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■2025年3月3日(月)
■一日一文章トレーニング。

「ひなまつりー、久しぶりー、文章を書くー」

昨日・一昨日と早くも夏の日差しに触れる暖かい日でしたが、今日は一転、小雨が振り続く寒い一日。
本日3月3日は桃の節句のひな祭り。

私にとってひな祭りと言えば、大好きなアニメの「ヒナまつり」ですが、幼き頃からお遊戯や音楽の授業でも歌を歌うことが嫌いな私でも、ひな祭りの歌は例外的に元気良く歌っていたものだ。
それは歌いやすい歌詞や親しみやすいメロディーにあるのかもしれない。

あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
今日はたのしい ひなまつり

この歌を聞くと子供の頃の情景や空気感がふつふつと浮かぶ素晴らしい歌だ。
さぞ、古くから伝わる伝統的なお歌なのかと相調べ候。
すると、この歌は比較的に新しい歌でサトウハチローさん(1903-1973)が作った歌と相知れ候。
サトウハチローさんのことは何も知らないのですが、このような口伝的に語り継がれる歌を作ったのがハチローさんという名前にホッコリだ。
何故、佐藤さんはハチローさんと伸びてしまったのでしょうか?
サトウハチローさんは大の野球ファンのようで、野球のイチローさんの名前もサトウハチローさんを意識して作られた名前なのかと妄想してしまう。
ハチロウ、イチロウとなると語尾にズを付けたくなる重厚なロック感はありますが、ハチロー、イチローだと軽やかな親しみさはある。
私も子供の頃は「はーい、わかりましたー、すいませんでしたー」と何でも語尾を伸ばしものだ。
そうすると、「ハイ、わかりました、すいません」と訂正されて怒られる。
これは子どもたちの基本。
そのようなことを考えると語尾伸ばしのネーミングとは結構革新的でもあり、伸ば~すと相手を不快にさせ怒らすかもしれなくて、逆に春の景色のような軽やかさもある表裏一体のギリギリの線を攻めた覚悟のようなものも感じる。
なので、伸ばーしながら話したり、書くことは冒険心の現れかもしれないー。(開発者タイプ)

ひな祭りは上巳(じょうし)と呼ばれる五節句の一つで、陰暦の3月初めの巳の日に祓いの道具として人形を備える行事のこと。
因みに今年は蛇年ですが、巳の日とは毎12日ごとにやって来る日で芸術・勝負事・学問・財運などに関する日でもあるようだ。
しかし、今は新暦の3月3日にひな祭りは固定され、1月7日以外は数字合わせでもある。

1月7日:人日・じんじつ(七草の節句) 7
3月3日:上巳・じょうし(桃の節句)
5月5日:端午・たんご(菖蒲の節句) 5
7月7日:七夕・たなばた(星まつり) 7
9月9日:重陽・ちょうよう(菊の節句)

節句とは辞書によると「節供」と「季(節)」の折り目と「(供)食」の食べ物ということで神と人、人と人を結び付ける予定された日のようだ。
とっても難しい説明で私の理解を超えていますが、立春・立夏・立秋・立冬が季節の変わり目の行事だとすると、節句は季節の食べ物を食べて祝う儀式の解釈でもある。

なので、今日の桃の節句には何か春っぽい甘い季節の食べ物を食してみたい。

ところで、

甘い食べ物ではありませんが、わらわは一昨日からせりと言う名の雑草を育てている。
今日で3日目。
せりとは春の七草の雑草でもあり東京のマンションの一室でせりを育てている人はあんまりいない。
お店で買ったせりを、根っこを残したままカットして水に漬けているだけの、農家の人の再生栽培を見よう見真似で行う。
ネット情報によると1週間ほど水耕栽培してたら鉢に植え替えるようだ。
2本のせりは葉を残してカットして、葉はぐんぐんと伸びて流石の雑草魂を見せてくれます。
3本の葉のない茎は間違ってカットしてしまったせりで、葉が出るまで鉢植えせずに水耕栽培する予定。
今日で3日目ですが立派にせりがセセリ立って来たものだ。
せりはシャキシャキとした食感で日本古来から自生するハーブ系の雑草で茎葉から根っこまで全て食べることが出来る植物。
根っこまで食べるなんて、どのような貧乏性なのかと思われますが、せりは根っこが特に美味しい。
土を完全に洗い落とせないせりの根っこをむしゃむしゃと食べていたらモグラになったような気分でもあり、ある程度の熱が通ってもの歯ごたえが残る野菜とはご馳走なのだ。
そして、なかなか入手困難でもあるので自分で育てる。
上手く育つかな?
観測記録を付けます。

 

