■2022年6月1日(水)
■一日一文章トレーニング。

「フルーツ」

もう6月ですよ〜!
>>>チクタク>>>チクタク>>>デス。

野菜はもちろん食べるようになった。
最近はそれに加えてフルーツも食べるようになった。
それはまるでコウモリのような食生活。
フルーツはジューシーであり、あの噛むとジュワっと出てくる液体の中には何かしらのビタミンや栄養素が詰まっていることは確信できます。(成分は知らない)
但し、オレンジなどの酸っぱい系は舌が痛くなるのでブドウなどの甘いものを好みます。
主に食べるフルーツはここ数年で見かけるようになった皮ごと食べられるあのブドウ。
これは横着人にもってこいのフルーツ。
よく洗いそのままガブリと食す。
ブドウには2種類あって赤か緑かの選択に悩む。
私の好みだと赤のブドウ。
赤ワインを選択する気分でカリカリとかじる。
単純に赤のブドウの方が甘い気がして赤を購入するのですが、その内に緑のぶどうの良さを発見するかもしれません。
私の経験上、最初に良いと思ったものは、初見時に悪印象だったものに後々駆逐されます。
なので、半年後には「ブドウと言えばグリーンでしょう」と言っているかもしれません。
そのような感じで最近の食生活はとても清い。
そして、変化と言えば、何かお肌がつやつやとしてきたような気がします。

野菜+フルーツを食べるようになり健康オタクみたいなウンチクを語ること。
そのようなことは昔なら小バカにしていたようなことであります。
如何に不健康な生き方をしているのかをアピールすることは何か若者だけが持ち得る特権のような気もします。

そのような訳で、昨日は道を歩いていて右足が痛くなった。
何と言う名前の筋肉だろう?
ふくらはぎの反対側、前の右の部分。
調べると「前脛骨筋」という筋肉らしい。
読み方がわからないので追検索すると(ぜんけいこつきん)と読むらしい。
筋肉がそったように痛くなり「イタタ」と歩く。
その辺に座り込むのもたいそうなことなので「痛い〜」と思いながらそのまま歩き続ける。
しばらく歩くと右足の痛みが左足に移動した。
不思議なことは右から左に痛みが移った瞬間に右足の痛みは一切なくなったこと。
痛みが瞬間移動するってどういうこと?とは思いましたが、痛みが移動することも当然あることだろう思いやっぱり歩きつづける。
右足の痛みをかばう歩き方が次に左足を痛ためたのかもしれない。
これらは痛いけども歩けない程に痛いわけでもなく、毎日の文章の肥やしになる予感がしたので今日のネタとなる。
この症状はネット情報によるとアスリートに良くある現象のようです。
歩いているだけでアスリートみたいな症状を醸し出すことは体がなまっている証拠。
そして、赤信号で停止していると左足の痛みも消えてなくなりました。
変わった足の痛みではありますが体がなまっていることは理解できました。
という訳で、野菜+フルーツを食す生活はお肌には良さげであることは確かである。
しかし、健康を促進しているのか?未だ分からず。
多分、食うだけでは物足りなくて「体を動かせ」と言われているような気がします。
このような発言自体が昔の私からするとビックリな心境の変化、人の心とは年齢と共に変化していくものであります。
これはもしかしたら「変化する器」の一形態で空っぽだからこそ中身は入れ替わるのかもしれません。

 
■2022年6月1日(水)
■入れ替わる器の中身。
 
■2022年6月2日(木)
■一日一文章トレーニング。

「イカを食す」

生イカを解体する。
イカのはらわたを抜き、背骨みたいなのを剥がして皮をはぐ。
人間とは何とも残虐な動物であるのかと再確認。
旬なものを喰らうということは本当に面倒で大変なことであります。
このような汚れ仕事は実際に調理してみないとわからないもの。
もはやどれがイカ墨なのかもわからない。
先ず、はらわたが臭くて嫌なのでポイっとすぐに捨てる。
怖い目の部分を取り外そうと包丁を入れると墨が飛び出して顔にかかります。
あっ!これはホラー映画でよく見るワンシーンです。
イカは捕食者である私に対して最後の抵抗を示し、私はイカの墨が顔や服以外のどこかに飛んでいないのかとイカ墨の行方を捜しているとイカは一矢報いたのだと思う。
わい!その墨をしかと受け止めた。
ネットのイカの解体方法を見ながら解体しているのですが、そのタブレットもイカの汁がついております。
後でキレイに拭きましょう。
もはやキッチンの机の上はイカとの格闘で散々な様。
そして、そのイカを調理して食べるとなると一瞬のペロリでご馳走様。です。
本当に一瞬の出来事なので食べる為の準備と食べることの時間と労力が一致しません。
確かにイカは美味しい。
その美味しいことをプラスとして考えればイーブンと言えるかもしれません・・・。
ですが、やっぱり、食べることと食べる前の準備するエネルギーは一致しないような気がします。
そのようなことについて考えると全ての食べものについて同じことが言えます。
お米を食べることは一瞬の出来事ですが、お米が実り収穫して白米になって食卓に並ぶまでは膨大な手間と時間がかかります。
私たちが様々な栄養を摂取して活動するエネルギーと、それらが栄養源として食卓に並ぶまでのエネルギー量は常に一致しません。
鋼の錬金術師で言うところの「等価交換」ではなく明らかに常に大きなマイナスが生じています。
世の中に常に「A=A」は存在していないとも言えます。

 
■2022年6月2日(木)
■以前、段ボールで手を切って痛かった時の絵が出てきたので動かしました。
■2022年6月3日(金)
■一日一文章トレーニング。

「永続的な変化」

昨日、世の中はエネルギー伝達に於いては「A≠A」であると書きました。
物理法則で考えればエネルギーは常に減価していくことは当然のこと。
「A=A」が成り立つのは真空やコンピューターなどの仮想空間のみで成り立つことのように思われます。
「A」は「コントロール+C」でいつでも「A」は「A」であり「A’」に変質していることはありません。
「A」を複数コピーしても「AAAAA」もやっぱり「AAAAA」。
そのような意味に於いて仮想空間とは「変質のない静の空間」のように感じます。
「A≠A」については名前が思い出せないけれどもドーナツなお話のようなことであり、今朝起きたばかりの私と只今文章を書いている私は同じ私であっても時間経過や活動により微妙に変質しております。
トイレに行き、ドリンクを飲み、髪の毛の数本落として体重の変化は起きている。
今は文章モードで頭のエネルギーが活発になり血流も良く寝起き時と比べても顔のカタチも変化。
私は常に同じではありません。

それでも、「A≠A」とは変な感じ。
なので、何か他の式はないかと考えたならばIF関数がしっくりくるような気がします。
「〜>=100,"A","B"」
これは物差しのようなもの。
条件にあわせてデータを振り分ける一般的によく使われる頻度の高い表計算の公式。
そもそも人間の活動エネルギーを数値化する方法はわかりませんが、ドラゴンボールでサイヤ人が目に付けているようなカウンターのようなものが必要な案件です。
基準点を100とした場合に人の活動エネルギーは常に上下し続けるように思われます。
恐らく、1分1秒で常に同じではありません。

ということで、のお話。

仮に人は器(うつわ)であると考えた場合に実際の器のカタチが気になります。
そこで、家の中の器を探すとキッチン用品だけが器でないことに気づきます。
器とは容器のこと。
家も段ボールもゴミ箱もシャンプーの容器に絵を飾る額縁、ファイルも電子機器も心臓部は容器の中に納まる容器であって器となります。
私たちの身の回りは器で溢れかえっています。
これらはすでに完成された器たち。
これらもやっぱり、よく使われるものから埃をかぶるもの、摩耗してキズが付いたり磨かれて、中身が入れ替わったものなど常に変質します。
器を使用する側の立場から考えるとカタチが一定でない器とは使いにくいもの。
パッと見渡しても存在しておりません。
カタチのない器とは言うなれば空気の器ぐらいしか存在していないと思われます。
昔の人が「カタチができた時点から壊れること、完成された器を手直しすることは難しい(または慎重に手直しをする必要がある)」と言ったことは、ある意味深くて身の回りを見れば何となく理解できます。
固定化されたイメージから逃れるには常に製作中であること、完璧ではなくてもベストな試行錯誤な感じが良いのかもしれません。
そう言えば、昔の建築も必ず不完全な部分を一部に残して建造されております。
「カタチあるものは必ず壊れる」と未だ未完成の建物であることをアピールしながら現存する古い建物ということになります。

 
■2022年6月3日(金)
■ドックorヨウキ。
■2022年6月4日(土)
■一日一文章トレーニング。

「雨」

昨日のこと。
ゴロゴロと遠くの方で雷の音。
雨が降る匂いがして地面にポツポツと雨の跡がつきます。
昔のSF映画のような偽物っぽいグレーな空色。
「これは雨がやって来るぞ」と思っていたら、すぐにポタポタに変わりボタボタとなる。
そして、雨は勢いづいてザーザーの大雨となる。
ゴロゴロと雷の音も近くで鳴ると怖いもの。
雨好きの私でも流石に引いてしまう位の大雨です。
「大雨」を入力しようとすると間違ったタイプ入力で「おお飴」「大甘」「大目」と度重なる間違い入力。
「大雨」とはやはり、相性が良くないみたいです。
ということで、昨日は昼と夕方の2回大雨がやってきた。
窓全開のカーテンは大雨による風で見たことのないカタチでわさわさと変形していました。
カーテンの変形合体、これはいけるかもしれません。
さっそく窓を閉めます。
この二回の大雨は意外と短時間で暫くすると通り過ぎました。
そして、家路をトボトボ帰っていると空気があまりにもキレイなので「アゴマ」にする。
大雨は汚れた街を洗い流してくれます。
冷たく涼しい気温、美しく洗われた道、キレイな空気、そして「アゴマ」。
雨上がりの跡は全て良いことだらけ。
「アゴマ」とはあご掛けのマスクのこと。
そう言えば、行き道の上野のお山にお天道様の下でお酒を飲み独り言を話しているおじいさんを見かけた。
上野と言えば、このような人だらけで通る度に引いてしまう印象ではありますが、何か本当に久しぶりに見る光景。
されど、ここ数年の自粛生活で全く見かけることのなかったお酒片手に明らかに誰かと会話しているおじいさん達。
幽霊もさぞかし暇な数年だったとも思われます。
あの人たちもそう言えば自粛生活していたことに気づかされます。
ということで。
昨日歩きながら「コロナ禍」はとりあえず終わったのだと思いました。

 
■2022年6月4日(土)
■雲くんの踊り。ピカピカゴロゴロ。
■2022年6月5日(日)
■一日一文章トレーニング。

「マスク生活のあくび」

梅雨前のお天気は貴重です。
昨日は白い夏用の布団を天日干し。
色が真っ白なので眩しくて室内への出入りの度にコントラストの差で目がおかしくなります。
なので、この時期の天日干しにはグラサンが必須です。
昨日のお天気は何かスペインを思い出すような快適な気候で陽気に物干しをしていると異国にいるような気分になります。
そして、気持ち良く日光浴していると大あくび。

あくびは一人があくびをすると次々に他人に伝播します。(これは大体正しい)
眠い授業につきもののあくびではありますが口を大きく開けてOXYGENを取り込むこととを考えると「退屈なサイン」というよりも単に体内の細胞に酸素を取り込む作業のようにも思えます。
正常酸素か低酸素状態なのか判断するのは人間の無意識な呼吸。
これはパスツール点(酸素濃度によって微生物は発酵と呼吸を切り替えること)と同じようなことなのかもしれません。
そのような訳であくびにも”あくびをする”or“しない”の「境界」を見つけることができます。

ネットであくびの原因を調べたならば「何のこっちゃ?」のナゾの現象のようです。
あくびは酸素を取り込む現象と考えてもやっぱり会話中にあくびされるとイラっときます。
あくびは伝播するという理由で“目には目”をあくびにはあくびでオウム返しでも良いのですが「あれっ」と思いながらも穏便に会話を続けるのが大人の流儀。
因みに「あくび」を漢字で書くとこれまた変な漢字で「欠伸」と書きます。
普通に読むと「けつのび」にしか読めませんが「あくび」と読めるところが不思議なところ。
レ点風に解釈すると「伸ばすことが欠けている」という感じです。
「伸ばすことが欠けている」とは体を使い伸びてあくびをしなさいという説教的なものを感じます。
確かに体を伸ばしながらのあくびされる分にはイライラするというよりもかわいい行動に思えます。
欠伸の仕方、マナーや礼儀のことを示している漢字なのかもしれません。

