■2022年8月1日(月)
■一日一文章トレーニング。

「アクリルカッター」

いやはや、この二日すごく眠いです。
7月は6月後半から続く猛暑の7月から始まり再び盛り返す猛暑で終わります。
そして、本日は8月、暑い予感。
夏バテせずにしまっていくゼ。
この猛暑の中でも植物界のお嬢や外のサボテンたちはとても元気です。
外のサボテンは当然暑さに強くてモリモリと成長していますが、涼しいお部屋のお嬢もたっぷりの水で葉っぱも青々元気です。
最近は新芽を数センチ伸ばしてネドゥーサのような絡みつく新根を4本伸ばします。
私にとってこの暑さはヘロヘロとなる暑さですが、このような暑い中でも生命がいきいきと成長していることは素晴らしいことです。

ということで。

本日のお題はアクリルカッター。
プラ板やアクリルの板から立体物を作る為のパーツを切り出すカッターです。
先端のかぎ爪部分でひっかいて削ります。
溝を掘り、そして、その溝を何度も何度も深く掘ることで厚いプラスチック板を切り出すことができます。
地道にひっかきひっかいて掘り出す道具。
一度にスパッと言う感じではなく、黒板を爪でキーキー鳴らすような陰湿さで徐々に深く切り込みを入れてパサッと切断。
ある意味、粘着質な道具であり、シャーとひっかく猫やここ掘れワンワンみたいな道具。
もしかしたら、ひっかきとは打力系ほどのインパクトはないかもしれないけで地道に痛くて最強かもしれません。
なので、鋭い爪を持つ生き物を決して怒らせてはいけません。
これは偉大なる人生の教えの一つかもしれません。
プラスチック板の厚みの半分ぐらいまで掘り進むことでポキッと折ることで切断できます。
そのようなアクリルカッターですが今回、ネコ置物を作るにあたり新しいアクリルカッターを購入しています。
新アクリルカッターは形状が進化していて持ち手がすごくフィットした使いやすいカタチです。
マイお道具箱を見ると古いアクリルカッターが3本も!!入っています。

(左から)
1)アクリルサンデーカッター(プラスチック用):こちらの商品は刃が固定式でDo It Your Self と書かれているように刃は砥石で砥いで使用するハードな仕様です。これは横着には扱えない代物です。
2)OLFA P-CUTTER400:旧タイプ(細)。OLFAの刃は使い捨て交換できます。
3)OLFA P-CUTTER800:旧タイプ(太)。今回購入したカッターの旧バージョン。
4)OLFA P-CL:新タイプ(太)。

新旧それらを比較すると車のデザインのように新しいアクリルカッターは今風なデザインです。
アクリルカッターという普通に生活していたら使い道がないマニアックなカッターを四本所有していていることは少し面白いことです。
どんだけ〜アクリルを削るのが大好きなのか?というお話ですが、恐らくアクリルカッターは好きみたい。
仮に私がプラスチック素材だとすると熱に弱いです。
幾度もの猛暑や人生の灼熱な熱波でいびつに曲がりくねり歪なカタチになっているはず。
そんな私のプラ板を削り出すのがアクリルカッター。
削り出し接着してヤスり目消ししてパテ穴埋めして再びヤスってカタチを整える。
造形することは人生みたく地道で奥が深いものです。
(細)タイプは使わない気がするけれども新アクリルカッター(細)も購入しましょう。

 
■2022年8月1日(月)
■プラ板の切り出し。(音付き
 


■2022年8月2日(火)
■一日一文章トレーニング。

「Money Game」

いやはや、昨日は暑かった。
晴れた中で強めの熱風が吹き込む風の強い一日で本日も猛暑らしい。
昨晩は寝ながら暑くて目を覚まします。
クーラーの温度を一度下げたら今度は寒くて目を覚ましと何とも忙しい睡眠です。
1℃の差とは水が凍る凍結しない差にもなる温度の差なので意外に大きい。
天気図を見ると巨大な太平洋高気圧が張り出します。
図を見るだけでも暑い高気圧。
この高気圧を移動させるようなものも何もないので当分暑さは居座り続けそうな予感です。
高気圧が退いたら今度は低気圧や台風の雨で水害も発生します。
なんとも高低の強弱が強くてほどほどであって欲しいものです。

そのような猛暑でも常に元気なのが「お金」です。
強欲な狼が信用しているのは「お金」のみとのお話はありますが、本当に景気の上下も関係なく、災害戦争暴動にも関係なく、地球上でどんな時もハイテンションに動き回っているのは「お金」だけかもしれません。
昨日、そのような外国のお金を眺めていたら、やっぱりフレンチフランのお札は何ともステキなデザインなので深く観察します。
50フランがサン・テグジュペリでステキなイラストが印刷されています。
「象を飲み込んだ蛇」の印もあって異常にかわいい。
当時は1フレンチフランが20円ぐらいだったような記憶があるので1000円札な感じです。
私たちは100フラン札の人物のことを知らなくて、勿論、知ろうと考えるような関心もなくて「100フラン=ぼんくら教授」と呼んでいました。
頭の中では何となく科学者なのかな?と思っていましたが、今回、お札をよく観察するとポール・セザンヌとの表記があります。
ポール・セザンヌどこかで聞き覚えのある名前で、さっそく、ググると画家のお名前でした。
2012年2月18日をもってフラン紙幣とユーロ交換が終了してからの今日はじめて「ぼんくら教授」から「画家」に昇格。
最後までユーロに交換されなかったフラン紙幣は5憶ユーロあるようなので、その内の数枚です。
興味がないものは全く眼中に入らないものです。
それは本当に仕方がないこと。
私たちは見たいものしか見ていないのは現実です。
今の私はネタに飢えた狼みたいなところがあるので「元ぼんくら教授」にも脚光が当たります。
そして、ポール・セザンヌを調べていると「カード遊びする人々」の絵がとても面白くて結構好きです。
いわゆる、ギャンブルする人々の絵でそれはお札にも図像化されています。(笑)
やっぱり、フランスにはすばらしいセンスがあります。
ということで、私も絵の世界を検証する為にラフ画を描きました。
1枚目は3人のカード賭博の図。
ゲームをする後ろに立つパイプをくわえた男Dは恐らく札読みして合図を送るCの仲間です。
せき払いやパイプの煙でスパスパとカタチで表しAやB(鴨)の札をCに伝えています。
Cのリッチマンはそれを見逃さず、音も聞き逃さずに聞き耳を立てます。
B(鴨)も後ろの人物が気になりうつむき必死にカードを隠しています。
Aは後ろのパイプ男Dを警戒してカードを決して見えないようにしています。
2枚目にもAは登場します。
いわば、このシリーズの主役はAです。
Eは骨ばった頬が不気味なガチ勢。
気になるのはワイン瓶。
一枚目の机にはお札がありますが、2枚目に賭けられるお札はなくてワイン瓶だけ。
賭け事の中身は今晩のお酒なのかもしれません。
Aは終始職人のようなポーカーフェイスで勝負に挑みます。
そして、昨日、そのようなギャンブルな世界に現れ出たのが強い風を受ける男。
終始荒ぶる髪の毛。
私にはその男がポール・セザンヌのワイン瓶のように見えてきます。
暑さもありますが、この動画を寝る前に観たせいもあってなかなか寝付けない夜となりました。
以上、全て私の勝手な解釈。
一説によると、この世の中で「お金」より毎日元気な存在は未だ発見されていないようです。
 
■2022年8月2日(火)
■セザンヌの瓶と荒ぶる髪。
■2022年8月3日(水)
■一日一文章トレーニング。

「暑いという言葉しか思いつかない」

暑い。暑すぎます。「サマー」な気分もあって100歩譲っても昼間の暑さには耐えられます。灼熱の太陽を避けて木陰に入らずんば涼を得ることができます。木陰は日中のひとときのオアシス。木や建物の下で風が吹き抜けると、それはそれで例え高気圧の吹き下ろす熱波でさえも涼しく感じます。一方で夜の熱帯夜。これは如何せん全部木陰のようなものなのにどこにいても暑い。熱を帯びた空気の塊が隙間なく体に密着してまとわりつきます。それは逃げ場のない暑さです。日中の暑さよりも苦手。日中に温められた空気は街の隅々に行きわたり、上空から圧しつける太平洋高気圧のエネルギーは放射冷却さえも発動できないパワーも持っているのかもしれません。そういうことでクーラーの効いた涼しいお部屋に逃げませう。「暑い〜サ暑い〜サ」とは言っているのですが、大体は涼しい部屋にいるのでそれなりに涼しく快適に過ごしています。勿論、植物界のお嬢も常に私以上に快適空間にインしています。植物界のお嬢は途中でピッタリと生育を止めていた新芽を最近、急激に伸ばして1日に2センチぐらいペースで新葉を成長させています。その葉っぱの生育はカーテンの向こうの太陽に向かって葉っぱを伸ばす感じです。それは「プリーズ太陽」な感じでパラボラアンテナのように常に太陽の光を追い求めております。太陽光を求めることは植物の習性なのですが、通常は天に向けて葉を広げているところを、この新葉は変わった生え方で真っすぐ葉っぱを立てて伸ばします。そんなに太陽を求めるならば存分に当たってもらうお嬢様ということで、もし炎天下な外に出したならば、強い太陽光や高温ですぐにグッタリとすることはわかりきったことで、今日もお嬢は十分に陽当たりの良い涼しい部屋で鎮座します。ということで、また再び「暑さ」と言う単語に頭が囚われてしまいます。ふ〜。

 
■2022年8月3日(水)
■涼しさ。(自作音源付き
眠たくなる涼し気な音。
■2022年8月4日(木)
■一日一文章トレーニング。

「サイコロ道」

今朝は朝4時に目覚めて、あまりにも早すぎるので二度寝して次に今起きたらならば8時前。
あせって、特攻、突貫で猛スピードで文章を書く。
本日は曇り空、予報では昨晩から雨が降ると聞いてましたが床みても雨が降った様子はありません。
本当に雨は降るのでしょうか?

ということで。

未来を予測するにはコロコロとサイコロを振って未来をゆだねる「サイコロ道」の探究も必要ありそうです。
そこに哲学や理論、抽象概念があるのでしょうか?
それはわかないことです。
なので、実際にサイコロを振って行動で実践してみましょうと意気込みますがここ最近の熱波のこと。
サイコロの目に委ねて動くことは、ものすごく遠回りな行動になる可能性があります。
その寄り道が幸運のサイコロの目ならばギャンブラー思考的にはラッキーな発見となることになるかもしれませんが、しかし、目的地まで遠回りに外をうろうろしていたならば、この暑さで熱射病になるのかもしれません。

(1)まっすぐルートを進む。
(2)左ルート。
(3)右ルート。
(4)戻って左ルート。
(5)戻って右ルート。
(6)前回サイコロを振った位置に戻って再サイコロ。

なんか考えただけでも、人生寄り道だらけすぎて目的地になかなか到着しない予感です。
なので、サイコロに人生をゆだねずに最善のルートであろうと思われる道を選択します。
それは自由権の行使。
ルートを決断する瞬間に新たな未来を切り開いたとも言えます。
そのような訳で、昨日は直射日光を避けて日陰を狙い事務所まで向かいます。
ミンミンミンとセミが鳴く坂道を下り、または上りながら日陰道を進行していると。
それは真夏の炎天下をルーチン道を進むよりも、よほど幸運がつまった選択肢なような気もします。
日陰を進むことにより体感温度も数度低い。(これはラッキーです)
車の通りが少ない広い道ではコンクリートミキサー車が車載の水道水で洗浄しています。
皆、考えることは同じで作業は涼し気な場所で進めたいと考えるものです。
そして、そんなミキサー車の横を通ると洗浄の水しぶきが私に当たります。(アンラッキーです)
ついたコンクリート剥がしている水しぶきに当たることは汚れた水です。
なんか・・・不快感の極み。
文句の一つも言いたいところですが、ぶつぶつと独り言を言いながらそのまま直進します。
工事や作業をしている人たちはドヤ顔で空気を取り込むベストを着ています。
ダウンジャケットのようなそのベストはやはり涼しいのでしょうか。
私もそれを着れば、こそこそと日陰を狙って歩かないでも燦燦と照りつく道を真っ当に進めるかもしれません。
涼しくなるベストとは選択幅の道を増やす道具とも考えられます。
でも、工事の人でもない人間が膨らむ工事ベストを着ているのも見た目にも変だし、私の微々たるファッション魂がそれを拒絶します。
結局のところ日陰道を進んだところでラッキーなことは日陰に入れたことぐらいで、他には何も良いことはありません。
むしろ、ミキサー車の水をかかって不愉快になったぐらいです。
ですが、このような些細な未来への挑戦を続けていると物事や考え方は一方通行ではないということだけは言えるような気がします。

