■2022年5月1日(日)
■一日一文章トレーニング。

「雑説」

「洗濯機」と「ケンタッキー(フライドチキン)」は何か似ている。
私は昔から「洗濯機」のことを「センタッキー」と発音している。
「洗濯機」の漢字は当然既知のこと。
でも「洗濯機」のことを「センタッキー」と呼んでいる。
文字に書きおこすとヒーローみたいでかわいい。
それは「洗濯機」という機械をはじめて認識した時から「センタッキー」である。
「せんたくき」のことを「センタッキー」と長年言っていますが誰からも間違いを指摘されたことはありません。
私が「洗濯機」のことを「センタッキー」と言っていることは誰も気付いておりません。(多分)
この発音の可笑しさに気づいたのはパソコンで文字を打つようになってから。
勿論「センタッキー」と入力して「洗濯機」は変換されません。
この手の発音違いは地方出身者にはよくある、あるあるなお話です。
ですが、これは方言ではなくて、とてもパーソナルなものなの。
うちの実家のみんなが「センタッキー」と発音していることではないと思う。
自信はないが。
私のまわりに言葉やその発音に厳しい言語学者がいたならば、一つ一つ訂正したくなりイライラとストレスが溜まるかもしれません。
その位にこのようなちょっと変な発音はたくさんあるような気がします。
「時折」なことを「たまたま」「たまたま」と話していたら外大の人に何かおかしいと言われたことがあります。
聞いている本人も「時折」なことと理解できているので言葉としては問題ないようにも思う。
「たまたま」「たまたま」と言っていれば聞く人によっては卑猥な言葉に聞こえるかもしれないし、私などは猫みたいでかわいい響きのようにも感じます。
NHKニュースで「たまたま」「たまたま」とアナウンサーが話していると少し面白く思うのかもしれませんが、ネットで「たまたま」を検索すると検索にひっかかるので「たまたま」を使う人は結構いるのかもしれません。
「たまたま」を使う人がいれば「センタッキー」と言う人も必ずいるはず。
「センタッキー」で検索すると「洗濯機 縦型 おすすめ洗濯機 おすすめ洗濯機 ドラム式洗濯機 寿命で検索」と再検索のリストが表示されます。
Ai も「センタッキー」を理解し始めている可能性があります。

「センタッキー」と「たまたま」のナゾ文の盛りで頭もパンクしてしまうので本題に入ります。

「たまたま」「洗濯機」でいろんなものを一緒に洗濯してしまうことがあります。
携帯電話やお金やティッシュなどポケットに入るあらゆるものを洗濯します。
洗濯機に投入する前にポケットの中を一つ一つ調べて中に入れれば良いじゃん!と思うかもしれません。
恐らく、横着人間のほぼ全員がそのような単純な一手間ができません。
なぜ?できないのでしょうか。
脱いだ服のポケットは手が入りにくい。
脱いだらすぐに洗濯機の中に”ほうり”込みたい。
ポケットをチェックし忘れたと気づいても一度中に入れたものを出して再びチェックするのは面倒くさい。
いろいろ思いつく節はあります。
【解決方法】を考えます。
脱いだ服は床に置いて洗濯機投入前に踏んで確かめる。
中に何かがあると踏んだ感触でわかるので発見できます。
でも、そのような儀式をお風呂の脱衣所でやっていることは少しおかしなことです。
ならば、脱ぐ前に一つ一つ確認すれば良いのですが、これもまた一年に1〜2回程度の起こることで確認が怠ったからこそ洗濯機で洗われることになります。
なので、解決するとならば二度チェックすることになります。
それは横着人には決してできないこと。
なので、やっぱり、時折たまたま洗濯機でいろんなものを洗ってしまいます。

昨日は万歩計をズボンのポケットに入れたまま洗濯を廻してしまいました。
当然、洗濯された万歩計は点灯しません。
最近、歩く時には万歩計で歩数を計測することが楽しかったので少しがっかり。
昨日のバッテリーと配線のフシギネタの文章を書いていたので、それは万歩計洗濯事件の伏線だったのかもしれません。
あのヘンテコな文章を書いている時点で生活の一部に慎重さが必要でした。
仕方がないので一様、機械を分解してみます。
ドライバーを出してきて万歩計を全分解。
小さなネジが8本の簡単な構造で基板と本体でネジ色も変えている親切設計。
水没した液晶画面は少し不安ですが、基板は水に濡れても大丈夫と思われます。
洗濯されているので中身はとてもキレイです。
直感的ですが、これは再起動デキル予感です。
濡れたままの状態で再び電気が流さない限り基板は壊れないと思うので機械をよく乾燥させることにします。
昨日は日差しがとても良かったので「アジの開き」ならぬ「万歩計の開き」にして天日干し。
液晶部分に水分が蒸発している感じが見られるので順調に乾燥はできています。
完全に水分を飛ばしてから再びネジを締めて電池を入れると万歩計が再起動。
もともと万歩計は水没を想定しているようで電池部分に水除けのゴムパッキンも付いています。
ポケットに入る小さな万歩計を洗濯してしまうことは想定内の防水仕様なのかもしれません。
なんと素晴らしい万歩計ということで、万歩計は息を吹き返し(((888)))。
パチパチパチと言うことで本日は「八十八夜」という雑節。
霜がおりなくなる季節の変わり目で季節がまた一つ進み。
「あ〜」
一日一分一秒は確実に前に進んでいきます。

 
■2022年5月1日(日)
■ものを踏むことは何か罰当たり。
それは何か日本的な感覚。
セキュリティを通る時のボディーチェックみたいなササっとタッチ。
でポッケに入れっぱなしのものを見つけることができればラッキー。
ボディーチェックで触られると何か笑ってしまう。
他の人は真顔でうけているのにヘラヘラしているのは何かいかん。
■2022年5月2日(月)
■一日一文章トレーニング。

「電線鉄道」

幼少の頃、母とスーパーに買い物にいく時に自転車後ろの荷台に座ります。
今みたいな立派なチャイルドシートみたいなものはなかったので荷台にそのまま座る。
二人乗りはダメだなんて議論はあるのかもしれませんが普通に荷台に座っていました。
私は寒がりな子供だったのでスーパーの冷蔵庫や冷凍庫から流れてくる冷気に弱かった。
なので、あまりスーパーの買い物に行くことは好きではありません。
親としてもスーパーに子供を連れて行くとお菓子を買ってくれ、ガチャポンをやりたい、おトイレに行きたいなどと面倒な子供だったと思う。
なので、スーパーに連れていかれるのは頻繁なことではなくたまたまなこと。
スーパーへの行き道は母の背中におでこをつけて乗ります。
景色も見ずにおでこを母の背中にくっつけて乗っていると何か安心感があるものです。
逆にスーパーからの帰り道は気分が大きくなったのか別な乗り方をしていました。
それは、荷台につかまり体を後ろにのけ反らせて空を見上げる。
暴走族の箱乗りならぬ後ろへの大反り。(危ない乗り方!)
行き道は小さくまとまっていたのに帰り道は偉くも正反対。
今考えるととても危ない乗り方でオススメはできません。
運転している母もまさか、後ろの子供がそのような乗り方をしているとは思わないだろうと思います。
自転車は進行方向に移動しますが私は空を見上げているので景色が予想しない方向に動きます。
そのような感じが遊園地のアトラクションに乗っているような気分で子供心に楽しかった。
予想できない動き、急に家の屋根が見えたと思えば空に入道雲が広がります。
そのような中で私のお気に入りな「もの」が電線にぶら下がる細長く黒い箱。
私にはその黒い箱が電車の車両のように見えていたので、それらが視界に入ればそれらを目で追いかけておりました。
青空に電柱が見えると突然黒い電車が現れ出る。
それらは空の電線を走る電線鉄道。
特に電車が好きな訳ではありませんが、空を走る電車が面白かったのだと思います。
電柱の数だけ線路は広がり黒い電車はあちこちを走行します。
黒い箱を探しながらの家路はあっという間の出来事。
今の子供たちは御代官様のようにスッポリとチャイルドシートに収まっていているので“えっぺらく”思います。

 
■2022年5月2日(月)
■電線鉄道。
■2022年5月3日(火)
■一日一文章トレーニング。

「この文章×情報の目的×フィルター」

ここの文章は「一日一文章トレーニング」です。
毎日、文章を書いて発想力と書く力を鍛えるのが目的。
勿論、無償(フリ〜〜〜)。
そのトレーニング効果もあってワード2ページ位なら結構書けるようにはなりました。
※今日みたいな難しい内容の場合には結構、長く考えて書きます。
とは言え、文章の表現は稚拙なまま、そこに表現される文体と内容は私の頭の中そのまま。
それはとても恥ずかしいことですが、こればっかりはどうにもならない。
恐らく、文章表現が素晴らしい作家さんたちは生まれもつ才能なような気がします。
文語体・口語体の違いはあるにしても普段口にしないような言葉は文章には現れ出てきません。
いくらたくさん書いても普段持っている自分の“もの”以上な“もの”は表現しようがありません。
以前は必ず四文字熟語や難しい漢字を入れようと背伸びをしていたこともあります。
ですが、何だかんだで文章の内容を考えるだけで精一杯で書くことも忘れます。
ほとばしる文章の泉はないからこそ、関連性をつないだシークエンス的なものや三角文などの文章構成を考えることでやっと文章が完成します。
先日、映画『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』予告編で面白い「ことば」を拾いました。


作家志望の女性がサリンジャーのファンレターに定型文で返事を書くお仕事のお話。
予告編の一場面でサリンジャーが「作家になりたいならば毎日書くんだ」と言っておりました。
そこで「毎日文章を書けば作家になれるんかい?www〜」と強欲な私が現れ出ます。
どんなストーリーを考える?
先ずはヒーロー1匹、泥沼ラヴ必須、ロードムービ的なストーリーは好きなので静岡から東京まで上京するお話、ヒーローがいるなら怪人も必要、とりえず嫌いな人たちも登場させて盛大に死を与えたまおう。
何か神様になった気分!作家最高!!。
と言う訳で、誰も読まないクソ指輪物語誕生の予感。
「一日一文章トレーニング」には文章を書く力をつける以外の目的はありません。
今考えているのは誰か別人格で文章を書くこと。
そうすると自分の枠からはみ出て、別人格の別ネタも発掘することが可能でネタ不足も解消できるかもです。

本題。

この数日「情報が目的遂行の道具」であることについて考えてきました。
情報とは「見えないもの」がある故に、これらを「見える化」してみたいと思うのが私の思い。
仮に「情報の目的」を「見る」ことができるならば「情報のリテラシー」についての判別は容易になります。
そこで、数日間かけて、いくつかのネットニュースに目を通し「情報発信の目的」について検証してきました。(ほんの数例ですが)
記事の内容は「円安」「占い」「できる人は〜しない」「正しい生き方」・・・と玉石混淆。

・「円安」については今、ホットな話題。
立場が違えば「見え方」も違う典型的な話。
私的には円安批判も円安擁護の人達もちょっと怖い。
このことは「急激な為替変動は良くない」に尽きるとおもいます。
今まで、ドル円は安定していましたが為替は10円20円と普通に上下することもあります。
だから、為替取引ですごく儲かることもあればレバリッジで破産することもあります。
これら変動は長期的に安定しなければ為替予約と言えども、物価高方向に引っ張られるのは仕方がないこと。
ですが、決済方法はドルだけではなくユーロなどの他の通貨でも行われております。
「円安」はメーカーからすれば値上げの良い口実。
プーチンにしても何とか総裁にしても頑固そうなおじーがメディアに登場することが人々を苛立たせ鬱陶しく思う全ての原因のような気がします。

・「占い」には人生の行動を支配するような目的を感じます。
それは怖くもあり少し覗いて見てみたいような微妙な線の話。

・「できる人は〜しない」「正しい生き方」については「わいにはソレできない・・・メチャクチャやっている」と「正しくない生活習慣も多々あり」ということで常識の範囲はオレが決める的な僧侶の説法を聞いている感じがして「うっせーわ」とも思います。
ですが、本物のお坊さんもいらっしゃって、これら邪念は私の頭の中で発生しているものであり汚い言葉はごめんなさいと合掌します。
それらが、どのような目的でそのようなことを書いているのかと考えた時に、コンサルタント的な仕事であれば占いに近いような行動を支配することが正義感になるのかもしれません。
仕事の内容ではなく正しいビジネス服装や文章で人を判断するのは如何にも日本的な風習のような気もします。

いずれにしても内容を分析する前にネットニュースの記事には「お金」があることに気づかされます。
「情報が目的遂行の道具」と考えた場合に、第一フィルターとして「お金」から「情報の目的」を検証できるのかもしれないと考えて検証します。
文章を書くことはそれなり大変なこと、その大変な労力を情報発信で利益を得ている会社に無償で提供することは考えられません。
その反対にコメントの情報は「“ほとんど”無償」の範囲だと思われます。
「単なる意見の発表の場」であるとも考えられますが意図的に情報をたくさん記載することで印象操作や潮流な流れを制御することは可能です。
「お金」が発生するということはプロ意識で正確な情報を伝えたいという人もいるかもしれません、また、校正など複数の人の目を通った情報ということになります。
または、「お金」は受け取っていないが宣伝目的で記事を書いている場合もあります。
その場合には広告的な自己利益を情報に載せることは普通です。
お金の“あり・なし”から「情報の目的」を識別することは少し難しいのかもしれません。

