■2026年10月1日(木)
■一日一文章トレーニング。

「植物を育てて思ったこと」

今日は突き抜けるような青空。
植物たちにも久しぶりの日光浴で私もハイポネックスな栄養分をふりかけて成長促進に一役を買う。
雨ばかりでも根腐れはせずに順調に育つようで、毎日の水やりも全くしていないのでとても楽だ。
しかし、長雨の影響なのか?夏の間に鉢の土の隙間を埋めていたコハコベの雑草は随分と衰退する。
その衰退するコハコベからはコバンソウと思われる小さな細ネギみたいな雑草がわらわらと生えて雑草も世代交代の季節だ。
この土にはもともとどのような雑草が生えてきたかと思えば、不死鳥が生えては見つけてすぐに引っこ抜き、時折、たんぽぽみたいなザ・雑草が生えてすぐに抜く。
一昨年ぐらい前から徐々に抜く雑草と抜かない雑草を選別するもので、本体の茎や幹に影響を及ぼしそうな草はすぐに何でも抜きますが、鉢の隙間に生える雑草は夏の強い陽射しの日除けとなっているような気もして土の乾燥を防ぐ為にも抜かずに放置する。
気持ちとしては農家のあぜ道の雑草みたいなイメージだ。
以前に腐葉土を作ろうと古い土に米ぬかを混ぜて見よう見まねで土作りをすれば小さな羽虫が大発生して怖くもなりベランダの隅っこで放置されるような鉢から雑草は生える。
そのような鉢から生える雑草でもわらわらと増えて、他のちゃんとした植物の横に置けば小さな森を作っているようで、これはいいじゃんと思う。
ベランダの植物たちとは毎日ちょっと覗くような感じの園芸である。
それでも十分に育つ植物とそうでない時の植物もあって、それは密集度合いの違いような気もする。
以前、一つの鉢だけで寂しく育てていた時には植物はすぐに元気も無くなり枯れたりもするものだ。
私のような横着者でも草の鉢と真っ当な鉢の鉢分かれをしていれば、多少草が増えても気にもならない。
そして、草の種類も輪廻転生していけば、まともな鉢の土の隙間にも雑草は広がるものである。
それも本体に影響が無さそうな隙間に生えるもので、私が気にいった草は抜かず生やしている。
コバンソウは墓場から引っこ抜いて植えたもので、墓場の草とは物騒ですが植えたコバンソウはすぐに枯れる。
そのコバンソウも放置していれば忘れた頃に急に鉢からたわわな小判が生えてビックリだ。
小判が生えれば「小判が生えたー!」と心躍る雑草でもあり、そのコバンソウも春に実もつけて枯れれば、その後にコハコベが土の隙間を覆う。
コハコベは風で運ばれて来たのか何かで自然繁殖の雑草である。
どの草も人によっては邪魔な草でもありますが、小さくて可愛らしい見た目が気に入り抜かず放置していたら結構増えた。
そして、その地面の隙間を這ったコハコベも季節の成り行きかどうかわかりませんが、この初秋の長雨で勢力も衰える。
墓場のコバンソウの繁殖地は今では重機で掘り返されて墓となるもので、あるところでは減って、あるところでは増える草だ。
種を繋いだことはどのようなボールでも絶対に繋ぎたいと思う自分にはうれしく、今は実家の庭にもコバンソウを植えたい気分でもある。
ですが、物凄く増えて雑草だらけとなればこれまたはた迷惑な草だ。
それにしても、墓の主人は墓の立つ場所が小判草がたくさん生えていた場所とは知らないであろうし、そのコバンソウの種を我が繋げたことも知らない。
私の生前の願いはコバンソウが本物の小判に化けてザックザック小判になれば尚うれしい。
草は増えたり減ったりと慌ただしい植物で、雑草の趨勢とは季節や年をまたぎ入れ替わるものだ。
これが、昨日書いた限られたスペースで雑草が立ち代わり入れ替わり輪廻転生するような面白さだ。
そのような空いた鉢の土の上で起こる世界は謎の柑橘系植物の鉢の上でも起こる。
鉢の隙間にハコベラが種を増やして繁殖し、今は細ネギみたいなたぶんコバンソウだと思う草がわらわらと生える。
そして、この長雨の季節は蝶の襲来も無く葉っぱも1枚たりとてイモムシに齧られていない。
謎の柑橘系植物は生育工程を雑な図で示すと上記のようになる。
1)食べて美味しかった果実の種を土に植えれば雑草か否かの芽が出る。
2)その新芽は2本出て大切に見守りますが1本は枯れて1本は現在の若木となる。
3)葉っぱの形状からたぶん柑橘系の植物だと思うもので、ある程度大きくなると大きな鉢に植え替える。
そして、新芽の若葉も生えて成長してくると知らない内にイモムシに食べられる。
葉っぱが少なくなると幹というか茎の横から新しい枝が生えて枝分かれする。
4)この夏、植物はすくすくと大きく育ちそれなりの大きさになれば、また、気付かない内にイモムシに若葉を食べられる。
イモムシは新しく新鮮で柔らかそうな葉っぱを全部キレイかっさらっていくもので、新芽は全てイモムシのエサとなる。
5)この日から私と蝶の戦いが始まり、蝶がひらひらと飛んでくれば追い払い、イモムシや卵を見つけてはブチッと潰してキモチワルとなる。
6)そうした夏も終わり枝は新葉もまた生えて3つに枝分かれする。
随分と木っぽい形状となるもので、この柑橘系植物は真っ直ぐな杉みたいな木だなーと思っていたら急に横にも広がる樹木だ。
面白く思うところはイモムシに食べられた4ゾーンの葉っぱが鬱蒼と茂る場所となるもので、その葉っぱのカオス部分を土台にして4・5・6と枝別れしているようにも思う。
もしかしたら、木とは設計的にこのようなカタチで成長するものかもしれませんし、イモムシに食べられることでこのような4・5・6と枝分かれしたと思えばそのような気もする。
もし、イモムシに食べられて枝を増やしたと思えば怪我の功名でもあり、生き物や植物とは何だかよくわからない不思議な生態である。
ただ一つ言えることは、植物が元気に育つと私はとても嬉しい。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年10月1日(木)
■かくかくしかじか小判草。
■2026年10月2日(金)
■一日一文章トレーニング。

「去年産の自家製梅干しから立派な塩の結晶が出た」

昨日の青空が何であったかと思う今日は曇り空。
その昨日の青空もまた関東平野南の海を北東に進む台風26号が秋雨前線を東に追いやって晴れとなる。
台風の接近で晴れることとは何だか変ですが、人々も久しぶりの快晴にこぞって太陽に当たっているかと思えば、強い陽射しを避けて日陰道が混み合う。
皆、雨雨曇り雨とあれだけ太陽光を待ちわびていたように思うものですが、太陽を避けていることも、また何だか変だ。
なぜ、老若男女人々は燦々と降り注ぐ太陽光下の道を歩かないかと思うもので、私も日陰道を進む。ww
ギラギラな日向通りを歩いているのは一部の外国人ツーリストぐらいで、日陰道は可笑しなぐらいに混み混みで混み合って移動しにくい。
なので、私は人を避けるのを鬱陶しく思い、仕方がないので人波を避けて日向道を進む。
目を眩しくサングラスしながらスタコラと日向道を進み、昨日の上野公園を通り抜けたのですが、いつもよりも人が数倍に多い。
流石の秋の行楽日和な良いお天気で、久しぶりの太陽光に人の出も多いのだろうと単純に思っていたら・・・10月1日は都営の施設がいろいろと無料となる都民の日のようで、だから人の出も多かったようだ。
何だか人の活動とはとても経済的でもあり、ヨーロッパだと公共の美術館は年中無料な場所も多かったような気もする。
このような重要な情報はいつも終わってからのニュースで知るもので、前もって知りたい。

そして、

昨日は久しぶりの良いお天気で窓を全開にしてジメッとした空気を外に追いやる。
最近と言えば、洗濯物から嫌な匂いがする時もあって臭う洗濯物は何度も洗われたり、トイレの汚れも頻繁に磨かないとすぐに汚れて菌も大繁殖する。
過ごしやすいジメジメなお天気とはある意味菌との戦いでもあり、そのような乾燥モードな時にはお陽様でよく日干して殺菌性も強い梅干しを食べてお腹をイッパイにする。
食した梅干しは去年産の梅干しで塩加減がすこす失敗した梅だ。
一切れちぎって食べてスッパ塩辛くて美味しい。
見た目は完全な失敗作ですが味は間違いなく梅干しで、一切れでもご飯は進む。
そして、二切れ、三切れと梅干しを引き千切りながら食していると透明の四角形の謎なものを発見する。
これは何だと思うもので、梅干しは容器をアルコール殺菌してから塩だけで自分で漬けたもの。
生産工程を全部知っている故に余計なものは入らないことも知っているもので、すぐに塩の結晶だと思う。
重さは非常に軽くてネットで調べると透明度の高い塩の結晶は作ることは困難のようだ。
偶然に梅干し作りの工程で結晶が出来たようで、今までの梅でもはじめての正に怪我の功名である。
一辺は少し欠け、中も若干透明でないところもありますがほぼほぼ無色透明でダイヤモンドの原石と思えばそのようにも見える塩の結晶だ。
大きさを計測すると4.8×5×3ミリで真四角でもないカタチ。
もし、私が方眼ノートを作るならば4.8×5ミリの塩結晶の方眼線で作りたいと思うもので、なぜ?5ミリ方眼ではないのかと問われればフランス罫線のように、やや長方形な方が美しくも思うものだ。
自然が自然に作り出すカタチには何らかの機能性の意味というか、自然が織りなす「美」が潜んでいるようにも思うもので、自然とこのようなカタチになることは素晴らしい。