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■2025年3月3日(月)
■ペーパースネーク。

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■2025年3月4日(火)
■一日一文章トレーニング。

「お金の価値はうつりけりなり」

ということで、

20年スパンではありますがインフレ率を探れそうな事案を見つける。
それは伊勢神宮の式年遷宮の費用。

伊勢神宮では内宮と外宮の二箇所の聖域があり1300年に渡り20年ごとに宮処を新造し改め、神様を新しいお宮様にお移り頂く神事である。
詳細は知りませんが技術の伝承を供に20年更新で、国産の同じ木材を使用し、同じ人数の宮大工を集め、同じ儀式用の品や食材を揃えて新宮を建てていると思われます。
よって、物価の変化を探るには伊勢神宮式年遷宮の費用の推移は結構、国内物価の上昇率を端的に表している可能性もある。

次の遷宮は2033年で8年後。
ニュースによると本年の2025年から伊勢神宮の遷宮の準備が始まっているようでもあり、物価高によるコスト上昇の懸念もあるようだ。
下記に費用の推移を集めて記載した。
※1953年の遷宮は戦後のGHQの政教分離により国家と宗教が切り離された為に民間の寄付金は7億円となるそうな。
しかし、1949年に5億5000万円で老朽化した橋を直したとの記事や、戦前から準備した素材も使用したとあるので、勝手に合計して12億5000万円で計算した。

2033年 の式年遷宮の費用が高騰しそうな予感です!
2013年 558億円 前回からの上昇率69%
1993年 330億円 前回からの上昇率450%
1973年 60億円 前回からの上昇率79%
1953年 12.5億円※

デフレと言われる時代でも20年間の上昇率は69%あり、高度成長期は450%の物価上昇となる。
経済が成長もしていないのに20年で450%の物価上昇となれば大変な世の中ではありますが、想定とはいろいろあるもので、仮に上昇率が1993年の450%で計算すると2033年の式年遷都の費用は3069億円となる。
東京都庁の建造費が三棟建設で1500億円なので3000億円となるとほぼインフラ設備のようなすごい金額だ。
流石に3000億円は無いとは思いますが、低い上昇率の69%で計算しても943億円で1000億円は確実に超えるというのが識者の考えでもある。
1000億円は都内に大きなビルが建つ規模の金額でもあり、20年で毎年50億を集めようと思うと1日1300万円以上も必要。
1日1300万円とはなかなか凄い金額で、明治神宮の都市計画などもそのような事柄と連動して動いているのかもしれません。
お祭りとは日本人が日本人である為の神事でもある。
なので、お金が余っている人はどんどんと寄付して欲しいものだ。

ところで、

式年遷宮を行うとなれば、昔から犬狩りを行っていた。
犬狩りと言っても流石に犬を殺すのではなく、犬を捕まえて川向うや遠くの場所に犬を放し神聖な伊勢神宮の敷地から犬を遠ざけていたようである。
しかし、犬は帰巣本能があるからなのか戻って来るようで、遠い場所ではぐれたイヌが家までトボトボと歩いて戻ってくる美談は結構ある、それも一つの犬のお伊勢参りの型かもしれない。
個人的には犬とは人間の鏡でもあると思うので人間が歩いてお伊勢参りをすれば犬も真似してお伊勢様に参るものだと思う。
神社にとって、犬や指定された動物とは穢れた存在として扱われて聖域の伊勢神宮の敷地内には入れなかったようで、今でも敷居の高い格式のある神社の境内では犬の侵入は禁止でもある。
伊勢の街には散歩している犬は少ないのでしょうか???
不浄の穢れた存在とは犬だけでなく、肉食をした者、身近に不幸があった者、生死を扱う医者、葬儀を取り扱う者等も伊勢神宮の聖域に入ることは出来なかった。

犬のお伊勢参りとは以前書いたように結構普通にあった出来事のようで、犬が参詣することで神殿を建て替えて浄化する必要が高額な負担となるので、そこで、犬の参拝とは神事として扱うことが神社の解かもしれない。

面白いところでは、鎖国体制を築いた徳川家光公は容姿端麗な神社の娘で尼の「於万の方」を側室と迎え、その於万の方と一緒に江戸城までやって来た従者の「お玉」がその後に家光の側室となり、4代将軍家綱(犬公方)を出産し「桂昌院」となる。
これを後に「玉の輿」というが、そのような母とは神社信仰と繋がった尼の「於万の方」に使える従者でもあった。
家綱の伊勢海老を食べることの禁止、お伊勢参りに向かうかもしれないお犬様たちの適切な管理の生類憐みの令とは愛護活動と言うよりも宗教心から来る原理原則的な思考そのものの可能性は高い。
それは私達が生類憐みの令に感じる動物愛護的な精神とは少し視線が異なる信仰心。
物事を見る目線とは恐れ多くも御殿様であれ、私であっても自身の常識の範囲の偏ったフィルターでしか見ていないものだ。
全く関係ないけれども、犬の侵入を考え、電卓をたたき、式年遷都の費用を計算していたら大きな金額に怖くなる。
どうしましょう神社に参りて神頼みだ。

 

