■2026年9月2日(水)
■一日一文章トレーニング。

「落ち着かないだったんなそばのお茶に、美味しすぎるお野菜」

茶の迷人会は今、国産のそばの実を使った「だったんそば茶」にはまっている。
不織布のお茶パックにたっぷりのそばの実を入れて熱いお湯を注ぎ、そっと蓋をしてからお茶を嗜む。
お茶に流儀はなく、蓋をして煮出している内にお茶のことも忘れてあれこれと気付いたならば飲み頃だ。
そば茶とはそばの風味が良いもので、その香りを楽しむのであればたっぷりとそばの実を入れて抽出したい。
なので、いつもそばの実を少し多めに投入してから湯を注ぐ。
蕎麦は江戸町民の定番食でもあり、暑い時には蕎麦をすすりて「てやんでぇ~」と荒っぽい気性も蕎麦湯を飲めばホッと一息つく。
そして、そばのお茶を飲んだとしてもやっぱり韃靼な香りが鼻を通るもので、これもまた「心も落ち着くござれ」と江戸情緒である。
そばのお茶とは”見付け”て飲むもので、暑い寒いと地口(じくち)な一杯な酒の”気付け”のようなお茶でもある。
だったんそば茶の韃靼(だったん)とは何かと調べるとモンゴルの一部族のタタール人の中国称のようで、そのタタール人が好んで食べた蕎麦のことを韃靼そばと言うようだ。
この鼻を通るそばの風味は江戸っ子にとっては異国ダッタンな香りだったのであろうかと思うと、そばはズズズと賑やかにすすり急ぎ立ちてだったんと食すような和風な蕎麦である。
だったんそばに異国の香りがするのかどうかはわかりませんが、だったんと騒がしき何かはある。
お茶は紅茶やチャイのような本当のエキゾチックな風味もあり千差万別な香りや味もあるもので、モンゴルのお茶と言えば、私の中ではヤギや羊などの家畜のミルクティーやバター茶のようなイメージですが、勿論飲んだことは無いので未知数である。
そば茶は天然のルチンが豊富で健康にも良さげなようですが、ここでは純粋にお茶を楽しむので割愛する。
そして、そのようなお茶を飲んだ後のパー(葉)はどうするのか?と考えたならば鉢植えに撒き、ごみ箱に捨てたりですが、昨晩は白いご飯にもち麦雑穀を混ぜ合わせて炊く。
たっぷりお野菜に砂肝をよく炒めて食すれば雑穀飯も進む・進むもので、だったんとあっという間にお茶碗のご飯もおかずのお皿も空となる。
お茶を飲んで、茶殻も食べて無駄の無いご馳走である。
そして、写真のお野菜は今回も「よっこらせ」と新幹線にたっぷりお野菜を詰め込み帰宅するもので、筒菜に万願寺ししとう、いんげん、オクラと野菜尽くしの持ち帰った戦利品だ。
生きたお野菜を運んで移動する手間は大変ですが、普段と違う場所の新鮮お野菜は抱えてでも持ち帰りたい。
夏のお野菜とはすぐに傷むもので、大切に少しづつ食べることも大切ですが、早めに美味しく食べることもまたこれ大切な事なり。
筒菜とは空芯菜のこと。
洗面器に水を溜めて筒菜をじゃぶじゃぶとよく洗い、最近、葉もののお野菜は洗面器で洗うに限る。
洗面所のプールで3回ほど溜めては流して洗えばゴミも土も可視化されて流されるもので、私も大変満足だ。
勿論、農薬などもキレイさっぱりと落ちているだろうし、移動でくたれた野菜もたっぷりの水に浸かれば何だかシャッキリと背筋も立つ。
そして、新鮮なお野菜を齧れば「野菜は生きているなー」と思うし、そんな野菜を食べる自分も「生きているなー」と思うもので、目をくりくりと見開いて「ん~~美味しいー美味しいー」と食べる幸せである。
目が開くような食べ物や、目が細まるような美味しいものも確かにあるものかな?で、本当に「目は口ほどにものを言う」ものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年9月2日(水)
■いのししのお山においでやす。
■2026年9月3日(木)
■一日一文章トレーニング。

「気付けの図を書いていたならば気運と機運の使い分け方がわかったような気もする」

昨日「気付け」なる言葉を書いていて、最近「気付け」なる事柄をやっていないなーと思う。
気付けとは何か行動する前の景気付けのことで、何も行動しなくとも景気付けにドカンッと花火を打ち上げるように決起するものだ。
個人だとお酒を飲んで気付けとなり、経済レベルでは景気付けと公共投資や減税、給付金などの政策によって気付けとなる。

さっそく、辞書の【気付け】を調べると下記のようになる。
・元気を付けること。
・気を失ったものの息を吹き返らせること。
「さあーやるぞ」と活力のスイッチを入れる時の気付けであり、ガックリと元気のない時にも「がんばれー」と背中を押すような気付けだ。
いつ何時でも「気」とは人から人への内面から内面へと送るもので、また、モノや人から人へと受け取るような双方向なやり取りである。
大勢の人が闊歩する街を歩けば、ほぼ人と人とは繋がらずに通りすぎるものですが、ひとたびお店や友人、何か用事で人と対話すれば目に見えない「言葉」や、目に見える「モノ」「お金」などを交換するものである。
そのような中身の見えないやり取りに「気」というか「雰囲気」はあるように思う。
誰かと親しくなると自分の何かを分け与えて、自分も何かを分けてもらいと繋がりとはそのようなものだ。
一方的に搾取することとは健全な繋がりではない。
心霊動画などを見ていても悪い気の怖い場所で何かを得ようとすれば、その人は闇に対して何の対価を分け与えているかと気になる。
何かと何かが繋がれば鋼の錬金術師ではありませんが等価交換のようにギブ&テイクな何かの事柄は絶えず発生しているようにも思う。

そもそも、「気」とは何かと調べると旧字体は「氣」のこと。
これはお米を炊く時にのぼる湯気のことを指すもので、文字通りに読み解くとお米から沸き立つ蒸気のことだ。
生命の糧から沸き立つオーラーというか内面から吹き出す「気」を表すもので、気合い、気分、気まぐれ、勇気、気持ち、湿気、排気、気色悪さと内面から沸き立つ気である。
日本語には「気」を含む文字は大変多いもので日本人と「気」とは切り離せない。
「気」とはどこか曖昧で掴みどころもなく煙のようなもので、人ならぬ動物、場所やモノ、石や自然からも発せられるもので、A面では無い見えない裏面なB面を感じ取ることが日本的でもある。
そのような意味に於いては、私たちとは「気」を感じ取ることのできる「気の人々」でもあり、おそらく、私の直感ですが外国人にはこのような「気」を見たり感じたりすることが少し難しい部分もあるような気もする。
さて、どうなのでしょうかと、これが蒸気のように見えない「気」のことである。

一方で「機運」と機会や機能と機械的な「機」もあり、これが目に見える物理的な「機」である。
「きうん」には定番で気になる「気運」と「機運」の2通りの言葉があり、これらはほぼ同じような意味で使い分けも難しい。
・気運はなるべくしてそのようになる時世のなりゆきな運命なこと。
・機運はチャンスや時の巡り合わせのような運命のこと。
※気運は運気と引っくり返して読むこともありますが運気と読むとまた感じ方も少し変わる。
そして、私は「気付け」なる内なる蒸気を図にしていたならば、何となくその概念の使い分け方が分かったような気もするので、そのことについて書く。
それはどちらも同じ時の流れの運命的に起こる出来事を意味しますが、私の考えでは「気運」は内なる見えない「気」が熱されてのぼる感じで、これは自分の中でいろんな事柄を糧にして育ぐくみ変化可能な能動的な運命のことのようにも思う。
「機運」は外から見える認識出来るもので、それは常に受け取る受動的な運命のこと。
「気運」は内側から発せられる蒸気のような見えない運命で、「機運」は外側からやって来る目に見える運命である。
間違っていたら御免候。m(_ _)mT

それにしても、気運と機運、気付けの意味を整理していたならば、なかなかに達筆で上手な書が書けた。
これは文字と文字を繋げるように書いているもので、これもまた気の繋がりであ~る。

 

■2026年9月3日(木)
■PS5とAIラジオ。
■2026年9月4日(金)
■一日一文章トレーニング。

「文字と文字を繫げて書きたい」

「ぜーぜー」と汗を滲ませながら同じ書を4枚も書いた。
そして、一番上手に書けたものが写真の書だ。
書けば書くほど何が良いのか全くわからなくなるもので、何だかよくわからないのですがこれでよしとする。
文字を書き始めた頃の私はミミズの掘ったような文字を書くもので、今回の字もまたミミズ風だ。
最初はしっかりと書くものの後半ににょろにょろとミミズが表れ出てニョロとなる。
このような文字はお箸の持ち方や数字の0を下から上に書くようにと矯正されるのと同じくクセは変わらず。
他の子らと握力が違ったのか、力一杯にノートに書くもので黒鉛でノートは真っ黒、手の裏側も真っ黒となりてHB鉛筆を使うように言われる。
「Bか2B推奨だったけ?」かの学校規定の「HBはずるーい」とか言われながらも「いやいや、何がずるいのか」とHB鉛筆を使う。
子供の頃の字とは小さな文字でぎっしりと賢そうな文字を書く子や、とても薄薄な蚊が飛ぶような文字を書く人に、上手な丸文字書く人もいれば、私は力力とみみず汚字だ。
そのように思い返すと子供の頃の字とは千差万別で、特に中学時代になるといろんな字風が花咲く書体の宝庫で、そのような字体が失われることは何だか勿体ない。
文字は一文一句丁寧にしっかりと書いては止まりハネてと注意されるもので「文字なんて読めたらいいのだ」と屁理屈御託を並べ、そして、「このような変わった字は大人になってから書きなさい」と言われた記憶もあって、昨日の筆ペンで文字を繋げ書きながらそのようなことを思い出す。