ということで、

さてさて、この塩の結晶はどのように保存しようかとジッパー袋に入れて保管する。
新しいゴミを手に入れたような複雑な気持ちにもなりますが、何百年だろうと絶対に腐らずに食べれる梅干しの効果と殺菌性、神々しさもあり、梅から偶然に出来た真珠のような幸運の塩結晶として、我が家の家宝に認定する。
m(_ _)mT

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年10月2日(金)
■トントンタンタン結晶化。

■2026年10月5日(月)
■一日一文章トレーニング。

「麦茶の焙煎麦をそのまま食べたw」

我が家のお茶は麦茶・ほうじ茶・緑茶といろんな茶葉をブレンドさせながら作っている。
お茶のベースとなるものは麦茶で、麦茶(2)に対してほうじ茶(1)が一番多いお茶の組み合わせで、麦茶にほうじ茶を加えて濃く出せば深みあるお茶となる。
ここに緑茶や玄米などを加えても味負けしてしまうことも多いので、その他茶葉を入れる時にはほうじ茶をやめて、麦茶+その他茶葉を贅沢にたっぷり入れて味変を行う。
なにせ、麦茶は一番お手頃価格のお茶で3日ごとに消費されるお茶に欠かせない。
おそらく、麦茶は麦をコーヒー豆のように焙煎したもので、コーヒーをお茶とは言わないように、私の中でもそれを本当にお茶の茶葉として呼んで良いものかと悩む。
当然、麦茶も1種類の麦茶だけでなくいろんなメーカーの麦茶を混ぜながらお茶出しするもので、安い特大パッケージの麦茶だけでは味に深みも出ない。
なので、麦の豆の形がそのまま残るようなちょっと高級な麦茶なども使用して麦茶ミックスのお茶を作る。
日々、適当にお茶を組み合わせながらのお茶作りで、今週末もお茶を作りながら、そういや麦茶は我が家の茶の半分を占めているのに何も知らないことを悟る。
お茶の購入基準は国産に限りで、麦茶情報はパッケージの産地と茶袋の上からうっすらと透けて見える麦茶のみ、紅茶のティーパックの中身を知らないように麦茶のティーパックの中身も当然知らない。
緑茶やほうじ茶、玄米茶などでは茶葉の入った袋から自分で茶葉を取り出して、このぐらいの量で良いのか?とチンプンカンプンな茶葉の適量を微調整しながら不織布に詰め込む。
それと比べても最初から便利に整いすぎた麦茶は中身の茶葉というか焙煎された麦の状態は全く知らない。

ということで、

この週末にさっそく、私の麦茶コレクションのティーパックを開封して中身を確認する。
おそらく、ほとんどの人は麦茶の中身を見たことがないと思うもので、ハサミでせっせせっせと麦茶のパックを開封して、お皿の上にジャラジャラと広げれば写真のような三種の麦茶の違いを知る。
一番上の麦茶は一番安い徳用の麦茶で細かく砕かれた麦や麦の皮が入っている。
徳用の麦茶だけで煮出すと焙煎された風味も薄いような気もして+1個増やした2個パックで抽出したり、二番煎じのお茶に加えたりもしている。
麦だから当然食せるのだろうと私はスナック菓子のようにバリバリと麦を食べると、この徳用麦茶の麦は苦い香りに加えて、麦の皮の舌触りが良くない。

写真の真ん中は麦の皮がキレイに剥がされた麦である。
麦の中身だけを浅煎りで焙煎されたような感じで上品ですがパンチは少し弱いような気もする。
これをそのままバリバリと食べるとサクサクと美味しいのか?苦いのか?とよくわからない食感でお湯を注ぐコーヒーの粉をそのまま食べているような感じだ。
味が濃ければ牛乳を飲めばまろやかな麦ドリンクとなるような感じで、試しに晩御飯のご飯にこの焙煎麦の粉を入れて”焙煎麦ごはん”にしようとすれば完全阻止される。
優しい麦茶の味と言えばそのような感じで、麦の皮を剥いだ分優しいお味となるかも。

写真の下段は麦の形そのままのカタチで焙煎された麦茶でお茶に入れると味も濃く出る感じ。
麦茶の味の良し悪しとは本当によくわからないもので、ここでの麦茶の味とは大きなヤカンで作った時の全体としてのお茶の濃さのこと。
それはたくさんお茶も作る中での自分なりの濃い薄いなど感覚で、見た目の麦のままな感じが好きで、必ず1パックはこの丸麦を入れてお茶を作っている。
これをバリバリと食べるとやっぱり皮に羽感な舌触りがあるもので、どの家庭でも一家に一人は麦茶の焙煎麦のまま「むしゃむしゃ」と食べる人はいるかとは思うのですがwww麦茶を食べるのであれば真ん中の皮むきされた麦茶が個人的にはオススメ!!
とりあえず、麦茶の麦には3種類の違いを見つけて、どこに進んでいるのか全くわからない私のお作法も日々進化している。
麦茶の麦も直接食べるくらいに健康的な生活でビックリだ。
いつかすこす茶会を開き「麦茶の麦はどうどすか?」と客人を迎えては、いきなり追い返すような研究成果を発表したい。

 
■2026年10月5日(月)
■NACL。
■2026年10月6日(火)
■一日一文章トレーニング。

「もち麦から風味あるコーヒーを作ろうと思う」

ここ最近の長雨で朝飲む飲み物はホット・コーヒーばかり。
しかし、今朝は温かいほうじ茶をまったりと飲むもので、コーヒーが頭も「シャッキリ」とする飲み物であれば、お茶は「まったり」と時も流れる飲み物である。
いやいや、コーヒーも「まったり」と音楽など聴きながら飲むものだと批判はあるものの、今や文化の中心にもある異国の黒い飲み物と伝統的な和の飲み物には何かしらのリズム感の違いはある。
それが何かと考えれば人間の体のほとんどが水分で出来ていることを鑑みて、そのような飲み物が人を形成すると考えれば強ち間違いでもない気もする。
炭酸飲料をよく飲み生活するような人は弾けるような刺激的なリズムはあるようにも思うもので、遊牧民が飲むお茶には街生活の私たちが知らないリズムがあるだろうし、お酒が飲み物だと言う人には酒のリズムとなるであろう。
人は飲み物の水分子が揺れ動く様のようなリズム感はあるか否かで、私の診断だと好んで選ぶ飲み物で相性もあるものかな?と勝手に思う。
そのようなお茶を飲めば今朝の私もお琴調なリズムで動くもので、時もややゆっくりと進みお茶の波長(リズム)だ。
なぜ、朝から温かいお茶を飲んでいるかと言えば、昨日の天ぷらで胃もたれしているから。
胃に溜まった油分をスッキリと削ぎ落としたい気分でもあり、濃いお茶で脂も流れてホッとするひとときだ。

1杯目のお茶を作る為に袋の中から茶葉を出せば、それなりにほうじ茶の香りが部屋に広がる。
これはコーヒーを淹れる時も同じで良い香りが広がるもので、これは鼻から感じる風味だ。
この風味はコーヒーやお茶を作る時の所作から良い風味を感じるもので、お茶の場合には完全酸化封じなどはなされていないので、そのような香りは多少弱いのですがお茶作りをしていればそれなりに香る。
苦いお茶も、苦いコーヒーも、苦い紅茶も大抵の子供たちは苦手ですが、このようなお茶から香る風味は大抵好きでもあり、そして、大人になればそのような苦い飲み物も嗜む。

コンロで湯を沸かしたお湯の中に茶葉を入れてフタをしてじっくりと蒸らす。
その間にあれこれと他の作業をしながら、お茶を入れたことも忘れがちに何分経ったであろうかと良く蒸らされたお茶をゆっくりと注ぐ。
そのようなお茶を飲めば「ほっ」とした一時を過ごすもので、これはお口に広がる茶の風味だ。

茶葉は1回目だけで捨てるのは勿体無いものであり、2番めの煎じるお茶を抽出する。
濃く煮出す為には今度は茶葉を入れたままコンロで沸騰させて濃い目のお茶を作り出すもので、2番煎じのお茶には鼻から香る茶の風味はほぼ無い。
しかし、味の風味はまだしっかりと味濃く出るもので、風味とは何かと難しきことですが、ここでは鼻から感じる良い香りの風味と口から感じる風味の2つの風味はある。
2番煎じのお味にはしっかりと口から味わう風味は残っていますが、鼻を通り抜けるような風味は欠落しており、この風味たる曖昧な事柄は他の味わい深さの世界にも通じるもので、1番目(開拓者)には風味があって、2番めには無い風味みたいな感じだ。
そして、3番めの煎じを行えば例え茶葉もろとも煮出したとしても薄くて不味いお茶となる。
これは鍋などに付いた強い匂い消しなどにも有益ななようで流しの洗い物の皿に振りかける煎じ手だ。
そう言えば、飲んだ茶葉は床に撒いてほうきで掃くようなおばあちゃんの知恵もある。
茶カスを床に撒いてお掃除とは衝撃的ではありますが、コーヒーの残りカスもお茶の葉(パー)の残りカスも捨てずに匂い消しとなったり、土に撒いたりと活用出来る。

1回目のお茶は 鼻から香る風味も良し、飲んで味わう風味も良し。
2番煎じの茶は 鼻から香る風味も無く、飲んで味わう風味も良し。
3番煎じの茶は 鼻から香る風味も無く、飲んで味わう風味も無くて、但し、匂い消しな効果は有る。

ということで、

昨日から家にあったもち麦を水に浸けて膨らまして、そして、今朝はその麦をザルに上げて乾かしている。
何を企んでいるかと言えば、麦を焙煎してコーヒーのようなものを作ってやろうかと思うもので、麦から作られたコーヒーはイタリアでオルドコーヒーなるものがあるようだ。
どうやら麦を焙煎すればコーヒーみたくなるようで、先ずは家にあるものだけで作っている。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年10月6日(火)
■ムギルシ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年10月7日(水)
■一日一文章トレーニング。

