■2022年4月1日(金)
■一日一文章トレーニング。

「ホムペに音」

「ホムペ」とはホームページの略。
すごく懐かしい言葉の響き。
今は大体「エイチピー」と表現するのでしょうか?
多分、死語であるような気もするのですが「エイチピー・エーエム」な今に「ホムペ」の語呂はとてもかわいく感じます。
ホムペに音をつけるということで・・・

ほぼ、忘れておりましたがRoland SP-404 MK2 がやって来ました。
予約してから半年以上は経過しているように思われます。
スコスHPに著作権とか関係のない自作の音や音楽を付けたいとの思いで予約しました。
随分と前のことです。
「鉄は熱い内に打て」とありますが今はそんなに熱い思いはありません。
ちょっと心配。

画面から音が流れてくるホームページは昔よく見かけましたが、音が邪魔臭いという理由でほとんど見かけなくなりました。
今や企業サイトに音付きのHPはほとんど皆無です。
YouTube等を観ると映像あり音楽や音や言葉ありの刺激あるネットは楽しいページです。
無音のネットとは乾燥した砂漠地帯のような感じもします。
新学期の春、この一年はコツコツと楽器や音作りを学んでいけたらと思います。
この機械が楽器なのかはよくわかりませんが三日坊主に注意です。

 
■2022年4月1日(金)
■「エイチピー・エーエム」
■2022年4月2日(土)
■一日一文章トレーニング。

「三日目の坊主」

桜が咲くと寒の戻りで花冷えとなる。
このことは不思議なことに毎年起こる現象です。
最近、ふとももが冷えるので歩きたいとは思うのですが花粉が舞う中を長時間歩くことは危険なこと。
そこで室内で血流が良くなりそうなスクワットなどの軽い運動もしますがすぐに飽きてしまいます。

と言うことで「三日坊主」!!

「三日坊主」は3日間のような短期間で飽きることの意味。
「三日天下」のように「三日間」には長続きしないことの短い期間を意味します。
「三日天下」とは明智光秀による主君、織田信長焼き討ち謀反により三日間の天下人となる物語。
そうなれば「三日坊主」にも何らかのストーリーがあると思われます。
そこで「三日坊主」の由来を勝手に想像します。

<私の「三日坊主」ストーリー>

むかしむかし、ある村に高名な僧侶が立ち寄ったそうな。
(1日目)
村人たちは偉いお坊さんがやって来たということで、できるだけのおもてなしをして「ありがたや・ありがたや」の大歓迎。
僧侶はそれに答えるようにお経を唱えて説法を説き村人に答える。
村人たちはそれぞれの願いをのせて祈ります。
(2日目)
村人たちはできるだけのおもてなし。
僧侶もいつになく力が入ったお経を唱えと説法を説く。
村人たちはそれぞれの願いをのせて祈ります。
(3日目)
村人たちはできるだけのおもてなし。
僧侶は力の入ったお経を唱えて説法を説くのですが、村人たちはどこか上の空。
村人たちの祈りの内容は「仏様仏様、高名なお坊様はいつになったらお家に戻られるのでしょうか?一刻も早く帰宅してもらえますように」とのお祈り。
三日目の坊主に飽きてしまう全くの京都的なお話です。

「三日坊主」の由来で検索したら、坊さん修行に耐えらえずに三日目でやめてしまうというお話が書かれていました。
私の考えた「三日目の坊主」とは少し視点が異なりました。
「石の上にも三年」と言うよりも三日間で飽きたならば貴重な人生の時間を無駄にしないという面では「三日坊主」そんなに悪いことのようにも思えません。
とても個人的な意見です。

 
■2022年4月2日(土)
■「三」は棒が3本で簡単なのですが証券などに於いては改ざんを防ぐ為に「参」の字でも表現されます。
それら文字の輪郭をカタチ取り模様を作ります。
「三」と「参」のカタチの違いをご参照あれ。
■2022年4月3日(日)
■一日一文章トレーニング。

