*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月1日(月)
■一日一文章トレーニング。

「これが最恐の敵である」

今朝は雨、室温湿度は26.6℃・82%。
「ザーザー」な雨音を聞きながらジメジメとした風が吹き抜けると幾分涼しくも感じるよしなである。
湿度も80%を超えると水底にへばりつく水棲の両生類になったような気分でもあり、そのようなジメジメとした水底に潜む生物が週末に何をしていたかと言うと冒険の旅に出ておりました。
平原を駆け抜け、城を攻略し、ボス敵を駆逐しながら、奈落の森までやって来る旅でもあります。
奈落の底とはとても暗い世界でもあり雑魚しかいないものだ。
我に敵なしと意気揚々と進んでいたならば、とんでもない生き物と遭遇するものだ。

「ある日 森の中 熊さんに出会った 花咲く森の道 熊さんに出会った 熊さんの言うことにゃ お嬢さんお逃げなさい スタコラサッサッサ」と歌にもあるようにエルデンリングの森には恐ろしい大熊は生息しているものだ。
DLC前は大熊を最恐生物だと思っていましたが、DLCには獅子舞がいて、その上にはもっと恐ろしい生き物がいたものだ。
大熊戦とはいつ何時も正面から堂々と戦うとタイミングが悪ければと五分五分で負けてしまう勝率の強敵でもある。
ですが、このエルデンリングDLCには森の熊さんを凌駕する100%の確率で敗北してしまう生き物を発見してしまうものでもある。
その生き物の名前はわからないのですが、フロム名物の脳みそ女や、啓蒙をチューチューと吸い取る脳みそチューチューにも匹敵する風貌の恐ろしい生き物であります。
奴に見つかったならば遠くからでもワープしてこちらに飛んでやって来る〜ので、ほぼ100%逃げることは不可能でもある。
それに加えて、奴は草むらにたくさんのセンサーを立てて侵入者を警戒もしているので奴に見つからないようにすることは大変なことでもあるものだ。
そして、奴の攻撃はワンパンチで即シだ。
奴に見られているだけでも呪いも溜まりゲームオーバーとなるもので、獅子舞はトップクラスの強敵でもあったが、奴にはチートという言葉がお似合いのボスを凌駕しそうな強敵でもある。
仲間たちが残してくれたメッセージを見ていると「パリィが有効である」とのメッセージを見つけて早速パリィに挑戦します。
パリィとは敵の振り下ろす攻撃を当たる寸前で盾で受け流す技であります。
パリィが成功すると敵の体幹をズラして致命のダメージを与えることが可能です。
パリィとほぼ五分五分の成功率の運ゲーなところもあるものですが、対人戦などで武器をブンブンと殺気を持ちて振り回す人であれば結構パリィは決まることも多いものだ。
一方、奴の攻撃とは「コラッ」というリズムの攻撃でもある。
確かに、今までどのような攻撃をしても1ミリもダメージを与えられなかったものがパリィが成功すると奴にダメージを与えることが可能である。
ただし、それにはいくつかの問題もあるものだ。
先ず、連続6回以上パリィを成功させないと奴を退治できない体力を持っていること。
ほぼ、パリィの成功率がフィフティーフィフティーである私のパリィが合計6回以上の連続で成功させる必要もある。
計算すると成功率・約1.56%で、100回の内1回は成功出来るのかもしれませんが、複数回も試練を積むと技術の技も上昇するので、もっと高確率となるものだ。
そのようなパリィを成功させることに加え、奴に見つめられるだけでも呪われ発狂しまうことは難題でもある。
発狂すると体力の8割程を失うので体力を回復しながら、呪いの防止薬を飲み、6回連続でパリィすることは私の技術ではちと難しい。
なので、我、奴に恐れて身を潜め隠れて逃げるのであります。
茂みに隠れ、大木の裏に隠れて、身隠しのベールと足音を消しながら進むと他プレイヤーの幻影も同じ行動をしているものだ。
いつの時代も脳みそが膨らみすぎた人とは狂気となりて発狂状態の怖さはあるものだ。
フロムはそのような脳社会の暗喩としてこの脳チューをこの奈落のセカチューさせたのかもしれません。

そして、我、オープンワールドの鉄則でこれからどこに向けば良いのかわからない迷子の呆則である。
奈落の底で放浪し、日曜日の丸一日をこの奈落の底に費やした人はそうそういないと思うものだ。
ですが、地図を見ると行ったことのない場所や未知の空白地帯はたくさんあるもので、どこをどのように進めばそこに辿り着くことが出来るのか?全くわからないものであります。
そう言えば、霧の中に脳チューが潜んでいる怖い場所は新ルート候補として怪しい場所の一つであるものだ。
なので、私はコソコソと脳チューから隠れて息を潜めながら五里霧中と進んで「オレはついにやりました!」と怖い霧の道を抜けるものであります。
そして、霧を抜けた場所は何度も通ったことのある身に覚えのある場所でもあり???と単に一周しただけなの?と不思議な気分になるものだ。

ということで、
まだまだ新航路を発見出来ずに露頭に迷っております。
発狂出来るデスクトップ画像も用意しました。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月1日(月)
■マイーティーソーミシン・縫っちゃうよ。
アパレルの味方〜
アパレル御用達〜
アパレルの縫い放題〜
 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月2日(火)
■一日一文章トレーニング。

「自家製の柴漬けを作っています」

壺の上から覗くと梅干しの熟成は順調です。
梅雨が明けたならば、次に梅干しを天日浴する工程に入ります。
去年の教訓から考えると、狭い都内のベランダで梅干しを干すのは無理があるものだ。
なので、今年の浸かった梅は全部実家に送って干してもらう計画でもある。
都内にも等しく太陽光は降り注ぐものの、建物は密集している為に直射日光が隅々まで当たる時間は少ないものだ。
太陽光を遮るものはたくさんあるのに本当にクソ暑い東京の夏とは本当に不思議なものである。
梅干しを干す為にはそれなりに自然に囲まれた開けた場所が必要なのであります。

ということで、

写真は手づくりの柴漬けです。
去年の梅干し作りで出来た梅酢が冷蔵庫に残っていたので、それを利用して塩もみしたキュウリを漬けて柴漬けにしたものである。
6月15日から漬けられているので半月程漬けられているようでもある。
途中、忘却もされているので、あっと言う間の2週間。
一度味見もしましたが柴漬けの味ではないものの、何か別の美味しい酢漬けの漬物の味もするものだ。
中にはキュウリ、みょうが、ニンジン、山椒などが入っており、特にみょうがの漬物が妙に美味しく感じるものでもあります。
今晩のご飯の相棒は柴漬けさんで決まりなのですが、こんなにも長く熟成させたとしても食べたら一瞬のペロリの理(ことわり)は悲しいものだ。
そもそも、きゅうりが柴漬けのようにシワシワな表面にならなかったこともあって、こんなにも長く漬けられる漬物となったことでもある。
そこで今日の呆則は長期間酢漬けしただけではキュウリの表面はしわしわにならないものであります。
次は少し乾燥させて表面をしわしわにしてから梅酢に漬けてみようと思うものであります。
もしかしたら、柴漬けのアレはキュウリではないのかと思い調べたらキュウリに加えて茄子も使用しているようだ。
漬ける種類にも多少の誤差あり、きゅうりの芯もスプーンでほじくって作る必要があるようで、いつも思うのですが最初からネットなどを見て作れば良いのに思うものでもある。
最初の一歩は適当に自分流に作ってしまうものがオレ流でもあり、大体で合っているけれども、大枠で何かが違う、本家からとれば失敗作なのではありますが、味はまずまずな美味なところが面白いところでもある。

それよりも、

柴漬けのことを調べていたら漬物の由来を見つけて気になるものだ。
辞書に【柴漬け】の記載はなかったのでネット情報のみを参考にすると下記のようになる。
・柴を束ねて水に沈め魚を採る漁法。
・罪人を柴でくくり水に沈める処刑方法。
柴漬けの赤は血の色でもあり拷問を彷彿させるようなネーミングに本当かいな?と疑心暗鬼になるものであります。
魚の捕り方と処刑方法とは漬物と全く関係ないものであり、私の場合には言葉のままに単純に「赤紫蘇に漬ける」漬物の柴漬けの解釈となります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月2日(火)
■しばラ〜

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月3日(水)
■一日一文章トレーニング。

「しば漬けとしば犬の関係性に迫ったら

・・・柴は紫でなく、木へんであった www 」

漬物とは塩、糠、麹等により発酵されて保存の効く食品に加工することです。
長く熟成することで味も深くなり美味しい伝統的な保存食ともなるものだ。
漬物から何かの法則を見い出すのかと考えれば、それは時間をかけて熟することにより、さらに美味しくなる呆則でもあります。
物事は熟成期間を設けることで何らかの良き化学反応が生まれることも多いものかもしれません。
これらはSNSや川のように流れていく諸行無常と異なり蓄積し寝かせることで次なるステップに進む概念でもあります。

昨日の柴漬けは単なる赤紫蘇色の漬物であると思ったのですが、その後、あれやこれやと寝かせて考えていると「紫」を「しば」と読むことが気になるものだ。
昨晩も深い熟睡中に「柴」が「しば」である理由についての夢を見た。
早速、朝起きて辞書で調べると「紫」は「し・むらさき」と読めども「しば」とは読まないものであることを確認する。
これは「しば」と一般的に呼ばれていたものに「紫」の当て字をしたと考えることも出来ます。
同じ「紫」を「しば」と読む有名な言葉では「柴犬」があります。
子供の頃から柴犬を見ても「むらさき色の犬」と解釈することはありません。
柴犬に紫要素は1ミリもないもので、私達は柴犬を茶色でかわいい中型犬と認識するものであります。
「紫」とは青色と赤色が掛け合わさった中間色で、紫衣(しい・君子の服装)、紫雲と格の高い高貴な色として表現されるものでもあります。

話は脱線しますが紫外線というものもあるものだ。
劣化の王様である酸素酸化、加水分解、紫外線と続く怖い光も紫の漢字を持つものであります。
赤、青、紫の3色が紫外線に晒された場合に紫<赤<青と退色するものでもありますが、これは紫が青50と赤50の中間色で赤100でも退色しやすいのに赤50とその半分の色味となっているからさらに退色しやすいと思うのであります。
今日の話とは全く関係ない話しだけれどね。
因みに、植物が緑色に見えるのは、クロロフィルやカロチノイドのような色素と組み合わさって連携し赤色光を大量に吸収し青色光や黄色光を弾き返すので青+黄の緑色に見えるようである。

「しば」とは何かと考えれば、どこにでもある雑木の「芝」を思い出すものでもあります。
雑木とは良材とはならない木のことである。
それは私のようなどこにでもあるような雑木でもあり「おまえさんはいつでもどこでもいるなー」な柴犬さんのようにも思うものだ。
柴犬をかわいがる人にとれば、かわいさも100倍となりまして、雑木な「芝・しば」から格上げされて「紫・しば」となることもあり得ます。
柴漬けも柴犬も身近な存在であり、言葉とは体を表していると思うので敬意を表して「紫=しば」となったと思うのであります。
※勝手なマイ解釈です。
※紫と柴を勘違いしていたので金成りはないものの、どこでもある雑木という意味では大体当たっているような気もするものだ。

もう一つのネット由来の柴漬けの拷問説にも根拠の片鱗を見つけることは出来ます。
それは「しば」と言う言葉には「縛る」「しばれる(寒い)」「しばく(暴力)」というような暴力的な意味を読み取ることも出来るものだ。
そもそも「石の上にも3年」の諺があるように、そのような石の上での忍耐とは何か漬物石を連想させるものはあるものだ。
実際に石の上にも3年とは理にかなっているように思うものであり、何かを始める時に短絡的に結果を求めても成果は出ないもので3年・千日ぐらいの様子見期間は必要なものでもあります。
そして、そのような期間とは石のような固い場所に正座する辛い期間でもあります。
そのような石の下で耐えて熟成されるものとはどこか漬物とダブって見えるものだ。
漬物石とはその重みで圧縮し余計な水分を放出することで旨味を凝縮させます。
漬物を漬けるということは純粋に柴漬的な苦痛や拷問要素はあるものだ。

さて、

1)柴漬けが単なる紫色の漬物由来なのか?
2)拷問の名を持つ由来の言葉であるのか?
3)芝のような雑草が金成りして紫と格が上がったのか?

3仮説を抽出してみましたがいかがでしょうか。
柴漬け、柴犬で十分に文章を書けたものであります。

自家製柴漬け第2陣は適正な漬物のカタチにカットして、野菜の水分を飛ばす為にラップもせずに冷蔵庫の中で乾燥させております。
十分に乾燥して水分が飛んだならば表面がしわしわとなる予想でもあり、後は塩揉みして灰汁を出し、梅干し作りの廃液の梅酢に漬ければ美味しいしば漬けの完成です。
写真は1日目の冷乾燥状態、もう少し乾燥させます。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月3日(水)
■漬物素材の出し入れ。Not Found 101
■2024年7月4日(木)
■一日一文章トレーニング。

「柴と紫の違いに気付く夏、しっかり拾って反省しました m(_ _)mT」

今朝は朝から猛暑。
目覚めてトイレに入ったら玉のような汗がダラダラと落ちてきて、室温湿度計を確認すると28.0℃・72%です。
すぐにエアコンのスイッチをONして日本の夏、我が家も夏です。

ラッツエル・ブラーシュのどちらの属性にあるのかわかりませんが、毎日日記を書いていると人も何かと環境に順応するものでもあります。
それは私の場合だと文章の内容を考えながら熟睡すること。
寝ながら考えているとは頭がおかしいように思われますが、案外、物事とは寝ながら考えるものでもあるものだ。(最近の考え)
頭の中で文章構成の夢を見たならば、その内容を文章に起こすという横着人にとって大変ありがたいものでもある。
夢の中の出来事とは、Aの話からエッセンスをBに繋げB話を盛り上げてからA+Bのまとめみたいな夢の中の出来事の経験である。
後は、その内容を文章に書き写すだけの朝で、残念ながらこれはスピリチュアルではありません。
これは皆の大嫌いな100%の気合+根性+負荷をかけ続ける成れの果てみたいなものであり、先ず書くべき内容もなければ、波風立つので他人のことも書けない(公人以外)、当然プライベートも書けなくて、なのに自分自身を書くという高度な立ち位置によるものだ。
※重要何度も書きますが、ここには自分のことのみしか書いていません!!
それは手足を柴で縛られて水の中に沈められる「柴漬けの刑」のようなものでもある。
そのような訳で、ハンターハンターのキルアのように電気ショックで拷問の訓練をうけている内に電気系の念能力を取得するように、毎日の一日一文章トレーニングの苦行を続けていると夢の中でも書く内容を考える横着も身につけてしてしまうものである。
これは人によっては夢の技術でもあり、柴漬けの刑もその内に泳いで脱走してしまうような感じでもある。