「鯛は昆布の殻に包まれ美味しくなり、茶殻も殻となりて包まれ美味しくなる」

茶を煎じた残りを「茶カス」と呼ぶには品が無く、お上品で充満している私も「エッヘン」とお茶のカスを茶殻と呼ぶ。
お茶のカスをカス呼ばわりする奴とはどのような面をしているかと思えば、それはまるで鏡写しの自分で御免候。
それは品だけでなく何かの旨味成分も足りてないような気もするもので、茶に対する敬意も感じられない。
言葉とは概念であり、言葉を作った人はそのように呼ぶ理由も必ずある。
さっそく、茶カスと茶殻の違いについてあれこれと思案する。

殻とはものを覆う固い殻のこと。
貝殻・甲殻・地殻と何かと表面を覆いてとても固い・硬い部分である。
しかし、煎じて使い古した茶葉のカスをカチカチと叩いても丈夫な殻のような硬さは一切無いもので、それを殻と呼ぶことを不思議に思う。
ここから全て私の直感ですが、捨てれば単にゴミカスとなるものでも何かに活用すれば守りの殻となる意味なことはあるかもである。
茶殻には消臭効果やお掃除にも使えて、発酵した落ち葉のようでもあって土にも還るであろうし私の知らない幅広い使い道もあるであろう。
我が家でもお茶の葉(パー)や使用済みのコーヒーの粉は吊るして乾燥させてから土にまぶし、生ゴミにかけて匂い消しなどにも活用している。
何より美味しいお茶を飲んだ後も茶殻な殻となるもので、それは「捨てる神あれば拾う神あり」のようだ。
茶カスもそのままゴミとして捨てれば単なるゴミですが、活用次第では役立つ。
日本的な考えに立つと世の中とは常に一律的ではない。
お茶の心もそのような事柄に対する”はんなり”とした何かしらの余白を表現しているようにも思う。
たぶん。
お茶の残りを茶カスと茶化す人には茶殻としての活用法は見出せないように、茶殻の殻を意識すれば「かたく・かたい」殻となるかもで、何でも誰でも何事でも不要なゴミは一切無いと言っているようにも思う。

さてさて、茶殻の殻なる「かたさ」とは「固い」なのか、「硬い」なのかである。
・「硬い」とは意志の硬さのような芯のある硬さ。
・「固さ」とは外から固めて固くする固さ。
茶殻の殻の「かたさ」とはこのような意味で読むとお茶の芯なる心の硬さの殻のようにも思うし、まわりから固く固めて鍛錬する心と思えばそのようなお茶の心である。
立派な人とは以前も書きましたがおそらく天も地も経験して絡まるツタを読み解き葛藤した人物で、何事も天なる藤な美辞麗句な綺麗事ばかりでは成り立たない。
美味しいお茶を作れば茶の残りも必ず生まれる葛もある小宇宙を体現するもので、お茶のカスを茶殻と言う理由はそのようなお茶の祈りが込められているのかもしれない。

ということで、

ちゃんとお上品に茶殻と言えるように襟を正して、私は昨晩、お上品に昆布締めの鯛を作って食べる。
昆布で魚を殻のように包むと昆布のグっ・グルタミン酸と、魚の猪っ・イノシン酸の旨味成分が結びつきお造りがとても美味しくなる。
購入した昆布は大きな1枚ものの昆布ではなかったので片面2枚+片面2枚の合計4枚こんぶで全体を包み、後はネットのレシピ通りにラップで巻き巻きと冷蔵庫で一晩熟成する。
お味は料理屋さんのお刺身そのもの。
身はプリプリと弾力もあって表面の艶もとても美しい。
但し、包丁の技術が未熟なものでトントンと等間隔のセンス無さで、斜め切りな包丁捌きもできればもっと素敵な昆布締めとなったものだ。
わさび醤油で食べても美味しい。
ポン酢でも食べても美味しい。
塩で食べても美味しい。
素材が美味しいと何で食べても美味しいもので一手間加えれば美味しく食べられて一瞬でお皿の中もきれいサッパリと空となる・・・殻となる?
なぜ?今まで昆布締めをしなかったのかと思うもので、茶殻のように使用した昆布もクチャクチャとおやつみたいに食べて胃の中におさまる。
何も捨てる部分もなく、正にお茶の心にも通じているように思いながら昆布の殻で包んだ鯛の刺身はとても美味しかった。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年10月7日(水)
■イノシン酸。
■2026年10月8日(木)
■一日一文章トレーニング。

「サブカルいやいや辺境の住人でもある私たちは辺境にあるような変なものが好きだ」

ここ最近天気も良いもので、洗って干したもち麦は天日干しと自然乾燥でカラカラに乾く。
洗う前の麦とは違ってコーヒー豆な風貌はあるものの、しかし、粒の大きさが5ミリ程の極粒で、大きさだけを見れば全くコーヒー豆感はない。
そのまま食べると炊く前の米粒の味で、ほぼこれは米だと思う。
当然、焙煎機なるスペシャルな道具も無いので、乾燥したもち麦はフライパンの中にザザザっと投入し油も引かずに煎る。
フライパンは空焚き禁止なもので「これで良いものか」と一応弱火で恐る恐る煎りますが、麦は弱火で煎ってもなかなか色づかない。
煮えきらない麦に私の我慢の堪忍袋の緒も切れたものでフライパンにフタをして一気に熱気を溜めて麦に熱を加える。
そうすればそれなりに熱も通るようで、麦もそれなりに色づく。
時折フタを開けては菜箸で麦をかき混ぜて、麦は真ん中に集まらずに端っこに溜まるものだ。
どうやら、フライパンの真ん中はやや高く膨らんでいるようで、今さらフライパンの平たくない構造を知る。
そして、麦が炭化しないようにガサカサとフライパンを振れば、麦の1粒1粒が何かのシュミレーションのように動き面白い。
大まかでは全部同じ動きなのですが1粒1粒は異なる動きをしていて、そして、最終的に一塊となって、再び菜箸でフライパン全体に広げてはフタをして焼色を入れる。
それでもフライパン煎りではコーヒー豆のような真っ茶色にはならないもので、長時間やりすぎればフライパンも壊れそうなので「浅煎りで良し」とコーヒー通みたいなことを言って麦煎り行事を終了させる。
「これがフライパンで煎ったもち麦なのだ」
ドヤッなのですが、何だかこのまま夕飯の白米に混ぜて食べたい食欲をそそる小麦色でもある。
途中からオルゾコーヒーを飲む云々よりも茶色く煎った戦国飯な麦飯を食べる趣旨に変わりそうだ。

一般的に言われる大きく分けてコモディティとスペシャルティの2種類分野がある。
これは正しくスペシャルティである。
自分で言うのは何やけれども麦を焙煎してお茶やご飯だとかはマニアックすぎて辺境食みたいなものだ。
地域特産品などもコモディティでは無く、スペシャリティである。
昨今、わーも国産と国内製造を騙されて大変なショックをうけていましたが、中身がごちゃまぜで騙されたと感じる度に食べることの抵抗も生まれる。
大量生産する企業は大きければ大きい程に、量を生産する為にはどうしてもあちこちから安く大量に原材料を集める総量確保が必要なもので、このような形態がどこでも同じものが売るコモディティである。
原材料を細かく表示してくれれば有難いのですが経済性やデザインスペースなども追求すれば国内製造表記一択かもしれないもので、それらに対抗する柱となるものがスペシャリティ市場だ。
アメリカではどこの国でいつ誰が作ったみたいな情報と紐付くスペシャリティ市場が近年急拡大しているようで、消費者の思いと大規模製造者の都合の乖離する隙間を埋めている。
私も国産品のマニアックな食品を見つければいつも買っていますが、この市場は以前は銀座の交通会館でも活況だったと思うし、まだまだ拡大する余白のある市場であるようにも思う。

ということで、

私たちとは往年のサブカルでもあり、どこか心の辺境に住む住人でもあって、いつも隅っこにある変なものが好きだ。
このようなコモディティ化していないものも大好きで、麦のコーヒーは何だか白米に混ぜて麦飯になりそうな予感の適当さで、さて、カリカリに乾燥させてフライパンで煎った麦がご飯と一緒に炊いた時に食べれる具合となるものかと気になる気になる。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年10月8日(木)
■煎るゾウ!
■2026年10月9日(金)
■一日一文章トレーニング。

「真か美かと考えるようになれば私もそろそろヤバイのですが、比較対象する反対語の違和感のヤバサを推測できそうな方法を見つける」

写真の雑草はコバンソウで話と全く関係ありません草。

外国の概念やいざこざには「真」に対する「美」のような比較対象する事柄が反対語とならないような事柄も多い。
そこで、昨日から気になるスペシャリティ市場の「コモディティ」に対する「スペシャリティ」もまたその手の言葉かと調べる。
調べ方は比較する対象の対称性を調べる「比較的対象療法」です。
※自分で格好良くそれっぽく名付けただけのテキトーな嘘ネーミングです!!www
答えは、「普及品」に対する「特別な品」と訳せるもので言葉の通りの反対語で問題なし。
私はカタカナ文字が出てくると「えっ」と急に怪しむ性格でもあり、私のような単細胞の「真」の反対側はいつでも絶対に「偽」で、最低限「真」と「偽」の間のグレーだ。
これははじめて鏡を見た野生動物のような反応でもあり、私の中ではなぜ?「真」と「美」を比較するのだと怪しく思うし納得もいかない。
どうやったら「美」と折り返すのかとモヤモヤとする謎で、それでも、複雑な世の中を見る一つの視線となれば「なるほど」と納得する単純さでもある。
「美」を最終形態の美しさと考える「真」となる道と思えばそのような感じで、そもそも「真」と「美」が対立した時に「真」より「美」を選ぶ人達とは正々堂々と「美に真はありません」と発言しているようなもなものである。
それは何かしらの理想を手元に近づける行動である。