サイコロ
 
■2022年8月4日(木)
■雨雲ウェルカム。
猛暑日記録の更新云々もありましたが、やっと雲が広がりゴロゴロと音も鳴り始めて涼しくなります。
それでも、27℃ぐらい。
ガラス瓶と川と雲は涼しく感じさせるものであります。
共通項はいずれも「透明感・透過性」があること。
逆さのアイデア(不安定なカタチ)として。
セザンヌの「カード遊びをする人々」の絵をもう一度眺めて気になる部分を見つけました。
それはあの瓶のツヤツヤとした素材感とやたらと回りの景色を反射する感じです。
ということは瓶に反射する景色を見ることができます。
ポーカーフェイスのAが瓶に写った対戦相手の横顔や札を観察しているのか?
猛者Eも観察するのか?
単に背後の札読み人の有無を監視する為の道具の可能性もあります。
100フレンチフランにも描かれるこの瓶は絵の中の重要なプレイヤーの一つであることは間違いないです。
この勝負には賭け事のお札が描かれていないので、一見他愛もないカード遊びのようにも思われます。
ですが、逆説的な発想だともっと大きなもの、家や命等とんでもなく大きなものを賭けているようにも思えてきます。
そのような特殊なワイン瓶故に飲むためのコップはありません。
そして、そのような事を頭に入れて見る勝負師二人の顔はなかなかの含蓄深い顔。
お札のデザインにそのようなギャンブルな世界を描くことには、それなりの理由と教訓が潜んでいると考えるのが当然です。
また、丁寧にも照射する光の線までしっかりと記載されています。
「光を感じろ」
若しくは
「光に注意しろ」
(見える部分、見えない部分をわざと描き分けています)
と100フレンチフラン札はそのように語っています。(私の勝手な解釈です)
セザンヌのワイン瓶、それは現代のインフルエンサーにも教訓になるかもしれない「瓶の反射まで気をつけなさい」と言う、もう数センチ深い内容なのかもしれません。
音付き
 
■2022年8月5日(金)
■一日一文章トレーニング。

「航海とサイコロ」

何となくぼんやりと浮かぶ考えです。
大勢の人が振ったサイコロの目がそんなに悪手ではないと考えることについて書いています。
例えば、私がコロンブスのような大航海時代の新大陸を目指す船の船長だとします。
海の向こうに新大陸があると考えるのは船長やそのブレーンの頭の中だけの考えです。
そこに何の根拠もありません。
進んだ先に大陸はあるかもしれないし、永遠の海が続くだけかもしれません。
それは全くの妄想であり不確定な未来と同じく何の確証を与えるものを持っていません。
そこで、冒険の意義、壮大な空想物語を語り、または、自然現象の中から海の向こうに新大陸があるらしき事例を数多く積み重ねて船員を説得します。
不確定な未来に対して、それっぽいフレームワークを用意して乗員を説得することは現代の脱炭素クリーンエネルギー・SDGs〜云々というカタチと手法は同じです。
そして、わからない未来に対してそれっぽい計画を立案することになります。
人生を航海に例える人は多いですが、進行方向は全くの未知の世界であり誰もその先を知る者はいません。
そのような一寸先が闇である未来を手探りで進むことは私たちの生活との共通点です。
そして、船は新大陸を目指して港を出航します。
新大陸探索執行部は方位磁石で方向を定め、シェフを懐柔して食物の量を完全にコントロールしながら進行することになります。
180日分の食料を用意したしたならば、90日進んで何も発見がなければ計画を終了して帰路を戻ることになります。
その意味でもフードコントロールは必須です。
それを怠ると食品ロスや横流しが横行して100日分の食料しかなくなっているかもしれません。
そうすると帰り道の食料は確保されていないことになります。
そして、幾日も海しか見えない航海をしていると船員たちも不安になります。
食料はまだまだ大丈夫だとしても船員の不満や不安が溜まり暴動になってしまうことも予想されます。
そうなると、お縄になって海上に投げ出されるのは船長の私自身です。
幾多のトラブルに対処する為には航海途中の計画変更も必須です。
「ひよっている奴はいねーよな」「行けるとこまで行くぞ」という感じなら問題なく最後まで突き進むことはできますが、そうは行かないはずです。
計画を変更する場合に独善的な意思決定を続ければ、その内に船員の疑心暗鬼から溝が深まることが予想されます。
人とは感情ある生き物で船の中の命とは一心同体の運命共同体です。
そこで登場するのが公平・中立なサイコロやコイントスに運命を託すこと。
1度振られるサイコロよりも全船員の運命を託したサイコロの目に運命を託すことは、確率的にも振られる回数分だけそれなり信憑性も高く皆、納得する方法です。
不確定な未来に対してサイコロで決めることはそれが「正しい・間違い」は別としても全員の意思決定としてはそれなりの納得する正義を貫ける可能性があります。
また、単なる合議だと人気投票になり数の多い船員と数的な不利で負けるのは目に見えてわかります。
サイコロに未来を託すこと。
それは究極の360℃隔絶された海の中で広げられる最善の解決法の一つであるのは間違いないことだと思われます。
先日の英国のFTSE100の中にもギャンブル企業が散見されました。
ギャンブルとはわからない未来の運を賭ける攻防です。
時にはいかさまもあるかもしれませんが、賭け事に未来を委ねることは強ち間違いでないことであります。
日本の停滞という面から見ても「ギャンブル=悪」と決めつける規制や風土がフロンティアに立ち向かう冒険心やその為の洞察力、探究心を欠いている一つの原因になって可能性を潰しているかもしれません。
写真は古い20フレンチフランのお札です。
つづく。

サイコロ
 
■2022年8月5日(金)
■人生行路の荒波に前進する帆船。
■2022年8月6日(土)
■一日一文章トレーニング。

「ドビュッシー」

これは古い20フレンチフラン札(400円札みたいなもの)。
星の王子様50フラン札なる前の一つ前の紙幣デザイン。
手元には2枚の20フラン札があります。
一枚は折れ線もあるけども程々にキレイ、もう一枚はぼろぼろでサイズも一回り小さい。
偽札かな?と思いよく観察すると3人のGal(ギャル)のサインがあります。
・コントローラーのギャル
・レジのギャル
・秘書のギャル
3人のギャルのサイン!!それぞれ役職名も不思議で何のこっちゃ?のサインです。
お札には印刷年度が丁寧に印刷されておりキレイなお札は1991年、くしゃくしゃなお札は1987年で、それぞれ3人のギャルの名前は異なります。
面白いことは1987年にレジ・ギャルであった人は1991年ではコントロール・ギャルに昇格しています。
「ギャル」という肩書はなんかステキな響きです。
無意味に「ル・ストラテジスト・ギャル」などと名刺に書きたい。
勿論、コントローラーでもレジでもいい。
ちなみに、「ギャルソン」は男のウェイターの意味です。
「ギャルソン」の響きも何だかかっこいい。
通し番号の文字がスレているように見えるので、こちらもよく観察すると文字を筆記する時系列順の最初と終わり部分をヒゲ文字で装飾しています。
なので、パソコンタイプでは見たことのないフォントです。
絵は上手下手な感じではありますがドビュッシー(1862-1918)の若い頃の肖像画。
ビートルズみたいなマッシュルームヘアーはこの頃から存在していたようです。
ドビュッシーを検索するとこの次の髪型は91分けぐらいの攻めた髪型となっております。
この記事を書く為にドビュッシーのクラシック音楽をYouTubeで聴きます。
波の絵が描いているので「交響曲海(La Mer)」を聴く、そして、今も聴いている。
一言で言うと難解。
曲の主要なメロディーをつかめなくて曲にも乗れなくて困惑。
これは想像力の欠如なのか?じっと音楽を聴くことの苦痛を感じるけど何とか最後まで聴きます。
5分ぐらいでやっとメロディーっぽくなってキターと思ったらやっぱり謎音に戻り、最後までメロディーらしきメロディーを感じることはできませんでした。
「ザバーザバー」という波打ち際な海の音ではなく海岸沿いの家やクルーズ船の上から広い海を駆け抜ける音楽、映画の主人公のように海上で何かのアクションを始める感じ。
結局のところ、私の知らない海の音でなかなかの苦行。
ドビュッシー好きな方々ごめんなさい。
ということで。
CLAUDE DEBUUSSYの好きな曲を下記に記載します。
「月の光(Clair De Lune)」月で照らされた景色が見えてくるようなとてもいい曲です。
「アラベスクNo.1・No.2(Arabesque)」イスラムの装飾文様の意味で美しい音。
「亜麻色の髪の少女(La Fille Aux Cheveux De Lin)」亜麻色の髪の女の子が麦畑を走っている風景が見えます。
ドビュッシーはピアノや小さな集団で奏でる方が良いような気がすると・・・ド素人みたいな発言で終わります。(実際にその通りの素人です)

最低金額の紙幣がドビュッシーから星の王子様に変わり、そして、今はもはや肖像画もない建築デザインの5ユーロ札に変わることを1991年当時に20フレンチフランを使うフランス人の誰が予測することができたでしょうか。
未来とは常に新大陸を探すことと同じで常に真っ暗な手探り状態にあると言えます。
そして、気づいたポイントポイントで髭文字のように印を付けてそれらの変化を認識しているように思えます。

 
■2022年8月6日(土)
■交響曲海〜〜〜。
■2022年8月7日(日)
■一日一文章トレーニング。

「交響曲猫」

【表】シャッシャッシャッ〜シャッシャッシャッ〜。
昨日は猫置物の表面にひたすらヤスりをかけて過ごしました。(充実した一日)
ヒケた部分に瞬間カラーパテを流してクイックハードスプレーを噴射するとパテはすぐに硬化するので、それを再びヤスリで削って整えます。
ヒケた部分とは少し凹んだ部分のこと。
平面なプラ板を立体に組む時に頑張って正確にあわせても接着する時には若干動いてフラットさを失います。
考えると瞬間接着剤で一枚一枚表面レベルを整えながら接着する方法もありました。
いやいや普通のタミヤセメントで仮止めした方が良いかもしれません。
タミヤセメントで仮止めすると板の角度の微調整は効きます。
でも、接着スピードが遅いから重力に引っ張られて余計に歪んでしまうかもしれません。
やはり、瞬間接着剤かな?
(独り言)
今回の造形はマスキングテープで全体を仮固定してから流し込みタイプのセメントを流して接着しました。
マスキングテープの緩みはそのまま造形の歪みとなります。
なので、結構修正する箇所は多くて表面を磨きヒケや盛りを見つけてはパテ埋めして再びヤスり整えます。
平面の板を立体物として固定する段階でバシっと決まれば削り作業は最小限で済みます。
しかし、プラスチック板の合わせ目が分からなくなるまで磨く必要があるのでどんな作り方をしても結局十分に全体をヤスる必要はあります。
言うなれば、アルミの削り出しならぬプラスチックの削り出し状態。
なので、時間はかかりましたが、それもそんなに間違いではなかったような気もします。
何せはじめて作るものは全て手探りで正解はわからないものです。
そういうことで、昨日は一日中猫置物の表面を削り、プラスチックの表面を削ると大量のマイクロプラスチックが削り出されます。
私はそれが一体どの位溜まるのか?気になって瓶に集めると大さじ1杯ぐらいの量が溜まりました。
それらが海洋に流れ出ることが良くないらしいので、真っ白になった手は不織布のフィルターのついたキッチンの流しで洗います。
それとも、洗浄する前にスライムみたいなネバネバなものを買ってきてそれで拭き取ってから洗う方が環境に良いのかもしれません。
そもそもなのですがワックス(蝋)を削り出すのがゴミも出ないしお手軽で正解だったのかもしれません。

【裏】シャッシャッシャッ〜シャッシャッシャッ〜。
「静かさや部屋にしみいる削る音」(季語無し)byモデラ蕉。
聞き耳を立てると静かな部屋の中にプラスチックを削る音だけが響きます。削る音とはとても小さくて逆に部屋の中がより深い静寂に包まれます。プラスチックの表面をヤスりで成形すると頑張りに応じた表面のツルツルになります。削る時の心境は無心に近い状態です。しかし、いやいや、突然にも雑念はブワ〜と湧いてきます。どんなにしょうもない雑念かと言うと、午後3時、おやつの時間。シャッシャッシャッ〜シャッシャッシャッ〜と削り音が響く中で「ピンポン」とインターホンが鳴ります。来客です。土曜日の午後3時に誰がやって来たのでしょう。「はいはいはい」と扉を開けるとスーツ姿のビジネスマンが立っています。男はマイクロプラスチック絶対禁止協会から派遣された者で、どうやら、私が削り出しているマイクロプラスチックのカスを注意しに来たようです。私は「マイクロプラスチックは全て体内に取り込みました」と適当なことを言って扉を閉めました。何とも雑な話。

というように、ヤスリで削っている時には本当にくだらないことしか考えておりません。そもそも、無心で削っている時に脳がまともに起動しているのかも疑わしい。写真は製作途中の猫置物で徐々に完成してきております。透明素材で内面や製作の歴史がそのままに反映されて汚く見えますが、見た目よりも表面はずいぶんキレイに仕上がっています。内面は汚れているとはあまり褒められたことではありませんが、スプレーを吹けば全て隠せてそれなりのフィギュアの完成です。ですが、目標はこの造形のデュプリケイトなので出来る限りの美しさを目指したいです。このような作業をしている時は普段と正反対な完璧主義者に変貌しております。

 
■2022年8月7日(日)
■BANQUE DE FRANCEの3人のギャル。(秘書・コントロール・レジ)
自作音付き動画
■2022年8月8日(月)
■一日一文章トレーニング。