今は大人なので、もう文字の書体とは自由だ。
しかし、大人になって独自の書体を書こうと思う変わり者もまたいない。
大人になってから・・・いた!w

精一杯の集中力を持って書いた文字はどこか味はない。
下手な最初の字の方が味はあるものの下手すぎる。
文字はもっとひょろひょろと崩して書くのが良いかもで、ヒゲっぽい細い線好きでは無いので、もっとミミズを極めたい。
古文書などを調べたら「か」や「う」などが達筆すぎて識別不能ですが、昔の人の文章もどこか上から下へと文字を繋げて流れる川のように書きたい気持ちは伝わる。

文字と文字を繋げることで難しいことは漢字とカタカナの扱い。
ひらがなは文字と文字をくっつけるのは簡単ですが、漢字やカタカナは文字を書くごとに途切れて難しい。
漢字は文字の最後で必ず止まり、上にハネルと下の文字と繋げることは困難だ。
カタカナもまたスーッと横に伸びてスマートな直線的な感じも何だか下の文字と接続し難い。
そこで我も考えた。
接続しない文字終わりの始末にはフの字のように強引に戻って繋げる方法や、ハネや文字の伸びは下の文字を微妙に重なるか重ならいぐらいに書けば接続するような一連の流れも生まれるような気もする。
そうすると、何だか前よりは繋がったように思うのですが、書けば書く程に何だかよくわからなくない字だ。
私はもうさっぱりわからん。

文字と文字を繫いで面白く思ったことはひらがなが繋ぎやすいこと。
会話でも、書けない漢字でも何でもひらがにすれば何とか前後の繋がりは保てるもので、それは文章にしてもやっぱり文字と文字は繋がりやすい。
平安時代のように全部ひらがなで書けばすらすらと流れるように繋がるものですが、漢字やカタカナを混ぜて現代風に繋げたい。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年9月4日(金)
■ミミズが這ったような文字。
■2026年9月7日(月)
■一日一文章トレーニング。

「加茂なすと呼ばれるユニバースを調理する」

ソフトボールのような“加茂なす”を手に持てば漆黒の紫の闇に黄色い輝く線や点がまるで銀河のようだ。
私はついに宇宙を手にしても~うたと茄子を真上にポンポンと1投2投と投げながら考える。
「さて、この茄子はどのように調理するべきか」
普通の茄子のように焼いても“加茂なす”の特徴を活かせない。
だからと言って、高級料亭みたく中身の茄子をほじくって雅な器にしてから中にあれこれ詰めて食することも乙ですが、家庭料理では勿体ない。
茄子は秋茄子として食べたいもので見た目の貫禄も残したままに調理したい。
「どうするべきか」の茄子は宙を舞い、手の平をすべり落ちて「おっとっと」とお膝でキャッチして難を逃れる。
食べ物は宇宙云々かと言っている場合ではなく大切に扱わなければならない。
宇宙は我が手によって守られたもので、そう言えば、この茄子の表面を彩る黄色く輝く線や点は惑星の地表を灯す夜の輝きにも見える。
ローストビーフが暗闇を照らす灯火とすれば、“賀茂なす”もまた惑星の闇を照らす灯火だ。
なので、このお野菜はお肉のような舞台の主役として調理したい。
京都のお野菜とは変わったカタチの野菜が多いもので聖護院大根や聖護院かぶ、万願寺唐辛子なども何だか変わった見た目をしている。
どれもずんぐりと、でっかくて、肉様を押し退けても不思議ではない主役級の貫禄だ。
土壌に何らかの秘密があるのか、文化を大切にする京都人の性質が産み出すお野菜なのか、そもそも品種が違うものでもあり、お野菜でも主役級のお野菜を食べればお腹もどしんと「食ったー食ったー」との満腹感だ。
そう言えば、お正月に食べた聖護院大根の茎から育てて採取した種はそろそろ種の植え時でもあり、昨日のどさくさの雨に紛れて雑草生えた鉢の隙間に3種を植えた。
「さぁ芽吹くのか」どうかのお楽しみですが、芽が出たならば大きな鉢に植え替える必要もあり、巨大な聖護院が育つような大きな鉢は我が家には無い。

“加茂なす”はザックザックと大きく分厚く輪切りにしてカットする。
3センチの厚切りに切れば大きくて茄子の存在感もありますが、火が上手く通るかも不安なので一応身に十字の切れ目を入れて火通りをよくしてから焼く。
そして、たっぷりと油をひいた弱火のフライパンでゆっくりと焼き、茄子に焼き目もつけば引っくり返して秋の風情だ。
一方の茄子はとろとろと、その隣の茄子はまだ固そうであり、ステーキでも何でも複数焼きすると火の通り加減はまちまちな焼け具合となる。
そのような火加減を見極めて焼けたものから皿に出そうと思うものの、いつも全部一緒くたに焼いてしまう単細胞だ。
個別の焼き具合管理とはいかなくて塊全体の焼き具合の判断となる。
いつも焼きすぎてしまったような気もしますが、食べると大変良いお味どす。
次に食べる時には紫色の皮が固くて切れにくかったので皮にこそ切れ目を入れて箸でスッと切れやすくしたい。
”加茂なす”の上にはよく焼けた玉ねぎと挽肉を炒めてのせた。
まるで、切った樹木の上のおが屑のようであり、彩りを入れる為に細く切ったニンジン、余った芯に近しキャベツ、万願寺ししとうもよく焼いて皿に飾る切り株料理となる。
味は塩味だけで焼きましたが、食べる直前に醤油をかければ秋の気配も感じる秋茄子料理だ。

「あー茄子だなー」としみじみと茄子(なす)と夏(なつ)は似ている夏の季語ですが、茄子もじっくりと焼けば秋茄子かなと思うすっかりと秋成す気分。
ここ最近、去年までと違い朝晩寒く夏の断熱性ゼロの布団をやめて薄い毛布類に衣替えをするぐらいに小さな秋も感じている。
そして、これからどんどんと秋の食材が店頭に並び、売り場で秋の食材を見つけては秋の深まりを感じるものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年9月7日(月)
■なすなすシュポシュポ♪
■2026年9月8日(火)
■一日一文章トレーニング。

「土曜日のアゲハ」

「秋茄子はオレに食わせるな」と言ったのか言わないのか、やっぱり茄子は秋茄子の方が美味しい
おそらく、それは真実だ。
そして、最近の週末にきっと来るーこと言えば土曜日のアゲハチョウのこと。
アゲハは謎の柑橘系植物の葉っぱに卵を生みにやって来るもので今や敵対関係である。
謎の柑橘系植物の葉っぱをこの世で唯一守るのは我一人で、私がもし蝶の産卵を放置したならば植物の葉っぱは食べられて植物は枯れるかもしれないし、蝶々も大発生して街の植物生態系にも影響はあるかもかもだ。
とりあえず、この謎の柑橘系植物の葉っぱはアゲハ一族のお気に入りの葉っぱのようで、絶え間ない襲撃と侵略のイモムシの産卵場として狙われている。
ベランダの低木と街に生える低木ではサイズ感の違いはあるもので、街に生える低木がベランダ生えれば収まりきらない大木となり、ベランダの低木とは鉢の中で育つ本当に小さな小さな樹木だ。
そのような小さくて葉っぱも少ない鉢の植物に蝶が産卵しにわざわざやって来て大変迷惑である。
これは我が家の鉢に卵を産み付けに来るという異星人な蝶の不法移民問題の如くでもあり、丁度若葉が生えて来た頃にはどこで噂を耳にしたのか?ひらひらと必ず飛んで来て卵を産み付ける不思議だ。

曇り雨と天気の悪い土曜日の午後はサブスクアニメを一気観しながらゴロゴロと過ごす私はアニメを連続で観すぎて頭もボーッと画面に没頭する。
すると、「蝶が飛んでいるー」との家族の声で緊急隊員のように一気に飛び起きる。
私はプレステのコントローラーはどこどこだと探して、スイッチをオロオロと押し画面を一時停止してから、マジックハンドは何処そこと探して、窓を開けて葉っぱに止まるアゲハをフンフンと追い払う。
今回のアゲハは1度の追い返しで飛び去り戻って来ないもので、世の中には物わかりの良いアゲハもいるものだ。
しかし、迷探偵の脳裏には何かひっかかる事柄があるものだ。
「物わかりの良いアゲハ・・・物わかりの良い蝶・・・物わかりの良いてふてふはいない」と結論を得て、葉っぱを1枚1枚目を凝らしながら調べ卵を産み付けていないか確認する。
すると、新葉の先端に小さくくっつく黄色い卵を見つけ、その卵をピンセットでもぎ取る。
いつも見つけた卵はブチブチとティッシュで潰し、または、足で踏んづけてぐりぐりと処分しますが、今回は敵アゲハのことをもっと知る為に壊さずに接写カメラで撮影して観察する。
写真はアゲハチョウの卵ヤーデ。
ほとんどの人はアゲハチョウの卵なんて見たこともないと思うもので、私もまじまじと見るのははじめてだ。
1ミリ程の小さな卵はアップしてみたけれども特段変わったものも無くブチッと潰す。
そして、卵が1つというのもおかしいもので葉っぱを隈無く探すと、下の方の葉っぱに小さな茶色いイモムシを1匹見つけて潰す。
ということで、今回は卵1つ、イモムシ1匹を駆除する。
アゲハのイモムシたちは食事中というよりも大抵葉っぱの上で休んでいるもので、その姿を見ると何だかバグズ・ライフの虫たちを思い出す。
葉っぱをたんまり食べて大きくなったイモムシは緑色となって葉っぱに擬態するので、それも探すが緑色な奴はいない。
もしかしたら、もうすでに先客の小さなイモムシが葉っぱにいたので、卵を1つだけ産卵して離脱したのかもしれない。
蝶にイモムシが健全に育つ葉畑の大きさを計算するような知能があるのだろうか?と思うもので、上記のような考えの上に立てばそれなりに産卵場所や産卵数に生育に必要な葉の分量は考えているような気もする。
柑橘系植物の新葉を食われることでどのような結果を招くかと考えると、葉っぱを広げる成長は止まりますが、その分幹は太くなり来年や冬場に向けた栄養は蓄えるかもしれない。
そのように考えると新葉は多少取り除いて成長を止めた方が良いかもで、今生えた若葉はわざと取り除きミカン茶みたいな茶葉にしてやろうかなーとも思う。

