違いとなる私の経験則でもあります。
世の中のスタート地点があやふやで始まったものは当然ゴールもあやふやであり、重要なことは皆で同じスタートラインを定義することができれば、ゴール地点も決めれて同じ方向を見ることを出来るのではという至極当然なことでもある。
そこで私はスタート地点を決める為にその人達の人間性の立ち位置を識別するフィルタリング呆則を朝から考えた。
そのフィルタリング方法とは“ふへん性”の対義語という“変化と特殊性”のどちら側に足元を置いているかと推測する概念でもあります。
開始する場所が“変化”であるのか“特殊性”であるのかを見極めることができれば、演繹・帰納のどちら的な考え方の上に立っているのかと判断できるという仮説です。
スタート地点は超重要!!
見ている世界が異なれば、見えている世界も異なるもので、スタート地点を共通にできればゴール地点も共有出来て皆ハッピーです。

先ずは不変性と普遍性の違いです。

【不変】とは辞書によるとunchangeableのことであります。
変えることのできない不変・一定・安定の意味。
これは変化しない不変のこととも読めますが、変わらない変化を起こす不変性と読めるものでもあります。
今観測したとしても、明日やいつ何時に誰が観測しても同じ結果を指し示すような経験値的な観測の上に成り立つ普遍性も帰納法的であると解釈できます。
それは酸化すればいつでもリトマス試験紙は変化するように、いつでも変わらない変化の結果を見せるような不変的な理を示す不変性でもある。
なので、個人的な解釈ではありますが「不変性」とは英国的な帰納法的な推論の上に成り立つ言葉であると仮定できます。

【普遍】はuniversalityのこと。
普遍性・妥当性・一般性・普及・知識の広範さを意味しており、これはあまねく、宇宙や世界を広くゆきわたることの意味です。
日本語の哲学的な意味で使われる“ふへん性”はこちらの普遍性を使うことが多いようである。
個物、ある種の事物に一般的に共通していることの意味です。
普遍の対義語は”特殊”であり、帰納法が物事の特殊性から一般の原理を推論することであると考えると、この普遍はその対局にあるので演繹法的な欧州大陸型の普遍性であるとも解釈できます。

重要なのは不変の反対語は”変化”で、普遍の反対が”特殊”であること。
一見、同じようで定義・識別できない事柄は対義語的な反対のものにひっくり返して比較して認識しようという魂胆でもある。
そのように反対にひっくり返すと、今まで見えなかったものが見えてくるものでラッキーである。
おそらく、
”変化と特殊”とは微妙に異なる言葉であり、この事象を反対側から見て「変化・可変するものか」「特殊なものなのか」と識別することで演繹・帰納のどちら側の考え方をする人なのかと識別することが可能なのかもと思うものであります。

「変化」とは性質・状態が変わること。
「特殊」とは普通と異なること。

不変→反対語は変化→変化から法則を見つけ出して→帰納法的→英国哲学→ベーコン
普遍→反対語は特殊→特殊を排除して論理的→演繹法的→欧州大陸的哲学→カント

このように無意識の上に立つ演繹・帰納的な視点を見極めることが出来れば、スタート地点の相違を埋めることができてゴール地点も決めることが出来るのでわと思うのであります。
次は何か話の噛み合わない事例を元にして具体的に探ってみましょう。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月7日(水)
■むきむき。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月8日(木)
■一日一文章トレーニング。

「雨降ってわらぢは走る」

昨晩はピカピカ・ドンゴロローと凄い雨と雷でした。
ベランダに一歩出るだけで雨の滝行をできるのかと思うぐらいの大雨です。
どれどれと雨も降って涼しくなっただろうと思いて窓を開けると、ムワッとしたサウナのような空気と、打ちつける雨が雪崩のように部屋に流入するものだ。
そして、
「うわっ」と目の前の頭上に一筋の落雷の軌跡を見るのであります。
落雷の瞬間を見ることはいつぐらいぶりのことでありましょう。
ここ最近も雷はよく鳴ってよく光るものではありますが、直接的な落雷の瞬間を見ることはないものだ。
ということで、
「こわいこわい」と窓はしっかりと閉めて、外界を再び遮断してから稲光を感じるのであります。

今朝は雨も止み暑さも一息?まだわからん。
植物たちも強烈な雨のシャワーに打たれて美しい緑色の発色をしています。
このようなキレイな緑色と、凛と天に向かって伸びる枝葉とは普段の水やりでは決して起きない植物たちが体で表現する喜びであります。
何せ毎日涼しいクーラーの中で過ごす人間様でもぐったりとしている猛暑であります。
そのような暑さに強いであろうサボテンや多肉植物でも元気を感じられないもので、先日のフルーツの種から芽吹いた新芽などは暑さで枯れそうでもあったので直射日光の当たらない大きな木の下の木陰の下に避難したものであります。
そのお陰様で新芽も約10センチまで成長し、何とかこの夏を乗り越えられそうな気もするものだ。

ガーデニングの植物たちもカラカラで、農作作物もカラカラのようで、これは雨乞いによる恵みの雨が必要だと思い願掛けの絵なども描いたりもしましたが予想外の大雨にもなったものだ。w
“雨降って地固まる”ということで、この雨が今後の涼しい空気を運ぶ契機となることを願うばかりであります。

ところで、

雨降って地固まるであります。
雨が降った後は地面が固くなる状態となり、一騒動の後にかえって物事が丸く収まって好転する例えでもある。
これは現代社会に置き換えると「雨降って更地となる」となるがしっくりとくる感じかもしれないものだ。
何せ、雨降った後の修羅場とはペンペン草も生やさない砂漠化を予感させるのに十分な雨でもあるものだ。
そして、問題は“雨降って地固まる”の「地」とは「ち」と読まずに「ぢ」と読むようであります。
私は今まで「ちー読み」でありましたが、問題が起きるとサーと誰もいなくなるような更地となってしまう現代社会でもあります。
そんな世界とは「ちー読み」な感じもして、「更地」を「さらぢ」と読むような・・・「ちーかわ」を「ぢーかわ」と読むようなクセありな人物がいないと「地」は「ぢ」として固まらないものかもしれないものだ。
なので、大切にしましょうクセありの「ぢー読み」な人たちであります。ww

写真の絵は雷におののき走って先を急ぐ平安人です。
昔の古文書などを見れば、走る昔の人達の走り方はとても変で不思議な走り方をしているものだ。
これはデフォルメか何かと思うものでもありますが、以前、昔の人の走り方を研究している大学の先生の動画を見たことがあって、正にこんなような変な走り方をしていたものだ。
時代と共に美意識も変化していくことは当然のことでもあります。
最近は信号で走るぐらいでもゼーゼーとする感じではありますが、未来人から見れば現代人の走り方も奇妙で可笑しいものかもしれないものだ。
よくよく考えてみたならば、ぶりっ子風の腕の振り方の走りとか、歩いている人に抜かれてしまうランナーとか、人とは走っているだけで十分に面白いものだ。
昔の人は草履を履いて走っているのであり、靴がぬげないように走っていたので、あのような変な走り方となったのかもしれません。
スポーツ競技でも、歩いているだけでも、靴が脱げている人がたまにいますが、玄関で靴を脱ごうと思ってもなかなか脱げない靴が走りながら脱いでしまう器用さとは何か人類の七不思議なような神秘が詰まっているものだ。
もし、街中で平安人のような走り方をしているのを見つけたらそれは吾輩なのかもしれません。
信じるも信じないもあなた次第です。www

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月8日(木)
■眼力。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月9日(金)
■一日一文章トレーニング。

「夏休みの自由研究(2)はジョウロの由来から器のカタチの重要性を考えます」

朝起きて今日も植物たちに水やりをするものだ。
水道水をひねりジョウロに水を流し込むとドボドボと騒がしい音を響かせながら水は溜まっていくものです。
そして、「よっこらせ」とジョウロを持ち上げるとなかなかの重量。
水は出来るだけ一杯に蓄えてから1回の水撒きで効率良く水をあげたいものだ。
使っているジョウロはトンボの新規合成6型で、線一杯まで入れると6リットルの重量となります。
お米5kgと比較しても重いものなので、重い重いとは思ってはいましたが本当に重かったジョウロであります。
このジョウロは3台目のジョウロであり、三匹目のドジョウのようでもあり、デザインも黄緑色で四葉のクローバー模様もかわいいものだ。