そう言えばマスク越しにあくびをしている人を全く見かけません。
あくびカルチャーはマスク生活によって廃れてしまったように思えます。
今や人前で大きなお口を開けることはリスクでさけることだし、やられる方にとってもNGです。
皆、陰に隠れてあくびしているのかもしれません。
私自身の行動に置き換えてもマスク時のあくびに記憶はありません。
マスクをすることで口にフタをするという強い力が働くのかもしれません。
いやいや、マスクをしていても口呼吸をしております。
マスクで口を覆う生活は酸素レベルを抑えむような気もするので、取り込む酸素量が減ったならば逆に頻繁にあくびが発生しておかしくないような気もします。
なのに、あくびが出ないとなればやはりあくびとは酸素を取り込むこととは関係ないのかもしれません。
実際にあくびしてみたら口を大きく開けているだけで酸素を大きく取り込んでいるような気配はありません。
単に口を大きく開けて「わー」とやり吐き出す方が多いような感じもします。
と考えると残念なことに、あくびとは思うようにならない状態、退屈な意思表示が正解なような気もします。
あくびは何か不思議な現象であり何かと何かの境界線であることは間違いありません。
あくびが日常的に見られるのはいつ頃になるのでしょうか。

関係ないけど今年のサマーには新しいサングラスを欲しいです。

 
■2022年6月5日(日)
■器たる者の欠伸のやり方。
■2022年6月6日(月)
■一日一文章トレーニング。

「ヒガラ」

昨日、家前の電柱で「ヒガラ」を初観察。
「ピーピーピーピーピーピー」と聞き覚えのない鳥の声が聞こえ「ん?」と私の鳥センサーが発動します。
さっそく、「そーっ」とカーテンをめくると電線の上に見たことのない模様の小鳥を発見。
大きさはスズメサイズ。
黒白の模様が特徴で頭部が真っ黒で寝ぐせのようにツンツンと冠羽があります。
顎からお腹にかけて一本の黒線。
羽根に白線が入っています。
電線の上で「ピーピー」と熱心におしゃべりしています。
感心するぐらいによく喋る鳥。
他にも声はしますがこの一羽以外の姿は見えません。
何故か「ガーギューイ―」というようなオナガのような鳴き声もします。
そのような珍鳥到来でさっそく、家にある一眼レフカメラで網戸越しに撮影。
網戸を透過しても一眼レフカメラは流石にキレイに撮影できます。
動画で鳥の鳴き声も撮影しようと思いましたがコチラは失敗して床しか撮影できていませんでした。(残念)
最近、見かける鳥と言えばカラスに鳩、スズメのみ。(ムクドリもいる)
2月のホオジロ以来の珍しい鳥を見ることができて良かったです。
鳥たちは最近の大雨にビックリして都市部に逃げてきたのかもしれません。
ということで、鳥の声に気づいたので珍しい鳥を見つけることができました。

 
■2022年6月6日(月)
■本日はお日柄も良く・・・いやいやなかなかの雨日です。
初!観察のヒガラ、漢字で書くと「日雀」でスズメの日と書きます。
穏やかな天気に「ピーピーピー」と賑やかな小鳥の歌が「おひがらも良く(鳴いている)」との例えになったのかもしれません。
おしゃべりな小鳥を見るとそのように感じます。
本日は「芒種」農家の種まきの時期で梅雨の始まる季節の変わり目。

 
■2022年6月7日(火)
■一日一文章トレーニング。

「ヤミテン落ち」

麻雀できる人には何か一目置くものがある。
マージャン話や競馬について話している御仁に畏敬の念を感じる。
わざと負ける話などのヒエラルキーなお話を聞いたりするとさらなる畏敬の念は増す。
自分ができないことを人がやっているのを見ると何かスゴイことだと感心する。
私にとっての麻雀とはそのような目の前にそびえ立つ大きな壁であります。

なぜか、私のYoutube にプロ麻雀番組のオススメがやって来ました。
気になってそれを観ていると麻雀の世界にもプロがいることを知ります。
ルールがわからないので何の牌を待っているのかゲームの展開もよくわかりません。
なので、選手の緊張感もよくわからないし解説の方が話すこともさっぱりわからない。
そうして、私はその麻雀番組を「チャンネル登録」する。
そして数本観る。
私はこのような意味がよくわからないものにチャレンジすることは案外好き。
そうして、マージャンとは何度も登頂を目指し何度も失敗している難攻不落のお山となります。

頭を作り、絵を並べることは知っています。
付き合い程度に遊んだことはありますがルールはイマイチ良くわかりません。
そう言えば、PSP Go に麻雀ゲーム「アイドル雀士 スーチーパイ」が入っていたことを思い出す。
※PSP Go はソニーの携帯ゲーム機で一瞬だけ市場に出回ったダウンロード専門のレア機種。
ゲームで遊べばルールも自然と頭に入ってくるだろうと考えから始めたゲーム。
ですが、ルールがよくわからないので全然勝てません。
でも、時折まぐれで勝つこともあります。
そういう時はゲーム内の雀士が「なかなかやるね」みたいなことを言ってくれます。
この一勝の為にどれだけの負け山を築いたのかと考えると苦笑します。
このゲームにはオープニングの歌があり、この映像を観ることが好きなので主にこのOPを観ているだけのことも多い。
このOPには私を圧倒する何かがあります。


というような訳で、時折、麻雀をやりたいと思う時が来ます。
実家から持ってきた古い麻雀の本でも読んで勉強しようと思い読み始めると初端から意味不明すぎて挫折します。
前書きの「マージャンの基本の心得」はすっ飛ばして第一問目からトライ。
【図】
(四萬)(伍萬)(六萬)(一萬)(二萬)(三萬)(二萬)(三萬)(四萬)(七萬)(八萬)(八萬)(八萬)
「A君は図のような聴牌(テンパイ)をしてヤミ聴(ヤミテン)で待っていました。そこでB君が「九萬」を捨てたので、A君はロンを宣言「倍満貫だ」と言って・・・」
・・・・・・・・・。
私の気持ちは・・・ついてこない。
世の中にこんなに意味がわからないことがあっても良いのでしょうか。
例題の1問目から何かしんどい。
テンパイはわかる、ヤミテンわからない、倍満貫わからない。
単語の理解の問題かもしれません。
熟読すると(八萬)を頭にして(七萬)(八萬)(九萬)で揃えていたのだと思います。
本によるとA君の手は門前清一色(メンゼンチンイーソー)、一気通貫(イッキツウカン)、平和(ビンフ)に二ゾロを加えると十一番飛(シーイーファン)になって文句なしの倍満貫だそうだ。
何か正気の沙汰ではありません。
テストの左頁にはテストに入る前に「ルールの確認」という項目があります。
もしかしたら、それを読めばマージャンに対する理解が進むのかもしれないと思い読むともっと深い闇テンを知ることとなります。
「(1)一勝負は半荘(ハンチャン)戦で東風(トンフォン)南風(ナンフォン)を一巡して終わりとし場には二(リヤン)ゾロがついてアガれば二番飛(リャンファン)ふやします。」
「えっ?」・・・「何フォン?」のことをおっしゃっているのでしょうか?
話は(9)までつづき私の読解力を遙か先に超えています。
イーソー何フォン全く無理。
意味がわからすぎてこの本は捨ててしまえば良いのですが、意味がわからな過ぎてそれが逆に面白く思って捨てられない。

ゲームで遊んでいる内にルールを覚えるかと思えば全く勝てずにルールもよくわからない。
本を読んでもやっぱり全く意味がわからない。
麻雀をやる度に私の頭の中ではいつも何故か感動の卒業ソング「旅たちの日に」が巡っていました。
これは何故なのだろうかと思っていましたが文章化して私の中のマージャン体系を整理することで理解できました。
それは「卒業」暗示しています。
いつも私は意味不な麻雀からこの広い(この広い〜)大空に常に旅たっていたのでした。
私にはマージャンのセンスがすこす足りないようです。


 
■2022年6月7日(火)
猫置物
■2022年6月8日(水)
■一日一文章トレーニング。

「タイム」

最近、雨降って寒い。
寒くてファラオのミイラのように夏用布団にくるまり寝ます。
ということで、本日もグレーな梅雨空。
今朝は特に何も思いつかない頭の中もグレー色。

チクタク・チクタクと横着は時間を管理しないと時を無駄に過ごしてしまいます。
何かを成す為には10分・15分と時間を計って行動しないといけません。
10分だと6個、15分だと4個と1時間に処理できます。
6月4日(土)に勝手にコロナ禍終わった(かも)?宣言をして冬眠状態からもぞもぞと動き始めます。
時が来たということで珍しく半ばヤル気に満ちております。
そのような訳で、文字盤の大きな目覚まし時計を購入しました。
11×11cmの意外と大きなサイズ。
最近の朝は目覚ましがなくとも自然に起きることができるので目覚まし時計は不要です。
子供の頃は潜水艦のような朝の光が入らない部屋で寝起きしていたので、朝にめっぽう弱かった。
そのようなことを考えると人とは常に時の波に乗って変化しております。
この目覚まし時計は常に時間を意識する目的で机上に鎮座するもの。
秒針は「スーーー」と無音で流れます。
チクタクとの表現はもはや古いのかもしれません。

海外旅行などにも毎日使う目覚まし時計を持っていきたい方です。
その意味では今も昔もアナログ派。
スマホなデジタル時計だけだと何かが物足りない。
何が物足りないのだろうと考えるとモニター上の時刻はデーターであり、アナログな時刻は物理的な針で見た目が異なります。
時計を見る為にスマホをいじって何か別な操作を行うことはワン・アクション必要で面倒なこと。
ただ、携帯一つでことが済めば持ち物が減る大きなメリットもあります。
横着思考の立場に立つと腕時計やスマホ時計を海外時間にあわせる手間は面倒で嫌い。
※海外旅行した時に。
目覚まし時計ならサブ時計だし後ろのネジを回して簡単に時間設定できるのでそれは良いこと。
パソコンはHPをいじれる位に得意だけどスマホはそれ程詳しくもない。
スマホのアプリは厳選したものだけをインストールしたい。
それはある意味、機械音痴かそうでないかの論争かもしれません。
自分が横着であると知っているならばアナログ時計の目盛りは視覚的に行動を律する定規となります。
ですが、実際の行動は無駄だらけとなります。
分や時間単位で時を制することは夢物語ではありますが、意気込みだけは買う価値は十分にあります。
私の体内時計は未だデジタルに至ることはありませんが「キャッチ・ザ・ウェーブ」したいです。

 
■2022年6月8日(水)
■キャッチ(キャット)・ザ・猫置物。猫を何かに乗っけることは良いことだ。
■2022年6月9日(木)
■一日一文章トレーニング。

「目覚まし時計」

さてさて本題
新幹線や飛行機に乗り遅れる人たちがいます。
それは何故か信じられないこと。
移動の時には時間に余裕を持って移動することは当然のこと。
どのような面(ツラ)をして乗り遅れてくるものかと思います。が〜・・・。

写真は以前に使用していた100円均一の目覚まし時計。
※今回新しく購入した目覚まし時計は信頼できそうなメーカーのもの。
100円の目覚まし時計なので驚くほどチープ。
大きさも5.5×5.5cmの手の平サイズで軽く小さく持ち歩くのにも便利です。
しかし、この時計は何回か重要な局面でやらかしております。
「なぜ、今なのか?」と思う肝心なところで電池切れを起こしてアラームを鳴らしません。
1回目は成田空港に行く海外出発の朝、2回目は海外での飛行機移動日の朝。
それらは恐怖!一種のホラー!この時計は電池切れで停止しておりました。www

