*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年10月1日(水)
■一日一文章トレーニング。

「わざわざ 拾ってきたものを庭に捨てる行為がとても不思議」

拾った時にはなかなかな良いものを拾ったと思っても、家に持ち帰るとイマイチと思うことは多々ある。
そもそも拾い物のほとんどは植物の種や綺麗な石ころ、鳥の羽根だったりして、ほとんどはゴミ。
いやいや、世の中の価値観から言うと全てゴミかもしれないが、やっぱり拾いたいモノである。
良いゴミと悪いゴミの違いもあるもので、悪いゴミな場合にはポイと庭に捨ててしまい自然に還すエコロジストでもある。w

ただし、「捨てる神あれば拾う神あり」かもで、美味しかった文旦(ぶんたん)の種を捨てずに土植えしたならば、今や新芽が生えて60センチの若木として成長している。
捨てずに拾いあげることにはとても良いこともある。
この夏の暑い太陽とイッパイのCO2でぐんぐんと成長し、春の10センチぐらいの大きさから6倍ぐらいにバカでかく成長している。

種を土に植えたとしても、ほとんどは新芽が生えないもので運良く新芽が生えたとしても最初は雑草が種から芽が出たものか素人にはわからない。
大きく成長してきた時点で、おまえさんは文旦さんなのか?と画像検索の力でやっと判別できる種植えだ。
この文旦はとても甘く美味しかったもので、また食べたいと思った果物なのですが、江戸暮らしのスーパーでは再びこの味に出会える確率はほぼゼロな一期一会でもあるので、美味しかった果実の種は土に植えて再びの再会を願うのである。

実が美味しければ、新芽も同じように美味しいかもしれない呆則もあるかもで、この文旦の葉っぱだけを齧る奴がおる。
朝に水を撒き、次の朝見ると葉っぱが齧られており、その葉っぱに小さなイモムシがいる。
ギャーこわい。
白と濃いグレーのイモムシは葉をむしゃむしゃと食べており、さっそくティッシュペーパーで摘んで潰す。
他の葉っぱもよく見ると小さなイモムシも数匹いて全部潰す。
私は小鳥なのである。
チュンチュンと念仏しながらイモムシを摘み文旦の若木を害虫の攻撃から守った。
このイモムシも検索するとアゲハチョウの幼虫のようで、それ以来、毎朝イモムシが発生しないかとチェックするもので、そうすると時々新葉が成長するタイミングで葉が齧られているのを発見する。
よく見ると葉っぱに黄色い小さな卵がくっついているもので、ギャーこわいと、蝶はストローな口であると思うので、葉っぱを齧るような歯があったけー???と思うのだ。
ざわざわと 新葉が何者かに齧られる不思議。
とりあえず、その卵はティッシュで拭き取ろうと思うのですが強粘着で葉に付着しているので簡単には取れない。
面倒なのでピンセットで卵をプチッと潰す。
卵を見つけてはブチッと潰し、葉っぱを裏返せばそこにも黄色い卵を見つけてプチリと潰す。
蝶は全方位のあちこちに4粒程の卵を産み、このような卵事件がこの夏3回ぐらいあった。
そして、木は上から新葉が生えて成長するのですが、その卵を生む場所は上部の新芽ばかりで下の方にあるベテランな葉っぱには卵を産まない。
蝶にも赤ちゃんに柔らかくて美味しい新葉を食べさせてあげたいと思う親心な知恵があるのかもしれない。
しかし、私という小鳥に見つかり全ては元の木阿弥でペシペシと潰される卵で合掌だ。

文旦の葉はところどころ齧られていますが今日も元気に青々と育ち、数年後に美味しい果実をつけてくれるのでしょうか。
これこそが「捨てる神あれば拾う神」である。

ところで、

「拾う」と「捨てる」とは良く似た漢字でもある。
「拾う」は手へんに「合う」と書いて拾い物と出会った瞬間を表現するもので、「捨てる」は手へんに舎宅の「舎」と書いて家で「捨」する感じでもある。
これは正にそのへんで拾い、家でやっぱいらないと捨てるマイ生活を体現するようで、どうやら、捨てるとは路上で気軽にポイッと捨てるような漢字ではなく、家で吟味、使用されてから捨てられる物語が読める。
「舎」と言えば、舎人(とねり)線が有名ですが、これは天皇や貴族に仕える人のことで、または、護衛や牛車や馬の世話をする人も舎人と言うようで、また、舎利(しゃり)と釈迦な遺骨の仏舎利や、火葬で残った遺骨のこと、米粒のことも銀舎利と言う。
「舎」は屋敷のことでありながら、どこかいつも一緒で高貴で尊いものであるとも読めるもので、捨てるという言葉には物に対する感謝な祈りが込められているような特別な「舎」であるように思う。
断捨離と物が溢れる物質文明に慣れてしまった私達はぽいぽいとモノを捨てるものではありますが、私は鳥の羽根や石ころ、植物の種と本物のゴミを拾いながら、拾い・捨てる日本語に込められた本来の意味な側面を見たような気がする。
拾う時には「出合い」があり、捨てる時には温かな気持ちを込めた「舎」な捨てる心持ちである。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年10月1日(水)
■10月だー。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年10月2日(木)
■一日一文章トレーニング。