「ヤスリ」

ヤスリがけするということは同時に無心という副産物を生み出します。
削り具合を確かめることはありますが、基本的に削る以外の事柄はあまり何も考えていないものであります。
言うなれば雑念の少ない状態。
そのような脳みその休憩中でも手の運動神経だけはせわしくせっせと激しく動いていることは何か面白いことです。
ですが、もっと面白いと思うのがヤスリそのものの機能に存在します。
それは大きな傷や歪みを正す為に小さな数の傷を付けて傷を抹消すること。
(1)100〜400番台のヤスリで表面を粗く削ると表面の傷は広がり曇った表面となります。
(2)1000〜番台の細かい目のヤスリで小さな傷を無数に付けて磨いていくこと次第に曇った表面は晴れてツルツルとした美しい輝きを見せます。
※小さなたくさんのキズは大きな傷を癒すのかもしれない。
目の粗さの違いは削られた表面の粗さの違いとして見え方は異なりますが、それは時間を節約する為の効率的な削り方の違いで基本的には同じこと。
ヤスリの概念に何かの呆則を求めるとするならば、それは修正したいと考えるものには同質のものをぶつけることがそれらを正す方法となります。
・傷を消すにはより細かい傷を付けて傷を消す。
・へこみをなくすには後ろから叩いてへこみ返す。
・Aを正すにはA‘という同質のものをぶつける。
・Bというテンションの人物には同質のB‘というテンションの人物をあてがう。
・巨悪を潰すには悪をぶつけるというのもヤスリ的な考え方です。
ヤスリの法則に従えば何かを正すには同質の何かをぶつけるのが一つのやり方です。
これは「目には目を歯には歯を」的な直球型ではありますが、普遍的な一つの物理法則であるようにも思えます。
ならば、同質なものを使わずに別な方法で傷を取り去る方法はあるのでしょうか。

・表面を溶かして型に入れ直して成形し直す。→なんか面倒くさい。
・パーツごと取り外して(排除)取り換える。→簡単で便利で一般的な修理の方法なのかもしれません。
・そもそも傷が見えないように隠してしまう。→日本的な隠ぺい質な解決策かも。
・全面に傷を付けて傷が気にならないハードな表面にする。→見てられないけれどもパンクですね。
・ワックスコーティングを施して傷を目立たなくさせる。→車のボディーのコーティング。
・傷を気にしない。→気にしなければ何も問題はありません。
物を使用していれば傷とは常に付いてしまうものです。
傷を隠す方法、傷を修復する方法、様々のやり方が考えられますが、傷と無縁でいることはムリなことであります。
私たちは傷とは逃れられない宿命にあり、それら傷は時に勲章や思い出の愛着のキズとなる時もあります。
要は傷と向き合う時の考え方に影響される傷であるかもしれなくて、その気持ち次第で対処法も変わってきます。
なので、キズとのファーストタッチはとても重要なのかもしれません。

写真は製作中の猫置物。
グリーンイエローな部分はヒケたところにパテを埋めして平らに加工しました。

 
■2022年8月8日(月)
■やすりで磨いている時は無心です。
音源付き
■2022年8月9日(火)
■一日一文章トレーニング。

「麦藁帽子」

いやはや暑さ再来、そして今日も暑い一日の予感です。
昨日はこの夏に購入した新しい麦わら帽子をかぶり意気揚々と歩きます。
麦わら帽子はキャップと違い通気性が良いので頭が蒸れにくいのが特徴です。
しかし、麦わら帽子は風をキャッチする能力に優れているようで少しの風でも「危な〜い」と飛ばされそうになります。
風に飛ばされないようにするには帽子を深く被る必要があります。
そうすると、帽子と頭の空間がなくなりせっかくの通気性も半減します。
それでも、編まれたわらの隙間から太陽光がもれる様子は木漏れ日のような美しさもあってやっぱり涼しい。
そんな藁の隙間からもれる光を観察しようとギョロッと変顔で上のつばを見るのですが、近すぎて間抜け顔なれどもあまり良く見えません。
ならば、帽子を手にとり太陽にかざして麦わら帽子から漏れ出る光の美しさを写真に収めようとするのですが、片手スマホでは撮影ボタンを上手く押すこともできません。
なので、撮った写真はどこを撮っているのかフレームに帽子さえ入っていない謎写真です。
頭上の自然な木陰はそれなりの快適さがありますが、そんな小さな満足はすぐに風によって吹き飛ばされます。
それは暑さを押し付けてくる高気圧の風。
麦藁帽子とは軽くて風をキャッチする形状をしているのかよく飛びます。
突風はもちろんですが微風でも「おまえはフリスビーか?」と思うぐらいに風を捉える能力にたけています。
多分、フリスビー発明者は麦わら帽子を飛ばして遊んだことがキッカケではないかと思います。
歩いている時に2回、座って水分補給の間に置いているだけでも風をキャッチしてふわふわと動いています。
麦わら帽子のカタチとは飛行機の形状としても優秀なのでは思う位に風のエネルギーを上手に捉えます。
歩行中に帽子が飛ばされることは危険です。
とは言え、常に風の動きを察知しながら帽子を押さえて歩くのもしんどいことです。
信号待ちの交差点で携帯をチェックしようと気を抜いた瞬間に突風で麦わら帽子をすっ飛びます。
コロコロとつば部分をタイヤにして良く転がり、途中の追い風を受けて加速すると流石にビビり走って追いかけます。
帽子を追いかける人ってアニメや絵本以外ではあまり見た記憶はありません。
物語的に考えると帽子が飛ばされた先に運命の人や異次元の扉があって物語が始まります。
私の場合は走る帽子に自分で追いつて自分でキャッチしました。
物語の始まりはいらないので風で飛ばされない「安定」が必要です。
タイヤの発明も風に飛ばされる麦わら帽子ではないかと思う位の美しい走行を見せてくれて、風で飛ばされる麦わら帽子とは様々な発明の原石なのかもしれないと確信できます。
そして、おニューな帽子が車の道路に飛ばされて轢かれる姿は決して見たくありませんので、麦わら帽子にひもを通す改造を施したいです。

 
■2022年8月9日(火)
■風で飛ぶ。
■2022年8月10日(水)
■一日一文章トレーニング。

「鳩の羽根」

いやはや本格的に暑くなってきました。
そして、昨日も砂を舞い上げるような高気圧な突風が吹き荒れて、猛暑日記録更新888ということで6月後半からの余計な暑さ分だけの記録更新は進みそうな勢いであると戦術予報士スメラギさんは予測します。
そんな人通り少ない猛暑日の中で大量の鳩がコッコロコッコロと集う場所を見つけます。
何度か通ったことのある道ではありますがこんなにたくさんの鳩を見るのは初めてのこと。
この場所は昔、あーさんと真昼間の階段を上っていた時に後ろからタッタッターと小さな子供が駆け足で走ってくる音がして振り返ったら誰もいなくて二人で「怖いねー」となった場所の下。
そこには新鮮なキレイな鳩の羽根がたくさん落ちています。
鳩の羽根とは私にとって今もっともいらないものではありますが、どの羽根もとてもキレイでさっき抜けたような新鮮ホヤホヤな羽根ばかり。
これはもう拾うしかありません。
さっそく鳩の群れが集うその場所に入り込み羽根を拾います。
羽根はたくさん落ちているのでキレイな羽根だけを狙います。
その様子はジョーズがビーチの人波を切り裂くように鳩の群れに切り込んで行く感じで鳩は次々に飛び立ちます。
飛び立ったと言っても遠くに逃げる訳でもなく上の大木の枝上に逃げています。
そして、私は鳩がいなくなった砂場の中からキレイな5本の状態の良い羽根だけを拾い、ボロボロで臭そうな大きく黒いカラスの羽根などは無視。
「おっと危ねえ」と頭上からぼたぼたと鳩の糞が降ってきます。
鳩の嫌がらせなのか・・・若干、私を狙って糞を投下しているような気がします。
鳥って何かしらの知恵を持っているのではと思うことが多々あります。
上を見ると木の枝には鳩がビッシリとひきしめあっていて「これは危ねえ」と一旦退避。
鳥フンとは水っぽくて気持ち悪いし病原菌もいそうな程に不潔です。
また、一旦乾くと白く頑固にこびりつく強靭度もあります。
乾燥した鳥フンとは防水性のあるアクリル絵の具と同類です。
少し離れた場所で鳩観察をしているとすぐに鳩の群れはすぐにバサバサと地面に舞い降りてきて再び大量の鳩でわいわいと賑やかになります。
そして、眺めてわかったのですが、今日のこの場所は「鳩の出会い広場」です。
普段、まばらにいる鳥たちがどのようなコミュニケーションでこの場所に集ってくるのかは謎ですが「何てこった!」で次々に鳩が交尾しています。
流石にこれ以上観察することはありませんが、上に乗っかった鳩が下の鳩の羽根をわざと引っこ抜いているような気もします。
自然に抜けた羽根ではなくて人為的ならぬ鳥為的に引っこ抜いた羽根。
このクソ暑い炎天下の日陰、日向に関わらず猛暑の中でも鳩は元気なので、これからも子孫繁栄していくだろうと戦術予報士スメラギさんは予測します。
勿論、鳩の羽根に透過性は全くありません。
いつでも、どこでも落ちている鳩の羽根、もう一枚たりともいらない羽根です。

 
■2022年8月10日(水)
■恐怖の鳥フン注意報。
■2022年8月11日(木)
■一日一文章トレーニング。

「6戦0勝」

先日、苦痛にへし折られたバーンスタインのドビュッシーの「交響曲海」。お札に描かれる位に重要な楽曲でありとても難解。交響曲にとってリズムとは死語なのでしょうか?とクラシック音楽とはこのぐらい抽象的に演奏しないとカッコが悪かったりもするのかもしれません。そのような気持ちは理解できます。私も好きなものに対してマニアックにこだわります。私が文房具好きだからと言って、どのような文房具でも好きな訳ではありません。私が好きなのは海外の普通な事務的文具であり、一般受けするようなわかりやすい”もの”を逆に毛嫌いする傾向もあります。好きなものほど、その人なりのこだわりがあり、そのような複雑な気持ちがわかるからこそ「交響曲海」にも同様の私の知らない見えない世界があるような気がします。YouTubeのコメント欄を読むと絶賛の嵐。クラシック音楽通に刺さる何かがそこにはあります。そのような訳で、聴く度に混迷を深める「交響曲海」の魅力とは何なのか?とても気になります。もしかしたら、演奏中にモスキート音のような私には聴こえないメロディーが流れているのかもしれないと恐怖しますが、それは真夏の夜の節穴話し。私の耳はノイズ音ばかりのパンクに心を躍らせる少しおかしなところもあります。もしくは、これが対位法?という概念なのかもしれません。複数の旋律が合わさる楽器の楽しみを知らないという可能性もあります。現にメロディーらしき音が現れるとすぐに分裂して壊れます。これは波の崩壊というものを表現しているのかもしれません。口ずさみもできない掴みどころのない曲。大勢の人が抽象的な音楽を楽譜通り演奏するところは面白いところ。私が交響団の隅っこで自由に縦笛を拭いていても観客の誰一人も間違いに気づかない位に馴染みそうです。とりあえず、クラシック音楽に耳慣れないことは問題です。こういう時には意味がわからなくとも何度も音楽を聴くことによって耳を馴染せる必要があります。日々の屁理屈+独自解釈を発動させながら5度目の「交響曲海」に再挑戦。そして、5度目も見事に撃沈して何度でも挑もうバーンスタイン。指揮者のバーンスタインの髪型がカッコ良い。シンバリストのクローズアップで叩くシーン(13:26)は一つの見所です。ですが、「交響曲海」の旋律はやっぱりつかめません。もはや、ちゃんとした楽譜がなくて、ところどころに「適当に演奏する」という指示があっても驚きはしません。ウィキペディアの詳細を読むと、この曲は北斎の富嶽百景の有名な荒波の絵にインスピレーションされて作られた曲のようで、1章「サンギネール諸島付近の美しい海」、2章「波の戯れ」、3章「風が海を踊らせる」とあります。サンギネール諸島とは地中海の島。(以後全部推測です)青い海と白い家々、岩肌のむき出しな海岸線の向こうに静かな海。その後、地中海は内海なので波と波がゆっくりとぶつかり合う様子を眺めて、その後に嵐の到来で海も大きくうねります。もう一度、これら見たことも行ったこともない情景を頭に入れて6度目のバーンスタインに挑みます。するとメロディーというのは波形であることを感じることができます。バーンスタインの手の動きは波の動きであり、楽器ごとに波は新しく生まれては旋律を運び、すぐに他の波と波がぶつかり合い打ち消されます。そのような理由から全体として流れる明確なメロディーは存在しないと考えます。そもそもタイトルも「交響詩海」という名前でした。詩とはどういうことなのでしょうか?、それでいて指揮者の棒は1本でした(( ゚Д゚))。自分がわからないことをそれを音楽を文章化するのってとっても難しいことです。