成田空港から出発の朝。
詳細な記憶がスッポリと抜け落ちていますがZCの編集の方が自宅までお迎えに来て頂きまして家のピンポーンを鳴らし、扉もドンドンと叩いても返答なし。
勿論、携帯にも出ることはありません。m (__)m
私の記憶に残るのは暗くて深くて深〜い心地良い地の底から「ピンポーン・ピンポーン」の音と扉を「ドンドン」と叩く音が徐々に鮮明になる感じ。
それでハッと気づいた時には「これは とても ヤバイ」の一言。
目覚まし時計は完全停止、それでいて私は完全なる爆睡中で。
寝巻のまま扉を開けて謝罪して驚く位の高速スピードで服に着替えて家を飛び出します。
電車で成田空港に向かったならば確実にアウトな時間帯。
高速道路をタクシーで飛ばすことでギリギリ間に合うことができました。m (__)m
お迎えがなければ完全にアウトで目が覚めた時には飛行機はこの大空に〜(この大空に〜)飛び立っていたはずでした。
はじめに飛行機に遅れてくる奴ってどんな面しているのか?との暴言がありましたが、それは顔面蒼白なわいでした。
いやはや、寝過ごすってことって現実にあることなのです。

2回目はどこかのヨーロッパ。
移動の為にアラームを設定するのですが、これまた電池切れで目覚まし時計は完全停止。
時差の影響か?ふっと目が覚めてランプボタンを押すが目覚まし時計は光らない、備え付けの時計を見ると「えっ?えー?もうこんな時間(汗)」ということで慌てて飛び起きて荷物をまとめてタクシーに飛ばして何とか間に合います。
2度目の停止もギリギリのセーフ。
※関係ないけれども、目覚まし時計は停止していないのですがサマータイムの切り替え日でそれを知らなく余裕ぶっこいていたらギリギリのギリギリで危うく乗り遅れそうになったこともあります。

何で目覚まし時計は移動日みたいな大切な日に電池切れを起こすのでしょうか?
それは、私自身の日々の行いが悪いから。
それでも何とか遅れた時間を挽回できているので何かを持っているとも言えます。
そもそも、この安っぽい目覚まし時計に問題があるのかもしれません。
そのような訳で、この目覚まし時計は「なぜ今?」というような肝心な時に電池切れで停止します。
全ての危機は慌て飛び起きて、他の人の助けを得ながらなんとか切り抜けることはできました。
本当に感謝の言葉しかありません。
普段からランプボタン部分の塗装が剥げる位に毎日愛用していた目覚まし時計。
普段は問題なくご機嫌に動いておりました。
アラーム音も「ピーピーピーピ・・・」と大きすぎ小さすぎで丁度良い大きさでストップボタンを押すまで永遠に鳴ってくれます。
もう使うことはないので廃棄処分しても良いのですがいろんな思い出も詰まっているので保管しています。
時刻は7時53分頃を指しアラームの設定時間は6時25分頃を指しております。

 
■2022年6月9日(木)
■目覚めの時が来た。

■2022年6月10日(金)
■一日一文章トレーニング。

「麻雀研究(1)」

麻雀ゲーム「アイドル雀士 スーチーパイ」で学ぶマージャン研究その一。
エリカVSユキの戦い。
六月十日(金)朝錬。
私はセーラー服姿のユキ。
対戦相手は婦人警官のような制服を着ているエリカとの戦い。
どこから見てもお仕事中の制服姿のエリカに「マージャンしよう」と声をかける不思議なユキです。
良いでしょう。
私(ユキ)は今テンパイして(5丸)を引いた状態です。
今から何らかの牌を捨てなければなりません。
さて問題!
何の牌を捨てて、どのようにアガレば良いのでしょうか?

(可能性の1)
先ず、(6萬)(6萬)(7萬)(7萬)(8萬)(8萬)はいじらない。
これらは一盃口(イーペイコー)という役を成しています。
(6萬)(7萬)(8萬)・(6萬)(7萬)(8萬)という役。
※役とはポーカーのワンペアみたいなもので役がいくつも増えると点数が倍々で増えるようです。
※一盃口は「ポン・チ―」など鳴ると成立しません。
※牌を2個ずつ揃える七対子(チートイツ)とは複合しないようです。
ゲーム画面は(6萬)(6萬)(7萬)(7萬)(8萬)(8萬)と表示されるので脳内で一盃口であるイメージを構成しないといけません。

(可能性の2)
2個ある(4萬)(4萬)の内一つを捨てる。
(4萬)はドラなので捨てない方が良い。
※ドラは(3萬)が表に出ているの(3萬)の次の牌(4萬)がドラとなる。
※ドラはアガった時にドラ牌を持っていると点数が加算されるようです。
なので、(4萬)は触らない方が良いように思われます。
もし(4萬)捨てた場合は(3萬)or(6萬)でアガリ待ち。

(可能性の3)
(5萬)を捨てる。
そうすると上がれる牌は(4萬)or(4丸)でアガリ待ちとなります。
可能性は高いような気がします。

(可能性の4)
3つ揃っている(5丸)を捨てる。
そうすると(5萬)が来ると全牌が2個ずつの七対子(チートイツ)を狙うことができます。
七対子は漢字の通りに7つの字牌が対なペアになることを意味します。
但し、前述の通りに一盃口(イーペイコー)との点数上の併用できないようです。

このようにゲームで上がる為の方法はいく通りも考えられます。
それに加えて、相手が捨てた牌から狙える牌の可能性なども変化します。
上記のようないくつもの可能性を短時間で閃くことはマルチタスクを実行しているとも言えます。
このようなことは私のような単細胞生物には少し難しいこと。
いくつもの可能性が提示されると私の場合、頭の中がパンクしてしまい行動が停止します。

【予測】
リーチ状態なのか、リーチでない状態なのかもわからない状態はアガれるカタチを知らないとも言えます。
もしかしたら、麻雀のできる人たちはアガりのイメージを最初から構築しており、それに手持ちの牌を合わしていく逆算的な発想を持っているのかもしれません。
よって、今の私はやって来た手配によって可能性も模索するが故に頭がフリーズしてオロオロとします。

大体に於いて「麻雀」と書いて「マージャン」と読んでしまうところもおかしなところ。
「麻雀」を鳥と仮定した場合に「チュンチュンやっているなー」と思うよりも「ジャラジャラ」の大音量からしてもスズメならぬ騒がしい鳥であることに間違いありません。
竹の一番は孔雀な柄。
孔雀の鳴き声は知りませんが騒がしい鳥なのでしょうか。
調べると索子(ソーズ)の中の(イーソー)と言うようですが「竹の一」で良いです。
ちなみに、丸柄は筒子(ピンズ)と言います。
いやはや、マージャン難しくて名前を覚えるだけでも大変です。

 
■2022年6月10日(金)
猫置物(しっぽメーター)。猫2
■2022年6月11日(土)
■一日一文章トレーニング。

「4頭身のウィトルウィウス」

 麻雀ゲーム「アイドル雀士 スーチーパイ」の衝撃。はじめて遊んだ時にも何かしらの衝撃を受けましたが朝錬で遊ぶ度に何かしらの衝撃を受けます。先ず、キャラクターが4頭身であることは一つ気になること。比率を分析すると、顔(1)に対して体(0.8)足(2.2)ぐらい。足の長さは身長の半分位ありとても足長。足は細く長いことには何かしらの黄金律があるのかもしれません。そこで、レオナルドダヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」のようなものを描いてみて検証してみます。すると、いやはや、4頭身のずんぐりむっくりであるはずの体形でも意外とかわいいプロポーションになります。足を半分位にスラっ長くさせることには大きな意味があるようです。デフォルメされたカタチにはなりますが手足がすらっと長いだけで4頭身もステキ体型へと変化します。

 レタスに体が必要なのかの問題は大きな悩み。頭部だけで移動することは道真公怨念のような感じもして半ばホラーな生き物となります。そこで、レタス頭にも4頭身な胴体を付けてみました。絵はレタス頭(1)に対して胴体(1)足(2)で描きます。ガタイがしっかりとした体操のお兄さんのような感じです。レタス頭にスラっと感が必要なのかわかりませんが、スラっとを求める為のミソは恐らく胴体(0.8)という割合が重要な要素になるような気がします。4頭身をスラっとさせるウィトルウィウスは頭(1)に対して体(0.8)、足(2.2)が鉄板なのかもしれません。この法則を「スーチーパイのウィトルウィウス」と呼びませう。

 
■2022年6月11日(土)
スコスのTシャツを作ったよ。よろしくね。
だぼっと厚手のOneサイズ。
若者と大人のボクシング柄。
少数限定でバックはscos ロゴ。

 
■2022年6月12日(日)
■一日一文章トレーニング。

「人と社会と歯車」

人の目視とはいい加減なもの。
昨日はキャベツ頭を4頭身で描いたつもりでしたが定規で測るとしっかりと3頭身でした。
いやはや、キャベツの頭は大きいので仕方なし。
「てへペロ」という訳で、キャベツ頭が4頭身であろうと3頭身でもあっても世の中に如何なる変化も起きません。
昨日の文章、要は「ウィトルウィウス」という言葉を使いたかっただけとも言えます。

昨日、上野の不忍池を通りました。
すると、突然、演歌が大音量で流れてきて何事かと思いキョロキョロとすると携帯スピーカーを腰にぶら下げた派手なオジーが公衆トイレから登場します。
最新っぽい携帯スピーカーは音が良くてビックリ大音量。
本当に意味がわからないのですが、これが上野の現実です。
人々は何事もないように、かかわる事がないように、「すーっ」と空間を開けるのでそれがオジーの目的なのかもしれません。(コロナ対策?)
そのような訳で自粛によって歯車が停止した上野は徐々にいつも通りのカオスな日常に戻りつつあります。
この世の中は歯車のように例えられることはありますが、今日はそこのところに思いを巡らします。

歯車と言えばチョロQです。
チョロQとはゼンマイ仕掛けの玩具で後ろに少し引くとゼンマイを巻いてエネルギーを貯めて前方にたくさん走ります。
そのような機構を図にしてみました。

往路ではタイヤに連結したAギアが最終体にD1まで力を伝えてゼンマイを巻きます。
※D1とD2は連結したギアとなります。
(T=)は歯車の数を表しておりギア数を調整することで往路では少ない回転数、復路ではたくさんの回転数を実現。
計算式は下記のようになると思います。
計算式の根拠は図を参照下さい。

(往路の計算式)
10×18×10=1800
18×10×18=3240
1800÷3240=0.55555・・・
よって、往路に於いてはタイヤに直結したAギアが一回転すると、ゼンマイを巻くことD1ギアは0.555回転することになります。
ちなみに、Aギアが1回転する時の個別のギア回転数はB1ギアが0.555回転、Cギアは1.8回転、D1ギアは0.555回転と連動して力を伝えていきます。

D1とD2は連結されておりエネルギーを解放する時にD2の42も持つ歯車が力を解放して復路が作動します。

(復路の計算式)
42×21×18=15876
9×9×10=810
15876÷810=19.6
※E1とE2は連結したギア。
※B1とB2、D1とD2も連結したギアとなります。

D2ギアが1回転する時にAギアが19.6回転することになります。
ギアが回転する意味は力の伝達です。
これが往路(0.555回転)と復路(19.6回転)と比較しても回転数を上げることで走行距離を伸ばします。
このような往路と復路の差によりチョロQはゼンマイを巻く距離よりも力を解放する時に長くたくさん走ることができます。
チョロQギアの特徴は往路では(青色)連結したE1+E2ギア作動せず、復路では(赤色)Cギアが作動しないことがミソ。

チョロQのような玩具にもややこしい機構が組み込まれています。
歯車が力を伝達するカタチとは一つだけではないことも知ることができます。
大音量のオジー等、社会がこのような精密なギアで動いていないことは街を歩けば当然のこと。
しかし、働くチームによっては阿吽の呼吸でこのような歯車的な流れ作業も十分にあり得ることです。
むしろ、仕事とはシステム化しないと業務が効率的に動くことはありません。
それは適切なアナログ化は必須であることを意味しています。
もしかしたらの話ですが、、、。
人とは如何にもアナログ的な存在のような気もしますが本来的には0か1かのデジタル的な思考の方が生き物の考え方に近いのかもしれません。(独断偏見)
しかし、人や業務を効率的に動かしていくというシステムに於いてはアナログ的な機構そのものでもあり、それ故に歯車的なシスマティックな社会ではデジタルとの相性が悪くなる一方である一つの理由なのかもしれません。
デジタル脳とは人間が本来持っている本能的な感性に直結していると考えると、より野生的な社会の方がデジタルとの親和性が高くなる理由がそのようなところに見つけることができます。
これは直観です。