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■2025年3月4日(火)
■納豆フォ~エバ~新時代。

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■2025年3月5日(水)
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「水差し桜の枝から根っこが生えた」

昨日は式年遷宮と式年”遷都”と誤字で勝手に首都移動させてしまいましたが、今考えると石原元東京都知事は立派な人であった。
唐突に何の話しかと思うのですが、とても大切な話でもある。
おそらく、半径数メートルの身近に石原元都知事がいたならば間違いなく嫌悪すると思うのですが、政治家としては有能だと思う。
この失われた30年は国民的には国民負担ばかりの政策ばかりではありますが、いつもゴミを出す時に私なんかは石原元都知事に「ありがとう」と感謝するものだ。
記憶の中で感謝される政治家とはそんなにも多く存在しないと思う。
その理由はプラスチックなどの分別されたゴミが結局同じ釜で燃やされる無駄を知った元都知事が可燃ごみで一緒に集めて燃やせーと、鶴の一声で都民のゴミ出しが非常に楽になったことだ。
国際都市東京という観点から見ても月日は百代の過客にしての埋没感があるもので、その他都知事は残念だけれども石原都知事の足元にも及ばないと思う。
m(_ _)mTwww。

さて、4月から東京(文京区)ではプラスチックごみの分別回収を再び始まるようで、その理由はSDG’Sの(12)作る責任・使う責任、(13)気候変動に具体的な対策、(14)海の豊かさを守ろうで、ゴミの軽量化と温室効果ガスの排出削減でプラスチックリサイクルするようだ。
プラスチックゴミを燃料にするのか?リサイクルにするのか?とどちらの有用性が高いのか?私は知りませんが、トランプさん登場の時代変革期の中で多少の時代錯誤は感じる。
何より、あ~面倒臭い。

ということで、

式年遷宮の20年間の費用高騰を単純に20割り(per/year)した計算をする。

2033年
)?
2013年
)費用の上昇率3.45% per/年
1993年
)費用の上昇率22.5% per/年
1973年
)費用の上昇率3.95% per/年 ※↑
1953年

デフレ時期以外はあまりよくわかりませんが、1993年ー2013年でも、ざっくりと理想らしい3%のインフレ率を叩き出しており草???
このような数字に何かの“ものさし”となるのかはわかりませんが、全く同じ素材で同じものを作り神様の住処を移すということで、そのコスト変動は案外正しい数字を叩き出す可能性もある。

やっぱりかと思えば、商売をしていれば薄々モノの仕入れ値が徐々に上昇していることは誰でも知るところだ。
モノの値段とは売れない、大量在庫を捌きたい、他業者にあわせて値段を下げる、お買い得サービスなどと何か特別な理由がない限り値段は下がらないものだ。
専門家にデフレであると言われれば素直な私はそのように信じるもので、何か上手く言葉に出来ないのですが全てが無茶苦茶な世の中のような気もして、オレの頭がおかしいのか(それはしゃーないなー)、政府の政策の錯誤感も大丈夫なのかと、さっぱりわからなくなるものだ。

そこで、我は近況報告を行う。

私もSSDGS(再生・栽培・de・グレート・挿し木)の実施中!!
昨晩は雪も降りましたが、ホテルの玄関に納品されるような背丈1メートル超えの大迫力な桜の枝を神楽坂のお花屋さんで購入し大切に育てている。
背丈が長いのでジュースの空き瓶に挿す。
部屋に1本だけで挿しているのですが花はキレイに咲き、緑の葉っぱが出てとても美しい。
そして、
根を生やし土に植えて育てようと企んでいたのですが、昨日から急に枝の上や下から白い根がわらわらと出てきた。
植物や生き物を育てるということは自分自身の鏡写しでもあり、桜の枝から根が生えると自分の中の大切な根も育つようでうれしい。
根を出す薬品などをわざわざ買うのが勿体ないので、ネット検索して蜂蜜で根を生やす方法を試す。
丁度、我が家には次から次へと賞味期限の食べ物がごろごろと出てくるもので賞味期限切れの高級マヌカハニーもある。
それを有効活用して桜の枝から根を生やす魂胆だ。
製法は鍋でお湯を沸騰させ蜂蜜を溶かし、常温に冷ましてから購入したばかりの桜の枝にタップリと吸わせる。
最初の一度しか高級蜂蜜を吸わせておりませんが桜の枝は元気モリモリでドーピングされているようだ。
去年の桜の枝からは根っこは生えなかったので、間違いなく蜂蜜は根を生やす効果があったと思う。
我もとてもうれしくなり、昨晩、キレイな水に交換する作業をするもので、桜の枝を瓶の中に戻す時に貴重な根っこを2本折ってしまう。
ショック!!
先程も書いたように、大切に育てるものとは自分自身の鏡写しでもある。
桜の貴重な根っこが2本折れるとなれば、私のハートの根っこも2本折れてズキズキと痛む。
そして、私は胸にひしひしと根っこを折ってしまった後悔を感じながら布団に入り、すぐに寝た。
桜は土に植え替えて大きく育てるで~候!!