とは言え。

明らかに書き手人物の立場をフィルタリングできる情報というものもあります。
それが「新自由主義」フィルター!!
この言葉には心ゆさぶる何かがあります。
単語や内容にエッジがかかっているのか?感情がのりやすい言葉なのか?「新自由主義批判」には認識の差ではない平然とした嘘を書いている場合が多いです。
最近ウクライナ情勢で旧ソ連な国が大暴れしているので、それら人々もおとなしく記事もあまり見ることはありません。
これらを批判する人たちはたいてい立場の高い人たちでまさか、これら本を読んでいないとは考えられないのでウソを嘘とわかって発言していることが多いように思われます。
なので、「新自由主義」とはその人の考え方や立場の思考のフィルターになり得ます。
なぜ、「新自由主義」がウソをついてまで批判する対象なのか?私にはわかりませんが宗教論争のようなものなのかもしれません。
「新自由主義」には左的な人たちの心のよりどころをそっくりそのまま網羅しています。
それが憎しと思うところなのかもしれませんし、もともと社会主義的な側面が大きい国でもあるがゆえ信じてきたが否定された反応なのかもしれません。
「新自由主義」の名前が英語読みで「ネオリベラリズム」と呼ばれるように、もともと立場の弱い人たちにも配慮されたリベラルな概念で「公平」よりも「自由」に重きを置いているのが特徴です。

このようなわかりやすいフィルターを見つけることが書き手の「情報の目的」を知ることにつながるのかもしれません。
と言うことで、まだまだ信ずる情報云々の見分け方とは遠く長い道のりです。
ですが、そのうちにきっと「何か見えてくるもの」はあると思います。

 
■2022年5月3日(火)
■スピーク。
■2022年5月4日(水)
■一日一文章トレーニング。

「ギブミー掃除魔法」

魔法は信じるものでしょうか。
お掃除の魔法は信じるに値します。
花粉の飛散が終わるまで放置状態にあったコート類を天日干し。
色が退色するのではないだろうかと思われるような春の強力な紫外線に照らされて冬物たちが夢の跡。(芭蕉)
いくつものダウンジャケット、数回しか着用していないコート、日々愛用のものなど、こんなに必要ではないだろうアウターたちと来シーズンまでおさらばです。
つられていたコートがなくなるだけで部屋はみるみると広がり。
部屋の空間が広がれば心の空間も少し広がります。
冬場の寒い時期、コート類がつり下がる部屋の圧迫感は暖かさのようなものを感じて居心地が良い。
ですが、暑き季節のお部屋にはすっきりと殺風景ぐらいが涼し気な感じもします。
とは言え、殺風景までは決して辿り着けないハードロード。
選ばれしダンシャリストだけが見るであろう桃源郷。
それには、多分お掃除のマジックが必要です。

一時置台は一時、ものを置いておく場所。
そのような場所があると大変便利です。
便利なものはどんどんと使われることになり、ものがドンドンと積み重なり今やガチな物置台となる。
この一時置台、本当は家庭用プリンターを置く場所にしようと開放していたものですが、家庭にプリンターは必要ないなと言うことでちょっと「もの」を置くための場所となりました。
そこには、いつのまにか便利な物置スペースにはシャツからタオル、書類の箱、アクロバティックなポージングで落下を堪えるウサギの人形まで芸術的に積みあがります。
今日はこれらを「1日1コーナー、1スペース、小さな一角をお片付け」片づけませう。
一時置台が復活すれば、一時期的にその空間は広がりますが再び、ものが積みあがっていく予感。
エンドレスな攻防戦、それは一時置台の定めなのかもしれません。
置き場所に困ったものたちの最終的なたまり場。
ということは、置き場所に困る程のいらないものなのではないかと思い調べると。
どれもこれも全ている!!
アクロバティックなうさぎだけはどうでも良い。(でも捨てるのはかわいそう)
横着して元の場所に戻していないだけの「ものものもの」がその便利な場所に溜まり、溜まればまた片づければ良いことです。
ですが、出してしまい、溜まっては再びしまう、片しても、片しても終わりが来ない、そんな人生は何かとしんどい。

ゴールデンウィークにピッタリな案件ではありますが魔法の杖が欲しい。
「ティンクル・ティンクル・トゥルリン・ティラリン」な魔法の杖。
【ゲーム】エルデンリングでも魔法学院に入学しましたが入学早々に魔法をガンガン撃たれて大変な目にあいました。
それに比べたらホグワーツ魔法学院とはなんともぬるいお話なこと。
「ハリーぼったりー」手の付けられないワルな不良魔法学生が学ぶ魔法学院のお話。
彼らにはヴォルデモートでさえ手をつけられない。
何だか面白そう。

 
■2022年5月4日(水)
■魔法。
■2022年5月5日(木)
■一日一文章トレーニング。

「自分のあし、他人のあし」

例えば、床に寝っ転がり自分の右足を自分の左足の上にのっける。
それは足を組むことでもあり、とても日常的なこと。
それにより、右足が重たい、邪魔であると思うことはありません。
しかし、反対に他人が私の左足にのっけた場合にどのような気持になるでしょうか。
その重量は自分の足をのっけている時の重量とは比べられない位に重く、鬱陶しく思うはずです。
組体操のように「人がのっかるぞー」という意気込みがあればまた感じ方も違うのかもしれません。
ですが、普通のリラック状態で他人の足が自分の足にのっかることはとても不愉快なこと。
自分の足の重さと比較しても足の重量の差はそれほどないはず。
自分の足がのっかることは苦にならないのに、他人の足が自分の足にのっかることはとても重たく不快に感じること、これはとても不思議なことです。

それは「他人の為に何かをすること」に似ているように思います。
他人に何かをすることはとても素晴らしいこと。
それは使命でもある場合もありますし、逆に大きなお節介になるかもしれない、また、その人やその他の誰の為にならないことなのかもしれません。
そう言えば、私の経験上「他人の為を思って行動したことが自分の為にも、相手の為にも悉く良い結果を生みません」。
このようなことを言うと利己的で「利他」な精神に反旗を立てているようでもあり心苦しいのですが、このことは大体、あっている気がします。
足を組んだ時に自分の為の苦痛であれば苦にもならないことが、他人の為に生ずる苦痛となれば少しの痛みでも耐えることはできない。
それは人間に組み込まれたシステム(設計図)のように思われます。
他人の為に行動できることは人が人である為の概念的な社会性です。
それは生物が持つ本来の本能とは乖離しているようにも思えます。
何でそのようなことを考えてしまうのでしょうか、私が本当に前世人間ではなかったの?本能的な腸型人間あるゆえの人間性の欠如か?
それは「全ての人が自己目的を追求することが最終的な社会の利益となるという」功利主義的な考えに近い。
もしかしたら、ベンサム・自由とかは動物が本来持つ「野生的」なことであり、計画よりも変化に対応していく感じ、一方で人を管理する事や何か年計画云々というのはもう一方の社会主義的なもの。
いずれにしても、他人の為に派生する苦痛に耐えることができる精神は、全ての人が持ち得るものではありません。
他人の足で自身の足の歩みを進めることはできないように、自分自身の苦痛には耐えることができても他人の苦痛をしょい込むことは少々しんどい。
個人が自分自身の自己利益を追求することはとても自然なことのように思えます。
アバターで遠く離れたものを動かすようになる未来には、もう少し異なる考え方に変化するのかもしれません。

 
■2022年5月5日(木)
■棒模様。
■2022年5月6日(金)
■一日一文章トレーニング。

「古い本」

この本は実家から持ってきた本。
シャーロックホームズ全集10巻「まがった男」。
全集のシリーズなのにこの1冊しかありません。
Why?
それは実家のあるある。
なぜ、この本1冊だけを買ったのでしょうか?
私が買った訳でありませんので、ホームズ未満の推理を働かせます。
この本の表紙にはかなりステキなイラストが描かれています。
シンプルな表紙のイラストには赤青黄緑オレンジピンクブルー紫茶白黒灰と全色を使用したカラフルな色のイラストが描かれます。
子供たちにとっては宝石のように色がキラキラする絵はとても好きだと思います。
イラストの雰囲気も味がありとても好き。
なので、多分ジャケ買い。
10巻から買うという行動は何か面白い。
この絵のイメージはタイトルの「まがった男」の話を描いたもの。
1)室内にいる夫婦、2)アフタヌーンティー、3)事件現場、4)箱を持つまがった男、5)人と動物の足跡、6)箱の中から何かがでている。
「まがった男」というナゾタイトルですが「マスグレーブ家の儀式」「まがった男」「ライゲートの地主」「株式仲買店員」の4話収録されております。
何より10巻を持った手のアイコンがステキです。
パソコンで「手」で変換するといろんな手文字が出てきますが、この本は古い本なのでそのような手文字の先駆けのようなデザインな感じもします。
何度も読んでいるのでジャケットも良い感じに汚れております。
読み返してみると確かに記憶にある内容。
このような「まがった男」を何度も読み返すことで、このような曲がった人間に育ってしまったのではなかろうかとも思えてしまいます。
そう言えば【ゲーム】エルデンリングの「ラーヤさん」も曲がっていました。
あの子はとてもいい子です。
ゲームを作る人たちもこの本を読んでいるような気がします。
さしえはシドニー・バジェットさん。
銅版画のような特別なタッチは子供の頃の憧れの画風。
当時からどのように描いているのかナゾでしたが、今でもナゾです。
見返しもステキで装丁は市川英夫さん。

この本を読んでいた頃の夢とはどのような夢だったのかと思い返します。
スゴイお宝をどこかに埋葬したい。
宝の地図を描き〜方向に30歩、次に何歩と歩くと小さな祠がありその階段を下りていくと宝の部屋。
何ともお金のかかる構想です。
海賊でもあるまい、そのようなお宝の持ち合わせもありません。
とは言え、空き缶に詰めたくだらない宝物ならは私でも作れそう。
宝の地図を書き残し、私が死んでしまった後に後世の誰かが宝探しをするのは考えただけでも何かワクワクします。
子供の頃に影響を受けた本は今も謎と夢が詰まっており宝物そのものでした。

 
■2022年5月6日(金)
■ここ掘れ掘れ。
■2022年5月7日(土)
■一日一文章トレーニング。

「ボーダー」

灰色の街を彩るものは何でしょう。
それはストライプな模様。
ダニエル・ビュラン(Daniel Buren)の作品は建築や空間に縞々模様を彩る現代アートです。
ストライプ模様がステキなアクセントとなり日常の空間に特別な変化をもたらす。
布に印刷された87ミリのストライプがあるだけで空間は賑やかに楽しくなります。
先日も書きましたが人々は「ボーダー好き」。
日本人と欧州の人は特に「縞々好き」が多いような気がします。
なぜ、このような規則的な模様に目が囚われるのでしょうか。
一定間隔の真っすぐな線の規則性には安定感があります。
人間の目とは、もし、それら線の1本が数mmズレたり曲がるだけでも、その違和感にすぐに気づきます。
その位に、縞々模様には人の目を釘付けにする何だかの魅力があります。
縞々で真っすぐな「もの」を想像するとそれは柵であり、内と外を隔てる境界のようなもの。
そのような境界線をカラフルに纏うことで内と外の境界を示す効果があります。
しかし、ボーダーが目立てば逆に模様に目がいき境界はぼけて曖昧になるような感じもします。
ストライプな不思議。
ダニエル・ビュランのストライプは「街の境界」や「見えない何か」をキレイな配色で「見える化」する行為のようにも思えます。(私の独断な視点・勝手な解釈)

昔の私も緑の縦線ボーダーの服を着ていました。
緑と白の太線の“だぼーッ”とした長いやつ。
どこかの何かのスポーツチームのユニフォームのようでもあり、陽気な囚人服のようでもある緑の縞々。
とても、派手でお気に入りだった服。
人混みに紛れても縞々模様は目立ってすぐに発見できます。
だから、昔の囚人服はシマシマだったのかもしれません。
※関係ないけど「人混み」とは「ひとごみ」と書くので何かムスカ大佐の言葉のようでもあります。
そのだらしなさから世の親々が毛嫌うであろうその服。
「よこしま」という言葉もあります。
意味は正しくないこと。ねじれていること。
漢字にすると「邪」と書くようなので「横縞(よこしま)」ではないようなので一安心。
それでも、ホームズ未満の直観が反応して何か裏がありそうな予感です。
最近、そのような縞々でボーダーな服が欲しいなと思います。