そのような訳で、我脱走中なのではありますが、

昨日の文章は柴漬けの「柴」を「紫」と完全に勘違いして夢の中で文章構成していました。ww
素が適当であらば夢の中も大変な適当の大盛りでもあるものだ。
恐らく、この人生で手書きで柴漬け、柴犬、柴又も漢字で書いたことがないような気もするので「柴と紫」がごっちゃになっているので夢の中でもそのようなことになってしまうものだ。
「木」か「糸」かと些細なことではありますが意味は全然違うものであります・・・「あれっ」思い込みの間違いで文章を書いたものの大枠で案外言いたいことは道筋はズレていない不思議でもある。
ストライクゾーンは大きければ大きい程に良いことの呆則かもしれないものだ。
柴とは雑木(ぞうき)を切ったもので何の役にも立たない吾輩のようなフシギな(木)でもあります。
残念ながら柴犬も柴漬けも「紫」に格上げされることもなく非常に残念なのですが、我だけは柴を紫に言い換えて反逆することも出来るものだ。

柴犬はどこにでもいるように、柴漬けも今や京都風な上品な食べ物のようにも感じますが、昔はどこの家庭でも保存食の梅を作っていたと思うので梅の廃液の梅酢から作られる馴染ある漬物であったのかもしれません。
柴垣のような和風な造形が好きだと思っていたら「柴」とは私の体液を常に流れていたもので、「資本主義とは希少性を見つけるもの也」との教えに、我柴は雑木魂にむせび泣くのであります。
なので、写真のような雑木も道で拾います。
これこそ本物の「柴・しば」である。
何の価値もないそのような枝を家に拾って持ち帰る我柴ですが、カタチが面白いのでフィギュアに持たせて遊ばせようという魂胆である。
本当に道に落ちている枝を拾う大人とは本当に碌な者ではないものであります。

昨日は猛暑の暑い中、「柴と紫」の違いを見つけさらなる追加の変なW汗汗をかくものであります。
あのゾゾッとかく汗は恥ずかしさもにじみ出る嫌な汗ではありますが、今日の一文も作ることが出来る救いの汗でもある。
失敗話とは話の種不足の中の救世主でもあり、見方によっては次に繋がるラッキーなことでもあるもので、柴犬、柴漬け、紫犬(むらさき犬)、紫漬け(むらさき漬け)の間違いをネタに一文作って感謝も感じるものだ。
これでなんとかノルマは達成し、間違い・失敗・恥ずかしさとは次なるネットワークに繋がるハブとなるのかもしれない神の呆則はあるものだ。
バカはしっかりと拾って次に繋げましょう。

それにしても、柴漬けは赤紫蘇を使って赤色で「紫」の字でもおかしくはないものでもある。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月4日(木)
■暑!

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月5日(金)
■一日一文章トレーニング。

「フィギュアに柴(しば)を持たせました」

昨日の柴・紫の道で拾った雑木な枝をフィギュアに持たせたいと思います。
しかし、枝は見つからないものであり、「あれっ」どこに置いたのだろうかと探すものの、やっぱり見つからない枝である。
長さ約8センチの枝なので紛失することはないもので、どこかに置いて忘れてしまったのでしょうか。
一度フィギュアに枝を持たせたいと思ったならば絶対に持たせたい枝でもあります。
なので、とりあえず別の枝をフィギュアに持たせることにします。
我が家の飾り棚には本当のゴミのようなものも飾られているもので、千利休の侘び寂びの回の干からびた枝もまだ飾られているものだ。
2〜3年の歳月を得た枝葉は汚い茶色なのですがどこか美しく思える不思議さでもある。
鮮やかな色は当然美しいのですが、このような茶色のような渋い色にも美しさを見つけるのが利休さんの教えでもあります。
有名画伯の茶系の絵などは通が「ホホ〜」とその美的センスを磨くものかもしれませんが、この葉っぱの錆びたような茶色にはそれらを凌駕する美しい茶色があるものだ。
写真にも撮りましたが上手く伝えることはできましょうか。

この侘び寂びたカリカリは完全に乾燥しており壊れやすいので取り扱いに注意も必要です。
以前、侘び寂びを倒して葉っぱが取れたので木工ボンドで接着して修復したこともあります。
なので、ダダにそれを「そおっと」優しく持たせます。
生命がぬけて質量も軽くなり、美しさも増すとは本当にどのようなことなのかと思う侘び寂びである。

スカルボイルダーから下車して優勝旗を持った誇り高き異星人、誉れ高きお姿、飾ると得も知れぬ素敵な躍動感があるもので、ダダとは何度見てもスゴイ意匠でもあります。
誰の考案なのか全く知らないのですが昔の人はよくもこのような造形を生み出したものでもある。
唯一無二なデザイン、民族資料館などに飾られていても違和感を持たない造形、縞々の模様も単なる縦線ではなく、少しモードでお洒落着のようでもある。
ダダに柴を持たせると、やっぱり見つからない柴もフィギュアに持たせたくなるものでもあります。

ということで、

再び行方不明の「柴」を探して三千里。
探しものとは人生の無駄の筆頭にも数えられるものではありますが、そのような探しものが「柴」な雑木であることが皮肉である。
これがゴミかゴミでないかと考えれば、ほとんどの人にとって躊躇無きゴミである。
私はそのような枝の持つ造形が格好良く思えて道で拾って持ち帰ったのではありますが、誰か間違って捨てたとしても誰にも文句の言えない単なる枝でもあります。
過去の記憶を再構築してiPadで接写写真を撮った時から巻き戻し、探しものはどこですかと探していると80センチ書斎の机の下のゴミ箱から柴を発見するものであります。
いやはや、無意識とは怖いもので自分自身で無意識にゴミ箱に捨てていたようである。w
さっそく、ゴミ箱から枝を拾いキングジョーのフィギュアに持たせると、ジョーの指は3本しかないので指と指の間に柴を刺す感じとなって正に生け花。

このキングジョーの造形も何かぶっ飛んだデザインで、ロボットなのにどこか小型犬のようでもあり、どのようなアイデアがあればこのような素敵なデザインにたどり着くのかと思ったりもするものだ。
このような昔の良デに触れる度に、この頃の世代の人たちの夢や想像力の大きさが今の私たちよりも大きいように思えるものだ。
ダダが良すぎて、ジョーの再販品を店頭販売しているのを見つけて衝動的に購入しましたが、私に間違いはなかった。

さあ枝は持ったので出発でござる。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月5日(金)
■第8章水星アンダンテ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月6日(土)
■一日一文章トレーニング。

「この暑い夏を乗り切れとヒンヤリ計画の第一弾です」

外は当然暑いとしても、涼しい部屋にいたとしても次第に暑くなるのが夏です。
暑い暑いと聞かされる方にはたまったものではありませんが、暑い暑いと口ずさむ方も暑さに呪われてしまうようなそんな感じでもある。
特にまだ暑さにも慣れていない体であれば、猛暑により「何も考えたくない、何も動きたくない」と頭も体も暑さによってオーバーヒート気味でのろのろと蝕まれてしまうものだ。
この一週間に何を成したかと考えてみても何も成し遂げていないダメな一週間でもあり、我、こんなことではいけないと体を律するものでもあります。
だからと言って、クーラーのガンガン効いた部屋にいれば次第に体も冷え冷えとなって寒くもなるもので、暑くて暑い、寒くて寒い、そのような暑さに打ち勝つべく方策を考えるものでもあります。

抵抗とは小さなことからコツコツと始めることが得策で、大きなものはそのような小さな抵抗によって打ち砕かれる「大岩を砕く針の一突き」でもある。
そのような猛暑に立ち向かう些細な奮闘第一弾はキッチンに鎮座する直径13センチ、高さ28センチの大きなガラス製!!の魔法瓶のポットを使用すること。
使う時には毎日のように頻繁に使用するポットではありますが、使わない時には大きくて邪魔なオブジェとなるものだ。
物とは使ってこそ生きてくるものでもあり、極力使えるものは使い倒そうと思うのが最近の私の考えでもあります。

夏のポットにはたいてい朝の内に暖かいお湯を入れて部屋の上昇を避けようとの固定概念があったものの、今年は冷蔵庫に入っている冷たいお茶を氷と共にポットに保管する魂胆である。
メーカーサイトを調べたらポットにはお茶もコーヒーもOKのようであります。
先ずは固い氷で保温ガラスの表面が傷つかないように冷蔵庫に入っているお茶を少しポットに投入し、それから氷を入れてお茶をなみなみと入れれば完成です。
それを机の上に置けば冷蔵庫を開けなくともいつでも冷たいお茶を飲めるものである。
そして、何よりポットに入ったお茶はヒンヤリと冷たくて山の湧き水を飲んでいるかのような美味しさでもあります。
暑さには冷たさ、プラスにはマイナス、作用には反作用で真反対にあるものは常に背中合わせに存在するものでもありますが、水が冷たいだけで飲み物がこんなにも美味しいことはとても不思議なことでもあるものだ。
実際に昨晩作ったお茶の温度と冷蔵庫に入っているお茶の温度の温度差は約3℃である。

・一晩たったお茶の温度は4.5℃
・冷蔵庫から出したお茶の温度は7.3℃

冷蔵庫の中の水温とは予想よりもあまり冷えていないのも面白いのですが、この温度差の2.8℃がお茶をヒンヤリと美味しくさせることも面白い。
そして、今朝の室温湿度は28.0℃・65%、魔法瓶との温度差は23.5℃、冷蔵庫のお茶との差は20.7℃、私との体温差は31.9℃と29.1℃差な感じでもある。
キンキンに冷えた冷たいお茶が喉を通ることは美味しいものだ。

ということで、

今年も暑そうな夏を乗り切る為に魔法瓶ポットにいつでも湧き水のようなヒンヤリとしたお茶を詰める生活改善を行います。
電気を使用しない魔法瓶に冷たいお茶を保管するというアナログ方法ですが、ポットの中の冷たいお茶は心のオアシスのような冷たさであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月6日(土)
■回遊中。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月7日(日)
■一日一文章トレーニング。

「夏の暑さ対策第二弾、冷たい大根のスープ」

いやはや暑い夏です。
昨晩は寝ていても暑すぎて真夜中に目が覚めるものだ。
「暑い暑い」とクーラーリモコンを探ってスイッチをONにして、冷気が外に逃げないように窓を閉めにゾンビ歩きしながら再び眠りにつきます。
ニュースによると今日はとても暑い一日になるようである。
この暑さは今後、約4ヶ月(120日)以上居座ることも誰もが知っている未来でもあります。
明日からどんどんと涼しくなると予報はないもので、暑さを知っているならば暑さ対策も必要なものだ。
このような猛暑の中でも昔の人はクーラー無しで暮らしていたもので、それは恐らく「涼」を作り出す生活の知恵と共に生きていたと思われるものだ。
先日の柴垣、扇子、風鈴、日本庭園、方角なども最終的に「涼」を求める風の流れを求めているように思えるものだ。
なので、これから数ヶ月のテーマは「涼」であり、暑さを吹き飛ばすには何よりも「風」も必要なものだ。

ということで、

我が家の暑さ対策には大根の冷製スープを作って飲むことであります。
大根に無調整豆乳、少々の水、玉ねぎ、塩だけを加えてホットクックで煮込むだけ。(裏ごしらえなし)
それを冷蔵庫で冷やし晩ごはんに冷製のスープを飲むのが最近の我が家の食生活の定番でもある。
大根スープは熱くとも美味しいのですが、冷やして飲むのがこのような暑い時期には美味しいものだ。
素材がシンプルな分とても優しいお味で、それはお粥さんを食べているような夏バテ状態でお腹が空いてなくとも喉を冷たくスーッと通るようなビシソワーズでもあります。
※ビシソワーズは芋素材です。
大根と豆乳、玉ねぎ、塩だけで「美味しいね」と笑顔こぼれるビシソワーズなお味になることは不思議なことで、どこか不思議とおフランスなお味もするものだ。
冷蔵庫に保管していればご飯の時に入れるだけなので大変便利であり、また、晩ごはんに汁物1品が付くだけでもすこすキッチンテーブルも賑やかになるものだ。

大根スープは我が家ではメガヒットの大人気料理ですが、こんなにもヘビーローテションも続けば味変実験も行われるものである。
先日は大根スープにトマトを入れて赤いスープを作りました。
トマトが大根スープに入るとお粥のような優しかったスープが急にオレオレと自己主張の強い情熱的なスープに様変わりしてしまうものだ。
何かこれは違うということになって大根スープはやっぱり大根のみで良いものだという結論に至るものである。

しかし、料理への探究心とはなくなるものではありません。
昨日はほうれん草で色をつけてみようということで、ほうれん草入の大根のスープを作ってみました。
{写真参照}
ドス緑色なスープは魔女のスープのようでもあり怖いものだ。
味はややほうれん草の味もするもので普通に美味しいのですが、ただ見た目の食欲がそそらないスープであります。
大根の冷製スープはやっぱり白い色が良いという結論に至るものであります。

ただし、

ニンジン入りの大根スープはまだ作っていないものであります。
特徴あるニンジンの味の主張はどうなのでしょうか。
見た目もオレンジで食欲もそそりそうな色でもあります。
最近、生のニンジンをアメリカ人みたいにボリボリと食べるようになって目の疲れがなくなったものだ。
以前ならエルデンリングなどのゲームをすれば目もドライアイで目薬をささないと翌日までドッと眼精疲労する一日でもありましたが、生のニンジンを食べるようになってからはそのような目の疲れも感じないものである。
確実にニンジン農家の回し者ではありませんが、科学的にアスタキサンチン等の赤色色素を体に取り込めば目に効くような仕組みであるようだ。
以前、ブルーベリーなどが目に良いと聞いて食べていたこともありましたが、ブルーベリーの目の効果は全く感じないものではありますが生のニンジンをボリボリと食べることは美味しいか美味しくないかは別としても何か目に効いているような個人的な感覚はあるものだ。
幼少の自分に戻って伝えたいと思うことは「ニンジンはボリボリと生で食っとけ」との教えでもあります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月7日(日)
■おーおー七夕。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月8日(月)
■一日一文章トレーニング。

「暑すぎて何もやる気がしないものだ」

ニュースによると日本列島を蒸し暑くするのは南から吹き込む暖かく湿った風です。
風も吹き抜ければ涼風となり涼しくなりそうではあるものの、暑い空気を運ぶのも風であるものだ。
6月22日の静岡中心部が今年一番の35.5℃の猛暑日の最高気温を出しましたが、その暑くなる原因を調べたら南西方向から吹き込む暖かく湿った空気が高草山を越えてフェーン現象となったようであります。
※今年の暑さはもう塗り替えられているのかもしれません。
フェーン現象とは気流の流れが山にあたり、その風が山を越えて吹き下ろすと乾燥と気温上昇を起こす下降気流現象である。
因みに、高草山の標高は501メートルで山は静岡の都心部の南西方面にあり、この山を越えた暖かい空気が静岡に流れて気温上昇させた原因となったようである。
東京タワーが333メートルなので、それよりも高い山です。
そう言えば、高層ビルの近くを歩いていると頭もボサボサとなるすごいビル風もフェーン現象の一種なのかと思い調べたら、ビルの規模の建物ではフェーンは起こせないようでもあります。
都心で起こる現象はヒートアイランド現象で、最高気温を出す地域であれば関東平野内陸部が有名です。
この気温上昇は都心部で温められた暑さが熱帯夜となり玉突きのヒートアイランドな暑さとなって内陸部に流れて行き暑さが暑さを呼ぶ現象であります。
この暑さは足し算・積み木みたいなものである。
私の人生経験でも一番暑いと思った夏は岩槻市の農道で感じた暑さでもあります。
てくてくと道を歩きながら未体験な暑さに体が溶けるかもと思ったものである。
風が吹けば「涼」を得るかと思ったものの、風が吹いても暑くて、風が吹かなくとも暑いのが風で、風が「涼」の重要な要素と思うのも考えようであります。