 
■2022年8月11日(木)
■波。

■2022年8月12日(金)
■一日一文章トレーニング。

「ドラクロワのお札」

ということで、100の文字が中抜きで安っぽい感じの古い100フレンチフラン札。
絵を見れば民衆を率いる女神の絵なのですぐにドラクロワだとすぐにわかります。
フランス語で書くとEUGENE DELACROIXでどこをどう読めばウェジーヌ・ドラクロワとは読めるのでしょうか。
ジャンボン・フロマージュという国民食なチーズ入りサンドイッチをジャンボン・フロマーゲと発音したら食べ物屋のお兄さんが何かすごいオーバーアクションで「フロマージュだよ」と教えてくれたことを思い出されます。
フランス語の発音はとても難しい。
このシリーズのお札の都合上は微妙な斜線のタッチで描かれます。
下手か上手いかと問われるとあまり上手とは言えないクセのある画風ですが、ドラクロワの原画よりも描き手の個性が前面に出た感じがして、その主張の強さがフランスっぽい。
このようなタッチのお札っぽくない感じは斬新と言えば斬新。
また、紙幣に裸を載せることも新しい。
これはフランスの女神なので人間ではないだろうし、ゆるい画風だから気にならないと言えば気になりません。
ですが、実際の絵よりも何か精巧に描いていることが少し気になります。
シルクハットを被ったドラクロワ自身を描いた位置に肖像画を重ねたお札な構図で、ウィキのドラクロワの絵も比較すると微妙に別人で本人写真とも異なります。
これは西郷さんの銅像がどれも微妙に顔が異なっていることに似ています。
それは何か昭和的なホッとする”ゆるさ”です。
私はそのような“ゆるさ”はガチガチで上げ足を取られまいと常時防衛を施さないといけない世知辛い世の中と比べても結構好き。
女神よりも先陣を切って攻め入る両手拳銃の少年はどこのお子様なのでしょうか。
いつの時代も中二病とは洋の東西を問わずに普遍的な呆則を持っているようです。
やっぱり、2丁拳銃の少年とは紙幣の意匠に必要不可欠な存在です。
勿論、3人のギャルのサインも記載されています。
面白いと思うところはいずれも1989年印刷の3枚の100フレンチフラン札を持っていているのですが3枚の内2枚の透かしが枠からはみ出る版ズレを起こしています。
裏面には刑法第139条で紙幣の偽造、変造には無期懲役で処罰すると警告文が書かれているのですが、何ともゆるい。
フランスの紙幣はこの紙幣でも星の王子様紙幣でも表と裏の肖像画は表裏ピタリと合わせるこだわりの印刷技術を持っています。
なのに、透かし部分でこだわり部分は途切れてしまいました。
ひょっとしたら珍しい版ズレ紙幣なのかもしれません。
透かし印刷って最近見たことがないので後で見てみましょう。
ちなみに、オモテ面は絵筆のパレットを持つドラクロワで、ウラ面は鳥の羽根の筆を持つドラクロワです。
ドラクロワは作家でもあったのかと思い調べたら、どうやら絵や音楽、出来事について日記を書いていたようです。
内容は全くわかりませんが、昔の人の日記って当時の人がどのようなことを考えていたのかわかるので内容は少し気になります。

 
■2022年8月12日(金)
■関東直撃ルートの小さくて移動速度の速い台風は破壊力あるので要警戒です。
■2022年8月13日(土)
■一日一文章トレーニング。

「カマンベールおにぎり」

上空の雲の動きも外の空気も静かです。
「嵐の前の静けさ」で本当に台風はやって来るの?と毎度思うことなのですが、今「ビュ〜」と一風だけ吹きました。
台風の動きが気になると全ての行動が制限されるので朝起きたら過ぎ去っていたと言うのが一番良いことです。
天気図を見たら台風8号は紀伊半島の沖にいます。
台風の予報円は関東を直撃ルートのようなので念の為、外に置いているものは飛ばされないように片付けました。
衛星画像も見たら台風の目がよくわからないカタチをしています。
過去の画像に戻ってもそんなにハッキリした目がないのでそのような台風みたいです。
雨が降りそうな時に役立つ雨雲レーダーもあります。
最近ではかわいいインベーダーみたいな雨雲が東京上空に発見されて話題にもなりましたが、雨雲レーダーの模様は様々なカタチで色もキレイなので見ているだけでも楽しいです。
天気予報を見ることは天気図衛星写真雨雲レーダーといろんな情報を複合的に見るので何だか大変な作業です。

「固定概念をぶっ潰せ」ということで、おにぎりにカマンベールチーズを入れました。
入れるというよりもおにぎりに押し込む感じのカマンベール。
チーズとごはんの組み合わせは最悪な組み合わせのような気もしますが、食べるとそれは案外おいしい。
予想外の美味しさではありますが、少し欲を言うとあともう少しのパンチな味が欲しい。
梅干し程のクセ強い味とはいきませんが、焼きたらこ程度の存在感は欲しいかも。
チーズを炙ってとろけさせると美味しくなるかもと思いましたが、チーズに焦げ目がついただけで特に味に変化なし。
焼くことによって逆にチーズの塩分も弱まった感じもします。
ピザの上にはサラミやきのこ、いか、海老、焼かれたトマトをトッピングします。
おにぎりの中にトマトは少し気持ち悪いかもしれませんが、スペイン料理のパエリヤは美味しいご飯です。
イカの歯ごたえはおにぎりの携帯性に合うのでしょうか。
チーズと言えば、肉やソーセージが美味しいので焼いたソーセージ+カマンベールチーズの組み合わせでも美味しいかもしれません。
焼くのは面倒なので塩分強目のハムやサラミをカマンベールに巻き込むと洋風なおにぎりになります。
ウィンナーならやっぱり表面がパリッとする皮のものが良いです。
皮に歯ごたえのないウィンナーは美味しさが半減。
関係ないけど、スーパーでウィンナーの袋を買うと「ウィンナーはそのまま食べることができます」(ドヤっ)と後ろに小さな字で書かれおり、人が集まる場所で生のウィンナーをぼりぼりと食べていたら「正気なの?」と思うはずでウィンナーを焼かずに生で食べることには多少の抵抗はあります。
なので、生のウィンナーは少し気味が悪いです。
ハムやサラミは気にもせずに生で食べている訳で、特にサラミなどは同じような腸詰っぽい加工食品なので大丈夫ということなのかもしれません。

いろいろと考えて思ったことなのですが、食に対する美意識の範囲を極限まで広く構えることできれば、ご飯の進むおかずの全てはおにぎりの具材となる可能性があります。
ということで、おにぎりの具はまだまだ無限大。
文章であれやこれやと書いていないでさっさと作ってみなされと言うお話かもしれませんが、この地球上で最も重いものが「初動」かもしれないということは本当のことで、今、二番目の風が吹きました。

 
■2022年8月13日(土)
■カギ。
■2022年8月14日(日)
■一日一文章トレーニング。

「芯を得て技を得ず」

 毎日書かないといけないことは何もなく。2日後に書こうが、3年後に書く算段でも、又は何も書かなくとも問題はありません。書いても書かなくとも世の中に変化は起こらないもの。それでも、何かしらの何かを書きたい思うことがあり筆を進めます。(キーボードをトントンと入力)それは「百害あって一利なし」の変わった行為であります。それらは私の人間性の欠如を自ら強調するだけのことのようにも思えます。ですが、恥とは慎んで受け入れましょう。人とは笑われてこその人生です。それは隠すか隠さないかの違いです。私も十二分に変わっておりますが、皆もなかなかのものを持っています。日本人とはほぼ100%クセあり。どんなに人当たりが良さそうな人でも頑固でない日本人は見たことがなく。何かしらのこだわりや譲れない慣習や事柄があります。一般的に個性的で自己主張の強い外国人よりも実は日本人の方がよっぽど個性的で変わっているのではないかと思ったりする時もあります。本音と建て前の二面性を使い分けで何を考えているのか一様に判断が難しく、それらに対応することは人一倍の気苦労が必要です。それでいて、突然の同調圧力にしなやかに対応する素直な面も持っています。日本人とは人一倍ややこしく複雑。そして、そのようなややこしさの対応する為には「人の芯」なる概念があると便利だと思います。それがあればヘタに流されずそれなりの平穏を保つことができます。私の場合、人の芯とは考えていることを文章化することで自分の芯や他人の芯を見つけ出します。人の芯は文章を書かなくても、職人なら「技量蓄積の芯」から何かの芯を見出すだろうし、好きな”もの”を収集する人は集まった「ものの芯」で構成されているはずです。毎日続ける中で“人の芯”とはコツコツと積み上がり、自分の中に芯が構築できると、他人の芯の存在も見えてきます。そして、芯は1本ではなく複数持っていた方が良くて、いろんな芯を使い分けることができれば尚良い。芯あればこその芯ではありますが、それは単なる芯なのでトイレットペーパーのような中がスカスカな芯なのかもしれない。あくまでも芯なので果実の実(主役)ではなく、実を育てる時に絶対の必需品ではありますが美味しく実を頂いたらポイっと捨てられるゴミです。種は付いているので運が良ければ新芽が出てくるかもしれません。これら全ての芯は屋台骨を作る背骨のようなものではなくて物差しのようなものです。

 毎日訓練すればそれなりに書けるようになるのがトレーニングの習慣。それでも何を書くかとなると、そこに存在するのはもはや力業。一本背負いはできないけど、体落としや大外刈りで行くか。むしろ、キックや引っかきの反則技も厭わない悪役レスラーのようなノリも必要です。四方八方にアンテナを立てて、野犬や狼のような嗅覚でネタを探る。実は私の鼻はイヌ科の鼻ではなくて「ブヒブヒ」と鳴るブタ鼻なのかもしれないと最近思います。人と話している時に突然「フンガー」と鼻から出る音に私も人も驚きます。人の鼻からブタ音が出てくるとは誰も予期しないこと。ですが、時折そのような音が当然出ます。そんな時に人の鼻はブタの鼻に似ているように思います。それは単に鼻からブタみたいな音が出たからそう思っているだけの安直な考え。一日一文章トレーニングを続けると言うことには正にそのような話が重要で、私の鼻が犬鼻であろうとブタ鼻であろうと本当にどうでも良いことのように思われますが、豚か犬かの違いはとても重大な発見でもあります。犬の鼻からは嬉しさ余りの「プシュー」な鼻汁が飛び出して、顔を当たると「わ〜犬ちゃん何するの?」となります。豚の鼻汁はちょっとわからない。そして、本日のテーマはブヒブヒと「台風」のこと。台風は関東平野に雲の子供たちを残して北上しましたが、私は台風でお家に缶詰されていたので、それなりにデータ収集もできました。データに基づいて文章を書くことは、何かエビデンス種族みたいな“できる人”の予感です。毎日の文章トレーニングにデータを紐づけることは物理的に無理。朝起きに必要なのは文章を書くことの勢いで、データ武装で内容の正当性を高めることではありません。何せ文章を内容や文の構造を考えるだけで精一杯。表現の多彩さのようなものには憧れますが文豪のような文章は未だ書けません。目指すはブラジルサッカーではなく、論や小言が多そうなドイツサッカーが目標なのかもしれません。ドイツとなると目標が高すぎて怖気づきます。とりあえず、毎日文章を書いていても人なりの芯を感じることはできますが、文章表現はいっこうに上手くなりそうな予感はない。最近ではシンプルに書くことも疎かになり文章表現が後退しているのではないかと危惧します。「質より量」なモードなのでそれは仕方がないことかな。

ということで。

「台風」のお話は明日につづく

 
■2022年8月14日(日)
■向かい風・カラス風。

■2022年8月15日(月)
■一日一文章トレーニング。

「夏の自由研究・台風」

ネットで「台風経路図」というのを見つけたので見る。
1951年からの台風の「接近」と「上陸」の経路図が描かれています。
台風の動きを実線で辿ることは何か面白いこと。
その線は台風の中心点を結んでいくような感じでしょうか。
台風は年間約26個発生して、約8個接近、約3個上陸するのが平均的な動きです。
※データは見直しなしの数字なので間違いがあるかもしれません。
※台風の数え方は「個」で良いみたい。
台風が全く上陸しない年も統計開始の71年間で4回あります。
台風は接近するだけでも空気をかき混ぜて日本列島の気候に影響を及ぼします。
なので、一年間に発生する台風の内に半分近くが温かい空気や冷たい空気を運び、私たちの生活環境に直接的な影響を及ぼします。
台風の移動方向を決めるのは気圧配置や偏西風、海水温など様々な要因です。
そのような動きはスーパーコンピューターでシュミレーションされています。
台風とは南の太平洋上で発生するものです。
なので、当然、南の下からやってくるものと考えますが、ある時には日本列島をぐるりと回り日本海側の北から上陸することもあります。
北からの台風上陸は斬新です。
また、ある台風は一度上陸してから再び上陸するなど結構自由に動き回ります。
台風が通過してからその経路について考えることは、まずあり得ないことなので「台風経路図」とは面白い情報です。
台風上陸の多そうな地域と言えば紀伊半島なイメージがあります。
なので、そこを中心に「西日本」「紀伊半島」「東日本」の3地域に分けました。
※あくまでも台風の最初に上陸する位置の特定です。
そうすると、台風の約60%は西日本の広い地域から上陸して、紀伊半島には約15%、東日本には約25%の割合で上陸しています。
紀伊半島という狭い地域に15%はそれなりに多い回数だと思います。
しかし、2000年代に入ってからの22年間で紀伊半島への上陸は総数5回と激減します。
東日本への台風上陸は平均1増える。
1が大きいか小さいのか意見が分かれそうですが。
この理由は何だろうと考えると今までは紀伊半島に上陸していた台風が今回の台風のように東日本側に方向を変えていることが原因のような気もします。
その理由は海水温の上昇にあるのかもと思いググったら確かに海水温は上昇しているようです。
1982年の海水温度24℃帯が四国ぐらいであったのに、1989年では千葉辺り、2022年では福島当たりに北上しています。(7月平均海水温)
気になる部分では中国の経済発展に伴い黄海の海水温がこの数年で真っ赤に急上昇しているので、その影響で日本海側の海水温も上昇しています。
日本海側は熱を逃がすスペースが小さいので永続的に温暖化しないか心配です。
最近、特に暑く感じる気候の変化は陸地部分で熱される影響もありますが、海水温の上昇の影響も大きいような気もします。
海水温のデータとは詳細なものは落ちていなくて古いデータもありません。
潮の流れで急激に海水温度が入れ替わる可能性もありますが、日本の近海・海水温上昇は間違いないことのようです。
同じ年の台風は同じような経路を通ることが多いので海水温度の変化は気温の変化よりもゆっくりな可能性もあります。
そのような感じで海水温の上昇がこのところ東日本地域への台風上陸が徐々に増えている原因の一つなのかもしれません。
温かい海水温度帯に沿って台風が移動する感じ。
台風の動きから変化を感じるとすると1989年の平成元年がティッピングポイントではないかと思います。
この年代以降、紀伊半島上陸が徐々に東日本地域上陸に切り替わっていくように見えます。
台風とは暴風雨や大風で私たちの生活にとっては忌み嫌われる存在ではりますが、一方で空気や海水をグルグルとかき混ぜて冷やしてくれる存在でもあります。
台風とは大きくて凶暴ではありますがナウシカに於けるオウム類や腐海のような存在なのかもしれません。
「台風経路図」からそのようなことを思いました。