上記写真はスコスの水玉折り紙
https://enpitoroys.tumblr.com




 
■2022年5月7日(土)
■ストライプ。
■2022年5月8日(日)
■一日一文章トレーニング。

「縦横格子」

果たして南北に広いこの日本列島で「邪」という漢字を「よこしま」と読むことができる人は幾人いるのでしょうか。
辞書を調べましたが、やはり「邪」は「じゃ」であり「よこしま」と読むには無理があります。
何歩譲ってもやっぱり無理。

「邪(じゃ)」の意味は邪悪、不正、よこしま。
英語で言うと「evil」とても悪いものを指す言葉。
古くは邪馬台国(やまたいこく)という国もあり、これにも「邪」の文字が入るということは「オレたちは悪者国家だ」と宣言しているようにも感じます。
※じゃま大国とも読めます。
これはタイムボカンシリーズで言えばドロンジョ一味の立ち位置。
懲悪勧善な物語でない限り、自分から悪者国家と名乗ることは先ずあり得ません。
歴史は勝者によって塗り替えられるということを考えれば、邪馬台国という言葉の視点は「やまたいこく」を敵側として見ていた悪意ある視線のように感じます。
邪馬台国について何の知識もないので、これは率直な意見。
「よこしま」は不道徳、悪意、意地悪な意味。
英語に置き換えると「wicked」。
うまくは表現できませんが「邪」はより根本的な悪の存在だと読め、「よこしま」と「邪」の二つの文字に意味の隔たりはあります。

ということで、昨日のつづき

仮に「よこしま」が「横縞(横線)」であると考えた場合「縦縞(縦線)」は「縦割り組織」のようにも見えてきます。
これが昨日のホームズ未満な憶測。
「縦割り」とは「セクショナリズム」。

※関係ないけれども「イズム」にはいろんな―ism があります。日本人が「〜的」という言葉が便利で多用するように英語圏の人たちは〜主義がとても好きなようにも思えます。いろんな―ismを抽出して特定な分類で色分けしたら何か面白いものが見えてくるかもしれません。今度、トライしてみませう。

真っすぐな縦線はなんとも清々しく一本の筋があるようにも見えて尊ばれます。
これぞ日本男児、大和撫子である。
一方、真っすぐな横線にはそのようなニュアンスはありません。
そもそも横道にそれることさえもあまり良き行動のようには思えません。
日本で有名な横縞ユニフォームと言えば、ラグビーオールジャパンの赤白の横縞。
これはとても極太の横線、フィールドで戦う選手の団結の印・記号のように感じます。
このユニフォームを着て戦えば先輩後輩上下等なく戦うことのできるデザインです。

日本人がボーダー柄のストライプを好むのは縦割りを好む国民性と考えれば理解できます。
階級社会的な要素がとても強い欧州でもそのような意味でストライプ(縦線)が好まれるのかもしれません。
縦線が正義であるとした場合に横線とはちょっと邪悪なものには見えてきてきます。
それが「邪」を「よこしま」と読む由来ではないかとの疑いです。
おのおのが横と連携とって団結でもしたならばその瞬間から命令系統は機能しなくなります。
なので、そもそも長年議論になる縦割り組織の弊害は問題である俎上(そじょう)にも上がっていないような気もします。
縦割りとは村社会・セクションごとの家族主義的なものだと思います。

もし、本当に縦割り組織を解消したいと考えるならば、どうすれば良いでしょうか。
図形やデザインとしての縦線と横線で考えるとわかりやすく、それはとても単純で簡単なこと。
縦線に横線を引けば良いだけ。
格子状の街、将棋や碁盤目など大抵の人たちは大好きで安心感のある意匠だと思われるので案外日本的な形状とも言えます。
また、その形状はネット社会の形状と似ています。
このカタチを形成するには数本の邪道な横線では単なるノイズにしかなりませんので、意図的にある程度の横縞人を入れる必要があります。
個人的意見ではノイズであっても図形の体を成さなくともそれはそれで良いと思うのですが、日本人的な美的感覚に立つと何もしなくても自然とキレイな模様を作り出しそうな気もします。
そうすると拮抗する組織、急に中心が薄れるノードによって繋がれた図形。
自由闊達な議論をと言うことで自由気ままにテキトーなことを言っていたら「空気を読め」となる雰囲気では少しハードルが高いことです。
ガッツリ派閥的な割れ方になるのか?個々の独立した点になるのか?それはちょっとわからない。
このようなカタチは英国などのタータンチェック柄にも通じます。
縦と横線が交わりそれは何か牧羊的な柄。
縦線は貴族的なものとすると横線は労働者的なるもの。
模様には何らかの意味や国民的な傾向はありそうです。
線の縦横の組み合わせで、今朝はこのようなことを考えました。

 
■2022年5月8日(日)
■交差。
■2022年5月9日(月)
■一日一文章トレーニング。

「宝探し」

「さぁ宝探しの時間だ」ということで家の中でお宝を探す。
当然、宝物は見つからない。
〜鑑定団に出せるようなお宝はなぜ我が家にないのでしょうか。
【答え】無いものは存在しないこと。
唯一、宝物っぽいものはリンゴジュースの空瓶につまったキレイなお金。
どのお金もピッカピカのピッカピカ。
キラキラ輝くものはお宝の証です。
これは街でキレイなお金を受け取るとコツコツとこの瓶に溜めてきた美しいコイン入れ.。
―――今も溜めている現役の貯金箱。
まだ満杯にはなっておりませんがそれなりに分量が入っています。
ガラス越しに見ると10円玉ばかりですが重さだけは十分に一人前。
瓶を持ち上げるとズッシリ重い。
大瓶なので片手で持ち上げるのは、ほぼ無理な重さに達している。
これが金塊であれば家でも何でも買える十分な重量ですが、ほとんどは銅貨。
たまに、100円や500円玉がチラホラ見えますが、銅色の輝きに満ち満ちていているので総額で1万円に達するのかも怪しい。
しかし、キレイなお金縛りでこれだけの量を貯めることはなかなかハードルが高いこと。
大富豪がこのような輝く貯金箱を作ろうとしてもこの輝きはすぐに作れるものではありません。
これは上京してから始めたピカピカ硬貨だけを収納する長い時間をかけて作り上げてきたアートのようなもの。
泣ける思い出も一緒に詰まった貯金箱であると言いたいのですが、特別な思い出は特にない。
最初、1・2枚入れた時はこんなに溜まるとは思っていなかったと思います。
キレイなお金を貯めるということは、これらお金を貯めて何かに使う気は最初からないと思います。
(全く記憶にありませんが)多分、キラキラと輝くキラメキを瓶の中に封じ込めたかったのだと思います。
サイフの中にキレイなお金を見つけるとこの瓶に投入する。
お金の輝き具合で「入れる」「入れない」を選別するので、それなりに選ばれた硬貨達でもある。
私にとっては長年一緒の貯金箱なので金額以上の価値があるかもしれませんが、他の人にとっては額面以上の価値はありません。
もし、誰かが宝の地図を片手にこのお宝を発見したならば、とても重い重量と暗闇にピカピカと光り輝く金属色にテンション上がるかもしれません。
ですが、よく見るとそれらのほとんどは10円玉で「ドッヒャ〜何だ?コレっと?」とひっくり返ることは間違いなし。
そのような意味に於いて、この貯金箱は宝物にふさわしくありません。
ですが、すごい年月が経ち(2080年頃)銅が希少価値になっていれば話は別です。
デジタル通貨の普及した未来ではそもそも金属のお金は存在していないかもしれません。
江戸時代、金貨は普通に使われていたことを考えれば銅貨も珍しい硬貨となることもあり得ます。
一つ言えることはお宝にとって「輝きと重さ」は一つの存在感を示す価値観になるような気がします。
やっぱり、キラキラと美しい“もの”と重い“もの”それらは何か良い“もの”であります。
ゴールデンウィーク明けの気の重い第一歩は心機一転の「宝探し」の夢を抱きながら歩みを始めます。
宝だタカラ、もし徳川埋蔵金を見つけたならば大判小判の上にダイブしてクロールしたい。
ジャバジャバ〜ジャバジャバ〜と。
ぞなもし。

 
■2022年5月9日(月)
■Thank you for your cooperation.
■2022年5月10日(火)
■一日一文章トレーニング。

「宝物の埋め場所」

私は小さな子供、砂場で砂遊びをしている。
近所のお友達と開催される大砂場大会。
砂場に誰も見たこともないような大きな山を作ることを目標としている。
土台を広く築きパンパンと土を叩いて地盤を固める。
そして、土を盛っては再び地盤を固める。
それらを何度も繰り返して子供の目線ぐらいの大きなお山を完成させる。
砂場にそびえ立つ大きなお山。
次にその山には大きく貫通するトンネルを掘る。
手を肩まで入れてドンドンと掘る。
反対側からもお友達が掘り進めて手が触れるとトンネルが貫通した証。
穴を覗くと明かりの向こうにお友達の顔が見える。
この洞穴は子供たちが持ってきた玩具のお家にする。
お人形たちはお家の中で休息してもらいバケツたっぷりの水を砂場に流す。
水を流す度に川は濁流となり子供たちを歓喜させる。
山を築く為に掘った穴には水が溜まり、それは池となり湖へとなる。
水の入った砂場とはとても気持ちのよいもの。
びちゃびちゃドロドロの阿鼻叫喚なその光景は子供たちにとってはとても楽しい瞬間。
次第に砂場の中を駆け回り、固くて大きな山にも衝突する。
山は頑丈で大きいので子供が一人二人とぶつかってもびくともしない。
壊れないならば壊してみようホトトギス。
小さなお友達たちはどんどんと山にぶつかり、そして大山は崩れる。
砂場はいつものような平場となり、ふっと気づく。
洞穴でお休み中だったお人形さんたちは大山の崩れると共に一緒に埋没してしまった。
彼らを救出するべく再び土を掘る。
しかし掘れど...掘れどもお人形さんたちは探し出すことはできない。
夕方となり、これは砂場に埋めた宝物だということにして家路に帰る。
家に帰ると「すぐにお風呂に入りなさい」との母親のヒステリーな叫び声が響き渡る。
一度、地中に埋まったものは再び掘り起こすことは困難なことである。
例え、砂場のような小さな一角でも。

「さあ宝探しのつづき」。
宝物を隠す場所はどのような場所が良いのでしょうか。
先ず、頭に浮かぶのは地中に埋めることはNGです。
金属探知機でもあれば発見できるのかもしれませんが、地中に埋めると恐らく再び日の目を浴びることはありません。
宝物を作り、宝物の地図を作って、宝物が見つからないのは宝物の悲劇。
毎日使うものでも少し置き場所を変えただけで「あれはどこにいった?」と長い時間をかけて探すことになります。
そのように探すことはとても大変なこと。
それをさらに難易度の高い地中に埋めることは埋めた本人でも探すことは不可能なことのように思えます。
なので、地中に埋めることは絶対にダメ。
砂漠地帯であれば日陰になるような低木の木陰に置いておくだけでも良いかもしれない。
でも砂嵐が来たら埋まってしまうのかもしれない。
砂をかぶる程度であれば、散歩中の愛犬が臭いを感じて「ここ掘れワンワン」と気づくのかもしれない。
動物が好きな匂いを染み込ませることは良い。
高温多湿な私たちの住む世界でお宝を外界に置いていたならば、すぐに劣化して朽ち果てます。
この文章を書いている本人も意味がよく分からなくて戸惑うお話ですが、宝物を隠す場所、その選定はとても難しいことのように思えます。

 
■2022年5月10日(火)
■砂をかき分ける。
■2022年5月11日(水)
■一日一文章トレーニング。

「宝物ウィーク」

いやはや、梅雨の走りみたいな微妙な天気が続きます。
宝物」のテーマも視界不良でどのような結末に向かっているのかわかりません。
それでも書き進めましょう。
まだ見ぬお宝に向かって。

ということで。

「宝物」のことを考えると「子供の頃」を思い出します。
逆に言うと大人になると宝物のトキメキも忘却してしまい「お金」という現実的な(¥)数字に変化します。
私なんて言えば、最近は(¥)マークが何故か(夫)という漢字に見えてくるナゾな新境地に辿り着きました。
(¥)も上下回転して「これは一体何の暗示を指し示すのか?」と恐怖しておりましたが、このような真っ当な文章を書くことで「子供こそが日本の宝」なのだと確信しております。
その辺を歩く憎たらしい子供も、聖人君子みたいなえっぺらい子供も、皆、同じくして私たちの将来へとつなぐ宝です。
ということで、「子供は宝」ということでキレイに纏まりました。
(fin)