 
■2022年6月12日(日)
■最初の歯車数(A)÷次に動く歯車数(B)=(A)が1回転する時の(B)の歯車列の回転数
 
■2022年6月13日(月)
■一日一文章トレーニング。

「新芽」

 昨日は心地よい晴からの曇り空。ザッーと雨が降ったかと思うと再び晴れて真夏のように暑くなる。そして、太陽が欠けると今度は少し肌寒く感じる気候の変化。天気はコロコロと移り変わる気まぐれな一日。夜にはまんまるなお月様がお空にポッカリ。キレイだなと見上げると明日の火曜日の夜には完全な満月になる予定です。

 ということで、平凡な一週間が始まります。植物界のお嬢はワインレッドなお花?を咲かせます。これは明らかに葉っぱとは異なる形状なので花だと思う。1本の棒とその後ろに光背のようにある葉でワンセット。華やかさが何もない地味なお花。特に香りもない。

 このお花らしきものをネットで調べようと思いますが何という言葉で検索すれば良いのかわからない。そこで、画像検索するとサトイモ科な記事が出てきた。確かにメドゥーサのうねうねした根の奥に芋や球根のようなものがあっても不思議ではない。熱帯植物ということだけは間違いありません。

 お嬢は太陽に当たらないとグッタリ元気をなくします。直射日光が強過ぎても葉が黄色く退色してしまうとても繊細な植物。雑草魂とは正反対な位置づけ。先日、お嬢の虫食いの葉っぱと黄色く枯れ気味の葉っぱを切り落とすと新芽な葉っぱがニョキニョキと生え出てきます。新葉は数日で20cmぐらいの大きな葉となる爆発的な成長を果たします。文章書き始めてからの間にもその根元から新しく生え出る新芽が少し成長したようにも感じられます。いやいや、そんな短時間で成長するはずはありません・・・ちょっと成長したかも。いやはや、新芽とは元気でフレッシュ。私にもこのような新芽がニョキニョキと生えてきて欲しいものです。それには太陽なエネルギーとたっぷりの水と栄養素、土壌な環境も必要です。

 
■2022年6月13日(月)
■500ポイントキック。
なんとか更新でけた。
■2022年6月14日(火)
■一日一文章トレーニング。

「直進男」

植物界のお嬢の新芽について。
昨日は書いている間に伸びている印象でしたが今朝と昨日の朝で伸び具合を比較すると3oぐらいの成長でした。
すこすづつの成長です。
何事も少しづつな成長なのかもしれません。

ところで。

昨日のこと、自転車移動で十字路交差点の赤信号で信号待ち。
歩道は少し広めの歩道で植物の植え込みが島のように作られた緑化ゾーンが設けられています。
そのような街路樹よりもやや多いこんもりとした植物たちを見ても特に何も思わない私は歩く人の邪魔にならないように歩道の左端(植物の植え込み側)の隅に寄って信号待ち。
すると、前方から顔も思い出せない男が手提げカバンを持って真っすぐにコチラに向かってきます。
「こっちに向かってきているなー」と横眼で感じながらもアゴマに真顔、自転車にまたがりアホそうにぼうっと棒立ちの信号待ち。
すると、男はあらよ・あらよ・と思う間に私から見て左側の狭いスペースを直進して通り抜けていきました。
「えっ?なぜっ?そこを通る?」
私から見て右側の歩道には団体客も余裕に歩ける広いスペースが開いているのに何故このような狭いスペースを通るのだろうと少しイライラ。
「そのような些細なことでイラつかないこと」と自分に言い聞かせながらも「カルシウムが足りていないかも?」などと思います。
カルシウムとイライラの相関性について考えながらも、長い赤信号の待ち時間のこと「彼はなぜこのような狭いところを通っていったのか?」の可能性について考えます。

(一)
その人にとって道とは絶対に直進しないと気が済まないものなのかもしれない。
道を直進だけで進むことは普通に考えたら無理なこと。
なので、極力の直進願望の強い「直進男」なのかもしれない。
「直進男」というネーミングはなかなか面白い。
私も小さい頃、直進で道を進むことについて考えたこともあります。
直進で進めないので壁にぶつかったら「わー」と言いながらビリヤード玉のように反射しながら進んでいました。
それは、とても痛い子供時代。
人が少ない街で良かった。

(二)
若しくは通り道に関するジンクスを持っているのかもしれない。
人とは毎日の同じ通り道、特に朝の行き道のゲン担ぎは結構あるように思えます。
昨日は週の初めでもあり、いつものルート通ることで今週も安泰に過ごせる重要な日なのかもしれません。
私にはそのようなジンクスは全くありません。
どちらかと言うと、人が少ない方のスムーズに歩ける方を選んで進みます。
前方でトラックや車の渋滞や邪魔そうな人たちがガヤガヤとしていたならば、それを察知した時点で一本角や二本先の別道ルートを試みます。

(三)
絶対的な近道を追求するとも考えられます。
自転車を避けて通ることによる1〜2歩ぐらい歩数の節約にどのような意味があるのか?と考えるとこの推測は全くないような気もします。

結局のところ、歩道とは公共の道であり、その人がどのように歩こうとも基本的にその人の自由です。
逆に直進マンにとり私は進行ルートを邪魔する鬱陶しい存在だったかもしれません。
幸いに「チッ」との舌打ちや文句の独り言などを言われることもなく無音のままスーッと通り過ぎていきました。(私が心の中でぶつぶつと言っていたかもしれません)
でも、よくよく考えてみたら自転車と植物の垣根の間って人が通るにしてはちょっと狭すぎるように思えます。
直進男とはもしかしたら幽霊だったかもしれないと思えてきます。
それなら、スーッふわっとな横移動であっても不思議ではありません。
そのようなことを考えながら自転車移動していると時間はあっと言う間にすぎます。
人が密集する街の中とはイライラが詰まった箱。
イライラの存在が幽霊かもしれないと考えるだけで「イラっ」な気持ちが「ゾゾっ」とした怖さに変化して何事も結構許せるのかもしれません。

 
■2022年6月14日(火)
■ラウンド2。レタスキャノン。
■2022年6月15日(水)
■一日一文章トレーニング。

「がっかりコスト」

お菓子を素手でパリパリ・ポリポリ。
時にはソファーの上でひっくり返りパリパリ・ポリポリ。
セレブな人たちもお菓子をパリパリ、ポリポリ。
素手のままで食べると甘〜い、辛いお菓子のパウダーが手につきます。
そこはティッシュで拭くのか?
いやいや面倒なのでお菓子がついた指をペロペロと。
衛生的ではないと言えば衛生的ではありません。
3時のおやつは人を文明という枠から野生の世界に解き放つ魔法の瞬間。
皆、むしゃむしゃと野生的に食します。
そんな時に私は鳥類のようにお箸でスナックを食す。
お箸をクチバシに例えて一つ一つお菓子を口に運ぶと何ともエレガント。
箸技術は一級品でお手手も汚れずに鳥のようにお菓子をついばむ。
ツンツン、ポロポロ、カリカリって・・・ね。
えっ?お菓子が少ない〜。
40g〜のお菓子って一瞬のペロリでガッカリです。
鳥になったつもりで食べてもやはり少ないものは少ない。
いやはや。
これがインフレ時代の「令和のステルス値上げ」というものです。

ということで。

ステルス値上げとは価格を抑えて内容量を減らすという何とも日本的な発想。
グラムでの変化はありますが統計上の変化は現れにくい正にゴーストのような存在です。
海外メーカーだと内容量を変化させパッケージを変える手間よりも価格を変動させる方が合理的だと考えるでしょう。
同じ系列店でも販売する場所によっても当然値段は異なるもの。
そもそも定価という概念もなく価格は常に流動的で変化します。
日本の場合、硬直した価格文化の中での価格競争が長期的なデフレを増大させたとも言えます。
内容量を減少させると総量の原材料コストは減少します。
箱サイズが小さくなると輸送量は少し安くなるかもしれません。
パッケージの表面積が小さくなるとその分のコストも安くなる。
これは企業にとっては良いことだらけ。
ステルス値上げという概念の中に「軽薄短小」を見出したのかもしれません。
根本的な問題として円安や資源高でもあり値段を上げると商品は間違いなく売れなくなる訳で苦肉の策とも言えます。
しかし、お菓子は食べ物であります。
分量が減るということは消費者満足度を減少させる行為とも言えます。
これはあくまでも私の消費傾向からの判断です!
内容量が少なくなることは「ガッカリのコスト」を増大させる可能性があります。
これは後々には値上げによるロスよりも大きな消費離れを起こすような気もします。
ものを購入する時は値段による比較が行われますが、食べる時にはよほど高い商品以外値段に思いを巡らせることはありません。
そこには「ガッカリ」な悪印象だけが残ります。
商品値上げは一巡・二巡で負けるかもしれませんが、このような消費離れは起こさないような気もします。
そのような訳で、内容量が減ったお菓子の購入は減り、私の野蛮なお菓子時間を減少させます。

 
■2022年6月15日(水)
■ガャガャ。
■2022年6月16日(木)
■一日一文章トレーニング。

「ステルス値上げ」

ここ最近肌寒い日が続きましたが今日は蒸し暑い一日になるみたい。

 さて、「ステルス値上げ」が良くないと思う根拠について考えます。先ず、汚いものをステルス値上げという言葉によって隠そうという意図が見えます。これは「見える化」の正反対。しかし、ものすごくハッキリと見えていることが面白いところ。ステルスとは名ばかりで内容量を調整していることは既知の事実。ステルスとはステルス戦闘機のようにレーダーに映りにくく見えないので隠密的に行動できることを意味します。なのに、ステルス値上げは内容物よりも空気の方が明らかに多いなどパッケージを開封しても一目瞭然。これを戦闘機乗りに置き換えるとステルス戦闘機と言われて乗ってみたものの敵に完全に補足されるパイロットの絶望的な気持ちのようなものかもしれません。となれば、ネーミングが悪いように思えますが、私の考えでは定価(上代)的な値段の硬直性が生み出す技というか、そのような本質が良くないように思えます。例えば名目GDPのグラフを見ても1995年からほぼ、ずーっと横ばいであります。それはなかなかの異常なこと。これは中国からの低価格製品に市場を駆逐され、また、米国や周辺国にITなどの最先端技術等の成長分野を奪われた結果とも言えますし、ステルス値上げに代表されるような臭いものにフタをするような文化が世の中を停滞させたようにも思えます。

 ということで、「ガッカリコスト」が生まれる心境の変化を辿ります。(1)偶然買ったお菓子を購入して食べると満足である。または、そのお菓子のファンである。(2)次も再び購入しようと考える。(=満足度が高まる)(3)再購入。(4)内容量が減っている。(=期待値を下回る)(5)次も買おうと思わなくなる。これが私の考えるガッカリコストのメカニズム。ここでのポイントは「次購入するのか?購入しないのか?」という「01思考」の単純な分かれ目となります。主観性の強い味を数値化することや人の活動をデータ化することはムリなこと。なので「次に買う・買わない」のアクションの変化で判断することは分かりやすいスケールとなるはずです。アンケート等でも(おいしい)(ややおいしい)(ふつう)(ややおいしくない)(おいしくない)と聞かれてもどのように選択したらよいかわからないもの。人は常に美味しさを測ってはいますが、美味しい定義とはこれまた難しい判断であり、結局「好き嫌い(01)」によって振り分けられると思います。第二の脳と言われる腸が満足することはお腹が満足しているとも言えます。人によって好き嫌いがあることは当然で市場に出ている商品ということは最初から全て美味しいと考えることが妥当です。そこで、食べ物をデータとして識別する為の判断基準として「”次”の購入があるか?ないか?」の01的な選択肢はとても分かりやすいことだと思います。「リピーター率」のような感じ。そうすると「ガッカリコスト」の反対にあるものは「満腹率」でお腹が満たされて幸せな状態で次も買いたいと思うところです。なので、単純に新旧のグラム数で割り出される数字はリピーター率と同じのような式で、これは値段の新旧価格で比較したとしても全く同じ結果が表示されますので、グラムで比較することは価格で比較することと同じこととも言えます。よって「ステルス値上げ」は価格上昇を隠しているように思うかもしれませんが、グラム数を減らすことで値上げ上昇と同じ構図を作っていることがわかります。ちなみに、値上げの場合には購入前に買うことをやめるので「がっかりコスト」は発生しないメリットもあります。数回購入を諦められたとしても次の購入は確実やって来ると思われます。

新グラム数
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄=満腹率<>(ガッカリコスト発生させる)
以前のグラム数

新価格
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄=リピート率(値段による物差し)
旧価格

※グラムは減って価格は上昇するので答えは逆になるけれども・・・考え方は同じ。
※HPで分母の表記ってどのように書くのでしょうか?