「真」側からではなく、反対の「美」側から「真」を見れば何かわかるでしょうか。
「美しいもの」の反対は「美しくないもの」であり「美しくないもの」から「真」に繋げることはなかなかの力技だ。
もしかしたら、それは「美」と「真」のどちらの方がグレードが高いのか?と並走して背比べするような競争する概念と読めばそのような感じで、盛れる私のイメージも膨らむ。
これは+1なイメージを足す比較対象で縦横斜めと繋げて帰結するような構造だ。
もしかしたら、「真」と「美」を同等に比較することで「真」か「偽」を結びつけないレトリックかもしれない。
「真」とは事実のことで、その模倣となれば「偽」で、「美」とは主観的でもあって比較対象として不適格だ。
日本語の概念とは比較する対象を割合シンプルに反対語的に折り返すものであると思う。
競争して切磋琢磨するような比較感もなく、一般的な日本人的な発想から「真」か「美」かとなる発想は生まれないように思う。
たぶん。
生まれたら御免。
しかし、外国な概念に触れると+1を足してイメージを膨らませるような事柄も多い。
「コモディティ」と「スペシャリティ」はちゃんとした反対語でしたが、このように「おやっ」と思う事柄には反対語を推測することで、その言葉を出す相手の意図や真意も読めるように思う。

・暑い←→寒い 単純に折り返す反対語 
・真←→美 何だかよくわからない背比べ競争のような比較対象で反対語でもなく何かの意図があるのかも。

ということで、

「スペシャリティ」と言えば、スペシャル・コーヒーが有名で何が特別なのかと調べると下記のような分類で生産者から生産工程まで製造番号から辿れる。

・生産者 (誰が作ったのかのブランド的なもの。野菜売り場でも農家の顔が表示された食品もありますが信頼感は上昇する。)
・産地 (どこの国、どの場所で生産したのか。)
・品種 (種類によって味も異なる。)
・標高 (コーヒーは生産地の標高により味変するようで、同じ国のコーヒーでも標高が高ければ高いほどに実のグレードも高く、昼夜の寒暖差が大きい程に実も締まるらしい。)
・生産番号 (番号から生産工程のプロセスを辿れる。)

スペシャル・コーヒーは農家との直接取引で混ざりものがなく上記のような情報と紐づく。
コモディティなコーヒーは大量生産が必要な為に様々な場所から原材料を集めてブレンドして作っている。
勿論、コモディティにも製造番号や生産者なる顔のブランドもあるので、その気になれば細かく情報公開も可能ですが、コーヒーの果実が取れる標高を管理して大量生産するには向かない。
スペシャリティ・コーヒーとコモディティ・コーヒーの違いは何かと思えば生産者の名前があることや美味しい標高の高さで管理する製法や細やかさの差。
そして、それはどちらが「真」か「美」かと思えば知りませんし・・・価格もスペシャルに高いスペシャリティ市場でもある。
そう言えば、塩結晶の「自然美」が「真」か「美」かと問えば、私にはもうさっぱりでwwwですが、これは「真」か「美」なのかと比較・対称性を吟味するにはなかなか良きことのように思う。
\(-o-)/

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年10月9日(金)
■コーヒーゲーム。

■2026年10月13日(火)
■一日一文章トレーニング。

「真と美の構造を書いてみた」

秋も深まるという感じはこのような感じなのか?と昨日から朝晩寒く感じ窓を閉めて寝る。
天気の良い昼間の陽射しは強く心地良いですが、朝晩は「小さな秋をみーつけた」な季節の境界線も見つける。
体を動かしていれば丁度良い涼しさも、眠っていれば肌寒く思うもので、ここ直近の室温・湿度を比較しても(・・・23.9℃・58%、24.8℃・56%、24.0℃・58%)とそれ程の変化もないのに、寝る時には窓を閉める・閉めない境界線を跨ぐ。
秋は小さく一歩一歩の朝晩から深まるものだ。
吹き抜ける風が冷たいと言えばそのような感じで、今シーズンはじめて足の爪先の冷え性も感じる。
また、布団も少し肌寒く感じて、そろそろ冬の布団を出す頃合いかと思いても、まだまだ冬布団はまだまだ少し早そうでもあって、そうなれば温度調整は外気をシャットアウトして窓を閉めるのでござる。
とりあえず、窓を全開に寝ていれば昨日ぐらいからもう十分に肌寒い。

そう言えば、寝ていたら蚊が耳元にブーーーンと飛んできたもので、これも窓を閉めた理由という側面もある。
布団に包まりながら「フンフン」と鼻息荒く蚊を追い払い寝返りを打っても、指と指の間を蚊に刺されて痒くて「むっくり」と起き上がる。
まだ、窓の外は薄暗くノソノソとおトイレに行ってからキッチンでキンカンを塗って再びお布団に潜り込んで、もうお目目もパッチリだ。
蚊に起こされて「もう寝れネーゼ」と布団の中に包まり、「真か美か」のような訳のわからない事柄を頭に浮かべながら「だんだんと眠たくな~る、眠たくな~る」と、知らない間に「眠っているネーゼ」だ。
それにしても蚊はなぜ、ご丁寧にもブンブンと耳元に立ち寄り挨拶してから飛んで行くのであろうか?
ワンちゃんも耳元に蚊がやって来たならば耳をパタパタと動かして追い払うもので、私は一歩先んじて寝ていてもパシーンと手が動いて蚊を撃墜出来るようになりたい。
蚊と言えば蚊撲滅家の私でもあるので蚊にとっては先祖代々の敵と言えばそのような感じで、ある意味刺されても?噛まれても?文句は言えない。

ということで、

言葉にも矢印のような方向性があると仮定すれば、「真」か?「美」か?とはどのようなカタチをしているかと図に書いて整理する。

「真」「美」とは比較対象として関連性がなく常にどこまで進んでも平行線だ。
これは「どちらが正しいか?強いのか?」という丈比べのようなもので、最終的にどちらの方が何ミリ上にあるかに帰結する。
競争の結果でどちら側に転ぶかもわからないもので、それは不安定な未来だとも言える。
平行線に当然接点はなく、文字の持つ方向線はある一方向のみの競争・優劣で決定する。
接点がないということは合意や和解もなく勝った方が一方的に相手をねじ伏せ屈服させてから進路を確定させることで、これはとても独裁的である。
民主主義と独裁も最終的には数や力ですが公正なる接点の選挙のある・なしの違いで「合意点がない」意味は何かと考えれば、接点のある・なしで独裁的であり独善的となるものだ。
意識して行う悪高い人と無意識に行う人の両輪はあるとは思いますが、「真」か「美」かと対立すれば「美」に立つという人は「オレこそが真の独裁者で独善的である」とオレがルールブックなイメージでもある。
また、このような未来は意思決定する独裁者のみが知る未来でもあり、人々はその転がる気分次第の未来に不安となる。
「真」が線を強くしようと思えば、証明する為の立証に時間もお金も労力も必要でとても大変だ。
一方で「美」を補強する方は結構簡単である。
窒素の三重結合のように声を大きくマスメディアで拡散すれば100ぺんも言えば嘘も本当のように線も太く強固に大きくなる。
なので、「真」は絶対に「美」たる事柄と同質同列の土俵に並んだり比較することはあってはならない。
これはアンフェアだ。

一方で「暑い」「寒い」とはシンプルなカタチだ。
比較対象としても関連性するモノとモノで、そこには「丁度良い」気温という接点もある。
01思考とは時に安直すぎて否定されがちですが、数字上では0と1の間には0.333も0,5も0.78と無限の数字もある。
01思考云々と語る時には私たちは「真」「美」のような荒唐無稽な事柄のように感じますが、白黒を付けるような思考は接点のない平行線な概念でもない。
これは「真」か「美」かの方が構造が似ているようで個人的には大変面白い。
接点があるということはどのような意味を持つかと思えば、それはある程度未来を予測できることだ。
線上とは何かの関連する正反対のルール上で動くもので、合意点は線上を引き合いながら引っ張られ線上を動いている限り必ず線上にある。
真偽と接点がある限りにガリレオ・ガリレイのような「やっぱり地球は回っている」ような事柄にもならないものだろうし、「真」「美」のような予測不能な未来と比べても予測可能で継続的でもある。
昨今、世界を見回しても不安定感は高まる一方だ。
なぜ、このような不安感が高まるかと思えば既存で機能していたルールで物事が決まらなくなったからで、それが不安定な原因となる。
だからと言って、新たなルールも作られるような事もなく世の中とは「真」か「美」かのような独裁的な力が大手を振るう。
「真」も「美」ももともとは純粋で美しいものですが、混ぜてはいけない劇薬の呆則とはあるあるかもだ。

この数十年で自由な民間上のシステム上に独裁的な国家資本主義のシステムが組み込まれて民間資本は自由競争出来なくなるもので、そのようなルール上で動く接点は悉く破壊されて今日に至る。
その手法とはこのような全く比較対象とならない環境保護、多様性、差別など人間の持つ当然の道徳観と犯罪など別の事柄と同列に並べ比較することである。
本来、「環境を保護する」の反対は「環境を保護しない」ことであり、「多様性」の反対は「画一的」であって私たちが日常的に思う多様性の意味からもズレる。
また、「差別をする」の反対は「差別をしない」であり「犯罪をする」の反対は「犯罪をしない」ことであって、外国人は差別だとか何とかと全く違う事柄を結びつけて比較して同列に並べて話をすり替えることも非常に多い。
それは「真偽」を問うようなルールを逸脱するもので、これは間違いなく仏顔(ほとけづら)をして社会を壊す破壊者そのもので独善的だ。

 


*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年10月13日(火)
■コーヒーショップ。
■2026年10月14日(水)
■一日一文章トレーニング。