と思うのですが―――私たちのお宝目標はそんなお手軽に終われません。
もっと人欲にまみれた「令和のお宝」を追求したい。
「宝物」には「宝物を探す人の視点」と「宝物を隠す人の視点」があります。
大体の物語は「宝探し」のストーリーです。
宝探しの旅を始める、友人ができ、車をワイルドに乗り回し、Loveもあり、洞窟、神殿、キモチワルイ昆虫やワニ、水につかる、流される、そして推理して、敵の襲撃もありやっと財宝へたどり着く、そのようなお話。
でも、私は面白いと思ったのは「隠す方」。
多分、それは誰も参加者のいない「宝探しイベント」の主催者気分。
小さい頃にやっていた一人遊び、公園の木の穴にセミの抜け殻や変わった木の実を隠して、数日後に一人でそれを見つけて喜んでいる一人遊びに近いのかもしれません。

大体に於いて、隠す宝とは隠す時点で動機が何か普通ではありません。
でも、宝の地図までを描くとなれば、見つけて欲しい人がいるということになります。
このような隠す人の心理や動機は何とも複雑な感じ。
でも、宝を隠したからにはやっぱり見つけて「ウワー」と驚き喜んで欲しい。

このようなパターンも考えられます。
荒川土手の草むらを歩いていたら偶然、重い壺を蹴とばす「イタタタ」と中を見たら鼠小僧が盗んだ小判がドッサリ。
多分、その場所は鼠小僧が息絶えた場所なのかもしれません。
そんなシチュエーションもテンション上がります。
これは地図いらずの偶然のルーレット。

そもそも、隠す場所を考える前にお宝が必要です。
私にとっての宝物は何であろうかと考えて思いついたのが「これ」。(写真のもの)
6人の人の顔の え。
私の原稿ボックスに入っていた謎なイラスト。
このような訳のわからないものがたくさん入った原稿ボックスが大量にあります。
どの箱も懐かしくそれなりに面白い。
ときどき、原稿ボックスを開けて中を覗きますが、これら箱の中はアイデアの宝庫です。
長年の集積。
ネタが尽きてしまった人の最大の癒しになるのは間違いありません。
これこそが私にとっての本当の宝箱ではないかと思います。
でもね、私にとっての宝物であっても他の人にとってはガラクタです。
「宝を見つけたー」
開けると「何や?これ?」と捨てられるのがオチ。
やっぱり、キラキラと輝いていないとお宝ではないでしょうか。
よくよく考えたら欲にまみれた人間の良い薬にもなるかもしれません。
「徳川埋蔵金を見つけたー」「全部木で出来た小判だったー」のような。
狸に化かされた気分。
絵の具で金ぴかに塗っとくか。

 
■2022年5月11日(水)
■¥が円を意味するだなんて?
とんでもねぇ。
円の本当の意味は ¥と夫、夫と¥、それらは表裏一体のことわりを表しているんだでぇーい。
(江戸ッ子)
■2022年5月12日(木)
■一日一文章トレーニング。

「野菜生活」

生野菜生活を始めて数か月。
野菜にも味の違いがあって好きな味があることにも気づきます。
好きな味があるということは嫌いな味もある。
キャベツの硬くてバリバリと食べる食感と味が好き。
普通のレタスも味にクセがなくて好き。
少しお洒落なレタス類は葉っぱな味が強くて苦手ですが、それでも、スーパーの旬な安売り野菜をだまって食します。
生サラダを毎日食べる効果については、はっきりわかりません。
それでも、体は軽やかに睡眠の質も向上したような気がします。
とは言え、それは全くわからないこと、もう少し検証が必要です。

野菜をむしゃむしゃと食していると、わいは芋虫かい?と思う。
イモムシという下品な言葉はカタカナでも漢字でも厳禁である。
蝶の幼虫の幼虫もダメ、蝶々の子供それもふさわしくない。
いもちゃん、いもっこ、全てムリ、結局あのぶよぶよとした外観は地球外生物を連想させます。
山梨のお寺で手の平よりも大きい地球外イーモを見たことがある。
神社の境内をむにょむにょと横切り移動していた。
見たことのない巨大サイズで恐怖していたら、後ろの家族がそれを踏みつぶしていて、もっと恐怖した。
そう言えば、私も実家にいる時には毛虫などの害虫を見つけると躊躇なく踏みつぶしていました。

仮に私が地球外イーモであったならばキャベツの中とは360度食べ物に囲まれるステキな空間(宝箱)である。
先ず食べ物に困ることはない。
朝起きてむしゃむしゃと、そして少し休んでむしゃむしゃと。
キャベツの重なる葉っぱの断熱層が温度変化も一定に保つであろう。
鳥などの外敵にも襲われることのない完全なるセーフゾーン。
キャベツの丸々としたカタチはマザーシップや惑星のようにも感じます。
そのような快適空間だからこそ地球外イーモがあのようなやわらかい肌の姿になったのではないかと思う。
土の中で安全に暮らすカブトムシの幼虫も無防備なままの柔肌である。
安全な環境があのイーモなようなカタチ作るのでしょうか。(環境決定論)

そのような戯言はさて置き。
レタスやキャベツを毎日、食べていると食し方にもこだわりが生じます。
野菜は野菜袋に入れて保存すると芯の硬くて白い部分から酸化して変色します。
色が茶色い野菜を食べるのは少し気持ち悪い、なので茎の部分は予め切り落とします。
そすると、冷蔵庫の中に数日置いてもみずみずしいサラダを食べることができます。
芯の部分はそのまま捨てるともったいないので、一日程度塩漬け加工するとシャキシャキとした歯ごたえの良いお漬物になります。
お酢を入れてもおいしい。
炒め物への利用も試しましたが芯な感じはあまり美味しくないのでお漬物にするのがベストです。
でも、それは少し面倒なことなので芯は捨ててしまうことが手っ取り早い。

 
■2022年5月12日(木)
シドニー・バジェットさんの銅版画(エッチング)みたいな画法をiPad で描けないかと試していて何か出来そうな予感です。
→パが正解。Sidney Edward Paget(シドニー・パジェット)という名前でした。

 
■2022年5月13日(金)
■一日一文章トレーニング。

「リペイント」

毎年やってくる気圧病(気象病)な季節。
天気図を見ると西から梅雨のような長く前線を引っぱる低気圧が見えます。
それはもうすぐ東京にもやってくるのでしょう。
少し前まで美しく彩っていた新緑もどんよりと沈んでおります。
このようなグレーな季節に負けない為にも体を鍛えなければなりません。
今日も歩いて移動するか!

ところで。

ゴールデンウィーク頃からリペイント(再塗装)していた「ホーンテッドマンション・フィギュア」の塗装が完成しました。
亡霊色っぽい色ってどのような色であろうかと考えて透けた蛍光色で筆塗りします。
青白い顔、闇にうごめく3人の幽霊。
彼らは館から脱走するべくヒッチハイクできる車を探しております。
アクリル絵の具は大体の素材に塗装できますが、蛍光色は下地を隠す隠蔽力が若干弱いので何度も重ね塗りが必要です。
完成したものはブロンズ像のような味わい、まあ良いでしょう。
世界でたった一つのオリジナルカラーです。
(一)
時間をかけてフィギュアを再塗装することは新しい価値観と愛着を生み出します。
あと、2体のゴーストと細かいパーツ類があります。
これらは異なる亡霊色で塗ることとします。

このような物理的な筆塗りというのは初動が大変重い。
デジタルだと思いつた時に「ぱぱっ」と塗り、失敗したら消して間違う以前の過去に戻り再び書き始めることもできます。
リアルな塗装となれば、そのようなデジタル思考では物事が進みません。
先ずは道具集めから。
アクリル絵の具、筆、パレット、筆洗いの水など道具を集め、フィギュアの表面に色を乗せる為の下地加工も必要です。
これら一手間は横着人にとってはとてもハードルが高いこと。
筆を使うとなると混色するので色変えごとに洗浄しなければなりません。
洗浄を怠ると筆がパリパリになって高い筆もお釈迦です。
実際に塗り始めると手や机、服にもインクが付いて汚れます。
いつの間にと言うくらいにインクはあちこちに飛んで、気付かずにインクが乾いてしまうと落とすことは困難。
汚れても良い服も必要です。
塗りとは当然、はみ出て失敗するもの。
何かこの色は違うなと思うこともあります。
アクリル絵の具は隠蔽力が強いので上塗り塗装が可能。
なので、「塗り」と「修正の塗り」を繰り返しながら完成を目指します。(失敗の上塗り)
塗装面の下には失敗の黒歴史(履歴)がそのまま反映されます。
(二)
このような層は何か失敗の上に失敗を上塗りして消していく人生の層、現実世界を追体験しているような感じです。
失敗の数だけ色も深く濃くなる。
そして、最終的に完成したと思うところで塗装を終わらせます。
この終わりの判断も自分自身の感覚次第で正解はありません。
修正が効くこと、色が落ちないことを理由にリペイントには水性のアクリル絵の具一択です。
※仕上げにクリア(透明or不透明)のスプレー塗装は必須。
いやはや、「Delete」や「Back space」に慣れた「デジタル脳みそ」に「リペイント作業」は「現実世界」の不自由さを改めて感じさせる良い薬です。

ディズニーランドにも行きたいな。

 

■2022年5月13日(金)
■昔に考えたものを具体的なカタチにしていこうかと思います。
色塗りの画はシドニー・パジェット風のタッチを利用しました。
 
■2022年5月14日(土)
■一日一文章トレーニング。

「一幅と一服」

一幅(いっぷく)の掛け軸。
一幅の生地の長さは何メートル。
一幅とは単位を測る定規のような言葉。
今朝はMY宝箱に入っていた一幅のイラストを眺めている。
一幅と仰々しい、それは私が描いた一枚の落書き。
A4コピー用紙に鴨とジャガイモのイガラシ君の画。
一枚は切ってセロテープで貼り付けている。
貼り付けたイラストをめくると描きかけの失敗した絵が描かれている。
多分、失敗を隠したかったのですね。
じゃがいものイガラシ君は私が昔から描いている落書きのキャラクター。
手足のないジャガイモ。
ポテトヘッドとは異なり手足がないので移動は主に転がって進みます。
そう言えば、最近、ジャガイモをあんまり食べていません。
ジャガイモ不作のニュースで聞くので、そのようなことに原因があるのかもしれません。
とは言え、ジャガイモを食べていなくてもどうってことのない人生です。

ところで。

絵から判断すると、この絵はイガラシ君をかじるマガモにラジコン鴨に乗ったイガラシ君の彼女が助けに来ている図のように思えます。
ヒーロー登場。
タイヤ付きの鴨が「コラー」と言っています。
この絵の存在を忘れて新鮮に思うぐらいなので、自分が描いた絵でありながらストーリーは全くわかりません。
でも、何だかほのぼのとした物語。
主人公が登場後にすぐに食べられてしまうお話というのは、それはそれで面白い予感です。
3口かじられただけで、よかよか。
それにしても、このような絵をどのような心境で描いているのかは気になります。
今、このようなものを描けと言われると・・・。
・・・描けるかも・・・しれません。
むしろ、このようなものしか私の中にはない。
本当のことを言えば、今朝は書くことを何も思いつかなかったのでネタを探して宝箱をガサゴソと漁っておりました。
そこから取り出したのがこの「一幅のジャガイモ」。
イガラシ君も助けられたように、私自身もイガラシ君の彼女に助けられました。
サンキューーー。
本日土曜日の朝は音楽に例えると「間奏」のようなもの。
「一幅」と「一服」が大切です。

 
■2022年5月14日(土)
■一服。
ここはどこ?、ゲーム「エルデンリング」の異次元世界。
https://va.media.tumblr.com/tumblr_rbva8desdx1qci858.mp4
 
■2022年5月15日(日)
■一日一文章トレーニング。

「へ長文の為の間奏曲」

仮にこの「一日一文章トレーニング」が一つの長い文章とした場合に「間奏」部分があっても良いのではないかと思う。
これは決して横着な思いつきではない。
横着とは既存の習慣を打ち砕く新しいイノベーション。
文章の中の「間奏表現」とは考えのある息抜きの「間」、毎日の文章練習に新しい何かを与えてくれるかもしれません。
さて「間奏」について考えていきましょう。

最近は特に長文を書くトレーニングに尽力しています。
画面イッパイに文字が溢れるとそれなりに心地良いもので「ふむふむ」と自己満足に陥ることもあります。
しかし、脱字誤字はないかとタテ・ヨコ・ナナメと読み返す長文はしんどい。
「たらたら」と長い文章に嫌気もさす。
そして、それは既に頭に入っているのでノープロブレムと数行分を読み飛ばす。
そのようにして自分校正はガバガバな脱字誤字のオンパレードとなる。
それは仕方がないこと。
長く文章を書けるようになろうと思ったら、先ずは質より量である。(いつもの言い訳)
2行3行、もしくは一言で言えるようなことをわざわざ遠回りして言っていることもある。
長文を書くとなると「Keep Simple」な精神が確実に疎かになる。
長く書くためには余計な修飾語に雑談、芋ずる式に追加投入しないと文章量は増えません。
なので、長い文章を書く為にはそれらを長く書く為のスキルも必要です。
それでも、ワード10ページぐらいの文章量をサラサラと書けるようにはなりたい。(本心)
そうすると三角構文(ワード2〜3頁で一まとまり)で3つの三角構文ネタを持ってきて合体、最終的に一つの文章となることが計算できます。
このような考え方は文章を書く人だと何となく伝わるような気がします。
文章には明らかなその人の書き方と構造があり、私の場合はワード3頁が何となくの寝起きの朝に書ける文章の限界。
3頁×3種類+1まとめ=10ページ、ネタの数だと10ネタぐらい必要となる。
ですが、活字好きな方以外、私を含めて文章を読むことがそれ程好きではない一般ピープルにとり長文を読むことは耐えがたき苦痛でもあります。
勿論、書く方にもとっても苦痛。
また、10ネタ10日分を一日のネタと仕上げるとなるとネタ不足の世の中で資源のムダ。

そのようなネタ不足な救世主として文章の中の「間奏」とは早急に必要な案件です。
長く続く文章の中のひと時のお花畑・癒し。
何の意味も持たない気軽な読み物。
次の山場に向けての力の温存、温存は間違い(×)自転車に乗っている時のペダルを漕いでいない状態に近いのかもしれない。
そのような「間奏」的な文章ってどのような文章なのでしょうか?

