■2026年6月1日(月)
■一日一文章トレーニング。

「ごがつまつ暑さかきけしセンスかぐ布団ほすてふあまのかぐ山」

5月末の土曜・日曜はとても暑かった、もちろん、今日も暑い。
日曜日はあまりにも暑すぎてクーラーを入れるか入れないかと暑さに耐える。
我が家にはエアコンのON・OFFの記録があるものでそれを確認すると、ここ最近の猛暑の夏でも5月からクーラーを使用する記録はない。
「5月は春だよね」と、ここはグッと我慢して暑き晩春を耐える。
暦によると春は立春(陰暦の2月4日ごろ)から立夏(陰暦の5月6日ごろ)までとなる。
現代に置き換えると春は3月4月5月の3か月間の定義となるようだ。
なので、5月の末に夏を感じることもさほどおかしなことでもなく、今日から本当に暑い夏の始まりである。

いつ頃からエアコンはONになるかと言うと、例年は6月も中旬ぐらいからクーラー生活となり過去の記録は下記の通りだ。

R050617 クーラーON
R060611 クーラーON
R070520 クーラーのスイッチに手が伸びたが我慢して耐える。
(室温24.3-25.2℃・湿度63%―60%)
R070616 クーラーON(室温26.4℃・湿度66%)
R080531 クーラーのスイッチに手が伸びたが我慢して耐える。
(室温26.4―27.4℃・湿度47%―53%)

室温25℃~27℃ぐらいで十分に暑いようで、大体6月も中旬頃に暑さに耐えられなくなり10月の前半までの約4ヶ月間をズーッと空調生活を過ごす。

土曜日は再び珍しく室内湿度37―38%を計測してカラカラ乾燥となる。
去年も一昨年も全く室内のカラカラのない日々が続いたのに、今年の5月は3日間の乾燥を観測する。
冬の日本海から吹き抜けるような乾燥したカラカラ風でも無く、南向きの乾燥した空気であった。
空気が乾燥すると微粒子も良く飛ぶようで黒いパソコンの表面にも小さな微粒子が蓄積する。
目視で見える繊維や小さな粒がうっすらと積もれば、そりゃ鼻もムズムズである。
土曜日は冬用布団をパンパンと天日干していたので、そのような塵もたくさん積もったのかもしれないし、PM2.5の予報をチェックすると微粒子は少し舞っているようだ。
私のクンクンメーターは先日のPM2.5のような体が拒否反応する鼻の粘膜が痛くなるよう痛みは無いものの少しはチクチクムズムズとし、今日は少しヒリヒリとムズムズなPM2.5だ。
本当に大陸はええ加減にして欲しい。

ということで、

私は土曜日に冬用布団を天日干しする。
光が眩しいのでいつものようにサングラスをしながらベランダにほしほしとする天香久山。
春が終わる前に冬を完全に終わらせることが出来て良かったー良かったであり、5月も末になると不気味な赤いコンクリート虫もいなくなる。
なので、冬布団を仕舞うタイミングは梅雨入り前の5末日が良い日和かもしれない。
冬用の布団をエッコラセと取り込むと次は保温効果ゼロの軽くてペラペラの夏用布団も干す。
白い夏布団を干す上には枕や布団の友たちのぬいぐるみたちの小物も一緒に干して、この強い紫外線と暑さで殺菌だー。
そして、夏用布団をひっくり返す度に枕や布団の友たちを一端取り込んでからひっくり返す作業を面倒に思う。
なので、布団だけを干して後から枕類は別干しとする。
私は部屋にゴロリと転がり布団の天日干しの合間の時間を過ごそうと「ふっ」と窓を見ると布団が無い。
私は慌てて布団を回収しに家を飛び出すものでマンションの横に落ちた布団を無事に回収する。
パンパンと汚れをはたきながら家に戻ると、今度は隣に干していた布団が落下しているもので再び家を飛び出して落ちた2個目の夏布団も回収する。
パンパン!
はたいて汚れは落ちたと思うのですが、ここ最近を考えてもこの狭い路地に汚いものは落ちていた記憶もないので万事OK。
どうやら、軽くペラペラの夏布団は枕や布団の友たちが重りとなり落ちないように押さえていたようで再び重りをのせて天日干しする。
冬の布団を干すと度に思う風景がある。
それは天香久山(しろたえの=衣)のような枕詞を思い出すもので、そのような風景とは白い布が並びとても日本的な景色のようにも思う。

 
■2026年6月1日(月)
■ぶーーーーーんーー。
■2026年6月2日(火)
■一日一文章トレーニング。

「1日1ぶ~んと飛んでくる~」

私の中での話ですが冬用布団を干す様子は持統天皇の「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」な景色とダブる。
百人一首のトップ3人である天智天皇、持統天皇、柿本人麿の和歌は読むだけでも風景が目の前に広がるもので言葉とは正にイメージである。
平安時代の風景と今が重なるとは変な話でもありますが、そそり立つマンションに天日干しされる洗濯物や布団を見れば「あれは香具山っぽいなー」と思う。
そして、いつの間にか春も過ぎて夏がやって来るくだりも共感を呼ぶもので、私たちは毎年毎年冬から夏への衣替えな準備な時期を探している。
天の香久山な和歌を読めば昔の人もあれよあれよという間に夏がやって来て洗濯物が揺れる景色に季節の変化を感じているようで、私たちの生活とは機械から電気、デジタルと進化は止まりませんが根っこの部分はあまり変わらない。

白妙の→衣というのが枕詞(まくらことば)で、枕詞とは何かと調べると言葉を美しく修辞する言葉である。
私も日記を書く中で枕詞とは意識することはありませんが、しっかりとパスを繋げ拾い関連性が繋がった時には満足度も高い。
そして、平安な時代からもうすでに言葉を繋げる遊びに喜びを見出していたこともまた面白い。

枕詞にはどのような形態があるかと調べると下記のようになる。

1)AとBの異なる言葉の「意味」で繋ぎ
2)AとBの異なる意味の「発音」の掛詞で連想を膨らませ
3)「同音の反復」で文章を飾り
4)「接続関係不明」の決まり事もある

言葉の語呂合わせあ・うんな呼吸から接続関係不明の決まり事までイメージで繋がる事柄とはとても日本的である。

ということで、

台風が接近中だ。
6月の台風とは珍しくはないようですが日本列島にやって来るのは稀のようだ。
本来は台風が梅雨前線に雨を供給して大雨となるようで、天気図を見れば梅雨前線は九州・四国のらへんにある。
このまま一気に梅雨入りとなるのでしょうか?といずれにしても前線と台風が合わされば大雨になる予感で、私は冬布団干しをベストなタイミングで行えたことに満足している。

昨晩は寝間着も衣替えで上だけ長袖から半袖となる。
寝る前に窓全開でごろりと転がりネットでも見ていれば冷たい風が吹き抜けて寒くなり、私は窓を閉めて寝る。
そして、スヤスヤと微睡みながら快眠していると「ぶ~~~ん」と耳元に奴がやって来る。
私は「耳が痒い・痒い」と蚊の羽音で目も覚めるもので、最近我が家に1匹の蚊が徘徊している。
蚊撲滅運動家の私は蚊を撃退するのが履歴書に書けるような得意技ですが、この蚊は暗い闇の中でしか活動していなく明るい時には見かけない。
蚊も殺すスプレーでも吹けばコロリとイチコロですが現在我が家では根付きの三つ葉を育てているのでスプレーも吹けない。
このスプレーは植物を枯らしてしまうような注意書きもある。
血も吸わないし、ただ時折耳元に「ぶ~~~ん」と飛んで来るだけのカーのサウンドで無害な蚊でもありますが、耳元で「ぶ~~~ん」と来れば何だか痒くなるもので家族もあちこちで「ぶ~~~ん」音を聞いている。
絶対に闇になった時に1回だけ「ぶ~~~ん」と耳元に飛んで来るもので、昨晩も蚊が「ぶ~~~ん」とやって来て私も「もーーー」と真夜中に目覚める。
締め切った窓で部屋の中はとても暑い。
体も暑くて窓を開けてから再び寝る。
そして、朝目覚めると蚊の存在は全くないもので、あれは夢か現実かと幼少時代から蚊を殺しすぎた蚊の亡霊の逆襲かもしれない。
いずれにせよ、血を吸わない蚊はそろそろ死ぬ予感でもあり、ですが、大事に育てている水耕栽培の三つ葉の水を吸って生きているかもしれない蚊である。
これは長丁場となりそうな蚊とのバトルだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年6月2日(火)
■ゆーらゆら。
■2026年6月3日(水)
■一日一文章トレーニング。