 

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■2025年3月5日(水)
■根が出ろ~ONローラスケート。

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■2025年3月6日(木)
■一日一文章トレーニング。

「コーヒー ON ドリップ」

目覚ましに黒くて苦いコーヒーを飲みながら、我はなぜ、このような苦いドリンクを飲むのかと考える。
だからと言って砂糖たっぷりのコーヒーでは少し甘すぎる。
ブラックコーヒーを飲むのは飲みたいから飲むというよりも習慣で、家にコーヒーが無ければ普通にコーヒーの無い生活を過ごしているので、そのような感じの黒くて苦いドリンクだ。

思春期に初めてコーヒー屋に入った時に、コーヒーの種類が多くて何を注文すれば良いのかわからなかったものだ。
我もあれこれ迷いて店員の人を待たせても悪いのでエスプレッソコーヒーを注文する。
そうすると、小さなコーヒーカップにチョロン少ない量のコーヒーの入ったドリンクが出て来て、「本当にそれでいいの?」と会話になる。
「我が飲みたかったのはエスプレッソコーヒーなのだ」アハハと。
そして、コビト用の飲み物をちびちびと飲みながらゲラゲラと笑い話にも花が咲く。
それ以来の学習効果もあり、私はエスプレッソコーヒーを注文しない。
そして、普通にコーヒーを注文するだけでも緊張が走るもので、トールだグランデと呼び方でもドキドキと顔もにやけてカフェは苦手なのだ。
私はカフェ向きな人間ではない。
よって、私は自分自身でコーヒーを入れる。
タプタプと湯を注ぎながら考えると、人生の苦楽とは表裏一体とも言われますが、確かに黒い苦みの裏には笑顔な「楽」も広がっている。
昨日書いたように人は「楽」を与えられると感謝するものではありますが、苦役苦界と日常の「苦」の積み木は毎日積み上がるものである。

「苦も楽も一生は一生」ということわざもある。
これは苦労して暮らすのも一生ですが、楽をして暮らすのも同じ一生なので、どうせ暮らすならば楽をして暮らすのが良いという意のことわざ。
正にその通りで楽な人生とは良いものだ。
ですが、それを実行するとなるとなかなかに大変なこともあり、自分の隣に苦労は他人にも共有経験させたいと考える人がいれば楽とはいかない。
集団行動の中で楽をしてサボっていたならば叩かれてしまう苦なのである。
「苦も楽も一生は一生」とは簡単に言えても実行するのは難しい言葉で、このような言葉こそ広く世の中に広がれば良いものだ。

ところで、

「たのしむ」にもいろんな「たのしむ」があることを発見する。
「楽しい」は「苦」の反対で心に苦しみや心配のない「楽」。
「愉しい」は愉快さの「たのしさ」ですが、「楽」と「愉」の違いは何でしょう???
それ以外にも「たのしい」言葉には「予・よ」、「怡・い」、「娯・ご」、「嬉・き」とマニアックな言葉もある。
私の場合「楽しい・愉しい」の2択でそれ以外は全く使わない。

「予」は予備・予測と備えることですが、心がのびやかにやわらぎ楽しみを与えるという意味の予で、不予(ふよ)と否定になると楽しくないとなる。
怡(い)は怡然(いぜん)と怡(よろこぶ)たのしみ。
娯(ご)は娯楽と気分ゆったりとたのしみ。
嬉(き)は嬉々と遊ぶたのしみのようだ。
「たのしい」の概念には複数の楽しさはあるようだ。

私は苦々しく思いながらコーヒーを注ぐ。
そして、ここに1つのドリップコーヒーから2人分のコーヒーを抽出する秘密のせこい方法を発表する。

1)先ずは普通にカップに不織布のドリップコーヒーを設置し、お湯を注ぎ、1杯分のコーヒーを作る。
2)そして、その使用済みのコーヒーのドリップは隣のカップの上に設置して再利用して、先程抽出したばかりの温かなコーヒーを隣のカップのドリップに注ぐ。
<<<コーヒー ON ドリップ>>>
使用済みのドリップコーヒーに湯を注ぐと薄いコーヒーとなりますが、先ほど入れたコーヒーでドリップすると濃いコーヒーになる。
一つのドリップコーヒーでそれなりに苦々しいコーヒーが2杯抽出できるトリックで、2杯入れてもコーヒー好きで無ければ気にならないコーヒーの苦さだ。
これは正になんちゃってのエスプレッソコーヒーのようでもある!