恐らく、昨日人生で始めてジョウロという言葉を書いたかもしれなく、漢字もわからなくて方言か何かと思ったりもするものです。
政治家の記憶のない話ではありませんが、本当に人生の中でジョウロの文字を書いたことがあるのか?との記憶は欠落しているものだ。
スマホやパソコン時代となりて手書きすることも減れば、その漢字がどのような漢字だったのかド忘れしてしまう一般常識でもある。
しかし、そもそも私の場合には漢字そのものが苦手なものでもあり、平仮名を多用して書けない漢字は別の言葉に置き換えて構築するような文でもあるので漢字の正しさとはあやふやなのである。

さて、

ジョウロは口語体で言うとジョーロでもありますが、辞書で調べると「如雨露」と書くようである。
「ムムムッ」
これは「雨露の如く水を撒く」という内容を模した言葉で間違いないのですが、暴走族の当て字にも見えるもので有名な「夜露死苦・よろしく」みたいな感じである。

早速、言葉の探求隊はネットでジョウロの歴史を調べると、ジョウロはポルトガルのJORRO(水の噴出)やJARRA(水差し)から由来しているようで、日本に伝わった時に如雨露と翻訳された外来語のようである。
お花を育て活ける文化とは聖徳太子の時代から確立されており、それまでも人類は植物に水をあげてきたものではありますが、このようなジョウロでお水をあげるようになったのは西欧からジョウロが輸入されて以降のことのようであります。
それまでは、どのように方法で植物たちに水をあげていたのかと考えれば、桶に水を入れて杓でパッパッパッパと水撒く感じありましょうか。
正に脳内に浮かぶサザエさんや日本の夏という感じの水撒き風景でもある。

ということで、

水を入れる容器で頭に浮かぶのは「水は方円の器にしたがい、人は善悪友に依る」という言葉であります。
このことわざの意味は、四角柱や円柱など入れる容器の形によって水は丸くなったり、角くなったりするもので、人もまたその交わる人たちの器のカタチによって良くも悪くもなるという意味であります。
桶に入れて杓で水撒く水と、ジョウロで水撒く水には同じ水でもカタチが異なるものでしょうか?
確かに、撒かれた水の痕跡は異なるものであります。
水撒きは優しく撒かないと土を掘り植物の根を痛めてしまうものかもしれないもので、ジョウロでふわりとかかる水とドバドバとぶっかける水では全く異なる水であるものだ。
水は外気温度を吸収し、液体から個体へと変化するもので、分子をいじったようなイオン水もある。
器に入る水は同じでも、器のカタチが異なれば水やり後の水跡も水も異なるのは至極当然のことでもあります。
人は体重の60%の水で出来ており、また、その外観は人の見た目の器の皮膚で生成されて、その先には社会という属性の器があると考えることも出来るものだ。
私達はあの人は器ばっかりだとバカにしたり、中身を重要視する傾向は強いものの、もしかしたら、器のカタチとは案外大切なカタチかもしれないものだ。
ここでの器とは環境という言葉に置き換えることが出来るもので、このことわざは人が器の形によって作られると言っているようにも思います。
「あー器や器や」by芭蕉の日本三景であります。
器(環境)もとても大切なものであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月9日(金)
■どんな形にも変幻自在な水。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月10日(土)
■一日一文章トレーニング。

「朝起きて窓の外を眺めていたら空から白い羽が降ってきたので、これは幸運の白い羽だと思い拾いに行きました」

毎朝、窓を開ける度に「アヅイ〜暑い」と夏夏真夏のド真ん中にいることを実感するものではありますが、今朝の空気は少し異なるものだ。
微かに感じる秋の気配。
私は窓を開けた瞬間にとても小さい秋の欠片と鳥たちの声を拾うものであります。
静かに沈む幾分過ごしやすい朝の熱帯の街に響きわたるのは姿の見えないスズメたちのチュンチュンの大合唱です。
小鳥はどこにいるのだろうか?と空を見上げると真っ青の空に薄い綿菓子のような雲が浮かぶもので、空はいつもよりも少し高いようにも感じるものだ。
昨日の太陽が頑張りすぎて眩しかったように、今日一日もとても暑くてサングラス必須の一日となりそうだ。
そのようなこと思いながらクーラーの効いた涼しい部屋から窓の外を眺めていると空から一輪の小さな白い鳥の羽がふわふわと落ちてくるものだ。
羽は風も吹かない静かな街を綿埃のゴミようにスローモーションで落ちてくるものだ。
私は臨死体験をしているのだろうか、いやいやすこぶる元気。
視界に鳥1羽も見えない羽がゆっくり落ちてくる光景を眺め、私の中にある一つの考えが浮かびます。
それはこの朝一に寝巻きのままに飛び出して地面に落ちた羽を拾うこと。
道に落ちているものを物色する姿とは恥ずかしいことではありますが、この街に住む人々も同等に怪しさ満天の解を得て、私はサンダルを履いてすでに外に飛び出すのであります。
空から降ってくる幸運の羽とは拾った者の勝ちの早い者勝ちなのです。
今、落ちたばかり羽はまだ誰にも踏まれていない羽であり、これはちゃんと拾って回収しないと一日何か損した気分にもなり、玄関から飛び出した今朝の空気はなかなかに過ごしやすい朝でもある。
私は私の他に羽を拾いに来る人も誰もいなくてホッとするもので、地面に落ちた白い羽を探しながら「確かこの辺りだ」と道をうろうろとしていると、幸いに歩く人は誰もいなくてゆっくりと羽探索が出来るものであります。
白い羽とは目立ってすぐに見つかりそうではありますが、道の上の白いものとは案外道色に馴染み過ぎて目立たないものであります。
そして、「見つけたぞ」の2センチ程の小さな羽。
いわゆる綿羽(めんう)と言われる羽だと思うのですが、このような暑い毎日も続けば保温性を高める羽毛なんて全く不必要な毛でもあります。
今、羽を机の上に置いて観察していますが、そのような綿羽は少しの微風が立つだけでふわりと動いてしまう程の軽い羽でもあります。
先日の綿帽子よりもやや重いのですが、見た目のデザインは全く異なる形状でもある。
温帯の鳥たちは繁殖の時期を終えた夏から秋にかけて羽を少しづつ生え換わらせるようで、一気に羽を抜くと飛べなくなるので、ゆっくりと少しずつ羽を抜きながら新しい羽と置き換えるようでもあります。
なので、あのチュンチュンの騒がしさとは「朝だ〜今朝はすこす涼しいのだ〜だから〜オレは羽を抜くのだ〜少し痛いので気合を入れて声を出して〜チュンチュンなのだ〜」の掛け声なのかもしれないものだ。
今朝のこのような暑さも一息入れるような朝に、私でも換羽(かんう)を促すのはこのような朝であります。
羽の写真を拡大すると汚いもので幸運の白い羽とはどこにやら、この文章を書き終えた後に排水溝に流さないように丁寧に洗う予定です。
そして、窓を見ると目の前にスズメが1羽いるものだ。
おそらく、この羽の持ち主で間違いないスズメです。
羽をわさわさとトリミングしながらチュンチュンと飛んで行ったものではありますが、お前さんの幸運の白い羽はこのメルヘン人が頂いたのであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月10日(土)
■彼は大リーガーですか?
いいえ、彼はスズメです。

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■2024年8月19日(月)
■一日一文章トレーニング。