「育てている三つ葉を台風の雨に打たせた」

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いやはや台風接近の凄い大雨、ザーザーと粒の細かい粒の雨がシャワーの如く降りて街も空気もキレイに洗われた。
今回の台風は風というよりも雨で、ベランダの植物たちも風雨に晒されてゆらゆらとご機嫌だ。
もちろん、植物の声なんて聞こえないので植物の気持ちは皆目わかりませんが、葉っぱなどを見た雰囲気から判断すると植物たちは大変喜んでいる。
何せ、植物たちの葉っぱはピーンと天に向かって伸びて普段よりも枝葉は生命に満ちている。
雨には植物を元気にする何かがあるかもでベランダの植物たちは久しぶりの雨に大喜びのようだ。
※私の勝手な想像です。
台風とは私たち人間にとっては水害や災害をもたらす自然の脅威でいつ何時も危機を煽るものですが、一方で植物たちにとっては危険ではあるものと同時に葉っぱの隅々までピーンと生命を宿す恵みの雨でもあるようだ。
毎日、ジョウロでたっぷり水や栄養分をあげたとしても、通常の小雨が降っても、このようなイキイキとした植物の姿は見ないもので、やはり自然の力とは大きく偉大だ。
滝行する修行僧のように大雨に打たれる植物たちを見ていると自然の何かのエネルギーのようなものを受け取っているように思うもので、私も室内で水耕栽培している三つ葉を外に出して自然の雨風に打たせたく思う。
さっそく、私は三つ葉を持ち上げて外に出す。
風が吹き三つ葉の葉っぱが大きく揺れて、細かい霧雨のシャワーのような強い雨が三つ葉の葉っぱを打ち叩く。
そして、暫く外に放置してから室内に取り込む。
元気になっただろうか?
もともとこの三つ葉は「このー木ー何の木―気になる気になるキー」ぐらいにモリモリとした三つ葉の大木となっている。
これは正月より前の11月下旬か12月初旬ぐらいに購入したもので、根付きのまま販売されており葉っぱを全部食べた後に根っこを水に浸して育ている。
もう一年も6月の約半年ぐらいは一緒に過ごすもので愛着のある植物で、時折、折れた三つ葉などをペチッとちぎり食べて「苦~い」となる三つ葉でもある。
当初は葉っぱをちぎりてお雑煮に入れようと企んでいたのですが成長も遅く、半年ぐらい経った今頃、やっと購入した時ぐらいの約40センチ超えの立派な三つ葉に育つ。
ベランダ植物たちが台風の雨に打たれて元気にピンピンとしているかと思えば、三つ葉も外に出して雨に打たせてやろうと思う親心である。
そう言えば、昨日彷徨う蚊は撃墜して蚊の話は終了となる。
そして、この約6ヶ月間の三つ葉栽培の思い出を思い返せば羽虫の大量発生する恐怖もあった。
初春の頃、三つ葉の根っこからブンブンと小さな羽虫が湧いて出てくるもので、米ぬかの土からの羽虫大発生程ではありませんがそれなりに怖かった。
これまたスプレー吹いて三つ葉が枯れると嫌なので、私は洗面所にたっぷりの水を溜めてジャバジャバと三つ葉を水没させて羽虫を溺れさせる。
飛んで逃げる羽虫は手でビシバシと撃墜して洗い流す。
こうして、葉水というか三つ葉を洗面所洗ってあげると葉っぱがピーンと元気になるもので羽虫や羽虫の予備軍も全部洗い流して問題も解決する。
スーパーで買ってきたニラやほうれん草などの野菜を洗面器に水を溜めて浸けて洗うと結構良いものだ。
葉っぱもピーンと泥土、農薬も落ちる一石二鳥で、たぶん、洗面器は食べ物を洗うには汚いかもしれませんが田舎の野菜洗い場よりはキレイかもで野菜の洗面所洗いは結構推奨できる予感だ。
とりあえず、約半年間育てた三つ葉は家族の一員のようにメチャメチャ愛着も湧いているもので、本当に食べる日がやって来るのかと心配である。
本末転倒。

 
■2026年6月3日(水)
■台風~~ふぅ~の雨。
■2026年6月4日(木)
■一日一文章トレーニング。

「一石二鳥な棒」

洗面所に水を溜めて野菜を浸け置き洗いすれば泥や土を落とし、農薬も洗い流して、野菜もピーンと元気になり正に一石二鳥な予感。
一石二鳥とは何か調べると石を投げて鳥を捕獲するという何だか野蛮な感じで、石を投げたら標的の鳥に当たり、その石の軌道上の他の鳥にも当たって2羽の鳥を仕留めるという一挙両得の追加の利益を得る偶然性だ。
犬や猫、子供が鳥に向かって突進することはありますが街に住む私たちが鳥を捕獲することは無い。
なのに、鳥は人を見れば警戒して逃げるもので、これは少し不思議である。
外敵のいない孤島では人を見ても逃げない鳥が簡単に人間に捕まって絶滅したという話も聞くもので、街の鳥が人に襲われなければもっと距離感も縮まるように思う鳥と人間との関係性である。
しかし、鳥は警戒を怠らず人を見ればバサバサと飛び立つもので、部屋の窓の外の珍しい鳥にカメラのレンズを向けただけでも鳥は逃げる。
人類と鳥との長い関係性の中で、人は危険であるという遺伝的のような記憶は一時的に干渉しない関係性では消えないようだ。
鳩やカラス、越冬する鴨など逃げない鳥もいますが、あの鳥たちでもある程度の距離間は保っている。
公園などコッコロと歩くドバトとはもともとは遠距離通信する為の伝書鳩としての家禽由来で、人との関わりも長く人を怖がらない理由も納得だ。
カラスは鳥類の頂点に君臨しており人の活動を観察して恐れていないのかもしれない。
北方から飛来する水鳥たちは水辺という安全圏で暮らしているので、そもそも人や外敵と接することも少なく警戒心も薄い。
以前、読んだ何かの本では江戸時代は動物の肉を食べることは不浄とされて食べることは無かったようですが、鳥やイノシシは動物の肉として分類されていなく食べていたようだ。
そのように考えると石を投げて鳥を捕獲するというのは強ち本当のことのように思うもので、鳥が人を見れば逃げる行動とは脈々と続く人への警戒心の現れなのかもしれない。

一石二鳥の反対で「二兎を追う者は一兎を得ず」という2つの利益を得ることの戒めの言葉もある。
これは最初から2つの標的を狙うとどっちも失敗するという意味で、こちらは偶然的な利益ではなく必然的な利益を狙った失敗だ。
しかし、今や1兎や2兎ではなくマルチタスク的に複数の標的に向かい実行することも普通なことで、そのような意味に於いてはこの言葉も少し時代遅れなのでしようか。
いやいや、単細胞な私は未だに一兎しか追えないもので何かしらのコンピュターや外部的なものを使うことで複数対処できるもので、そのような意味に於いては未だに「二兎を追う者は一兎を得ず」な感じだ。
実際にネットの中の有用な情報にたくさん触れたとしても、大抵は何も頭に残らなくて全ては無駄に見て過ごす時間だと思えば否定できない。
よって、私の中ではまだまだ「二兎を追う者は一兎を得ず」の世界に生きている。