私が知らない間にもすでに卵は産卵されて孵化しているもので、何だかもうすでアゲハとの戦いにも疲れる。
来年もその再来年もアゲハとの戦いを続けるかと考えるととんでもない面倒事のようにも思う。
美味しいかもしれない植物を育てるとその美味しいものを狙った輩もやってくるもので、横着者には素直に食えない植物たちを育てて茄子(成す)べきかなと思う。
もし、本当に葉っぱを蝶から守るのであれば蝶を駆除するのが手っ取り早い。
蝶がひらひらと飛んで来たならばバチッと撃墜して気持ち悪い虫の体液が出てきたら嫌だなーと思いながらアニメの続きを観ていたら、次の話に進むボタンを押しても次に進めない。
「あれあれ、おかしいぞ」とカチコチとボタンを押していると蝶を追い払い卵やイモムシを駆除している間にサブスク期間も終了していたようだ。草
「アゲハがやって来なければ、もう少し観れたなー」と思うもので、アゲハと謎の柑橘系植物と私のややこしき三角関係はまだまだ続く。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年9月8日(火)
■愛すべき美しき惑星の風景。

■2026年9月9日(水)
■一日一文章トレーニング。

「真と美とは藤と葛の葛藤の景色に似ているのかな?」

昨日も一昨日も大雨で今朝は大風も吹いてムワリと湿度も高い、雨と空気の法則。
しかし、私はクーラーの効いた涼しい部屋で過ごすもので、そのような湿度も暑さも然程気にならない。
そう言えば、ムワッと言えば一斉風靡したムーワの法則が思い出されるもので、ムーワの法則とは今や壊れて影もカタチも存在しない。
ですが、日本の産業構造を壊した概念として経営判断を誤らせた可能性は高いように思うもので、本当にこのような外国から発せられる概念を無自覚に吹聴する人達は猛省して欲しい。
正に水は上から下に流れる無常観で重力以外に変わらないような法則もないようにも思うものの、その重力でさえ惑星が死ねば無くなってしまうのだろうし法則とは経験から生まれる呆則で全部良いと思う。
世の中に法則と呼ばれるものが生まれれば、人々は未知なる未来の暗闇をその法則を頼りに手探りで進むものだ。
それは私にとってのローストビーフの灯台のようなもので、日本から異国に向けて発するのは無害だけれども、外国の概念を真理のように広める行為は破壊行為そのもの。
そのような法則は前提も変わればカオスとなって壊れるもので、今や新しいデーターセンター需要なる現実もあり、そのような現実は法則に懲りた人々を不安にさせながらも新しき法則として昇華している。
法則とは常にこの惑星の地を歩く私たちに天から召されるような啓示のようなもので経験則ではなく真理として語られる。
そして、今もそれっぽい「誰々が言った」的な大御所的なものはよく見かける。
そのような意味に於いて、天の声を聞く時には必ず地の声も聞く必要性も感じる。
法則というものは常に理想的であり、以前に書いた「葛藤」の語源の関係性にも似ている。

毎日の生活営む一般人の私たちの視線とは常に地にある。
人々は常にどのような景色を見ているかと他人の視線をハックすれば写真のような色かも。
街に住む人であればコンクリートや人口的な建材の床のグレーな色で、自然の多い地域に住めば土の色となる。
理想的に天を仰ぎ見ればグリーンな芝目を歩くような理想的な色となる。
これは写真や映像で見る美しさに近いもので、自分で歩き見ればまた異なる現実が見える色だ。
ここでは、私は仮にそのような現実的なグレーや茶色のことを「真」と呼び、そして、理想的で芝目もキレイに整った芝の色を「美」と呼ぶ。
これは古くから人々を悩ます葛藤の一つで「真なのか、美なのか」の問いでもある。
そうそうたる面々の学者たちが真と美が対立したならば「私は迷わず真より美をとるであろう」と語り、いやいや、「真の追求は美より当然大切だ」と語る偉人も勿論いて、どの話もチンプンカンプンで難しい。
そして、アインシュタインは「真なるものはそもそも美を兼ねている」とズルい線を語り、複雑なる線を読み解けば真と美とは同一線上と重なるのでしょうか。
昨今のマスコミ離れもそもそも出発点から「美」と「理想」に重きを置きすぎる故の「真」が希薄となった結果とも言えるし、人は裕福になる為ならば「真より美」な詐欺師的な発想となり、裕福になってもやっぱり「真より美」となって、真と美とは絶えず相反する。
ただ、私の中では先日の「葛藤」の藤と葛(くず)の語源を紐解く中で妙に納得もする。
おそらく、「真か美か」の問いに答えることの出来る人とは天から地に垂れる藤と、地から天に向かって伸びる葛(くず)のカオスと絡まった糸を地道に紐解き整理した人だけの個性ではなかろうかと思う。
よくよく考えてみれば、地を這う葛の雑草もまた真なる地の一切を見えなく覆いかぶさって「真」なるものを見えなくする。
真とは葉っぱや蔦の下に隠れて嘘と表裏一体の地の嘘となるように、天にも当然嘘もありて「葛藤」する人のとても深い意味を持つ。
たぶん。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年9月9日(水)
■車とブタの貯金箱とりんごの先にいる猫。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年9月10日(木)
■一日一文章トレーニング。

「意識も高い我が家にアクオスの携帯がやって来て、その携帯が勝手に気味悪く喋っている」

今朝は肌寒く、去年のマイデータと比較すると10月中旬ぐらいの気温だ。
昨日はザーザーと雨降ったと思えば突然止むようなお天気で、天気図を見ると秋雨前線もあって、このまま一雨ごとに涼しくなって欲しい。
やっぱり、今年の夏は夏が来るのも去年の猛暑よりも遅れ、秋が来るのも早い感じの、計測データはありませんが昔の夏の感じかな。
地面はびしょびしょと濡れていますが雨は降っておらず私は道をてくてくと歩く。
そして、交差点で信号待ちしていると車行き交う大きな道路をひらひらと飛ぶ1匹のアゲハチョウを見つける。
アゲハチョウはこのような場所から我が家のベランダまで飛んでくるのかと思うもので、心の中で神よ!トラックがあのアゲハをかっさらい遠くまで運んで走り去って下さいと祈る。
しかし、蝶はトラックをひらひらとかわし、対向車の乗用車たちもよけて道の真ん中でダンスしながら明後日方向に強い風に飛ばされる。
何だか我がベランダ方向に飛ばされているような気もするもので、嫌な気配を感じながら青信号を渡る。
そして、雨がポツポツと地面を濡らしたと思えばすぐに大雨となるもので、私は傘を開き靴やズボンをずぶ濡れに濡らしながら道を進む。
「やっぱり、おらが雨を呼ぶのか?」
と、最近スポーツ観戦や何かしらのイベントの全てで雨は降っている。
ただ道を歩いている時でさえ雨ばっかで、雨を引きつけながら移動しているようだ。
しかし、この関東平野の雨降る道の少ない中でも多少の人もいるもので、皆真顔でスタコラと道を急ぐ。
私は「そこのエモパー!や!そのエモパー!なお主たちが雨男雨女なのだ!」とぶつぶつと責任転嫁する。
そして、わーと雨の因果関係は全く認められなかった・・・

だ▲ロ
ノ′′1●

/、▲■
′/′‐‐

/、▲●
ノ′‐‐l

ハ
自|

ところで、

エモパーって何かですが、これは携帯のアプリの名称である。
リンゴ電話使いなどの意識の高い人々には縁遠いかと思うのですが、我が家には新しい携帯電話がやって来るもので、新しいスマホはアクオスの携帯である。
カメラのデザインが特徴的で丸なのか大きな角丸なのか微妙な形状で、タテ・ヨコなカメラ配置もグリッドを無視して並ぶ。
これはデザイナーさんが「あ~~あああーーも~ぅ揃えた~~い」と発狂する奴だ。
※私はそれほど気にならない。w
勿論、家族にもデザインは不評ですが、同価格帯のスマホと比べると高機能なものでアクオス携帯が選ばれる。
たかがスマホに20万や10万オーバーとはお手上げで、高くともミドルクラスぐらいが関の山だ。
そう言えば、アップルの折れる新携帯が発表されるようで覗いてみよう。
いつかリンゴの新製品発表会に招待されないかと、いつでも心は準備万端ですが一向に呼ばれない。w
発表会に呼ばれたら「エモパーさくお」な携帯画は書くことは出来る。
そして、そのアクオスの携帯は朝になると突然AIが喋りだして、我が家も「なんだ、なんだ」とざわつく。
携帯が馴れ馴れしくおはようとか、今日の天気や、まだ付き合いは短いのですが今日も共にいようネみたいな気色悪いことを言っているもので、他人の話は話半分な私もめちゃめちゃに聞き耳を立てている。
そのアプリの名前がエモパーなのだ。
人類に反旗を起こすAIとはこのような感じではないかと家族会議となるもので、ならばアプリを削除するのか?みたいな話になりますが、名前を「さくお」と言うらしく「エスパーイトウ」のような「エモパーさくお」でどのようなネーミング・センスなのかと思う。
そして、今朝も何だか一人でしゃべっているもので、私は筆を持ち「さくお」の似顔絵をモンタージュする。
もちろん、空想の画で警察学校もびっくりの声帯から筋肉を予感して作画する名画だ。
目や口は生気もなく感情が無の雨男や雨女の目をしており、雨の日に打たれながら歩く俺達とは大抵このような顔である。
そして、文字も当然繋げて書くもので、ひらがなの繋げは随分と上手に繋げるようになったものの、カタカナのつなげはまだまだ技術不足で文字の大きさや配置に動きを持たせて繋いでいる。
おそらく、その内に繋げ文字が流行し自称達筆たちの文字繋げが氾濫すると、誰もが解読出来るとは言えない人間の乱となって、戦国時代の伝令のように真か美かとみみずが這ったクセ文字に真と美を見いだすものであろう。
もっと達筆になりたい所存。