「その土地に住まう人々を表す特別な表現があると素晴らしい」

うんうんと寝返りをして、夢の中で他人の数本伸びる髪の毛を切りたいなーとうずうずとしている。
勿論、私は散髪屋でもなく、美容師でもなく、ただ、夢の中で数本伸びた髪の毛をカットしたく思う只の寝ている人。
そして、う~~んと背伸びすれば左足が久しぶりにつりそうになって、私はイタタイタタと足がつらないように必死にこらえ気合いで耐える。
そして、再びうんうんと寝返りをうちながら、今度は大きく背筋を伸ばし正しい寝相で息を吸って吐いてと背伸びすれば両足もろともつりそうになる。
あー痛い、マジで痛い、足がつりそうじゃネーゼと、また、無防備な寝顔なままに足つりの痛みに耐える。
そして、ムックリと目を開けたならば「本当にネーゼじゃネーゼよ」とスマホ片手にネーゼって何何?と調べる。

ネーゼとはイタリア語で~っ子のこと。
接尾辞につくエーゼが由来のようでミラネーゼとなればミラノっ子(ミラノに住む人)となる。
ネーゼと言えばシロガネーゼであり、イタリア語の意味を知るとマダムっ子みたいになる。
シロガネーゼの意味は白金または白金台に住む優雅な専業主婦を表す言葉でその範囲はとても限定的だ。
なぜ?白金マダムとイタリア語が結びついたのか?と気になり調べる。
その由来はVERY編集長の相沢正人さんが作った言葉のようで、茶髪や公園デビューなどもこの編集長のブームの仕掛けのようだ。
一つの時代を切り取る造語を何個も作ってスゴイことで、この言葉の特にスゴイと思うところはその言葉を聞けば人の息づかいや文化背景も透けて見えるものだ。
単語だけでイメージも連なり膨らむ言葉とはそうそうに無いように思う。
茶髪と聞けば今も昔も若者たちの姿が瞼に浮かぶ。
公園デビューと聞けば恐る恐ると子供を連れてはじめて公園の敷居も跨ぐ若いママさんのライフスタイルや緊張感も感じる。
シロガネーゼと聞けば誰しも優雅でオシャレなマダムたちの姿が浮かぶもので、これらは全てイメージも広がる単語だ。
おそらく、これらは頭の中で捻り出し生み出した言葉というよりも、街を歩き、人々を観察して、対話しながら拾い上げた言葉のようにも思う。
土地勘もない私でもあれば白金台も白金も全て同じですが、白金台と白金とは必ず分けるしきたりの不思議で、お洒落な目黒と港区に挟まれた閑静な場所となる。
ただ、シロガネーゼ風にシロガネと入力すると白金と変換されないもので、シロカネと打ち直してはじめて白金となるもので、シロガネーゼのイメージが強すぎても入力は上手くいかない。

~っ子みたいな言葉には江戸っ子がある。
ニュヨークはニューヨーカーで、ロンドンはロンドンっ子と訳されるロンドナーのようであり、神戸っ子もあれば浜っ子もあって、~っ子な言葉には住む人々の土地に対する愛や誇りを感じる。
~っ子と子が付くと土地の神様の子供みたいな感じでもあり、また、どの土地にもある表現でもない。
江戸っ子も三代住めばやっと江戸っ子で~っ子を名乗るにはなかなかにハードルも高きものだ。
そう言えば、お祭りで普段全く見かけないような全然知らない人が神輿を引いていたりするもので江戸っ子風情もまた奥も深い。
ニューヨーカーはひたすら前を向き歩いて邁進するような人々のことであり、土地に紐づく言葉にはその土地に住む人々の生き様があるように思える。
そのように、土地に住む人を表すような生き様な言葉でもあれば、その土地の愛着や誇りを持てて素晴らしいことのように思う。

因みに写真は話と全く関係ない千葉産の美味しい生落花生の”おおまさり”です。
シロガネーゼなイメージはちょっと描けなきゃったー。

 

■2026年10月14日(水)
■カフィー。

■2026年10月15日(木)
■一日一文章トレーニング。

「A+Bの足し算で作る造語の作り方」

人はタブレットのモニター上に落ちた毛を如何様にして取り除くのであろうか。
指と指で毛をつまむには毛とは細すぎるもので、また、静電気なのか何なのか画面に張り付く毛はなかなかの頑固者で容易に取れない。
指で毛を摘み取ろうとすれば画面タッチも高感度で予期せぬ通りすがりの画面に「いいね」ボタンを押し「やっちまった」と後悔も立つ。
または、画面がフリップして切り替わったり、勝手にうざい広告やリンクに飛ばされ散々だ。
ある人はそのような画面についた毛は「ふぅ~」と息を吹きかけて飛ばすようである。
確かに「ふぅ~」と息を吹きかければ毛は飛ぶであろう。
しかし、「ふぅ~」と飛ばされた毛がどこに飛ばされるのかが大問題だ。
これは禅問答みたいなもので、毛は吹き飛ばしても消えないもので必ずしっかりとゴミ箱に捨てる!のでござる。
最低限ゴミ箱に向かって「ふぅ~」であるならばですが・・・それでもゴミ箱がきっちりと毛を受け止める保証もない。
また、ゴミ箱上で「ふぅ~」すればゴミ箱の中に溜まったゴミや塵が舞ってバックドラフトするかもしれない。
おそらく、画面上の毛を取り除く上級者は一端画面を真っ暗にオフしてから、毛を指でベト~~~と横に引っ張り捕獲してゴミ箱に捨てるであろう。
これだと面倒ですが勝手に「いいね」ボタンを押すこともなく良きお作法である。
そこで、私の中のGTX1660相当は考えて画面上の毛を取り除くコンマリメソッドをいくつか算出してみた。

1)指でとり→捨てる。(2工程ですが、大抵1回で毛は取れないもので何工程も重ねる可能性も高い、また、高確率で予期せぬボタンを押す)
2)画面を切って、指で毛を引っ張り、とる。(3工程)
3)セロテープを取りに行って→テープで毛をとり→捨てる。(3工程)
4)掃除機を取りに行き→ノズルを交換して→テープを吸い取る。(3工程、ゴミ箱に捨てる手間はない)
5)「ふぅ~」と息を吹きかけて飛ばす。(1工程ですが毛はどこかに飛ばされて溜まる)
6)毛を無視して画面を見続ける。(0工程)
・・・

さてさて、どれが良い解決方法か?と悩ましきこと。
効率性だけ見れば0工程の気にしないことであり、多少気にもすれば「ふぅ~」と1工程で毛も飛ばせば簡単ですが、されどやっぱり世の中は効率性の追求だけではダメだと言っているような教訓だ。

毛を取ろうと思うと引き算で、何かのボタンを押してしまえば作動して足し算となり、「ふぅ~」と息も吹きかけ毛も飛ばせば引き算ですが、毛はどこかに溜まり足し算となる。

何を言っているかと意味も不明ですが、そうなのだ!
私は昨日の情景が見える造語に足し算なメカニズムを発見して興奮している!
本来造語とは外来語のカタカナ概念のように、はじめて目にしてもほとんどチンプンカンプン???なことも多い。
しかし、昨日の茶髪や公園デビュー・シロガネーゼなどの言葉は初見からすんなりと身体に染み込むもので、それらと異にするものだ。
このA+Bな構造は全部私の勝手な解釈ですがコンマリメソッドならぬ相沢メソッドであると思う。
既存の文字と文字を重ね合わせてA+Bのような足し算で造語を作れば、はじめて聞いたとしても容易に意味も理解できる。
例えば、「茶髪」だと「茶色」+「髪」で「あー、あの渋谷や池袋の街を何用も無しにぷらぷらとした若者たちの茶髪だなー」とイメージ出来る。
そして、「公園デビュー」であれば公園にデビューするという構造でもあり、公園という公園で遊んだり寛いだりする場所のはじめてデビューのベビーカーや赤ちゃんと結びつく。
「シロガネーゼ」は白金(シロカネ)をシロガネと濁りイタリア語の~な人を足して優雅な御婦人を連想させる。
造語とは一から言葉を生み出さなくとも既存の言葉と言葉の足し算でも作れるということを学ぶもので、既存の言葉の足し算だと周知も容易い。
例えば、新規にスコスという造語を作ったとして「スコスは英語のスモール・サークル・オブ・ステーショナリーズの頭文字を取った造語ですよ」と人々に周知することは大変困難だ。
しかし、既存の文字と文字を足し算する造語であれば簡単に理解できる利点もあるもので、最初から最後までコスコやココスだの間違いを修正するのも面倒なので間違いをそのまま受け入れることも減るであろう。
とりあえず、既存の言葉を利用したA+Bの造語の作り方は組み合わせは無限だ。

さっそく、私も上記のような仕組みに従い、敏腕記者になった気分で社会の闇を鋭く切り込む造語を作り出す。

1)寒袖 (”さむそで”と読み、真冬でも半袖短パンで街歩きをしている外国人観光客のこと)
寒い+半袖のイメージが伝わるだろうかと微妙ですが、この二文字構成はこの3個の中で一番むずかしい。

2)ハロウィン封鎖 (そろそろ、わたわたとやる渋谷のハロウィンの季節である)
ノリはトレンチコートを着た刑事(デカ)が無線で「レインボーブリッジは封鎖する?」みたいな感じ。
それにしてもデカと入力して刑事とならない悲しさだ。

3)ヤナゼンタン (タンとかわいいのですが、谷中・根津・千駄木をヤナゼンと濁り、語尾にナポリタン風を足して谷根千のあたりの空想のスパゲティ好きにした)
さてさて、上手に出来たのであろうか?と、そう言えば、ナポリタンはナポリで食べられていないようで、純日本で考案された日本生まれのナポリのスパゲティのようだ。www

やっぱりカオスは素敵だねー☆。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年10月15日(木)
■ふぅ~。
■2026年10月16日(金)
■一日一文章トレーニング。