ということで、

私は身の回りの一石二鳥なモノな何かないかと調べるとドラムのバチを見つける。
正式にはドラムスティックというのかもしれませんがドラムも叩かないのに我が家にあるドラムの棒だ。
勿論、ドラムや太鼓は持っていなく棒だけ。
棒にはYAMAHAと書かれており、ドラムを叩かない私がそれを何に使っているかと言うと背中を掻いたり、先端の尖った部分で足のツボを押したり、肩を叩いたり、スティックで足の裏をバチバチと叩きマッサージしたりとリフレッシュな事柄に使用している。
先日、お布団を干した時には布団や枕を小気味良く叩き埃をはたくもので、他に何に使うかと思えば両手に棒を持って天に向って「うーううー」と背伸びして右左に動かすストレッチ棒としても使う。
先生ならば「ここは重要ですよ、トントン」と黒板の指示棒や机をパンパンと叩いて意識を集めるのにも良い。
手が届かないような場所も届きますが流石に太くてお箸としては使えない。
太鼓を叩く棒として手にフィットする棒でもあり、これはとても良い硬い木材を使用しているようにも思う。
正にドラムの棒とはガマくんとカエルくんの愛用棒みたいで偶然に活躍している一石二鳥の棒である。
たぶん

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年6月4日(木)
■つまようじペン友の会。
■2026年6月5日(金)
■一日一文章トレーニング。

「今朝は聖護院大根の種を解剖してミイラについて考えた」

いやいや、ミイラについて考えるなんてエジプト学者ぐらいにしか有り得ないことだ。

手を出して「メス!」と医療ドラマのように私はカッターナイフを恐る恐ると切れ目を入れて聖護院大根のサヤを解剖する。
すると、手の圧力でバリバリと割れてカッターいらずのか弱きサヤだ。
そして、メルヘンなトンガリ帽子のサヤの中には本当に種が入っていて何とか話の種も繋がる。
サヤを解体するまでは本当に種があるのかもわからないもので、本当に奇妙なトンガリ帽子のサヤの中にはコロッとした種が1つ入っている。

聖護院大根はお正月に京都で購入したもので茎と胚の部分を残してカットして水耕栽培していたもの。
茎からはかわいい花が咲き、後に、雌しべが膨らんで種な実も成る。
そして、春になれば茎も枯れ始めて、水をとっかえひっかえどうしたものかとやっぱり枯れて机の隅っこに引掻けて放置するもので、カラカラスカスカの質量も完全に無くなった茎は風も吹けば飛んで落ちてゴミとなる。
なので、私は本日聖護院大根のサヤを解体して種を取り出す。

種はフカフカのサヤ・クッションに包まれて大切に守られている。
衝撃には弱いのかもしれないし暑さにも弱いかもしれない。
スカスカとした緩衝材のようなものが発芽する時にいい感じに活躍するかとしれないので壊したサヤの殻も一応捨てずに保管する。
ネット情報によると8月下旬から9月上旬に30センチ程掘り種植えするようで、しかし、我が家にはこのようなデカデカな聖護院大根を育てるようなスペースは当然無い。
頑張れば一つ大根ぐらいは育てることは出来るかもですが、とりあえず8月末の猛暑の最中水に湿らせて発芽にトライする予定だ。

カリカリと乾燥した聖護院大根の茎とはほとんどミイラのようで、このような質量0の茎の種から再び生命が生まれるかと思えばほとんど神秘である。

ミイラを漢字で書くと「木乃伊」と書くようだ。
私はカリカリに乾いたミイラの枝を見て何となく「木及び伊」の文字からミイラを感じている。
ウソウソ、全くミイラと木乃伊の関連性がよくわからない。

「伊」とは何かと調べると「これ・この・かれ・かの・ただ」と指示語のようでもあり、伊豆、お伊勢さま、伊賀、伊予と地名に使われることも多くて、これ・かの地の豆勢賀予な場所かなとなる。
または、「伊の達」と書けば伊達男の「だて」で、木のように乾燥した伊達のように派手に見栄え良く飾るミイラと思えば、上手く言葉には出来ないのですが「木乃伊」のミイラなのかな。

ということで、

私はミイラのようにカリカリに乾燥した聖護院大根の種を収穫する。
黒ずんだサヤは割るとあまり健康そうな種ではない種が出てきたのでそれは避けて、2つの実なるサヤからも普通の種と栄養が届かなかった黒ずんだ種も取れたので、その悪い種も避ける。

合計9粒の種を収穫する。

種:6粒
駄目種:3粒
記念保存用の種入りサヤ帽子:1つ

上手くいけば今年の年末ぐらいにデッカイ大根が育つ予定だ。

他にミイラに関連する言葉はないかと調べていると「ミイラ取りがミイラとなる」との言葉もある。
今朝、私はミイラのように干からびた聖護院大根から種を取り出すものでこの行為は何だかミイラを取り出す感じでもある。
改めて意味を調べると人が行方不明になり探しに行ったらその人もまた行方不明になり探されることで、転じて、相手を自分の側に引き入れようとした者が相手側に引き入れられてしまう、朱に交われば赤くなるような感じの日本人なら誰でも知っている諺である。
物語だと「おまえもか・・・」と面白くなる要素も満載ですが、しかし、なぜ?ミイラかと考えるとさっぱりとわからないミイラである。
この謎は全て「ミイラ」を「木乃伊」と読むことに秘密があるような気もするもので「木乃伊」「木乃伊」の文字を見ていると政治家が集う老舗料亭のような名前にも見える。
あるいは本当に伏魔殿のようなミイラかもしれませんが、または、ミイラを取りに行く行為自体も何だか不思議だ。
なぜ?わざわざミイラを取りに行くものなのか?と思うものである。
ミイラ取りがミイラになるというのは生命宿る肉体から質量0のカリカリとなる真反対に変容するもので左から右の180度の針の振り幅だ。
実話の昔話を空想すると、むか~し、むかし、ある若い男が「木乃伊」を取りに山に入り帰ってこない、心配したお姉さんも若い男を探しに山に入るけれども帰ってこなく、若い村衆総出で探すとお兄さんとお姉さんがカリカリなミイラで発見されて・・・ほぼ吸血鬼に血を吸われたような、箱を開ければ玉手箱な浦島太郎のようなホラーなホラ話でもある。

ということで、

ミイラのことはさっぱりとわからないのですが、謎の「木乃伊」も絶対に取りに行ってはいけないことだけは学んだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年6月5日(金)
■サウンドマスター♪
■2026年6月8日(月)
■一日一文章トレーニング。

「二度目のちりめん山椒」

部屋の中にも風流があるとすれば、今朝の小雨降るグレーなお空にぷんぷんと梅の香りが香る我が部屋はとても風流だ。
この甘いフルーツな香りは齧りたくもなるようなとても良い香りで、黄色く熟す完熟梅の様子を確かめる為にクッキングペーパーをめくると「ぶわーっ」と梅の塊が部屋に広がる。
物凄い梅の香り、旬を生活に取り入れることは素晴らしい。
これは品というものを風に例えた昔の人のお洒落さでもあり、確かに人やモノの持つ趣きや味わい、センスとは風のように流れてくるものだ。
梅の名の付く梅雨前線はどの辺りにあるかと天気図で調べるとまだまだ日本列島の真下にあってまだ梅雨入りはしていない。
この雨や曇り空は静岡沖にある低気圧が運んでき雨のようだ。

この週末、私は去年の冷凍の実山椒を全部使っちゃおーとちりめんを買う為に街まで足を伸ばす。
てくてく、てくてくと道を歩き先日の台風一過で街の雰囲気や空気も随分洗われて心地良い。
前回は小さ目のちりめんじゃこを使ってちりめん山椒を作ったので、今回はもうちょっと大き目のちりめんじゃこでちりめん山椒を作ろうと思う。
丘を上り下り先日の台風の大雨で開花した紫陽花を愛でながら不忍池を通っていると上野のお山と言えば紫陽花のイメージが強いのに随分と禿山だ。
私の記憶では池の回りに紫陽花の花が咲き誇る感じはあるものの、ぽつぽつ、ぽつぽつと池の回りに花は咲けども、そもそも花を咲かさない紫陽花の株もあって、私の知っている不忍池の紫陽花はどこにも無い。
紫陽花とは放っておいても雑草の如くたくさんの花を咲かす感じの花でもあり、ここ数年の猛暑で水々しさや茶色く枯れ気味の紫陽花は確かに見たような気もするものの、こんなにもスカスカだったけ?と思う紫陽花である。