「夏休みの自由研究(2)、これは器機能のないマグカップです」

人は見た目よりも内面を大切にする傾向にあります。
また、人を見た目で判断することは良くないことであります。
しかし、器とはその外観を表す容器でもあり、その器に入る水のカタチとはその形の形状のままに変容するものである。
6割水の生物でもある人間もまたその器の外観の形により内面が変化する可能性も考えられるもので、これは見える外観のままにその人の中身も投影されているのではと考えるものである。
私はどちらかというと見た目で判断してしまう甘ちゃんではありますが、これらは今やルッキズムと批判されるものである。
ただでさえ仮面を被っているかもしれない人の内面を見抜く方法なんてわからないものであり、人を判断する情報とは目の前にある見たままだけの情報か、人の視点(噂)のようなものしかないものだ。
自分の視点に立つのか?人の視点から判断するのか?それは問題である。
私の判断基準とは単純なものであり「好き嫌い暑い寒い」などのフィルターを通して見るものである。
嫌いであれば絶対に許せないけれども、好きであるならば、同じことでも多少のことは何でも許せてしまうようなそのような単純思考でもある。
私のように日記を綴って公開していればその人の人間性とは何となく触れることは可能ですが、ほとんどの人は日記など書かないしSNSに匿名で短文を書くぐらいの日常でもあります。
しかし、短文であれ、何であれ内面から溢れ出る表現とはその人の内面から表れ出る体の一部を成す情報として考えられるものである。
人の持つアイデアや暴力性などを含めても、その発火点とは受信した内容・キーワードが小さなエネルギーの炎として体の中に「パッ」と発火して生まれるものである。
それを仮に「内面から沸き立つ炎」であると定義すると、これは間違いなくスタート地点である。
SNSとはソーシャル・ネットワーキング・サービスの略であり、諸外国ではソーシャル・メディアと呼ばれているようで、この国ではメディアとして考えない人たちも多いかもしれませんが、メディアそのものである。
恐らく、日本では何かしらの既得権を持つ人たちの力が働いてソーシャル・メディアをSNSとメディアでないと定義したのかもしれませんが、重要なことは人の内面から出る表現である。
例え、本心とは異なる正反対の仮面を被った表現だとしても、それは内面から出たもので間違いないもので、その表現とはその人の内面に潜む概念をカタチとして体現したものである。
よって、文筆家の作品は書き手の内面が血肉となった作家の顔そのものであり、何かしらを作って生み出す人たちもまた、それはその人自身の分身を反映させたそのものである。
誰かが作ったものを傷つけることは作った作家さん本人を傷つけることであり、また、同時にその背後にいる多数のファンも敵にまわすようなものでもある。
これら内面から生まれる炎とはエー愛さんなどの表現にも含めることが出来るのか?は熟考が必要なもので答えが出ないものです。
ですが、アレの危険性は人の内面に生まれる炎の放棄でもあるとも考えられますし、また、私のような「好き嫌い暑い寒い」などと単純人間のフィルターであれば、それを全て外部に委ねることの操作される危惧も感じるものだ。

さて、

「器」とは4つの口が器の形状に美しく並べられた形状で中央に犬が鳴きわめく姿を表現であります。
中央は「大」とも読めますが解字的には犬のようである。
器が口の大きさで表現されていることは面白いことで、これは器の形とは虚飾であると言っているようにも読めるもので、皆が凄い凄いとワンワンと吠えれば名器となり、口の大小は器にとって重要なことかもしれないものだ。
漢字というのはご先祖さまの生活の知恵を形とした視点の繋がりでもあります。
器繋がりの器械・器官・器具・器材・器用・器量も大切なものはうつわの中に入れて大切に保管しているものだ。
漢字からの解釈するとビックマウスも多ければ器の形とは何とでも立派な形に作れそうな予感でもあり、人の器の大きさの度量も口の大きさの大小によって決まっている可能性もあるものだ。

1)人は見た目よりも内面の方が重要で
→2)器の外観は内面の形を変容させてしまう内面そのものを体現している可能性もあり
→3)また、器の漢字は口八丁の虚飾であるとも言っているものだ

ということで、

私は「人たる器」とは何たるものかと調べて混乱しているのであります。
そして、写真のような器機能のないマグカップを作りはじめました。
「器」が難しければ機能性のないマグカップで容器としての隙間を完全に埋めてしまおうと思う魂胆である。
これで毎日、いつ何時もコーヒーブレイクである。
西欧人はコーヒーをブレークすると面白い表現を考えたものである。
何かしらの意味を求める現代社会に於いて、無意味、無機能、単なる飾りな置物は必要なものなのでしょうか。
プラモデルを作る技術を100%フル活用して基礎部分を作ったので、次はスコスなイラストを手書きで描いて完成です。
この夏は器について注目しましたが、完成したら小判握りしめて千利休に侘び寂び判断してもらう必要があるものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月19日(月)
■あーかわいいのだ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月20日(火)
■一日一文章トレーニング。

「今日はブレイクしてみましょう」

coffee break のブレイクがどこから由来するかと考えたならばhave a break(休憩)であります。
ブレイクは壊れるという意味ですが、長く続く状態を壊すという意味での中断を意味する休憩のようだ。
私にはこのような長く続く状態を壊してブレイクするという発想はないもので、このブレイク的な発想には創造的破壊を彷彿させるものだ。
壊した後から何か新しい波長を生み出すようなイメージ。
因みに、英国の紅茶のお時間はtea timeであります。
tea breakとも言うようでありますが、ティータイムにはお決まりの生活習慣のお茶のお時間が鎮座しているような感じでもあります。
ピーンと切り詰めた煮詰まった時間を砕くcoffee breakとtea timeとは正に別物である。
日本と言えば地震台風火事など天災なども多く、ブレイクするというのはそのような災害破壊の少ない西欧的な発想そのもののような気もするものだ。

そう言えば、先日のオリンピックでブレイキンという競技がありました。
それはブレイクダンスから由来しているようで、ブレイキンのブレイクとはダンスバトルの合間の休憩時間に行われる煽り合いや、ブレイクビーツと呼ばれるビートに合わせてダンスのことらしい。
ブレイキンとは言葉の響きも面白く「ブレイキン・ブレイキン」と口にはしておりましたが、げに恐ろしきことに、このオリンピックは何も観戦することもなく終わっていたオリンピックでもあるもので、当然ブレイキンも見ていないものであります。
ダンスバトルの合間に行われる煽り合い死合とは何のことであろうかと妄想は膨らむものであります。
調べていて面白く思うのはブレイキンの由来はブレイクダンスであり、1970年代のNYブロンクス地区はギャングによる抗争が激しく多くの若者がその流血の被害者となったようであります。
そのような暴力的な戦争をダンスバトルで解決しようと始まったのがブレイクダンスで、踊りによって暴力の連鎖を断ち切ろうと言う発想は面白いものであります。
それは文化的な踊りが政治的な戦争を終わらす可能性を示唆するものでもあり、人々が踊り合うことで戦いを終わらすことの可能性の試みでもあります。
日本でも「ええじゃないか踊り」という幕末な世の中に政治を変えたかもしれない踊りはあるものだ。
踊る人々に銃口を向ける外道はいないものであり、今起こる戦争にもブレイク旋風が吹くことを心から祈るものであります。

ということで、

昨日の夜は横殴りの凄い雨でした。
雨降れば微かに感じる秋の気配であります。
一雨ごとに少しずつ過ごしやすくなるのも季節の変わり目。
まだまだ、秋は早いものではありますが、秋も深まれば2パックなヒップホップやエリオット・スミスみたいな寂しげな音楽も聞きたくなるようなセンチメンタルリズムである。
ホコリまみれのCDを少し探してみたけれどそれらは発見できないもので、適当に写真を撮ってCDの上の守護神ポテトヘッドと合成させて完成です。
ダンス・ダンス・ダンスには世の中を変える力があるのかもしれなくて、今日は1曲何かCDを聞いてみましょう。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月20日(火)
■商品開発能力に難有り。

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■2024年8月21日(水)
■一日一文章トレーニング。

「何よりも”涼活”です 緊急でこの暑い夏の涼活方法を記載します」

朝の気温は少し涼しくなるものの、外気温は水温計測で29.3℃あります。
水は外気の温度を吸収するので大体の目安となるものですが、この29.3℃という温度は暑さに負けてクーラーのスイッチをONする気温と同じであります。
なので、まだまだクーラーは必要な暑さでもあるものだ。
このような高温でも涼しく感じてしまう事は不思議なものでもあり、これはMAXに暑かった時の気温から比べると涼しいだけのことである。
また、暑さ耐性がしっかりと身についている証でもある。

この夏の暑さを乗り切る為に我が家では今年の夏新しき2つの対策を施しています。
そのような「暑さを涼とするニンニン」ニンジャスレイヤーな極意を記載するのでござる。

1)

ガラス製の魔法瓶に氷と冷たいお茶を入れて、いつでも冷たいキンキンに冷えたお茶を飲めるようにすること。
やっぱり暑さには水分補給であります。
飲む水分が冷たければ、それは何とも涼しげで良いものだ。
これは以前にも書きましたが、昭和のおじいちゃん・おばあちゃんの食卓のような感じの温故知新というべきか昔の人の生活の知恵の奥深しさを知る涼活でもある。
この方法は冷蔵庫を開けなくとも、いつでも山の岩清水のような冷たい水分補給できるもので、氷をじゃらじゃらとポットに投入して冷蔵庫に冷えた冷たいお茶をポットの中に入れれば完成です。
後は机の上に置いておくだけ。
我が家の場合、氷は4杯ぐらい投入していますが、これだけの氷を入れれば一晩経っても氷は溶けることはありません。
使用する魔法瓶は象印の花柄のガラスハンドポットを使用しております。
3000円+税ぐらいの投資で驚くべき簡単な涼活を提供してくれます。
もちろん、象ではなくてビーバーに齧られた枝を企画販売しようと企む怪しい部外者であり、魔法会社の回し者でありません。
去年であれば、暑い外から帰宅すると、一直線に冷蔵庫に冷やしたスポーツドリンクをごくごくと飲んでおりましたが、そのような必要性なくなるものだ
毎年たくさん飲んでいたスポーツドリンクの消費も節約出来て一挙両得。
ポットからコップに入れる冷たいお茶は冷蔵庫の飲み物を飲むよりも−3℃くらいの低温で、「あ〜」と唸りながら飲むキンキンに冷えた冷たいお茶がこんなに美味しいものかと思うものであります。