 
■2022年8月15日(月)
■ウミネコ。NTTのマークみたいな目が最近気に入っている。


■2022年8月16日(火)
■一日一文章トレーニング。

「夏の自由研究・黄色い頭」

家中のサイコロを一つのビンに集めます。
サイコロは四方八方のいろんな引き出しや収納箱に分散して散らばります。
ドラゴンボールのようにサイコロを集めたら願いは叶うのでしょうか?
サイコロを見つけてはビンに投げ入れます。
スコスのインクの入った瓶
「コロリン♪」
瓶に投げ入れた時のサイコロの音はとても良い音色。
ビー玉入りのラムネの音と同じで飲み物以上の価値を感じる涼し気な瞬間です。
たくさんのサイコロ、まだまだ出てくるサイコロ、昨日も一昨日も少しずつビンに集まります。
色も形も様々でどうやら私はサイコロを集めることが好きみたいです。
いつの日か戦士や魔女に仮装してLARPなイベントもやってみたいと思うのは大きな夢。
先日はサイコロをコロコロと振って直接民主主義の可能性も探りました。
本心では結構真面目にイケるのではと思います。
運に人生を託すことをバカなことと決めつけることは人生行路な分かれ目を見ていないと同じのような気もします。
運を信じないことは「川の流れは絶えずしてしかもとの水にあらず」的な諸行無常な大流に流され続けていることと同義なことなのかもしれません。
未来とは一寸先の闇なことではありますが、未来は常に闇ではありません。
サイコロを振らないでも見える未来というのも存在しています。
人気投票的に人気があるということは未来が目に見えるカタチで開けていることと同じでサイコロを振られた運を体現していることと同じです。
そんな様々な未来に対して、人生の重責を安物のサイコロに託すことは狂っているようにも感じます。
いやいや、そんなに精巧でなくとも、この瓶の中にある大量の瓶からお好きなものを選び出したらならば、それはそれで新たな選択肢、確率が生み出されます。
全部を振って一番多い目を採用するのも良し。
そして、サイコロを振りながら人生の選択肢を考えていることは、もうすでに自分の中の意思をある程度絞っていることでもあります。
サイコロをコロコロと振りながらも結局はサイコロに人生を託さないでも曇りない意思決定をする可能性も大きいと思われます。
瓶に願いを詰めてサイコロを振る願いは確立的な割合で叶うかもしれません。
そのような訳でサイコロを集めていると黄色い頭の人形が出てきました。
プラスチック製のゆるい顔の人形で下の隙間から小さな足が出ています。
さっそく、黄色い頭を「パカッ」と開封すると小さなイタリアのサッカー選手が入っていました。
32番VIERI選手。
何だ?これ?何となく薄っすらと残る記憶もあります。
黄色い顔は歯磨きのキャップ。
かわいいので捨てることができずにサイコロと一緒に塩漬け保存していましたが、今さらどうしたら良いものなのでしょう。
さっそく、コレクション棚からスポンジボムの人形を持ってきて人形に黄色い頭を被せます。
スポンジボムの人形はこんなに筋肉隆々なのに頭が小さくて一つ目の人形。
たまには大きな顔を取り付けてプロレスラーみたいに飾ってみたいと思うものです。
そして、実際に黄色い頭を被せたら「ショーシャンクの空に」のワンシーンみたいになりました。
一升瓶みたいなのを持った感動作に絶対ご法度なポージング。
雨に打たれた感動シーン、そもそも、ショーシャンクにそのようなシーンはあったけ?
人をおちょくったような顔のフィギュアを動かしながらフィギュアとは何の為に存在するのかと考えます。
縄文な時代から人は人形が好きで飾ります。
そして、縄文人はこのショーシャンクよりももっと狂った造形の”もの”を飾っておりました。
スポンジボムの頭に縄文土器のような頭の方が似合うかもしれません。
猫置物の製作が終わったらこれに付ける土器っぽい面でも作りたいとも思います。
この意思決定はサイコロを振らないでも決めれる人生の分かれ目なのでしょうか。

1)スポンジボムのお面を作る。
2)スポンジボムの人形に何もしない。

この選択肢、どう考えても人生に何の変化を起こさないような気がします。
黄色い頭な発想でした。
 
■2022年8月16日(火)
■首ふりヘッド。

■2022年8月17日(水)
■一日一文章トレーニング。

「夏の自由研究・成長の軌跡(大人の役割)」

物を作ったりすることは若さよりも年齢を重ねる方が上手に製作できます。
それは新たなる呆則発動。
写真は私のプラモデル遍歴で比較することでそれらを証明できます。
左は令和な現在に作られたガンダム、右が小学生時代に作ったガンダム(塗装しただけ)。
その違いは取り組む集中力の違いなのでしょうか?
手先が器用になった?技量の蓄積?
使用している道具の進化もあるでしょう。
いづれにしても、人は年齢を重ねるごとにしっかりと“もの”を作れるようになります。
※私の場合は図画工作的が好きなのでプラモデルで例えますが、ものの考え方や料理、その他何にでも同じことが言えると思います。
小学校の頃の私には技量で勝てますが、上手な猛者はどの世代にもいて他人と比較するとなれば、この前提はあっけなく崩れます。
これは、あくまでも自身の成長変化を感じとるもの。
年齢を重ねることは何か全てのものが劣化していくような感じがしますが、それなりに成長を続ける分野もあるということの証明で、若さとは何事に於いても常に優位性を保てているとは言えない一例です。

右は小学校の時に色を塗った4cm程のガンダム。
ものすごい厚塗りで遺物のような存在感があります。
もはや右足はなくプラスチック製のガンダムに頑張って色分けしています。
よく見るとホコリも巻き込んで塗装しているので当時のゴミもくっついてお得!!
安定が悪いのでプラモデルのランナーに接着固定しました。

左は自粛期間中に作った5cm程のSDガンダム。
目消しをして細かく塗装して仕上げます。
小学生時代から比べるとものすごく上達しています。
しかし、小学生の頃のガンダムにも何とも言えない味わいがあるので一概にどちらが優れているとも言えません。

同じ“もの”を年齢ごとに並べて成長の軌跡を追うことは面白い事です。
それは毎年同じシュチュエーションで撮る家族写真で成長の変遷を辿ることと同じようなものに感じます。
同じカタチの“もの”を作ってそれらを並べれば、アートと言えばアートな感じ。
技術の上達の歴史も見て面白いかもしれません。
例えば、毎年家族で「犬」の小さな粘土を作る。
穴開きで釘に引っ掛けて壁に飾ることができます。
小さい頃の犬はピカソ大先生のよう大迫力ですが成長と共に犬らしいカタチとなります。
思春期の犬は当然、飾られることはなく空白地帯。
大人になり新しい家族が増えてまた異なる造形の犬たちがぶら下がります。
なんともステキ。
子供時代にそのような未来を見る視線はまずないと思うので大人がそのような遊びを積極的に実行しないと歴史は生まれません。
なので、年齢を重ねた大人の役割というものも確実に存在します。

2枚目の写真は夏の自由研究に参加いただいたフィギュアたちです。

 
■2022年8月17日(水)
■粘土製の壁掛け犬。
■2022年8月18日(木)
■一日一文章トレーニング。

「え」

一昨日の酷暑は一段落してやや過ごしやすくなります。
ツクツクボウシも鳴きだして、このまま夏が終われば良いなと思う一日です。
家までもう少しのところでザーザーと雨が降られて雨宿り。
日々の行いが悪いのでしょうか?天気はもう少し踏ん張って欲しかった。
用意周到な傘を持つ人が通り過ぎ、傘を持たない人も雨に濡れながら通り過ぎます。
私はポチャポチャと水が溜まる側溝にザリガニやヤゴ、モロコなどが生息していることを空想しながら雨が止むのを待ちます。
止まない雨はないとしても、もうすでに雨宿りに飽きたので小降りになったら出発します。
小雨の中家路に進むと、雨は天然のシャワーのようで気持ち良い。
雨に打たれることもたまには良きことのように思われます。
空気や私をクールダウンさせる冷たい雨ですが立ち止まるとジメッとした湿度が体を包みます。
そして、今日も雨。

ということで。

青い青い静かな夜に おいらは一人で哲学するのニャー(ニャースの歌)」の歌を聴きながら今風の萌えキャラを書いてみようと落書きをしていたら、とんでもない絵になりました。
流行り風な絵が全然描けなくてビックリです。
目を大きくてしてキラキラさせてみたものの何から何まで異なります。
先ずは異なる部分を調べてみたら丸さが足りないのかもしれません。
もっと目をおおきく描く必要があるのでしょうか?
使っているペンが異なるの?
ほうれい線を描くことはNGです。
パーツから骨格、何から何まで今風ではないので、この現代に生きていないのではないのかもしれないと怖く思います。
最近の絵は令和版の絵巻のように横につながった構図で描いています。
特に意味はありませんが、絵を横に繋げていくと時系列の連続性が生まれているような気がします。

 
■2022年8月18日(木)
■マイクパフォーマンス。(かわいくなるように仕上げました)



■2022年8月19日(金)
■一日一文章トレーニング。

「夏の自由研究・鳥の羽根」

いやはや。
素材画像を製作しているだけで大変な時間を消費。
画像は羽毛の名称。
前回、鳩の盛り場で集めた羽根の形状を調べると風切り羽根×3、雨覆×1、尾羽(上尾筒)×1をゲットしたことがわかります。
鳥の翼は主に雨覆の部分と風切羽の部分に分かれます。
雨覆は茅葺屋根のような導水効果ある羽根の部分で、雨に打たれても風切羽根を含めた4層の羽で雨水を外部に流します。
風切羽根はその名の通りに風を切って飛行する為の羽根。
風切羽根をバランス悪く抜いてしまうと飛べない鳥になります。
鳥の羽根は人間の爪と同じような“もの”なのでそのうちに伸びてきます。
羽根が伸びている瞬間は見たことがないので何とも詳細はわかりませんが、鳥の羽根の形状が葉っぱに似ているので新芽の成長と同じような感じかもしれません。
羽根も細長い芯の部分が伸びて、その横から羽毛開いていく感じ。
鳥の羽根を全部抜いてしまうとお風呂場の濡れた犬のような“か弱”な存在になります。
それは、人間の裸の状態みたいな感じでとても不安定
魚みたいな生物にもプロテクトする鱗のようなものがあるのに人の地肌とはあまりにも脆弱するように思われます。
地球上はこんなに危険や厳しい外気や環境であるのに人に羽毛なり犬の毛が生えなかった理由が不思議です。
でも、サルには毛が生えております。
それにしても何故毛がなくなったのでしょうか?
進化と共に毛も退化した?
そもそも、人間の祖先は毛が生えるようなことがないような安全で快適な場所で暮らしていた?(宇宙人のペット?)
面白半分に毛を剃っている内に毛がなくなった?(あり得る)
人間の先祖が女性ホルモン多めな禁断の果実を食べて毛が薄くなった?(伝説の話し)
単なる遺伝子の複製の失敗の結果?(あり得る)
追記:体温調整の為に発汗する為?
どうなのでしょうか?
鳥は鳥らしい意味ある羽根を持っていることは間違いありません。