 いづれにしても、商品購入後の再び買う買わないは(A)次も買うファン・推し層、(B)グレーゾーン、(C)次買わない層の3つに分類できます。(A)次も買うファン層は如何なる時もあなた私たちの味方です。(B)のグレーゾーンはそのうち忘れた頃に戻ってくるかもしれません。(C)次買わない層は「ガッカリコスト」の発生でもう戻って来ないかもしれません。このように「ステルス値上げ」が良くないと思う根拠をいろいろと考えて書き出しました。それは単に私の個人的な「食いしん坊な論理」なのかもしれませんが量が減ることへの感情の変化を辿ったとも言えます。そのような訳で最近流行る「ステルス値上げ」というのは値段を上げるよりも良い選択肢とは思えません。(勿論値段が上がるのは嫌です)

 
■2022年6月16日(木)
■ロボットかわいく改造中。
■2022年6月17日(金)
■一日一文章トレーニング。

「アナログとデジタルの境界」

アナログって何だ?
ということでアナログを調べる。

【アナログ】長さ・温度・電圧など物理量を連続した無限桁の数値で表現すること。人によって見え方が異なる。

【デジタル】物理量を有限桁として表現。情報の信号を符号化したもの。コンピューターでは0と1のデジタル信号で表現する。数量数値での表現なので誰が計っても同じ数値となる。

アナログとデジタルのわかりやすい比較対象は恐らくレコードとCD、ということでターンテーブルを調べる。
ターンテーブルは持っていないけれども憧れの機械。
特に「Technics SL-1200M7L」 欲しい。
DJみたいにキュキュと音を鳴らしたいけれども、私の場合雑音を鳴らして周りからイラつかれ怒られるだけかもしれません。
レコードの機械は大きくて場所をとります。
トーンアームを調整をして盤をお手入れをすることは横着人間には少しハードルが高い作業です。
CDは01の無数の小さなピットの列をレーザーで読み取る機械で円盤メディアは小さくコンパクトで扱い容易い。
そのようなCDでさえ最近、聴くこともなくなりました。
ならば、何を聴いているのかと言うとCDを持っている曲でもYoutube等のネットを通して聴きます。
完全なる無頓着仕様。
これはデジタル脳と言っても良いかもしれません。
デジタルからデジタルで物事を完結させています。
もしかしたら、野性的で横着な人間からデジタル脳に移行しているのかもしれません。

レコードはカッティングマシンという書き込み機械でアナログな情報を円盤に刻みます。
400Wのエネルギーをもってデーターを刻んでいくのでレコードの細い線には想像よりも膨大な情報が込められていることになります。
しかし、私が調べたところではせっかくアナログに刻んだ情報でも最終的に電気的に処理された機械で聴くとなれば電気信号に変換しなければなりません。
そのアナログデータをデジタルに変換するのが「アナログデジタルコンバーター(A/D)」というパーツ、それを通すことではじめてスピーカーから音楽が流れます。
要はアナログな機械とは言え電気エネルギーを使う以上、最終的にデジタルに情報を変換しなければならないことを意味します。
それが「アナログ→デジタル変換」の仕組み。
そのように考えると昔、日本が強かったと思われるアナログ的なものをデジタルに変換させる機械はとても変態的なマシーンで本命の「デジタル→デジタル」な世界への中継ぎ選手のような役目だったと言えます。
それは何か「境界を橋渡し」するようなマシーン。
デジタルからデジタルへとダイレクトに情報が移動する世界は「境界がなくなった世界」とも言えます。
境界がなくなると翻訳する意味もなくなります。
※デジタルでも拡張子やフォーマットの違いなどで境界は存在します。

電気信号で動く機械は最終的にデジタルに戻さなければならないことの本質を見誤ったことのように思えます。
アナログ思考とは見え方も様々、情報量も多く行間も含めて思慮を深める感じです。
逆にデジタル思考とはシンプルに物事を考えることなのかもしれません。
この思考の違いはトランプ選挙などの分断的な文脈で語られるお話です。
もし、未来の世界が電気信号のつながりが必須となる社会となるならば01思考も避けて通ることのできない未来となります。
ということは、お金もデジタル、行政もデジタルで自動化、全てはデジタルからデジタルへの移行することになります。
「アナログからのデジタル変換」という作業が「デジタルからデジタル」に置き換わるストーリーで物事を捉えると未来は知っている未来とも言えます。

 
■2022年6月17日(金)
■未来予測〜〜〜。
「アナログ→デジタル」に変換する必要がある作業には基本的に「デジタル→デジタル」のバイアスがかかる。
A/C→A/D
 
■2022年6月18日(土)
■一日一文章トレーニング。

「連続的に無限桁の気持ち」

 いやはや。毎日文章を書き続けることはなんともしんどいこと。しんどいと言うかネタがありません。毎朝目覚めて何を書こう?。そして、頭をふり絞る?いやいや考えても何も浮かばないので「ぼーっと」寝ぼけ頭で何かについて書く。それは勢い。個人的には書き続けることの先に何があるのかは気になります。それなりに書く(描く)ことは楽しいのですが進む先には虚無しかないかもしれません。または、単なる情報のゴミ捨て場なのかもしれない。面白いと思うことは、以前に情報の樹というものを書きました。質量を持たない毎日のデジタル情報がカタチや空間を作り出します。そしてそのような何かを書く私は腹ペコな狼である。やせ細り孤独に「クンクン」と山奥を彷徨う野生のニホンオオカミ(絶滅種)。朧気な何かの痕跡を見つけてはその匂いを辿る野生な嗅覚で文章を書くことは習慣でもあり獲物にありつく為の狩猟行為とも言えます。そのような感じでよくわからない話を毎日一人で文章化している。

ということで。

 今最も注目して痕跡を辿るものが「アナログ」。アナログとは私の中では難易度が高い題材でこの週末に腰を据えて登頂したいと思う山であります。何故、アナログが難しいと考えるのでしょうか。それは私に欠落しているものがアナログな感性だと感じるからです。アナログ的なものは人間の複雑に積み重なる情報体。そして、私のような単細胞には最も足りなくて掴みどころがないようなもの。「好きor嫌い」の連なる連続した複雑な感情の先にある何かわからないもの。私にとりアナログとはぼんやりとした訳がわからないもの故に、前世が人間ではなかったと言われる所存かもしれない。私の辞書には「アナログ」は存在しません。飛行機のANAやアナウンサーのログという見方もできます。勿論、そのような意味ではありません。英和辞書で「analog」を調べると「analog=analogue」 とある。「analogue」を調べると類似物、相似物とある。英英辞典で調べても「analog」の言葉は出てこない。どういうことでしょう。近い言葉だと「analogy=類推」「analogous=類似」「anagram=入れ替え」という言葉はありますが「アナログ」な言葉は見つかりません。もしかしたら、西欧人にもアナログ的な概念は存在していないのかもしれません。アナログとはYESからNOにつながる連続的で無限桁の中に中間的なYes でもNo でもない感情が存在していること。良く言えば異なる見方、悪く言えば曖昧で何を考えているのかわからないこと。これは人間誰しも感覚的にあるものとは思います。アナログ的な概念を持つ日本人はもしかしたら野生的な01思考とは異なるもう一つの異なる概念を持つ民族とも言えます。このアナログな概念は他の民族はカタチとしては持っていない可能性があり、それ故に「アナログ→デジタル変換」という変態マシーンでは日本人は類まれなる能力を発揮して、「デジタル→デジタル」の世界ではアナログ的な感性を発揮できなかった理由として考えると腑に落ちます。ということで、私みたいな単細胞もアナログ的な思考が苦手な訳で、アナログ的な考え方は知っているけれども自分では持ち得ない概念として壁を感じます。アナログという曖昧で連続するつながった概念は世界の紛争解決などにも役に立つ考え方なのかもしれません。多分、プーチンの頭にはロシア諺による「終わりよければ全て良し」という単純な思考しかないと思われます。そこで提示できるのはアナログ的思考かもしれません。世界は大きく変わりデジタルな01思考は社会の隅々まで行きわたることでしょう。おそらく、これは確実で引き返すことができない未来です。多くの活動はデジタル化されて情報化されていきます。そのような世の中では、人間としてのアイデンティティとして人とコンピュータの明らかに異なる相違が大切になります。日本人が持つアナログ思考にはその答えがあるように思われます。それは前世、人間ではなかったであろう私には書けないのですが・・・。人として柔軟であり、物事の連続性の中で物事の本質を説明できる人、それが私の考える曖昧で複雑な日本人の優位性であると思います。

 
■2022年6月18日(土)
■穴掘り掘り。ワンワンゆえの探究心。
 
■2022年6月19日(日)
■一日一文章トレーニング。

「大物政治家寛太郎最後の言葉」

アナログな呪いは解けぬもの。
未だ中途半端な宙ぶらりん。
昨日は「anagram」を「掘る・ひっかく」と誤訳していました。
何故でしょう。
まーいいや。
もしや、これはここ掘れワンワンな案件なのかもしれません。
そもそも、アナグラムを辞書で調べると言葉を逆さに並べ替えて意味をなす言葉。
「lived ーdevil」みたいもの。
何か高度な宝探しのヒントみたいな言葉です。
そのようなアナグラム視線でデジタルとアナログを見ていると、この二つの言葉は同じようで同じでない気がします。
ということで、そのような曖昧さを表現する為に架空の大物政治家寛太郎の言葉にのせて書きました。(三角構文

 梅雨の晴れ間、午後のひと時、大物政治家の寛太郎は92歳の一生を終えようとしていた。政治的などんな功績を残したと言われると特に思い当たるものはない。ですが、大物(おおもの)と呼ばれるに相応しい政治家であった。彼は自宅の広い和室に横たわり人生の最後の時を迎えようとしていた。寛太郎の枕元右には長男の正字(しょうじ)が座っている。正しいという字に文字の字を付けて正字である。長男なのに次男のような名前ではあるが寛太郎がつけた名前である。正字は所謂、二世議員と言われる議員である。左側は寛太郎の元秘書であり現在は正字を助言役として支える正七(ただひち)がいる。正七は7番目の子であるような名前であるが長男であり寛太郎が政治家として成り上がる一部始終を若い頃から支えた人物である。

 正字はコンピュータのように叩けばすぐに反響が返ってくるようなスピード感ある政治を信念とする。SNSやネットを駆使して政策や人となりを更新しながら有権者に届けようと日々努力している。そのような若手政治家である正字の携帯電話には父危篤な今も次々と通知や電話が鳴る。このような時に携帯も切るべきか、いやいや、やっぱりチェックしたい、けれども・・・少しぐらいなら良いであろう。数分ごとに電話をし、スマホで世の中の流れをスラスラと確認する。気になる情報もたくさんあるが後でいい。急ぎで返答を返さなければならない案件もあるようだが、これも後で返答することにしよう。そのようなことを考えながら父の枕元でスマホを触りながら座っている。

 元秘書である正七は名言的なものを考えることが好きな人物である。特段の経歴もない正七にとって名言とは自分の意見や感心を引く為に必要なスキル。名言のようなものを人前で話すと何か「おおッと」言う感心を引くことができる。実際は本人だけが思っているだけで聞く人にとってはそれ程のものではないかもしれない。しかし、名言風な言葉は人を動かす大きな原動力となることは確かなことであり、失言にもなりにくいので寛太郎出世の道具にもなった。正七にとって政治家のスピーチを考えたりする作業は性に合ったものであり何か心に残る言葉が一つまた一つと生まれて有権者に届く度に寛太郎が一歩ずつ大物へと変貌していくように感じることは楽しいことであった。世の中はフラットで0か1かのデジタルな社会に変わったと言われて久しい。それでも、言葉による力は今も変わらないとの信念を持つ。正七は寛太郎と共に昼夜問わずに話し合ったことを思い出しながら寛太郎が最後にどのような言葉を遺すのか楽しみでもあった。