2)

もう一つはカーテンレールにアクリル製の軽い鏡を吊るすこと。
太陽が黒点をたくさん作るぐらいに太陽の活動が活発なようなのであり、そのような日差しが頭上に降り注ぐとなれば気温が上昇するのも当然である。
カーテンレールに鏡を吊るす理由は「そのような太陽光をアクリルの鏡で反射しちゃおう」と思う魂胆である。
アクリル鏡は昔、お店で使用していた細長くて小さな鏡を使用しています。
本物の鏡は重いし割れるのでオススメできません。
本当は全部遮光カーテンで閉じれば事済むものではありますが、そうもいかない理由が我が家にはあります。
それは室内にいる箱入りの植物界のお嬢様植物の為に少しカーテンを開放しているものである。
植物界のお嬢は直射日光や暑さに弱いけれども、しっかり太陽光に当ててあげないと光合成できなくてしんなりと弱る過保護さもあるものだ。
しかし、他の植物を元気づけるような栄養源みたいな神秘性もあり仕方がないのでカーテンの隙間を少し開けて、その上にアクリルの鏡を吊るし余計な太陽光を外に乱反射させております。
この軽いアクリル鏡を吊るすことで驚くことに、「ぐぐっ」と肌に感じるくらいに室温低下を感じものである。
これは筋トレ好きが「筋肉に効いているよ〜」と言うぐらいの同じ効果でもあります。
鏡を外に向けて吊るすことは風水的にどうかと思うのですが、風水云々とかは暑い太陽光の前では知ったことではありません。
そういうのは涼しくなってから考えることにしましょう。
何より重要なことは暑い光線は反射することで夜は鏡を取り外しておりますが、このアクリル製の鏡を外に向かって吊るすことは良い涼活で間違いないものであります。

これら2つの対策は生活感丸出しではありますがオススメであります。

※そう言えば、冷たい大根と豆乳のビシソワーズも飽きず続いている暑さ対策の涼活の一つである。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月21日(水)
■ミーツザビーバー、齧った枝1本下さいな。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月22日(木)
■一日一文章トレーニング。

「8月も後半の今頃に節分の豆を拾った」

イカしたCDを聴いてみようとガサゴソと漁っているとミニコンポ下の隙間から節分の豆を発見します。
なぜ?このような場所に節分の豆があるのでしょうか。
それは大いなる人生の謎である。
コンポが置かれるのは腰上の位置に鎮座しておりコロコロ転がって辿り着くような場所でもない。
節分っていつだっけと調べると2月2日である。
長い間コンポに落ちていた豆ではありますが、この豆が去年の豆である確証もないものだ。
節分の豆とはあの時期にしか販売していないもので、もしかしたら、もっと古い年季の入った大豆かもしれないものだ。
しかし、不思議なことは昨日落としたように豆は経年劣化などなくフレッシュで元気なままである。
豆にはホコリなども一切付着せず、食べることはありませんが今その豆を口にしても何の支障もないような見た目でもある。
なぜこのようなコンポの前に落ちていて今まで気づかないのもわからないのである。
キッチンテーブルで落とした食べ物が見つからない不思議は多々あるもので、私はそれを異次元空間にワープしたと考えて途中で落とし物探索を切り上げる日常でもある。
どこかの誰かが落とした豆が分子レベルで大きく振幅し発熱し分解されれば、遠く離れた我が空間にワープしてくる可能性はあるものだ。www
何せ毎日こんなにも暑い毎日である。
豆とはコロコロとよく転がり予期せぬ場所に転がるものであります。
あの豆の丸さとはコロコロと四方八方にどこにどのように転がったとしても驚かないよく転がるようにも設計されているものだ。
「鬼はそと」と撒かれた豆が時空を越えて我が家に打ち撒かれたとなれば、我がコンポは鬼マシーンとなり、「福わうち」と撒かれた豆であれば幸運の福豆で間違いないものであります。
内と外に撒かれる豆の意味は180度異なる豆なので拾うことにも戸惑いが生まれるものであります。

そこで、オカルト研究員(私)はこの豆は小豆童子の落とし物だと考えるのであります。
単なる落とし物であれば、運気なども気にせずに気安く拾える豆である。
早速、ネットで調べると小豆童子は座敷童子の間違いで節分の豆と関係ないようだ。
だがしかし、小豆を洗う小豆洗いという妖怪はいるようだ。
彼なのか?彼女なのか?夜な夜な川辺で小豆を洗い「ザザザザリ」と人々を怖がらせるだけの妖怪のようであります。
我が家で小豆を洗う音を聴いたことはあるのでしょうか?
いやいや、小豆音は一切流れてはいないものであります。
私が家に流れる音は、私が奏でる皆を不快にするシーケンサーの雑音のみで、小豆を洗う音は流れないのである。
小豆洗いとはサウンドお化けであるとネットで確認し、「落ちている節分の豆=音のなる機械=小豆洗いの音を鳴らす妖怪が落としたかもしれない豆一粒」と点と線は繋がって迷探偵の素敵な推理は成立するのであります。www
電子化されたIT社会では小豆洗いもデジタル化する必要もあるもので、これは小豆洗いのレアな小豆の落とし物ということにしておくのが適切なものであります。
同じ川仲間のアメリカンビーバーの齧った枝に小豆洗いの落とし物の豆をおまけとしたならば付加価値も爆上げかもしれないものだ。
今日もつまらぬお化け話しを書きましたが、私の鼻はムズムズと妖怪反応を示しすものであります。
よくよく考えてみると、私は節分の豆をバリバリと食べながらコンポ前に置き豆がこぼれることもありそうな予感でもある。
しかし、小豆洗いが落とした豆を拾えばラッキー♪で、おばけの落とし物を拾うカスな絵面も面白いので小豆洗いが落とした豆にしておくことが吉である。
小豆洗いが豆を取り返しに来たらまたご報告いたします。www

 

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■2024年8月22日(木)
■微妙にビーバー。

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■2024年8月23日(金)
■一日一文章トレーニング。

「植物の器は花かもしれないものだ そして、踊りが戦を止めるということもあるかもしれないものだ」

そう言えば、先日突然サボテンの花が咲きました。
トゲトゲな一族からの急にお便りをもらったようでビックリ。
この夏の猛暑も一段落し少し過ごしやすくなってから咲く花でもあります。
砂漠地帯に育つサボテンでも猛暑の暑さは酷かもしれなくて、少し過ごしやすくなってからお花を咲かせます。
朝、水やりした時にはまだ咲いてなかったのですが、数十分後に窓の外を見るとサボテンの花が咲いていた具合でもある。
私がもう一度、窓の外を眺めなければサボテンの花には気づかなかったので、偶然とは偶然ではなくて必然的にサボテンに呼ばれたような気もするものだ。
このような短時間で急に花咲く仕組みとはずーっと直視していたならば、花が咲くその瞬間を観察出来たかもしれないものであります。
サボテン生活はそれなりに長いものの、直にサボテンの花が咲くのを見ることは初経験な気もします。
2024年7月13日(土)の記事のサボテンから急に生えてきた不気味な触手のようなものは何かが起こる期待はあったものの、その後、枯れてしまったように茶色くなり完全に沈黙しておりました。
うちのサボテンはキレイな花を咲かせない種類のサボテンで、もう怪しい触手の生育は終わったと思っていたならば触手後約1ヶ月+1週間で花を咲かす可能もあるものです。

そして、そのような空に向かって空気の何かを受け止めているような花の形はどこか器のようにも見えるものだ。
人の持つ器のカタチとはいまだ謎ではあるものの、もしかしたら、植物の器とは花なのかもしれないと思うものであります。
何で急にサボテンの花が咲いたのか?わかりませんが、後からじっくりと観察しようと思っていたら翌日の朝にはサボテンの頭に掲げられた器は跡形もなく消え去り短期間の儚い夢でもありました。
人たる器もまた一瞬だけに見えるそのようなカタチなのかもしれないものだ。
現在の頭から伸びるサボテンの触手は約2センチ。
フェルトペン先のような棒を真っ直ぐに立ちます。
完全なる予測ではありますが、もし、受粉などが成功していたならば新しいサボテンの子供が育ってくる予感でもあります。
さて、どうなるのでしょうか?
植物の生態とはとても不思議なり。