「円形を人と説く」

 筆ペンで円を描くことは至難の業。力を入れると線が太くなり、細い線で力を抜くとミミズが這ったようなだらしない円となります。いずれにしても私の技量ではフリーハンドの筆ペンで正円を描くことはできません。調べてみると家紋の文様や和算の図形などでキレイな円形は多く見られます。なので、ちょんまげな時代にも正円を描く技術は存在しているのは確かです。その方法とは今と変わらないコンパスやテンプレート等のようなものを使う描き方だと思われます。細い線は竹や羽ペンのようなものを使っていたのかもしれません。おまけに当時は木版印刷となりますので、最終的にそれら文字や図形、罫線まで彫刻刀で彫り印刷しています。とても手間のかかる細かい技術と手作業。もちろん、フリーハンドな味のある線画もあります。流石に私が見たものだと彫りが大変な漢字の使用を減らして、ひらがなが多用された印刷物が多いような気もします。全部ネット検索での画像判断です。手書きの模写ではないとは思うのですがどうなのでしょうか。

 ところで。

 そのような円を見ながら「円形」を自分に投影すると、これはまさに自分自身のことだと気づかされます。a に始まりa に戻る。朝起きて通勤や通学して家に戻る。私の場合は中心点にバカ売れヒット商品等の目標があると仮定すれば、その周りを空虚に回るだけの空回りな一日。決して中心点と交わることはない円。そこで、このままではいけないとの判断で何とか中心点に交差するべく方法を考える候条。

1) 誰かの引いた線上ベクトルに中心点を置く。
2) 他の円と交差することで中心点を探る。
3) 直角三角形のような何かを持ってきて中心点を交差させる。

1)誰かの描いた道筋の上に中心点を置くことは私的には今さら感な感じです。ですが、自分の為と目的に合致するのであれば良い道筋であるとも思います。但し、国策とかの大きな流れに任せることは、潮流とは短いスパンで潮目が変わるような気もして何か躊躇。

2)中心点を交差するような相性の良い円を持つ人がいれば大変ラッキー。また接する人が多ければ多い程に中心点を知ることのできる確率が上がります。多分、どうでもいいような学校とかの有用性を説くとなれば。いろんな人、いろんな考え、そのような人たちと山あり谷ありで接することで何か自分の中心点を見つけることができる可能性が高まるという意味に於いて学校は必要であると思います。

3)直角三角形のような別の世界を作る。それは趣味であったり、夜のバーであったり何かわからないのですが、別なカタチ(直角三角形)があれば中心点と容易に交差することが可能です。私が常々考えることはこのようなことなのですが、またしても、これについて何も思いつきません。屁理屈な呆即は百程生まれるのに実は全然育たん。

 ということで、これらはあくまでも考え方の一つ。「思考の見える化」を実践しているが故に見える円。私を円に例えると「バカ売れは何処に?」中心点に辿り着けない空虚な円となります。なので、誰か直角三角形を下さい。※リアルな三角定規はマジでいらない。

 
■2022年4月3日(日)
■中心点を目指せ。

■2022年4月4日(月)
■一日一文章トレーニング。

「イチョウの枝色と幹色が変化」

春は一日一日、一瞬一瞬の変化がとても速い。
先日のプロヴァンスな季節は幻想だったのかもしれない位に、ジェットコースターで言えば最後のクライマックスな急降下。
「キャー、うわー」と溜まったエネルギーの大放出。
数日前まで裸の枯れ木だった木々がほんの2〜3日で写真のような新芽のグリーンが吹き出します。
あっと言う間の街の変化。
桜の開花は目視で追うこともありますが、新緑の息吹を追うことはあまりないことだと思われます。
そのような冬枯れた木々に少しばかりの関心を持ったことで気づいた「イチョウの変化」をメモ。
冬の寒い時期は街のノイズと思わせるぐらいにイチョウの裸木は上から下まで同系色。
それが、春到来のある時期から幹色が濃い茶色、枝色が薄い茶色と二分します。
これはハッキリとした色の変化でプロヴァンス以降の変化。
何か生命活動のスイッチに電源が入ったようにも感じます。
木の外皮色が変化するとは普通に考えたらおかしなことのように思われますが、多分、光の変化による見え方の変化ではないと思います。
※光は全く関係ないとあまり強くも言い切ることもできないのですが・・・。
やっぱり、木の外皮色は変化するように思われます。
何の木なのか知りませんが種類によっては枝が赤茶色に色づくものもあります。
イチョウの場合、幹が黒くなったような気がします。