「ポイ捨されたゴミは誰かが片付けているからキレイなのだ」

路面店を運営していた随分前のこと、目の前の路上にタバコの吸い殻やマクドナルドの食べカスが毎日ポイポイと捨てられていた。
大通りから1本入った道でもあるので、衆人環視的な人の目も無くなりゴミは捨てやすい環境にあるかもしれない。
海外だと堂々と表面で起こるようなことが日本では影の見えない部分で起こることはよくあることで、これこそ日本人気質を垣間見るようで、中心よりも隅っこに宿る偏差のようでもある。

道路に捨てられるゴミのほとんどはこれら二大巨頭であったものの、時折、飲みかけのドリンクが中身の入ったまま置かれたり、または、空き缶を灰皿にしたタバコ入りのコーヒーブレンドもある。
タバコの火を消す為の水分とは必需品ですが、こんなにも丁寧に放置するのであれば中身のドリンクは排水溝に流して欲しい。
そして、誰が食べたのか、吸ったのかわからない気持ち悪いゴミを毎日掃除することは苦痛でもあり、そのようなゴミはもう知らんと放置する。
すると、ゴミはゴミを呼びさらにゴミは溜まるのである。
なので、ゴミは小まめに見つけては拾うに限る窓割れ理論のようであり、なぜ他所のビジネスの残骸を関係のない私が無料奉仕で掃除しないといけないのかと不機嫌になる。
そのような掃除をしていると目の前でゴミやタバコをポイポイと捨てる人も一定数いてムッとなる。
このような路上ゴミの何が嫌かと言うと、集めたゴミがとても臭い。
特にタバコの吸い殻の臭いが一級品で、ゴミ収集の日まで保管もしないといけないし、袋を開封する度に鼻がもげそうな強烈な匂いを放つで、外の見えないところに保管していた。

そして、

通り道でも粗大ごみや様々なゴミが投棄される2箇所のゴミの溜まり場はあった。
現在それらの場所はキレイになっているものの、通りすがりの私は道を掃いていたこともあって、そのような場所が気になる。

一つは大通りから1本入ったひと気のない道に面した集合住宅のゴミ捨て場。
投棄ゴミが溜まるゴミ置き場を違う場所に移し、そこに自転車置き場を作って自転車出し入れの導線を作ることでゴミは放置されなくなったようである。
通り道にはゴミを捨てにくい日本人的な感覚はあるのかもしれない。

もう一つのゴミは大通りの歩道上にあり、ゴミ収集日でなくともいつでもゴミが放置されている状態。
こちらの道はキレイに整備することで放置ゴミも無くなったようだ。
一度、ゴミを捨てている人を見たことがありますが、真っ昼間におばあさんがわざわざ自転車に乗ってやって来てカゴからポイポイとゴミ捨てていたので近所の人ではないようだ。
そして、そのようなキレイになった場所でも、時折、放置ゴミは捨てられているもので、風の回りというかゴミが溜まりやすく投棄されやすい場所とはあるのかもしれない。

外国人がゴミ箱もないのに日本の道路が清潔な話の動画を観る。
それは恐らく日本人のモラルの高さの文脈で編集されていますがゴミをポイポイと捨てる人は確実に存在する。
また、ゴミ拾いをする人がいるから道が綺麗に保たれているのが現実でもあると思う。
そして、街中にゴミ箱がないのは要人が来日した時にゴミ箱に危険物を仕掛ける危ない奴がいるからでもあり、封鎖の手間もかかるからか徐々にゴミ箱も街から消えてなくなったような気もする。

何より日本の社会と言えば規制である。
規制とは世の中にたくさんはびこるもので、これも困った人達がロビー活動した結果の規制かもしれない。
規制の多さはモラルの問題なのか、法の隙間を行動する人が多いのか規制も増えるばかり。
一方でわざわざ利権を作る為のような規制もあり、本当に必要な規制もある、一概にモラルの低さと規制の多さとの間に関係性アリとも言えませんが、日本人のモラルとは何かと問えば、前述のようにメイン通りな中心よりも隅っこの見えにくい部分に本質はありそうで、答えとはなかなか難しいものだ。
因みに、私は規制緩和により自治を国民の手に取り戻したい方である。

「捨てる」という文字がなぜ手へんに「舎・家」なのか不思議なもので、結局、あれこれと調べて「やすみ・やどり・放置する」と解釈する。
そして、困っている人に寄付をすることを「喜捨・きしゃ」とも言うようで、喜んで捨てるみたいな寄付もちょっと変だ。
昔は人様や自然が作り出したモノは有り難く最後まで使い切り、ゴミの概念もなかったのかもしれない。
今の捨てる感覚と昔の捨てる感覚では相違もあるようで、どうやら、自分がどっぷりと捨てる程の消費社会に何の疑いもなく浸っていることにも気付かされる。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年10月2日(木)
■四角い。
■2025年10月3日(金)
■一日一文章トレーニング。