ところで、

「えじゃないか踊り」について少し調べました。
「えじゃないか」と思っていたのは正式に「ええじゃないか」と「え」が2つつくそうであります。
「ええじゃないか踊り」は幕末の1867年の秋から冬に起きた民衆騒乱で、男は女装し、女は男装して、または、好き好きの仮装に着替えて朝から晩まで狂った踊りのようであります。
私はこれを価値観を反転させる民衆サイドの時代の再定義のようにも思うものだ。
そして、この踊りの意義とは戦場を作らせないことに意味があるのではなかろうかと思うものだ。
これは東海道→近畿→四国と広がっていた騒動でもあります。
東海近畿などは古戦場地域の人々は権力の移り変わりの度に数々の血を流してきた地域の人々でもあります。
なので、戦闘員となるよりも商人となりて商業を発展させてきた人々でもある。
前述にも書き記したように、一般的に踊る民衆に向かって刃を振るう愚か者はいないことでもあり、1867年大政奉還が決定した瞬間に人々は内戦の危機を感じとったように思うものである。
幕府軍と新政府軍の2つの軍事勢力が対峙する空白地帯とは戦場となる可能性のある地域でもあります。
自分が住む街が戦場となることは望まないものであり「ええじゃないか」を踊ることによって、その地域から戦場を遠ざけようと考えることは人々の知恵であるようにも思うものだ。
渋谷のハロウィンなどでもそうですが、単に仮装して踊り楽しむ人たちを公権力が力を行使によって排除することは幕末でもやらないことであります。
その異常性とはこの世の中が頭のてっぺんから腐っている劣化を表しているようにも思うものだ。
下記に幕末の時系列を記載しましたが、ダンスが内戦の争乱地域を押し下げる側面は見えてくるものである。
結果的ではありますが、「ええじゃないか踊り」を踊ることにより幕府軍と新政府軍との衝突は本来戦場となったかもしれない地域から外部へと押しやられ、小さな衝突、白虎隊などの悲しい事件もありますが踊りによって戦争をストップさせた地域もあったと考えることは出来るものだ。

1867年 大政奉還
1867年 ええじゃないか踊り(東海近畿四国)
1868年 鳥羽・伏見の戦い(京都)
1868年 戊辰戦争(上野戦争・会津・長岡城・五稜郭)
1868年 江戸開城

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月23日(金)
■トゲトゲ−でイタイタしちょうよートゲトゲ−のチクチク、サボテンマンショー。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月24日(土)
■一日一文章トレーニング。

「我リズマーは変な音を奏でながら、言いたいことのほとんどはSNSのように数行で済む可能性があるのに、なぜ、人は長文を書くのでしょうか?と思うのです」

“口からでまかせ”いやいや“筆からでまかせ”かもしれません。
毎日文章を書いていると本当に何も書くことがなくて毎日驚かされます。
そして、こんなに何も書くことがないのに何か意味のわからないことをペラペラと適当に語っている自分自身にも呆れてしまいます。
本当に大丈夫なのか?と思うのですがマジで大丈夫な素の状態でもあります。
文章もたくさん書けば本当に皆に伝えたい大切なことも確かに存在しており、長文とはたった一つ言いたいメッセージや結論を言う為に長文をたらたらとたらしめることで間違いないものである。
それならば、SNSに1行の短文で事足りるものでもあるのに、なぜ人は長文を書くのかとの謎は生まれます。
大体、伝えたい1文章が重要であれば後の9割強の文章は不必要である。
9割強の意味の薄い言葉を書き並べる意味は何なのか?

・その他全部は言いたいことを飾る修飾語である?
・2000文字以内にATフィールドを発生させる世界観である?
・文章が積み重なる中に文字世界の風景をデッサンをしているとも言える?
・要約すれば数行で済む事柄を「あーだこーだ」と言いながら文章に書く綴ることは、私の周りに広がる無駄な空気を描くことでもあり、それは言葉の奥に広がる質量を掘り出しているようにも見えます?
確かに文字数が増えれば、増える程に文字世界の質量も増えて重みも広がり自己満足も上昇するものだ。
内容よりも見た目の文字量は重要で特に長文とはビジネスではありますが、紙面が文字ギッシリと埋まれば心も満たされる説は有力でもあります。
そう考えると「SNSは内容」で、長文である「本は見た目」であるという真反対なイメージも浮かぶものである。(恐怖!)
この文章も改行なしで埋めていきたい願望もありますが、読みやすさを考えれば改行を入れる必要もあるものだ。
マルハラは極力減らしたいけれども長文に「。、」を付けなければ恐ろしく読みにくい文章が完成するもので、短文や定型文以外にはマルハラな必須なことでもある。
または、
・気合と根性で書く長文となれば、文字と私との戦いであるとも考えられます?
これは文字と概念と私との死合いの痕跡とも読めます。
作り手の考えと文章が全く乖離していたとしても、生みの苦しみから生まれる作品にはどこか作品と作者の同質性をダブらせる何かがあると考えるものであり、このように適当なことを書いた文章でもパーソナリティは確実に潜んでいるものである。
実利を求める者にとれば本当に必要な言葉はたった1行かもしれなくて、分厚い厚みの本の中に心に響くキラリと残る一行を見つけることができれば、その本は私にとって良書でもある。
長文を書く本当の意味はわかりませんが、苦痛と無駄に埋もれる美学であると今はメモしておきましょう。

このような意味不明な長文に書いていると、もしかしてストリートで例えると私はフリースタイルかもしれないものだと思うものであります。
フリースタイルとはとても格好良かな言葉であります。
しかし、真のフリースタイラーとは筒井康隆さんみたいな大文豪のような人を指すような気もして、我がフリースタイルと語るには100年早いような気もするものだ。
ならばオールドスクールなのでしょうか?
そもそもフリースタイル・オールドスクールって何なのでしょうか?ストリートで長文の日記を公開している時点で、この文章には何かストリートっぽさはあるものだ。
ストリートの長文書きって野良犬みたいで格好良いなwww
フリースタイルやオールドスクールとは単なる競技スタイルのような気もしますが今度調べてみましょう。
私の文章は自宅から持ってきた卵のケースにマジックで色を塗り、同じ家から持ってきたシャンプーや洗剤の空容器に割り箸や粘土くっつけて色を塗って「ドーモ!ハイクとスルケンもつけたよ!」と手作り工作みたいな文章でもある。
※ハイクやスルケン(シュルケン)は忍者スレイヤー語であります。
その意味では私はおそらくオールドスクールかもしれないものだ。
昔、「文房具と旅をしよう」を作った時にも手作りの素人感がどうのこうのとチクチク言われていたものであり、本人たちは真っ当にアップル・マッキントッシュのようなシュッとしたデザインの歴史書を作っているつもりではありましたが、完成するとどこかオールドスクールっぽい手作り感はどうしても滲み出てくるものである。
もともと人が生まれ持つ素性とは必ず染み出てくる隠せないものかもしれません。
そもそも、私がラップしたならば三日三晩笑える程のクズ・ラップでもある。
カラオケの歌でも皆を笑顔にできる変なリズム感でもあるので、我のオールドスクールなラップリズムは三日三晩程ではすまないものである。
ズンズンチャ♪
つ〜ずーくー

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月24日(土)
■ぴょんぴょん。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月26日(月)
■一日一文章トレーニング。

「師、ローゲリウスよ、私はやりましたー(byブラッドボーン)」

ということで、

ついに、私はやったのであります。
昨日、ほぼ1日をかけて大掃除を行いました。
先ずは朝、掃除機でお掃除をしようと思っていたら掃除機の先端のローラーが勝手に外れて壊れます。
そのパーツを十円玉ネジで閉めて、再び掃除機のスイッチを入れるとやっぱり掃除のローラー部品は外れます。
ついに、お掃除機は逝かれてもうたとローラー部分取り外すとローラーに積層して絡まる大量の髪の毛を発見します。
とりあえず、この大量の髪の毛が故障の原因かもしれないと考え、ゴミ箱の上でローラーに絡まる髪の毛をジョキジョキハサミでカットして取り外します。
恐怖の人毛、絡まる大量の髪の毛とは不気味で触りたくないものである。