1つのドリップコーヒーで2つ分のコーヒーを抽出することは、苦苦しくもその裏に笑顔こぼれる「楽」なドリップでもあり、やはり、苦さの裏には楽しさがあるものだ。
ぞなもし。

 

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■2025年3月6日(木)
■トリパンチ=)))

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■2025年3月7日(金)
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「私には好物の草がある~www」

昨晩の晩飯は湯豆腐。
豆腐をさいの目にカットし、「待て!」とごろりっと大きな豆腐がプカリと浮かんで来るまでじっと待つ。
そう言えば、鰹節を入れるのを忘れていた。
用意していたものをうっかりと忘れることは日常だ。
そして、一晩経ってから思い出す。
完璧な事柄とはロボットやAIみたいなものにしか出来なくて、過ちを認め次の糧にするのが大人の特権だ。by フル・フロンタル

濃口の醤油に鰹節とは美味しい組み合わせではありますが、ポン酢で食べてもまー美味しい。
豆腐は白くて柔らかく、すぐにでも崩壊してしまいそうな繊細な食べ物で、鍋に入れる前はまだ固さもあり箸をぶっ刺し入れることも可能ですが、茹で上がった湯豆腐はツルンと滑るので壊さずに箸でお茶碗に取り込むことは難しい。
なので、すくいで取るのですが、湯豆腐専用の針金で編んだすくいが欲しい。
その名前は何と言うかと調べたら、そのまま「湯豆腐すくい」という名前みたい。
味も大豆のみの淡白な感じで醤油やポン酢を食べていると言えばそのような感じの食べ物だ。
豆腐は世界の食べ物の中でもダントツに自己主張が無く、か弱い食品である。

昨日から我の花粉センサーもビンビンに働くもので3月にもなり春の到来も身近に感じる。
鍋料理とは冬の時期にしか暑くて食べられないので、あとこの冬に何回食べられるかなの湯豆腐だ。

1投目の湯豆腐を食べ終わると先日の残りのせりを投入する。
せりは根洗浄し野菜用のビニールに入れていたので、まだピーンと元気だ。
要はせり鍋ではありますが鴨肉も鶏肉も入っていないので、湯豆腐メインの途中からのせり鍋。
先ずはせりの根っこをぐつぐつと煮で2分程を茹でてから食す。
味はシャキシャキとせり特有の歯ごたえがあって美味しい。
湯豆腐の箸休めには最高ですが、元祖の和製ハーブでもあるので自宅で食べるとそれなりにクセは感じる。
仙台の本場で食べるせりの根っこは全くクセを感じないので、仕込み方法に何か特別なことがあるのかもしれない。
それに根っこの泥を完全に落とすのも大変だ。
土を取るにしても限界があるもので多少の土を食べるのも仕方がない。
多分、ミネラルもあるかも?で土を食っても死なない。
それにしても、せりは春の七草の雑草の一つでもあり、その雑草を根っこまで余すことなく全てを食べるとは素晴らしいことだ。
これは私の勝手な分析ではありますが、仙台の牛タンにしても米軍が捨てていた牛の舌を勿体ないので食べたのが始まりで、東北の人たちには捨てられるようなものでも大切にする風土があるのかもしれません。
多分、他の地域だと根はポイと捨てると思うので、食べる発想は無いように思う。
せりは根っこから葉まで熱が通っても野菜にしては珍しくシャキシャキとした食感が大好きな草だ。
ニラでも同じように食べれそうな予感もするのですが、根付きのニラは売られているのを見たことがなので試すことは出来ない。
「私には好きな草がある」とは変な言葉なのですが、犬も庭の変な雑草をむしゃむしゃと食べているもので生き物には多少の草は必要なのだ。草

ということで、

我が家のテーブルには家庭栽培中のせりがありますが、流石にせりの前でせりをしゃぶしゃぶとするには気が引けるので隣の部屋に疎開させる。
そして、培養中のせりにもプロポリスな消費期限切れのマヌカハニーのドーピングを施すもので、今朝もピンピンと元気に育つ。
せりの成長は観察日記もある。
https://www.scos.gr.jp/R070304Kansatsu.html(落書き付き!)
写真では細部まで特徴を記録出来ないので面倒ですが絵で描く。
今週末には鉢植えする予定で、これが上手く成長すれば、「毎日せりのある生活」の我が家の循環するマイウーブンシティーが完成だ!!!

 

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■2025年3月7日(金)
■がんばれ~がんばれ~応援団。

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■2025年3月10日(月)
■一日一文章トレーニング。