とりあえず、南から暖かく湿った空気とは何度で何%ぐらいの湿度かと?調べたらよくわからないものであり、梅雨の前線の気温湿度が30℃・80%ぐらいで南洋から運ばれてくると考えると、そのような暖かく湿った空気の塊の正体が「暖かく湿った空気」なのかもしれません。
天気図を見れば梅雨前線は現在東北地方まで北上しています。

ところで、

夏日、猛暑日など様々な呼び方あり、それを整理してみました。

最高気温25℃以上 夏日 
最高気温30℃以上 真夏日
最高気温35℃以上 猛暑日
最高気温40℃以上 酷暑日

最高気温25℃以上の夏日はマイ室温の朝晩だと5月中旬ぐらいの温度で、真夏日の30℃は室温計測では未計測でもあります。
これは室温も30℃ぐらいまで上昇すればクーラーを入れて涼む室温でもあり、6月中旬ぐらいが真夏日な感じかもしれません。。
約1ヶ月かけて夏日から真夏日になったとかんがえれば、次は約1ヶ月の8月中旬にかけて真夏日から猛暑日の日々へと移行するような予感です???
※この計測は朝晩の室温湿度なので昼間が暑いのはしゃーないことであります。
猛暑日や酷暑日とは20年ぐらい前に設定された概念で昔は使われていなかったようであります。
ならば、昔は40℃を超えるような日はなかったのかと調べると、あるにはあるものの2000年代に入ってからの方が酷暑日は多い傾向にあるようです。
いやはや、このように暑いと頭もオーバーヒート気味で人の頭にもヒートシンクは必要なものであります。
そう考えるとカッパの頭にはお皿があっていつも涼し気なものだ。
昔の人もあまりにも暑すぎる夏に頭にきて、本当に頭にお皿を置いて涼んだ人もいるのかもしれません。
今、我が頭にもキンキンと冷えたアイス枕がのっているものだ。
そのような訳で私の頭はほとんどの暑さによって蝕まれております。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月8日(月)
■頭の上のうなぎ特急。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月9日(火)
■一日一文章トレーニング。

「オーバーヒートするオレたちはいつまでこんなことを続けるのかと思う”シシフォス”の岩であります」

「暑さ寒さも彼岸まで」です。
未来を予言するとなれば、お彼岸(9月19日〜25日の7日間)までぐらいは確実に暑いことは予測できます。
これは知っている未来でもあり未来を知っているならば、この暑さに対応する策もあるものだ。
これは体が暑さに慣れるのが先か、
暑さにも打ち勝つド根性を身につける必要があるのか(無理)、
暑さが過ぎるまで何もしないかでもある。
この数日、暑すぎて何も成していない自分には何の良いアイデアも生まれないので、クーラーもない昔の人たちはこのような暑い夏をどのように乗り越えていたのかと調べるものでもあります。
「猛暑」に関するような名言・格言は案外見つからないもので、「暑さを忘れて陰忘れる」という諺を見つけます。
これは暑い盛りに木陰に入って涼をとった感謝の気持ちも、暑さも過ぎ去り一段落した頃にはすっかりと陰の有り難みも事柄も忘れている意味でもある。
これは地位を得て立派になった人が昔の苦労や恩になった事柄を忘れることの例えのことでもあり、確かに、暑い暑いと頭の中が暑さ一色に染まったとしても涼しい風が一吹き吹けば、そのような日々のお世話になった涼をとる事柄は忘却の淵に追いやられているものであります。
ことわざとはこのような人生の生き方を戒めるものであり、今日の暑さを防ぐ方法を教えてくれるものではありません。
今回のような南から暖かく湿った空気は風となり列島に吹きつければ暑くもなります。
だからと言って風が吹かなくとも暑さは増し増しで積み重なって、風が吹くことを懇願するのもやはり人でもある。
また、北から涼風でも吹きつけば人は風見鶏のように風吹く方向に意識は持っていかれて暑かった風のこともすっかりと忘れてしまうものである。
全ての感情は「風とともに」とも言えるのかもしれなくて、風とは空気を動かす運動でもありながら動いても滞留しても人々の関心事の中心であることには変わりないものであります。

グラボも人の脳もよく似たものです。
あまりにも高温となると処理能力が落ちてしまうものであり、高温になるとファンが高速回転の送風し唸り声をあげてしまうところもそっくりだ。
そこで思い出されるのがギリシャ神話の「シシフォスの岩」の伝説であります。
神を欺いた罰によって王は丸い岩を山頂に運ぶ刑をうけ、せっせと山頂まで岩を運びます。
そして、その岩を山頂に置くと丸い岩はコロコロと山の下まで転がり落ちてしまう無駄骨のお話しでもあります。
終わりのない一日一文章トレーニングな苦行も、発熱するだけで無意味なものたちも、何かシシフォスの岩のように感じてしまうものである。
特に来る日も来る日も暑いこの暑さとはシシフォスの岩のような無駄骨感を感じさせるのに十分である。
この伝説の結末は知りませんが、まさか、王と言えども子供の落下玩具のように何の対策もなしに丸い岩を何度も持ち上げては落とすようなことはしないであろうと思うもので、王の2登目は岩が下界に転がり落ちないような仕組みがある予感。
山頂に窪んだ穴を掘って、岩が山頂から落ちない仕組みかもしれない。
そうすれば、2度目の滑落はないもので、めでたしめでたしでもあります。
しかし、頂上が固い岩盤であったらどうしょう。
大風が吹いている可能性もあるものだ。

岩とは山から自然と重力によって落ちてくることが自然なことであります。
そのような岩を抱えて山を登ること自体が本当に無駄なことでもある。
世の中にはこのようなシシフォスな岩のような無駄は溢れているとは思うものでもある。
だがしかし、暑すぎて何か目標さえ感じられない時にはただ無意味に山頂に岩を置くという行為でも救いのようにも思える時もあるものだ。

ということで、

シシフォスの岩の図を描きます。
安定したカタチの立派なお山に丸い石。
「ムムムっ」
富士のお山に太陽のようにも見えてシシフォスの岩とは何か不吉に感じるものでもあります。
なので、山に刻みを入れて岩が絶対に落ちないように加工しました。
ドヤリ

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月9日(火)
■うなぎ〜さん。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月10日(水)
■一日一文章トレーニング。

「いつでもどこでも作れる忍者文字の作り方」

架空の文化や言語を持つ国を創作する時に、架空の文字を考案することは面倒ごとでもあります。
いやいや、一般人にそのような架空の国を創作する機会はないものと思うかもしれませんが、私は小さい頃から架空の国で出来た世界地図を作っていたものであります。
なので、多くの人たちも同じような遊びをしていたと思うものでもある。
架空の国を作れば、架空の言葉も必要不可欠で中高生ぐらいになると明治の文豪たちがエスペラント語という中二病全開の新しい言語に熱を上げていたことを知り、架空の世界地図遊びや架空の文字作りとは子供たちの定番の遊びだと確信するものでもある。

一から言葉の文法を考えて言語の形状も考え架空の文字を考えることは大変な創作でもあります。
お前は適当なので適当な文字を書けると思われるかもしれませんが、適当に適当な文字を書くことはとても難しいことでもあります。
前にも書きました適当にやるということは適当には出来ない呆則である。
実際に私は忍者の秘密の言葉や謎の生物の不思議な会話言語をノートに記載してきたものでもあります。
そのようなノートは全部捨てられてしまって今や何も残らないものでもありますが、このようなものはネットに記載すれば記録として残る良い時代でもある。
架空の文字は適当に書いても見た目のバランスは悪く、適当に書いたとしても途中から疲れて平安貴族もびっくりのミミズ掘りとなるものだ。
そうなれば、文字は規則性に立ち返り真面目に架空の文字を書くことが一番の近道でもあります。
「あいうえお順」の秘密の虎の巻を作り、お友達に渡して誰も読めない謎の文字列で手紙を書くのであります。
当然、友はそのようなオレルールを無視して返答するものである。
これは正に背筋がぞぞりとするホラーでもある。
今風に当時の自分を置き換えると、SNSやチャットに誰にも判読できないような文字をアップしている危ない奴でありますが、ポケベルの暗号とか仲間内でしか通用しない言葉とは結構、皆誰しも持っているものと思うものである。
最近のSNS文化など見ると私なんかは皆、まともな日本語で真面目に文章を書いてスゴイものだと思うものだ。
私がこのSNS時代に子供ライフを送っていたならば、全部絵文字のみの忍者長文を書いたり、宇宙人に送信する暗号文のような記号のみを使って送信しているヤバんS化している可能性もあるものだ。
今でも嫌がらせの長文を書けるぐらいでもある。
SNSとはプロフィールや名詞みたいなところもあるので、お友達は誰もできないと思うものだ。
「〜ちゃんから変な暗号みたいな文字で書かれた手紙をもらった(草)」みたいな感じでSNSに手紙を晒されて、「ナドレが晒されてしまった」と絶望するのであります。

子供遊びでもなくとも、何かの物語を創作する時にも架空の国を想定すると、批判的な人たちからの防御線も引けるものである。
それは現実世界の鏡の向こうにある異空間の言葉であります。
ハンターハンターでも独自の架空文字がある。
スプラトゥーンでも何か読めそうで読めるかもしれない架空文字があるものだ。
架空の文字を書くことの利点は誰にもどのような文化にも気にもせずに自由に創作出来ることである。
そこで、今日の授業は「誰でも3分で作れる架空文字の作り方」講座であります。
例えば、先日の「柴」と「紫」の文字があるとすると「木」へんと「糸」へんの些細な違いでもある。
そのような「木」と「糸」を書き順ごとに文字を記載していくと上記のような仮想文字を作ることが出来ます。
写真を見ればわかるように、文字を足し算していくと「木と糸」と読むことが出来るものだ。
この呆則を利用すれば誰でも簡単に架空文字を作ることが可能であります。
これで#あなたは#いつでもどこでも#忍者文字#の使い手#であります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月10日(水)
■布から木でビリビリの雷神像。

*デスクトップ画面用の画像です。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月11日(木)
■一日一文章トレーニング。

「この番組はうめぼしJAPANプロジェクトの提供でお送りします」

今朝は窓を開けると雨もポツリポツリと涼しい風が部屋の中に入ってくるものであります。
なので、クーラーの起動もストップして窓を全開にして気持ち良い風を取り込みます。
部屋の中に充満したクーラーで冷やされた空気が窓の開放で外に流出したとしても、外から流れ込む風はそれ以上に気持ち良いものだ。
毎日暑くて窓を閉め切っていると空気もだんだんと淀んでくるものでもあります。
最近の猛暑でクーラーは7月6日からほぼノンストップで起動でもある。
暑く熱された外気とはできるだけ室内に取り込みたくない空気でもあるので、5日間ぐらいは新鮮な空気を部屋の中に取り込んでいなかった計算でもある。
海外文学だと物語の犯人は太陽が暑すぎた為に犯行に及んだ?なオチはあるもので、暑くて何もやる気にならない時のあのダメダメ感とは太陽が暑すぎて窓を閉め切った為の新鮮な空気を取り入れ出来ないプチ酸素不足ではなかろうかと思ったりもするものでもあります。
確かに、クーラーは花粉症対策で外気を取り入れない循環させるタイプであったような気もするので、暑くとも新鮮な空気を循環させる必要はあるのかもしれません。
今朝は暑さも一休みで新鮮な空気を吸いながらマイ頭も少しリフレッシュしているように思います。
冬の暖房のようにマイルームには新鮮な空気の換気が必要なようだ。

そして、写真の梅は今年の梅。
まるまるとした大玉で立派な梅であります。
赤紫蘇の染色が少し弱いような気もするのですが、これは天日に干すと赤味が立つように思うものだ。
若しくは今年は完熟梅の到来を待てずに青梅を購入したので、赤味の入りが少し悪いのかもしれません。
梅干しは容器にキレイに並べて実家に送って梅雨明け後に天日干してもらう予定です。
東京の街にも燦々と照らす猛暑な太陽はあるものの、陰を作らない庭で干す梅干しと東京の狭いベランダで干す梅干しでは赤味の発色が異なる不思議でもあります。
都内での梅干しの天日干しが理想的な環境ではないことは間違いないことであります。

下記は梅の36日間の製造工程です。

・R060605 南高梅の青梅(1039g・1280円)を購入。
赤紫蘇(276円)
・R060611 梅を塩漬けにする。
重量の18%の塩187gを投入して塩漬け。
・R060614 白梅酢が8割ぐらいまで上昇。
・R060616 100%フルに満たす白梅酢でストップします。
・R060620 仕込んでおいた赤紫蘇と去年の梅酢を加えます。
・R060710 梅を壺から取り出して梅干しの漬け工程終了です。

このような記録も「うめぼしJAPANプロジェクトノート」に記載しているので、すぐにわかるものであります。
そして、何よりもうめぼしの絵が良いものだ。
去年も載せたかな?まーいいや、来年も載せよう梅干しの絵であります。
ノートの最初の一枚目は何も書かない性格でもありますが、全くの空欄でもすこす寂しいのでプロジェクトの名を記載して梅干し作りのあれこれを忘れずにメモっております。
記憶とは本当に一年も経てばド忘れするもので、梅干し作りも数ヶ月もすれば忘れてしまうものであります。
よって、ノートにメモってあれば自分用の作り方が残って良いものである。
その都度ネットから探すことも良き便利さではありますが、自分用にカスタマイズされたノートには特別な価値があるものだ。
美味しい梅干しができるかな、わくわく。
外の空気もだんだんとムワッと暑くなってきました。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月11日(木)
■梅干し自販機くん。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月12日(金)
■一日一文章トレーニング。

「昨日、道で拾ったものをご紹介」

「堅い木は折れる」とは台風の後などに堅い木の枝は折れるという意味のこと。
この諺は平素強健な者は大病患って、ぽっくりと死んでしまう例えにも使われます。
「木強ければ折れやすい」「固いものは破れる」という言葉で使われることもある。
これの意味するところは一見、強固に安定的に見える組織や人は案外、壊れやすく折れやすいことの例えでもあります。
逆に、何か問題山積で常に些細な風によく揺れて、強固ではない柳のような人や組織は「柳に雪折れなし」とも言われるものでもある。
この意味は柔和なるものは、剛なるものよりも、よく堪て害を受けることも少ない例えでもある。
たわむことのない(柔軟性のない)飛行機の固い羽が風で折れてしまうことにも似ているもので、風という強い力と対峙する時の教訓のようにも読めます。

一昨日は窓をガタガタと揺らすような強風が吹き荒れて、道には種や枝などが落ちるものでもある。
昨日、私はくんくんと下を向きながら道を歩くもので、写真のようなものたちをゲットします。
それら以外にもイチョウのグリーンの銀杏の実や私のお眼鏡に叶わなかった実もたくさん落ちているもので、大風の吹いた次の日にはいろんな実や枝が落ちる呆則は間違いないものだ。