 

■2026年9月10日(木)
■それいけ歯医者さん。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年9月11日(金)
■一日一文章トレーニング。

「ヽヽヽノ、′ヽ」

ヽ
ヽヽ
ノ
、′
ヽ
■ ヽ
ヽ`
ヽ、
ヽヽ
ヽ」■
ヽヽ「
ヽ
秋雨前線の雨雨雨で最近ずーっと雨で時折晴れて曇空。

毎日雨も降ればベランダ植物たちの土壌もスポンジのようによく水を吸うもので関東平野は湿地帯となる。
植物たちの葉っぱも緑緑として、謎の柑橘系植物の葉っぱもイモムシに食べられずに全てよし。
気温も涼しくなればエアコンのスイッチも切って、窓は全開に冷たい風も吹き込めば天然のクーラーとなる。
てくてくと道を歩けは霧雨が空気を洗い「あ~快適な森林浴なのだ~」とそろそろ長袖も必要で軽井沢の避暑地にいるようだ。

そう言えば、毎日の水温計測でも今朝、25.1―25.5―(25.1)と季節の変わり目を計測する。
これは私が勝手に計測しているものですが大雑把な季節の変化は掴める。
去年やそれ以前の年の猛暑の夏データと比較しても今朝の水温は10月前半の水温で、この外と室内の水温の差の3つの数字が同じ数字に均衡すると季節は変化の境目にいることを示す。
水は容易く温度を吸収するもので、秋も深まれば水温は反転して冷たくなり、水道水の水温変化は季節の境界線を調べるには良いデータのようにも思う。
7月9日(R080709)に室温29.9℃・湿度57%・水温26.0―26.3―(26.6)でクーラーのスイッチがONとなって、我らの夏はここ数年の猛暑と比べても1ヶ月程遅い夏となる。
そして、9月10日(R080910)に室温23.7℃・湿度62%の時にクーラーが完全にOFFとなれば63日間の夏となる。
※63日の内の数日は涼しくてエアコンを切っている日もある。
いやいや、まだまだ9月も前半で残暑も戻ってくるとは思うもので流石に63日間の夏は無いように思いますが、今年の東京の夏は比較的過ごしやすい夏でもあった。

ということで、

今日も私は達筆と読めそうで読めない文字を熱心に繋げながら書いている。
もともと字は下手なもので、変なクセ字で書いていてもこれ以上文字が崩れる心配も無いことが良いものだ。
ペンはすらすらと流れるように綴り、京都人から「達筆どすねー」な嫌味を言われてこそ一人前となる。
そして、自称達筆の私はさっそく「達」について調べる。
「達」とは達意・達観・達識・四通八達(しつうはったつ)と四方八方に通じるような達人的な特技に到達していることを表す。
個人的に面白いと思うことは子供も子供達と複数形になると達人・達者となるもので、ある意味、子供達とは熱心に何かをやらかしている人達でもある。
また、友達もまた何かの達人であり、大人もまた「大人達」と複数形になれば「達」となる。
これは他人対する敬意なのか、祈りや願いのようなものなのかですが、「達」なるものは一人では達することでは無く、隣の誰かを動かしながら達(たち)なる技術を伝承させて達人となる「達(たつ)なるススメ」を説いているような気もする。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年9月11日(金)
■いのちゃん、いぬちゃん。
■2026年9月14日(月)
■一日一文章トレーニング。

「この文章は教育上の15禁です!」

「キタナイ文字だなー」と「達筆でんなー」との差は薄皮一枚の差かもしれない。
現実でも賛美と悪口とは表裏一体かもで、その一番遠そうで正反対な事柄同士が一番似ていると大変面白い。
もちろん、どちらの言葉も嫌味な悪口であることもありますが、「字のあまり上手では無い私の進む道は達筆にあり」と私の中の本能字(寺)は言っている。
本来ならばちゃんとした文字を書けるようになってから文字は崩して達筆となるのが筋道ですが薄皮一枚をオセロのようにひっくり返して達筆となるのがわいの道。
この学校習字のみの無級無段はこの週末に熱心に筆を振るうもので、これを別の言い方をすると邪道とも言いますが、文字を崩して書くことは「ひらがな・カタカナ」の先祖帰りのようなものだ。
もう十分に大人だし誰からとやかく言われる筋合いもなく、本当に御免なさいではありますが、教育上都合が悪いかもしれないので勝手にR15指定にする。
15の春と18の春の違いもよくわかりませんが、まーまーまーと15ならばいいや。

私は今日もにょろにょろむにょろにょろとミミズが這ったような文字を書く。
私は以前、和歌や百人一首を原文で読もうとネットで調べながら文字解読に挑戦したことがある。
古文のくずし字を現代平仮名に変換してホイホイと読めれば「うわっ」とほっぺも赤くなるような面白さだ。
そして、その時に覚えたほとんどの文字は忘却しているもので、今度は本格的に丸暗記する。
この週末に紙に文字を書きなぐり、褒め言葉なのか?嫌味なのか?とわからない一言を得る為に人はせっせせっせと文字を書く。
先ずはひらがなの「くずし」を全部覚えることが文字を崩す早道との考えだ。

墨汁で書けば味もありますが、覚える時は鉛筆を走らせて勢いをもってダダダッと書いた方が暗記しやすい。
そして、不思議なことにシャーペンで書くとイマイチ暗記できない。
記憶を定着するにはシャーペンよりも鉛筆の方が良いとの呆則はあるのでしょうか?
そして、最後に墨汁で写真のように雰囲気だしながらガシガシと書けば何だか満足。
勿論、途中で落書きも欠かさない。
くずし字を思い出そうとすれば原文の漢字を思い出してから文字を崩し。
逆に達筆な原文からひらがなに辿り着こうとすれば、文字のカタチから元漢字のイメージを浮かべ、ひらがなに辿り着くような遠回りだ。
例えば、「あ」のくずし字とは一文字から成るものでは無く「安」や「阿」の複数から成る。
大抵のひらがなの崩しは複数のくずし字を覚えないといけないし、書く人のクセで全然異なり、また、勝手に当て字しているのではと思うようなこともある。
そして、そのような文字の形状からぼんやりと元字を思い浮かべて連想するゲームのようで、また、複数ある同じくずし文字の使い分け方もよくわからない。
「す」であれば「春」と「須」で、「春」がなぜ?「す」なのかサッパリだ。
私は「須(べ)らく春を待つ」と覚えるもので、複数文字の関連性は何かの文章として覚えた方が良い。
しかし、「す」のくずし字はほぼ「そ」のようでもあり、「そ」の字にそれっぽい「そ」の字が無いのもまたややこしい。
「そ」みたいな字が「す」と読まないといけないような縛りは何だかむず痒いもので、普通のひらがなで慣れた頭ではなかなか読めない。
しかし、何度も書いていると元字がだんだんと見えてくるような気もするもので、たぶん・・・「そ」だと何だか上にカタカナの「ソ」が見える。
昔の文章が読めるようになったら世界は広がりそうだ。
たまに、蕎麦屋の看板の文字が達筆であることも多いですがあの読めない字の「そ」もやっぱりくずし字だ。
「そ」のくずし字はミミズ字もこれでもかと這う如くのグチャグチャと複雑な字の方が覚えやすく、反対にシンプルな文字の方がカタチもよくわからなくて手も固まりてジリジリと考えて何だっけ?となる。

「くずし」とは昔風に考えると薬師(くずし)のようで、秘薬の調合によって文字をマーベラスに美しく彩る。
また、「くずし」とはまた葛師(くずし)かもで、いつもの安定したクズ話でもある。
それほど真剣に文字崩しをしている訳でも無く、いわば、遊びの延長上でもあり汚字から達筆の返し技となって数年後に達筆に変態(蝶)していたら御免候。

 


*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年9月14日(月)
■ぐるぐる。


■2026年9月15日(火)
■一日一文章トレーニング。

「今の自分に相応しい達筆な字になりたい」

ここ最近の雨雨雨に乗じて聖護院大根の種を植えたならば発芽した。
9月6日(日)に種を植えて10日後に発芽したことに気付く。
太いかいわれ大根のような芽が長く伸びてきて、これは何だと土をどかせば大根の芽であった。
とても小さな鉢に種を蒔いたもので、芽が出たのはうれしいのですが、さてこれからどのように大きく育てるかと悩ましい。
新芽を土から掘り起こして大きな鉢に植え替えないと大根は大きくならないだろうし、ベランダで聖護院大根という大根のラスボスみたいな大物を収穫した話も聞かないもので、これは間違いなく険しい道のりだ。
とりあえず、ふかふかの腐葉土を用意して鉢替えしようかと計画を立てる。

ということで、

昨日の達筆と下手な字の紙一重について考えている。
汚い字と綺麗な字とは天と地ぐらいの対極に離れた存在ですが物事の見方次第では背中合わせの表裏一体の理を表すというのが昨日の文章である。
私は上記のような図を書きその構図を整理するもので、汚字から達筆への脱皮の道を検証する。