ここ数年の酷暑やインフレな波とかぶる紫陽花かな?である。

スーパーに行くと南高梅を見つけて、大きなちりめんと一緒に購入する。
梅はやや黄色く熟した完熟梅で値段は雹害の不作の去年よりもやや消費税8%ぐらい上昇のほぼ同価格。
私の梅データでは令和5年2023年は1kg1200円ぐらいであった南高梅が去年・今年と2000円ぐらいの上昇で約67%の値上りとなる。
これは百円均一で100円のものが無くなるような計算と同じ現象で、この数年間のインフレ状況を梅からみればこの4年間で約×1.67倍の高騰となる。
スーパーに行っても今まで2000円ぐらいで収まっていたようなお買い物が大体3000円ぐらいになるような感じで、ちなみに、赤紫蘇は去年の1束300円ぐらいから500円に上昇する。
赤紫蘇は令和5年・2023年から比較すると約79%の上昇となる。
この調子でいけば数年後には確実に物価は全て2倍になるような計算で、我もおちおちと寝ていればそのうちにお金の価値が半分になるかもしれない世の中に戦慄している。
梅の値段の推移を見ていると約1.67倍ぐらいで押し耐える物価でもある。
私はでっかいちりめんを買いに来たら完熟梅を見つけてラッキーと今年も梅干し作りに挑戦するのじゃー。

ということで、

昨晩、ちりめん山椒を作る。
愛用の鍋に醤油やみりん、酒、砂糖を入れてひと煮立ちさせてから大きなちりめんを入れて弱火でぐつぐつと煮る。
そして、凍った山椒の実を入れて水分が無くなれば完成で、大きなちりめんで作るちりめん山椒はどこか大味だ。
味が染みてないというか何というかの色の濃さも薄いちりめん山椒で、私はちりめんには小粒な魚類の方が良いような予感。
そして、1晩経ちて味見してもやっぱり前回作った小ぶりなちりめんの方が美味しいもので、いつも一度目は偶然に美味しく出来る呆則はある。
そして、再び作るとなると味を再現出来なくて困ったー困ったの浅知恵であれこれと原因を探っている。
この困ったーの壁を乗り越えれば一味成長するかもで、最初の美味しさとは「もっとたくさん作れ」との天が与え賜るビギナーズラックなのかもしれない。
なので、もう1回再挑戦のちりめん山椒は作る予定だ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年6月8日(月)
■ズンチャ♪ズンチャ♪
■2026年6月9日(火)
■一日一文章トレーニング。

「本日は“つまようじペン友の会”の定期報告書を書く」

おそらく、“つまようじペン友の会”とはつまようじペンを一度でも試した人が自動的に会員にされてしまう鬼畜仕様だ。
なので、この文章を読んで爪楊枝のペン?と気になった人や爪楊枝に一度でもインクをつけた人は「もう、おまえは“つまようじペン友”の会員だ」なのである。
北斗4千年の残念無念で、もちろん会費年会費は無料、他のペン派閥とのバトルも無く平和に爪楊枝に墨汁をつけつけと書く。
金ペンサーや極細ペン先先輩に「爪楊枝の分際が云々・・・」と嫌味を言われても「あはは、そうどすね~☆」と敷居を低くして会員入りを虎視眈々と狙う。
私のたった一つの願いとは良き書き味の方法を見つけたら教えてケロで、私も大発見をしたのでここに記す。

日々、つまようじペンを愛する私たちは爪楊枝の書き心地の改良に余念はない。
私もインクを保持量が少なすぎる問題を解決すべくあれこれと試行錯誤しているもので、たくさん爪楊枝を無駄に真っ黒にしながら消費している。
軸の木に刻んだ隙間を作ればそこに墨汁を貯めて保持量を増やせるかもと、私はさっそくプラモデル用にニッパを使って爪楊枝のペン先を折らないように側面に幾多の溝を刻む。
そして、何も加工していない爪楊枝と、幾多の溝を刻んで墨汁を貯めるスペースを作った爪楊枝で書ける1本線の長さを比較する。
<<結果>> 線を引ける長さにほとんど違い無し。www
側面に溝を刻もうが刻まなくともインクの保持量に変化はないもので、私は次に爪楊枝の木材の芯まで墨汁が浸透しているかどうかを調べる。
ニッパで真っ黒な爪楊枝をパキッと折って比較すると、溝を折った爪楊枝の方が芯に向かって墨汁は染み込んでいる。
そこで、墨汁の量を増やしたければ木材の芯の芯まで墨汁でひたひたにすれば良いのではないかと考える。
私はカッターナイフという名剣をふるい細い爪楊枝の先端をまっすぐにパカッと割る。
※写真の図のように。
思ったよりもパカッとキレイに割れる爪楊枝で、試しに横線を1本書いてみると何も加工しない時よりも2倍ぐらいの長さは書けた。
大成功である!
爪楊枝ペン先の先端はパカッと半分に割ってスリットな溝を作れば、そこにインクはたくさん溜まるもので、先端の直線的な割れ目は万年筆のペン先と同じような効果でインクもたくさん溜まるようだ。
これですこすまた、つまようじペンは実用的になる。

因みに、最近私が愛用している墨汁浸けペン用の道具がこれだ。
インクは開明墨汁を継ぎ足しながら使用しているもので、蓋の裏面に墨汁が付着しないように壺はいつも丁寧に扱っている。
墨汁は扱いが雑になると手も真っ黒に汚れるものであちこちに飛び悲惨な結末となる。
なので、墨汁は丁寧に扱うに限る。
そして、ペン塗りはぺんてるのカートリッジ式薄墨を挿さずにつけペン用として使用するもので、ほとんどの作業とはほぼこれ1本で事足りる。
大きな面を塗りつぶす時には開明の極太朱肉カートリッジ式ペンの太すぎる筆で一気に塗り潰すもので、どちらのペンも赤い輪を外さずにつけペン用のペンとして活用している。
要は筆を洗うのが面倒でカートリッジ式を使えば筆は洗う必要もない。
そして、私のデスクにも爪楊枝のイノベーションが生まれるもので、2ミリ芯ホルダーにつまようじペン先を入れればほぼ0.5ミリの細書きインクペンとして使用できる。
これでまるごと墨汁生活となる。

棟梁とは道具から作るらしい。
なので、私も棟梁でも何でも無いのですが職人の真似事をしながら道具から作る。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年6月9日(火)
■へびとへその外宇宙探索船。
■2026年6月10日(水)
■一日一文章トレーニング。

「梅干しを漬ける」

梅の香りを風流に嗜み、購入してから3日目の完熟梅は完熟度合いも進行する。
このまま梅を放置していれば傷んでしまうとかもと2026年産の梅作りの仕込みを開始する。
梅干し作りとはいつも突如始まるもので、毎回どのようにして梅干しを作っていたかと考えても皆目思い出せない。
なので、私は毎年記録を残している梅干しノートを見ながら作る。
このノートが無ければ「あーだ、こーだ」とネット検索して毎年振り出しから作る梅干し作りになるもので、しかし、ノートを読み直したとしても急に製作工程がスッと飛んでいたりと物凄く曖昧に書かれたノートである。
本当にパスワードのスペルを間違ってメモするように、作り方も何だかカオスだ。

先ずは爪楊枝でヘタを取りボウルに水を浸してキレイに洗浄する。
水につけるとさらに黄色の完熟梅がさらにオレンジ色となって、傷んだ梅は省くとあるのですが「これは本当に傷んでいるのか?」と毎度どれが傷んでいるかの判断基準も難しい。
結局全部大丈夫だろうと自己解釈して塩漬けするもので、どれもそれなりの梅干しとなる。
1梅1梅キレイに水分を拭き取りアルコール消毒して“かめ・つぼ”にキレイに並べる。
梅を詰める容器は“かめ”か?“つぼ”なのか?よくわかりませんが調べると “かめ”のようだ。
何だかこれもまたデジャブな事柄ですが、“かめ”には「瓶」と「甕」があるようで花瓶や土瓶の「瓶・かめ」は口の狭い水がめのことで、「甕・かめ」は絶対に書けない自信がある字で口の広い容器のこと。
“壺・つぼ”は口がつぼんで腹がふくれた酒を入れる容器のことで、酒の「酉・とり」の字も酒壺を模したカタチの意となる。
なので、梅の容器は「甕・かめ」である。
容器の名前とは形状や中に入れるもので呼び名も変化するようで、容器の名前とは結構知らないこともあるかもで集めると面白いかも。