「ジャジャジャジャーン」と言う刺激的な音楽の前後の「タラリンタラリン」という何でもない音楽が続きます。
音楽とは有名なサビ部分だけでは成り立っていません。
若かりし頃、人気曲をカラオケで歌うと「何?このどうでもいいメロディー」と思う箇所が長く続きます。
音痴な私にとって最初から最後まで分かりやすいサビの連続が理想的な歌。
なのに、私が好きなその歌にはサビがくるまでに何やら、うだうだとよくわからない音程で歌を歌う必要があります。
好きな曲で何度も聞いているのに、いざ自分が歌うとなるとサビ以外の「うだうだ」部分の音程がよくわからない不思議。
それは音痴の宿命。
カラオケでは大抵、そのようなアンニュイ部分をモゾモゾ歌うことになり失笑を喰らいます。
で、サビ部分はしっかりと大きな声で歌えるので再びの失笑。
私にとっては人前で歌うことは<<<恥>>>人をドンびかせる、場を和ませる、若しくは歌が上手な人を苛立たせる効用しかありません。

ということで、そのような「ほにゃらら」部分の楽曲があるように、文章にも明確なメッセージを持たない「ほにゃらら」部分が必要です。
それは本来の意味での「間奏」ではありませんが間と間をつなぐ接着剤のようなもの、いわゆる「間」「文章の空間」です。

それでは音楽にとっての「間奏」とはどのような意味があるのか調べます。
独奏や独唱の途中の伴奏楽器だけで演奏する部分。
前章で書いた私の「もぞもぞ」部分とは似て非なるものに感じます。
関係ないけど、古い曲で前奏が異常に長いものもあります。
真顔で超絶に長い前奏を聞いていると、私も皆もいつ歌が始まるのだろうかと思います。
超絶に長い間奏曲もある、それらの「間」は結構しんどい。
どんな「間」にも動じない大きな人間になりたい。
ちなみに、「伴奏」とは楽曲の主旋律や主声部に付属してそれを支える声や演奏とある。
映画、劇などの朗読の後ろの音楽も伴奏。
本来の意味の「間奏」とは「歌」と「演奏」などの平面ではない多層で奏でられる楽曲の一部です。

それでは文章の中の「間奏」とは。
それは私の音程を外した歌に例えると「もぞもぞ」と音程が不明なアンニュイな部分。
聴いている分には違和感なく耳に入ってくるが、いざ自分が歌うとなるとどのような音程だったわからなくなる耳の記憶に残らない部分。
これは恐らく、製作者が持つイメージの「シーン」だったり、雰囲気を醸し出す感性的な部分、創作者の「素」の部分のように感じられます。
反対にサビ部分は作り出そうと絞り出すアイデア、メッセージ。
「間奏」で「ラクしたろ!」と思ったことは案外難しいことかもしれない。
【MY結論】文章の中の「間奏」とは「素」の部分。
私の多層的に持つ「素」の部分を貼り付けたらならば、それが私の求める「間奏」のスペースとなるのかもしれません。
「間奏」のようにサラリと文章を終わりたかったのに、このようにも長くなってしまった。m(__)m

 
■2022年5月15日(日)
■ピクトモーション。
https://va.media.tumblr.com/tumblr_rby6roGciE1qci858.mp4
 
■2022年5月16日(月)
■一日一文章トレーニング。

間奏

鳴らないタイマーほど使い物にならない“もの“はない。
我が家のお茶消費は激しいので2日ごとにお茶を作る。
大きなやかんでお湯を沸騰させて火を止めて30分間のお茶出し時間をセットする。
しかし、この適当〜タイマーは30分後に鳴らない。
以前は気まぐれに鳴ってくれる時もありました。
でも、最近は「一服」にも程がある程に全く鳴らない。
よって煮出しの茶葉はとても濃く出ます。
時折、タイマーをセットしていないのに突然「ピーピーピー」と鳴ることもある。
夜中や朝方に鳴るとビックリします。
このタイマーは一度鳴ってから、そして時間を空けて2度目もお知らせすることもある。
それは何か便利でもあるようだが仕様の機能ではない。
恐らく、壊れる前兆。
デザインはかわいいけれども、もはや時を計る機能はないとのことで昨日捨てました。
どうせ捨てるならば、中を見てみたいと思いドライバーで分解。
中は案外精密な感じ。
もしや修理可能かもとの思いで分解したのですが機構的な異常は見当たらなかったので基板の壊れのようです。
もしかしたら・・・単に電池がなくなっただけだっだかもしれない・・・ネ。
いずれにしても調子の悪いタイマーです。
基板には金メッキのようなものもないのでそのまま不燃ごみへ。
ギアやバネは小さくて珍しいのでそれらは抜き取り何か工作の材料としましょう。
タイマーはなくなったのだけれども、タイマーがあった時の生活と何も変わりません。
それは何か面白いこと。
何というテキトウ生活。
そして、この文書はたぶん間奏です。

 
■2022年5月16日(月)
■基板。
■2022年5月17日(火)
■一日一文章トレーニング。

「間奏・ブリッジ」

※ここにあるものは全て独断と偏見です。

 「前奏」「間奏」「後奏」について考える。先ず、上記単語から思い出されるものは「三国志」。「奏・そう」と言う響きは何か「乱世」を彷彿とさせます。「乱世!乱世!」で今のご時世にピッタリな言葉のようにも思えます。戦略家クラウゼヴィッツの言葉を借りてこれら「奏」から想像を膨らますと。「前奏」からイメージされるものは積極攻撃。戦力を集結して圧倒し続けること。勝負所では相対的な優位性を保つことの考え。「間奏」は側面攻撃。追撃を行うことで再び戦に勝つことができます。それらは緒戦を制することより重要なこと。「後奏」は防衛戦。戦さが避けられないと知っている場合に指導者は先制攻撃をためらってはいけないという概念。防衛とは常に相手方の行動に対応し布石を置いていくこと。レニー・クラヴィッツのようなクラウゼヴィッツの概念を曲に重ね合わせると、それらは音楽とはかけ離れたカオスなハーモニーとなります。その原因は三国志な名前にありということで発想の転換を図ります。「前奏」「間奏」「後奏」をカタカナに変換して考えていきます。

 「前奏」をカタカナで言うと「イントロ」。ネットで調べると「カッコ良いイントロ」などの文言で使われることも多い。それは、メインディッシュなサビよりも「イントロ」部分を聞くマニアックな人たちの存在を暗示しています。何でもない演奏をたらたらと流すように、何でもない文章をたらたらと流したいと思う私に、そのことは何やら嫌な暗雲を立ち込めます。イントロの演奏部分が製作者の「素」な部分で「カッコ良かな」部分であるならば、これらはセンスの問題。それはセンスなき者にとり思案して考えて生み出さなければならない“もの”となります。「イントロ」は出だしでキャッチ―でつかみ部分、私の目的と少し異なります。三国志なイントロ部分でもクラウゼヴィッツ云々で何やら無理があります。

 ならば「アウトロ(後奏)」スタイルはどうであろう。「アウトロ」とは何か「アウトロー(法の外、秩序の外にいる無法者)」みたいでカッコ良い。毎日の文章は「アウトロー」で終わらせる。それは何かステキなこと。「アウトロ」部分にカッコ良さを求める人はそうそういないだろ。曲も終わりに近づけば「バチン」と切るか「スキップ」が大抵の人の行動と思われます。とは言え、毎回、文章の最終回な体で「また明日〜」みたいなのもいい加減すぎて少し嫌だ。「アウトロなアウトロー」は時折の楽しみで丁度良いのかもしれない。

 それならば、やはり最初の発案通りの「間奏」がたらたらと文章を繋げることに最も近い。ちなみに「間奏」をカタカナで言うと「ブリッジ」。話と話の橋渡しでとても素敵な響きです。音楽に例えると曲と曲のステキなつながりを作る「DJ思考」みたいな感じになるのでしょうか。気持ち良く、心地よく良く、話の境界がわからない程にさり気なく橋渡しを行う。それは波長と波長を繋げ合わして「場」を異なる波長に持っていくような。何かこのお役目というのは社会にとっても重要で必要なスキルではないかと思う。世の中、乱世ではないにしても様々な「境界」はあります。それらの境を橋渡しするお仕事。何かとてもステキなお仕事です。ということで、結局、「間奏」的なものが重要だということはわかりました。で、結局、「間奏(ブリッジ)」って何なのだろう?ということで今後も何らの感想(間奏)を具現化できると良いです。

 
■2022年5月17日(火)
■文章の構造(視覚化)。
■2022年5月18日(水)
■一日一文章トレーニング。

「私の文章は歩くスピード」

いやはや。
ちょっと前までは暑かったのに肌寒い梅雨日がつづきます。
ですがまだ梅雨入りではありません。
そう言えば、去年もこのような梅雨な雨の日が続いたような気がします。
そう思うと毎年、同じような天気。
ということで、雨の日は結構好き。
人も少なく空気も洗われた雨の中をポツポツと一人で歩いていると「私の文章は歩くスピード」だと思う。
ここの文章は私の頭の中をオープンにして「見える化」をしています。(それは大いなる恥とも言う)
「一日一文章トレーニング」は他の誰のことについても書いていないし徹頭徹尾、私自身のことであり私自身の思考回路。
社会情勢等はそれなりに影響しますが、時事ネタや(公人等除く)人についてはできるだけ書かないようにしています。
時折「この場所は私×私のコミュニケーション」の場的なことを書いておかないと他の誰かが自分自身の悪口を書いていると勘違いする場合もあります。
本文は私自身のことであり、たまに架空の別人格を用いて文章を書き、空想を織り交ぜメルヘンに仕上げることもあります。
勿論、ヘブンズ・ドアー(ジョジョ)みたいな能力を持っていれば、性格的に100%乱用して他人の人生を書くことは間違いないことですが、残念なことにそのような能力は持ち合わせません。
毎日書きたいネタって何だろうと考えると、それはそれなり全くないこと。
しかし、机に座り何について書くかと考える中で、一つわかってきたこともあります。
それは一つ「テーマ」を決めたならば、寝起き頭にその「テーマ」に真摯に向き合うと何とか書けること。
このことはとても不思議な感覚。
それはラケットを持ってテーマに向けてボールを打ち返す壁打ちのようなものにも感じます。
ボールを打って、打ち返し、その考えは明日には考えが変わっている場合もある。
また、(大)空振りも多々あり。
そして、その変遷を次の日にネタとして拾い上げる。
そのようなボールの軌跡を追いながら書きなぞる感じです。
書くことのエネルギーやそのモチベーションはどこにあるかと考えたならば。
それは今や習慣です。
もともとはコロナ禍で暇だったので文章トレーニングを始めたのですが。
動機と言えば、来たるべく次世代が情報量やデータが価値を持つ時代となるならば、大量にコンテンツを仕込んでおくことが次の時代の最低条件ではないかとの打算な考えです。
実際に若い子を見ていたら確実に物質からデータコンテンツへの移行は進んでいます。
そのような感じで全てはデジタルにつながっていくのだろうとの予感を感じながら、今、物質に毒された試作品を紙で作っています。
顔はまだありませんが、顔なしのこの状態は現代アートのようにも見えます。
関係ないけれども、写真を撮る時は最初の一枚が一番良い写真のように思われます。
この写真も最初に撮った一枚目の写真。
肩肘張らない作業をしている自然な光景が表現されています。(自分で言うな)
「撮るぞ」と気負い角度をつけ、回りのものを並べ直し、撮影するとなぜか良い写真にはなりません。
何んでだろうね。
文章も粗削りだけれども搾りたての文章が飾らなくて私そのものように感じます。

 