 寛太郎には最後の時がすぐ側まで近づいていることを理解していた。呼吸の度に意識が遠のく。そのような最後の瞬間に寛太郎の頭に浮かぶ言葉はアナログとデジタルのことである。それは常に対となる言葉であり正反対な意味を成すもの。しかし、余命数時間となった今、もしかしたらアナログとデジタルとは全くの別物な概念かもしれないと思い始めた。寛太郎は国の仕組みが質量のない電気信号へと大きく変貌していく中で老害だと揶揄されながら肩身の狭い政治家としての晩年を過ごした。アナログ人間と言われYES ともNOとも言わない曖昧な言葉の先に人を驚かす何か考えはないかと引きずっていたのかもしれない。そんなアイデアを正七に話そうと思ったが「ふっと」立ち止まる。寛太郎は死に際に何故このような訳のわからない考えが浮かぶのだろうかと思うと可笑しくなり笑みがこぼれる。

正字「父が笑っている」
正七「ええ、寛太郎さんは良い笑顔をされております。これは若い頃何か閃きが降りた時の表情ですね。あっ、ほら、目が覚められたようですよ。」
寛太郎「正字よ。最後にお前に遺したい言葉がある。会議会合打ち合わせ等で異国の有名人や聞いたことのないような立派そうな人物の名言や理念を並べかけて対話してくる人たちがたくさんいる。そのような話は話半分で聞き流しても良し。彼らは知識だけで自分の意見を持たない全くの空っぽな人間である。しかし、間違いや考え方に相違があったとしても自分の言葉で自分の意見を述べている人が話す言葉には大きな耳を持って必ず聞きなさい。」
正字「わかりました。」
寛太郎「あと、駅までの道のりについてだが。遠回りでも墓場を抜ける道か住宅道路沿いを歩きなさい。ラブホ街を抜ける近道は時折ホテルから出てくる人たちと目が合って気まずい気分になる。墓場ルートは幽霊しかいないだろうし近道は避けて通るのが良い。」
正字「・・・は〜はい。」
正七「流石〜先生〜(涙)」

 日曜日の穏やかな午後、窓の向こうでは鎖につながれた番犬が左足で顔を「カッツカッツカッツカッツ」と掻いている。
これが寛太郎92歳最後の言葉であった。

 
■2022年6月19日(日)
■キャベツマン。・・・
■2022年6月20日(月)
■一日一文章トレーニング。

「不安定解消」

冷蔵庫の中でものが倒れていることはだらしないこと。
そして、冷蔵庫内で安定の悪いものと言えばケチャップやマヨネーズ。
まだ、たっぷり入っている時はそれなに安定して倒れませんが、使えば使う程に軽くなり、軽くなれば軽くなる程にすぐにこけます。
購入したばかりの時には先端を上に置いてもすぐに使用することはできますが、内容物が減ると先端を下向けに置かないと次に使う時に中身はなかなか出てきません。
使いたい時にすぐに出てこないことは私が最も嫌なこと。
なので、不安定の極致でもやっぱり下向きに置いておきたい。
そのような訳でチューブ系の調味料は安定が悪くて冷蔵庫の中でバタバタと倒れる。
ポン酢を取り出す時にマヨネーズに少し触れてしまうことでもあれば当然に奴はこける。
そして、決まって隣のケチャップさんも巻き添えにして倒れます。
この二人の不安定兄弟はどちらかが倒れると必ず両方とも倒れる、言わば対なもの。
並べて置いているので当然のことではありますが、非常に鬱陶しく面倒くさく思いながらも再び不安定状態に「そおーっ」戻す。

再び倒れることを知りながらも何故、同じ状態に戻すのかと自問自答するということで。

ケチャップやマヨネーズをペン立てに挿しました。
これは当たり前な事なのかもしれませんが、これによってボトル系の調味料と並んでも倒れることはありません。
用途がなく埋もれていたペン立てに第二の人生が見つかったことも良いことです。
これは多分、トヨタ的なカイゼンを実行してしまいました。
倒れる倒れないなギリギリな不安定を改善したことは大きな一歩。

しかし、冷蔵庫内のシン・不安定はケチャップやマヨネーズではありません。
それは小さなチューブに入った調味料たち。
生姜にわさびにニンニク、和がらしetc.
彼らは日常的に冷蔵庫のポケット収納で倒れています。
時折、気付いた時にキレイに並べ替えますが結局バタバタと連鎖して倒れて右や下にひっくり返るひどい有様。
そして、ポケット部分があまりにも荒れてくると冷蔵庫を開ける時にチューブはダイブして外に飛び出します。
それは私自身のハードコアなダイブ姿のようにも思えます。
掃除時です。
部屋や冷蔵庫の乱れは心の乱れとインターネットに書かれています。(意外と平常心やで)
そして、ダイブするは世の流れ。
気温が暑くなってくると電気料金節約の為にも長時間トビラを開ける冷蔵庫掃除を避けたいもの。
今はもう暑くなってしまいましたが、冷蔵庫のお掃除は寒い時期にやるのがベストな選択でした。

  
■2022年6月20日(月)
■整頓。
■2022年6月21日(火)
■一日一文章トレーニング。

「部屋の中で最も不安定なカタチのもの」

不安定兄弟を見ていたら身の回りの不安定なカタチが気になります。
そうすると不安定なカタチを探すのが私の性格。
ただし、ケチャップやマヨネーズを超える不安定なカタチはそうそうに見つかりません。
お腹が痛い時に飲むビオフェルミンの瓶、これは腸型人間にとって必須のアイテム。
時折、お腹が痛い時に飲む薬なのですぐに目の届くところに置いている。
このカタチは安定した瓶ではありますが、だんだんと隅っこに移動して落下します。
単に床に落下してくれれば良いことなのですが何故か足の上に落ちる。
<<<激痛<<<デス。
どのような痛みかと表現すると小さい頃に鉄製の玩具「超合金」と言われるようなものが足に落ちる感覚と同じ。
足の激痛でお腹の痛みも「グッバイ」っとなれば良いのですが、お腹痛い、足も痛いでW痛みで嗚咽する。
瓶のカタチに不安定さ全くないので置き場所として不安定という意味になる。
大体、私はモノの置き方が不安定です。
昨晩、「a bugs life(バグズライフ)」のオープニングとエンディングを観た。
そして、そのブルーレイケースがナナメ置きな状態で置かれております。
平面な場所に置けば良いのですが何故か20度位に傾きで置かれます。
こういうのはピシッとパシッとした性格の人が見たらゆるせない行動の一つだと思う。
世の中の不安定なカタチに注目する中ではじめてハックされる几帳面な視線。
そんな御方たちは常にそのような目線で世界を見ているのだと思います。
部屋の中にはそうそうに不安定なカタチなものはありません。
工業製品たるもの重力に抗うこともなくそれなりの安定感を持ってカタチ作られます。
私が作った人の顔のオブジェのようなものはそれなりに安定感はない。
机に立つ”しゃもじ”のカタチもなかなかの不安定さを持っています。
飾られるフィギュア類も安定感が低い。
2足の人型はちょいと力を加えるとすぐに倒れてしまいそうな感じです。
そのように考えると、もしかしたら、この家の中でケチャップやマヨネーズよりも最も不安定なカタチは頭でっかちな己(おのれ)自身かもしれません。
フリテン? ピーテン? ピン
ウーマン? チーしてない?
ドラドラ? 決めに行く?
ローソン? 9萬 ウーワ〜(何のこと?) 返品ドラドラ?(どういう意味?)ということで。
昨日、バグズライフのOP、EDを観る前にネットでプロ麻雀のダイジェストも観ていました。
そのようなナゾな呪文な言葉が頭を巡る私自身が最も不安定なカタチそのものであるように思えます。

 
■2022年6月21日(火)
■不安定なカタチ=頭でっかちの尻すぼみ。案外好きなカタチ。


■2022年6月22日(水)
■一日一文章トレーニング。

「紫陽花の印」

根津神社に「茅の輪くぐり」が設置されています。
内陣と外陣に分ける丸い円は結界のようなもの。
その結界をくぐるには、とある儀式が必要です。
それは左から無限(∞)マークな移動で円をくぐることで内に入ることができます。(図参照)
特別な時期だけ出現する特別な境界線。
以前は3回くぐりであったような気もしますが省略されてありがたい。
3度もぐるぐる回っていると幾分ヘロヘロな気分になるので短縮することは良いことです。

この円をくぐる際の動きを描いてみたら、とあるカタチに見えてきます。
それは梅雨時期に咲く「紫陽花」の花。
紫の陽の花と書いて何でアジサイと読むのか?と幼き頃から不思議に思うお花。
この紫色は高貴な感じもありますが何かしらの特別な雰囲気の持つお花です。
昔からの風習なのか?うちの実家でも母親が庭に生える紫陽花の花を切り、干からびさせて、お守りのようなものを作ります。
魔女の宅急便みたいなお話ですが、ネットで調べたら「魔除けのあじさい守り」というものがありました。
多分それです。
家庭で作る自家製のお守り。(花守り)
干からびさせるのではなくドライフラワーなお花のお守り。
効果の程は良くわからないので、毎年、実家から送られてきた紫陽花は「送ってこなくてもいいよ」という親不孝感全開で最近は貰っていません。
伝統文化と考えればそれら魔除けは吊るしておいた方が良いのかもしれません。

ということで。

紫陽花の花は小さなお花の集合体で花の数が異常に多い。
何個の花があるのかと思ってチラッと見ただけでも100以上は超える勢いです。
そして、この頭でっかちな風貌は正に、今、私が気にかける不安定なカタチそのもの。
もしかしたら、不安定なカタチとは表世界では語られない特別な意味を持つ存在なのかもしれません。
一つの円を無限な軌跡で刻むと紫陽花な結界を作り、そのような紫陽花マークには魔除け機能もあって且つかわいい。
スコスの家紋みたいなトレードマークにしても良さげな意匠です。

 
■2022年6月22日(水)
■紫陽花マークは茅の輪くぐりを模したカタチであり、収穫する果実のような、ひもの結び目のような、特別な結界、境界を持つ印です。

 

■2022年6月23日(木)
■一日一文章トレーニング。

「結界をくぐる」

紫陽花マークに余白線を入れると幾分立体感が増します。
都道府県章のような和のデザイン。
それでいて結界を模した不気味さも持ち合わせます。
もっと線を太くするか、黒色の面積をもう少し広げたくもなりますが「茅の輪くぐり」の動線を図案化したものなので、恐らく「面」は存在しません。
少し押せば右にも左にも倒れてしまいそうな不安定に支える一本の線は個人的な好きな部分。
これは(逆)電源マークのようにも見えます。
もっと人が押したくなるような直線に改良する必要があります。(製作途中)

ということで。

昨日も「茅の輪くぐり」を通り、これら行為を俯瞰します。
参拝の方々が皆、ぐるぐると回っていることは何か面白いこと。
先ず、この輪から紫陽花を見い出すことは難しいことです。
100人いても輪のカタチから紫陽花を見立てる人はいないことでしょう。
私自身も普通に見ていたら全く紫陽花に見えることはありません。
「茅の輪くぐり」から紫陽花を見出す為の方法論はこの梅雨な季節と人が動く動線の軌跡をイメージする必要があります。
これは現実世界の行動を図案化してデフォルメする作業です。
そのような経過を経て、そこに巨大な紫陽花があるイメージを持つと、それなりの迫力ある絵を想像できます。

結界を進むことは穢れを払い神聖な領域に入る行為です。
そのような伝統的な行動は異世界転生の物語を彷彿させます。
昔話でも穴に落ちるとそこには鼠の国があります。
現代でも夢の国のゲートをくぐると、そこにはネズミーランドがあります。
ウミガメの背中に乗って海の境界をくぐるとそこには人魚の世界があって、現代の私たちにはスマホというマシーンを境に情報・デジタル世界と常に交信しています。
東京の街自体にも家康によって作られた大きな結界は存在して、多分、私たちが異世界・異次元的なものを好む理由はそのような伝統的に培われた結界を出入りしているからのように思います。

頭でっかちの紫陽花の花と対面すると、それはブラッドボーンに出てくる「星界からの使者たち」ようにも見えます。
その発想はフロム脳のような感じで、やっぱり宮崎さんって天才だと思います。
この紫陽花ゲートの先に何か別の世界がつながっていると考えるとどのような物語を空想できるのでしょうか。
少しの間、考えたけれども何も思いつきません。
でも、やっぱり何かしらの宇宙感はあります。
紫陽花の淡い紫や青色は銀河の瞬く色にも思え、アジサイをくぐるということは漆黒の宇宙に飲み込まれてしまうラヴ・クラフトのクトゥルフ神話な感じです。