「苦しゅうない、いやいや、苦しいのだ」

先日から杉花粉が飛び始めてとても苦しい。
そして、久しぶりのマスク生活も苦しい。
以前からの花粉症でもあるので、毎年のマスク生活には慣れているとは思うのですが、いざマスクを着け始めると呼吸は苦しい。
アベノマスクな時代には外は勿論、家の中でも四六時中マスクをつけていたもので、あの時代は何だか凄かった。
今でも田舎に行くと地元民は十中八九皆マスクをしているもので、よそ者や外国人はマスクをしないのでキレイに色分けされる。
街でも若い人たちは年中マスクをつけて過ごしていても平気なようで、幼き頃からマスクをつける習慣のある・なしでマスク生活の苦痛の差はあるのかもしれない。
それはファションのような自己防衛スタイルなのか、他人を気遣うエチケットなのか、顔をマスクで隠せば本心も隠せるような結構楽なこともあり、酸素を取り込む量が減れば酸化を促す総量も減りそうな予感でもある。
花粉症の到来は毎年肌にヒリヒリと感じてから来るものですが、今年はいきなり鼻水ドカンーという感じでもある。
ただ、我が家には秘伝の鼻の通りを通す自家製の怪しいエキスがあるので、それをひとなめ通れば鼻は通る。
これは舐めたら瞬時に鼻が通るのでとっても不思議ですが、花粉症が治ることはない。
単に鼻詰まりを通すだけの食べ物で、とても、怪しすぎるので人にお裾分けするのも、見せるのも、売り出すことも出来ない。

週末、私はマスクしながら信号待ちをするもので、目がクシュクシュ、鼻もムズムズ、そして、くしゃみも出る。
少し離れた場所に自転車に乗った信号待ちのオジーが一人いて、私は一切の我慢もせずにクシャミをする。
ハクシュン~★ふぇ~☆
我慢しようと思えば、変なくしゃみで止めることは出来ますが、1回大きなくしゃみが出ると鼻のムズムズもスッキリ。
すると、自転車のオジーがスゴイ怖い剣幕で私のことを睨んでくるので、私は病原菌ではないので御免候と思う。
そうなのである、令和7年の今年でもまだパンデミックな時代は完全に終わっていないかもしれなくて、私でも電車の中でゴホゴホと咳をしている奴がいたら嫌なのだ。
モクモクと煙立つすし詰めの駅の喫煙所の中で過ごす苦痛と、全員が花粉症の人が詰まった部屋でムズムズ・クシュンと過ごす苦痛とどちらの苦の二択が良いかと考えてもどちらも体調が悪くなりそうで、信号をてくてくと歩く。

とりあえず、花粉症はとっても苦しい。
先日は「苦も楽も一生は一生」のことわざを書いたものの、花粉症の苦しみは全く不必要な苦しみである。
花粉症の苦しみとは人生の長いスパンの中でも春到来の気持ち良い季節に必ず起こるもので予測可能な苦しみである。
これは突然やって来る不幸や苦しみとは異なり毎年確実にやって来る予告された苦しみだ。
長い人生の中では些細な出来事かもしれませんが、瞬間風速で計ると結構な苦でもあり、瞬間風速が人生に及ぼす影響とは如何様なものかと思う。
その瞬間の今を生きれば人生全体の苦楽は俯瞰できないし、森を見ればこの花粉症の苦しみとは些細な苦でもあり、世の中のどの部分を見るかで変わってくる縮図みたいだ。

ことわざとはずる賢いというかよく出来たもので、1の意見には逆の2の意見も用意されている。
苦楽であれば、「苦も楽も一生は一生」の裏には「苦は楽の種」ということわざもあり、苦を味わうことは後の楽を得るとの考えも存在する。
【注意】これらは私の意見ではなく単なることわざの考え方です。
楽しい旅にも苦楽のようなものはありますが、大変な苦な出来事は後から楽しかった思い出となる可能性はありますが、花粉症の苦しみの先に楽は全く見いだせない。
花粉症のメリットと思っても、春に浮かれて外出を控えることで、私が車や変な人にぶつかる災難から逃れ、室内で楽できるぐらいが関の山。

そして、週末は低気圧病を発症したのか?花粉症の症状に加えて頭もズキズキと痛む。
これはもしかしたら病気かもしれないと家族に話すと、さっそく体温を計測しようとなるものだ。
体温計の温度はド平温!!
「あれっおかしいぞ」と何度も計測しても平温よりも約0.2度位高いぐらいが限界の自称高温の病でガックリ。
我、去年はたぶん使用していなかったように思う加湿器を出してきて空中に浮遊する花粉を落とすことにした。
そして、地元の族車みたく加湿器のタンクをLEDで光らせて格好良くディスプレイして、「R070309花粉症対策で出す」とのシールを貼り記録も残す。
万事万端。
そう言えば、今年の室温計測ではカラカラ乾燥を一度も計測しなかった。
これは結構珍しい現象で、関東平野の冬とは室内もカラカラとなるのが多いもので、去年もカラカラ乾燥は1回しか計測しない珍事でもあったので、部屋の中から広い世界を観測して、はて、気候変動の一端は掴めるのでしょうか。

 

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■2025年3月10日(月)
■やっぱりバッハは最高だ。

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■2025年3月11日(火)
■一日一文章トレーニング。