■2022年5月18日(水)
■【カタチ】アメリカ大陸のようにも見えます。
■2022年5月19日(木)
■一日一文章トレーニング。

「ねこ置物」

紙で猫置物の試作品を作る。
実際にカタチある“もの”を作ると当初計画は霧散して異なる方向に寄り道します。
「計画とは破棄する為に存在する」ので、それは、たぶん、それは良いこと。
触れることのできるカタチがあると、このようなものも良いかも、あんなものも良いかもと様々なアイデアは湧きます。
頭の中で考えることは無限であることのように思われますが、カタチあればこそ何かしらの新しい発見があります。
デジタルデータだと平面図を引っ張るだけの3D作業ですが、現実世界だと折り目を計算して図面を引き、紙を切って、そして、木工ボンドで貼り付けます。
リアル手作業はとても大変で面倒なこと。
良き面は手作業の歪みがデジタルとは異なり味があるところ。

ということで、完成したのがこの猫ちゃん。
※尻尾忘れた。
シンプル・単色なシルエットの猫置物。
頭をマグネットでいろんなパターンで置けるのでいろんな表情を作れます。
さて、本題。
Needs & Wants の視点で見ると、このような猫置物にニーズはあるのでしょうか。
今、世間のニーズや関心は断捨離、デジタル化や“もの”が飽和状態な生活改善です。
それでいて、このような経済状況。
そのような中で“もの”を作ることはとてもリスキーなことのように思われます。
我が家にも「苦境時には動かず(耐えろ)」という家訓があります。
とは言え、いつまでも冬眠している訳にもいきませんので、そろそろ動き出すタイミングです。
お金をかけて何かものを作るとなれば何らかの意味や価値を見出ださなければなりません。
例えば、アニメ等のフィギュアであれば単に飾るだけのものでもあっても、そこにアニメファンは何万人と存在しています。
それは十分なニーズ。
猫好きはもっとたくさんいるでしょう。
でも、おそらく、猫好きな方のNeed & Wantは愛猫の面影ある模様の猫の商品であり、このような現代アートのような記号キャットではないのは確実です。
むしろ、大きな目、丸い形などのかわいらしい猫がマスかもしれない。
それでも、数人はこのような猫を飾ってみたいと思ってくれるかもしれませんが、それは経済で言うところのニーズではありません。(ウォンツ)
それならば逆説的に物事を考えます。
市場にニーズは存在しなくとも新しいスコスの世界観を構築したいと考える私のニーズは存在しています。
それはとても小さい私のニーズ。
それならば、希少性ある一点ものハンドメイド商品は良いかもしれません。
今こそニャー先生のお力を借りたい。
ニャー先生の猫模様ってどんな模様だったけ?
猫の模様はまだら(とら)模様と黒と白、茶しか知らない。
まだら模様を描けと言われれば、それは描けない猫模様。
そう言えば、最近、猫を全然見かけません。
「a small circle of stationery's」もう文具ではないかもしれないが珍しい生き物スコスの商品開発は道途中。

 
■2022年5月19日(木)
■猫のしっぽを忘れていた。
■2022年5月20日(金)
■一日一文章トレーニング。

「投げ銭」

「お金を投げてはいけません」
恐らく、私たちの多くはそのように教育されます。
お金の大切さ、お金を有効に使うことの意味、お金の扱いとはとてもシビアな問題です。
人が行きかう忙しい場所で働いた場合に、その場所とは人間のイライラが渦巻く場所でもあります。
お金は手から手へと気持ち良く渡したいものですが、そのような場所で働くとレジ中にお金を投げられたなどのお話も良く聞くお話です。
お金を投げられた方にとって、お金を投げられることは大変凹むことであり悲しい気分になります。
当然レジ態度にイライラすることもあります。
人が密集して溜まる程に人の貴重な時間も拘束され人のイライラも蓄積して殺伐とした場所へと変わります。

ネット空間にも「投げ銭」というものもあります。
「投げ銭」とは動画を観て「良かったよー」という感謝の気持ちをお金で表現する手段。
それは投げられるお金とは言え、リアルに投げられるものとは異なりうれしいお金です。
人生の中で一度は「投げ銭」を受け取ってはみたいとは思いますが、それは有名Youtuber以外には体験できない特別なことです。
現実空間と仮想空間の違いだけで「投げ銭」の印象は180度異なります。

そう言えば、リアルにお金を武器として投げている人の時代劇もあります。
寛永通宝などの穴の開いたお金を敵に向けて投げたならば木の壁に草草(グサグサ)と刺さります。
投げられた方はそのお金をギロッと見ながら「危なかった〜」と一安心。
これは私の中の「投げられるお金」の江戸時代バージョン。
全ては頭の中の思い出補正かもしれないので、実際、どうだったのか覚えていませんが・・・時代劇とはそのようなイメージ。
江戸時代と言えば穴の開いたお金に紐を通しジャラジャラと歩いている感じなので、泥棒がお金を投げることに驚きはありませんが、お金を投げるとお金が減ってしまうので本来のお金目的の泥棒稼業にとっては大きなマイナスなような気もします。
現代風に500円玉を武器にササっと投げる大泥棒のお話を想像してみると。
お金を投げることは道徳的な問題であると今話題の放送倫理委員会の発動が頭に浮かびます。
詳しい仕組みはよくわからないけれども、多様な価値観、言論や報道の自由とキレイ事を謳いながら一方で倫理という主観的な問題に国民の信認を得ていないのに勝手に公共の錦を掲げて誰の正義かよくわからない判断で是正を求めるというのは言論統制組織のような薄気味悪い連中のように思えます。

ところで本題。

リアルな世界でお金を投げられることは悲しいことであるのに、神社仏閣とは心が広くて、そういうところはとても好き。
先ほどまで子供にお金の大切さを教えていた大人がお金を投げる、老若男女の皆皆皆がお賽銭箱にポイポイとお金を投入します。
そして、丁寧にお辞儀してお参り。
初詣となると賽銭箱どころではなく建物そのものにお金が飛び交います。
幼き頃の私はそのような光景を「祭りだ!祭りだ!」ととても楽しく眺めていました。
まさに「投げ銭」。
空を舞うお金、飛び交うお金お金お金。
私はそのような神前にお金を飛び交い投げる行為がとても大好き。
このようなことを書くと正しいお賽銭に入れ方のような気持ち悪い正しさを押し付ける人たちが湧いてきますが、飛び交うお金こそが祭りごとの本質です。

 
■2022年5月20日(金)
■地球外生物イーモ
■2022年5月21日(土)
■一日一文章トレーニング。

「逆境」

 「境界」を意識すると境界にまつわる様々なものが見えてきます。例えば、道歩く石材ブロックを一つ一つの境界だと考えれば、ブロックは大量の境界を生み出します。道を歩いていたならば、誰も気にもかけないであろう全体としての石の道が一つ一つの個別ブロックに分割される感覚。石のブロックが仮に1つ単価2000円ぐらいと考えれば、これだけの敷地にブロックを敷き詰めてスゴイ総額になるぞと。境界を意識することは「ものコト」を細分化していくような不思議な感覚になります。そして、それら境界を分ける溝には大抵、樹木から落ちた木のゴミで埋まります。それは単に境界が窪んでいる理由もありますが、家と家の境界にもゴミが溜まりやすい。もしかしたら「境界とはゴミがたまりやすい環境である」という呆則が成り立つかもしれません。もし「境界」が汚れやすいのであれば「境」は常にキレイに保ち努力しないとすぐに淀み汚れてしまいます。

ということで。

 「境界」を意識すると「境」にまつわるいろんな言葉が気になります。例えば、「逆境」。人々は「逆境を克服しろ」「逆境を糧に」と「逆境」をポジティブ転換する大切さ説いています。私はこのことを大いなる間違いであると思います。若い頃の「逆境」はほぼ100%ペシャンコに潰されます。10人いればほぼ10人、優等生もダメなのも等しく「逆境」の怪獣により潰されます。「逆境を乗り越えろと」声高く叫ぶ人たちはもしかしたら数%の「逆境を乗り越えた」稀な人たちだったのかもしれません、し、「逆境」そのものを経験していない可能性もあります。若者が「逆境」を克服できる可能性は部活動などの集団でのみ高くなるような気がします。なので、大人は子供を「逆境」から守らなければなりません。大人とは言え、遅かれ早かれ「個」に分解される時が必ずやって来ます。その時に大人は、その逆境を乗り越えることはできるのでしょうか?私の考えでは大人の「逆境」も10人いれば、そのまま10人を踏み潰す大怪獣であると思います。どんな肩書があろうとも「個」に分解された後の「逆境」とは乗り越えることが大変難しいことのように思います。

 「逆境」の言葉は“逆”の“境”と書きます。「逆の境」とは意味がわからないこと。そうなれば、漢文風に「ヲニトアッタナラバカエレ」と言うことでレ点を入れて「境(が)逆」と読むと何となく見えてくるものはあります。私はこの言葉の意味を内と外を分ける敷地や家のイメージで捉えました。内であった家の中から外の環境にひっくり返る現象を「逆境」の意味であると。今まで安全だった環境が自然と対峙する世界となって「大変だー」という光景です。そのように考えると、子供に試練として自ら「逆境」に晒そうとする大人が如何に危ない存在であるのかと思います。このような解釈に立つと「逆境」とは修行の場のように人の育てる鍛錬の場であることとは到底思えません。それは何の徳も生まないことのように思えます。ぬるま湯と言われようとも人々が「逆境」に晒されないことが社会にとっての幸せだと思います。とは言え、先ほどにも書いたようにこの社会で生きている限り「逆境」は必ず訪れる人の試練でもあります。「逆境」が「内と外の逆転現象」であると考えた場合に「外」とは自然であり「自由」とも解釈もできます。自由とはアングロサクソンの概念だと言う人もいますが、それは間違いです。自由とは原始の人間が初めから持っている野生的な概念です。考え方次第ですが「逆境」の「外」に反転することは「野生を取り戻す」ことを意味します。それが良いことなのか?悪いことなのか?私には判断はつきませんが、人は野生によって生まれ、最終的にやっぱり野生に戻るということなのかもしれません。いづれにしても「逆境」という怪物に打ち勝つ為には共に戦う戦友・仲間の存在が重要な予感です。

 
■2022年5月21日(土)
■内と外。
■2022年5月22日(日)
■一日一文章トレーニング。

「写真写りが良い」

写真は保存しているパリの古いメトロ(地下鉄)の切符。
パープル・イエロー・グリーン何とも言えない絶妙な色合い。
「Sortie」と書かれた出口付近でポイポイと捨てられた切符はコンクリートの地面に散らばり美しく彩られます。
私はそれらを桜吹雪の如く眺めます。
そして、切符たちは歩行者に踏みつぶされて街のゴミへとなる。
これら切符の配色は恐らく、私たち日本人が持ち得ない色でフランスが生み出す特別な色。
大きな工業製品である車のボディー色にしても違和感なき上品なカラーになり得ると思います。
磁気の読み取り部分が1本の線という意匠も面白い。
そもそも駅の仕組みが日本とは異なります。
「ヴァリッド」とか言ったけ?日付時間を刻印するような機械に差し込んでから乗車しないと不正乗車となります。
となると、この磁気は機械で刻印する時に何かしらのデータをインプットしているのかもしれません。
日本のような自動改札機はありませんので地元のワルがどんどん改札を飛び越えていきます。
もしかしたら、彼らとて何かしらの定期券のようなものを持っているのかもしれません。
とりあえず、私が行った当時は切符を買わなくても電車に乗ろうと思えば乗ることができるゆるゆるな駅のシステム。
多分、今も変わらないだろうしヨーロッパの鉄道は大体このような感じ。
電車は汚い、窓の鍵引っ掻きキズに車両のスプレーペイント、乗っている人たちも何か怖くて、勿論、駅も汚いけども、切符はオシャレで美しい。
そのようなギャップは「エリート」と「大衆」というヨーロッパ的な階級社会の2面性を体現しているように思えます。

ということで、パリの街はゴミが散らばる汚い街。
道はゴミだらけで落書きもあちこちにあります。
でも、不思議なことに写真に撮るととても美しい街並み。
「写真写りが良い」とはとても失礼な話ではありますが、やはり写真の街並みはとても美しい。
それは建物の壁面を撮影することに要因があると考えられます。
ヨーロッパの街並みは規制によって景観が守られています。
なので調和した風景写真となる。
そして、そのような壁面をスプレーペイントする落書きは規制社会に対する若者の反抗ではないのかとも思います。
日本と言えば、壁面には様々な広告看板があって壁色も形も様々。
良く言えば、自由、悪く言えば、街の統一された一体感は全くありません。
そして、床面の道路にはゴミはそれ程に落ちていなくてキレイ。
パリなる街並みと真逆な位置付けのようにも感じます。
ヨーロッパ的なるものと日本的なるもの両者は似ているようなところもありますが、写し鏡のような存在でもあり何か面白く思います。

 
■2022年5月22日(日)
■(自己主張する国民ー自己主張しない国民)(パリオリンピックー東京オリンピック)(フランスっぽい色ー和風な色)。
比較することは面白いこと。
 