 
■2022年8月19日(金)
■永久機関。
■2022年8月20日(土)
■一日一文章トレーニング。

「ハチ公」

今朝は涼しくて気持ち良い朝。
こんなに清々しい朝は何日ぶりのことでしょう。
遅い朝を起きて窓の外の植物に水をあげると、水やり前から待機していたハチが今日も「待っていました〜」と言わんばかりにブンブンゆらゆらとうれしそうに飛び回ります。
ここ最近、毎日ハチ1匹が植物への水やりした水を飲みにやって来ます。
多分、ミツバチ。
何だか毎日やってくる生物はかわいく感じてしまいます。
毎朝「ハチ公おはよー」と言う気分です。
私にハチを識別する能力はありません。
ですが、一匹だけの飛来なので恐らく毎日やって来る蜂は同じ蜂だと思います。
多肉植物に止まりその葉に溜まった水を飲み、何度も往復して水を巣に運びます。
面白いと思うところはクーラー排水の水溜まりもあるのに、ハチはそのように水には手を出さずに多肉植物に溜まった水が大好きでその新鮮な水だけを狙ってやって来ます。
また、多肉植物も上手に葉肉の上に水をキレイに溜めます。
水の冷たさが重要なのか、新鮮な水を見極める目を持っているのかは謎なのですが、キレイな水だけを選択する目利きなハチです。
蜂の目はミサイルレーダーのように複眼になっているという話を昔、どこかで読んだことがあります。
調べると蜂は二つの複眼と三つの単眼の合計5つの目を持っております。
そう考えると私のような人間とは全く異なる視点で物事を見ていることを容易に想像できます。
2つの目の三次元で物を視る私たちと、5つの目で6〜8次元という私たちの誰も見ることも知ることもできない高次元な世界で認識する蜂たちとは視力も相当に発達しているものと思われます。
蜂とはとても社会性が高い昆虫だとも言われます。
次元が高い視野を持つということはアニメ・SF的な発想で考えるとテレパシーに近いような高次元なコミュニケーション能力を持っているのでは・・・なんて空想もできます。
毎日、やって来るということは蜂の中には水飲み場までの空間認識マップを当然持っていることになります。
このような同じような建物が並ぶ都心の中で一定のルートを常に確保していることもすごいことです。
蜂が飛び立ってから戻ってくる時間を計測すると2分00秒(ピッタリ!)。
蜂の飛行速度はちょっと知らないので何とも言えませんが北側に飛行して1分圏内の場所に蜂のアジトがあると予想できます。
そのような訳で蜂には2〜3センチの小さな体から想像できない高機能が隠されていることは間違いないことです。

一昨日、夏の暑さも一段落する心地良い暑さだったので植物にも元気な活力を与えたいと思い葉っぱにHYPONEX液をスプレーしました。
葉っぱにシュッシュッとかけるだけで、植物が元気に青々と成長する液体スプレーです。
液体をかけてからハチの存在を思い出して、その活力剤入りの水を飲んで死んでしまわないか心配だったので今朝も元気に飛んできて良かったです。
成分を調べましたが各種ミネラル成分ということで中身はよくわからない液体です。
植物に良いので、たぶんハチにも害はないような気もしますが、次からは夜の水まきの後に吹きかけておくと朝には吸収されているように思われます。
蜂はこの文章を書いている間にも熱心にここの水やり場と巣を何度も往復しております。
世の中は不思議な”こと”や”もの”で溢れております。

 
■2022年8月20日(土)
■蜂のセンサー。蜂の顔って怖いね。


■2022年8月21日(日)
■一日一文章トレーニング。

「複眼」

独眼竜政宗あれども複眼流はなしということで、人にとって「複眼」とはまさに不思議なものであります。
単細胞な私には「複眼」とは理解できないものであり、ネットで「複眼」を調べます。
すると、蜂の目を超〜拡大すると六角形の模様が現れ出て、その全ての一つ一つが目玉のようです。(!)
六角形の角膜の集合体が目の球体のような形を作り出して一つの目玉形状を作り出しております。
六角形の形には意味があるようで立体な球面を組み合わせるのに適したカタチとなります。
蜂の目を写真で見た時、複数の黒点のような目があったので最初はそのような目がぎょろぎょろと複数付いているのかと思いましたが、目のような模様は擬態でもっとすごい視覚機能を持っております。
その角膜の下にはレンズがあって視覚の神経と繋がります。
レンズは蜂のサイズなのでとても小さいのですが、携帯レンズでも鮮明な像を写し出すように、生体的に作られるレンズの球面でもそれなりに精巧に生み出すのが自然のシステムと思われるので高精細な像で蜂は世界を見ているのではないかと思います。
そこで、複眼で見える像を図のようにイメージしてみました。
高性能なパノラマ写真みたいに見える範囲が360度程近く大きく広がり縦×横×高さの空間を捉えます。(たぶん)
犬がいる、人もいる、建物や木々もあって水の入ったバケツも見えます。
何かこの世に起きていることを全ての現象を全てキャッチしているような感じです。
蜂の目が複眼×2個、単眼×3個あるように複眼と単眼でそれぞれ役目が異なるものだと思われます。
単眼はターゲットを絞ったりする目で複眼とはまさに、高性能レーダーみたいなものなのかもしれません。
それら複数の目で見た絵を合成して一つの世界を眺めている訳で、それは全く想像できないイメージです。

複眼の目の内の一つ一つを光学的な1カメラ・レンズごとに置き換えて考えてみます。
そうすると、それらを横に並べた時に像のダブりが発生することがわかります。
像のダブりとは隣り合う目でそれぞれ共通の画像を見ている状態。
恐らく、それら像のダブりを合成することで解像度が上昇すると思われます。
右目と左目の像のつなぎ目を違和感なく合成するようなことを無数にある複眼で同じようなことをすることはとんでもなくスゴイことのような気がします。
それを右左だけでなく縦横斜めと六角形の接地面の全てで合成することはものすごい負荷がかかる作業です。
六角形のダブりで見える部分は中心部分以外は全てダブります。
中心は像をキレイに結びますが、歪む外側は図のように複数のレンズ画像で補完しながら解像度や精度を上げているようにも思えます。
このように「複眼」とはまさに複雑で何の根拠もありませんが六角形である意味を強く感じます。
「複眼的な思考」は人間には視ることもできないし理解することもできない難しいことです。

ところで、今朝はハチを見かけません。
毎日は来ないことも機械的に動いている訳ではない証明です。
もしかしたら、今日はハチの休日かもしれないし、雨や曇りがちの天気なので近場で簡単に水を入手できるのかもしれません。
ハチがやって来る日は猛暑日の暑い日が多いように思われます。
恐らくハチにとって水不足の時。
気候も変わってきたので、花の蜜を集めるフェーズに入る可能性もあります。
いやはや、妄想的にハチの動きを考えるのですが何を考えても何もわかりません。
(9時45分ぐらいにハチ飛来)
でも、水を飲む訳でなくそのまま通りすぎて行きました。
ハチとはなんとも不思議な昆虫です。

もう一枚の写真は鳩の羽根付き画像です。
前回載せることができなかったので記載しました。
鳥の羽根は生える部位によって形状が異なります。

 
■2022年8月21日(日)
■ハチロボ。
■2022年8月22日(月)
■一日一文章トレーニング。

「日陰道・夏の自由研究」

空一面の雲、今朝は乳白色の明るい曇り空。暑い夏のひと時の小休止。暑かった夏もやっと陰りが見えてきて、うれしいようなちょっと寂しいような。今週は曇り空が一週間続くようです。「ないものねだり」とは言いますが曇りが続けば太陽の光を欲してしまうものではあります。「なぜって?」それは移動中の日陰滞留時間を計測していたからです。うんざりする厳しい残暑は確実に盛り返してくるのが毎年の決まり事。ということで、夏の自由研究も最終章「日陰道」について書きます。日陰道とは我が歩む人生道にピッタリなネーミング。夏の直射日光が降りそそぐ移動ルートに於いて、上手く道を選択すれば4割日陰道を歩くことができるという呆則。それは私の個人的な移動ルート、時間帯もある、出発点から目的地までの方向性にも至極当然影響される100%の経験則。約27分移動する中で約11分日陰の中を移動できるというどうでも良い話。これはとても頑張って日陰道を選択して移動した結果でアスリートのタイム計測みたいなものです。ストップウォッチをピッピと鳴らしながら暑い中計測していると歩行者は何の音か?と思うかもしれません。ポケットに突っ込み、車の騒音に紛れるようにストップウォッチング。気づかれないように、わからないように怪しく計測します。恥ずかしがり屋なので堂々と計測できないことは、流石の日陰道イストだと思います。日陰に入ったとしても暑いことには変わりありません。ただ、直射日光が当たらないだけで風が吹けば少しは涼しく感じることもできます。太陽が当たる場所には必ず影ができます。ということは、太陽が降りそそぐ道には常に影が生み出されております。太陽の角度!それは天体観測な人に聞くべきで、そのようなことは知りません。それで大体「4割」。歩道の4割は影なので遠回りでも迂回しても日影道を選択すれば、がんばれば4割は影道を選択することができます。遠回りで日陰道を歩くとなれば無駄に暑い外に滞在することになります。逆説によると直射日光に十分に当たろうとも最短ルートを選ぶ方が賢い選択だとも言われております。「暑くとも4割行ける日陰道」(マッハ馬車馬)。

 
■2022年8月22日(月)
■狸。
■2022年8月23日(火)
■一日一文章トレーニング。

「日陰と日影・夏の自由研究」

今朝も乳白色な曇り空でしたが空が明るくなるにつれてだんだんと雲が薄れて青色が薄っすらと広がります。今日は晴れるのかな。昨日は日陰を歩く話を書きました。それは太陽の影に沿って歩くアスリート競技に近い移動中の楽しみのようなもので如何に太陽に当たらないのかをタイムアタックするだけのどうでも良いお話です。毎日文章を書くこととは、こんなにも何もないことなのだと改めてビックリさせられます。そもそも、日陰には「日陰」と「日影」の二種類あることに気づきます。思いついたことを徒然なるままにタイプ入力しているので漢字の間違いとかは多々あること。ですが、この「日陰」と「日影」とは同じような意味に使いがちではありますが辞書を調べると意味は全く異なります。「日陰(日蔭)」:日光に当たらない所。公然と社会に出られないこと。太陽が作り出す影と人の持つ陰の部分で物理的・概念的な両方の「かげ」を含みます。一方、日影とは「日影」:日の光・日差し・日光がさすことを意味します。「ひかげ」と言い「影」の文字を使いながらも、もはや影とはどこに行ってしまったと思うぐらいに「ひかげ」と反対の意味で100%「日向」のコトを言っています。「どういうこと?」日向とはもちろん日光があたる場所。猫が気持ち良さそうに日向ぼっこする所。日陰と日向は反対語であり、日向と日影は同じ意味。よって、日陰←→日向=日影。「日影」とは文字通りに読むと太陽が当たる場所とその太陽が作る影を同時に写り込むイメージをそのまま漢字に仕上げた感じです。いやはや、しっくりこないし、ややこしいし納得いきません。三日後には記憶から抹消されてしまうようなお話ですが「ひかげ」を歩むこととは「日影」を進むことで同義であって、陰であろうと外に作り出す影には当然紫外線は燦燦と降り注いでいるでしょうし、その意味に於いては日向と陰の境界とは希薄であるとも言えます。古のうるさ方は私のような「四割日陰を歩ける」という呆則を立てて「ひかげひかげ」と「日陰」を探して歩くような輩に「日陰」と「日影」に全く相反する意味を付与して「道とは真っすぐに歩むものである」との教訓を付与したのかもしれません。そのような訳でアホな私は「日影」の日と影のイメージから平均的な歩道の景色に写り込む影の割合を計測すれば、同じような街並みを移動する限り同一割合で影道を進めるのではないかとの仮説を立てます。確かに見晴らしの良い田舎道ではぽつぽつと木陰があるだけで、日陰とはなかなか存在しない時もあります。それだと4割は少し厳しい。平均的な歩道から太陽が照らす部分と日影の面積割合を見出すことができれば、太陽が照らすか角度はゆっくり移動するので、その陰を同一割合で日陰道を進行することは可能なはずです。ということで、平均的な街の景色をグーグル検索したら「どこが平均的?」な景色ばかりでこれまたビックリ。平均的とは言葉の通りに解釈すると全ての景色を網羅して足して割る感じです。風景の一枚をピックアップする感じが良いのかもしれません。しかし、そもそもから間違っているのかもしれません。道から太陽に照らされる部分と影の割合を出すことは難しくて無理なことです。なので、単純に太陽の移動する角度と大体の建物の高さ(それも難問です)を割り出すだけでも良いような感じもします。「下を見て上を見ず」なお話はまだまだつづきます。