とりあえず、髪の毛はキレイにポイし、掃除機にもう一つの十円玉ネジを発見します。
そのネジもついでにパカッと取り外すと怒涛のホコリが立体の塊となってくっついているものだ。
私はそのようなホコリの塊を丁寧にキレイに拭き取り、本体を見れば怒涛の凄いホコリの塊で通り道の空間を塞いでいるのであります。
最近、掃除機が吸い取るゴミの量も少なく、我が家はキレイなのだと思っていたら単に吸引力が落ちているだけであったようだ。w
全部のパーツを組み直し、お掃除を動かすと購入した時のままにたくさんのゴミは吸えるのであります。

そして、

掃除機の先端のローラー部分を分解した勢いで、キッチンの流しの洗浄も行います。
最近、キッチンの水の流れは良くなくて、いつか日か掃除しないといけない日は必ずやって来ると思ってました。
さっそく、流しの蓋を開け中のフィルターを取り出し、ストッパーみたいなものを取り出すと、これはスプラッター映画のような恐怖な映像でもあります。
人生の中でもこのようなグロは絶対に見たくないものであり、それらグロいパーツはジッパー袋に入れて漬け置き洗浄します。
詰まった配管部分は割り箸でカチャカチャと動かして汚れを落とすと、濁った怖い水が広がって水は全く流れなくなるものだ。
これはシュポシュポ班の出動である。
以前も調べたような気もしますが、あのシュポシュポする棒の名前は何でしょうか?
別名スッポンであり正式名称はラバーカップというらしい。
あのシュポシュポする道具は結構恐ろしげな棒でもあります。
我が家に極悪人がやって来た日には、あの恐怖の棒を水に濡らして戦う所存である。
何せゴム製の棒なので、おそらくフルスイングしても大した大怪我にもならないものだ。
一家に一本ラバーカップ、私はラバーカップ会社の回し者ではありません。

我が家にあるラバーカップはエイリアンの口のように口が2段階に伸びる仕様でラバーカップ業界にも常に新風は吹き続けるものである。
私はラバーカップを掴み詰まった流しに渾身の力を込めてプッシュします。
飛んだー、飛んだのであります。
私の顔や買い物に出かけようかと思っていたお気に入りの服に汚水が飛んだーのである。
恐怖のスプラッター、そして、シュポシュポぼっこんと配管に圧を与え、ゆっくりと汚水は深淵の奥に流れていくのであります。
ボコボコする程にキレイなる配管、洗剤を投入して何度プッシュしたことでありましょう。
洗剤を入れてボコボコするとそれなりに配管はキレイになるのですが、水の引きはまだ完全とはならないものである。
油汚れには洗濯洗剤の酵素が最適解かもと考えて洗濯洗剤を配水管に投入します。
しかし、洗濯洗剤とは撹拌しなと泡立たないもので、プラモデルやパソコンの基盤に吹きかけてゴミを飛ばす電動ブロワーを使い泡立てることを考えます。
ブワッと風を配管に向かって吹きかけるとバックドラフトな風で再び我が顔にも排水が吹きかかります。
もはや汚水の汚れなどの気にならもので、ホラーとはヒンヤリでもある。

強力な電動ブロワーと洗濯洗剤のタッグで配管は泡立ち配管の中はどんどん美しくなります。
それは車の洗浄機で押し流すような簡易型でもある。
ライトで配管に奥に詰まったゴミを見つけ、それは風でも割り箸でも届かないものである。
そこで私は考えました。
割らない割り箸にコンビニのホークを挿し棒を延長させて、後は手動でゴシゴシとパイプの奥の詰まりを完全にキレイに押し流します。
仕上げはプシュプシュスッポンと完全に水が流れたことを確認してから、ラバーカップは強い直射日光の元で殺菌して再び家に戻して終了です。
私はローゲリウス師の思いを引き継ぎ、配水管を完全に流したのであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月26日(月)
■今日はよい天気。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月27日(火)
■一日一文章トレーニング。

「リズマーに無線機能が追加されました」

昨日は地平線に山脈みたいな入道雲が広がり、時折、雲がギラギラと輝く太陽を隠し涼しい風が吹き抜ける快適な夏でもありました。
台風が近づいているからかもしれませんが空の模様も山の天気のようにコロコロと変わります。
晴れたと思ったら急に雲が広がり、そのような動きの早い雲の動きとは確実に上空の暑い空気をかき混ぜてられているように思われます。
そして、ツクツクボウシかミンミンゼミなのか、そのような小さ目のセミの鳴き声も聞こえてきます。
一昨日ぐらいから、このような小さなセミの鳴き声も聞こえてくるもので、これは経験則的に季節の変わり目の夏の終わりを感じさせる音でもあります。
この世の中は本当に様々の音で溢れているもので、何だかんだと聞こえる音も季節ごとに異なるように思われます。
音は採集出来たとしても再現性は難しいもので目に見えない音故にそのカタチも可視化されないもので、昨日のセミの鳴き声がツクツクボウシかミンミンゼミか思い出せないのもそのような理由である。

音は電波の波のようなものでもあり、私達の身の回りには携帯やWifiなどの無線電波から可視光線まで様々な波長が行き交う世の中でもあります。
そして、そのような無線電波とは少し前までは無かった波長でもあり、無線電波の増加と共に都市の温暖化を進んだような気もするものだ。
波長によってはレンジのように温めることも可能なもので、私はそれら無線の電波が上空の成層圏を反射し、または街中で無線電波を反射し続けることで分子を揺らし空気を温めているのでは・・・と妄想したりするものだw妄想ですw。
目で見る私たちにとって発熱する太陽は暑く燃えているように輝いていますが、今や無数の無線電波が飛び交う地球も電波を見ることの出来る別の惑星の生き物にとれば、この数十年程度で急激に太陽のように輝きはじめた惑星として見えるかもしれないものであります。

ということで、

我がサンプラーにもイヤホンジャックから無線電波で別のスピーカーに飛ばす細工を施したのであります。
KORGには内蔵スピーカーがあるので音を飛ばす必要性はありませんがスピーカーに接続するとより音がキレイに聞こえます。
充電でさえ無線のチーで充電出来るものであり、目に見えない無線で音が繋がることは本当に不思議に思えることでもあります。
因みに、写真のウォークマンは録音用。
写真とは別機器の全然使用していないRolandのSP-404には内蔵スピーカーがないので常々無線で音を飛ばしたいと考えておりましたので、家にあるアイテムだけでイヤホンジャックから無線電波を飛ばせて満足であります。
家人にとれば小さな音でピコピコ鳴らしていたものが、スピーカーの大音量に接続できることは悲劇でもありますが、やはり音楽とは空間を響かす楽器を鳴らせてこそに楽しいものであります。
小さい頃ピコピコと音の鳴る電子玩具を飽きずに1日中鳴らしていたら母にそのような玩具は捨てられてしまうような悲劇は誰しもあると思われます。
映像に合わせて音をピヨピヨと余計な効果音を付与させるリズマーは「うるさいわ〜」と怒られても仕方がないものでありますが、音を鳴らす方にとれば太古のリズムと言うべきか音を鳴らすことは無性に楽しいことで間違いないものだ。
単に絵を描いただけでも誰かを怒らせることはあるもので、文章を書いたとしても誰かを怒らせて、音楽を鳴らしても怒らせる能力とは何か特別な能力3ゲットみたいな感じでもある。
とりあえず、リズマーはスピーカーに無線電波で音を繋げる方法を開拓し音の増幅機能をゲットしました。
今日も数秒間のピコピコ・グリグリタイムを奏でてからリラックスして次の作業に向かうのであります。
人生の間奏曲みたいなものであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月27日(火)
■ペットショップビーバーズ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月28日(水)
■一日一文章トレーニング。

「一昨日(いっさくじつ)と書いて一昨日(おととい)、これはとっても不思議な読み方である。そして、言問通りのような音を問う音問時間の間を問うているようにも読めるもので、そのようなことを考えていると段々と透明な私となっているのを知るのであります」

文章を書いていると昨日・一昨日と直近の過去の事柄について記憶を絞り描くことはでデフォルトのカタチであります。
3日前の出来事だと「みっかまえ」と記載するのですが、私のメモリーも二日目前までが限度なのか3日や4日前の出来事とはだとだいたいの過去の出来事として「数日前」と表記する傾向にあります。
1日前の未来とは当然予測も出来ませんが、3日前以前の出来事は過去の歴史の塊として統合されるような感じでもある。
話の種とは何年も何ヶ月も前から種撒くこともありますが、私の日記モードは未来の出来事は妄想・空想話しとして纏め、今現在のLIVE感とは今この瞬間とさっきの出来事、昨日、一昨日ぐらいの3日間ぐらいの出来事を総集して記載しているようでもある。
このような括りは当然無意識である。
そして、3日前以前の出来事は数日前や数年前、幼少期に学生時代と大枠な過去の話で分類分けしている感じ。
よって、
私の日記の文章構成は今について書かれるLIVE感は現在の出来事と昨日と一昨日ぐらいまでがフレッシュな記憶として書かれた文章のように思うものである。