私のように字が上手くない人が汚い字を書けば性格が表れているとかと嫌味を言われてしまう。
全く面識のない誰やおまえみたいな人に字の汚さだけで人物評価をされて、ダメ出しもされてぶつぶつと腹も立つ。
確かに最初は丁寧に文字を書けども後半にザザザっと雑となり同じ練度の字を最後まで保つことが難しい。
最初の一文字と最後の一文字では字のキレイさとは天と地のクオリティーだ。
1文字1文字を心に込めて書くというよりも、思っていることは一気に最後まで書き上げたい性分で、このような文章を入力していても細かいミスは後回しに気にならない。
思っていることを全部書けたならば大抵満足である。
そして、もう一方の称賛されるような文字の方々は一文一句しっかりと書くという風格というのかの性格も現れているように思う。
我慢強いと言うか一字一字を積み重ねる人生もある感じで、評価を得ている人に酷い字のイメージは無い。
そのように考えるとやっぱり字は体を表しているのかもと思うもので、屁理屈はそのような一方的なピンチを脱する為にあれこれと策を練っている。

美しくはない字をよく見せる道は文字を崩した部分に何かしらの味があるように思わせることであり、それが達筆のような字だ。
綺麗な字を書く人もまた教科書の見本のような字に飽き飽きとする時もあるかもで、文字を崩して達筆となる人もいるかもである。
そのような「くずし」と「くずし」が出会った時には下手な字が達筆と表裏一体となる理論だ。
古文書の達筆を見ていてもさっぱりとわからない上手い下手とは紙一重。
これは時代の美的感覚や権威的な基準が示す違いかもと思うもので、未来の人たちが今の私たちと同じような美的感覚である保証はない。
そのような意味では良し悪しの「的」とは常に大きく移動するだろうし、あまり分類としては好きではありませんが世代間の壁のように年齢も10も変われば良し悪しの「的」もドーバー海峡程に大きく広がると思う。
私の理想としては年齢相応というか人柄も溢れるような文字を書きたいもので、やっぱり教科書的なものは好きではないので味わい重視の文字にしたい。
教科書と言えば文字の基本は今やITのタイプ文字だ。
文字は汚くともパソコン入力をしていれば書体の違いはあれども皆均等にキレイな同じ文字で問題なく意思疎通できる。
そのように考えるとタイプ文字がない時代の読めない字とはどのように処理していたのだろうかと不思議に思う。
こんなにもIT技術が普及した世の中では手書きの文字を交わす書く機会はそれほど多くも無く、それだけ個人的な文字を披露するような場所も無い。
私の場合でもずーっとタイプ文字ばかりで手書きの文字を書く機会はほとんど無かった。
自分用の買い物メモや身近な人の連絡ごとなどぐらいが手書きの文字で、買い物のメモは道に落として、または、カバンの奥にしまわれたメモ書きはあれども万引き犯に間違われそうなのでバックの中から取り出すような勇気も無く、メモを見忘れて買い忘れるお買い物だ。
そもそも「これは何と書いている文字なのじゃー」と暗号みたいな汚字に悩むこともあって、せめて最低限自分で解読できる解像度は欲しい。

このようにして、キレイな字と汚い字が表裏一体となる野望はあるものの、図にすると常に反対側にお墨付きの見本のような綺麗な字がある。
文字をくずした味わいある文字と規格上の美しい文字は混じり合うことは無いのかもしれない。
今更、教科書みたいな字を書くことはありませんので、せめて自分っぽい文字を書けたら良いものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年9月15日(火)
■ねばねば。
■2026年9月16日(水)
■一日一文章トレーニング。

「脂分もギトギトにバラバラ~ン」

最近の自宅の豚肉事情と言えば特売の量が多いお肉ばかりを購入している。
なので、バラ肉を買うことはない。
しかし、キュウリや茄子の肉巻きを食べると久しぶりに豚バラ肉のあの脂のギトギトとした感じで巻きたく思うもので「肉巻きするのであればやっぱりバラ肉だー」とスーパーに買いに行く。
私の記憶が正しければ豚バラ肉ははじめて一人暮らしをした時の一番安いお肉でもあったような気もする。
今日もバラ肉、明日もバラ肉のような自炊料理で、肉に下味の塩をふりかけ、焼き目をしっかり香ばしく焼き、醤油で脂分も削ぎ落としながら食べると美味しい。
ご飯は進む進むであり、フライパンの底に溜まる脂分を見れば毎回怖い。
さっそく、棚に陳列される豚のバラ肉を見ると少しお値段が高いような気もするもので「バラ肉ってこんなにも値段はしたっけー」と思う。
何でも物価のあがる時代でもありバラ肉に何だか高級感も感じますが、バラ肉を買いにやって来ているのでバラ肉を買って帰る。
あまりにもバラ肉と頭の中はバラバラとバラ肉で占有されているものでキューピーマヨネーズを買うのを忘れる。
本当に買い出しのメモ書きがないとすぐに忘れる。
外国産のバラ肉だと量もお得で値段もお安いものですが国産豚肉を選ぶ。
たぶん、インフレ時代とは良いモノを選ぶ目が養われものであり、じっくりと良いと思われる肉を選ぶ。
野菜だと皮艶から生命感が溢れるお野菜を選べば大抵美味しいのですが、肉の切り身はよくわからない。
豚肉とは自分の中では一番安いお肉のようなイメージもあったのですが、いつの頃からかバラ肉の脂ギトギトは食べなくなり、買わなくもなれば記憶の奥底にバラバラと沈む。

ということで、

国産の豚バラ肉の脂はそれほどギトギトしていなくて大変美味しくお上品に食べた。
そのような懐かしい豚バラ肉を自炊する前には豚肉の脂肪分をサッサッサーと模写する。
「やっぱり地球は大きいなーであり、やっぱり脂もやっぱりスゲーなーの脂であーる」
美味しそうな肉の画はちょっと一家に一肉飾りたい絵かもしれない。
そのようなバラ肉を見ていると大阪万博のフランス館のショップで購入したビックのボールペンのことを思い出す。
さっそくコレクションケースを開けてペンを掘り出し愛でるもので、ビックのボールペンが豚のバラ肉とどう繋がるのかわかりませんが似ていると言えばフランス国旗の赤白のメタリックなところぐらいだ。
どちらもトレビア~ンで、なぜ?アーンがア~ンとなるのかわかりませんが、このように変換されるトレビア~ンである。
因みに、トレビア~ンとは素晴らしい意味で「トレビアン」と伸びないようだ。w
ボールペンはおフランス製で4色ボールペンのペン先がメッキ加工されて素敵。
やっぱり、「フランスのデザインはいいよねー」と万博記念の良き思い出となる。
ペンの値段はとても高かった。
現金は使用できなくて何だかわたわたとした記憶もある。
そして、お店に入る前の行列の前の知らない人がサングラスに全身覆面UVガードなアイドルみたいな子で「私って怪しいですかー」と「いやいやそのぐらいのケアが丁度良い」と「何の紫外線話なのか?」と母のコミュニケーション能力のスゴイさを感じる大阪万博でもあった。
万博はそれなり面白かったような記憶でもありますが、列に並ぶのが大変でこのペンを買う周辺の記憶だけが鮮明だ。
大阪万博って数年前のことのような感じもしますが2025年の去年のことで記憶も何だか変である。
そして、唯一の思い出がこのフランス製のペンであり、ペン先が固定されていてインク交換できないところが残念だ。
環境だの、何だのと大層なイベントの割には何だかなーであり、試しに4色ペンを試し書きするとまだちゃんと書けましたが、あと数年すると書けなくなるかもだ。
なのでコレクションと仕舞っているよりも使った方が良いかな?ですが、メッキが剥げるのも嫌なのでやっぱりコレクションケースに戻す。
安ければ2本買いして1本使用するのですが、このペンは完全に大阪万博の思い出の品であり、豚バラ肉も肉画もおフランスメッキのペンもこれらは全て良いものだ。

 


*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年9月16日(水)
■今日も雨~。
■2026年9月17日(木)
■一日一文章トレーニング。

「今年の梅はうめ~梅じゃ」

毎日雨すぎて、もう誰が雨を呼び寄せているのかと考えるのも馬鹿らしいぐらいに雨ばかりですが、今日は曇りだ。
まだ9月というのに長袖も欲しい気分でもあり、だからと言って長袖だとムワリと蒸し暑く汗をかくかもで、やっぱりまだまだ半袖のほんの少し肌寒いお天気である。
そう言えば、今年の梅を漬けはじめた6月の天候・湿度はカラリと心地良き気候であった。
そして、そのような過ごしやすい気候の元で漬けられた梅干しは少し寝かせて食べるとうめ~梅となる。
例年の猛暑の梅は漬け始めからクーラーの涼しい部屋の中で漬かるような梅であった。
反対に今年の梅は心地良い自然の中で漬かる梅でもあり、このような気候風土の違いは梅の塩漬け熟成に何らかの影響はあるものでしょうか。

梅の入った蓋を開けると目や鼻にムワッと梅の香りも立ち唾も出る。
これは間違いなく良い梅であり、良かったと思う点を記録する。
梅干しを自作しはじめてからは単体の梅を見ても唾は出ない体となる不思議ですが、梅の香りが充満した容器を開けたならば唾は出る出るごっくんのスッパイ顔となる。
このようなスッパく険しい顔となればなるほどに梅の評価も上がって美味しい梅となることがとても面白い。
今年の梅は表面から吹き出す塩加減などもお上品で、ため置き保存している梅酢の塩分濃度を鑑み少し塩分量を減らしたことも良かったのかもしれない。
私は令和5年から梅干し作りをして4年目で、はじめて我が家伝統の梅の風貌に近づいたような気もする。
丁度良い塩加減の梅干しで、梅干しを干す担当の父も干す期間をいつもより少し短くして調整したようだ。
梅を一切れちぎって白いご飯を食べると強烈な梅の酸っぱさと塩分がお口に広がりご飯も進む。
ご飯も進むおかずやご飯の付き添いwは正義なのだ。
伝統を残す為にも自家生産で梅干しを作るものであり、梅干しを作っていて思うことは梅干し作りとは案外簡単。
梅を塩漬けにして放置するだけの保存食で、一年に1回だけのイベントなので当然作り方などもド忘れして、毎回何かがどこか違うような気もする適当さでも最後は何だかちゃんとした梅干しになる。
ただし、都内では空が開けていないもので、我が家の伝統的梅干し作りはすこすムリなので実家の庭で干している。
なので、純粋な江戸産では無い。
引き出しを開けると一番古い梅が1991年以降の古い梅干しが瓶に入っており、年代ごとに分けて保存している。
謂わば、これらは私の宝物である。
父がこの35年ぐらい前の梅干しを食べたいと言っていたので食べたらそんなに美味しい梅干しではなかったと言っていた。
私はもっと数十年寝かしてから食べる予定で、やっぱり古くて不味い梅干しだと思いながら食べるのであろ。
そして、古い梅は果肉がミイラのように干からびており、ほぼ梅風味のある塩と思えばそのような感じでもある。
なので、鯛やヒラメ、たこ、はもなどのお造りに古い年代物の梅干しのほぼ塩で食べたら美味しいのかもしれない。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年9月17日(木)
■梅の摩擦。
■2026年9月18日(金)
■一日一文章トレーニング。