いやはや春なのです。
春故に浮かれたことも書きたくもなりますが、プロヴァンスに気付いた時には時すでに遅し。
今はと言えばプロヴァンスのプロさえ感じることはありません。
※関係ないけども「春故(はるゆえ)」とは「事故」なカタチに似ています。
そして、プロヴァンスについて書くと曇天となる。
これはプロヴァンスな呪いなのかもしれません。
次の冬に確証が得られれば良いです。

 
■2022年4月4日(月)
■イチョウの木に新緑のが芽が息吹きはじめました。
■2022年4月5日(火)
■一日一文章トレーニング。

「何か」

いやはや。
グラっとくるとドキッとする。
地震がある度にピタリと動きを止めて「次のぐらぐらは来るか?来ないか?」と警戒と敏感センサーを働く昨晩の夜。
地震とは本当にしつこくやって来るのですが、これは生きた大地に巣を作る私たちの宿命でもあります。

ということで。

 昨日は雨。春の冷たい雨。雨なので花粉も少なく窓を全開にして部屋の空気を総入れ替えを行います。久しぶりの窓全開で溜まったハウスダストを「出ていけ〜出ていけ〜」と外に追いやると空気がキレイになったのやら、何も変わらないような気もして、でもいい気分。何せ見えない空気なことなのでよくはわかりません。久しぶりと言えば、昨日は久しぶりにたくさん歩きました。雨ゆえの恩恵。花粉も少なく、人も少ない最高の歩き日和。なので、移動は全てウォーキング。久しぶりなゆえに体のなまりを重く感じます。何か、歩く度に筋肉の節々の錆びが落ちていくような感じ。そのような疲労蓄積でぐったりとしていると地震の揺れがゆらゆらと。本当に大地様ご勘弁して下さい。地震が来ると「今の音って何っ?」みたいなラップ音刑事(デカ)のような五感が発動します。犬なら耳をピーンと立てた状態。または、中腰で次のビックウェーブに立ち向かうサーファーのように。サーフィンしたことはありませんので、スノボの体重移動を行うような固まった状態です。

 昨日は雨。雨の桜の色はより濃いピンク色です。晴れた日の桜色が白に近い薄いピンク色だとすると、雨の桜はドドドのどピンク色。キレイな発色。このキレイな桜色は曇った空だからこそ見える色なのかもしれません。昨日は木々の発色の変化について書きましたが、このような桜色を見るとやはり見える色とは光の加減なのかもしれないと感じます。人の目視とは如何にも頼りない。そして色を正確に記憶することはできません。色を記憶するとなれば、それは絵や写真に記録、または概念上の言葉で色を記録することになります。目をつむり昨日の桜色を思い出すと・・・何と!!朧気ながら桜色は目に浮かびます。色の記憶とはこのようなことなのかもしれません。見たことは確証のようなものも感じますが、その色とは光次第の側面も大きいです。でもね。枝と幹色の違いだとこれらは相対的なものであります。比較できるものは間違いようがないようにも感じらます。とは言え。記憶とは不確実なものでもある訳で、何か悶々とした日々を過ごしております。