・明日の話→未来の妄想・予測・空想のお話。
・今起きたこと、感じたこと→緊急で動画を回しております。
・昨日→「聞いて聞いて」のLIVE感満載のホットな情報。
・一昨日→「実はね,,,」とぎりぎりLIVEあるお話。
・3日前の出来事→数日前の出来事として過去分類される。
・一ヶ月前の出来事→ほぼ忘れかけた思い出と、ホットな記憶に残る思い出に2分される。
・数年前の出来事→印象に残り記憶に残る出来事で経験則の層を作る。
・数十年前の出来事→強烈に印象に残る出来事で個性の土台のようなもの。

日にちに関する言葉を書く度に「あれっ」と引っかかるものはあります。
例えば、“ひにち”です。
“ひにち”は“日にち”と書くのか?“日日”とも書くことも出来て変換結果に悩むのであります。
“日日”とは“にちにち”とも読める言葉でもあって、私の美学では“日にち”と表記したくなるものでもあります。
一昨日のことについて記載する時にも、「なぜ、昨日に一をつけておとといとなるのか?」との疑問が湧くものであります。
手書きで記載するとなれば考えるのも馬鹿らしいので定番の平仮名で“おととい”と記載するもので、脳のコンピュター化はこのような文字からも葛藤が見られるものだ。
漢字の読み方が2通りの読み方が出来ることは得なのか?損なのか?と背中が痒くなるものですが、そのような言葉の決まりを決める仕組みとは何か人間の人間的で人間らしい葛藤と歪みを感じるものであります。
よって、
「おととい」の謎とは今を生きるフレッシュな過去の残音としての音問い(おととい)として全人類になぞを吹きかける大問題である?・・・ということにした???

一昨日(おととい)と言えば、「おととい来やがれ」であります。
相手を追い返す時の罵り言葉で二度と来るな!という意味である。
絶対に来ることの出来ない過ぎ去った過去時間を指定して相手に敷居をまたがせないようにする発想で、この口調は西の言葉と言うよりも江戸っ子の言葉のようにも聞こえるものでもあります。
京風に申し上げると「おとといにお越しやす」みたいな感じなのでしょうか?
追い返される時には自宅用のお茶漬けの素を一緒にお土産と渡されるかもしれないものだ。
とりあえず、「おととい来やがれ」と塩を撒かれるよりはお茶漬けの素を貰って追い出される方が若干のお得ではある。
この言葉はどうやら、嫌いな虫を投げ捨てる時に言った言葉でもあるようで、嫌いな昆虫を掴める時点でその虫のことは「好き好き」かもしれなくて、虫を遠くに投げて「おととい来やがれ」と「もう二度と危険な人間界に近づくのではないゾ」と言う僅かばかりの人の優しさを感じるものであります。
これはものすごいポジティブ思考でもあります。
こんなポジティブ思考であると毎日やって来るヤバい感じでもある。
ぶぶ漬けも、塩を撒かれるのも、おととい来やがれも、人生の中で一度も経験したくないものであり、私の幼少期だと何メートル以内に近づけさせないようなバリアを張っていたような気もするものだ。
しかし、現在ではもうすでにバリア能力は無く、都会に済む者の掟としては迂闊に近づかない、迂闊に見ない、左にハイク、右にスルケンを抱えて存在自体を透明にしながら、人の存在とは都会の街の中でだんだん薄く見えなくなって行くのが街人という存在なのかもしれません。
ということで、
今日も朝から良いことを言ったような気もするのですが、よく読めば何を言っているのかの毎度のことである。

 

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■2024年8月28日(水)
■結局、大切なのはスポーツマンシップです。

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■2024年8月29日(木)
■一日一文章トレーニング。

「今が旬の桃を美味しく食べます」

惑星桃〜それは今が旬でとっても甘く美味しい果物である。
惑星のピンクな柔肌の表面には産毛のようなたくさんの毛を生えており、まるでモフモフした生き物のようでもある。
そして、そのような柔肌を傷つけないように大切に持っているとコロリと転がしてしまうのもやっぱり桃である。
雑に扱うものよりも大切に扱うものの方が落とし壊してしまう可能性は高い呆則はあるもので、器もまた大切にしているものや高級品からパリパリパリスと割れていくものであります。
そう言えば、私がフランスで購入したお気に入りのカップも確かにキレイに割れた。
そして、どうでも良い安物の器は雑に扱っても全く壊れないもので、これは「人たる器」にも関係するお話のようにも思うものである。
転がる惑星とは緩衝材から飛び出して机の上を転がる星でもあり、星は流れ星とならずギリギリセーフ。
ノロノロな台風も近づいているので農家は痛む前に収穫しようと思うかもしれません。
なので、台風の前にスーパーに並ぶ果物や野菜は新鮮でお買い得で食べ頃で美味しいな食材のような気もするものだ。
旬のものを食べる喜びとは人生を彩る“食彩”のことを指しているのだと思います。
念の為に辞書で“食彩”を調べたならば記載は無く、食彩という言葉は比較的に新しい言葉なのかもしれません。(デジャブ?)
台風の回転は反時計回りに回っているようであり、桃のカットも反時計回してくるりと真っ二つに分割するのであります。
桃の柔肌の真ん中にぐるりと一周の切れ目を入れてパカリと割ると地殻の種が出てくるものだ。
この方法はネットで学んだ桃の調理方でありますが、桃を美味しくキレイに食べる最善の方法のように思うものだ。
そして、片側に埋まった種は包丁でホリホリとキレイに掘り出すと桃はキレイにスライスすることが出来ます。
不思議なことは、種を避けて適当にザク切り(いつものやり方)よりも、図のようにキレイにカットする方が同じ桃でも美味しく思うものである。
パイナップルの切り方もこのような切り方があるので、これは果物を美味しく食べる為の黄金律かもしれません。
家族は爪楊枝で食するよりもホークを使い食べる方が美味しいと言っているもので、食べ物とは包丁の入れ方一つ、食べ方一つでも微妙に味も食感も変わる神秘である。
種はポイっとゴミ箱に捨てるのが定番ですが、街中で拾った種を植えたならば芽が出て“驚き桃の木山椒の木”なこともあるのかもしれません。
美味しかった桃の種は土に植えて発芽を待つことにしましょう。
以前、種植えした名称不明の果物と拾った何かの種は現在14センチぐらいまで成長しております。
どんどん成長すれば、数年後には自宅でも果物を収穫できるイメージが浮かぶウシウシとした気分となるものだ。
おそらく、土に植えた桃の実から芽吹いたならば「驚き桃の木」という言葉自然と口から出てくるのでしょう。
そして、別のことわざで“桃栗三年柿八年”があります。(再デジャブ?)
桃と栗は芽が出てから3年で実がなるようで、柿は8年後に実が成るそうでもある。
これは“石の上にも3年”の救済措置のような8年目の実の可能性について言及する、何事もそれなりの年数を必要とすることの例えであります。
それにしても8年は長いのであります。
植えたらすぐにでも収穫したいと思うのが商人心でもあり、「待て」が出来ない犬のようでもある。
我に桃のような高級感は無いとしても、ワンチャンでトゲトゲの栗坊な感じであるものだ。
3年ぐらいならば我慢は出来るものであり、栗ではないとすると柿かもしれなくて我柿だと仮定したならば8年後に実になった柿が渋柿で食えない未来も想定も出来るものだ。
ことわざの適当さとは別のことわざで逃げ道も作るような困った美味しい桃(もの)なのであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月29日(木)
■トントン♪トントン♪
■2024年8月30日(金)
■一日一文章トレーニング。

「暑さも一息つけばクーラーのフィルター掃除を行い、暑さも一息つけば植物たちにもたっぷりと肥料をあげて、暑さも一息つけばグラボにも3回ぐらい水没させてあげるのが大人の流儀である テーテーテェー♪」