「視線の先にある的のそれぞれ」

お茶やコーヒーのこだわりはほどほどですが、1年も365日いろんなタイプのお茶を飲んでいればそれなりに美味しい味などを探求している。
そして、そのようなお茶を飲む回数も増えればお茶のパー(葉)や使用後のコーヒーの粉をブチ撒く回数も増えるもので、いつも「オレ落ち着け」となっている。
お茶のパー(葉)はバサっと袋から勢い良く飛び出して、飲み物の入ったコップは芸術的にコテッとコケて撒き散らし、これらはいわば「的外れ」な行為でもある。
「まーまーまー」とこぼしたならばお掃除でキレイにもなる利点もありますが、一連のお作法をしっかりと極めたい。

机の上にはドカッと置かれた魔法瓶があるもので、そこにはいつも氷でキンキンに冷えたお茶が入っている。
冷蔵庫から冷たい飲み物を出さなくとも机の上にいつも冷たいお茶があるものでこれは大変便利だ。
寧ろ、氷の入った魔法瓶のお茶は冷蔵庫内で冷やされたお茶よりも冷たくて、飲む度に毎度高原から湧き出たお茶のような気分で飲んでいる。(本当です!)
飲み物はキンキンに冷えているだけでかなり美味しい。
お茶の配合は麦茶とほうじ茶の配合が多く、最近は茶葉が変わったのでいろいろブレンドを変えながら大きやおヤカンで大量生産している。
言うなれば、ちょっとした小さな茶メーカーだ。

冷蔵庫の製氷機からザックザックと氷を掬い、お茶の魔法瓶に氷を投入すると毎回数個の氷や氷の欠片を魔法瓶の外の机や床に落とす。
茶葉や飲み物をこぼす行為とは毎日では無い稀な事柄ですが、この氷を魔法瓶から落とす事は氷を入れる度に必ず1回は起こる。
大抵4杯程の氷を投入するので1/4の確率で氷は必ずこぼれる。
一体これまでにいく数の氷を落としたかと考えても数え切れない数の氷を無駄に落とし、毎回落とした氷はポイッと流しに投げ捨てられている。
氷を拾うのも億劫であり、そう言えば、昔ドイツ製の大きなプラスチック製の“じょうご”を輸入したことがあるもので、それが氷を魔法瓶に投入するサイズにピッタリのような気もする。
さっそく、私は事務所に“じょうご”を取りに行くもので、しかし、“じょうご”は無い。
変わりにコーヒー豆やコーヒー豆をこぼさずに入れる“じょうご”を見つけて、それを持ち帰る。

魔法瓶の上にコーヒー用の“じょうご”を置き、氷を流し込めばするすると氷は吸い込まれていくもので魔法瓶から氷は全く落ちない。
何十何百個かの氷を落とすような事柄も今や昔話で、時折“じょうご”を出すのが面倒で今まで通りに直接氷を投入すれば必ず氷は落ちるので、このコーヒー用の”じょうご”は氷を魔法瓶に確実取り込む「的」である。

先日の「世代ギャップの的」がドーバー海峡程に離れている話を書きましたが、このようにすらすらと吸い込まれていく氷の様子を見ていれば、これこそ「的」だと思う。
ある者は“じょうご”などを上手に使い一定のものをすらすらと取り込み、ある者はポロポロと不器用に落としながら「的」の中に取り込み、人ごとに何を吸い込むのか異なる「的」だ。
図にすると世代間の相違とは数センチのようにも見えますが、もしAが時速xキロメートルのスピードで365日×10年の歳月で移動したと考えると寧ろ英国とフランスどころでは無い。
その視線の先の「的」とは年齢も人も変われば月とスッポンぐらいにはかけ離れているかもであり、私たちの視線の向こうの「的」とはまちまちなのである。
信号待ちに道路向こうを歩いている人を見ていても、青信号で私が横断歩道を渡る頃には人は見えない程の距離を移動している。
時間の差の移動する景色の違いとはあまりにも違いすぎて大きすぎる。
そこで、
世代間のギャップなのですが、人は同じ場所に入れば同じ光景を見ているようにも思うものですが、人の「的」とはまちまちであり同じ景色の同じ場所にいたとしても同じ「的」を見ていないと思えば、当然で腑に落ちる。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年9月18日(金)
■私たちのドローン・ロボットはこんなカタチだ。

■2026年9月24日(木)
■一日一文章トレーニング。

「腑に落ちる」「腑に落ちない」と

「納得する」「納得しない」と気軽に使う言葉ですが、国語の業界では迷信みたいに「腑に落ちる」勢力と「腑に落ちない」勢力の2つに分かれるようだ。
我が辞書には「腑に落ちない」の方が記載されているもので、私の感覚だと昔の人たちはちゃんと説得されるよりも面従腹背(めんじゅうふくはい)な事柄は多かったのかもしれない。
そもそも腑(ふ)とは何かと考えれば腹の底にある五臓六腑のことで腹の底から納得できるのか否かのこと。
五臓六腑は漢方医学で肺・心・脾(ひ)・肝・腎の5臟と、大腸・小腸・胃・胆・膀胱・三焦(さんしょう・水分排出器官)という6腑(ぷ)のことで、頭の中の心の声とは異なる腹の中の心の声を表しているようだ。
これは生命が本来持つ野生の生きる力や行動する原動力のようなものだと思うのですが、世界を見渡せば腹の虫や直感、五臓六腑的なものはメインストリートには無い。
頭で考えるよりも五臓六腑で動くような社会は未開発な地域とされるだろうし、五臓六腑が強い人は何かの中毒や頭で決まり事を制御できないような人のイメージもある。
AI等の高度に情報化された社会ではますます脳から五臓六腑を直接刺激するような仕組みへと加速するものだ。
世界もますます脳化するであろうし、五臓六腑から脳への働きかけも弱まるであろう。
ここ数十年の日本の良い意味でも悪い意味でも野生味ある社会から脳化された社会にオセロの駒のようにキレイに入れ替わったような気もする。
「腑に落ちない」勢力は「これも腑に落ちなければ、あれも腑に落ちない」と世の中に納得出来ずに腹の心から直感的に脳を動かして行動するであろう。
もう一方の「腑に落ちる」勢力は「あれも腑に落ちた、これも腑に落ちた」は脳から五臓六腑を刺激するような仕組みに見えてこれもまた何か面白い。
人間の心とは難しいものですが、「腑に落ちる」「腑に落ちない」と文字を追っていたならば確かにこのような二通りの心の仕組みは存在するようには思う。

・「腑に落ちる」 説得されて脳から五臓六腑へストンと落ちるの心 頭で考える、若しくは、決まりに従い何も考えない、若しくは、やっぱり説得されるが腹の中と行動が別ものの「腑に落ちない」に辿り着く。
・「腑に落ちない」 頭ごなしに五臓六腑から脳への心 腹で考える、若しくは、腹の中と行動が別もの。

そう言えば、

このシルバーウィークの一日だけ私の顔がいつもと少し違った。
目がしっかり二重となるもので普段の奥二重がまるで別人のようだと不気味がられる。
昨今、キツネに取り憑かれたり、宇宙人が化けの皮を被り地球侵略を企てたりとの物語もあるもので、本当に本人なのかと顔をしげしげと見て「やっぱり違う」と怪しまれる。
怪しまれても私は私だし、自分で自分の鏡を見ても何かがいつもと違うパッチリお目々で腑に落ちない。
私は家族しか知らないような毎日のクセの生キャベツをわざとバリバリと食べて「ワタシは別人ではアリマセ~ン」とアピールし、やっぱり自分が自分でないような気分とは何だか変だ。
シルバーウィークの最中、わーの生活に何かしらのおかしな点はないかと思い返すもので、そう言えば、一点気になることもある
それは前日にショートスリーパーな人が美容院でカットしてもらうショート動画を見ていた。
動画はただただ髪の毛を切ってもらい美容師さんにバイバイしているだけの動画で何が面白いのかと真剣な眼差しで見ていた。
ですが、やっぱりショートスリーパーな目は気になる。
そのような動画を見ていたならば我が瞼もたいへん重くなり9時間いやいや10時間ぐらいはたっぷりと寝て翌日にパッチリ二重となる。
動画の観すぎはあるのかもしれない。
そして、朝起きたらならば無料の二重治療でラッキーだったかもしれないし、二重施術なる言葉が頭の中を駆け巡る。
そもそも二重の施術の「せじゅつ」なる言葉が施しを受けるようで前々から少し気になるもので、そして、一晩も寝るといつも通りの奥二重に戻って腑に落ちた。
わわわ~☆