壺には「壺中の天地」という故事がある。
これは中国の費長房という市場の役人が薬売りの老人が閉店する度に店頭にかけた壺の中に飛び込んで消えることを知って、彼はこの壺の中がとても気になり老人に頼み込んで壺の中に入れてもらうお話である。
どうやら、壺の中には素晴らしき世界が広がっているようで、壺の世界とは会員制の酔っ払いの世界なのか、酒の悪魔に魂を売る話なのか、壺の中に飛び込まないと知れない世界もあることで「壺天」という言葉となる。
酒には「酒は百薬の長」との諺もある。
しかし、兼好法師は「百薬の長と言えどもよろずの病は酒より起これり」と酒飲好きか否かで酒の解釈も異なる。
曽我物語では「酒は朋友の徳あり」と酒を飲みかわせばお互いに心を深まると説いて、「金を試しみるは火なれど、人を試しみるは酒なり」と酒で親密になったり人を試したりとお酒の壺とは正に人の“ツボ”を突く何かかもしれない。
私は“かめ”に塩を詰め込みアルコールもたっぷりとふりかけて消毒・塩漬けとして、“かめ”の外側を大きな紙で包み込んで封印し”かめ”をパシャリと写真に収める。
1週間後に溢れた梅酢を掬い取り、梅干しは7月9日頃に完成する予定だ。

今まで作られた梅干しから出てくる往年の梅酢は冷蔵庫の中に冷やし取り置きされている。
梅干しを作る度に梅酢は溜まっていくもので、これは梅干しと同じくまったく腐らない神秘の液体でもある。
舐めると酸っぱくて塩辛くておにぎりに振りかければ美味しいのですが、何に使うことも無く冷蔵庫の守護神として溜まる。
塩分は昔ながらの梅干しで18%ぐらいあるのでとてもしょっぱい。
塩の代わりとして使用すれば消費できるかもしれない。
そう言えば、我が家ではとても怖いお話もあった。
冷蔵庫の中には大切に冷やし取り置きされていた”ゆで卵”が冷やされていたもので、その殻をむいて食べようとすればグレー色の卵が出てきたそうな。
恐怖のグレー色のゆで卵!
そのことを思い返すだけでも何だかオエーとなるこわい卵で、一方で梅干しとは江戸時代の梅干しでも問題なく食べれる何年経過しようとも常温で保存しようとも全く腐らない究極の保存食である。
そのような防腐性の秘密とは何かと思うと梅酢のようにも思うもので、この液体に卵を漬けたら腐らないのかどうかも気になる。
しかし、2年ものの卵とかちょっとこわすぎて食べれないなー。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年6月10日(水)
■酒壺なのか瓶か甕かな。
■2026年6月11日(木)
■一日一文章トレーニング。

「入口と出口が同じお話」

ここ最近は涼しくて雨も降り空気もキレイで大変良いお天気だ。
私は朝起きると雨予報を見て、気が向けば天気図も見て、ついでにPM2.5が大陸からこちら側に流れてこないかとチェックもしてぬかりは無い。
そして、寝ていても保温効果ゼロの夏用布団だけでは肌寒いもので、先日洗って仕舞ったばかりの薄い毛布を取り出しては包まり寝ている。
いやはや、布団は洗ったばかりでまた再び洗い仕舞わないといけないとは面倒ですが、夜は耐えるにはすこす肌寒い。
去年の暑い夏は本日からエアコン起動をしていた。
そして、一昨年の溶けるような猛暑でも約1週間後にはエアコンは起動されるもので、まだまだ予断は許さない。
ですが、夏の始まりが後ろにズレれば良いなーと思っている。
エアコンをONするか否かの境界線が後ろにズレれば夏の入口が遅くやって来ることを意味する。
また、夏の出口(秋)が早まれば自然と暑い夏の期間も短くなる。
何となくですが去年までの気候と若干の変化も感じるもので、果たして今年の夏はどうなりますやらと雨乞いならぬ普通の夏を乞うものだ。

本日雨は降っていませんが、雨が降ったならば「生憎の雨」と都合の悪く降る雨の話題となる。
天気とは良く出来たもので毎日晴れている訳でも無ければ雨が降ったり、曇ったり、雪が降ったり、台風が来たりと様々な表情を見せる。
それが恐らく自然の摂理というもので、私たちは日常的に移ろう空を共有することで話の入口としている。
外国語だとどうなのか?知りませんが、日本語だと大抵は挨拶→天気の話→利用した交通機関や道のりのお話→昨今の話題と共通の話題を重ねながら徐々に話を本題へと広げていく。
そして、「生憎の雨」とはちょっと面白い表現で、特に「生」が不思議だ。
「生む」と「産む」の違いは何かと調べれば、「生む」は傑作を生み、記録を生むもので、生命を与え生じさせることを言うようだ。
「産む」は卵や子供を産むもので、産みの苦しみもまた「産む」ものである。
キャラクターや創作物を作り“うみだす”こととは何かしらの生命を与えるようにも思うものの、情報資源を産出していると思えば「産む」かもでもあり「生むと産む」の違いとは微妙に難しい。
これら違いとは文章を書かない日常会話では全く気にならない事柄でもありますが、ほいほいと文章を書いていればあれっと気付くものである。
よくわからなければわざと避けて別の言葉に置き換えるものですが、毎日の話の種も不足中となれば「あーだ、こーだ」と確実にボールを拾い書き分けたい。
「生む」な言葉とは他に何かあるかと書き出すと。生き甲斐、生き地獄、生き字引、生き恥、生き仏、生き物(生物)、生き霊(生霊)、生け垣、生け花、生っ粋(生粋)、生糸、生地・・・と何かと「生+(き・け)+何々」な構造を持つものも多い。
そもそも、生憎の雨を「あいにくの雨」と言うのも何だか変だ。
雨は自然の中で雲から生育して雨となるもので、だから「生む」ものかもしれない。
また、「生」を「あい」と読むのも「愛」ある言葉をオブラートに包み込む表現のような気もする。
どちらにしても、「生む」と「産む」の違いは結構難しくてやっぱり何もわからないので、私は産地偽装しながら言葉を濁す。

ということで、

空を見上げれば自然とは天候一つとっても同じ風景は見せない。
そして、私は昨日の壺と瓶と甕のカタチをじっくりと凝視してこのような形で良いもののかと面白いことに気付く。

・酒壺は入口が中ぐらいのサイズで収納する容器は広い。
・瓶(かめ・ビン)の入口は狭く収納する容器は広い。
・甕(かめ)の入口は広く収納する容器は広い。
そして、急須やヤカンなどと異なり入口と出口が共通であることに気付く。
このような関係性を整理すると図のようになる。
入口と出口は使い方で液体やモノを溜める場所は機能性である。
カタチにはそのような型となる意味があるもので、壺と瓶と甕と使い方や機能性の違いで意味を分けているようだ。

そう言えば、話の入口で天気の話をしたならば、話の終わりで天気の話で終わっているかもだ。
空は時間の経過と共に移ろい変わり、雨は止んで、晴れていた空は曇り、やはり天気の話題から始まった会話は今日の天気の変化や明日は雨か晴れかと天気の話で終わるような気もする。
これを”つぼ””かめ”型というべきか入口と出口が同じこともまた面白きこと也。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年6月11日(木)
■【今月の標語】前方に見えたら逃げろーくま、藪から聞こえたら逃げろーくま、そろりと目を離さずに後退りで逃げろーくま。
■2026年6月12日(金)
■一日一文章トレーニング。