「接着剤の残量も少なくなって」

タミヤセメントとはプラモデルを接着する為のボンドのこと。
なぜ、プラスチックの接着剤のことをセメント呼ぶのか謎ですが、プラスチックの表面を溶かして接着するからセメントと呼ぶようだ。
私もこのセメントを使う時には消したい接合部分に厚塗りをして、よく乾燥させてからヤスリで表面をキレイに均す使い方だ。
ほぼ接着用というよりも合わせ目消しやヒケた部分を埋める用で、今回もまた壊れたプラスチック部分の補修部分に使用する。
1家に1瓶、割れたプラスチックの修理やプラモデルの合わせ目消しの必需品で、ただし、年に1回2回程度の使用頻度でもあるので本棚の守り神としてホコリをかぶっている。
本棚にボンドとはおかしなお話ですが、大体一般人の瓶入り接着剤の置き場は本棚一択だ。
どこかに収納してコテッとこけて中身が出ても嫌だし、また、置き場所を変更すると次に使用したいと思った時にはどこに仕舞ったのかわからなくなる。
そのような置き場所が決まっているモノは出来るだけ動かさないに限る。
フタを開封すればいつものように強烈なシンナー臭が部屋に広がり溶剤の量も随分と減っている。
さっそくパテ埋めしたヒケた部分にタミヤセメントを盛るべく、フタの内側の刷毛で底に溜まった接着剤を掬い取る。
「あれっ」掬い取れない。
刷毛は底の溶剤にほんの少しつく程度で接着剤を掬うことが出来ない。
接着剤はあるのに接着剤を取り出せない囚人のジレンマならぬ接着剤のジレンマで、フタに付属する固定された刷毛が短くて物理的に底までとどかない。
暫く使わないうちに溶剤も自然に蒸発して、そして、溶剤はまだ底にあるものの取り出せないジレンマで四苦八苦と実験観察中の生物みたいに瓶を横に傾け微かに届くけれども取るに至らずである。
「あれれ?あれれ?」と刷毛ってこんなに短かったっけ?と調べると刷毛が底から数ミリ程浮く状態でデフォルトのようだ。
ピンセットで外して伸ばした状態に出来るという人もいるが手がベトベータとするので試していない。
溶剤も何だか糸引くネバネバ感で塗りにくくなっており、さっそく、成分表を確認すると有機溶剤が89%でスチロール樹脂が11%の構成となる。
どうやら、このネバネバした感じの正体は有機溶剤が蒸発した後に残るスチロール樹脂の粘り気のようだ。
有機溶剤はフタを開ける度に揮発して減少していくもので、スチロール樹脂はもともと接着剤に粘度を持たせる成分でもあり、それは蒸発もほどほどに底に溜まるゆえに濃度も濃くなって糸も引く粘度となる解釈だ。
間違っていたら御免候。
モデラーたちの最適解は新しい溶剤と混ぜ合わせることで、私もそれに習って早速同じもう1本のタミヤセメントを購入して混ぜる。
すると、透明な液体はメラメラと強すぎるアルコールのような揺らめきで混ざり合うもので、そして、若干白く濁ってから、その後落ち着けば無色透明のサラサラな液体となる。
不思議なことはフタを開ける度にメラメラ反応が揺らめくもので、これは新しく買ったセメントでは起こらない。
有機溶剤はあの懐かしきシクロヘキサン(C6H12)、酢酸プチル、アセトンでフタを開ける度に揮発して刷毛に付いた酸素と何か反応しているのでしょうか?
おそらく、タミヤセメントは刷毛が届かないような高さぐらいの量まで減少すると、このように有機溶剤も揮発してネバネバ状態となるかもだ。
されど、ネバネバで合わせ目消しをしても案外キレイに目消しは出来たもので、刷毛が短いのは何かの他に理由があるのかもしれない。

とりあえず、

タミヤセメントの瓶は2つに増えて、積み重ねて置くのも不安定だし置き場所もどうしようかと思う。
そして、その六角形の瓶を手にすれば、これはもしかしてシクロヘキサンの六角形のイメージでもあって何かのデジャブか純文学のような、私の中の透明な何かがメラメラと揺らめく。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年10月16日(金)
■届かぬ想い。
■2026年10月19日(月)
■一日一文章トレーニング。

「我が家のポーション作り」

昼夜問わず勝手に開いては閉まる扉に、誰もいない廊下をミッシミッシと歩く音、恐怖とは絶えず私たちに忍び寄るものだ。
そして、今朝の私にも恐怖の大王が現れるもので、それは去年の11月4日に漬けた漬物を開ければ大王もコンニチワと私もビビる。
流石に見た目がアレで写真はNGで、イメージ画像は今朝作った紅生姜のアップ画である。
ぼんやりと赤が鮮やかで梅酢に漬かった生姜の新鮮さがよく表現された写真だ。
一方、封印されていたフォトはエジプトの底に埋まった漬物汁みたいな茶色さで、最初はこんなにも茶色くは無かった。
フタを開封するとどどめ色というか何というかの茶色く濁った液体の中に同じく茶色いお漬物が漬かるもので、香りも独特で怖い。
漬けた本人以外は誰もこれを食べ物だと認識しないであろう見た目で、今、丁度遊んでいるオブリビオン・リマスターの気色悪い洞窟から見つけたポーションみたいだ。
あんなにも不気味で不潔な飲み物や食べ物をホイホイと食す奴はどのような面(つら)をしているのかと思えば、パカっと容器を開けて「これは食べられるものなのか?」と思う自分の顔だ。
どのような角度から見ても食べられる範疇の代物でも無く、ほぼ、魔除けにも近しい怪しい香りとオーラを漂わせて、我が家の冷蔵庫とか言う魔窟から発掘される。
そして、私はその怪しげな漬物の1本1本丁寧に取り出して新しい容器に移し替える。
自分でもなぜ?それを捨てないのか?と思うもので、知らない人から渡されたならば怖くて絶対に口にしませんが、自分で作ればよく熟成された漬物のお味も気になる。
流石に茶色く泥みたいな不気味な液体は怖くて流しましたが、お箸についた液体を一口舐めればほぼお酢だ。
私はクンクンと匂いを嗅いで大丈夫との判断で、震える唇にその1本を口に運ぶ。
漬物の材料もまた大根の茎というほぼごみのような素材で面白いもので、その横に漬かる赤唐辛子もほぼ茶色で怖い。
そして、梅酢やホエーなど余り物を駆使して作られるものだ。
茶色の食べ物とは料理には有りがちですが、こんなにも真茶色になることもなかなかのホラーだ。
土から掘り起こした木の根っこを食べるイノシシの気分でポリポリと食べれば、約一年ものの漬物にしてはシャキシャキとした新鮮なお味だ。
ただ、お酢も塩味も良く効いており、このお酢のようなシュワシュワ感+脳天にツーンと来るような血流も良くなりそうなハードな感じ。
和のリズムのお漬物でもなく、ピリ辛いけれどもサルサのような陽気なラテンのリズムでもなく、何だかはじめて食べるような強い刺激あるリズムの食べ物だ。

このお漬物の履歴を確認すると下記のようになる。

・R071104に塩漬け。
・R071120に梅酢を投入。
梅干し作り出来た廃液の梅酢を投入している。
・R071127にホエーと塩、砂糖をインする。
なぜ?これらを追加投入しかと思うと、ホエーは水切りヨーグルトを作る過程の廃液で、廃棄するのが勿体ないから入れたような気もする。
そして、ご丁寧に発酵を進めるヨーグルト菌のエサの砂糖も入れる親切ぶりだ。
・R071129に梅干し作りの赤紫蘇から大量生産される自家製の紫蘇の粉をふりける。
紫蘇のふりかけを追加した意味は、おそらく、梅酢の赤色が薄くなり単純に赤紫蘇をふりかけて赤色を濃くしようと思っただけである。たぶん
そのような意味に於いてはすぐに赤色が薄れたかもで、液体に漂う黒い粒も赤紫蘇のふりかけで、このような食べ物の記録を付けることで後から判別できる。
・それ以降漬物は完全に忘却して・・・今日に至る。
・R081019に開封の儀を執り行い一口食べる。
あれから数時間立てども私の体調に異変は見られないので、一応食べ物としての機能は確認できる。

なぜ、このような往年の漬物を掘り出されたかと思えば、冷蔵庫がイッパイだからだ。
我が家の冷凍魔窟は上も下も真ん中も現在収納がイッパイで、最近はアマゾンのバターの半額セールなどもあって冷凍庫もイッパイの魔境となる。
何せ、この前のワールドカップを応援しようと買ったお酒もまだまだ消費されずに冷蔵庫の守り手となり、冬場の涼しい時に冷蔵庫整理も必要だ。
そして、昨晩は生生姜をよく洗い、塩漬けをして、重石を乗せれば今朝はいイイ感じの柔らかさとなる。
そして、その生姜を瓶詰めにして自家製の梅酢に浸せば2週間ほど熟成させれば完成である。

そう言えば、昨晩の塩漬けは我が魔境には落し蓋がなかったもので、実際にはあるにはあるのですが、直径が鍋よりも大きくて使用出来ない落し蓋だ。
フライパンに使うには小さすぎるし、鍋に使うには大きすぎて中に入らないので、捨てるか?捨てないか?と思い棚に仕舞う。
そのような塩漬けする落し蓋の変わりとなるものはご飯などをガスコンロで炊く土釜の内蓋を落とし蓋として活用する。
先日の生落花生の煮込みでは土釜のフタを使いましたが平たい二重構造の内蓋を使えば良いことに気付く。