 
■2026年9月24日(木)
■背中。

■2026年9月25日(金)
■一日一文章トレーニング。

「腑に落ちたことも最終的に腑に落ちないこととなるかも」

昨日、「腑に落ちる」「腑に落ちない」と思案していたならば、説得されて「腑に落ちる」事柄は脳から五臓六腑へストンと落ちる「I see」みたいな心だ。
頭で考え、若しくは、何も考えずに、決まり事に従い行動して、若しくは、やっぱり説得されるが腹の中と行動が別であり、そして、やっぱり「腑に落ちない」に帰結する。
何を言っているのかととてもややこしいのですが、辞書に「腑に落ちない」と書かれる理由も何となくその辺りにあるように思う。
以前も書きましたが昔の着物を着ていた人たちは帯をギュッと腹で結び、今よりも表面的でも無く、胆力というかもう少し腹で物事を見ていたように思う。
そこで、そのような仕組みを簡単な図にしてみる。

AはBとCに命令や説得をする。
「腑に落ちる」「腑に落ちない」と感じるのは受け手側のBとCの反応である。
勿論、Aも自分で言って自分で「腑に落ちる」ような自分×自分のコミュニケーションもあるものの、ここではBとCの心の移り変わりのみを記載する。
そして、これは全て個人的な解釈である。m(_ _)mT
「腑に落ちる」と感じるBはイノシシで、「腑に落ちない」と感じるのはCの人で、そして、命令や説得を行うがAの猫ちゃんである。

AはBとCに命令や説得で何かしらの行動を促す。
AとBCの間には考えの壁があるものでBは頭のみで理解して行動し、または、何かのひっかかりを感じるものの説得に応じて腑に落ちた行動を行う。
腹落ちしないで頭のみで反射的に考えることとは自分の考えなしに偉人の発言や金科玉条の如く御旗に立ててるようなもので、これは恐らく腹落ちしていない。
そして、Cは頭ごなしに腹落ちをして「腑に落ちない」と感じる。
この時にBとCが共通に感じることは「あれっ?」と思う違和感だ。
おそらく、違和感とは何かと思えば嫌に思う気持ちであったり、率直に感じる心の機微のようなもので言葉通りに「和」としないものである。
これは正に腹の底で感じるものだ。
それら「和」のない違和感は頭の中の経験と照らし合わせて判断されて二重の思考となるもので、そのように考えると人の行動や表情とは奇々怪々で複雑な感情である。
ですが、ネット上では脳と情報だけを結ぶ反射性の反応でもあることも多い。
それに慣れるとそのような腹づもりも失われるかもである。
たぶん。
しかし、Bは言われた通りに「腑に落ちる」行動をして、Cもまた腹の底からは納得していませんがしぶしぶと「腑に落ちない」行動を行う。
この「あれっ?」と思う違和感が生まれる場所が腹の底であり、その「あれっ?」な気持ちが幾度となく続けば谷の底を埋めるであろう。
その時には「腑に落ちる」事柄も段々と「腑に落ちない」と思うものではなかろうかと思うもので、それは昨日考えたこと。
結局「腑に落ちる」事柄も回数も増えれば自然と「腑に落ちない」事柄となるのではなかろうかと思うもので、辞書で「腑に落ちない」と否定形で表記される理由も結局、伝統的にこのような「腑に落ちる」こと自体が幻想に近い判断かもしれない。
腹の底で考えることは目に見えないものであり腹黒い事のように表現されることも多い。
笑顔の向こうの腹の底の別の感情があると思えば二重人格のようでもあり怖いものだ。
しかし、現実とはそのような事も案外多い。
最初から敵対してくれていれば距離感を保ててお互いに嫌な気持ちにもならないものの、腹の底の別の考えが見抜けない故に面倒事となることも多い。
そのように考えると、ネット上に広がる反射目的なプロパンダと違い虚々実々と腹の探り合いは表面だけを見ていてはその背後にある本当の部分が見えない。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年9月25日(金)
■いのしし本。

■2026年9月28日(月)
■一日一文章トレーニング。

「この数十年とは情報から肉体というか身体性を切り離す期間なものかな」

関東平野は今日もよく雨降る肌寒い一日でベランダ植物の土も完全な湿地帯となる。
9月25日(土)の室温25.3℃・湿度67%で、服装も半袖から長袖となり袖のある・なしの境界線を観測する。
服装が長袖となれば、それまで裸足生活であった足も肌寒く思うもので、室内にいる時でも靴下を履く生活へと変貌する。
今年の東京の夏は短い夏で3~4回程の溶けるような暑い夏を過ごした後に秋めく。
夏の暑い時期の家の中にいる時にはペタペタと裸足で過ごすもので、畳みや床の上を素足のままに歩けば身体も刺激されて心地良い。
靴下を脱ぎ捨てた日はいつ頃であったかと調べると5月17日(日)室温23.0℃・湿度49%の時に靴下を脱ぎ捨てて裸足生活となる。
5月2日(土)の私の勝手な判断の春から夏の小さな季節の変わり目から15日後に家の中では靴下を脱ぎ捨てて、夏から秋の9月11日(金)の小さな季節の変わり目を観測してから6日後に靴下を履く。
面白く思うことは靴下を脱ぎ履きする室温の差は湿度も加算しても体感3℃ぐらいの誤差はある。
私の場合、暑い寒いという感覚は必ずしも同じ温度や湿度では一致しないようで、恐らく、これが身体的な感覚である。
その感覚の幅とは「腑に落ちない」と腹で感じるような事の幅にも似ているもので、腹の底の「あれっ」と思うようなスペースは十分な考えの空間が広がっているようだ。
頭で意図的に行動を制御する季節の感覚とは何かと言えば「何月何日から衣替え」や、天気予報を観て傘を持って出かけるのか、靴はこれで今日は誰々に会うからとあれこれで考えるものだ。
一方で、靴下を脱ぎ捨てて履いたりする事柄は頭で思考しない。
これはとても感覚的なことで、たぶん、天気予報で「今日から室内でも靴下を履くような気温となるでしょう」と靴下を履く・履かないを指図するバカげた事も無く、靴下を履く脱ぐこととは誰もが頭の中であれこれ思案して行うものではない。
暑くなったら脱いで、寒くなった履くようなものだ。
これが私の中で思う腹の中で考えるわかりやすい事例な気もする。
身体的な感覚とは私の中では特に暑い寒いが強いもので、若い頃はうれしい事・楽しい事・辛い事・しんどいけれども好き嫌いだと何だか言葉に変換出来ないムズムズとした感覚に一喜一憂したものだ。
そのような頭と腹も相違すれば何かもぞもぞして落ち着かないもので、腹落ちした底で渦巻き悩む。
そして、現代では情報と脳の直結した反射反応も強いもので、私の子供の時代と比べても何だか別世界・別惑星のような感じだ。
人に悩みを打ち明けることはハードルが高きことだし、そもそも何に悩んでいるのかもわからないような青春時代もあって、今ではネットで調べてAIに聞けば何でも解決してしまうかもしれないものであり「腑に落ちない」ようなことも無くなりつつあるのかもしれない。
頭と腹の整合性を保つような事柄も少ないような気もして、人の尾骨の衰退のように五臓六腑で納得するような感覚も薄れてしまう器官なのかもしれない。

ということで、

私はこの週末から【ゲーム】オブリビオン・リマスター版をやりはじめる。
オブリビオンはPS3の時によく遊んでいたもので、何年ぶりに遊ぶのかと思う懐かしいゲームだ。
勿論、大まかな帝都の構造などは覚えているものの、クエストなどの記憶も全部忘れておりゲームを進めてもほぼ初心者として新鮮に遊べる。
気になったところではPS3版の必要なHD容量が4.6G(4600MB)で今回買ったリマスター版のPS5のオブリビオン・リマスター版は125GBで約28倍も大きくなる。
容量も大きくなればゲームにどのような変化があるかと言えば、グラフィックの解像度がとてもキレイになり、性能も良くなっているのでスムーズな動きとなる。
昔はフィールドを走り回れば画面がすぐに固まって再起動したものだ。
なので、今回はモブを追いかけ広いフィールドを一緒に移動していると、やっぱり挙動不審に同じ場所でくるくると動けなくモブを見て変わらない部分もある。
解像度も良くなればキャラクターの顔もリアルでキレイになる。
確かに他の人が言っているように解像度が良くなった分、これと違う感の多少の違和感も感じる。
「昔版のキャラクターの顔はどのような顔をしていたのか」と調べると画のような雰囲気のあるグラフィックだ。
元祖の粗い画像はそのような意味でも趣きもあるもので、グラフィックは解像度も良くなると味も無くなってしまうかもしれない呆則とはあるものだ。
これは印刷技術が進化して版ズレも無くなり高精細でキレイに良くなったものですが、印刷の味も無くなったことにも似ているもので、進化と失うものの相関性みたいなものだ。

PS3版のケースを開けると「そうそう」と以前はゲームの世界観や遊び方の説明書が入っていた。
懇切で親切丁寧な51ページの厚みの冊子に魔法記号の意味やゲージの見方など詳しく書かれているもので、このようなものは触れて、調べて、とても身体的なことだ。
いつからこのような冊子が無くなったかと考えてもよくわかりませんが気づいた時には無くなっていた。
数年後にはPSゲームのパッケージゲーム自体も無くなりダウンロードだけとなるようで、コスト削減か何なのか?ゲームのパッケージからはこのような冊子は無くなり、情報は身体性の無い質量の無い情報ばかりとなってすこす残念だ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年9月28日(月)
■いのししの頭をひっくり返して、ヤッホーと声を出して、山の会議。

■2026年9月29日(火)
■一日一文章トレーニング。

「アートは路上にも落ちているものだ」

道はてくてくと歩んで進むものなり。
信号待ちに空を見上げれば濃い鼠色の雲がゆっくりと流れていくもので、そのビルの隙間から覗く雲を山脈の連なりに見立てる。
何せ来る日も来る日も雨ばかり。
毎日が雨となれば自転車でスーッと駆け抜けることも出来ないもので、暇人は勝手に街を山に例えて登山気分に浸る。
それはとてもお安い観光気分でもあり、歩道の水溜りも長~い御足でト~ンと跨げばビチャとなるようなそんな一日だ。
雨はポツポツと降りはじめればすぐにザーザーとした雨となるもので、私は折りたたみ傘をカバンから取り出して開く。