 
■2022年4月5日(火)
■ラップ音刑事〜キョロキョロ。
■2022年4月6日(水)
■一日一文章トレーニング。

「a b c」

a)
情報は右から左へ移転することで価値を持つ。
なので、動かない情報はクソであるとも言われる。
その価値観に立つとSNSのインフルエンサーは力を持つ。
世の中の全ては情報であり、人も情報(データ)である。
そうなれば、人は藤子不二雄の生み出したコピーロボのように鼻をポチっと押すと複製されるように量産されることが好ましい。
しかし、私は実際にそのような金太郎飴のような人・人・人を見たことはない。
Aさんは頑固であり、Bさんはクセあり、Cさんは几帳面である。
また、誰しもそれらの全ての要素を持っているようにも感じる。
但し、コロナ禍の同調圧力という大きなベクトルの中では人は一瞬にして思考の情報体としてのコピー人間となることも体験した。
それらはインフルエンサーに対抗するエビデンスやファクトのようなカタチで現れ出たが。
私の中では二つの意見は対抗軸のように見えるがどちらも同根は同じである。
人とは情報であり情報は移転させなければならないという考えである。
「コピー」とは複製のことであり「ものまね」とほぼ同義である。
学習とは「ものまね」であり何度も訓練することで習得することになります。
それと同じように「複製してものまねる」ことが情報を移転させることになる。
そのようなことを重ねた成功体験がより現状の「まねる」ことの重要性や「オリジナル」軽視の発想の柱となるのかもしれません。
でありますが。
来るべく次の時代は少し異なるのではないかと私は考えます。
新しい世界の潮流はNFTに代表されるような「オリジナル」の証明と分散管理である。
あなたAは「AAA」を開発した。
それがBの手に渡り「AAAB」となる。
そしてCの手に渡り「AAABC」となる。
取引の内容は情報として全て情報に記録される。
ハッキリ言うとよくわからないのですが・・・暗号資産とは多分このようなことを意味します。
そこには管理者もいなければ、全ての取引がデータとして記録され、情報として紐づいて世界を駆け巡るのが仮想通貨。
それは、今よりもう一段階上の民主主義のカタチのようにも思えます。
思考の見える化」とは、たぶん、次の時代の漠然としたカタチとその体験。
人の中にある「情報の木」とはどのようなカタチとなるのかも興味がありますが、情報は情報と結びつき、きっと新しい何かを生み出すことの祈りです。

b)
「オレは飲食店でただ食いする」と豪語する人はいない。
私はそのような人は見たことがない。
賄い飯などでそのような会話になることはあるのかもしれない。
但し、このようなタダ食いを大きく宣言して、それに加えて様々な制限を加えてタダ働きをさせる業界もある。
それらバイアスは組織の規模が大きければ大きい程に大きな力を持つように思える。
個人<会社団体」
そんなことはないだろうと思われるのかもしれないが、私には実際にそのように見える。
間違いだったら・・・御免ね。
※これは全て「a b c」文脈で語られます。
それはアートやデザイン、云々等のコンペ。
詳しくはわかりませんがオリジナルであることや様々な制約を課しているように思う。
それでいて、それに参加する労働力はタダである。
これは公から民まで。
昨今、最低賃金が幾ら幾らというような状況に奴隷時代にも見られないような搾取に見える。
このような見方は経営的な目線で視るから故に、そのように見える景色なのかもしれませんが何か不思議。
そして、そこの中心にいる人達のほとんどは「オレ飲食店でただ食いする」と言わないような人たちです。
私のような者とは比べると対象にもならないような多士済済な面々。
ある意味では、そのような人を選ぶ審査員に顔出しでなるということは何かスゴイ心臓を持っているとも思えますが。
もしかしたら、そこには「コピーやものまね」で成り上がり、それらを高言している人も多いであろうとも思われます。
そこにオリジナル云々とは何ともカオスな話です。
どうでもいいと良いと言えば、どうでも良いことなのですが「真っ当ぽい」ものが「普通ではない」ことがこの話の個人的にヤバイと思う本筋です。

c)
まとめです。
要は「コピーやものまね」や「労働のタダ食い」の二つにつながる結論は、ある一つのことに辿り着きます。
それはアートや物事を考えたり、創作したりすることを軽んじていると。
次の時代、もし世界が一歩前進して進化するとするならば、今やっているようなこととは真逆の価値観が世界の本流となることを私は願っております。

※この「a b c」文章はある思いついた呆即の検証の為に書きました。
もう少し考えがまとまったら発表したいと思います。

 
■2022年4月6日(水)
■情報の移動。
■2022年4月7日(木)
■一日一文章トレーニング。

「三角文(直角三角形で文を書く)」

a)
「起承転結」は文章を書く上での組み立てる順序。
「起」で話を起こして「承」につなぎ「転」で話に変化を与えて「結」でまとめる。
いわゆる有名な文章の構成。

a)×2
何かを続ける為には何かのスタイル(型)が必要です。
私の場合は自分が思っていることをつらつらと書く訳で文章構成をそれ程に意識することはありません。
ですが、文章を起こし「ところで(転)」で話を切り替えて最終的なまとめにするというカタチの文章が多いような気もします。
これは無意識な天然発生的な「起転結」または「起結」。
「承」はありません。
「承」って何だろう?必要かな?とは思うのですが、これが私のスタイル。
「承」とは「うけつぐ」ことの意味なので「+追加話し」みたい判断で良いのでしょうか。

b)
昨日、目標や中心を見つける為に自分自身を「」に例えて中心点を探るお話を書きました。
それは物事の考え方を図形に置き換えるという概念です。
円の中心点とは円一人では決して辿り着くことはできない中心なのですが、何か図形を利用することで中心を目指すことは可能です。
直角三角形はその中で使用した一つの方法。
円と接する中点を目指すならばやはり直角三角形が必要です。