ヒマラヤスギの枝はとても背の高い木です。
手を伸ばそうにもヒマラヤスギの足裏にしか届かないような大木でもある。
おそらく、都内に生える大きな木の中でもベスト3に含まれると思われるこの大木の枝をゲットすることは大変難しいことで、そのような落ちたばかりの新鮮なヒマラヤスギの枝が道に落ちていたならば、それを拾って土に挿して育ててみたいと思うのが人の道でもあります。
土に挿してそれが根付けばラッキーでもあり、数年後には大木の元となるのかもしれないヒマラヤスギ原木の完成となります。
因みに、私はスギ花粉症の持ち主でもあるので、この文章を書きながら鼻がムズムズとクシュンと痒くなるものだ。
また、関係ないけれどもヒマラヤスギの先端は北の方角を指すことが多いので樹木の先端を見れば方角もわかる便利な木でもあります。

蜂の巣のようにも見える実は何の実なのでしょうか?
松ぼっくりの子供のようにも見えてかわい木の実であります。
そのような枝や木の実など探しながら歩いていると前から大きな声で歌を歌いながらこちらに向かって歩いてくる人がいるものだ。
私の危険センサーは道に落ちているものに気を取られてヤバみセンサーを作動していなかったものだ。
このままでは数十歩直進すればシャウトとすれ違ってしまう感じでもある。
ヤバいどうしよう。
早速、反対車線に渡ろうとかと思うものの車が走っており渡れないのだ。
「どうしょう、どうするGOするの?竹野内さん」であります。
すると、シャウトは道を右折してその辺の家に入ったようで「ぎりぎりセーフ」。
昨日一日で二人も歌を歌いながら歩く人を見かけましたが、もう一人はおじいちゃんでした。
カスレた弱い声で詩吟のような変わった歌を歌いながら歩いていたのですが、道に落ちた枝や木の実を拾う我に、大声で歌を歌いながら歩く人と、東京の街は都知事選挙の看板そのままに本当にカオスな体を表していると思うのであります。
なので、元からこのような感じなのではなかろうかと思ったりもするものだ。
私が道を歩きながら歌を歌うとすれば何の歌を歌うかと考えても何も思いつかない歌ではありますが、歌を歌いながら歩いている人の歌を聴いたとしても何の歌を歌っているのかわからない歌でもあります。
彼らは流行っている歌ではなくて自作の歌を歌いながら歩いている可能性が高いようにも思うもので、もしかしたら作曲中???なのではなかろうかと思ったりもするものだ???

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月12日(金)
■あなかしこ。

*デスクトップ画面用の画像です。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月13日(土)
■一日一文章トレーニング。

「果物の種を植えたら芽が出た」

毎朝の水やりをしていたならばサボテンの花が咲いているのを見つけます。
どうせ咲かせるならばもう少し花らしい花を咲かせて欲しいものでもありますが、サボテンのお花で検索するとサボテンからは結構まともでキレイな花が咲いているようであります。
我が家のサボテンたちは急にこのような不気味な触手のようなものを出してくるもので、それはなかなかに良いカタチもしているので本日の絵のモデルとなるものだ。
ベランダの植物たちとはこのように温かい夏の日差しを浴びながら元気良く育つものではありますが、このサボテンもほんの少しずつ大きくなっているようにも思えるものだ。
見た目にも一気にぐんぐんと成長するサボテンもあれば、このサボテンのようにミリ単位の成長しか見られないサボテンもあるもので、それはまるで自分自身のようでもあります。
成長とは目に見えてぐんぐんと大きく成長したいものですが、種類に素性、環境というものもありまして、このサボテンは去年まで小さな鉢の中で育ちバランスも悪く倒れてしまう感じでもあったので、この春新しい鉢に植え替えられて嬉しすぎて不気味な触手を出したのかもしれません。

奥に見える鉢は不死鳥の鉢です。
この鉢にはコバンソウの雑草を植えていたのですが、大繁殖して間引かれ天日干しされる不死鳥をかわいそうに思って鉢に置いていたならば、どんどんと根付いて不死鳥のドームとなったものであります。
ベランダの植物たちはほぼ放って置いても勝手に元気に育つ植物ではありますが、不死鳥だけは市場開拓に熱心で開拓地をどんどんと拡大していくものでもある。
なので、今朝もピンセットを使って他の鉢に生息域を広げる不死鳥の新芽をたくさん抜くものであります。
以前であれば三つ葉のクローバーなどが雑草の筆頭格であったものの、今や不死鳥を抜くことが草刈りの意味でもある。

そして、今朝のベランダには小鳥の小さな羽一枚とその周辺に不死鳥が3本落ちていたものだ。
迷探偵はこの不死鳥3本抜いたのは小鳥さんであると推理します。
確か、雨降る昨日の朝は1本しか落ちていなかったものであります。
今朝、再び小鳥がやって来て不死鳥をツンツンと抜き取っていったようにも思えるのだ。
その理由は事件現場に小鳥の羽がしっかりと残されているものであります。
事件現場には必ず証拠が残るという呆則はあるものなのかもしれない。
迷探偵はその羽の証拠品を拾い丁寧に石鹸でキレイに洗浄して確保するのであります。
大切な証拠品を洗浄しましたが、未知のバイ菌などが付着していたら大変なのでよく洗います。
3本の不死鳥はそっと鉢に上に戻しますが、不死鳥の真に恐ろしさとは土に植えなくとも、その内に何か根付くような生命力を持っているところであります。
また、周辺を見ると不死鳥の種のような葉っぱに付着する種みたいなものもバラバラと落としている繁殖力の強さもあります。
小鳥にはガンガンと不死鳥を食してもらい気はするものの、この種みたいなものをたくさん食べて糞となれば、不死鳥が遠く離れた場所でも大繁殖する可能性もあるものだ。
鳥ちゃんがちゃんと種を消化して不死鳥の如く生息域を広げないことを祈るばかりでありますが、鳩の鼠算に続き、不死鳥を食べた小鳥が不死鳥の如く生息域を広げる妄想も広がるものだ。

鳩の子供を狙う天敵カラスをパパラッチカメラで追い払い、
鳩が鼠算的に増えて、
鳩が増えた街は小鳥の楽園となり、
マスコミ出動、
腹を空かした小鳥はベランダの不死鳥の種が大好物となり、
その小鳥が遠くに飛び糞をして種を運び、
不死鳥が爆速に生息域を広げて、
それを聞きつけたマスコミが出動します。
「あっ」これは経済かもしれないものだ。

そして、手前の鉢に植えているものは種から出た新芽。
この鉢には食べて美味しかったフルーツの種と、拾った種を植えているのですが、こちらの鉢からも新芽が生えた。
その辺にある種を鉢植えに植えたならば本当に植物の芽が出てくることは感動でもあります。
今朝は2〜3センチの大きさに順調に育ち、何年か後には美味しいフルーツとして収穫できるのかもしれません。
ワクワク。
そして、十数年ぶりに突然芽を出した紅葉の木は背丈はそれ以上伸びませんが幹は確実に太くなるものだ。
今日はヒマラヤスギを土に植えて土に根付くことを祈るのものでもある。
ベランダに木陰が作れるような大きな植物が育てば理想的環境になるようにも思われて「拾いものには福がある」いやいや「残りものには福がある」でした。
また、勝手な妄想話を構築しそうになりましたが、もうすでに不死鳥話で暴走しているので時遅しでありました。
植物バンザイ、種を植えたら芽も出てバンザイであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月13日(土)
■りんご爺 Want to pay? now on sale.

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月16日(火)
■一日一文章トレーニング。

「素敵なサーフィンの夢をみた」

昨日は海の日の祝日です。
そのような海の景色を眺めながらサーフィンをする人たちを眺めます。
もちろん、100%夢の中のお話で実話ではありませんw。
遠いハワイのような異国の青い海を老若男女、たくさんの人たちが果敢に波に挑んでいます。
波に砕かれ、やっと波に乗れたと思ったら海にザブンと投げ出されて、砂浜にはたくさんの笑顔が溢れます。
ビーチには大勢の波乗りたちが輪となる場所もあるもので、そこにはプロのサーファーたちが子供や本格的な波の乗り手の大人にも波乗りのコツを伝授したり、質問に答えたりしているようでもあります。
サーファーにプロアマが存在しているのかは知りませんが、この世界ではプロもアマチュアも一緒に同じ波を乗りながら楽しんでいるようであります。
おじいちゃんから子供、プロまで楽しそうに同じ波に向かって波乗りしている素敵な絵でもあります。
波に乗る技術の差はあれども、波乗りの楽しさが万人共通の面白さであることは素晴らしいことでもあるものだ。
私はこのような波乗る人たちの笑顔と歓声の景色を眺めながら一般人に「一緒に波に乗ろうよ」と競技の面白さを伝えることの重要性を感じるものでもある。
これは皆で同じような波乗りの楽しさを共有しながら競技人口を増やして、裾野を広げる一環のようにも思うものだ。

波には何か人に行動を起させるようなムーブメントや時代の波も感じるもので、リアルとは全て波長で存在しているように、波とはとても重要なキーワードであると思うものだ。
そして、現実の世界では素人とプロの人たちが同じ土俵で楽しむことは私の周りでも全く想像できないことが重要でもある。
人とはぼんやりと生きているととやかく線引きして、何かと何かを分けたくなるものであります。
私なんかも「磨く人と磨かない人」と人間を2分割してしまうものだ。
しかし、そこには共通の波を楽しむという部分が欠落しているように思うものである。
磨く人と磨かない人であれば、鏡がいつもキレイで共通の快適さとは存在しているものでもある。
兎に角、異国の夢のビーチには老若男女、プロまで皆で同じ波を楽しむ素敵な世界が広がっていたのであります。

ということで、

夢で見る世界とは唐突にも唐突すぎてよくわからない世界ではあります。
ですが、そのような夢の世界でも「紫犬と紫漬け」のように現実の頭がそのように思い込んで解釈している事柄は夢の世界でも間違って「紫犬と紫漬け」との解釈で出てくることが面白いところでもある。
それは逆説的に考えると、いつも頭の中で考えていることが寝ながら頭の中で整理されて夢というカタチで出力されている証のようにも思うものだ。
なので、結局、夢の世界とはいえども、考えていること以上の事柄は夢の中でも創作されない理でもある。
夢は唐突であるようには見えますが、案外全く思考の端にもひっかからない夢は見ることは無いかもしれなくて、日常の延長線上の先に夢はあるのかもしれません。

すーむー

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月16日(火)
■〜〜大波〜〜

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月17日(水)
■一日一文章トレーニング。

「昨日は大雨に降られました」

昨日は雨の一番強い時に出歩いていたものであります。
出出しは傘もささないようなパラパラとした小雨で、途中からザザリと傘を打ちつける大雨と変わり、建物の中に入るとなぜか?小雨となる大雨でもある。
ネットの雨予報を見ることもなくポツポツと降る程度の雨で、私の野生の勘が普段持ち歩かない傘を持って出かけたことはナイスな救いでもあります。
途中から本格的な土砂降りの雨となり傘をさしていても上から下までずぶ濡れで、雨が降ると知っていれば乾燥の早いジャージ素材を着ていたのであります。
昨日はこのような大雨に降られると思っていなかったので一丁らのお洒落着も台無しである。

雨音を聞きながら歩いていると聞こえるのは傘に雨が叩きつける雨音のみ。
「ダダダダダー」と騒がしい音である。
そのような雨音も樹木で覆われた並木道を通れば、途端に傘にあたる雨音は「ボタボタ」と葉っぱから傘に落ちる小さな雨音に変化するものだ。
しかし、その変わりに鳴り響く雨音は桜並木の葉っぱに降り注ぐ「ザーザーザー」音。
そして、このザザ音もなかなかのMAXボリュームでうるさい音でもあります。
傘をさし、水溜りを避けて歩くぐらいしかすることがないもので、雨の匂いや音の違いを聞き分けしながら歩くだけの暇つぶし(アナログ)。
街中の雨音とは傘や車が走り抜けるお馴染みの音でありますが、木陰の下を歩くと雨音は傘の雨音を鎮めて、懐かしい葉っぱに降り注ぐザーザー音でもある。

そのような滝に打たれる修行僧のように雨水に打たれながら道を進んでいると、頭上から木の実が落ちて来た。
大雨が落とした落ちたてホヤホヤの木の実。
小さなY字の枝一本と直径8ミリ程の小さな木の実1粒が目の前にポトリと落ちた。
(写真参照)
これはもう拾うしかないものだ。
何の実なのでしょうか?美味しそうな実でもあります。
表面には産毛のようなものが生えて多少のモフ感もある。
私はそのような種をさり気なくポケットに仕舞い道を急ぐのであります。

そして、関係はありませんが写真の木の実の横に写るのが先日の不死鳥を引っこ抜いていた鳥の証拠品の羽も一緒に撮影します。
流石に種と羽だけでは写真も映えないので、いつも頭の重みで踏み潰されてペシャンコに寝ている猫の相棒も一緒にパシャリである。
種とは小さくて誰の目にも留まらないような小さなものでありますが、そのような小さな種が大きく育つ可能性もあるので未来の可能性がイッパイ詰まっているのが素晴らしい。
日々の行いが良いのか?悪いのか?大雨に降られたとしても戦利品も必ず持ち帰るド根性はあるものだ。

ところで、

大雨も降り注いでいれば通り抜ける街中の店舗はどこも閑古鳥が鳴いているものです。
内需中心であったこの国が政策的に外需中心の国へと舵を切り替えてきた感じが如実に表れているように思う瞬間でもあります。
このような大雨で出歩くのは観光客とずぶ濡れの鳩と私ぐらいなものだ。
電車内の暇つぶしとはほぼ100%スマホ対話で間違いないもので、それは今や店員の暇つぶしもスマホであることが多いものだ。
全く関係のない通りすがりの私が一瞬で周りの人々の行動を識別したとしてもそのような街中観察眼でもある。
とりあえず、ネットがないと何も話が始まらない世の中でもあり、暇つぶしの必需品とはデジタルなものだ。

昨日の波はアナログで、スマホの画面はデジタルです。
これらは同じように見た目でありますが明らかな相違点はあるものです。
本物の海で波と対峙すればうねりがあり、見えない水底の不安や恐怖は絶えずつきまとうものでもあります。
あの波に巻き込まれて水底に引っ張られたら怖いと思うことは普通なことでもある。
また、アナログ的な歯車が回って指を挟めば大怪我をする恐怖などもあるものだ。
アナログの波形の背後には絶えず何かしらの肉体的な痛みや怖さが潜んでいるようにも思うものだ。
これを皮膚感覚というものかもしれません。
この皮膚感覚とはデジタルと対面する時には感じないものであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月17日(水)
■睡眠。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月18日(木)
■一日一文章トレーニング。