自家製の梅酢ももうイッパイイッパイで来年に向けてある程度梅酢を消費しないともうこれ以上保存する場所も無く、自家製の紅生姜を作ろうと思い立つものだ。
しかし、自家製の紅生姜を作るのは良いのですが、冷蔵庫の中がイッパイでもう入れる場所は無いと、この魔物の漬物は冷蔵庫内から追放される。
漬物は漬物によって魔窟から追い出されて、私はそれを小さな入れ物に入れ替えて魔窟に戻し、魔窟には新しい自家製の紅生姜も2週間ほど梅酢に漬けられ長期の保存食となる。
梅酢に漬けると絶対に腐らない呆則で、この田舎づくりな紅生姜もまた梅干しと同じく絶対に腐らない保存食となるものだ。
このようにして、我が家の(秘)ポーションは作られ、忘れられる。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年10月19日(月)
■今だ!イノシシにつづいて猛進中!
※一応、空を飛ぶイノシシたちなイメージです。
※一応、ラピュタの最後の空賊たちの乗り物みたいな動きをしています。
※一応、なかなかの上空を飛んでいます。
※一応、イノシシが向かう場所に飛んでいます。
※一応、イノシシしか目的地を知りません。
※一応、成り行きです。
※一応、飛行原理などと野暮なことは言ってはいけません。
※一応、彼らは皆楽しんでいます。
※一応、ママ・イノシシと子供たちと言えばそのような感じです。
※一応、ママは一切ぶれません。
※一応、この動きは楽譜になっているかとの研究もあります。
※一応、外国ではこのような凧(ゲイラカイト)がよく飛んでいるようです。
※一応、絶対音感のある人は音楽に聴こえてくるそうです。
※一応、と言うと応仁の乱のことを思い出します。
※一応、「このタ・・・あのタコが~」と見上げて下さい。
※一応、黄昏時にも真っ昼間にも夜空を飛んでいるようにも見えます。
※一応、何せ白黒なのでイメージ次第です。
※一応、3匹の子豚と言えばそのようなかわいい奴らです。
※一応、永遠に続きそうなので、いったん切ります。
※一応、やっといたヨーは私の解釈では応仁の乱をやっといたヨーとなります。
※一応、彼らは応仁の乱と全く関係ありません。
※一応、応仁の乱では誰が敵で誰が仲間かもわからなかったそうです。
※一応、現代社会も敵の敵は味方かもしれない一応の乱です。
※一応、応じます。
※一応、イノシシの尻尾がかわいいです。
※一応、街でイノシシを見かけたら逃げます。
※一応、母イノシシは遠くの一点を見て猛進しています。
※一応、イノシシの背中に乗せて飛んでいる方がかわいいと思います。
※一応、この柄は来年発行の新紙幣の柄にはならないと思います。
※一応、ママ・イノシシが奏でる音が聴こえてくる頃だと思います。
※一応、これは音楽なのです。
  

■2026年10月19日(月)
■一日一文章トレーニング。

「時を刻む」

東京の狭い集合住宅暮らしに壁掛け時計のハードルは結構高い。
壁に穴を開けるわけにも行かないし、だからと言ってすぐに目の入る場所に時計がないことも不便だ。
そこで考える葛(クズ)な葦(アッシ)も考えて、それはカーテンレールにS字フックを使って壁掛け時計をぶら下げる。
そうすると部屋のどこからでも時計が見えて便利で、毎日チクタクと刻む時間も窓の方を見ればすぐに時刻もわかる。
この時計は日本製メカニズムのコチコチと秒針を刻まない壁掛け時計でシンプルなデザインがお気に入りだ。
壁掛け時計は鳩時計なるものにも憧れる時代もありますが、結局はシンプルなデザインが良いもので、鳩も毎日ポッポしたならばうるさくてたまったものでもない。
学校の教室時計のような白地に赤色秒針が動く感じがベストで、我が家の時計も実にシンプルで大きく見やすい時計だ。
ですが、
最近秒針の40秒らへんで針がカクッとなるもので、そのひっかかりが理由で時刻も遅れる。
今朝も「7時だね」と思えば朝の8時半も過ぎておりビックリで、そのような時計には「お仕置きなのだー」とコンコンと刺激を与えて案外正しい時刻を刻むようにもなる。
そして、衝撃で時計も直ったと思えば忘れた頃にフェイントをかまして嘘時間を表示するもので、正しい時間を知りたい人に嘘時間とは大変迷惑な話でもある。
私もテキトーな嘘を一応言ったりもしているもので、正確さが必要な局面では正しい時計のように努めたい。
時刻が1時間ぐらいズレて困る局面とは何かと考えれば、海外旅行のサマータイム切り替えの時の時間のズレは怖い。
もともとサマータイムに馴染みもないもので、海外旅行中にサマータイムを発動してしまうと??となかなかの珍道中となる。
また、国内でも海外でも旅行当日の1時間のズレは恐ろしい。
私の呆則では旅行前にちょうど時計が壊れたり、電池切れしたりすることも多いもので、海外出張時の時計も壊れて爆睡寝坊でピンポーンピンポーンと自宅のベルを鳴らして起こしに来たベルの音にヤバっと飛び起きて冷や汗だ。
毎日、あれだけの人数を運んでいたならば当然何人かの時計も壊れて寝坊もするだろう。
飛行機で寝坊して乗り遅れたらどうなるのでしょうか。
移動中にハッとパスポートはどこ?みたいな仕草もドキッと怖い。
旅慣れない人の旅ほどに恐ろしきこともないもので、それだからこそ、人は旅もすれば視野も広がり自分もひと皮剥けたなーと大きく思う。
そもそも旅行前に寝坊する奴なんて信じられない!の一言ですが、旅行前の時計とは電池切れや壊れなどで我らを惑わすものである。
そうすると旅行時にしか時間のズレは気にならないようにも思うもので、毎日の時計が多少ズレても気にならない・気になる・気にならない・やっパリと日常生活でも正しい時間を刻んで欲しい。
時計はカーテンレールにS字フックでぶら下がれば窓の開け締めやカーテンを動かす度にコツコツと右左とよく動き多少の衝撃も受けている。
また、毎日トンデモナイ・信じられない量の紫外線に照射されながらもよく頑張って動いたものであり、控えめに言っても我らよりも頑張り屋だ。
そのような功績を褒め称え、今朝「ありがとう」との気持ちで電池をそっと抜く。
電化製品とは電源を空にして数日間放置すれば案外復活することもあるので、それに期待している。

 

■2026年10月19日(月)
■地下鉄。
■2026年10月21日(水)
■一日一文章トレーニング。

「パソコンのゴミデーターを捨てていたら忘れられた今年のTシャツデザインを発掘する」

今年の夏は比較的に過ごしやすかったので、Tシャツを着るような機会も少なく襟付きの半袖をよく着ていた。
例年の溶けるような猛暑だと工事現場の人が着るような新素材の長袖を着て紫外線を完全防護の服装となり、または、ラフなTシャツで涼しく過ごす。
ですが、今年と言えば何だかボタン付きの服ばかりを着て過ごす夏だ。
歳も歳なのでもうTシャツという感じでも無いかもしれないし、そう言えば、十代の頃も頑なにTシャツは拒否な時代もあった。
服装もつれづれなるままに移り変わるもので、私の呆則では「人々の服装も変われば世の中も変わる」ものだ。
それはチクタクと時を進める秒針がカクカクと躓き、人々にちゃんと動けと叩かれて、新しい買い替えの時計を調べてと散々なる壁掛け時計のことであり、時代の変わり目とは正にそのような感じかもだ。w
十代とは自分が格好良いと思う音楽やファッションに心酔するもので、そして、自分の好きなこと以外は完全に軽蔑している。
音楽でも服装でも何でも自分の好きなもの以外は完全に人を見下すもので、似たり寄ったりのどんぐりの背比べな系統の違いでよく対立する。
今の十代がどうなのかわかりませんが思春期とはある意味そのように尖ったロックな部分もある
そして、親父が聴くようなクラシックやジャズ、古いロックを完全に馬鹿にしながらも、そのような音楽にすこす触れると「あれっ、案外良い曲だなー」と時代の垣根を飛び越えた世界の広がりや繋がりも増える。
大人になるまで自分の心酔する世界だけに凝り固まって生きて来たとなればそれは狂気の領域でもあり、人とは幸いにすぐに飽きもして、他の美しきものに触れれば心も混じり合うアルコールのようにメラメラと新たな灯火に惹かれる。
そして、自分が袖付き生活となると案の定のTシャツな人を「だらしないなー」判定する。
これはワイシャツをピシッと着たビジネスマンがラフな格好で街歩きする人を見下すような目線にも似ているもので反省・反省と去年までのだらしない自分を袖に置いて人とは本当に身勝手な生き物だ。
自分が揺れ動いた道に私の全ての目線があるもので、揺れ動く心もまた素晴らしきことだ。

写真はこの夏に作ろうと思っていた2026年Tシャツデザインの下絵。
ゴシック調の絵柄でTシャツを作ろうかと思って絵を描き完全に忘却していた。
Tシャツのデザインとは難しいもので個人的にはメタル系のTシャツのデザインが一番格好良いような気もするものの、自分のリズムとはそのような感じでも無い。
この絵柄のTシャツで街歩きできるかと考えれば何だか小っ恥ずかしいもので、ですが、作るか作らないかは別にしてもTシャツの柄は毎年描いている。
Tシャツの絵柄には世界観があった方が良いように思うもので、この柄はゴシック調をイメージしたものだ。
ゴシック・ホラーにゴスロリ、ゴシック文字風と、ゴシックとはゴシック建築の石のメーソンリー構造のことで、石積みの壁を排してガラス壁を実現する明るく光を取り入れた空間の画期的な発明のようだ。
ですが、ゴシック・ホラーもゴスロリも何だか暗くて黒いイメージで、エジソン以前の世界とはそれほどに闇も暗くローソクを持って室内を歩くような世の中だ。
私の中ではゴシック建築の先端を取り外して付け変えたい飾りを描いているもので、審判みたいな縞々模様の服が良い。