「家の中にある入口と出口を探す」

玄関は当然入口と出口が同じで衣装ケースやバックのように仕舞って出してと収納するものは大抵、入口と出口は同じである。
少し視点を変えて、スマホやタブレットなどの画面上の入出力が同じモノも入口と出口が同じで、それはインタラクティブな情報の壁打ちのようなものでスマホとは壁打ちだ。

入口と出口が異なるモノを探すとお風呂場のシャンプーや入出金する電話の貯金箱を見つける。
シャンプーの出口は急須のように狭く、貯金箱はお金が減らないおまじないなのか案外小さく控え目に広がる出口だ。
また、パソコンはキーボードとモニターの入出力が別で、ノートパソコンは画面とキーボードは同じサイズである。
他に入口と出口が同じサイズで別なものはないかと探すと上下水道なパイプを見つける。
これらは左から入って右に抜けるような感じで正に情報とは流れモノだ。

そう言えば、

先日、本棚をうろうろとエクセルの本を探していたもので本棚もまた入口と出口が同じだ。
「この前どこかで見たなー」と思うエクセルの本で、エクセル関数なんてネットにいくらでも転がっているもので本は無くとも大丈夫だ。
結局、本は本棚から見つかり捨てたモノたちが捨てた後に急に必要になる呆則はあるあるである。
関数の函もインプット・アウトプットが別と考えれば、これはパイプのようであり、本自体は印刷製本と工場でインプットとされ売れたり、読まれたりすることがアウトプットなのかな。
一方で本を読む人からすれば読めばインプットで、その本の情報が何かに活用できればアウトプットなのかもと、とてもややこしい。
入口と出口の意味はその置かれた状況によっても変わるかもで、入口と出口あるものには必ず何かを収納できるスペースがあるものだ。

ということで、

我が家の入口出口なモノを探す中で懐かしいモノを見つける。
それは20×15センチの秘宝で、インク壺にヘルメット鉛筆削り、スライムとガラスが割れて密閉効果のないケースの中に収納されている。
インク壺は空の瓶とインク入り瓶の合計5本、これは入口と出口が同じ形の壺である。
空のインク瓶も捨てずに洗い大切に保管しているもので、瓶の形や大きさ、色それぞれとても愛おしい。
鉛筆削りは入口と出口が別で、入口と出口が別なモノとは出る前に加工されたり、または、量を調整したりと排出系でもある。
そして、スライムは4匹。
最近キングスライムの目薬の情報がよく流れて来る。
「何だかいいなー」の少し欲しい。
しかし、ここのキングスライムはガチャポンで「また、おまえかー」とキングスライムばっかりが出てガッカリしていた記憶である。
私は普通のスライムが欲しくてやっと4回目にメタルスライムが出て「ヨシ」と切り上げた思い出で本当はキングスライムはいらないのである。
※関係ないけれども「思い出」もまた昨日の「生き恥」のように真ん中に平仮名があるメモメモ。
これらのソフビなスライムも見つける度にいるのか?いらないのか?と禅問答が始まるもので、しかし、どう考えても空のインク瓶よりも遥かに価値はある。
空瓶は磨くとキラキラと美しい。
あまりにも小さく可愛らしい壺で、そして、驚く位に何にも入らなくて空気を収納している。
結局、これらはキレイに埃を拭き取り、置き場に再び困って「そおっと」箱に戻して封印する。
そして、また数年後に「あーだ、こーだ」と言いながらキレイに拭いて仕舞われる予感だ。
めでたし、めでたし。

 
■2026年6月12日(金)
■イン・アウト。
■2026年6月15日(月)
■一日一文章トレーニング。

「私は朝も途中からワールドカップ日本VSオランダ戦に参戦した」

試合は2対2の終始失点した状態から同点に追いつき勝ち点1を獲得する。
サッカーワールドカップ1次リーグとは初戦がとても重要ということで負けることの出来ない試合だ。
そして、そのような大切な試合がオランダという強敵で正直私はすこす「まいった」と罰ゲームのようなものだと思う。
このような試合は先に失点するとゲームの流れが著しく苦しくなるので、この2失点とは惜しいもののトータルフットボールを生み出したオランダから2度も引き分けに持ち込んだ意味は大きい。たぶん

私は最近、アップルTVで「テッド・ラッソ」を観ていた。
来る日も来る日も「テッド・ラッソ」を観ていたもので一気にシリーズ3まで観るものである。
なので、オランダのトータルフットボールも知っているし、サッカー気分もかなり俄に盛り上がっている。エッヘン
トータルフットボールの詳細を詳しく説明することは出来ませんが戦術を変化させながら攻守入れ替えて戦う近代的な戦術のようだ。
そして、そのようなオランダから逆転勝利こそを出来なかったものの、2度のビハインドな状態から試合を振り出しに戻す戦いぶりに、私は何か日本のサッカーの新しい光明を見る。
「テッド・ラッソ」はプレミアムリーグの監督目線のドラマでシェイクスピアのような様々な人間模様を展開して崩壊した弱小チームを纏め立ち上がる話だ。
私は他の動画配信サイトよりもマイナーなアップルTVの方がいろいろと独占で観たいと思うドラマや映画が多くて好きだ。

オランダ選手はジオングみたいな選手しか知らなくて、久しぶりに観る日本代表選手も随分と変わり知らない選手もいて、まるで別チームのようだ。
最近はズーッと大谷さんからの野球モードで久しぶりのサッカー観戦となる。
ゲームの流れを振り返ると、0対1からの同点弾は失点後もオランダに押し込まれる中でドリブルやロングなパスで徐々に前線を押し上げながら久保選手のパスからの中村選手のゴールとなる。
中村選手は少し前に同じようなシュートを外したもので、それを修正して内側に切り込んでから鋭いゴールを決める。
1対2からの同点弾は伊藤選手からのセンターリングを小川選手が「ズドーン」と大砲のようなヘディングして鎌田選手に当たり同点とする。

小川選手の「ズドーン」と鎌田選手www

鎌田選手の頭に当たるのも何だか面白いのですが、小川選手が控え選手に向かって一直線に走るのも印象的でベンチ選手の熱い闘志も良く伝わる。
私もガッツポーズで「よっしゃー」と飛び跳ね近所迷惑だ。

そして、そのように、ということで、我にも再び俄の評論家の時代がやって来た。
森保監督の喜怒哀楽をテッド風に書こうかと思えば失点した時の監督は真顔のポーカーフェイスで、そして、今日の試合を観たならばどの選手も一生懸命に走り完璧な試合運びをしようと戦うもので、これをなんと言うべきかの墨田川である。
私の頭の中には「丁寧な仕事」という言葉が頭に浮かぶもので、大胆で豪快な動きの中に長年積んだ丁寧な部分がこっそりと見えるもので、俄はこのように評論する。
試合の節々の動きの中にそのような丁寧さが見えると何か心に響くもので、工事にしても料理にしても表から見えない部分に丁寧な仕事のこだわりを見つけたり知ったりすると「ふむふむ」と感心する。
サッカーの動きとは私には図り知れないものですがゴールの前後にそのような丁寧の仕事を見たような気もする。
というのも、最近、私はフランスのサント・ブーヴという評論家を知るもので、彼は「我が毒」の中で「僕らは批評する時に他人を判断するように遥かに多く自分を判断している」との名言を遺す。
他人を評価する時に自分を判断しているなんて「流石のボンジュールなのだ」とフランスの評論家に感心していたならば、コイツ!とんでもない評論家で毒も毒で結構毒も吐きすぎだ。
私の中では「評論家の中に、絶対に、偉人はいない」との結論に真っしぐらで、我が俄評論家も恐れおののき、今日はイケメン日本代表選手たちの健闘を称える。
そして、明日からはブーヴと言うとんでもない評論家について知ったブーイングについて書きたい。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年6月15日(月)
■オガワカマダのゴール。
■2026年6月16日(火)
■一日一文章トレーニング。