「需要の漢字を見ていたらスゴイ意味が潜んでいるように思うものでごわす」

朝起きてクーラーで閉め切った窓を開けるとムワッとプールの匂いがするものだ。
このような匂いとは懐かしい記憶を思い出させるものでもあります。
半透明の浮き輪のビニールやビビットな半透明な蛍光色、夏休みの匂い?の感じ。
この匂いに特別な思い出はないものの、「窓を開けるとただ懐かしいプールの匂いがした」と言うだけの匂いでもあります。
この匂いとは黴の雨と言われて梅雨時期ならではの黴の匂いで間違いないようにも思うものだ。
プールの匂いも水の湿気と夏の暑さと混じり合っており、そのような匂いの巣窟でもあると考えても間違いないものである。
おそらく、海外からのツーリストも空港を降りると、そのような梅雨の黴匂い香りを感じるのかもしれません。
飛行場から一歩場外に出た時に感じるその国の匂いとは国民性や国民食にも匹敵するような特別な匂いの第一印象でもあります。
そのような匂いを記録する方法を知っていれば良いのですが、その術を知らない。
私にとってはプールの匂いであっても、隣人には別の何か異なる匂いかもしれなくて、絵を描くように絵の具のように香りと香りをブレンドしながら匂いを再現出来る方法があれば面白いものであります。
今のところ匂いについて記す方法は文章しかないものである。

ところで、雨です。

梅雨明けもいつになるのか気になりますが、昨日書いた外需内需の「需要」の字も雨の冠を持っていることを見つけて興味深く思うものだ。(本日梅雨明けた)
辞書を調べると「雨に濡れる」という「雨」の字と「而・ジ」という音が合わさった漢字でもあります。
而はあごひげを表す漢字でもあります。
個人的な見解だと梅干し容器の玉垂れ4本線模様も、この流れ落ちる而の滴りを表しているように思うものであります。
ここ最近、玉垂れの模様も模写しながらなぜ4本線であるのかと謎に少し近づいたようにも思うものである。

「而うして・然うして・しこうして」とは「そうして」の接続詞でもあります。
「しこうして・そうして」人々が求めて、買い手が購入しようと思う財の総量の総体のことを「需要」と呼ぶものである。
そして、需要には必ず欲求と共に代金を支払う意思と能力も必要なものだ。
例えば、先程書いたような香りを可視化して再現する香り道具に需要はあるか?と考えれば経済としての需要はないのように思うものである。
それは具体的に投資するような意思も能力もなく、テキトウに文章の中で香りについて思っていることを書くだけの、よくネットで見かける「あったら欲しい・・・買います(たぶん)」のアレであります。
実際に店頭でそのような香りの再現道具が売っていたとしても買わないような気もするものだ。
お客さんが欲しいというものは大体正しく需要があるものではありますが、本当に需要があるのか?の意思の見極めはとても難しいものであります。

直近の1月〜3月のGDPの成長率は実質で−0.7%、名目で−0.2%となります。
※前期比で!
国内総生産の名目でマイナスとなることは注目に値する部分のように思うのですが、高度成長時代のGDPは9%ぐらいであったようでもある。
内需が増えると輸入も増えて、外需が増えると輸出も増えて、GDPは輸出入の貿易の差額からも算出されるものでもあるのでGDPと外需内需の関係は深いものでもあります。
因みに、1950〜1970年代の高度成長期のオイルショック等の不景気も数々ありましたが内需も外需も両輪で経済も伸びていたような時期でもあるようだ。
外需と内需の両輪で回るとすればバランスというものが必要なような気もするものです。
両輪で回るコマのようなものを回転させたとしてもバランスが保たれなければ明後日の方に走り抜ける暴走車であります。
関係ないけれども、経済ニュースなどですごい売り上げの会社のスゴイ金額の数字を〜〜〜〜〜〜円ほどと「程」で表現する伝統芸を度々見かけるものではありますが、一般ピープルの私なんかから見れば「程」じゃなくて十二分にスゴイ金額であると思うものであります。
そういうのも何かバランスを保つ支点からズレているようにも思うもので、需要の漢字を一つ見たとしても、昔の人たちは需要の「需」に雨を降らして「要・かなめ」とするセンスと哲学をあわせ持つ良き香りを感じるものであります。
言葉を作るということは新しい概念を作ることと同義でもあります。
当然と言えば当然の「程」の中二ではありますが、長文もほどほどに締めとしもわす。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月18日(木)
■第二の考え方。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月19日(金)
■一日一文章トレーニング。

「バタリアン2のパッケから映画内容を想像します」

いやはや、今日も暑くなりそうです。

今朝はDVDのパッケージからイメージして物語の内容を想像していく遊びをしたいと思います。
我が家にはバタリアン2のDVDがありますが、この暑さでもあり、じっくりと座り映画を観るような気分にもなれないものでもあります。
また、ご飯を食べたらすぐにお寝むな時間帯でもあるもので映画を1本観ることは結構大変なことでもある。

ということで、

今朝やることはバタリアン2のパッケージから勝手にオレ流の物語を創作し、パッケージのイラストを見ただけで、オレは映画を見たと主張するヤバさでもある。
悪しからず。
これはどのような「倍速ラー」にも打ち勝ってしまう究極の超!!時短!!でもある。
バタリアン1はあのような話なのでバタリアン2も同じくあのような話となることは想像出来ます。
1作目が好評でめでたく続編を作られるとならば、1作目の内容を継投しなければファンの人たちをガッカリとさせてしまうものであろうし、逆に1作目と変わりばえのない話であれば、それはそれで面白みの少ない映画となってしまうような気もするものだ。
それだけ続編を面白くすることはとても難しいようにも思えるものでもあります。
これまた見たこともないし、観るハードルも高すぎるSAWシリーズは10作までも続編が作られる大作でもあるようだ。
写真から判断すると、「お仕置きだべ〜」とお仕置き部屋のお話のようでもある。
10話も続くことはとてもスゴイことでもあり長く続く続編研究家ならばSAWを観る必要がありますが、私は続編の研究家でもなければ、SAWシリーズの画像を見ただけでも痛ソウなので見ない分野の映画でもあるものだ。

とりあえず、バタリアン2のパッケージに描かれる絵は本編と全く関係ない話で間違いないと思われます。
バタリアンに雲のお化けは出てこないのである。
これは間違いないことだと思うものだ。
これはヤフー・ニュースなどにも似た現象であると思われます。
気楽に記事の画像やタイトル部分を見たいだけなのに、いくら記事を見ても、どう転がってもそのような話が出てこないホラーでもある。
リンクを押してもリンクを押せども写真は出てこなくて、何の収穫も得られずに広告を見せられるだけのクソニュースの予感でもある。
「本編にこのシーンは出てきません」との注釈も見える。
雲の顔が出てきたらm(_ _)mT!
「バタリアン」に「リ」を付けて「リバタリアン2」にしても面白いものである。
始めてリバタリアンの言葉を聞いた時に「???」とこの人は生粋のゾンビ好きなのかも?と思ったものでもあります。
リバタリアンとは新自由主義のことであり、日本のリバタリアン記事のほとんどは嘘と妄想で出来ているものでもあるので、この言葉にはリトマス試験紙のような有能な魔法の言葉でもあるものだ。

バタリアン2のパッケージには歯並びの悪い大きな雲のお化けと夕焼け空、墓場と不安げな空気に包まれる街が描かれております。
ふむふむ、我、バタリアン2を観終えた。
私の妄想で溢れるパケから想像するとバタリアン2の映画内容は下記のようになります。
【注意】私の中のバタリアン2のネタバレあり、興味ある人だけお読み下さい。

1)平和でいつもと変わらない田舎町。
2)夏休みの思い出に墓場に死体を見に行こうと4人の少年が丘の向こうの墓場に向かいます。
3)ロリポップロリポップ(米eキングの音楽)
4)同じく暇を持て余す不良たちも墓場の死体を見に行きます。
5)墓場の死体を巡って少年4人と不良たちが対立します。
6)少年が隠し持っていた銃を発砲して墓場の封印が解かれて亡霊が蘇ります。
7)墓に溢れる亡霊たち、子供たちは街に逃げます。
8)夕暮れとなり街に溢れる亡霊たち、逃げまどう人々。
9)偶然、亡霊に襲われている時に鏡と鏡で亡霊を封じ込める方法を発見します。
10)ついに、少年と不良たちは「自分のやったことは自分で尻を拭う」と協力しあって戦うことを決意します。
11)アメフトの防具をつけて、家の大きな鏡を剥ぎ取り、ライトと鏡と鏡のあわせ鏡で亡霊たちを封印します。
12)襲われる好きな女の子を助けてロマンスもあり。
14)ラスボスとの最終決戦では不良と子供たちは協力しあって無事に瓶の中に亡霊の親分を封印します。
15)エンドロール、しかし、知らないクソがきが封印の瓶を蹴って遊んでいます。
THE END
パッケージから判断すると、恐らく、このようなスタンド・バイ・ミー+ストレンジャー・シングスをかけ合わせたようなホラー映画となる予感です。
はぁ〜朝から1本映画を観てしまったものだ。
この文章を読んでしまった人たちも朝からB級映画のネタバレを観てしまったものであります。m(_ _)mt

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月19日(金)
■あー女神。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月20日(土)
■一日一文章トレーニング。

「そろそろと妄想のお話を打ち止めにしようと」

「しっかり湖底に仁王立ちして現実の柴漬けの美味しい話を真面目に書こうと思う」

「そのように思っていたら、やっぱり暑さに負けて爆走してしまい」

「足して5の呆則を打ち立ててしまう」

「そんな脳筋類人間科犬属のたわごと」

遠くのマンションの屋上にイキリ立つ鳩一羽。
そして、それを見上げてイキリ立つオレ様一匹。
毎日書くことなんて何もないぐらいに暑すぎる暑さでもあるので、話のタイトルも普通に5個ぐらいは立つものだ。

建物角っこの隅に立つ鳩の姿にはギリシャやローマの彫刻を見るような威厳や尊さを感じるものだ。
鳥が美しく見えるのは建物の屋上の隅っこだから素敵に見えるのかもしれません。
さて図を見て欲しい。
※四角いビルの隅っこに鳩が立っている図です。
どこからどのように見ても鳥の位置は絶妙に美しく感じるもので、これはイキリ立っても仕方がないものだ。
地面の下からそれを見上げる私から見てもその場所はこの辺りでも一番眺望も良く見えて、そこに立てば街の隅々から遠くまで眺めることが出来る場所であるものだ。
そして、風でも吹けば涼しくも快適であるように思うものだ。
昨日は少し歩いただけで玉のような汗が出てくるような猛暑でありました。
そして、今日も猛すでに暑い。
この暑さは脳みそやグラボも水没しないといけないような危険な暑さにもなっているものであります。
鳩とは雨にずぶ濡れで、猛暑の中でも直射日光を浴びているアホっぽさがありますが、高い建物の上で休んでいると何だか物思いにふけっている賢さもあるものだ。
ゲーム世界でも高所に立つとスースーヒヤヒヤとする私でもありますが、このような暑さであるとデカパンを晒すぐらの恥ずかしさでないとゾゾリッと涼しくならないものでもある。
ビルの端っこにでも立てば瞼もくらくらと平衡感覚を失ってしまうかもしれないヒンヤリ怖さではあるのですが、空を飛べる鳥にとってはベストポイントで間違いないようにも思うものだ。

もし仮に大きな建物も建てるような機会があれば、建物の四方端っこに鳥の造形物を飾りたいものであります。
日々バンバンと建つ建物の屋上に鳥の置物を置いたならば素敵な建物になるような予感です。
水鳥のデコイなど見ても何だか素敵で魅力的に見えるものだ。
それは完全なるフィギュア脳が作り出す建物かもしれません。
ですが、ヨーロッパ建築の上についているような鷹や鷲などのスゴイ鳥では無くとも、カラス、鳩、スズメ、抽象的で妄想の鳥?フクロウ?でもいいやとそれらを置くでけでも建物のアクセントになりそうな予感である。
建物に装飾が付くとゴテゴテと悪趣味で建物となって近代的ではないように思うものの、小さな鳥が建物の上のワンポイントが出来ると「鳥がいる」自然の素敵な感じになるのであります。(たぶん)
鳥の置物に昔ながらの鬼瓦ように魔除け効果はありませんが、カラスの置物であれば鳥避けにはなりそうでもある。
また、初めて訪れる人にとっても屋上に鳥のいる建物というキーワードがあれば見つけやすい建物なのかもしれません。
これは昨日の需要があるか?ないか?の話で言うと、100人いれば、ほぼ100人誰しもなりたい憧れのマンションのオーナーの欲求はあるものの、土地を持ち、それにお金を投資する意思や能力もあるような経済的な需要を満たすような人はほとんどいないのでもあります。

私達は地面に対して2次元でしか動けないような深海生物のような感じでもあります。
視覚は3次元に物事を識別することは可能ですが、移動・運動という意味に於いては常に地面対して2次元で表記できる動きでもあります。
中には、建物を3次元に動く時や浮遊する布のお化け、エスパーさんもいると思いますがw、ほとんどは2次元的に移動の動きで間違いないと思うのであります。
一方で鳩は3次元的に空間移動できる生物でもある。
目の位置は左右に付いており、あの目の配置だと3次元立体視は出来ないので2次元的な目線で間違いないと思います。
鳥は2次元に世の中を見て3次元的に移動し、我は3次元的に物事を見て2次元的に移動する。
つまり、常にゴーゴーの「5」なのであります。
何のことなのか?よくわからない???足して「5の呆則」です???

ということで、

海の中で3次元的に動く魚やイルカなども目線も2次元であるように思うものだ。
一方で海底を這いつくばり生活するカニやエビ、ヒラメやエイなどの生物は何か3次元的な立体視で物事を識別出来そうな目の配置にあるものだ。
平原をピョンピョンと3次元的な動きをする鹿や馬などの動物は2次元的な目線である。
移動と視線の足して5の呆則は結構あるのかもしれない。
なので、のろまな海底の生物と地上ののろまな人間の共通点はあるもので、我のような生き物は強い太陽光に非常に弱く地上を徘徊しているのであります。
そもそも、3次元的に動く生物が3次元と視覚から情報を得ると脳みそがパンク処理出来ないものかもしれません。
また、2次元的な視野の生き物は動くスピードも早いものである。
「あ〜雲よ」暑いので「太陽光を遮っておくれよプリーズ」であります。
曇っていた!