■2022年5月23日(月)
■一日一文章トレーニング。

「野菜」

野菜生活を続けて何か月目。
今が旬な生サラダをムシャムシャと食べるていると野菜の切り方、食べ方にも進化が見られます。
そこで、アップデートする野菜の4箇条。

1) レタスは包丁で切るに限る。

以前、レタスは「適当」に手でむしっておりました。
この「適当」とは案外「テキトー」ではありません。
葉をむしるにはそのカタチを考えて「適当のようでテキトーではない」何かしらの美的センスが必要です。
このような美的なセンスを「適当」に処理する為に発動することは少し荷が重いこと。
そこで包丁を使いレタスを一枚一枚一口サイズに機械的にカットしていくと何も考えずに便利であることに気づく。
包丁でカットする一口サイズは手でむしるサラダと比べても食べやすく草っぽい青さが少ないよう感じます。
それは単に包丁で切る方が手でむしるよりも小さなサイズになることが要因なのかもしれません。
そのような訳で、レタスは包丁でカットすることがオススメ。

2)レタスやキャベツの芯は変色しやすいので早めに食べる。

レタスやキャベツの芯は酸化して変色しやすいので包丁でキレイに切り取る。
キャベツの芯は炒めやその他料理に使いまわしても美味しく食べることができますが、レタスの芯はレタスの存在感が強いのでサラダで食するのが良いように思う。
そう言えば、中華屋のチャーハンにはレタスの葉っぱが入っているような感じがあります。
あんなに柔らかい葉っぱなのに炒めてもレタスの存在感は案外強い。
キャベツは固くて大きくて圧倒的な存在感があるのに火を通すと全く存在感がなくなるのに比べてもユニークです。
芯の強さとは見た目ではわからないような典型みたいな話し。
「芯は固く、歯ごたえがあり、酸化しやすい、炒めると見た目ではわからない存在感がある」(!)
そのような訳で野菜の芯は野菜袋に入れないで早めに食べることが吉。

3)野菜はボウルに溜めた水の中で洗う。

横着は野菜をザルに入れて流水で流して食べておりましたが、最近はボウルに水を張り野菜を洗浄します。
野菜を水に付けることは葉っぱのみずみずしさの鮮度も上がるし、野菜の灰汁のようなものもが出るのか出ていないのかわかりませんが、少し食べやすくなっているような気もします。
なので、野菜は水に付けて洗浄することが良いことであることには間違いありません。
水切りのザルとボウルの二つの使い洗い物が増えることは難。

4)サラダはレタス単独で食べるよりもキャベツやセロリなど複数の種類の野菜をミックスした方が美味しい。

これは当然の当たり前のような話ではありますが、私のような野菜初心者はレタスならレタス、キャベツならキャベツだけと同じ野菜だけを修行僧のように単独で食べます。
単独の野菜を食することは何か青臭さが強調されます。
野菜生活を始めて冷蔵庫にいろんなサラダがストックされるようになると、それらを混ぜて食べるようになります。
そうすると、単独で食べていた時とは異なる野菜をミックスすることによる食感や美味しさに気づきます。
なので、野菜はいろんな野菜をミックスするに限ります。

これらは野菜にまつわる心境の変化です。

 
■2022年5月23日(月)
■【レタスの王のお言葉】我が一族を喰らう者はこの王が決して許さぬ。
■2022年5月24日(火)
■一日一文章トレーニング。

「擬音・繰り返し文字」

なまった体に少しでも健康をということで「トコトコ」と歩く。
もしくは、「てくてく」と歩いているのかもしれない。
「トコトコ・てくてく・ムシャムシャ・たまたま」とこれら擬音を繰り返す言葉を多用する文章は一般的にダメ文の見本です。
それでいて我の文章には毎日必ずと言っても程に出てくる繰り返す擬音。
ほぼ毎日のダメ文ということで。
このことは書いている本人にとっても既知のこと。
これら言葉を使うことは表現の限界なのか?と出てくる度に思うのだけれども躊躇わず書いてしまう繰り返す言葉。
繰り返す文字、それは私の中の小さな反逆かもしれない。
そう言えば、古文にも「てふてふ」とか出てきました。
「てふてふ」ってどのような意味だったっけ?ということでググったら「蝶々」でした。
「てふてふ」とはいとおかしな言葉也。
恐らく古代から日本人は伝統的に繰り返す言葉が好きなのでしょう。
「YES」な気持ちを返す時にも「そうそう」と繰り返す。
そして、英語でも「YES YES」と返します。
命令口調の返答に「はいはい(定番)」もある。
「はい」は「そう」の一つ上にある上級な言葉。
こちらは「OK OK」みたいな感じかもしれませんが「はい」に敬意を込めて2乗したところで「はい!は一回で!」と相手を追加で怒らせるだけの魔法の言葉。
「そうそう」に似ていることが原因なのかもしれません。
繰り返す言葉は伝統な表現であり、単に音を言葉として表現したものから、時間的な継続性、行動を強調する時にも使える便利な言葉。

歩く言葉を書き出します。
「トコトコ・てくてく・のろのろ・とぼとぼ・たらたら・スタスタ・タッタッ・ザッザッ・カツカツ・・・」他にも何かあるかな。

仮に最上級に3倍にすると。
「トコトコ(トコ)・てくてく(てく)・のろのろ(のろ)・とぼとぼ(とぼ)・たらたら(たら)・スタスタ(スタ)・タッタッタッ・ザッザッザッ・カツカツカツ・・・」となる。

トコトコ・てくてく等の歩く言葉を×3倍にしても違和感しかない。
しかし、「タッタッタッ・ザッザッザッ・カツカツカツ」などの言葉には当初の歩く音から+αの得体のしれない何かの足音(恐怖感)のようなものが追加されます。
これらは近づく迫りくる音かもしれません。
「カツカツカツ」は遠くから私の背後に迫りくるヒールな音。
嫌な予感しかしません。
「パチパチパチ」という音もあります。
これらは拍手の音でもあり、焚火の火が燻る音でもあります。
「パチパチ」だと「パチ」よりも2倍に評価しているのに何か冷めた会場での拍手に聞こえます。
ならば、何度も繰り返してしまえと言うことで、最近ではネット用語で「88888888」と8の連打もあります。
こういうのは誰からも教えられる訳でもありません。
なのに、社会や集団が共通して持つ感覚としての暗黙知。
繰り返す言葉は同じ単語を重ねること、このような言葉の繰り返しは私が大好きなこと。

 
■2022年5月24日(火)
■レタスの王、地球外生物イーモに襲撃される。
■2022年5月25日(水)
■一日一文章トレーニング。

「歩き読み三連星」

昨日の帰り道。
前から女子高生が本を読みながら歩いて来た。
猫も杓子も歩きスマホの世の中で本を読みながら歩いている人を見けるのは珍しいこと。
えっぺらいなーと感心していると。
世の中に不思議なこともあるもので、角から歩きながら本を読む女子高生がつづきます。
三人一列になりながら本を歩き読む女子高生。
ある程度の距離を保っているので友達ではないだろう。
昭和の時代に迷い込んだような感覚、インスタレーションというか何かの芸術活動のようにも思えます。
そもそも、歩きながら本を読む人を見かけることはありません。
「おっとと」最後列の女の子、歩きながらの本読みでカバーが外れて本を落としそうになっている。
本の歩き読み女子高生の後ろには歩きスマホ男(1)、歩きスマホ男(2)・・・と毎日の風景がつづきます。

ドムのジェットストリームアタックを彷彿とさせるような女子高生の三連星を見かけて(乙)ということで。

令和の二宮金次郎像を作るとなれば、それはどのような姿をしているのか考えながら家路を急ぐ。
今となっては小学校に二宮尊徳の像があったような、なかったようなぼんやりとした記憶。
でも、街のどこかにはあったような気もします。
ネットを調べれば数千の金次郎像が検索にひっかかるでしょう。
ここは私の頭の中の金次郎を元に現代風にアレンジしてみよう。
先ず、金次郎少年は丁髷、着物姿に本を読みながら歩いている。
歩きながら本を読むことは何かしらの勉強をしているはずです。
子供の勉強姿は今も昔も変わらない。
金次郎のすごいところは働きながら、歩きながら勉強しているところ。
一般的に何々をやりながら他のことをすることは集中力を欠いてミスを誘発させるし、マナーが良くない等で怒られることが多い。
大人ルールとは常に矛盾と表裏一体。
ここでの金次郎にも歩きながらのスマホが現実的な気もします。
ですが、そこは道徳的の伝道師でもある金次郎像、やはり歩きスマホはなりません。
大きなラップトップノートパソコンを持たせましょう。
洋服にキャップを被らせて薄型ではない重量級のノートパソコンを持って欲しい。
背中には薪を背負っているイメージです。
現代の薪って何だろう。
電気代。
金次郎少年が背負うものは恐らく家事のお手伝い。
ならば、現代の二宮尊徳は家計を助ける為に株や為替、債券、ビットコインを背負いてチャートと見ながら売買する。
同時に電子ブックを開いてお勉強中。
有能な息子。
子供ながら起業しそうな勢い。
若しくは、グラボで魔改造された大型デスクトップパソコンを背負いマイニングをしている姿でも良い。
電源が必要なので大型のバッテリーも背負いましょう
何やら令和の二宮金次郎とは最終的にはロボット少年のような姿になってしまいます。
網や虫かご、麦わら帽子をかぶった金次郎少年像の方が子供らしくて何か幸せそうには思えます。

 
■2022年5月25日(水)
■イーモの舞。
■2022年5月26日(木)
■一日一文章トレーニング。

「しゃもじ・定規」

猫も杓子も」とは変な言葉。
意味は誰でも彼でも皆という意味。
杓子って何?ということで調べると。
杓子とは「しゃもじ」のこと。
今では杓子という言葉は死語のような感じもします。
”杓”という一字でも水をすくう道具の意味を持つ言葉ですが、“杓”に“子”を付けることでお米をすくう格の上がった言葉となります。
お米をすくう大切な道具から猫まで、人との生活に密着した動物と物を例えて何もかも全てと言っているので「猫も杓子も」とは正に広い意味のあらゆるもの誰も彼もという感じです。

「杓子定規」というものあります。
こちらの意味は規則一点張りで融通が効かないことを意味します。
言葉から想像すると曲がったしゃもじのような自分ルールの定規で物事を測るようなイメージ。
それならば、直定規で一分、一秒、1ミリの特例も認めないという方が現代風の融通が利かない事柄にマッチするような気もしますが、そこは昔の人の知恵。
直定規ではなく杓子のような曲がった定規を持っていることが多分ミソ。
これは朝に決めたであろう事柄や誰も知らないような自分ルールを押し付けて何も融通が効かないことを意味しているのではと思われます。
私も朝に「一日一文章トレーニング」で文章を書き、朝令暮改のようなところは少なからずあります。
MYルールとは自分の背骨のようなものでもありますが、人から見た場合に杓子のようにねじ曲がったものであるかもしれません。
いろんな人達が暮らす世の中で「杓子定規」とは常に気を付けないといけないことであります。(肝に銘じる)

ところで。

ものを描く時に曲線定規が欲しい時があります。
その時このしゃもじを定規にして使うということは案外便利な道具になのかもしれないと思いました。
ということで、使用していない木製のしゃもじを引き出しから発掘して、机に置いてみると良い線引き定規にはなりそうです。
※我が家では機能的なプラスチック製のしゃもじを使っているので木製のしゃもじに出番はありません。
確かに、しゃもじを定規として使っている人を見かけると十分に人をイラつかせるだけの何かがあります。
それでいて、規則にうるさくて融通が効かないとくれば、はらわたが煮えたつ気分もわかります。
私の定規も相当なしゃもじの保有者ではありますが、世の中の「杓士~(シャクシー)」な面々もなかなかにひねくれているので「杓子定規」には常々気を付けなければなりません。
直定規のような真っすぐな人も、それもそれでいてなかなかの曲者定規とも言えます。
「曲者どもの夢の跡、曲がり曲がるのも人の癖」ということで人間らしいとも言えるかもしれません。

 
■2022年5月26日(木)
■「わい思うに、人とはしゃもじ也」 デカ√の言葉。
■2022年5月27日(金)
■一日一文章トレーニング。

「しゃもじ」

昨日引き出しから掘り起こした「しゃもじ」にヤスリ掛け。
使い古した「しゃもじ」の表面が削られてツルツルと磨かれた新しいキレイな木肌が現れ出る。
これは何か生命の再生をしているような不思議な感覚。
最後にサラダ油で油引きして良い線引き定規へと改良する。
引き出しの中で眠っていた「しゃもじ」は新しい線引き道具へと変化します。
この「しゃもじ」はデザインされた形状なのでカタチが均一ではないところが良い所。
異なる曲面は異なる曲線を描くことができます。
写真は王でなないレタスの顔の原画。
その紙の上で数本の曲線を引いてみると・・・「いいんじゃない?」な気分となる。
今、私の中でレタスの擬人化がマイブーム。
レタスのこの表情がとても気に入っている。
スコスのネズミシールがもうすぐ終了なので次のシールはレタスかなと思ったりもする。
野菜やレタスの味はそんなに好きな味ではないのに何故かレタスに興味が湧き、「しゃもじ」に関心はないのに何故か「しゃもじ」が気になる。
人の関心の行方とは先が読めないものです。