「鯛のポワレ(ブールブランソース)を作ったヨ☆」

昨晩寝ていたならば「ブーン」と耳元に飛んでくる羽音あり、私は夢と現実の狭間で「蚊」の文字が(虫+文)であることに気付く。
確かに「ぶ~ん」と飛ぶ虫の音とは漢字の読みにあわせると文(ぶ~ん)だ。
「ブンブン」と耳音を襲う蚊に耐えながら文章を一言一句読むように蚊の音を追っていると、そのゆらゆらと飛ぶ蚊の軌跡は達筆な書のようでもある。
昔の人も予測不可能な蚊の動きに重ね合わせ「蚊」を(虫+文)と書いたのだろうか。
私は小さき頃に蚊の飛ぶような字を書いて怒られた。
また、蚊のような声で話をしても怒られる。
蚊の例えとは良き表現ではなく、耳元に蚊が飛んでくれば「うんうん」と唸りながら寝返りをうって確かに鬱陶しい。
どのくらいに鬱陶しいかと考えても私が蚊の撲滅運動家になってしまう位の鬱陶しさだ。
私の耳は完全に「ブーーーーン」と飛ぶ蚊をロックオンしており静かな室内の遠くを飛ぶ羽音さえも微かに感じる。
蚊は何度も何度も私の耳元にアタックして血を吸う気満々で、私は我慢できずにムックリと起き上がる。

東京の街は蚊が少ないことで有名だ。
(私の中だけで有名なお話です)
東京の街を歩いていても蚊に刺されることはほとんど無く、ほぼ蚊の撲滅は完了している。
しかし、今年は雨や涼しい日も多いようで、蚊の数もすこす多いような予感。
昨晩もこの耳元を「ブンブン」する蚊とは別の蚊を1匹撃墜する。
蚊は夏場の直射日光が当たるような真昼には行動しないもので、案外暑がりで朝晩の涼しい時間帯に活動するものだ。
ここ最近の猛暑の夏を思い返しても活発な蚊の記憶は無い傾向で、もしかしたら今年の夏は比較的に過ごしやすい夏になるかもと期待している。

私はよたよたと起き上がり、先ずは枕元にシュッシュッとハッカ油をスプレーしてからパントリーをガサゴソと蚊のスプレーを探す。
蚊のスプレーは未使用のまま古い電池で動く蚊取り線香とハチに刺された時の毒抜き器具と一緒に入っていた。
パッケージをバリバリと開封して枕元や足元等にスプレーして、よたよたと布団に戻りハッカや蚊撃退の薬品の匂いを感じながら再び長い眠りにつく。

昨日の俄な評論家の話を思い出すと、私は「俄」という文字が(亻・にんべんの人+我)であることに気付く。
確かに、自分の事を思い返しても俄な事柄は多い。
突然何かを始めて、突然何かをやめて、また、突然俄に何かに惹かれるもので、人とは突然思いがけないことをやり始める生き物の意味かもしれない。
俄とは何かと調べると、にわか雨に代表される突然に起こる何かだ。
現代訳に置き換えると長年の研鑽を積み詳しさの中心にいる人たちの反対側に、ポツポツッと現れる俄な人たちのことで、勿論、サッカーも野球もコアなファンな人たちに比べれば私は正真正銘の俄である。
目の前に骨付き肉に食らいつくような俄であり、俄な字を見れば「我は俄なのじゃ、若しくは、人類皆始まりは俄なのじゃー」と言っているのかもしれない。

ということで、

俄な私は週末にフランス料理を作る。
フランス料理とは時々起こるこれまた俄現象の一つですが食材を集めるハードルがあまりにも高すぎて毎度作るまでなかなか辿り着けない。
今回はフランス料理の基本ソースのブールブランソースを作るもので、先ずはエシャロットをゲットすべくアンテナを張っていたら、エシャロットを見つけて購入する。
エシャロットはエシャレットとは違い写真のようなフランスの玉ねぎで、私の人生でもエシャロットに触れるのは初めてである。
ド下手な包丁さばきで微塵切りにして、バターも手作りするもので、フランスシェフが言うにはバターも手作りらしい。
さっそく、私もこのシェフはちょっとおかしなことを言っているなーと思いながらもバターを手作りするもので、買うよりも高額なバターが完成する。
作り方はネットを見ればいくらでも書いているので割愛しますが見様見真似で作ったフランス料理だ。
勿論、家にワインビネガーというオシャレな調味料も無いもので、それも購入する。
ブールブランソースのポワレを作る為の材料費とは・・・君の名は一体・・・いくらぐらいにコストが積み上がったかと思う費用である。
食す魚は国産鯛の切り身で1切れ1000円ぐらいもする高級品。
この死合い料理には絶対に失敗出来ないと言い聞かせて気合が入るもので、ネット上の俄ではないガチなシェフな人たちの作り方を参照しながら作る。
そうすると、酸味の効いた乳化した黄色い酸っぱいソースが出来るもので、本当にこのような酸っぱ目のお味でお魚を美味しくなるものかと不安になる。
魚は高級品でもあるので皮もパリッと焼き上がりフレンチなお皿にブールブランソースをお洒落に飾る。
しかし、俄な我が家には残念なことにフランス製の春のパン祭りのお皿しか適当なお皿しか無くてその皿に入れて彩る。
ワインビネガーが効いたこの酸っぱいソースに鯛のポワレが美味しくなるかと半信半疑でしたが、食べると何だかメチャメチャ美味しい。
「うんまい、うんまい」と晩御飯の最後の一つまで残るおかずとは美味しかった証拠でもある。
あの酸っぱいブールブランソースを食べてもなぜか?酸っぱくないお味の不思議で、私の俄味覚の感想を書くと、皿の上の酸っぱいブールブランソースをつけながら食べるとほんのり塩味の効いたこってりとした洋風のお味となる。
ソースには自家製のバターも勿体ないくらいにたっぷりと含まれており、エシャロットの香り+酸味+バター+塩味という出汁のかけ合わせのような複数のお味が口の中に広がる美味しさとなる。
おまけに魚は皮がメイラード効果というのかパリパリで身はムチムチと弾力のあるお味となって食感も良い。
普通にフランス料理を食べても「美味しいねー」で終わるものですが、自分で作るとソースのコンビネーションや作り手の手の込んだ丁寧な仕事なども感じられて、お・フランス料理の本当の凄みと奥の深さを知る。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年6月16日(火)
■ふむふむブールブランソース。
■2026年6月17日(水)
■一日一文章トレーニング。

「対立構造の逆側をみる」

地震とは突然起きるものですが“にわか地震”とは言わない。
“にわか”とは頻繁に起こらないような自然事に使用しないようで、日常レベルの身近な自然事に使うもので、突拍子のないものでも無くより自然に近い事柄だ。
昨晩は久しぶりに突然大きめの地震がぐらぐらと揺れて、最初は小ぶりな揺れから徐々に大きく揺れて止まる。
私は緊急地震警報の音にビックリと立ち上がり棚を押さえながら揺れをやり過ごす。
グラグラと揺れる中で最も良く揺れていたものは先日のベランダに糞を落とすヒヨドリの鳥避けに活躍した?カラスのソフビだ。
カラスの置物は尻尾・クチバシ・尻尾・クチバシと前後に大きく揺れてまるでヘドバン状態である。
また、置物は地震の揺れメーターとしても活躍出来そうな予感。

そう言えば、

地震の前に何か兆候のようなものはなかったかと思い返すと夕方にカラスが「あーあーあーあーあー」と途切れなく変な鳴き声でゆっくりと移動していた。
最初は近所のガキが奇声を上げているかとも思ったものの、「あーあーあーあーあー」と再び途切れのない声は戻ってくるものでカラスかなーと思う。
実際はカラスの姿は確認していないし、鳥の鳴き声を聞けばカーテンをサーッと開けて双眼鏡で探すようなハードボイルドでもないので、あの変な鳴き声はカラスかもしれないし、近所の子供の奇声かもしれない。