ということで「直角三角形」。

b)×2
そのような直角三角形を見ながら、これはもしかしたら文章の組み立て一つの方法になるのではないかと考えました。
算数の三平方の定理を使う作文方法です。
c2=a2 + b2
そのような文脈で書かれたのが昨日の文章。
内容はともかく三平方を意識して書きました。
a)は「copy(複製)とものまね」×2
b)は「タダの労働」×2
c)は「(結)軽んじられている」×2 (※1)
というようなキーワードが辺となります。

c)
c)は(結)。
私の(結)とは明確な「結」を持たずに出航する目標のない船のような時もあるので何ともどのような結末に盛っていくのかは悩ましいところです。
定理の都合上、話は2乗に盛らなければならないので何かと盛って盛り上げてがんばりますが、結果も同じように2乗に膨らますことは困難でしりつぼみになりました。
a)とb)に力を入れすぎて燃え尽きたのか、または、結末は数行でさらりと終わりたいタイプなのかもしれません。(※1)
そもそも文章にボリュームは必要なのかとも思いますが、文章をスペースであると考えれば分量としての空間を作らないと2乗な世界になり得ません。
結果を2乗するということは逆説的な大どんでん返しや、最終的な解の答え合わせで終結するというような、ひねりのある終わり方ということなのかもしれません。
持ちネタとして(結)でまとめる定型文(スタイル)を何個か考えておくことがとても良いことのように思われます。

c)×2
話しの2乗とは脚色技術のようなものであり、3辺のネタを書くとなると貴重な思いつきネタを一気に消費します。
一言で言うと、勿体無いような、たくさん文章を書かないといけないのでしんどいような、慣れないことをするととても疲れます。
※今もすごくしんどい。
しかし、これらを物語の展開として考えれば面白さを倍増させる技術となり得ます。
話しの展開を視覚的に見えるカタチに置き換えることは、円の置き換えと同じく「見える化」の技法です。
それら3辺のそれぞれにお話を視覚的に整理して膨らませることができるならば、その話の深みは何倍にも広がる可能性があります。
とっておきの「三角作文」、多分、これはラスボスであり最終奥義です。今のところの。

最後に文章の中での直角とは何に置き換わるものなのか?それは大きな謎です。
a)とb)で密接に接する事柄。
縦横に存在する時間やその他のパラメーターに関するもの。
何だろうね。

課題:
1.(結)は量として一番大きくて広い。複数の終わりかたの結末ラインナップをあらかじめ所有する。
2.2乗する。盛るもる盛るな脚色技術。とりえあず話しを2倍に盛れる技術を持つ。
3.文章の中の直角とは何かの定義を考える。

 
■2022年4月7日(木)
■文章を書く為の構造を意識したならば。
コンテンツとは単なる平面にある文章ではなく立体的な層を成したレイヤー構造として見えてくる。
骨組みがあり。
内容があって。
絵や写真がある。
多分、そこには書き手の様々な角度から思いや仕掛けもある。
新しい視点とは新鮮な異なった景色を見せてくれるものである。
そのような景色とは何かしらの視野を与えてくれるのでしょうか。
 
■2022年4月8日(金)
■一日一文章トレーニング。

「直角」

春うららな暖かい朝、冬用の布団では少々暑くて目が覚めます。
夏用の布団ではまだ寒いと思われるので布団から少し体を外に出して温度調整。
でも、寝てしまえば暑かろうと布団にくるまって寝ることになります。
そして、やはり暑くなり朝5時頃にふっと目が覚める。
これは2度寝の境。
昨朝は寝ながら「直角三角形の文章」を考えていたので、それを書き写すべく飛び起きて文章を入力。
寝ている間に頭の中が整理されて考えがカタチとなることは何か不思議な感じ。
寝ながら考えることは今までも度々あることです。
これはしめしめと「寝る子は育つ」という別解釈ではありますが本当のこと。
実際に文章を書くことはそれなりに面倒くさいことなのですが、睡眠の中で大まかな構成ができているので海図を持った船乗りの気分です。
何もない時には「さて何を書くか?」と真顔な石地蔵のように固まる日常の初動とは雲梯の差。
そして、今日も「直角」について考えて寝たならば何かを思いつくかとも考えましたが、何とも空虚。
厳密に言えば、空っぽではなく整理はつかなかった感じ。
下記、横着しながら寝て考えたこと。