 
■2022年6月23日(木)
■バランスを保つ。
お目目パッチリ大きくかわいく描いたつもりだけれども何か今風じゃない絵。
 
■2022年6月24日(金)
■一日一文章トレーニング。

「不安定なカタチを探す」

不安定なカタチのものを探して街歩き。
そうすると不安定なカタチのものは案外目に付かないものです。
人工物は物理法則に従い忠実に地面の設置面を太く大きく安定的に作られています。

先ず、目に付くのは外灯や電柱。(人工物)
電柱や外灯、看板等は上部に重い物を備えて一本の柱で体を支えているので不安定に属するカタチです。
ですが、それらはコンクリート等で地面に強固に固定されています。
※調べると電柱類の基礎は図のような感じで地中に固定されます。
時にナナメる柱も無きにしもあらずですが私たちはそれを不安定なカタチとしては認識していません。
不安定なカタチとは言え、それらを見る人が倒れることない信頼感・安定感を感じているならば、それは不安定なカタチとして認識されることはないことに気づきます。

境界を区切る壁は不安定です。(人工物)
壁は単なる板の繋がりなのでヨコからの力が加われば簡単に連鎖して倒れそうな予感。
実際に地震によって壁が倒れたこともあって壁の保有者は壁面を小さく低くしたり補強して倒れない工夫が求められております。

街路樹や公園の大木なども不安定なカタチです。(自然)
これらは自然の植物で頭でっかちの枝を大きく空に伸ばして地面の接地面が小さい形状。
枝の張り方も様々で横に立派に張り出す荒々しい木々を見るとそれはそれで不安定というよりも美しいカタチのように感じます。
いずれにしても、植物は見た目に不安定なカタチをしていても、見ることのできない根は枝と同等な規模で張っていることが連想ができる故、木は倒れない(不安定ではない)暗黙知を共有しています。
なので、私たちが木々も見て「不安定なカタチをしているなー」と感じることはありません。

家前に置かれる植木鉢は不安定なカタチです。(自然+人工物)
大きく育った木々の根っこ部分は鉢の大きさで想像できます。
木々の枝に人がぶつかったならばコロッと転げてしまいそうな不安定さです。

具体的に書き出せないのですが不安定だなと思うものはいくつも見つけることはできます。
その中でも最も不安定だと思われるものは置かれた自転車。(人工物)
これはケチャップとマヨネーズの不安定兄弟に負けない不安定さを持っています。
運動する2輪タイヤと自転車のスタンドという構造物は究極的に不安定なカタチと言っても過言ではありません。
自転車置き場で横に片面立ちで前輪ぐらぐらの自転車があれば「そーっ」と触れないように切り抜けたいものです。
もし、その自転車が倒れると誰のか知らないその汚い自転車に触れて元に戻さないといけないことは嫌なこと。
そして、そのような自転車に限り倒れやすい。
そして倒れる時には他の自転車を巻き添えにしながらドミノ倒しに倒れていきます。
とは言え、片面立ちではない一見安定しているような自転車でも何かの拍子に触れて「バタン」と倒れることがあります。
そのような不安定なカタチをしている自転車たちは自転車置き場でさらに連なりデッカく不安定な集合体を作り出します。
今もどこかで「ガチャン」と言う絶望的な音が鳴らしながら倒れています。
「倒れない自転車」これこそがトヨタ式カイゼン活動が必要な小さな社会問題で不安定案件です。

 
■2022年6月24日(金)
■暑いね。「サーマー」と吠えるところを「暑〜い〜」となります。
■2022年6月25日(土)
■一日一文章トレーニング。

「2面性を持つことの可能性」

5階事務所の窓を開放していれば案外涼しい空気が入ってきます。とは言え、昨日は暑かった。そして、今朝の空はとっても暑くなりそうな真っ青な快晴。昨日は猛暑日で窓を開けても生ぬるい突風が入ってくるのでクーラーを起動させます。しばらくして、エアコンをONにしても室温は一向に涼しくならないので「おかしいな〜」と思い調べてみたら暖房モードで起動しておりました。「道理で涼しくならない訳だ」ということで、エアコンの風に手をやってみると熱風が出ている訳でもなく意味のないぬるい風を放出しておりました。いやはやサマーです。

昨日は不安定な自転車のカタチについて書きましたが、本当のところ己の自転車も片足スタンドで不安定そのもの。できるだけ真っすぐに自転車を置くようにしていますが、前輪はクルっと回転して周辺の自転車にウザ目な思いをさせていることに間違いありません。この自転車は私の中ではサブチャリなのですが、メインが壊れてしまっているので最近はこの自転車をたまに使用しています。このような自転車談義一つでも自分に甘く、不安定で倒れるのは他の自転車のせいだと自己中心的な物事の見かたは私が得意とするところ。結局は不安定なカタチは全て自己に回帰しているので、これは自分の中の甘甘な「2面性」な解釈となります。

で。

この「2面性」について考えます。「2面性」とは悪い意味で捉えられることの多い言葉です。人となりとは1本の背骨で筋道が通っていることは清々しくて気持ち良いもの。朝令暮改で昨日の文章を今朝一番で心変わりするような人間は信用足らぬものがあります。しかし、「2面性」には2面性なりの良い面があるのではないかと最近思うことがあります。それは「可能性としての2面性の広がり」です。それはこのような文章を書いている時に散文的に寄り道を続けることで一つの道しかないと考えるよりも、たくさんの道筋を見つけることができます。これは文章を長く継続して書く為の方法論の一つとも考えられます。寄り道が選択肢の幅を広げて過去の時点では見えなかった一つの可能性が増えることにより、もう一つ、二つと数珠繋ぎに新しい可能性を発掘していきます。これは多分確率の問題です。(六)の目を出すにはサイコロは1回ではなく何回でも振った方が良いし、たくさんのサイコロを同時に振った方が(六)の目が出る確率も上がります。よって「二兎を追う者は一兎をも得ず」の諺はとあるシチュエーションに於いては間違いかもしれなくて十兎でも百兎でも追っている時の方がより可能性の幅は広がります。【注意】目の前に兎が2匹いるその瞬間では一匹の兎に狙いを定めることは間違いないこと。関係ないけれど「シチュエーション」すごく発音が難しい。文字に起こすと間違っていないかとネットで検索したけれどモゾモゾとする気持ち悪い言葉です。話は戻りサッカー部に所属する子供は同時に水泳部やバスケ部にも在席していたならば、サッカーにどっぷり浸かる時間は少なくなるものの、その子供が持つ世界の幅も多岐に渡り広がる可能性もあります。画像は直近の文章の広がりを示すイメージマップ。「一つの可能性が生まれると、もう一つの異なる別な可能性が生み出される」という感じで枝分かれしながら広がっています。(シークエンスな考えの延長上にあるネットワーク科学です)このような新しく生み出されるノードを繋ぐネットワークがここで言うところの「未来につなぐ可能性」。それは遠い雲の向こうの目標を追っている高次元な人間的な考えというよりも目の前のワンワン的な野生視点なのかもしれません。これが多分「くんくん」と獲物の痕跡を辿る動物の嗅覚で点と点を線で結ぶ刑事や考古学な人もこのような嗅覚や概念のような気がします。

 
■2022年6月25日(土)
■あつい。水分補給を欠かさないようにね。
■2022年6月26日(日)
■一日一文章トレーニング。

「アナログ構文」

 日曜日の朝にアナログな呪縛から解放されるべく努力したけれども、アナログとは私には少しディープすぎる領域で未だ沼から這い出ることができません。

 結局、アナログって何かよくわからないもの。

 例えば、株式や為替などのチャートを見ている時の滑らかな曲線は一般的に言われるアナログ的な実体を表しています。但し、それらを時間や分、秒で変化していくグラフの先端をズームしていくとデジタルな本性である断面に辿り着きます。それは「買う?」「売る?」の二極の売買でせめぎあうグラフの先端。その数値には中間値や曖昧なアナログな概念は存在しない0と1のデジタルな仕組み。俯瞰して見れば一見アナログ的なグラフもそのメカニズムに注目するとデジタルを見出すことになります。それは一瞬一瞬の売買の選択は人間の複雑な感情やアナログ的な概念がバックボーンにあるかもしれませんが、それらをカタチ作るものはデジタルな信号であり市場の未来を作っているものはデジタルと言えます。過去に注目し時間軸を拡大しても、やっぱりデジタルな断面を見出すことができます。それらは過去の0と1の駆け引きの跡であり特定の時間で切り取られたデジタルデータ。もっと細分化して高速取引のような0.01秒単位で作られたデータにもアナログは存在しないはずです。(※画面上の見え方はパソコン上でどのようにも加工できます。)数式を扱い、また、電気信号で再現される限りにデジタルな世界にアナログは存在していないような気もします。でも、「私はアナログ人間だから・・・」と言うように私たち日本人にとってデジタルの対極には必ずアナログが存在しています。これはニワトリが先か?卵が先か?のニワトリの誕生のナゾと同じようなものであり。アナログとデジタルにもそのような禅問答が似合います。机上で考えている分にはアナログ的な思考ですが、電子端末に繋いだ瞬間にアナログ的なものの全てはデジタル化によって取り込まれます。もはやアナログとはデジタル上に存在する「ゴースト」のような気もします。攻殻機動隊にも「ゴースト」はありました。ネットで調べるとこれは「無意識や自我」のことと書かれているので少し異なるようです。

 頭の脳波を測るのは電気信号で受信できるようです。そのように考えれば人の考えや意識決定は電気信号のやり取りとも言えます。脳は電気的なやり取りで考えて動いてると考えると、そのような脳は01なデジタルと親和性が高いと考えられます。これが野生的な「好き嫌い」で判断することがとデジタルと近いと思うところであります。その中でも、日本人が持つ「本音と建前」はやっぱりアナログ的なものを感じます。頭で考えることは「No」であっても相手や自分の気持ちを汲み取り「Yes」風な言葉で切り返して、それを受け取る相手も薄々の「No」を感じつつ相手の口から出る「Yes」風な言葉を快く受け取って理解する。何ともデジタル概念を根本から壊してしまう複雑思考です。これは単純な01思考とは異なる別な思考回路と言っても良いと思います。人によってはこれを嘘つきと言うかもしれません。太古の昔から人は億千万のウソの上塗りを重ねてきました。でも、これは騙すウソではなくて騙していない嘘なやり取りでデジタル思考では決して辿り着けない阿吽の呼吸、時には大人な対応と言います。少し前の米国のトランプが当選した選挙でも口では「No」と言っていた人々の本音は「Yes」だったということも日本的な「本音と建前」が西欧文化の表面に現れ出た瞬間とも言えます。「本音と建前」とはどの民族も心の底に持っているものとは思いますが多分、概念としては存在していないのでしょう。このようなコミュニケーションは相手にも同等の考え方が必要で相手を押し測り、場を上手に取りまとめる考え方。察知する能力は同調圧力と同じような空気感も感じます。0と1ではない考え方も存在しているのは確かなことで、こういうのは文章化しないと漠然としていて実体が掴みにくいものです。

ということで。

 今「アナログ構文」という文章の書き方を考えています。
「(あいまい)+A+(あいまい)+B+(あいまい)+結論」という文章構造。
※(あいまい)はAでもBでもない曖昧なもの。
ABという二つのネタに(あいまい)な「三角構文」でサンドイッチします。
ネタとネタの間に(あいまい)を挟むことで最終的な結末が全く予想つかない曖昧模糊とした文章ができるのではと考えています。
アナログとは掴みどころのないお化けみたいな存在です。

 
■2022年6月26日(日)
■船の上の猫。

■2022年6月27日(月)
■一日一文章トレーニング。

「茅の輪」

久しぶりに天気図を見たら大きな高気圧が太平洋から舌を出すカタチで張り出して停滞しております。(ほとんど停滞中)
梅雨前線は大陸から時速20kmで東に移動していますがドシンと居座る高気圧は頑固そのもの、じりじりと肌を焼くこの真夏な日々はまだまだ続きそうです。
=本日、梅雨明け宣言出ました。