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月20日(土)
■例文
「この帽子はあなたの帽子ですか」
「いいえ、この帽子は今永の帽子です」
「本日のドジャースとレッドソックスの試合は熱かったですね」
「そうですね、ではまた明日」
 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月21日(日)
■一日一文章トレーニング。

「フクロウは3次元視野を持ち3次元運動が出来るようだ」

灼熱の空に「雲シルブプレ」と懇願していたら昨晩実際に大雨が降りました。
ピカピカゴロゴロ・ドッシャンと雷付きの大雨である。
結構な近場にも雷は落ちたような予感。
あまりの大きな雷音の為に褪せ人たちもさぞ驚いたことでありましょう。
私もPS5の電源を「そうっ」とオフにしてお風呂に入ったものである。
そのような稲妻も脳内を駆け抜ければ、ちょっとやっかいな問題にもぶち当たります。
それはフクロウの目が3次元立体視できそうな目をしていること。
フクロウの写真をまじまじと眺めながら奴らは絶対に3次元立体視できると確信するものだ。
他人や他の生き物の視線にハッキングできれば良いものの、そのような技術はないので想像するしかないものだ。
フクロウは空を3次元的に飛行し、且つ、目線の位置も立体視できるような位置に付いている事実。
「困った〜困ったのだー」である。
昨日の「5の呆則」は一日で破綻w。

フクロウのことを調べていると、西欧ではギリシャ神話のミネルヴァ(知恵の女神)の肩に止まっているのがフクロウであります。
ヨーロッパ行った時にも貴族のような服装の人の肩には確かにフクロウがいたものだ。
そのような姿に我も憧れて帰国後に肩にフクロウを乗せて共に人生を歩みたいと宣言するものの、よくよくと考えたならばリアルな背後霊のような鳥が1日中肩にフクロウが乗っていたらしんどいものである。
当然肩も凝り、ヒモの切れたタコのような性格でもあるので、堪えられない苦痛になるような予感でもある。
そして、そのような肩の上のフクロウとはAIさんにも似た部類の脳みその隣の知能でもあります。
せめて乗るのであれば真ん中の頭に乗って脳に直結してくれである。
我頭は止まり木となって、猛禽類の鋭い爪でリアルに頭から血を滴り落とす武者のような感じになるのかもしれません。
ヨーロッパの貴族とは本当に肩でフクロウなどを飼っている本当に不思議な人たちであります。
飼っている人に気品があれば、飼われるフクロウも正にギリシャ彫刻のような白くて気品ある鳥にも見えるものだ。
日本にも鳥貴族なんてお店もありますが、あの店もフクロウを肩に飼うような貴族経営かもしれないものだ。
飼っている人の品が飼われているアニマルの品にも伝播する呆則は確かに存在するものである。
私も近所のドバトなど観察するのではなくて、東京にも生息するという噂もあるミミズクやフクロウような生き物を観察したいものである。
因みに、日本ではフクロウは「不苦労」、「福郎」、「福老」と縁起が良い動物として知られています。
「苦労は買ってでもせよ」という諺もあるので、「苦労」を売り物とする「玄人」向けのマニアショップ「フクロウ」を出店すれば、苦労を欲しがる人たちで店は繁盛する予感です。(草)
販売商品は「スマホ・パソコン1週間没収で全て手書きの苦労5555円」「10円玉でタワーを積み上げるだけの苦労5555円」。
苦労はいくらでも簡単に生み出されるものと思うのですが、いざ商品オプションを考える苦労とはなかなかに難しいものである。
年老いてから福がやって来ることも、これまた素晴らしいものである。
福が常に身の回りにあることはとても素晴らしいものでもあるので、肩に乗っているフクロウが邪魔くさいなどの発想をしてはいけないものだ。
フクロウは3次元移動に加えて3次元立体視の只者ではない「足して6の呆則」でもある。
また、闇夜でも目が見えるチートでもあるようで、夜でも見える目は世の中を何でも全てを見通す目を持つとの考えもあるようだ。
首も自由にくるくる360度ぐらい回せるようでもあり、首が回らないことの正反対にあり縁起の塊の意味もある。
フクロウは尊く縁起の良い生き物であり知恵の象徴で神様でもある。
神様であるならば次元も高いことは当然なことだ。
今日こそ柴漬けの美味しさについて真面目に書こうと思っていたのですが結局また書けなかった漬物の運命であります。

ということで、

生き物の立体視する・しないの違いを探していたならば、これはもしかしたら平面性と流線型のカタチに由来する違いなのかもと思ったりもするものであります。

流線型→スピード重視→速くて活発な運動→2次元的な視野
平面型→スピード軽視→遅くてのろまな動き→3次元的な視野
※フクロウが高速スピードで活動していたならば草でm(_ _)mT。

見える世界の次元は動くスピードの速さや範囲に関係しているのかもしれません。
そして、呆算により「流線型+平面型=高次元な生き物のカタチ」となる格好良いカタチを見つけます。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月21日(日)
■例文
「梅干しを食べたのは誰ですか」
「私たちは知りません」
「口の中を見せてもらえませんか」
「いいえ、これ以上は今永事務所を通して下さい」
「わかりました」

 

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■2024年7月22日(月)
■一日一文章トレーニング。

「毎年やってくる蜂の話」

朝起きて植物への水やりをしていたら大きなミツバチが1匹ブンブンと飛ぶのであります。
888と結構怖い大きなミツバチ。
余程に冷たい水に飢えていたのか、水撒きが終わるとすぐに葉っぱの上に止まりてガブガブと齧りつくように水を飲みます。
正に英語で言うところのサースティーである。
サースティーという言葉は面白い言葉であります。
恐らく、英語を全く知らない子供でもノドが渇いている意味であると理解する言葉だと思うものだ。
なので、このような蜂の様子を見だけでも言葉を超越して伝わるものはあるものだ。

我が家のベランダには夏になると毎年一匹の蜂が植物への水撒きの水を飲みにやって来ます。
毎年同じ蜂がやって来るのかと思いて蜂の寿命を調べると蜂の寿命は約1〜2ヶ月らしい。
なので、毎年やって来る蜂は別の個体でもあるようだ。
それにしても毎年1匹だけでやって来ることはとても不思議なことでもあります。
蜂と言えば社会性ある昆虫でもあるので、常に集団活動をしているようにも思うものである。
蜂の巣とはうじゃうじゃと蜂密度も高い寝床でもあります。
なので、自分自身に置き換えると蜂は外に出た時ぐらいは一人一匹の時間を愉しんでいるのかもしれないと思うものでもあります。

集団でいると常に自分一人の時間が欲しくなるものでもあります。
チクタクと毎日の時間が無駄に過ぎていく原因が集団生活だと思うことは常々な感じでもある。
アレもしたい、コレもしたい、けれども集団生活の制約があると、アレもできない、コレもできない、の何も出来ない生活もあるものだ。
だからと言って、一人たっぷりの時間を得たとしても何も成さないのが人生でもあります。
その理由は暑いだの、何だのと屁理屈は何用にも思いつくものであり、蜂の短い夏を見ていると、ある言葉を見つけるものであります。

「明日ありと 思ふ心の (写実)
あだ(徒)桜 (事件)
夜半(よわ)に嵐の (心境)
吹かぬものかは」 (心境)
(by親鸞)

内容は、「明日もあると思う心は 無駄な桜でもあるように 夜半の嵐によって散っているのかもしれない」という歌であります。
明日をあてにしないで、今日ある命を大切に生きなさいという親鸞聖人のお言葉でもあるようだ。
いやはや耳が痛いものである。
一日一日大切に生きるとは正にその通りであるものの、猛暑であれば暑さのせいに、寒ければ寒さのせいでやる気が起こらなくて・・・気づいたら夜であったと、これもなかなかのホラー話でもあるものだ。
ならば、いつやるのでしょうか?「今でしょう」なのです。イタタ
「あだ」とは「徒」のことであり努力に対する結果が虚しいことの意味であります。
「徒為・とい(無駄なこと)」「徒役・とえき(無駄な官職や仕事のこと)」昔から無駄な仕事で草である「徒費・とひ(無駄の費用)」「徒歩」「徒労(むだぼねおり)」に「徒然・つれづれ」なんてものも「徒」の付く漢字であります。
「徒」とは本当に碌でもない言葉であるものだ。
我らのご先祖さまたちも如何に時間を無駄に過ごし、「徒事・とじ(無駄なこと)」に思い悩んできたことが伺いしれる言葉でもあります。
やっと、キレイに咲かした桜でも夜吹く大風でそのような努力も簡単に吹き飛ぶ無常観であります。
そのようなどうにもならない人生の機微を語り、今この瞬間を大切に生きなさいと言っているようにも思うものであります。
この句は親鸞7歳の時に詠ったとされる歌のようですが、7歳児とはせっせとアリの巣に水を流し込み、四股たまカナヘビを捕まえて家族を恐怖のどん底に落とすような子供生活であると思うもので、神格化するにも程があるようにも思うものだ。

ということで、

今日ある今を大切に時間を有効に生きていきたいものである。
888とブンブンブンと飛ぶ蜂を見てそのような人生の生き方もあるもので、そして、今日も自家製柴漬けの美味しい話を書けなかったのであります。

 

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■2024年7月22日(月)
■なっとうちゃん子C。

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■2024年7月23日(火)
■一日一文章トレーニング。

「大根の一番美味しい部分は大根の皮であります」

暑い毎日の夕食の癒やしは冷たい大根と豆乳のスープを飲むこと。
真夏日の地獄の湯葉作りで余った無調整豆乳をどのように活用しようかと思って生まれたスープであります。
ほぼ毎晩スープな汁物が1品夕食に出ると夕食のグレードも少し上昇するものでありますが、このスープは何より冷たくて優しいお味のスープなもんだ。
こんなにも優しいお味が世の中にあるのかと思うぐらいの優しさに満ちたお味でもあるもので、このスープの良さを書き出してみると下記のようになる。

1)大根味の優しい味で毎日飲んでも全く飽きのこないシンプルな味。
且つ、どこかフランス料理のビシソワーズを彷彿させるお上品さもある。
フランス語で言うと「ポタージュ・オ・ラディ(ダイコン)」と呼ぶのかもしれません。
ですが、西欧には大根は存在しないので日本特有の冷製スープのお味で間違いないものだ。
最近はスープにも改良も加えられてニンニクを少々入れることで味の裏に深みが広がったものだ。

2)作り置きの冷製スープなのでコップに注ぐだけの簡単な冷製スープを飲むことが出来ます。
毎日これだけ暑いと流石に食欲も減退するものだ。
そのようなお腹も空かない時であっても、冷たいスープはスイスイと胃袋の中に流れていくものである。
冷蔵庫に冷やしておけば、いつでも簡単に飲めるスープでもあるので大変美味しくて時短で便利な料理であります。

3)この冷製スープをベースにして、冷製パスタを作ったならば、これまた時短の美味しいパスタとなるものだ。
余った食材で少し濃い目の大根スープを作り、そのまま水でしめた冷製パスタにかけるだけで冷製スパゲッティの完成です。
味はまだまだ改良の余地はあるもので、もっと美味しくて冷たいスパゲッティになる予感。
豆乳、塩、水、大根、玉ねぎ、ニンニクと超シンプル材料を煮詰めて冷やすだけのお料理です。
これを土台にすれば何でもアレンジできるような出汁のような感じにもなりそうだ。

ということで、

頻繁に大根スープを作っていれば、大根の皮の廃棄物も出るものであります。
ポイポイ・ポイポイと大根の皮を捨てながら、「そう言えば大根の皮はとても美味しかった」ことを思い出すものだ。
以前、大根の漬物のたくわんを作っていた時にキレイな大根の皮も一緒に漬けてみたら大根の本体よりも大根の皮部分の方が美味しかったというオチの大発見でもある。
世の中に美食家は星の数程いると思われますが、大根本体部分よりも大根の皮の方が美味しいことを知っている人はあまりいないように思うものだ。
それは食べ物を隈なく最後まで食す貧乏性ならではの美味しさなのかもしれない。
何が美味しいのかと言うとサクサクとした硬めの歯ごたえが先ず美味しい。
そして程よく染み込んだ塩分の塩梅も美味しい。
白米がどんどん進むということは間違いなく美味しい食品で間違いないものだ。

そのような大根の皮はよく洗い、一口サイズに切り、同量の重さがぐらいの塩をかけてすり込んで数日漬けます。
お皿に大根の葉を並べ、塩をふり、ラップは大根と皿が密着するようにラッピングすれば大根の皮全体に塩分は浸透するものであります。
これは大体の適当で数日間。
目視で美味しそうに見えたら、たぶん完成の合図であります。
キレイに手を洗った握り拳でギュギュと握りつぶし水分を出せば完成で、この握り潰す時に冷たさは氷水に手をつけるような冷たさでもあって夏向きのイベントでもあります。
好きな食べ物が冷たい大根と豆乳のスープや大根の皮とかの安っぽいものばかりで困ったものだ。
そういえば、美味しい柴漬けについて書こうと思っていたのに今日も安定の脱線であります。
写真おにぎりの前に転がっているのが大根の皮。
端の青い部分も白い部分も美味しいのであります。
因みに、具は紅鮭で上に乗っているのが梅干し作りで出来た赤紫蘇であります。
全てを有効活用していて、おいしいのであります。うんま
今日の朝食。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月23日(火)
■いえーい。

*デスクトップ画面用の画像なんてない。
■2024年7月24日(水)
■一日一文章トレーニング。

「いやはや、暑いのであります」

暑さとは苦痛でもあり、不快でもある。
このような暑い時に頭に浮かぶ言葉はただ一つ「心頭を滅却すれば火もまた涼し」であります。
暑さ寒さとは気力なのかと思い心頭を滅却して気合を入れても、やっぱり暑さに一片の曇りもないものだ。

以前も書いたかもしれませんが、「心頭を滅却すれば火も亦(また)涼し」の言葉の由来を調べたら恵林寺の高僧が織田軍に追い詰められて焼死する間際に放った言葉でもあります。
恵林寺とは以前参拝したことのある山梨県のお寺でもあり、東京からだと中央線に乗って塩山駅で下車し人工ピラミッドのような塩山の山を横目に見ながらたくさん歩いたような記憶でもあります。
帰りは流石に歩くのがしんどかったのでタクシーに乗って駅まで帰りました。
このお寺は戦国武将の武田信玄の菩提寺であります。
武田家は織田信長によって滅ぼされて、その戦闘によってお寺の境内は赤い血の海で染まる殲滅戦となったようでもあります。
現在の恵林寺は徳川家康によって鎮魂を込めて再興されており、とても立派で素敵なお寺でもあります。

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」とは今も普通に日常会話でも使われる言葉ではありますが、言葉に歴史ありで、歴史に言葉ありでもあります。
そのような歴史的な背景を頭に入れながらこの句を読み解くと、この言葉が意味するものが暑い寒いなどの温度に耐えること以外の意味にも読めるものであります。
辞書によると【滅却】とは滅ぼし・消し去ることの意味であります。
マイ解釈ではありますが、「武田氏の心と頭が火で焼かれて滅んだとしても、その兵火とはまた涼し気なものだ」と言っているようにも読めるものだ。
そして、その言葉も戦火で燃えずに現在まで残っているものでもあります。
武田軍の赤鎧とは勇猛果敢な武田軍の象徴でもあり、武田氏滅亡後は彦根藩の井伊家の家臣として重用されて井伊の赤備えとなります。
そして、ひこにゃんも赤い鎧をかぶっているものであります。

恵林寺の写真は何かないのか?と探していたならば見つからないもので一つ前の携帯なのかもしれません。
そして、何より携帯の写真には碌な写真しか残っていないものだ。
ほぼ8割は一生見直さくとも何の支障もないゴミ写真であり、メモリー容量を家に例えるとゴミ屋敷のような感じでもある。
ルパン三世のゴエモンが「またつまらぬものを斬ってしまった」と言っていましたが、そのような感じでパシャパシャと無双撮りしています。
写真の絵をよく見るとムーミンのメモ帳の裏に書いているようであります。
恐らく、ナウシカの帽子をかぶっているのでアヒルを抱っこしているナウシカのポートレートだと思われます。
アヒルもパイプみたいで草。
ポートレートな響きのみが救いであるww
裏面の宇宙服を着た絵の方がまだ数倍かわいようにも思えて、なぜ?そちらを撮影せずにナウシカを撮ってしまったのか?と思うものでもあります。
世の中とは本当に不思議なものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月24日(水)
■なっとうネバネバの連鎖の呆則。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月25日(木)
■一日一文章トレーニング。