 
■2022年8月23日(火)
■ホッ。紫色。
■2022年8月24日(水)
■一日一文章トレーニング。

「日影の解答・夏の自由研究」

真のひかげ」を求めた私の結論は「道はまっすぐ歩きなさい」に辿り尽くことができました。道路の反対側を進むなどの進行方向の創意工夫をするだけでも、できるだけの多くの日影を歩むことは可能です。その理由は人の肩幅40p程の日影は太陽が一番天に昇る時でも結構生まれています。ネットの「太陽高度(一日の変化)」によると、本日2022年8月24日の太陽が最も高く昇る時間帯は11:45頃で太陽高度の角度は65.30度。太陽が照らす角度は真上から照らしているように思われますがナナメ寄りの角度で約66度の角度でお日様は私たちの街を照らしています。「光があれば必ず影ができる」ということの決まりなので60度の照射角度で計算してみれば影は簡単に生成できます。今日で言うと11:45を境の前後で影はどんどんと広がっていくので一番、日陰を得るのに一番過酷な時間帯を基準に考えます。最低でも400oの日陰が欲しいと思った時に230.9o程度の高さの壁や建物があれば日影を作ることはできます。計算方法は図参照。実際は人の背の高さがあるので身長分の高さを加算すれば日陰に必要な壁の高さを割り出すことができます。23センチ+身長の高さの“もの”とは過密都市にはいくらでも存在していて、寧ろ、もっと高さが高いものばかりで溢れています。その意味からも太陽が一番頂点に登った時でさえ40センチよりも広い影を得ることは容易で日陰はあらゆる場所で発生しています。なので、道の選択を誤らない限り日影道を歩くことはとても容易なことで「日陰」と「日影」という謎な正反対な言葉を発明したご先祖様の思想はそれなりに正しいかもしれなくて、日向あれば日影も同等に(同等ではないけれども)発生するので「道はまっすぐ歩く」ことでも十分に確保することができます。太陽の光とは生命活動に必要不可欠な根源ではありますが、同時に紫外線はほとんどの“もの”を分解する破壊力を持っております。そのような太陽光に当たる時間は最小にとどめることが最良の選択でもあり、道の端の日影を狙って真っすぐに歩くことが私の答えとなります。どんな状況下でも「四割日陰を歩ける」は結構狙えて大体正しいと思います。

 
■2022年8月24日(水)
■カセットテープ。
文章からイメージして絵を描くようにしていますが最近の文書からイメージは何も湧きません。
 
■2022年8月25日(木)
■一日一文章トレーニング。

「おぼろげな・夏の自由研究」

今朝は曇り空。天気予報によると当分曇りの日が続くようです。空に雲が広がるということは太陽の日差しを遮って地面に影を作り出しません。全く影を作らないかというとそうではなく、曇った空ではありますがそれなりの太陽光線が降り注ぐのでうっすらとなる影を作り出します。なので、陰がないわけではなくてハッキリとした「日向」と「日影」の境界線が存在しない状態で「おぼろげ」なる影が広がります。そのような景色は何か日本的な曇り空で、それは同じ島国のイギリスの曇り空と似ているのかもしれません。

私と言えば大体に於いて物事の第一フィルターが「好きか嫌いか」で分別する超二元論的な単純思考です。「ひかげ」と聞いてイメージするものは黒く青く伸びる太陽を作り出す影。「ひかげ」という言葉から「日陰と日影(日向)のどちらのことでしようか?」なんて切り返されると「うざっ」とした気分になると思います。しかしです。これはもしかしたら昔の人にとって「ひかげ」とは「日影(日差し)」が正解だったのかもしれないと考えて古文をググります。すると「ひかげ」とは「太陽の日差し」のことを意味しており、徒然草(室町時代)の「のどやかなる日影」とは「のどかな日差し」のことで、松尾芭蕉の奥の細道(江戸時代)でも「日影がややかたぶるころ」の「ひかげ」とは「太陽の日差し」と捉えております。江戸時代ぐらいまでは「ひかげ」とは「太陽の日差し」のことを意味していたことは間違いないようです。言葉とは生き物でその時々の時代で異なる使われ方をするというお話は良く聞きます。古文と言えば、現代文の解釈とは全く逆の意味や幅の広い意味を持つ言葉が多いです。「いとおかし」とは「趣きがある・かわいい・すばらしい・興味深い・面白い(現代的)」という意味。「おぼろげ」とはカタチがはっきりしない不確な意味ですが、古文の「おぼろげ」とは「普通のこと」と「格別なこと」の両極端な意味を持ちます。「飽く」には「飽きてしまう」と「飽きていない満足した状態」の意味であり、今だとマイナス的な意味合い言葉でも昔の人はプラス+マイナス同時に同居する言葉として使っていました。なので、昔の人にとっては「ひかげ」と聞いて「かげ」の部分とお日様の当たる「日差し」の二つのイメージ持っていたと考えてもおかしくはありません。言葉の曖昧さとは聞く人の解釈次第で自由とも捉えることもできます。言葉のトゲを抜き場の争いを丸く収める手段の言葉もあります。また、逆に「空気を読め」的な自由を奪う同調圧力な道具としても使われる時もあります。このような古文の複雑さが伝統的に曖昧模糊とした日本人の複雑さの根源ではないかとも思います。「日本とは何か?」ピンボケカメラのような部分も多いですが、それは日常の普通でもあり、時には格別な日本(古文的に視る)もあって「おぼろげなる日本」そのような言葉がぴったりなような気がします。

 
■2022年8月25日(木)
■ガラスの向うの赤黄色は何でしょう。
■2022年8月26日(金)
■一日一文章トレーニング。

「謎の実」

昨日のこと住宅街を進んでいると銀色の大きなトンボが横切ります。
トンボが飛んでいるのを見ると夏の終わりが近づいたような気がします。
そして、オレンジ色の見たことない蝶々もてふてふと飛びます。
蝶と言えば、アゲハ蝶と黒い大きな蝶とモンシロチョウぐらいしか知らないのでオレンジと黒模様の蝶は珍しい蝶であるように思います。
隙間なく建物が立つ住宅街ではありますが東京には意外に自然も多い。
さらに道を進むと道に変な種がたくさん落ちていました。
その落ちた実を鳩二羽が爆上げテンションでむさぼり食べています。
暑い日から少し涼しくなると木々は実を落とし、鳥も羽根を落とす確率が高いので、このような気温変化の後は自然のおこぼれを拾うのに適した日和となります。
さっそく「どれどれ」とその実を拾い上げるとスポンジのような「ぶにょ」っとした気持ち悪い触感で思わず投げ捨てます。
表面の緩衝材のようなクッションになり音もなくバウンドする感じで謎の実は道を転がります。
鳩がむさぼり食べているぐらいだから毒はないだろうと、やっぱりその実が気になるので道路の端っこにあるキレイな実を選んで拾います。
やっぱり、「ぶにょぶにょ」とした不気味な肌さわり。
2.7センチぐらいの大きな実に無数の小さな赤い種を生やして、それが持った時の変わった感触の理由です。
赤い種は2ミリぐらいの大きさで赤い胡麻みたいな感じ。
よく見ると表面の赤い種の奥に親玉の種がいるようにも見えます。
若しくは、中はスカスカなのかもしれないのですが、木の実なのでこんなに小さな種ではないような気がするので中にちゃんとした種が入っているように思います。
外観が電子顕微鏡で見るウィルスみたいな形状で何かヤバイものを拾った感じ。
さっそく、手持ち収集袋に入れます。
種や羽根などの拾いものを入れる為に様々なサイズのジッパー袋を毎日バックに入れて持ち歩いているので用意周到です。
こういう種を落とす木々はその日を逃すと次の日にはもう落とさないことも多いので一期一会の出会いです。
ほとんどの人は種を踏みつけ蹴って通りすぎるだけなのですが、わたしの他にも誰か実を拾っていたら思うとクスっ笑えます。
ということで、グーグル検索してみたけれども、何の実なのか?わからない謎の実をゲットしました。
写真に撮ると日の丸模様みたいで、もしかしたら、日の丸デザインの由来はこのような実であったりしてと考えて赤い丸の中にはもっとたくさんの無数の赤丸(種)の集合体が存在する姿を妄想します。

漂流中のわい、謎の実をゲットして経験値+1とSAN値+1上昇しました。

 
■2022年8月26日(金)
■太陽から種。
■2022年8月27日(土)
■一日一文章トレーニング。

「影・夏の自由研究」

 霞んだ夜空に「おぼろげなるお月様」が昇ります。そのような薄い雲に隠れたぼんやりした月に格別なる趣きを見つけるのが私たち日本人。外国の人たちが朧月にどのような感想を抱くのかは私の知るところではありませんが、お月様を眺めて虫の音色やその風情を感じるのは日本人が日本人である故の変わった面白い文化のような気がします。そのような感覚は日本人が古から引き継ぐ伝統なのかもしれません。それは言葉や概念の外にあるもので社会が無意識で持つリズムや美のようなもの。頭の中で「おぼろげなるお月様」を思い浮かべると、多様な意味合いを持つ古文の「おぼろげなる」意味は間違いなく現代人にも脈々と受け継がれているように感じます。よって、「おぼろげなる文化圏」とは健在で活きております。しかし、失われた文化もあります。それが先日以来書き続ける「影」です。

 そして、ここからは全く根拠ない事柄を書きます。一日一文章トレーニングとは大体根拠の薄いことばかりを書いているので通常営業。

 昨日、謎の赤い種を白い紙に置いて撮影したら日の丸デザインに見えてきました。そのような絵面を眺めていると日の丸の太陽とは後付けの意味付けで、もともとは赤い実を白い紙の上に置いて発案された図案が由来ではないかと考えます。そのように考える理由は「ひかげ」です。太陽とは常に天に存在するものではありますが、誰も見ていない空気なような当たり前な存在。それでいて、朝太陽は東から昇り西に沈むように生活リズムの支配する基準でもあります。太陽に関心を持つ人は変わった天文学者と子供ぐらいかもしれません。昔の人は太陽を見ると目が潰れるなどの、その眩しさから太陽を見ていなかったと思います。故に、常に私たちが見る世界は太陽に照らされた太陽の影を見ていることであり、昔人は「日影」という影の文字を用いて太陽が照らし出す世界を表現しておりました。撮影という単語も影です。影絵も影です。私たちの見る世界は太陽の影の世界であって何かの装置(フィルター)を通してみるものも全て影の文字が使用されます。もともと私たちの世界は影を見る「日影」の文化圏ではありましたが、ですがいつの時代から「日向」の世界に転向します。それは電気の発明以降「影」がどんどん駆逐されて消えてなくなっていくことと比例するのかもしれません。とりあえず、「日影」の世界は消えてなくなり「日陰と日影(日向)」の今の世の中となります。水墨画や浮世絵などの日本画が濃淡をぼんやり曖昧に描きデフォルメした線画として発達しますが、西洋絵画では「影」を影としてリアルに描く文化として花開きました。視覚イメージとは思考に直結する側面が大きいので人々の「影」に対する意識に大きく影響を及ぼしたと考えられます。近代になり私たちの社会が一気に「日陰と日影(日向)」に分裂してしまったのはイメージとしての絵画に影をしっかり描いてこなかったことに原因があるのかもしれません。オランダの絵画とは漆黒の「影」を描いてきました。日本の絵には「おぼろげなる影」は存在していますが、漆黒の「影」はありません。(作品はそんなに見ていないので直観ではあります)イメージとしての「影」が定着しなかったことで、電気によって「影」が消されていくと同時に概念としての「影」もどんどんと消えてしまったのではないかと考えます。そのように考えると日本の夜の照明が西欧の照明と全く異なる理由も理解できます。ヨーロッパの照明は影を上手に利用しています。ある時から私たちの祖先はイメージとしての「影」を表現してこなかったことにより「日影の文化」が失われたとも考えられます。それが今に続く現代日本で「影」のない明るく照らされた世界を作り出しております。フォールアウトに例えるとヴォルトの楽園みたいで昔の人が現代を見ると狂気な世界と感じるかもしれません。そのような「影」が見えなくなっている事柄が人間の「影」を忌み嫌うことや物事の潔白さ(社会正義)を常に求める社会の要因の一つなのかもしれません。光あるところには必ず「影」があることは物理法則です。「美しき明るい社会」だけでなく「影」を見ることやイメージとしての「影」をリアルに正確に描き出すことは「水面に石を投げる者」としては必須な事柄なのかもしれません。

 
■2022年8月27日(土)
■影を付ける。
■2022年8月28日(日)
■一日一文章トレーニング。

「影・夏の自由研究」

 人となる「」を描こうと思うけど「影」とはどのように描けばよいのでしょう。西洋絵画は色を塗り重ねて重厚な「影」を描きます。そのような緻密な絵を毎日アップすることは無理。そして、最近絵を描く対象をイメージすることに苦戦します。なので、何か絵を描く為の新しい概念の必要性も感じます。もしかしたら、それが「影」なのかもしれません。どのように描くのかと考えると線画を粗く雑に何本も重ねる?それは何か「一日一文章トレーニング」の作業と似ています。雑でも粗くともそのままアップする度胸は必要でキレイにまとまるだけではない「勢い」も必要。