雨は鉛色の空から落ちてきてザーザーな雨音を作り出します。
雨が強くなるとザーザー音も強くなり、雨が弱くなるとポチャリポチャリとこの世界に雨水が流れる音を響き渡ります。
そうなのです、台風が日本列島に襲来しており降ったり弱まったりの雨である。
台風も東京直撃コースとなるならば風で倒れそうな背の高い植物たちも室内に避難する必要があるものの、どのようなルートでいつ頃やって来るのか?皆目わからないので彼らは雨降る修行僧のように雨に打たれているものだ。
そして、窓を開けるとムワッとした空気が広がるもので、さっそく温度計で気温を計測すると温度24℃・湿度90%で意外と気温は低めの天気であります。
クーラーは7月6日からほぼフル稼働であり、今日のような涼しい時にはエアコンのスイッチをオフにしてフィルターのお掃除をしたくなるものである。
今フィルターを掃除しないと再び残暑が戻ってきた時に後悔するように気もするものだ。
今日はフィルターの掃除を絶対にするのである。たぶん
たぶん、フィルターを清掃することで室内の空気もキレイになると思います。
たぶん、電気も少し安くなって節約にも一役買いそうである。
因みに、今のところクーラーのスイッチをONにする平均温度は29.7℃です。
その周辺の気温になると暑く思いエアコンのスイッチに手が伸びてしまうものである。
計算方法は湿度50%をベースにして60%になると計測温度に1℃加算するような仕組みでもある。
よって、今日の外気温だと24℃・湿度90%は+4℃を加算されて体感温度は28℃くらいとなる。
体感28℃とは窓を閉めて湿度を上げなければ十分にフィルター掃除の暑さにも耐えられる室温でもあります。
この湿度が10%上昇すると+1℃体感温度が上昇するという感覚は誰が見つけたのか知りませんが、結構正しい感覚で間違いないものだ。
例えば、6月24日にクーラーのスイッチをONしましたが、その時の室温は27.3℃でエアコンを作動する必要はない温度でもあります。
ですが、私はクーラーのスイッチは入れたもので、その理由は湿度72%にあります。
湿度72%は+2℃を室温に加算すると体感29.3℃でクーラーを点けたくなる温度となり、冬は逆に湿度がカラカラと乾燥することで体感温度も下がるようになります。
湿度と温度は体感温度にすごく関係しているもので、これも水が外気温を吸収することに原因があると思います。

ということで、

雨にうたれ過ごしやすい気温となった植物たちにもハイポネックスの肥料をかけてあげることにします。
猛暑でぐったりと暑かった頃と比べても植物の葉っぱはグリーン・グリーンして一目瞭然で植物たちが喜んでいることがわかります。
このような活動時期に入ったとすれば肥料をあげるのは今でしょうと思うのである。たぶん
ハイポネックスの原液を植物にあげる時にペットボトルで薄めてあげているのですが、我はペットボトルの蓋にキリで穴を開けてジョウロのようにして栄養補給する方法を思いつくのであります。
ジョウロのように肥料をあげすると「ドバっ」と肥料液がかかることも無く、植物にムラなく栄養補給出来ます。
これは植物業界では常識なのかもしれませんが結構便利な方法でもあるものだ。
因みに、ハイポネックスの栄養素はパッケージに(チッソ6―リンサン10―カリ5)と書かれています。
成分の記載も無く、数字の意味も100に対する分量なのか?不明ですが植物たちにはそのような成分が必要みたいであります。
雨に濡れた植物たちにたっぷりの植物のエナジードリンクをかけてあげて我も植物たちも大喜びである。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月30日(金)
■流行りのゴシック建築につける彫刻の図案ナウ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月31日(土)
■一日一文章トレーニング。

「お米炊き器(オコメタキキ)ですよ−」

いやはや、
お米不足とは何なのでしょうか?
スーパーに行けばとりあえずお米はあるものの、値段は高くなり、お米コーナーもなくなり1種類、若しくは2〜3種類だけのお米が並ぶような感じでもあります。
ですが、我が家には新米の「ふさこがね」がやって来てとりあえずはよかったよかった。
牡蠣やカニや皮ジャケットのように、おねだりをする事態だけ避けられたことはよかったことであります。
今はもう新米の時期となり、そろそろ流通も安定するのかと思いきや少し長引いているような感じでもあります。
米の値段は数ヶ月前のオリーブ価格の上昇直後から上昇気味であったものの、災害備蓄などの需要増が拍車をかけたようでもあります。

そのような米騒動の話をしていると当然、お米炊き器の話にもなるものだ。
そして、それは炊飯器のことですねと直されるのであります。
お米炊き器とはYESクリニックなのである。
その通りの炊飯器なので「あれっ?お米炊き器でも意味通じるよね」と思うものである。
お米炊き器の響きは何かかわいいものであり、炊飯器とは孫悟空のバッタ物のような感じと比べても少し弱いものである。
そして、世の中には炊飯器派が圧倒的な多数かもしれないという現実を知り、この呼び方は我が家の伝統的な呼び方なのか、もしかしたら、私だけの呼び方かもしれないものだ。
我がお米炊き器・お米炊き器と口にする度に、聞く人にとれば脳内の自動校正機能が働いて「炊飯器・炊飯器」と訂正しているのかもしれないものだ。
残念だけれども我は無意識でお米炊き器と言っているので、時に炊飯器と言っているかもしれないし、そうでもないかもしれない、全くの無である。
お米炊き器の呼び方について考えたことは一度もないのである。
ただ、正しい日本語を使いたいと思う人にとれば、そのような炊き器のような響きはとっても気になるものかもしれないもので、「正しさとは何であろうか?」という人類の謎が、お米という身近主食から生み出されているのが興味深い。

お米炊き器の別名は炊飯ジャーと呼ぶこともあります。
私は炊飯ジャーとは言わないのですが全く言わないかと言えば、そうでもない。
何せ無意識なのでわからない。
様々な家庭では炊飯ジャーはド真ん中の単語かもしれないものだ。
因みに、「ジャー・jar」とは英語で壺のことであり、器がジャーに変換されたとしても全くおかしくはないもので、英語を使い格好良くデコレーションした感じはあります。
英国人は日本人の「じゃあーねーバイバイ」と言うさよならの挨拶を聞いて、夕焼けの向こうのパーソナルなne空間の器に帰っていく友人の姿を瞼に浮かべるのかもしれません。
お米炊き器の別名には炊飯釜と呼ぶ呼び方もある。
調査班はインターネットショピング検索ページ(トップページから)お米炊き器の呼び方を分類してみた。

・お米炊き器→(0)
・炊飯器→タイガー(4)・パナソニック(5)・象印(3)・東芝(5)・シャープ(2)・ソウイ(1)・ネオーブ(1)・バルミューダ(1)
・炊飯ジャー→象印(16)
・ジャー炊飯器→タイガー(3)・日立(1)・パナソニック(4)・三菱(1)・ネオーブ(1)

という感じである。

お米炊き器は0件なのですが炊飯器は象印が力を入れて販売している分野であることはわかります。
ならば、”炊飯ジャー”と”ジャー炊飯器”と”炊飯器”の違いとは何なのでしょうか?
調べると炊飯器にはその昔保温機能はついていなかったようで、その名残りの呼び方であるそうだ。
今のお米炊き器は保温機能が標準でついているので機能面では特に変化はないので、これはメーカーサイドの何かのこだわりかもしれないものである。
そう言えば、接客などをしていても同じ機能の商品を紹介しても「これのこれじゃないといけない」という同じ商品でないと絶対的にダメだと言う信念を持つ人はある程度いるものだ。
我なんて、全部同じジャンと思うものの、人の目線とは人それぞれなのであります。
なので、お米炊き器はジャーでないと絶対に駄目と言う人が多少は存在するのかもしれなくて、このような呼び方の違いになるのかもしれません。
私はやることはいつの日か「お米炊き器」の呼び方がメジャーとなり、ニュースなどでも「令和の米騒動によりお米炊き器の需要も上昇して新しい商品も開発されています」とアナウンサーに読まれるように「お米炊き器」の呼び方の普及に努めなければなりません。
そう言えば、頓挫している簡単蒸しご飯の開発はもう少し涼しくなってから進めましょう。
そして、この米が消えてしまった騒動の中で、結局何が言いたかったと言うとサーバーステーションのようなお米の炊飯器がパナソニックから発売されていて、知らない間にお米炊き器のデザインもどんどんかっこ良く変化している〜と言いたかっただけであります。
お米炊き器の話だけでこんなにも頓挫し、どーでも良いことをペラペラとややこしくも長文にしたためてしまったものだ。
米不足騒動の原因はよくわからないものの、米が一般家庭にある程度備蓄されると米の需要は増えて、米から虫が発生して捨てられる災難も増えるかもと思ったりもするものだ。
米は貯めて消費しないと虫が発生するのであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年8月31日(土)
■イマナガ砲発射。