ということで、本題。

「しゃもじ」に漢字が存在しているとは想像もできませんでしたが、検索すると「しゃもじ」に漢字はありました。
「杓文字」と書きます。
「杓文字」にレ点を付けると見えてきます。
「杓(レ点)文字ヲ」=「文字をすくう」。
「しゃもじ」とはご飯をすくう道具ですが、文字記号から読み解くと「文字をすくう」という意味もあります。
それは単なる当て字だったのかもしれませんが、昔の人は生きる為に必要な炭水化物の「お米」と文化に必須な「文字」を同列に並べました。
そう言えば、「しゃもじ」を奉納する神社もあります。
野球の応援で「しゃもじ」でカチカチする応援もあります。
「しゃもじ」について考えることがなければ「しゃもじ」について知ることもありません。
「しゃもじ」とはどの家庭にも必ず一つはある道具であり、それでいて「文字をすくう」という何かとても不思議な意味もある家の中にある唯一無二の毎日使う神聖な道具のようにも思えます。
お米がべたべたとひっつくように、すくい上げる文字もべたべたとひっつく程に粘りあるという感覚は何か理解できます。
現にこれら文字の粘り気によって「しゃもじ=杓文字」であるということに辿り着くことができました。
文章とは自らの内から生み出されるものではありますが、時折、文章は生きているのではないかと思うぐらいに文章中に次のヒントやネタを提供してくれます。
それは長く書かないとわからないことですが、その道を私が辿っている(導かれる)ような感覚になる時もあります。
それがお米のような粘り気で私の中の「しゃもじ」にひっつき、そのお米を拾い上げるとそれが次の道に進む。
人としゃもじ」は似たような道具でもあり、それで何かをすくって糧にします。
「しゃもじ」な感覚を持つことは大切なこと。

 
■2022年5月27日(金)
■意味するところは違っても「杓子定規」という諺がある位に何かダメなこと。
で、ありますがリアルな「杓子定規」を作ってしまうところが私の問題点。
しかし、ヤスったり愛情込めて使用するので罰当たりではありません。
「杓子定規」を使っての感想を一言で言うと意外と便利。
曲線をキレイに描きたい時に美しい曲線が引けます。
フリーハンドではこれら曲線は描けない。
次はオリジナルの黄金比ならぬ私好みの曲線定規を作ってみたい。
できるだけ平たく真っすぐな木製の「しゃもじ」を選ぶことが吉。
ポンポンと手や肩で叩くとマッサージや気分転換にもなるし最弱な武器にもなり得ます。
杓士杓子なお仲間が増えると良いです。
 

■2022年5月28日(土)
■一日一文章トレーニング。

「レタスの王」

「レタスの王」をかわいく描く。
ここ数日、王をかわいく描く為に何枚かの絵を描く。
どれもヘンテコな絵。
本物の野菜を置いてみると野菜らしからぬ王。
目を大きく寄せるとかわいくもなるが王の風格はなくなる。
王たる者の威厳とは風貌や表情から溢れ出るものである。
ヒゲを生やせば王の貫禄も出るだろうがレタスにヒゲは何か嫌だ。
王の表情とは強面(こわもて)であって欲しい。

ということで。

結局、一周回り最初の画が「レタスの王」に近いのかなと思う。
そもそも「レタスの王」って何だろう?
手足はあるのか?
このような顔がレタス畑に埋まっていたら生首みたいで恐怖しかない。
草原を走る王、それは悲鳴しか生まないであろう。
これはホラーか?ほら話な落書き。
「レタスの王」は家のような器なのかもしれない。
器とは中のものが主役の入れ物である。
そもそも「レタスの王」について考える自分自身が器なのかもしれない。
※「レタスの王」について考えること自体がおかしい。
空想する人はすべて器であると考えると何かしっくりとくる。
何かを考える時、考える私たちそのものは空虚な器であります。

 
■2022年5月28日(土)
■人なる器。
■2022年5月29日(日)
■一日一文章トレーニング。

「人の器」

今朝も昨日の朝も窓を開けると夏の香り。
今年2度目の「サマ〜〜〜」。
梅雨入り前の太陽を存分に味わいたい。

ところで。

昔、千利休という人物がいたそうな。
彼は茶器というさほど美しくは見えない歪んだ器に価値を見出しました。
器よりも中身が主役だと考えるのは人間の本来から持つ価値観の本質。
そのように質実剛健であったであろう戦国武将に高額な器を売りさばいていて大変儲けた商人が千利休である。
「侘び寂び」という言葉は確かに美しい。
しかし、そこにあるものは質素ではあるがものすごく高い値段の茶器!
そのような「ギャップ」に私の直観センサーがピーンと反応する。
戦国時代のことは何も知りませんが、茶器一つでお城を購入することができるたいそうな器もあったらしい。
木箱に収まる小さな器がとてつもない価値を持つ。
これは利子が付く蓄財・貯蓄の一形態だとも考えられます。
器とは一点ものであり希少性あるもの、それらの価値が膨らみ上昇していく経済は正にバブル。
最終的には利休は豊臣秀吉によって斬られることになります。
商人が切腹とは何かおかしなこと。
なので、利休は「侘び寂び」バブルが弾けたことの責任をとらされたのではないかと個人的には思います。
戦乱が終わればバブルも弾ける。
そのような価値あるものには当然、偽物が出回るであろう。
悪貨は良貨を駆逐するである。
歴史上のチューリップバブルよりも数百年早いバブル経済。
このようなお金の膨らます技術が度重なる戦費捻出を可能にしたとも考えられます。
お金なき戦争とは虐殺であり戦争の背後には膨らむお金の存在が必要不可欠。
ということで、千利休という人物は戦争を支える器であり、恐らく、庵という小さな茶室空間で名だたる武将にマネーの手ほどきを語っていた金融マンだったと私のような貧相な人間は考えます。

器という言葉から連想する人はもう一人いる。
【アニメ】ユニコーンガンダムのフルフロンタルも自分は器だと言っていた。
要はシャアアズナブルの偽物ではあるが人々が投影するイメージに自らの器をカタチあわせている人物である。
偽物を頭に掲げなければならない時点でネオジオンの戦は決まっていることではありますが、器と言いながらも自分なりの名言のようなものを言っていることも面白いところ。
彼はスペースノイドの願望をカタチとして表現した人物であります。

人を器として見ること」はすこす面白いこと。
現実に存在している人を器として見ることは大変失礼なことのようにも思えますが。
私たちは常に他人にその人なりのイメージを投影させて勝手に器のカタチ作っております。
「赤の他人」とは全く良い言葉。
透明に透き通る程に真っ白とは言えないが赤色ぐらいの印象を与える他人を表現しております。
昔の人達は天才です。

 
■2022年5月29日(日)
■羽ばたく。
■2022年5月30日(月)
■一日一文章トレーニング。

「文章とは道づくりかも」

信号に嫌われるということはこのことだ。
いつもタイミングが合わない信号がある。
ゆっくりマイペースで歩いていても信号が偶然に青になることは稀であり大体赤信号で止められる。
私だけが渡れないかと思うと多くの人がその信号でひっかかる。
なので、その信号を渡る時には青を予測して小走り調整、または、青信号の時に遠くからダッシュで渡る必要がある。
多分、その信号の青である時間はとても短い。
なので、そのような信号は避けて通るに限ります。

ということで、今朝は何も思いつかない「一日一文章トレーニング」。
机に座りパソコンとにらめっこ。
にらめっこしても面白きことは溢れ出てきません。
この状態はまさに赤信号でぼんやりと立ち尽くす状態に似ています。
ならば、信号機を避けて住宅街の裏道を進めれば良いかもと考えます。
裏道な文章とはただならぬ雰囲気はありますが、裏道とは目的までの最短距離を究める道。
目的地とは目標のこと。
しかし、今は文章の最終的な終着点がわからなくて赤信号で立ち尽くした状態です。
目的なしに裏道に入るとなれば、それは迷子のようにも思えます。
※我ただ今十分迷走中。
そもそも、文章の構造を考えると赤信号も裏道もありません。
白紙に「(ネタ)キーワード→(ネタ)キーワード→まとめ」と構図を考えてつないで描く感じです。
それは文章を書くこと自体が道を作ることのように思えます。

感性で書ければ楽ちんです。
しかし、私にとって感性で何かを作り上げることは少々難しい。
私は超〜直観的な人間ですが直観で文章は書けません。
となると、自分の中の書き方や法則が必要。
そのような訳でこのような白紙(ブランク)なものに挑む時には改めて構成を考えて書き進める必要性を感じます。
今日は構成も何も考えずに思うがままにつらつらと書き進みましたが初端から赤信号。
白紙に道を引くことはやはり大変な作業です。

 
■2022年5月30日(月)
■線をつなぐ。
■2022年5月30日(月)
■一日一文章トレーニング。

「イメージの器」

肌の色が緑色になったらごめんね。草
というぐらいに、最近、野菜を食べています。
朝、晩に加えて間食のおやつにも野菜を草草と食す。
緑色の葉っぱを食べつづけると最終的に体がグリーンになってしまうのではないかと恐怖を感じながらも肌が緑色になったら宇宙人のようで絶対に可笑しな具合になると思う。
勿論、以前は肉中心で野菜は炒めた野菜ぐらいしか摂取しません。
それでも、お通じは快B。
野菜が増えると快Bの調子が少し悪くなり、種類というか存在そのものが変化してきた。
現在公開できる情報としてはまーまーのBぐらいと表現しておきましょう。
野菜という繊維質なものを食べているのに何故かお通じ具合が悪くなる何か可笑しなことなり。
繊維な王様ごぼうを食べても同じような現象となるので肉食獣である私にとって野菜とはそれほど体が要求していないのかもしれません。
ですが、家族の病を治す為には野菜は良い効果をもたらしてくれる感じはします。
野菜を「噛み噛み」と食べると口の動きがうさぎのような「もぐもぐ」と食す草食動物に似た口の動きになります。
そのような野菜を食べる姿を鏡で見るとついに私も雑食動物へと進化できたのだと思う。

ということで。

私は毎朝、快Bだの、よくわからないであろう文章を毎日量産しています。
大体に於いて、毎日文章を書くことは何かがおかしいことであります。
第三者から見るとヤバくて奇異なことに思えるでしょう。
しかし、本人はネタ不足と毎日苦慮しながらも案外楽しく書き、描いています。
内容も様々で結構ディープなものもある。
毎日一人格闘技、いやいや違います。
これは一人バスケットボールの公式試合中なのかもしれません。
ルールがよくわからないバスケットボールを体育館で敵味方に分かれて玉つきしている。
その内容ダブルフォルト!反則?など一人でぶつぶつ言いながら黙々と文章を入力している。
多分、これらは私の中では「ギャップ」を埋める行為である。
「ギャップ」とは「ギャップ萌え」というようなプラスに働くものもがありますが、大体の「ギャップ」とはマイナス方向に作用します。
人が構築するであろうイメージの器に対して、予め自分から素を解放していればこんなに楽なことはありません。
自分とはかけ離れたイメージが先行することは虚飾を埋めるための努力が必要です。
そのことはある意味恐怖的であるとも感じられます。
崩すことのできないイメージ、「ギャップ」を埋める為のミルフィーユを作らなければならない、ある時には「ギャップ」によって器そのものが壊れてしまうのではないかと心配になるかもしれない。
それはとてもしんどいことである。
なので、皆、ドン引きく位のマイナスな入り口が私の中の正解。
そして、実際、朱に交われば「案外え〜奴やな〜」となれば儲けもの。
実際にいい奴なのですが文章通りに性格に問題がある。
「ギャップ」の壁が小さければ小さい程に、皆、案外いい奴なのだ。

ということで。

人によって作られるイメージとは器(うつわ)であります。
他人から何かしらのイメージが固定化された時点で人生の戦の負けです。
なので、世の中の一般的な著名人様はその意味では「あんたらはもうすでに負けている(byケンシロウ)」とも言えます。
※オレの意見ではありません。
古の言い伝えにもあるように、「器とは完成すると手直しできないもの」。
一度カタチ作られてしまったイメージの器を作り直すことはほぼ困難。
下手に手直しすると器は壊れて元には戻らなくなります。
なので、
時に穴が開いてようが、おんぼろであろうとも器とは常に製作中の「ありのままの私」が良い感じだと思います。
(私の一意見)

 
■2022年5月31日(火)
■でもね。器が人を育てるということも確実にあります。
器を立派に虚飾することが成長を促すとなれば「ギャップ」を拡大する方針も一概に良くないこととも言い切ることはできません。
まあ、何と言うか複雑な世の中。
複眼的な視線が必要です。