「価値は徒であり無限と思われてもやはり有限であり整理整頓という魔物から永遠に逃げられないのである」

リアル本棚の空間のキャパシティは有限です。
何かを得たら何かを捨てないと空間は永遠に埋まってしまう物理的法則でもある。
限られた本棚スペースには文庫本や単行本が横置きで前後2層の容量でぎっしりと埋まっています。
「もうこれ以上は収納出来ません」と本棚が「ひーひー」と唸るように、リアルな人間様も圧迫されて「ひーひー」と唸りを上げます。
積みプラ、積読でも積み重なったものを崩して手に取ることは一苦労でもある。
1個や2個のプラモデルの箱は些細な大きさではあるものの、10箱も並ぶと壁際に聳え立つ1本のタワーである。
積み重なったプラモデルは軽くてスカスカの軽い箱ではありますが、空間の容積を埋めるには十分な大きさを持っているものだ。
一方で積み重なった本というのも、小さいけれども積層するとボリュームがあるものだ。
2重に並んだ本棚の後ろの本とは人目にも全く触れることがなく、本当に必要なのかと考えれば、あまり必要性のない本でもある。
本のフィヨルドの谷間で私は仮面ライダーWの「お前の罪を数えろ」の叫びを確かに聞いたのである。byムンクw

仕事の倉庫整理で学んだことは在庫の箱は重ねて置くと永遠に漬物石となる予感。
店舗スペースと異なり在庫のスペースはモノをゆったりと置かないと効率性が悪くなるもので、理想を言えば、店舗の数倍の大きさの在庫スペースは欲しいものである。
店には目に見える部分だけでは測れない非効率なものも抱えているのであります。
そして、そのような棚の前などに少しの間だけ直置きで段ボールなどを置いておくと、その場所には次々と段ボールを呼びせて立派な段ボール置き場となるものだ。
棚の上の在庫を取り出そうと思っても、棚の前の箱をどけて動かしてと余計な工程が生まれるダメな倉庫へと変身するのである。

よって、

1)段ボールの床への直置きは絶対に禁止なのであります。
毎日良く回転するような商品でない限り、段ボールの重ね置きは絶対の禁止。

2)在庫棚の2重の重ね置きもNG。
棚の上の箱を「よっこいしょ」とどけてから在庫を取り出すのも、とっても面倒くさいのでこれも絶対の禁止なのであります。

大切なことはモノの重ね置きすると横着者をダメにします。

なぜ、このようなことを凸然!に考えはじめたのかと言うと、昨日のスマホの写真がゴミばかりであったからである。
物は整理するのにデジタルデータは整理しないのは不思議なものだ。
写真の8割はゴミ写真であると表現しましたが、それは家族や大切な思い出もあるので忖度ありの8割のゴミ。
ほとんどの写真は見返す必要のない写真でもあるものだ。
その辺の葉っぱや花、建物、風景、食べ物の写真もいろんな角度から熱心に撮っているものである。
「その写真は本当にいるのかい?」な女将さんでもある。
デジタルゴミ屋敷とは正鵠(せいこく)を得ているようにも思うものであります。
デジタルとはある時、私達の身体的・肉体的な経済の横に当然生まれた大きな経済圏です。
デジタルは物質な容量は持たないもので、いくら持っても物質的な容量は減少しないメリットもあるものだ。
しかし、デジタルデータも積み重なれば正にスタック状態ともなり、これが今や実体経済を押し下げるデジタル赤字として富が流出する元凶の一つでもあるようだ。
もし仮にこのデジタルゴミ屋敷にお金を支払っていると考えれば、毎日捨てるようなゴミにお金を支払っているようなものでもあります。
そして、そのようなデジタルデータを集積する帝国とは情報の再循環できなければ聳え立つゴミ屋敷の予感でもある。
完成した一つの情報に確かに「価値」はあるものだが、それは数々の間違いや誤字、凸然などの造語にカオスが詰まったものたちばかりでもある。
本当に価値ある情報とはほんの一握りであり、それは人に何かしらのインスパイアを与えることのできる情報である。
情報が人から人へ伝播することが価値を生み出すことの場合に、ほとんどの情報は「徒」かもしれないものであり、また、「徒」を否定すれば「価値」のみの世界となりて角が立つもので、反対に「徒」ばかり積み上げても本当に「価値」あるものかと自問自答するものでもあります。
SNSとは口コミ噂を広げる道具として開発されたものだと思いますが、日本の場合「つぶやき」という独自の進化も見られて、ブログだと日記としてその時々の思ったことを徒然なるままに記録するメディアでもあります。
物質的な容積を持たないデジタル情報でも「価値・徒(カチカチ)」と面倒でも整理してポイ捨てる必要はあるものだ。

すーむー
 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月25日(木)
■Y3のユニフォームもサッカーボールのデザインも格好良いな。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月26日(金)
■一日一文章トレーニング。

「生成されるデジタルゴミを数えてみた」

毎日作られる完成された絵や文章からどのくらいのデジタルゴミが作られているのかを調べると下記のようになります。
下記情報は7月25日のホームページ用のデータを作る為に作られて保存された容量の記録です。

・テキストログ×1
(8KB)

・文章データ×1
(19KB)
・文章用の写真JPG×1
(471KB)
・制作中のデータ×2
(4545KB+プロクリエイトデータ)
※プロクリエイトのデータ容量は不明で計算に入っていません。
計・5035KB

・モーション画像用のJPG×1
(400KB)
・モーション画像用のPNG×6
(883+864+887+864+883+867=5248KB)
・制作データ×4
(5042+5045+20562=30649KB+プロクリエイトデータ)
計・35897KB

合計・40940KB(約41MB)

というような感じ。
ホームページに記載する記事を作る為に、毎日約41メガバイトのデジタル情報が作られていることがわかります。
デジタルで生成される物とはワンプッシュで完成するものではなく、その制作工程は数々のプロセスを踏みながら作られ、毎日大体このくらいの数字のデジタルゴミが作られるのは間違いないようにも思うものだ。
41メガとはとても小さな容量でありますが、それらも塵も積もれば山となります。
これらのデータのほとんどは今後も見返すこともなく、ただデジタルデータとしてハードディスクにスタックされるだけでもあるので、ゴミデータでもある。
しかし、これら制作物にはどのようなプロセスを経て作られたのかを示すオリジナルを証明する全記録が保存されているものであり、デジタルゴミのようでもありながら、ゴミではない、真の漬物石のような著作物を証明する大切な保険でもあります。

なぜ?デジタルで作るものが一つの制作上のデータに保存されないのか?と言うと試行錯誤しながら作っているからでもあります。
デジタルとは面白いもので失敗したとしても簡単に過去に戻れて修正することは可能です。
今→過去という(今)に戻れる。
ですが、制作途中に分岐点があった場合に複数のデータで分けて保存しておかないと上書きされた過去に戻ることは出来ません。
その点、プロクリエイトには全記録のタイムプラス動画が保存されており大変便利なものだ。
高解像度から低解像度へ、発想の転換から分岐点へ谷間谷間で小まめに別名保存する必要はあります。

今のパソコンでは制作中のファイルが壊れることはほとんどありませんが、保存していないデータは壊れた時に全部消えます。
しかし、データの上書き保存で失ったレイヤー情報や解像度ももう戻れない過去のジレンマでもある。
一度失った情報は簡単に復元することは不可能で、最初のプレーンな情報から再制作する必要があるものだ。
それは今まで積み重ねて来た時間の消失を意味するもので、よって、ウィルスとかでも一番怖いと思われるものは片っ端から意味不明な情報を自動的に上書き保存していくような自動化はもっとも恐ろしいホラーなものである。
「上書き保存」とは過去の道を消してしまうとっても怖いことなのだ。

写真は昔のデジタルカメラのメモリーです。
8MBとか16MBとか現在の1日のホームページ制作の容量も満たさない量である。
この容量は流石にあまりにも小さすぎるのでカメラを買った時の付属のおまけかもしれません。
因みに、現在使用しているデジタルカメラのメモリースティックはマイクロSDXC?でとても小さくて128GBもあります。
これだけの容量があれば無駄に連射もしても本当に安心でゴミ写真もたくさん保存できます。
デフレと言えば、中国製品とメモリー価格と思うぐらいにメモリー価格が半分になれば無料になるかと思うぐらいにメモリー価格もどんどんと安くなっていったような気もするものだ
米国のトランプさんなどは安い中国製品に市場が駆逐される可能性があると考えれば高関税をかけて市場を守る意思を示すものではありますが、日本の政治家は大丈夫なのか?と思うぐらいの放置でもある。
そして、ここに来てほぼFREEのデジタル関連の赤字も累積上昇しているものだ。
昔の人とは無料とは怖いものと言ったものではありますが、無料による独占フェーズが終了すると価格決定権も持つものであります。
そして、ビックデータを得たとしてもほぼゴミ屋敷であったと言う仮説は正しいのかもしれないもので、メモリー価格の値下がりの歴史を振り返ると今の回転は逆回転のようにも見えるものだ。
なので、これからは逆張りなのかもしれません。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月26日(金)
■ピーピピピーロボット稼働中。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月27日(土)
■一日一文章トレーニング。

「昨日の話をもう少し深掘り」

昨日のHPデータを全体から俯瞰すると、6%のデータ量の結果を得る為に94%のデジタルゴミ(目に見えない努力の痕跡)を生成します。
6%の可視化部分を作ると94%のデータが人目にも触れない御蔵入りし、そのかかった時間もプロセスも全て完全に封印されます。
当たり前と言えば、当たり前のことではありますが、私にとっては大きな発見でもあるものだ。
恐らく、実体のないデジタルでも、現実のリアル生活であっても「価値と徒」(かちかち)の相関性は変わりないものであります。
デジタルデータの良いところはそれらを簡単に数字に変換できることであります。
それらが多いのか?少ないのか?わかりませんが、何かを作る為には絶えず何かのゴミを常に排出されることは大いなる呆則の一つであります。
ほとんどの人は私のように自分の努力を自分でアピールして数字に落とし込むような姑息なことはしないもので、また、他人の努力量とは100%のアウトオブ関心事でもあると思うので目に見えない活動の大きさとは全く人知れない神秘事でもあるものだ。

これら見えない努力とは努力したとも無駄な時間を消費したなどとも全く考えないものではありますが、実生活でも絶えず行われていることでもあります。
例えば、料理は作らない人にとれば食すだけの一瞬のご飯でありますが、料理を作る人にとれば作る為の長いストーリが存在するものであります。
食材を買いにお店に行き、偶然、変わった食材を見つけてインスピレーションは広がり、カットして不要な部分を捨てて、仕込む時間や手間のかかった長いエピソードが広がるものである。
また、部屋にある製品や机などを見ても結果として商品のカタチになったものを見ていることは結果としての6%を見ていることと同じことだ。
私達はその製品を単に使用するだけのことであり、製品が作られるまでの見えない膨大な時間や試行錯誤などのバックグラウンドなどは想像すら出来ないものでもあります。
「氷山の一角」などのお話もありますが、デジタルの数字を追うことで始めて94%の見えない努力を具体的に可視化出来るように感じるものだ。
私は常に結果しか見ていないものであり、その底に埋もれる数々の屍を見ていなかったことを気付いただけでも儲けものである。

ということで、

昨日のメモリの記憶容量と情報処理能力や通信帯域幅を拡大し、性能向上、大量生産を経て製造コストも減少し価格が安くなる「ムーアの法則」であります。
毎日のように耳にしたムーアの法則とは最近では全く聞かない死語でもある。
ムーアの法則とは一定期間で性能が2倍に向上する複合的な学習効果のことであり、メモリの性能が数年間でメガからギガそしてテラへと向上していく過程で1メガあたりのお値段もただ同然にお安くなる現象のことでもあります。
そして、最近はそのようなムーアの法則も微細化技術の物理的な限界、地政学リスク、パンデミック等の在宅需要や自動車や携帯5G需要の増加等によりムーアからアームへの反回転が起こったようでもある。
世の中の流れとはタイヤの回転のように常に一定方向の惰性で回っているように思うものではありますが、昨日気づいたのはタイヤの逆転回転でもあり、世の中の流れとは常に一方向のトレンドだけで動いているものではないものであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月27日(土)
■【悲報】「氷山の一角」の見えない下の部分は(−)と(+)であることが判明しました。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月28日(日)
■一日一文章トレーニング。

「久しぶりに光源氏の続きを書きます」

https://www.scos.gr.jp/useing2024l.html#R060519Genji

「末摘花(すえつむはな)」
源氏18〜19歳の春、故常陸宮の姫君の末摘花が荒れた屋敷でわびしく暮らしているとう噂を聞き、女性に対する嗅覚の鋭い光源氏は早速求愛を行います。
ある雪の日にお忍びで伺うと末摘花の姫君が赤鼻で風変わりの身なりでいるところを出会う。
お歳暮に非常識な物まで贈ってくる始末でもある。
光源氏はそのような末摘花の姫君に同情して何かと面倒を見ることにする。

「紅葉賀(もみじのが)」
源氏18〜19歳の秋、桐壺帝(きりつぼのみかど)は身籠った藤壺の為に舞楽の催しを行う。
藤壺はこの子の本当の親でもある光源氏が見事な踊りを舞っているのを見て不安を募らせます。
2月に藤壺は後の冷泉帝(れいぜいてい)となる男児を出産。
帝の藤壺に対する寵愛深く、藤壺は源氏の生写しのような子供の顔を見て戸惑う。
その頃、光源氏は源典侍(みなもとののりすけ)という老女と恋を楽しむ。
帝は生まれた子供を東宮とする為に藤壺を后とする。
皇后の位を先こされた弘徽殿女御(こうきでんにょうご)はご立腹となる。

「花宴」
源氏20歳の春、お花見の会が開かれます。
その宴が終わった夜更けに、あでやかな声で歌う朧月夜(おぼろづきよ)と出会う。
二人はすれ違いざまに恋に落ちる。
後に、光源氏は朧月夜が政敵の右大臣家の娘で弘徽殿女御の妹君であることを知り動揺する。
右大臣家の夜会に呼ばれた光源氏は御簾(みす)の向こうの姫君に歌を詠み、その返歌と声で朧月夜で間違いないと確信する。

「葵(あおい)」
源氏22〜23歳の春、桐壺帝が譲位し光源氏の兄である朱雀帝が即位する。
朱雀帝の母である弘徽殿女御と右大臣家の権力はますます強くなる。
賀茂神社の儀式に光源氏が行列すると聞いた光源氏の最初の妻、葵の上はご懐妊中であったものの女御にせがまれて出かける。
途中、光源氏への想いが強い六条御息所の牛車と下人たちが乱暴を起こす。
出産が近くなると御息所の生霊が葵の上を苦しめ、無事男児夕霧を生むものの葵の上は息を引き取る。
光源氏は愛情が薄かった葵の上を後悔して、次に、娘のようにかわいがり育ててきた藤壺そっくりの若紫(紫の上)との結婚を決める。
紫の上は動揺する。