 そもそも、この一日一文章トレーニングとは思考のオープン化。私の頭の中を開けっぴろげに物事の考え方や思うことについてつらつらと書きます。言わば、人には見られたくない日記を誰でも見ることのできるスコスHPに貼り付ける感じ。日記とは怒りのサンドバックみたいな感じが醍醐味なので人によっては自らの裸を晒すよりも恥ずかしいことでしょう。今となっては恥ずかしさよりも書く内容を考えることにウェイトを占めます。脱字誤字間違いもたくさんあって恥ずかしいところ。人間性も疑われても仕方がない。それでも、ここはありのままの私そのもの。時事ネタや私生活ネタはあまり書かないようにしています。リングが温まりプロレスが始まると覆面マスクを被ってパイプ椅子片手に乱入したくなる性格です。なので、膝上の重石は必要で時事ネタを書き始めると私の中の正義のヒーローが現れ出て100%にハッスルして人を傷つけてしまうかもしれません。よって、時事ネタはできるだけ書かないようにしています。でも、やっぱり時事ネタを自粛することは間違いとも思うので公人や公共性あるホット事案は除外して書きます。一様に人に読まれても良い他所行きな文章にはなっております。少しセンシティブ内容にはこのような読みにくい塊文章として偽装する悪知恵も持ちます。最近は何を言われようとも怒りが溜らない平穏な日々なのでどうでも良いことですが。思考のオープン化には物事の捉え方や考え方を広めるメリットはあります。私生活が丸裸になることにはどのようなメリットがあるのでしょうか?何を買いました、何を食べました、どこどこに行って何々をしました、家でゴロゴロしている、顔出してイェ〜イ、貯金がいくらいくら¥あるよ、こんな部屋に住んでいます、こんな格好で寝ている、今日何回目のおトイレです・・・という感じのお話。私生活のオープン化に何得があるのかわかりませんが案外面白い。絶対にやらないけど。私よりも他人の方が私自身を知っていることになるのかもしれません。そのような時事ネタ、私生活ネタを避けて円満な普遍的な事柄を書いていれば安泰かと言うと、そうとは言い切れません。それは学問的な人々の怒りを買うかもしれません。それらは「ボッ」と炎上するようなものとは異なり異質なエビデンスに支配されたもの。真面目に研究している人からすると不謹慎な思いつき、カタチに則らずに間違いもそのままに適当なことを「あ〜だ〜こ〜だ〜」と書くことは堕落した表現であります。鬱陶しいと思うことは仕方がないこと。若しくは私生活をアップしてはいませんが概念上の私的な考え方はアップしているので、それはもはやモルモットならぬ猿や豚のような実験研究材料としての観察事項なのかもしれません。クトゥルフ神話にあるように「あなたが深淵を覗いている時、深淵も同時にこちらを覗いている」という言葉があります。※深淵ではありませんが。そのような相互作用が働くと良いことですが。取りあえず、何事にしても表現することとはトゲが立つことであり昨日書いたような「水面に石を投げる人」という表現がしっくりと腑に落ちます。そのような表現は書かずして生まれない言葉。静かな湖畔の森の影から小さな小石を投げて波紋を楽しんでカコ―カコ―過去―過去と。そして、おぼろげなるものを言語化することにより「カタチとして見えてくるもの」も確実に存在します。それらは大いなる人生の資産でありメリットです。自粛期間中に始めたことですが正に自分の中のルネサンスが開けました。

 今日は今日の風が吹き、昨日のことをまるでなかったことのように完全否定。そして、次の日にはまた訳のわからない事を書いている。一日一歩一歩の前進で個人的にはそのようなテキトーさが面白いところ。そして、ここ数日「日影」について調べる中で、私の「影」とはこの一日一文章トレーニングに表現されているのかもしれないと思いました。それは言わば多少Live感もあり思うがまま見て感じたことを表現する私の中の「影」。文章の雑音、ノイズ、汚れ、誤字、間違いの全部含めたあるがままの私の世界。私に「日向」があるのでしょうか?それは怪しいところ。毎日、どんよりした曇り空かもしれません。このようなトレーニングを毎日こなせるだけで、それなりに「影」は淀みながら広がり続けているはずです。でも、人に合わせ、作り笑顔もできる日常生活も送っています。なので、やっぱりこれは「影」です。「影」とはダメで根暗な部分かと思ってきましたが、伝統的には「影」とは常に生活と裏腹なものであります。少し時代に即していないだけ。「日影」なアピール続ければそれに共感する人も増えるかもしれないし、活躍している他の人達と比べた時の断然ダメ感も「日影」として考えれば何か少し愛おしくも思えます。

 
■2022年8月28日(日)
■新しい画風の試行錯誤。
■2022年8月29日(月)
■一日一文章トレーニング。

「暴れ納豆六次の呆則」

朝起きて窓を開けるとヒンヤリと気持ち良い空気が「ドドドッ」と流れ込みます。
そのような今朝の空気の流入はジョジョな擬音にぴったり。
納豆を「ドドドッ」と混ぜる混ぜ方は30秒間で100回は混ぜる勢いです。
あまりにも高速で混ぜると納豆の粘り糸はクリーミーな泡みたいになりそうで、それはあまり好みではありません。
「クルクルクリ」だと3回程度かもしれません。
納豆は混ぜない派な方々もいます。
100回は多すぎですが3回では少なすぎる。
50回でも多すぎて20回以内ぐらいが私の適量なかき混ぜ回数かもしれません。
20回以内は「まぜまぜまぜ」な感じです。
ごく普通で一般的だろうと思いネットで調べると丁寧に納豆のかき混ぜ方がたくさん書かれております。
※以前も調べた気がします。
最低でも100回〜400回って・・・腕が疲労します。
さらにググると納豆をたくさん混ぜる派の源流にいるのはやはりあのお方でした。
魯山人。
納豆は混ぜれば混ぜる程にコクが生まれて美味しくなるようです。
私はゆるやかな粘りの大豆をご飯にのせて食すことが好きなので20回ぐらいがベストです。
ですが、毎回納豆を400回混ぜることとは食前の修行みたいです。
生クリームであればホイップにはなりそうな予感・無理か。
世界は広しと言えども食べる直前にこのような儀式が必要になる食べ物は他にないような気もします。

ということで。

先日納豆を20回ぐらい混ぜていたら、お箸に付いた納豆一粒が左手の人差し指に付きました。
その納豆一粒を取ろうとすると納豆のネバネバは糸を引きながら左小指下に移動します。
次にそれを取ろうと追いかけたならば左手の裏側に移動して見えなくなります。
どこに行ったのか納豆の移動の軌跡を追っていると取っ手のついた碗の外をタラ〜りと滑り落ちて。
お碗を持ち上げると取っ手の裏側に入り込み取りにくく隠れます。
それを「あばれ納豆六次の法則」と名付けます。
おかげで手もお碗も納豆でねばねばの惨事です。

 
■2022年8月29日(月)
■走る納豆。
■2022年8月30日(火)
■一日一文章トレーニング。

「両足つり」

今朝も涼しい朝。
太平洋上に頑固な高気圧はなく台風11号が左(西)に向かって移動しています。
夏の形は消えてなくなり秋の景色。
涼しくなったならば歩いてみよう秋な道。
昨日はそのような気持ち良い天気なのでたくさん歩いて移動しました。
万歩計は持ってくるのは忘れたので歩数の計測はありません。
そして、ここ最近の運動不足から足をつってしまいます。
猛暑の暑さを避ける為に日陰を最短移動することのみを考えていたぐらいに足も十二分になまっています。
最初に左足にピキーンと筋肉痛がやって来て、暫く立ち止まると左足の痛みは消えてなくなり、次に右に痛みが移動します。
この感じどこかで記憶があると思えば「前脛骨筋」の痛みです。
「前脛骨筋」の読み方は勿論、この名前もすっかり忘れていましたが前回の痛みは2022年6月1日なので約3か月ぶりの痛みです。
このような記録を残すことのメリットも多少あります。
今回は少し異なるのは2乗・3乗と痛みが連鎖して続いたこと。
そして、階段を上っている時に「ピキーン」という感じで両足をつりました(笑)。
階段の頂上で足つりの激痛でおろおろ、ふらふら。
足つりの痛さは半端ない激痛で、この痛みを何かに例えることはできません。
感覚的に言うと両足が真反対方向に曲がってしまうような感じ。
外見上血が出ている訳でもなく他人に全く痛そうな感じが伝わらない痛みなので、歩いている人からはこの人は気分でも悪いぐらいにしか思わないかもしれません。
このようなご時勢なので当然近寄る人も全くいません。
且つ、足の筋肉が逆の方にひっくり返る感じの激痛なので、このまま永遠に続いたらどうしようと言う恐怖と絶え間ない痛みで狼狽えます。
家の中だと「うわ〜」とひっくり返って声を出して苦しむこともできますが、多少なりとも人が歩いているところでゴロゴロと転がる訳にもいきません。
とりあえず、苦痛に耐えて、靴を脱ぎ、つま先を手前に引いて「こむら返り」の対処法を行いますが全くの効果なし。
「なぜ?」と思いますが、前脛骨筋の痛みとは違う部分なのかもしれません。
遠泳の海水で足をつったとしても仰向けなってプカプカと浮きながら休憩して痛みを和らげることはできます。
なのに、ここは溺れることもない地上の上、階段のてっぺんで何もできなくてただ痛みに耐えるだけなことは辛いこと。
とりあえず、足がふらふらで危ないので階段を一番下まで降りて座って悶え狂う痛みに耐えます。
遠く離れた場所から老婆がわいのことを見ています。
何か恥ずかしい気持ちになったのでマジな痛さに耐えて気合で歩むこととします。
階段を上る負荷は足つりの全ての原因なので階段を避けた別ルートで帰宅します。
そう言えば、初めて「負荷」という言葉を聞いた時は意味がわからなくて辞書を調べても感覚的に意味がわからなくて苦労しました。
幸いに家は近くでもないが遠すぎることもありません。
骨折中の人のように足を引きずり一歩一歩進めると不思議なことに足の痛みもだんだんと消えて穏やかになります。
だいぶん調子も良くなったので、途中、アイスクリームを買いにコンビニに寄ろうかと思いましたが、また足つりがやって来たら怖いので家に真っすぐ進みます。
ですが、家に近づけば近づく程に足の痛みも再び痛くなってきます。
それは何かトイレを我慢する駅からの帰り道に似ています。
なんとか家に無事に着き、湿布を貼って椅子に座りながら苦痛に耐えます。
少し痛みも治まって来たので床にひっくり返っていると再び片足がつってしまい再度の激痛に悶えます。
単なる歩きと言えども、阿保みたいな距離を歩くのは歩きなれてからにした方が良いことです。
また、足にひきつる痛みがある時には階段を絶対に上らないようにしましょう。
上る必要がある時は負荷をかけずにゆっくりと。
そう言えば、もうすぐ9月ですよ〜!!。
チクタクチクタク時間は確実に過ぎ去って行きます。

 
■2022年8月30日(火)
■影絵で足つりの苦痛を表現。
■2022年8月31日(水)
■一日一文章トレーニング。

「6次」

先日「あばれ納豆の6次の呆則」の図を描きました。
左から右、そして裏側へと暴れ納豆が自由に移動する様はランダムグラフのように見えて面白いです。
ランダムグラフとはでたらめな多数の点の集まりで文字通りに規則性はありません。
しかし、何となく規則性を持ってポイントとポイントを最短リンクで暴れ納豆が繋がっていると考えるのがスモールワールドのネットワーク科学です。
実際に頭の中の閃きを図に書きおこすと暴れ納豆のねばねば菌糸で結ばれた絵面のようになるのかもしれません。
点から点へと線をつなぐ行為は一日一文章トレーニングのシークエンスな概念とも一致します。
そのような暴れ納豆が落ちる可能性のポイントに番号を振ってみたら暴れ納豆が1次的に落ちる可能性は170通りあることがわかります。
このような番号を振ってみるとあたかも納豆菌のネットワークが存在しているように見えてくる気がするのが不思議なところです。
実際は左手の(5)の部分に落ちて、その後6次の(110)の位置で取り除かれます。
(1)→(5)→(25)→(89)→(108)→(110)
私が面白いと思うのは暴れ納豆が6次の隔たりで捕獲できたこと。
それは偶然か?6回の移動で落ちつく必要があったのか?7次目には引力によって確実に(170)の域外に落ちてしまうことは間違いないことです。
1次〜6次への繋がる広がりはミルグラムの世間は意外と小さくて大体、6人を通して誰とでも繋がることができる「6次の隔たり(six degrees of separation)」と似ています。
勿論、暴れ納豆に親密な交友関係はないので関係はありません。
ですが、ここでは「6回目」という数字に注目しました。
世界が意外と小さい感じる理由は1次の交友関係数を倍々に計算するとイメージしやすいです。
そこで、54のポイントを持つ左手の暴れ納豆を倍々して計算してみると6次では約248憶のポイント数を持つ数字に達します。
このようなポイント数を人に例えると248億人でなかなかの割合で世界人口を網羅しそうな数字で世間は意外と小さいと言う訳となります。
1次:1×54=54
2次:54×54=2916
3次:2916×54=157464
4次:157464×54=8503056
5次:8503056×54=459165024
6次:459165024×54=24794911296
170で考えると24兆1375憶6900万0000というビック数字になります。
これら数字が何の意味があるのかと考えると特に意味はありませんが、注目するのは数字の多さです。
乗算を続ける中での7次には数字があまりにも大きくなりすぎて計算機で計算もできない位に膨らみます。
このような大きな数字は生活する時の基準としてもはや意味を持たないような気がします。
なので、6次までで区切ることにはそれなりの意味があるような気がします。
つづきます。

 
■2022年8月31日(水)
■暴れ納豆のランダムグラフ。