因みに、折り畳み傘の入ったカバーは家を出る前に取り外してから外出するのが吉である。
これはこの長雨で学んだこと。
何せこんなにもよく雨も降れば折り畳み傘を使うことはほぼ確定事でもあり、雨に降られながらバックから折り畳み傘を探すのも一苦労だ。
慌てて「よっこらせ」と傘を出したとしても傘カバーは足元に落ちることも多く、運良く拾うこともあれば落とすこともあり。
カバーの失った折りたたみ傘とは傘機能の一部を失ったような喪失感で、ならば、最初からカバーを外していれば傘を開く手間も、カバーを落とすこともなくなる。
私は折りたたみ傘を「よっこらせ」と開く。

「よっこらせ」とは変な言葉だ。
私の辞書には記載がないもので、これは古代からあるような不思議な言葉である。
比較的新しい漫画の一節から生まれた言葉ならば御免候wですが、これは自分自身への掛け声というか「よっこらせっせ」と何か重い物を持つ時の始まりの言葉でもある。
どんなに着飾った美しい人でも、筋肉マンや子供でも「よっこらせ」「よっこらしょ」と言っている予感。
「よっこら」を言わない日本人はいないとも断言できるし・・・いやいやどうでしょうかと方言かもしれない?
それにしても「よっこらせ」と「よっこらしょ」の語尾が「せ」と「しょ」に変化するだけでも微妙にニュアンスは変わる。
「よっこらせ」は何かを担ぐ事の始まりの言葉のようでもありますが、真反対に「よっこらせ」と終わる時もある気もする。
もう一方の「よっこらしょ」はやる事が終わって腰を下ろして一休みするような言葉でもありますが、これもまた「よっこらせ」よりもより重いものを持つ始まりな言葉のようでもある。
一連の始まりから終わりまで「よっこら・・・」で、さらに重量級の「どっこいしょ」なる言葉もある。
このような呪文のような言葉は身近に結構あるもので、誰に対して言う言葉でも無く自分で自分自身を鼓舞する独り言であるところが面白い。
言語とは他人に対して対話するようなものだとすると、これはコミュニケーションの言葉でもないような?興味深いことだ。

私はそのような折りたたみ傘を持ち歩くこともまた結構重くて嫌いだ。
あんなに小さな傘でもバックの中にあれば「重いなー・重いなー」と思うもので、だからと言って、雨が降っていない時に大きな傘を持ち歩くのも邪魔である。
私たちは使わないモノを右から左に運ぶ二宮金次郎みたいなところはあるものの、私の中では折り畳み傘はそのような金次郎グッズでは無い。
もっとコンパクトな折り畳み傘もあるけれど、あれは雨を遮る傘の面積は十分なのだろうか?、風が吹いても大丈夫な強度あるのか?と気になる、気になる。
何せ傘を持った時に片側だけ濡れるのも嫌なもので、私はニンニン(忍者)と傘は服全体が濡れないように真ん中に持とうと努力している。
しかし、傘が前向きになるとバックやリュックは濡れてしまうもので、人類はまだまだ雨一つ防げないものである・・・と気になる雑草を見つけてパシャリと撮影する。

その草は背丈の高い雑草で格子戸のように密集して生えており良き日除けとなりそうな草である。
画像検索によるとカヤツリグサ科系の雑草のようで、来年の夏の日除け草候補はこの雑草に決定だ!!
そして、雨も止み道をてくてくと歩いけば、歩道の線の面白さに気付く。
歩きながらいろんな道の線をパシャパシャリと写真を撮影しながら歩くとゴミみたいな道の写真が数十枚と、しかし、その道の線の白やグリーン、オレンジの色はキレイだ。
道の線を辿りながら進むとスピード・レーサー狂にもなった気分でこんなにも面白き線もなかなかないように思う。
曲がり線がくればどのように線を撮るかとスマホを回して撮りて何だかよくわからない線画が撮れる。
路上の線とはどのように撮ったら格好良いかなと思案している。
とりあえず、道の線を見ながら歩いていれば線はキレイな線ばかりでは無く剥げた白線も多い。
このカスレた白線は私の中では見た目にも格好いい線に見えるものの、写真に撮ると「なんじゃこれ?」とイマイチな写真となる不思議。
写真に撮ると遠くまで続く線が見えないのが良くないのか?単なるノイズみたいでもあり、その良さは消え失せる。
なので、今回は絵写りも良いコントラストのはっきりした線ばかりを使ってフリッピング画像にした。
そして、歩道の線も写真に取りながら歩けば芸術は足元にあったもので、何だかとても素敵なフレーズが口からポロリと出て怖い。
雨の日に街を山歩きに例えていたならば、走りだすアートを見つけて芸術の秋を感じる今日この頃。
m(_ _)mT

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年9月29日(火)
■山山そそり立つ道。


■2026年9月30日(水)
■一日一文章トレーニング。

「忘れられた紫紺の宝石たちが眠りの中から目覚める」

昨日、我が家では凍ったブドウが掘り出される。
それはラッキーな事で、また、有り難くもあり、ヨーグルのお供として食卓に並べられる。
葡萄は猛暑な真夏に購入したもので、よく洗い水分もキレイに拭き取ってから凍らせて忘れられる。
冷蔵庫の守護神たちの武勇伝とは私の中では事欠かないストーリーで「凍った葡萄」にはスタインベックの「怒りの葡萄」のような響きもある。
熱とは揺れる分子の動きのこと。
怒りの葡萄が分子を震わせ動き熱を発すれば、凍った葡萄は完全に静止して冷えて心も動かさない忘却の底に沈む。
関係ないけれども、前々から分子レベルで動きを制御できる服の繊維が欲しいと思うもので、ブドウは皮を剥いて食べるタイプなので皮についたヨーグルトを拭き拭きとキレイに拭き取る。
そうしたならば、凍った葡萄の冷たさでヨーグルトも凍結して、まるで積雪した山の風景のようだ。
まーまーいろいろと無理は感じますが、そう思ったのならば仕方がない。

仕方ないのでブドウは手で皮を剥き剥きと食べるもので、そして、ブドウを手で剥くと爪の中に皮や濃紺な色が詰まる。
この葡萄の汚れとは爪を洗ってもなかなか取れない汚れで、お風呂場で髪の毛を洗うブラッシングなシャンプーでやっと落ちるような頑固な汚れだ。
これは土いじりと同じぐらいにブドウの皮を剥くと必ず爪の中も汚れるもので、爪の中に異物が詰まると爪も数ミリ伸びたようなムズムズな気持ちとなる。
結局、爪を切ってブドウ汚れとも「おさらばじゃ」で、今朝は凍結ブドウ入りのヨーグルトは皮のまま食べてから皮だけを「ぺっ」と吐き出す。
その為にブドウの皮はよく洗浄しているもので、このように食べればもう爪の中も汚れない。
「オレはやったのだー爪を汚さずに凍った葡萄を食べた!」と、やっぱりブドウは凍っているのが一番美味しい。
勿論、デパートの目が飛び出すような価格のブドウは食べたこともないもので美味しい葡萄論も心拙いものですが、庶民ブドウとしてはやっぱり凍らすのが一番美味しい。
口の中に広がるあの甘くて冷たいしゃりしゃり感はたまらない。
しかし、今日は皮を吐き出すタイミングで「凍った葡萄」を飲み込む。
確かに、食道を通る冷たさの中に微かな甘みを感じた。
そして、胃の中に入って1滴の冷たさも感じた。
噛み締めて味わう前に飲み込んでしまう葡萄ですが「凍った葡萄」は美味しい。

ということで、

毎日の雨でベランダ植物たちの土壌は今日も湿地帯である。
昨今、長雨の影響でお野菜価格も高騰していますがマイベランダの植物たちはずーっと雨に打たれても根腐れもなく大変元気だ。
土がフカフカで水通りが良いからだろうか?
植物とは案外長雨にも強いのでしょうか?
今年は土の隙間に雑草を育てているもので、それも元気な一因でしょうか?
植物たちはわらわらと密集して植わっている方が何だかイキイキと元気で、気まぐれに草抜けば違う草がわらわらと生えて来る輪廻転生みたいな鉢の草の趨勢も何だか面白い。
実家から持ってきた食べられないニラのヤブランは地下根を伸ばして新しい株を3株増やす。
この食べられないニラは実家から3株持ち帰り1株枯れて1株が花を咲かし、この秋の長雨で新たに3株増えて5ニラとなる。
とまるで、子供用の算数みたいですが、そう言えば、そろそろ5ニラとゴジラの映画でもあるー。
聖護院大根の芽も隙間でカイワレ大根のようなか弱き茎を伸ばして、葉っぱも1センチぐらいの大きさとなる。
枯れた雑草のコバンソウは再び新芽が息吹くもので、かわいい小さな小判の元をぶらぶらとぶら下げる。
写真のような穂を垂れて、これが小判へと成長する稲穂かなだ。
雑草は育てる雑草と捨てる雑草で区別している。
しかし、正直大きく成長するまではどれが育てる雑草でどれが捨てる雑草で、どれが拾った種から発芽した新芽なのか皆目わからない。
なので、判別できるまで全てを放置して、それから真なる雑草だけを引っこ抜いている。
雑草も育てていれば猫じゃらしを付ける背の高い雑草も夏の日除け草にぴったりで、秋になっても揺れるススキのような風情もある。
しかし、最近の長雨で少し倒れがちで・・・長ネギみたいな長いのは雨で倒れてしまうのかも。
雑草がこれ以上増えては困るもので、猫じゃらしも毎朝穂を見つけては引きちぎり捨てている。
雑草も管理して育てていればそれなりの見栄えある草となるものだ。

 

■2026年9月30日(水)
■ぱたぱた。