1)道を直角に曲がる人は何か嫌だ。これは生物的な動きに関する嗜好なのかもしれない。一方で人は「もの」に対して直線的で直角的なものを好む傾向があります。大量生産を考えた時に「直角」とは効率化に必要な技術です。私たちの生活空間は窓から携帯、棚などほとんどのものは「直角」で溢れております。生物的な直角には嫌悪感を抱くが人が多いと思われるのに、人が作り出すものには心地良いと感じる。人が作り出すものも自然の一部だと考えれば何か不思議なこと。

2)直線型な人がいれば直角型の人もいるのかもしれない。直線型の人とは何か不器用な人のイメージですが、直角型の人とはどのようなタイプなのでしょうか。私は今まで「あの人は直角的だな」と感じたことは一度もない。直角人間とは気づいていないだけで身近な存在なのかもしれません。し。人は生物的な直角を嫌うが故に、それらを無意識で封印しているのかもしれません。

3)ワープロの文字入力は直線的でありながらも90度な世界で成り立っている。HTMLも含めてデジタルな情報の全ては「直角」によって支配されている。

あと、もう一つ何かを考えていた。思い出した!!

4)円と接する三角形は必ずしも「直角三角形」である必要はないのでないのかとの考え。そもそもの話です。算数の問題ではありません。テキトーな三角形でも十分に円の中点に辿り着けると思うのですがどうなのでしょうか。でも、直角な方が簡単に中心点に辿り着けそうな気もしますし、直角のない三角形というのは何か気持ち悪い。これはよく考えてみないとよくわからないことです。









眺めて丁度マウスの電池が切れたので三角形なトレーニングも終了します。

 
■2022年4月8日(金)
■眠っているのに頭が動いていることの不思議。
■2022年4月9日(土)
■一日一文章トレーニング。

「土日のお題」

人の活動を円形に例えて目標目的を円の中心に置く。その中心を目指す方法の図解。
三平方の構造で文章を書く。

そもそもである。
円に接する中心点を目指すのならば三角形でなくても四角形や車型であっても良い訳です。
カタチとはどのような形であろうと自由なはず。
私たちは円に接するのが三角形や円形であることに慣れすぎた故の先入観。
直角三角形とは見えないもの可視化する為の象徴的な図形。
文章中の「直角」を探る中で多少の矛盾に気づきますが、それは「まーまー」と。
せっかく考えたこれら二つ呆即は何度も実践してみることが重要です。
粗削りな彫刻でも続けることによって意図しない何かが浮かび上がるかもしれません。

そのような訳で。
この週末はa辺を「犬(ドック)」、b辺を「猫(キャット)」、c辺を(・・・わかない何か?)というキーワードで三平方な法則な三角文にトライします。
今回のキーワードは犬と猫、それら動物を2乗しなければなりません。
犬と猫を×2倍するとはどういうことなのでしょうか?
2匹の猫、2匹の犬。
話しの内容を単純に2倍にする。
一つはワンとかニャーな鳴き声で、もう一つは動物の気持ちの音分け。
とりあえず、家前に鎖につながれた犬とその前を凛として歩く猫のイメージで話しを盛って盛る「二重術」。
そして、c)につながる何か。
怖いくらいにノープランで全てがよくわからなすぎてぼんやりとします。
それなのに2乗2乗2乗の倍倍倍で何とも欲張り。
話しも盛り盛りとなれば面白くなると思いますが本当に書けるのか?心配です。

<文章の構造>

1)a犬
2)a犬×2乗
3)b猫
4)b猫×2乗
5)c?
6)c?×2乗
「直角」は犬と猫の交わる接点。