「我のHPには今風な萌える画像が足りない♪」

それは恐らくビタミン不足みたいなものかもしれない。
よって、
我、考えた~。
そうだ、萌えを大量生産しよう。
て~て~て~て~JR♪

ということで、

最近、初音ミクのような絵を載せようと考えて絵を描くのですが結局上記のような図となる。www
いろんな意味で時代のウェーブにかすりもしなくて草。
萌え要素とはエッセンスとしてあれば良いもので、目を大きく、キラキラと輝かし、やってみたけど結局こんな感じの萌えである。
目鼻口があれば人や生物と判別できるので、記号として考えればどのような画でも良しなのではありますが、萌え要素を入れるとなるとワンランク上の何かが必要だ。
それは何だろうかと、さっそく、「萌え」の意味を調べる。
「萌え」は草へんに明るいと書く、萌芽(ほうが)な新芽の生える様子である。

今、私はSSDGS(再生・栽培・de・グレート・挿し木)を実施中で巨大な桜の枝とセリをグレートに土に挿し木しようと頑張っている。
そして、そのような植物の生育支援をしていると萌芽の奇跡を目にするもので、確かに植物に萌えはあるように思う。
桜の枝は花を咲かすと新緑の美味しそうな葉っぱを生やして萌え、せりは茎の横が割れて新芽が萌芽して萌える。
これはなかなかの萌えだ。
これは正に生命の神秘な萌えをLIVE体感しているようでもあり、せりの萌えをもっと詳しく知りたい方はスコスHPにせりの観察記録を貼っていますので、それを見て下さい。w
そして、豆助は萌えとは本体からせせり出るかわいらしさのエネルギーかもと・・・植物の生育から解釈する。
間違っていたら御免m(_ _)mT候。

長い人生の中で、世間一般に皆が萌えると言われるものを見ても大抵無感情のクソワロタ真顔で、今、我が家で一番萌えているかもと思うものは悪徳警官の制服を着たオカルンの変身バージョン。
これは今ふつふつと萌えている?いや、間違いなく燃え上がるようにも思う。
ビックシャツもこんなにも大きかったら面白くて仕方がないもので、以前、私も手が隠れてしまうような袖の長いジャケットを購入したことがある。
当時、何を血迷ったのか微妙に流行らしきもあったので購入したのですが、着ると十分すぎる程に袖が長すぎてとっても鬱陶しい。
大人の所持が完全に禁止されているビリビリ財布を開け閉めしていると、マジックテープが長い袖にくっついて全然着ていないのに袖がすぐにごわごわとなった苦い思い出。
ジャケットの袖の長さとは適当な程良い長さが良い。
見た目の感じは自分で言うのはアレですが、すごいオシャレなジャケットでこの春も来たくなる一着だ。
おそ松さんの十四松もマッスルマッスルと袖が長かったのですが、正にこのような感じのジャケットで適正な袖の長さにお直ししないと着れない。
あ~着たいなオシャレジャケット。
当然、ポケットもまだ縫われたままの封印状態のグダグダで、そのようなフィギュアを見ていたら、とりあえず萌えている自分に気づく。
これはもしかして萌えですか???
我、血走った目をぐっと見を見開き、横目でぐぐぐっとオカルン悪徳警官バージョンの袖が長すぎるジャケットを見る。
そうすると、目のまわりにキラキラと星がまわる。
いやはや、目のまわりに星が回る表現とは何十年ぶりのことでしょう~。
確かに子供の頃は良くくるくると目の周りに星を回していたものですが、大人になってからは目の周りのキラキラ星を見ない。
さっそく、賢いAI先生にこの星の名前を聞くとこの現象を「閃輝暗点・せんきあんてん」と言うようだ\(>_<)/
北斗3000年の奥義みたいなネーミングではありますが20秒後にはすっかりと忘れているようなアスタキサンチンみたいでもある~。
そして、まだアスタキサンチンを覚えているのにビックリだ~!!
その仕組は脳内でセロトニンが増えると血管が収縮し、一時的に血流が減少して、脳の視覚細胞に異常をきたすようだ。
これはオカルンの内面から溢れる萌えを感じて異常をきたしたのかもしれない。
萌えとは我には少々刺激が強すぎるキラキラ星かもしれない。
ぞな~しもじも~。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月11日(火)
■イベントにフィギュアを買いに来たら、初めて観るラブライブのライブが始まり驚く犬。
■2025年3月12日(水)
■一日一文章トレーニング。

「令和7年・2025年の我が家のビックリ宝物展」

資料箱とはたくさん積み上がるもので、そのような箱の中には萌え画の一つや二つはあるかもしれない。
金塊ザクザクの宝箱とは世の中の定番ですが、落書きや制作物、原画など入った資料系の宝箱ももなかなかに興味深い。
過去への箱を開封するということは竜宮城帰りのようでもあり、過去へのタイムスリップ感もある。
実際に過去の制作物を眺めていると面白いもので、逆にインスピレーションを得ることもある。
なので、それは温故知新と未来への萌芽を予感させる萌えかもしれなくて、自分が自分自身に影響されるとは何か変な感じでもある。
過去の自分の資料とは今の自分自身に影響を残し、別の言葉で言うとサステナブルな循環型の漬物石な感じでもある。