カラスが大地の異変の何かを感じるのかわかりませんが、私も何かしらの地震の異変を感じていたのでござる。
それは昨日の早朝に地震の予兆のような災害用の備蓄タンクの水を捨てる。www
ウソウソで本当に水は捨てたのですが、地震の予兆などは全く感じていなかった。
偶然に防災用タンクが邪魔なので仕舞おうとする行動で重い水タンクを持って風呂場の浴槽にジャバジャバと水を流して容器を空にする。
このタンクはもしもの時に溜めていた水で緊急時の洗い物やおトイレに使う為に溜め置く文鎮である。
そして、移動に邪魔なので昨日の朝、俄に思い立ち水を捨てる。
地震予知のスタンスに立てば防災用の水を捨てているので真逆の行動だ。www
カラスは夕方に非日常な変な鳴き声で飛ぶもので、私は防災用の水を捨てて空にする異変と言えば異変であり非日常な行動である。
カラスのことはわかりませんが、私の行動は邪魔なタンクを必要にかられて動かしただけの単なる“にわか”でもあり、カラスも俄に鳴いている可能性も高い。

地震の前に起こる非日常な行動の予知の謎は専門家、識者、評論家に聞かないとわからない。
そう言えば、専門家、識者、評論家の違いと何かと考えると当たり前すぎてよくわからない。
なので、さっそく調べた。

・専門家はある一つの学問や事柄だけを探求している詳しい人。
・識者は知識があって、しっかりとした考え方や判断のできる人。
・評論家は物事の良い悪いや価値などについて考えを述べる人。
よく似た言葉では権威、プロ、知識人、コメンテーター、アナリストなどなどとたくさんの言葉のあるカテゴリーだ。

物事の本質とは「常に対立構造の逆側にあり」かもの呆則で一応対義語も書き出す。

・専門家の反対は非専門家のことで素人や門外漢。
・有識者の反対は無識者で無知な人や素人。
・評論家の反対は当事者(プレイヤー・制作者)やファン。

これらの相反する2極とは正に昨日から書くような俄なこと。
知る者と知らない者、考える者と考えない者、行動する者と行動しない者と対立構造が上から目線のような非対称なカタチとなる。
このような対立は最近でよく見られるもので、ほとんどはこのようなカタチかなとも思う。
なので、そのような不毛な対立を解決する答えはないかと思う。
それは恐らく新自由主義かなだ。
ネオリベと呼ばれるこれは、このような中間を埋めるものとして作られた装置で、このような対立は共産主義的な事柄を利するので対抗策として作られた思想である。
放置する社会とは徐々に社会主義的になるもので、独占状態の持つ者、持たない者等の境界線を薄くして利権を小さくする為の小さな政府や規制緩和、競争原理、問題解決の対話を持ち込むことでフラットな見えざる手の力を効率的に発揮しようとしたもので、因みに、日本はネオリベ的な社会ではない。

ということで、

先日学んだ「シャルル オーギュスタン サント・ブーヴ」について少しずつメモしようと思う。
シャルル オーギュスタン サント ブーヴ(1804~1869)は19世紀で活動した有名なフランスの文芸評論家で写真はどこかで見たことのあるピーンと来る顔だ。
どこで見たかと思い出しても思い出せないのですが何だか見たことのあることは確かだ。
フランス文芸界で最高の名誉とされるアカデミー・フランセーズの会員にも選ばれて、ナポレオン3世から元老院議員として任命されるような超大御所の人物で、ヨーロッパの反対側に住む私でも何だか顔を見た記憶だけはある有名人だ。
サント・ブーヴは個人の好みや感想の延長線上であった批評という分野を作家の生い立ちや育った環境、プライベートまで立ち入り詳しく調べて学問的に批評しようとした人物で「近代評論の父」と呼ばれている。
後にこの考え方は作品と私生活とは全く無関係であると強く批判されている。

 
■2026年6月17日(水)
■びっくら猫道。
■2026年6月18日(木)
■一日一文章トレーニング。

「おそらくナイスユーゴなのだ」

赤紫蘇を入れる手順は6月16日(火)の予定でしたが2日遅れの今朝18日(木)に赤紫蘇を投入する。
赤紫蘇玉は6月13日(土)に仕込み準備しておいたもので5日間も冷蔵庫で保管していた。
冷蔵庫の中には恐らく納豆菌やら何やら菌と我が家の友もいるかもで、多少長い期間冷やし取り置きした赤紫蘇玉は少々心配でもあるものでアルコールスプレーでシュッシュと殺菌する。
いつもは使用する前前日から赤紫蘇を洗浄して一度完全に干して乾燥させてからアク抜きを行うので、今回は乾燥させる工程もすっ飛ばした随分な時短。
さてさて、吉とでるか凶とでるかですが、毎年何かの作業を忘れても1ヶ月間という長熟期間がそれらを帳消しにするようで、それなりの梅干しとなる。
そして、1年も経過すると大抵のことは忘れてしまい毎度梅干しの作り方も異なる。
梅干し作りとは完成すれば全て成功のナイスユーゴなのだ。
今はノートに記載された分散する情報を追いながら試行錯誤して作っていますが、今回の梅の出来具合を見てから一度自分なりにベストな梅干しの作り方をまとめたい。

“かめ”の蓋を開けると落ち着いた梅の甘い香りがほんのりと室内に漂う。
塩漬けする前の最初の梅の実の香りがフルーツなオレンジ色の甘い青春の香りだとすると、今日の梅の香りは落ち着いた白色の大人の香りだ。
特に今日のような雨も降ってジメジメとした鉛色の梅雨空と白い香りとはぴったり。
大人の香りとはこのようなグレーの空に白色や雨に花咲く香りなのかなと、白き透明の白梅酢も一口味見すると大変まろやかでお上品でお味どす。
7月9日(木)に梅干しは完成予定で、その時の梅の香りとは何色のどんな香りかなと思ふ。
梅干し完成後の梅の香りとは記憶からすっぽりと抜け落ちているもので梅酢の香りの予感でもある。
いやいや、ツーンとした唾の出る梅干しの香りかな。
梅干しの出来る工程の香りで人生を語るとはなかなか高度な風流だ。
そして、我が家の伝統では乾燥した梅干しのミイラのような梅となるもので、やっぱり梅干し作りとは人生行路を歩むようなものかな。

ということで、

お・フランス人に梅干しを食べさせて酸っぱさもボンソワールな唇にしたい。
そして、私は今日も少しサント・ブーヴについて書く。
正式には「シャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ」と「=」記号などを使い書くようで全く意味もわからない。
私の耳にはブーブーとブーイングが聞こえてくるもので、ブーイングの由来はブーヴなのかと調べたら、フランス語のブーイングは「huee・イュエ」や「siffler・スィフレ」と難しき発音のようでサント=ブーヴとは関係ないようだ。
サント=ブーヴ評論家は「素晴らしい作品は素晴らしい人間から生まれる」との考えのようで学問的に評論を行う。
その近代批評の手法とは生まれた環境を調べ、家族や親戚を調べ、友人を調べと探偵を雇って素行を調べて主治医や元恋人に近づき私生活を暴く。
そして、毎週のコラムで褒め殺しという名の最後にピリッとした猛毒を吐くスタイルでもあり、多くのアーチストたちに恐れられる。
元々サント・ブーヴがファンであった「レ・ミゼラブル」の作者のユーゴにも近づき親友となりますが、親密にもなりすぎてユーゴの妻と恋愛関係となり友情関係も家庭も潰す。
そして、ユーゴの元妻と別れるとその内容を小説にして出版するというクソ野郎だ。
ユーゴはその後もプライベートな恨みを一切見せずに新しい美しい女優さんとお付き合いしてサント・ブーヴを嫉妬させ、彼がアカデミー・フランセーズの終身会員に選ばれた時には「我がアカデミーにようこそ」と上目線からの祝福に激怒して常々ユーゴとの才能の差の劣等感を感じていたそうな。
私の頭の中には終始「ブーブー」とブーイングが鳴り止まないもので、ただただ、「ナイスユーゴ」な言葉が響く。
恐らく、ナイスの後にはユーゴが付く枕詞なのだ。

 
■2026年6月18日(木)
■エシャロットズ・テイスト ピロピロ~ピロピロ♪