「賢木(さかぎ)」
源氏23〜25の秋、六条御息所の娘が伊勢の斎宮となることが決まり、六条御息所は光源氏への想いは断ち切って伊勢に渡る。
生霊事件以来、光源氏との和歌を交わし別れを惜しむ。
桐壺院が崩御すると朱雀帝を後見する右大臣家の権勢は弱くなる。
藤壺は光源氏を頼みとするものの、恋心を断ち切る為に出家する。
光源氏は右大臣家の姫君の朧月夜と危険な逢瀬を楽しんでいたが、それが右大臣に露見し弘徽殿大后は激怒、光源氏の失脚を画策する。

「花散里」
源氏25歳の夏、かつて想いを交わした花散里を訪ね、花散里の姉、故桐壺院の女御の世を懐かしむ。

「須磨」
源氏26〜27歳の春、光源氏は右大臣家の画策を知って自ら須磨へと下る。
親しい人たちと別れの文を交わすが、紫の上との別れは心を曇らせます。
須磨の地は侘びしくて和歌や絵を描くなどして心紛らわします。
宰相の中将が訪ねてきて再会を喜ぶ。
源氏の流浪を聞いた明石の入道という人物が娘を光源氏に差し出そうと画策します。
須磨に嵐の予感。

「明石」
源氏27〜28歳の秋、須磨に嵐は続き光源氏の屋敷にも雷が落ちる。
光源氏の枕元に亡き桐壺院が現れてすぐにこの浦を出るように告げます。
翌朝、同じく夢を見た明石の入道一行も源氏を迎えにやって来て光源氏は明石に住むことになる。
その頃、都でも天変地異が続き右大臣家にも不幸は続きます。
弘徽殿大后は反対を押し切って光源氏の再召喚を決めて、光源氏はご懐妊した明石の君を残し京に戻り権大納言として政界復帰する。

「澪標(みおつくし)」
源氏28〜29歳の冬、光源氏帰京後冷泉帝が即位。
これによって右大臣家によって冷遇されていた人々が次々と政界復帰する。
春には明石の君にも女児が生まれ、占い師にると3人の子供たちが帝・后・太政大臣の位を得ると予言されていた光源氏はそれにふさわしくなるように教育する。
源氏は偶然に参拝した住吉大社で明石の君一行と出会う。
明石の君は光源氏の栄華に圧倒されて身分の差を思い知る。
六条御息所は伊勢の斎宮の行く末を光源氏に託してこの世を去る。

「蓬生(よもぎう)」
源氏28〜29歳、光源氏が須磨に行ったことにより後援を失った末摘花は困窮する。
偶然に通りかかった光源氏は末摘花のことを思い出し、末永く支援していくことを誓い自らの屋敷に彼女を引き取る。

というように、

光源氏にとっての春+秋とは情熱期でもあり自業自得の女難の相でもある。
そして、一年の半分の夏と冬は薄っぺらい短文で人道主義者のような振る舞いをする時期でもあります。

あ−しんど−(つづく)

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月28日(日)
■春ですね いやいや夏なのだ 光源氏に会うならば今がよし。by占い師

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月29日(月)
■一日一文章トレーニング。

「鳩が奏でるドレレ紫蘇漬けの歌」

毎年、隅田川花火大会が行われるこの時期が一番暑いような気がするものだ。
なので、今朝も植物たちにたっぷりの水をあげるのであります。
我がいなければ確実に死んでしまう生命でもある。
そのような生命の一端を預かるとなれば我、朝起きて一杯のお茶を飲めば植物たちもノドが乾いているだろうと思い水を与えるのだ。
また、我汗かいてお風呂に入れば植物たちも一日の汗を流す為にシャワーの水やりを行うのであります。
いやはや、もう大変。
毎日水やりで大変なのでラピュタ人の園芸管理ロボットは必需品でもあります。

そのような水やりをしていると頭の上からコッコロコッコロと鳩の声がするものだ。
見上げると電線に止まる鳩が1・2・3・4・5羽で鳩算すると「ドレレシソ」と読む楽譜でもある。
この鳩の楽譜はカラスの音楽家に送り届けて歌を作ってもらう必要があるものだ。
一羽の鳩がパタパタと羽ばたけば数羽も羽ばたき鳩の楽譜は生き物のように変幻自在でもある。
恐らく、そのような鳩の歌は「ザザザー」と言う朝の水やりから始まり、鳩が一羽二羽と電線に止まり、水やり人がカラスに伝令を送って、カラスが鳩を山に帰す良いお話でもある。

鳩たちは電線に止まって我の水やり姿を眺めるド変態でもある。
どうやら鳩は近所の古い民家を寝床としているようで、電柱に止まり住人の水やりを観察しているのであります。
実際に水やりしていると遠くのベランダの人とも目があって気まずくなることもあるものだ。
そのような時は浜辺の生き物のように「すーっ」と部屋の中に入ってカーテンを「シャー」と閉めるのであります。
すばやく「シャー」であります。
「まーまーまー」鳩に見られるのは人に見られるよりは100倍良いものとしても、先日、鳩の数を数えたならばダース(12羽)ぐらいも増えているような気もするものだ。
鳩の楽譜も手に入れて、その内に「24の瞳」になればピッチクロック監督の「鳩」映画も完成してしまう予感である。
カラスをパパラッチカメラで追い払った身でもあるので、これらはこれは再びカラスにお願して鳩を筑波山か高尾山まで追い返してもらいたいものである。
このような発想はどこかで見たカタチと思えば、光源氏が自分好みの妄想をカタチにして結婚してしまうようなド変態の呆則でもある。
これらは平安時代から脈々と続くこの日本列島に育む文化かもしれないものだ。

ということで柴漬けであります。

柴漬けは辞書にも記載されない単語でもあります。
これはチクワブが辞書に記載されないことと同じで、柴が柴なのか?紫なのか?それとも芝なのか?とはまだ金田一先生の監修がないので決着していないことでもある。(妄想です!)
なので、今年はしば漬けを平仮名を使って書きます。
7月4日に漬けた自家製しば漬けは7月14日に完成し、忘却の冷蔵庫で熟成されて、今はとっても美味しくなるものである。
試しに一つしば漬けを食べてみたら、このお味はしば漬けの味というよりもピクルスみたいなお味でもあるものだ。
ご飯にも当然美味しく進むお味ではありますが、ハンバーグなどの濃いめの兵ども料理にも程よく馴染むお漬物であります。
梅干しの酸っぱいお汁で漬けられているので、少し食べるだけでも「しょっぱい」お味であるものだ。
これは鳩算で表現すると「ドレレ紫蘇」であります。
この得体の知れない漬物を知らない人が食べると鳩も鳩鉄砲を食らったようなすっぱいクセありの食べ物でもあり、クセありな人だけに気に入ってもらえる自家製のしば漬けだと思うものだ。

(すーむー)

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月29日(月)
■あつい あついよ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月30日(火)
■一日一文章トレーニング。

「移動中に綿帽子を捕まえた」

いやはや暑いのです。
空気自体が暑いので風でも吹けばエアコンの室外機が出す熱風の風下に立つようなものである。
信号待ちにどこかのお店の室外機の熱風に当たると不快度もマックスにもなるものではありますが、昨日の風はどこにいても不快指数100%の室外機並の熱風が常に吹き付けるものであります。
カンカン照りの日差しに照らされて→当然暑く→風でも吹けば熱風となりて→我は干物道まっしぐらな予感でもある。
そして、本日は曇ってはいるものの暑い予報でもあります。
世の中の毛むくじゃらな犬たちはこの暑さでも皆元気に過ごしているのでしょうか?
体温を超えるような温度に晒されたとしても、まだ干物にならないのはこの強靭な肌を持つ奇跡なのかもしれません。
そして、いつまでもあると思うな親とピチ肌でもあります。
子供たちには絶対に伝えなければならない、私達の肌が過酷な環境を通過する度にミイラ化していく所以でもある。

このような暑さでもある為に、街歩きする人も少なくて出歩くのは海外からのツーリストと鳩と私ぐらいだ。
新時代の夏の風物詩なのか?この三者はいつでもどこでもいる柴犬のようでもあります。
ですが、流石の鳩も旅行者たちも私もこの暑さであれば公園の木陰に座りこんでぐったりとするものだ。
そして、あの鳩たちが久しぶりに賢さを見せているようで不忍池の一番涼しげな木陰ポイントを見つけて休んでいるものだ。
不忍池の気温は数度低くなるものであり、その風が吹き抜ける先の木陰には鳩たちの避暑地でもある。
鳩たちは自転車が通っても微動だにせず道路一面を占拠して、涼しい場所を絶対に動かない意思を感じるものだ。

そして、私は坂道をエッツラエッツラと登りながら先を急ぎます。
すると突然熱風が吹き抜けて草むらからたくさんの綿帽子が飛び上がります。
ふわふわとたくさんの綿帽子が道路一面に舞い上がりキレイなものだ。
このふわふわと舞う感じは陸上のクラゲのようでもあり、ナウシカの世界であれば不快な腐海を飲み込む猛毒の胞子のようでもある。
私は坂道を登りながら右手でその綿帽子の一つをキャッチするものだ。
当然、自転車は坂道途中で止まり、手を開くと写真の採れたての綿帽子をゲットするのである
落ちているものを拾うのも良いのですが、飛んでいる種をキャッチするの高度な拾いものである。
幼少の頃からの蚊撲滅運動で鍛えた瞬発力は健在でふわふわと飛ぶような綿帽子を捕まえるぐらいは容易いものだ。
綿帽子はキャッチした瞬間に棒状の種とふわふわとした綿帽子の2つに壊れて分割されます。
さっそく、それらはバックに入れたのですが移動中の風によりふわふわと浮遊してしまうものでポケットにねじ込みます。
綿帽子を観察すると繊毛が360度伸びており、微風でもふわふわと風を捕まえる高機能であります。
このような小さな風でもキャッチする仕組みは繊毛の先にもっと細い繊毛が植物の根っこのようについており、それがどんなに小さな風の揺らめきでも捉えるようである。
根っこが進化したのか?風を受け止める帆に進化するような仕組みは不思議なものである。
植物はやっぱり根っこのような形状の基本形のカタチがあることが面白い。
そして、今朝も私は植物たちに水やりをしながら、クーラーの室外機の吸引部に昨日捕まえた綿帽子と同じものが吸引されて付着するのを見つけます。
いつも見ている同じ風景でも綿帽子を捕まえる前と捕まえた後では見える景色は多少異なるものである。
認識さえしていないものは見えていないことは、とても不思議で面白いことであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月30日(火)
■毛むくじゃらを救済せよ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月31日(水)
■一日一文章トレーニング。

「夏休みの自由研究はなぜ?綿帽子が空を飛ぶのかであります」

なぜ?なぜ?と気になりますが、先ずは綿帽子であります。
綿帽子を辞書で調べると真綿を広げてふのりで固めたかぶりもののことであります。
江戸時代中期ぐらいまでは女性の防寒用のかぶりものであったらしく、その後、婚礼用の新婦のかぶりものとして進化したようだ。
私の場合はふわふわと空を舞うタンポポ系の植物の種のことを綿帽子と言っているので、婚礼用の帽子の名前は角隠しの方がしっくりとくるものであります。
角隠しの名前を始めて聞いた時にはなぜ?角隠しなのか?と気になるものではありますが、頭が大きくなるとデフォルメフィギュアのような可愛らしさになるもので、この可愛らしさは日本的な美意識のド真ん中にあるものだ。

ということで、

今年の夏の自由研究は花の綿帽子がなぜ飛ぶのかを調べます。
先ず綿帽子の都市伝説を書くと、綿帽子の種が耳の中に入ると耳が聴こえなくなる噂話はあるものだ。
タンポポの綿帽子を「ふぅー」と飛ばした後に、綿帽子が耳の中に入ると耳が聴こえなくなる噂話であります。
難聴とは嫌なものであり綿帽子を飛ばした後、子供たちは激しく頭を動かし、体を動かして綿帽子を体に近づけないようにするものであります。
この行動は今となって考えてみたら綿帽子を遠くに飛ばす為に複雑な風を起こしているようにも思うものである。
風が強く吹けば「ふぅー」と吹いた瞬間に綿帽子は遠くに向かって一直線であり、耳に綿帽子が入る心配もないもので体は動かしません。
逆に、風が全くない時に綿帽子を飛ばしたならば、綿帽子はふわふわと体の周りに滞留して耳に入らないように動くものでもあります。
こうした動きは風となり綿帽子は遠くに綿帽子を飛ばす推進力となるものでもあります。
子供たちの頭はもうすでに綿帽子によって寄生洗脳されているのかもしれないもので、植物からの声を聞いた不思議な子供がこのような噂を広めたのかもしれないものだ。\草/

綿帽子のネーミングはネット情報によると冠毛(かんもう)と呼ばれるふわふわとした部分と、痩果(そうか)と呼ばれている部分に分かれるものである。
冠毛と痩果を繋ぐ棒状の部分の名前は不明です。
冠毛には鳥の頭にある冠の毛の意味もありますが、植物の場合、果実の上部にある毛状の突起物の意味のことです。
これは“がく(花の一番下の外側にある花を保護する部分)”が変形したようでもある。
よって、痩果と呼ばれる種は名前の通りに果実でもあり、花も咲き、種もできると、その“がく”部分がむき出しとなり風で運ばれるようでもあります。

綿帽子がなぜ?飛ぶのか?それは1)推進力、2)揚力、3)抵抗力、4)重力の4つの力が関係しているようである。
この4つは物体が空を飛ぶ為に必要な要素となります。
綿帽子には推進力はありませんが、その変わりに風まかせの力を得る為にとても軽量化されているものであります。
因みに綿帽子には何本枝葉があるのかと思い虫眼鏡を覗いていたならば、マイ微風の鼻息でもふわふわと動いて数えられたものであります。
綿帽子はとても軽い素材で出来ており、外部の力を容易く受け止めてそれを推進力を得るように設計されています。

この軽い冠毛が大きく広がると実際の質量よりも大きな表面積を得ることが出来ます。
この綿帽子の場合だと縦横6センチぐらいの幅のピンポン玉ぐらいの大きさにも見えるもので、表面積が大きくなると抵抗力も増えてより大きな揚力を生むことが可能です。
揚力を得ることができれば、より高く空を飛び遠くに種を飛ばすことが出来るのであります。
揚力は移動方向に垂直に働く力であります。
重力が地面に押し付ける力だとしたら反作用して上空へと登る力でもある。
移動する物体が風の流体の流れに当たれば抵抗が生まれ、流体の流れも変化して揚力を生むことになります。
飛行機の場合だと速度の2乗に比例して揚力は生まれるようではありますが、推進力がなければ物体は飛ぶことは出来ず、抵抗がなくとも物は空を飛ぶことはありません。
また、抵抗が大きすぎても飛ばなくて、流体が流れる迎え角度が大きすぎても失速減少を起こす揚力の計算はとても複雑なようであります。

植物の花の外側にあって花のガードしていた根っこのようなデザインの“がく”が露出するとふわふわな冠毛となり、丸くて大きな表面積を持つと風の推進力によって抵抗と揚力で空高く舞い上がって遠くに種を飛ばすという凄いシステムでもあるものだ。
自然が作り出す仕組みとは神秘で本当にスゴイものであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年7月31日(水)
■走れワン丸の風洞実験。