根津神社の「茅の輪くぐり」の輪を詳しく観察してみるとかやの中に「猫じゃらし」みたいなものを発見できます。
谷中は猫のイメージなので猫じゃらしを一緒に編み込んでいるのかもしれません。
何かを一緒に編み込むということは何かしらの思いも一緒に込められております。
そのような思いをイメージすると。
皆が寝静まる真夜中の境内に「ニャーニャー」と猫が一匹、また一匹と集まってきて茅の輪に群がります。
猫って登るのが得意そうなので茅の輪の上まで登る猫もいるでしょう。
そして、結界の先には猫の国があるのか?輪に集まる猫の大集会、それはそれでちょっと怖い景色。
私は猫じゃらしを見ても何とも思わなくて良かった。
チュールチュールや猫じゃらしの猫のテンション爆アガリ姿にはちょっと憧れるけど。

茅の輪(ちのわ)の作り方を調べます。
1)かやを束ねる。
2)輪のカタチに並べる。
3)それを縄で縛り固定して円形に成形する。

「茅の輪(ちのわ)」の「茅(ち)」とは「茅(かや)」のことを意味します。
「かやの輪」と呼ばずに「ちの輪」と呼ぶことは何か不思議なこと。
「茅(ち)」と「智(ち)」を掛け合わせて「知の輪」と読んでいるのかもしれません。
「かや」は「すすき」「すがや」「よし」などのイネ科の植物を材料とします。
イネ科を束ねるということで「猫じゃらし」のようなものも一緒に束ねることも間違いないこと。
むしろ、輪の中に猫じゃらしを一緒に編み込むことは隠れたおシャレのように思います。
「かや」とは「茅葺(かやぶき)屋根」に使われる縄文時代から使われる太古からの素材。
「かや」で葺かれた屋根が雨漏りしないことも、これまた不思議なことです。
これは導水効果というもので、細かく幾重にも重なるかやが雨水を導くことで表層だけに水が流れて雨漏りをさせない仕組みです。
自然素材なので茅葺屋根の耐用年数は約10年、定期的に葺き替えないと腐ってきて雨漏りするようです。
かやの表面にテフロン加工のような撥水、防腐、耐熱紫外線効果を施したならば耐用年数が化け物級に伸びるような気もしますが、台風や火事、かやの重さで地震などにも弱いことを考えると今の薄く軽い屋根を超える以上のメリットは見つからないのかもしれません。
昔の絵などを見ていても茅製の雨合羽を被った人を見かけることがありますが、かやの細かい導水効果は想像よりも濡れなかいのかもしれません。
現代の屋根は水をはじく防水という考え方なので水を導いて外に流すという考え方は面白い発想です。

 
■2022年6月27日(月)
■枠。
■2022年6月28日(火)
■一日一文章トレーニング。

「フランスのジュレ」

いやはや、暑い。最近、口にする言葉は「暑い」と言う単語のみ。暑いばかりと思っていると暑さに頭が支配されてしまうので他のことも考えようとクーラー全開の部屋で涼しく過ごします。クーラーの効いた部屋に一日中いると今度はぶるぶると寒く感じたりもします。「暑くて寒い」この対極にあるものの繰り返しはそれなりに何か面白いことのように思えますが体感する温度以上の発見はありません。そのような訳で一日一文章トレーニングも「暑くて暑いので涼しい部屋で冷えてもやっぱり暑い」と暑さ寒さな気温文しか頭に浮かびません。これではいけないと昨晩、寝る前にツルンと宝石感のあるゼリエースを作りました。箱を開けて粉の入った袋を取り出して容器にざざっと投入。この粉を容器に注ぐだけの作業で部屋に甘い香りが広がります。そして、少しの量の沸騰したお湯を粉に流し、泡だて器でよく混ぜて、同量の水を投入すると出来上がり。作り方はとっても簡単。粗熱が取れるまで冷ましてから冷蔵庫に投入すると完成です。今は文章中なので冷蔵庫を開けていませんが「ぷるんぷるん」で冷たいゼリーが完成しているはずです。ゼリー作りとはお風呂上りのこれまた異なる暑さを冷ますのにぴったりな時間を提供してくれます。というような訳で、暑くなるとゼリーのようなものを食べたくなります。多分、何の栄養もない砂糖たっぷりのゼリー。とっても体に悪そうな鮮やかな緑色。ピンクのパッケージは店頭でほとんど見ることはないので家に常備されているのはグリーンなゼリー箱だけ。本当はフランス料理のお惣菜(Charcuteries・シャルキュトリー)なジュレを作りたいと考えています。粉ゼラチンに卵・水・ブイヨン・ローリエ(家にない)・塩・コショウにゼリーの中を彩る具材を投入してセルフィーユ?て何のこと??ファイナルファンタジー感のあるその素材は何でしょうか?初っ端から躓きます。大体、フランス料理とはバターたっぷり、生クリームも大量に使っているので、それはこってりと美味しくなるだろうとは思います。しかし、日本の一般家庭ではバターも生クリームもそんなに使わないし値段も高い。レシピをパラパラと見ていても「うさぎのもも肉」とかをどこのスーパーでゲットしろと言うのでしょうか。最近見たうさぎと言えば、ホームセンター上のペットショップのウサギ。1万数千円ぐらいの値段で売られてました。野山を駆け巡ってもイノシシ以外に出会わないような気がします。骨付きの鶏もも肉で代用するかと考えてもひな鶏って何?仔羊肉ってどこで売っているの?ということで、肉と言えば牛、豚、鶏肉しか知らない私にとっては、おフランスな肉類とはをこの島国ではなかなかお目にかかることができない特別なお肉ばかりとなります。ならば、旬なインゲンやソラマメを使った料理にチャレンジしてみようと「エテュヴェ」と呼ばれる(発音が難しい)レシピの材料を見ていたらフランス産のエシャロットを使うみたいなことを書いてあって、如何に簡単そうなフランスのお惣菜でもレシピ通りの食材を用意することは不可能なことであります。結局、揃わない材料は省いて使わない、または、和風素材で代用して作るしかありません。映画「ジュリー&ジュリア」というレシピ通りにフランス料理に挑戦する面白い映画はありましたが、異国料理をレシピ通りに作ることはとてもハードルが高いことのように思います。材料が揃わなければひょろ長くカットするニンジンやパイ生地包みなどフランス風な見た目に加工するだけでも良いのかもしれません。そもそも定番の肉野菜炒めかホットクックで煮るしかない我が家の料理にフランス料理とは何とも可笑しな出来事です。お惣菜料理と書いているものの、よく見るとどれもこれも「これってメイン料理じゃないですか?」と思われる恐るべきフランス人のシャルキュトリー。やっぱり発音できないしこの文章が完成してからの数秒後にはこの言葉自体も忘却の彼方に追いやられでしょう。ジュレの道はとても遠く、この文章のカタチもゼラチンの透明感で固まったゼリーのようになって良きこと也。

 
■2022年6月28日(火)
■朝のフルーツと涼し気なゼリー。(あっさり味)
■2022年6月29日(水)
■一日一文章トレーニング。

「脱皮のすすめ」

昨日は暑くてゼリー状な文章を書きました。
そして、今朝もとても暑いので出来る限り透明に書きたい。

ということで。

セロテープとは透明で透き通り貼った下の部分を透過させます。
そして、いつ何時も透明無色で接着部分を補強します。
いやいや。
そのようなセロテープも長期間の時間経過と共に写真のように黄色く劣化変色します。

これはカッティングマットの上で切るのが面倒で、本の上で何かをカットしたらページも一緒に切ってしまったセロテープ修復跡。
偶然破れた訳でもなく、自分で切って自分で治す、そのような光景が何となく頭の底に残ります。
そのような20数年前に貼られた透明テープは今やこんなにも黄色く変色して、それでも透明度はそれなりに健在。
透明であった私自身も今やこのような時間の経過と共に劣化した色着きの透明な存在になっているかもしれないと考えると、それは何とも恐ろしきこと。
このテープは人間も同等に劣化することを暗示しています。
「再無色透明化計画」の必要性!!そのような言葉が頭に浮かびます。
でもね、そのようなページに挟まっている“しおり”は会社の伝言メモの切れ端を使っている辺りから昔からのポンコツ度合を感じます。
透明人間なところは持ち合わせますが、そんなに透き通った存在でもなかった可能性もあります。
それでもやっぱりいつまでも爽やかな透き通る透明でありたいと思うのは人の心。
それらセロテープにあながうことは多分大切で、この本の修復に使われたセロテープは年月が確実に私たちを劣化することを教えてくれます。
そして、このような黄ばんだ透明色は改めて嫌だ。
せめて、蛍光グリーンやピンク、ブルーなんてものも良いのですが自然界では黒以外のものは自然の摂理として必ず退色します。
美しい色は長持ちしないことは今や常識。
せめて、透明なクリア度を保ちたいと考えるならばどのような方法があるでしょうか。
キズの修復に貼られたテープは常に新しいテープを貼り替え続ければ良いことなのかもしれません。
「そうだ!!脱皮だ」
人間も脱皮できる生物であったならば、案外いつまでフレッシュさを保てたのかもしれません。
人間は進化の道を数本ぐらい誤りました。
そのような訳で、体は脱皮できないのだけれども頭の中だけも時折「脱皮」してリフレッシュすることはできます。
それは大切なことです。

 
■2022年6月29日(水)
■暑かったね。涼風を求む。
■2022年6月30日(木)
■一日一文章トレーニング。

「ウェルダン」

いやはや強力な太陽光線は全てのものをジリジリと焼きます。
肌もこんがりと日焼けしていつまでもヒリヒリと熱を保ちます。
私たちはアスファルトの上で焼かれるステーキ肉。
「そんな毎日は嫌だ〜」ということで。

昨晩は厚手のステーキ肉を焼きます。
ステーキを焼くことは案外得意なこと。
表面をサクッと中ジュワ〜なお肉が焼けると大満足な悦に浸れます。
美味しくお肉を焼く為には熱く熱したフライパンで肉にしっかりとした焼き目を入れて、最終的に余熱でじんわりと中心に熱を閉じ込めます。
そうすると表面がサックと中がピンク色の美味しいステーキの完成です。
お肉の焼き方はローストビーフ的な考え方。
表面を焼き上げる為にはフライパンからはもくもくと煙が立ち上がらせながら強火で焼く必要があります。
そうすると部屋に煙が充満してしまうので窓を開放して外気を取り込む必要もあります。
これは美味しく食べるには避けられないこと。
しかし、ここ最近の灼熱な外気を部屋に取り込むことには躊躇してしまいます。
そこで、昨日は窓の開放を最小限にガスコンロの火も弱火でフライパンのフタを活用しながら熱や煙をできるだけ閉じ込めるように焼きます。
そして、いつもどりの感覚で焼かれたステーキは立派なウェルダン肉に成り上がります。
ここ最近でも見たことのないカッチカッチのウェルダン肉。
フライパンのフタを閉めて蒸し焼きにするような焼き方は想像以上に熱効率が良いみたいです。
「失敗した〜」ということで硬めのお肉を食することになります。
ウェルダン肉にはワサビ醤油は合いません。
塩だけで食べた方が美味しく感じます。
ビーフジャーキーのようなジャンキーさも持ち合わせているので噛み応えも十分で「すごい肉を食べてるぜー」という満腹感も得ることができます。
私はそのようなウェルダン肉は結構好きなのかもしれません。
関係ないけれども、先日ネットの動画を見ていたらわんわんがキャベツをバリバリと美味しそうに食していました。
何かその気持ちはわかります。
あのキャベツな食感は私も大好き。
基本的にかたくて噛み応えのあるものが好きなのです。
それでも、やっぱり、サクッとジュワ〜な柔らかお肉にはそれなりの美味しさがあります。
恐らく、肉通の間ではウェルダンとは禁域です。
私でもステーキ屋さんに行ってウェルダンと言う勇気はなかなか持ち合わせません。
遠くから「ウェルダン」と聞こえてくると皆「ハッ」と思います。
プロが作る家庭では味わえないサクジュワな肉を食べたみたいと思うのが人の心。
シェフの気持ちに立っても熟成された良きお肉をカチカチのウェルダン肉に仕上げるのは気が引けるのかもしれません。
本当のところは「ミディアムより硬め」のサク感が好きで、ウェルダンの肉にも良いところがあります。
我が家にはグルメ魯山人がいないことが幸いなことで硬い肉も黙って食すことになります。
ステーキの焼き加減とは奥が深くて難しい也。

 
■2022年6月30日(木)
HARVEST TIME SCOS。