過去の発案→過去の資料として箱に封印→長い月日→箱を開封→過去の資料にインスピレーションを得る→過去の資料とて箱に封印→長い月日→箱を開封→過去の資料にインスピレーションを得る→

とアイデアとは∞の繋がりの数珠続きでもある。

そもそも、萌えの定義が根本的に間違っていると言われて、それもそうだと思う。
しかし、私でも昔は今の数倍もっと萌えていたかもしれない。
昔の私は悪徳警官の制服を着たオカルンに萌えるかな~と考えれば、いやいや、ど真ん中のド直球で萌える。
しかし、見るもの何でもかわいいかわいいと言う心が通わぬかわいい発言であっても、身の回りの全てや、おじいちゃん、おばあちゃんでも何でもかわいいかわいいとなっていたものだ。

そう言えば、先日、風が強い日にバスに乗りましたが、かわいいおばあちゃんも乗ってきた。
このおばあちゃんが萌えなのか?どうか?わかりませんが、私はその姿を後ろから眺めながら十二分にかわいく思った。
そのおばあちゃんは途中の停留所から乗車してきて、後ろの知らないおばあちゃんに「美容院でカットしてもらったばかりなのに風が強くてボサボサになった~」と世間話をしていた。
先ず自己紹介として自分の失敗談をするところがかわいい。
そして、確かにおばあちゃんの頭は猛烈に爆発しており~かわいい。
かわいいおばあちゃんは独特の服装の袖のないノースリーブのアウターを着ていることも多い。
停留所でバスの扉が開く度に運転手に向かい「さぶいさぶい」アピールをしていているのもかわいくて面白い。
運転手さんもその圧に答えて無闇に扉を開けなくなっていてかわいい。
袖のないノースリーブのアウターって何かかわいいよねと思うのですが、袖のない服って何か変だ。
都内では全く見ないのですが田舎に行くとノースリーブアウターを着たかわいいおばあちゃんはたくさんいる。
これは結構田舎あるあるだと思う。
袖が暖かくないとは機能的ではないのかもしれませんが、腕がないと活動的に動ける機能性があるのかもしれない。
来年の冬はノースリーブのダウンなどでも買うか?と今から狙っているのですが、このかわいさとは萌えであろうか?萌えでは無かろうか?これな難問だ。

そのような、かわいさを探しながら資料箱の中を漁る。
すると、昔、観たラブライブの日記の絵が出てくる。
「キョトン」とまわりに圧倒される初めてのラブライブな当時の記憶が鮮明に蘇るもので、絵日記として描いて残していて正解だった。
筆の使いが適当で良い。
ラブライブの声優さんたちの絵も適当な画で良い。
勿論、ラブライブは一度も観たことがないもので、いきなりLOVE・LIVE体験がこれの僥倖。
これは初めてのガンプラがミオリアやスレッタみたいなロボットではなく、人間を作ってしまう萌えに近いかもしれない。
イベントにはフィギュアを買いに向かったのですが、欲しかったフィギュアは瞬殺で売れており「誰が買えるのか」とぶーたれながら、知らないイベントに並んだのである。

今は完全なデジタル作業となり手描き原画0のデジタル作業で済ますことも多い。
ですが、このように紙に残らない資料も勿体ないので、第1投目ぐらいは手描きのアナログ資料を保管しておくのも良いかもしれない。

とりあえず、箱の中身を出してガサゴソ。

宝物箱の中には小さな手紙も入っており先ずはそれを手に取る。
「どれどれと」どのようなラブレターが入っているかもドキドキするもので、一人で開封している訳ではないので、ヤバいお手紙が出てきたら恥ずかしい。
手渡しサイズの手紙を開けると小さく折り畳まれた手紙が一枚入っており、それをそーっと取り出す。
ドキドキ。
小さな手渡しサイズの手紙とは手渡しされると何かドキドキとするもので、我に渡されるお手紙かと思ったら隣のAに渡して欲しいというあのサイズの手紙である。
そして、そのような紙をそーっと開くとテキトーな一人の男が描かれていた。
???
そして、もう一枚開くと首が伸びた!
何コレ?
首はろくろく首の首みたいに伸びた!
紙のカットの仕方も適当で、宝箱の中にはこのような変わった面白いものがイッパイ詰まっている。

資料箱の宝物とはどの宝も自称一級品で、いつの日にか奈良正倉院の蔵が開封されたスキに宝物庫に納品したい。
前にも書きましたが、一度でも正倉院の中に入ったものとは例えホコリやゴミでも大切に保管されて宝物として保管されるようで、このろくろく首の男の手紙は正倉院行きと宛名を書こう。
伊勢神宮の境内に侵入する機会を狙う穢れた犬のように。
この首長男の手紙も正倉院の蔵の中に入ろうと狙うホラー話なのである。
ぞなもし。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月12日(水)
■豆時間♪