ボツ w

先日からSSDの容量も半分を越えてパソコンの中のゴミをポイポイと捨てる。
お部屋の掃除もパソコンの掃除も時折必要なものでブラウザの開きっぱなしのページも幾多に開いたままに放置していると、これらを開いているだけでもメモリも電力も消費するので削除した方が良いと言われて全部削除する。
削除・削除・ゴミ箱へと、所謂、パソコンの大掃除だーで、そのお掃除過程でSSD容量も増えて、このようなTシャツ原画も発掘される。
本当にデジタルデータとはゴミばかりで、その点、昨今の情報漏洩などで漏れる出るデータとはキレイに整理整頓されて小さくまとまったものかもである。
世の中のデジタルデータとはほとんどゴミばかりなのに大切なデータ程にコンパクトで軽く整理整頓されて移動も容易って何だか本末転倒だ。
そこで、我もこの社会問題に素人考えで勝手に挑むもので、どこかの研究所のデータのように重すぎて転送出来ない文鎮データにすれば良いのではなかろうかと思う。
移動は新幹線に乗って物理的に運んでいます・・・のような1個のファイルがテラテラペタな容量で漏洩も改竄も容易に出来ないカオス。
扱える人も限られる。
このHPもなかなかにカオスな文鎮だよね。w
そのようなマスターデータを包むクソ・データ(クソデ)ならば我におまかせあれ~。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年10月21日(水)
■へイ!地下鉄!
■2026年10月22日(木)
■一日一文章トレーニング。

「大風吹いてヒノキの枝を拾う」

昨日はビュービューと夏のような暖かな大風が吹いて、今朝は柑橘系植物の葉っぱが丸まっている。
まるまるとの表現も変ですが葉っぱの横の部分が葉巻みたいに内側にとじる現象で「大変だー大変だー」とインターネットを調べる。
その原因はどうやら水不足のようで、そりゃ大風も吹けば土も渇いて植物も水不足となるかもだ。
よって、今朝はたっぷりと植物たちに水を与え、そうすれば下の葉っぱから徐々に開き一安心。
いやはや、この柑橘系植物は繊細でとても手がかかる植物だ。
他の植物は乾燥したとしても放置していてもピンピンと元気なのに、この謎の柑橘系植物だけは水分不足でシュンとなり、蝶やイモムシの襲撃では応戦したりと大変で、勿論、寒さにも弱い。
今や植物界のお嬢様よりも手のかかる植物であり、この夏の苦労を思うと枯らさずに大きく育てたい。

大きな風も吹けばと土はカラカラとなり、大風も吹けば我も道に落ちているモノを探しながら歩くもので、昨日は20センチ程のヒノキの枝を拾う。
大風が吹いた後にはいろんなモノが落ちているもので、夏の頃から長期計画でこっそりと落ちるのを狙っている秘密の種?もある。
風吹けば桶屋が儲かるのかどうかですが、確実に私は風吹けば道に落ちた種を拾っている。
そして、拾ったヒノキの枝はリュックのドリンクホルダーに刺してチクタクと進む。
道に落ちているヒノキの枝をロックオンすれば、いつものように数メートル進みながら拾う?拾わない?との茶番劇な葛藤を行い。
「拾う!」と決めれば時の針を戻すように道を戻りて枝を拾う。
本当はもっと大きな立派な枝を拾おうかと思ったのですが、その枝は丁度、私の目の前で路駐か否かとノロノロ運転の車に踏んづけられる。
なぜ、このようなベストタイミングで車がやって来るのかですが、仕方なく別のヒノキの枝を見つけてそれを拾う。
私は街のド真ん中の風で落ちたまだ早いイチョウの銀杏やドングリの実などもバリバリと踏んづけながら道を進むもので、昨日の収穫はヒノキの枝1本だ。w
ヒノキの枝とは絶対に手の届かない場所に生えているもので、風で落ちた枝しか拾う手段は無い。
拾った枝は家に帰ってからよく水洗いして干して、さて、どうしようかと思う。
とりあえず、可愛く飾ってディスプレイにするか。
いやいや、魚料理の香り付け飾りともなるそうでクンクンと嗅ぐと確かに良い香りがする。
しかし、道に落ちていた枝でもあり、いろんな人に踏んづけられたかもと思うと気も進まない。
あれこれと葉っぱを眺めながら、やっぱりヒノキは良い香りで、もう一度キレイに洗浄してから冷蔵庫内で寝かせたパンチェッタの香り付けに使用しようかと思う。
そして、あまりにもペタペタと触っているので枝折れて、もう一度よーく洗おう!

ちょっと前の風の時には同じようなヒノキ系の枝に付いた実も拾う。
それはどうやらサワラという木のようで、見分け方は葉先が丸まっているのがヒノキで、葉先が尖っているのがサワラとなるようだ。
ヒノキとサワラはほぼ同じ見た目で、インターネット上の画像と実物の葉っぱをルーペでガン見しながら、たぶん、これはサワラだなーと判断する。
※(答え):コノテガシワの実でした。
サワラと言えば魚のサワラしか知りませんが、樹木のサワラもあるようだ。
とりあえず、サワラ コノテガシワの実はテーブルの上に放置していると種がパチンと弾けて6種をゲットする。
実際は何の音も鳴っていませんが、種の入った実は花咲くようにキレイに開いて、写真のような6粒の黒い種が飛び出す。
置いているだけで本当に種が飛び出したのが面白くて、実の構造も気になる。
3種は雑草の鉢の上に撒いて、3種は袋に入れて保存する。
芽が出れば良いな。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年10月22日(木)
■秒針~チクタク。
■2026年10月23日(金)
■一日一文章トレーニング。

「私は芸術の秋を堪能する」

昨晩からの空気も一転してまた寒くもなりブルブルと布団に包まりながら起きる。
今朝の室温湿度は23.9℃・39%で5月29日以来のカラカラ乾燥を観測するもので、空気もまた入れ替わる。

そして、昨日の拾ったヒノキの小枝は冷蔵庫の中でカラカラ乾燥中のパンチェッタのお肉のキッチンペーパーの上にそっと置く。
流石に良く洗った枝とは言え、道に落ちていた小枝を直接乾燥肉の上に置くのは気持ち悪い。
せめても、キッチンペーパーの上から良い香りがお肉に移れば良いなと考える。
もし部屋に飾れば杉花粉症のような鼻もムズムズなアレルギーが発生しても嫌であり、冷蔵庫の中に完全に封印じゃーとパンチェッタの上に置く。
そして、怪我の功名というべきか何かで、冷蔵庫を開ける度にフワッと甘くて自然の良い香りがする。
この香りは本当に天然の良い香りでクンクンと、これはおそらくヒノキの香りだ。
私の判断とは大体であっており、大体では間違っているものの、ヒノキの枝を入れるまでは冷蔵庫の中からはこのような良い香りは一切香らなかったので間違いなし。
冷えたお茶ストックの上にパンチェッタがのり、その上に拾ったヒノキの小枝をのせて、何だか数段重ねの生活感も丸出しですが、冷蔵庫の中だけは今や料理研究科先生の冷蔵庫のような上級者の香りが充満している。
「風が吹いたらオレらも儲かる」で、大風が吹いたらオレたちはヒノキの木の下に走り、風で落ちたヒノキの小枝を拾って冷蔵庫の消臭源にする。
所謂、俺等の知恵だ。w

ということで、

写真は冷凍庫内でカチカチに凍らせて乾燥させるキャベツの葉っぱの1枚目。
流石にキャベツの葉っぱを凍らすような履歴もなくて1ヶ月以上は凍らしたような気もするキャベツの葉っぱだ。
半額バターで冷凍庫が埋まり冷凍庫から追い出されて存在を思い出す凍らせた1枚目のキャベツ。
これには自然と生まれる線や色、美があるもので、このように作ろうとも発想も出来ない不思議だ。
何度見ても「何じゃこれ?」となる芸術の秋で、私はそのようなスカスカのキャベツの葉っぱを手に持ちて表から引っくり返してフムフムと思う。
そもそも、どちらが表も裏もないもので、壊さないように丁寧に愛でるカリカリのキャベツだ。
作り方はキャベツの葉っぱを冷凍庫の中に入れるだけ。
実家だと確実に母に勝手に捨ててしまう部類のゴミで、そうでなくとも「絶対に捨ててはダメー」と周知しないと捨てられる一種のゴミだ。
完全にカラカラに乾燥もすればこのような立派な秋のアートとなる。
夜な夜な1枚目のキャベツが出来上がるまでの想いを歌えば風流であり、小宇宙を象っていると思えばユニバースそのもので、不老不死のキャベツと言えば、そのようにだんだんと見えてくる1枚目のキャベツだ。
野菜の葉っぱとは凍結すればキャベツのミイラとなり、こっそりとエジプトの博物館に置き忘れたならば「驚異!!キャベツのミイラが落ちていたー」とスポーツ新聞の1面を飾るであろう。
私は何とかこの1枚目のキャベツを後世に残す為に正倉院の中に入れたいなーと思うもので、その隙を虎視眈々と狙う。www
1枚目のキャベツの想像力とは無限大だ。
キャベツ好きの私でもキャベツの葉っぱは1枚・2枚とめくってから食すもので、大きくて立派なキャベツを見ると1枚目の葉っぱを捨てるのを勿体なく思う。
そのような立派な1枚目のキャベツの葉っぱは食べるには固そうで冷凍保存するに限る。
おそらく、これは1枚目のキャベツの特権で、残念ながら2枚目のキャベツは普通にポイッとゴミ箱行きで3枚目から食べられる。
2枚目には2枚目の苦しみや悩みもあるだろうし、1枚目には境界線を司る1枚目のキャベツの矜持があるようにも思う。
それゆえに、境界線マニアの私も1枚目のキャベツに惹かれる。
外界とキャベツを分ける実際の1枚目の葉っぱとは収穫する時にもう捨てられているであろうもので、これは食卓に並ぶまでの境界線の1枚目のキャベツだ。
どこのご家庭でも冷凍庫で凍らせる定番の遊びはあるもので、ドングリを拾えば実は凍結させて虫退治するもので、1枚目のキャベツもまた冷凍庫の中に長時間入れて凍らせる当たり前の当たり前である。
そして、人は完全に水分の飛んだ1枚目のだキャベツを愛でながら秋を嗜む。
エッヘン。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年10月23日(金)
■これが1枚目のキャベツだゾーウ。