「モラルとはなんぞや」

まだまだ暑くなる時はありますが最近クーラーはつけていない。
なので、そろそろフィルターをお掃除して完全にエアコン終いかなとも思う。
その時はいつか・・・10月も5日ぐらい?が語呂が良い。
今週末はエアコンをキレイに洗浄しエアコン生活ともおさらばだ。
涼しくなれば扇風機1台で涼をとることになりますが、また再び、扇風機の弱中ボタンの同時押しで壊れてしまう。
さっそく、スイッチのON・OFF効かない電化製品はコンセントを抜き修理分解じゃー。
ドライバーでパーツを外し、扇風機の防護?ガード?な部品を外し、羽根も取り外して、それらはお風呂場で洗浄する。
先日壊して分解したばかりであるので、まだまだ汚れも溜まらないキレイなサーキュレーターである。
壊れたコンセントの部分をドライバーでガチャガチャと触ると、弱中の押しボタンは不動のままに埋もれている。
前回はひっかかり部分に圧を加えればカチッと外れたような気もするもので、今回も同じようにするが外れない。
仕方がないのでペンチでボタンを引っ張ったならばカチッと外れて修理完了。
いつもの修理は理由はわからないけれども直るもので、何が問題かと言うと2つボタンを同時に押すことが問題なのである。
我が工業デザイナーであるとするならば押しボタンのサイズを2倍の大きさに変更する。
修理のポイントは適当にガチャガチャと触っていれば直るシンプルさで、先日のニュースでもウクライナ軍がドイツから提供される最新の戦車がメンテナンス出来なくて四苦八苦との記事もあったが、機械音痴な私でもガチャガチャとイジって直る機械とは正に神機で間違いなし。
壊れる度に「もうそろそろ捨て時かー」と脳裏をかすめますが、今回もまた元気に回っていてとてもかわいい奴だ。

そして、

気安くものを捨てぬモラルな扇風機ということで「モラルとはなんぞや」である。

私のモラルとは何かと考えれば、人や動物を無闇に傷つけないと思いつくものの「あなたのモラルは何ですか」と聞かれれば即答できる人はあまりいないように思う。
それだけ今の時代はモラルよりもルールかもで、モラルとは何かと思えば宗教観や昔話に存在するものである。
スズメの舌を切らない動物愛護のお話や、欲深くならないこと、池に落とした斧は金銀でないことを正直に申告し嘘をつかないこと大切さを説き、盗人は必ず地獄に堕ちるような、そんな道徳観なストーリーである。
そして、昔話的な道徳感に立ち返った時にあなたは常に胸を張った大人になれるかと問われると渋い顔だ。

しばしば、私達が持ち出すような正義とはモラルというよりもルール寄りの社会正義のこと。
「モラル」とは個人の良心価値観に基づく善悪の判断基準で罰則のない自身の業のようなもの。
一方で「ルール」とは社会規則としての組織や団体の決まり事として善悪を明文化する人が人を裁く規律のこと。
「倫理と規則」どちらが大切かと考えてもどちらも大切なように思うもので、これらは天秤のようにバランスを保ちたいものだ。
しかし、実際の世の中とは個人的な道徳よりも社会的の規律に重きを置くもので、それが規制の多き社会となり、モラルが低いと言われる所以でもある。
何が何だとは具体的に書けませんが、話題のニュースを「モラルかルールなのか」を当てはめると、ほぼ全ての出来事は社会のルールな話に帰依する。
道徳的なものとは宗教的なことでもあり、今の日本では人の道徳観に訴えるというのはなかなかに難しき事柄かもしれない。
だからこそ、神話や昔話が持つ道徳観とは大切なのかもしれないものであり、今こそもう一度「日本昔ばなし」を見直す必要性を感じている。
規準、規制、規則、規定、規範、規約、「規」なルールに重きを置くことでルールは守りますが、「そこにモラル(愛)はあるんかい」と女将さんは言っているのである。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年10月3日(金)
■三角になったー。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年10月6日(月)
■一日一文章トレーニング。

「時間軸に住まう蜘蛛」

昨日、予定通りに「2025年10月5日(日)クーラー終いの儀」を滞りなく執り行う。
フィルターを外し、お風呂場でフィルターを洗い流すと真っ黒いホコリや汚れが溢れ出る。
そのような汚い廃液を全部綺麗に洗い流してもまだまだ終わらないフィルター洗浄で、次はオレンジ洗剤を使って表面をゴシゴシと磨き汚れを落とす。
すると、フィルターの本当の色の白さを知るもので室内の空気の汚れを知る。
これだけフィルターも白ければ、次にエアコンを使用する時にはキレイで美しい風が流れるであろう。
ついでにお風呂のバスタブもピカピカの一石二鳥で完璧だ。

いやいや、完璧ではない。

最近、エアコンを使用していなかったもので今日こそはエアコンを洗い完全に終わらせる時期が来たと思って洗浄した。
しかし、昨晩はエアコンをONしたいぐらいに蒸し暑い夜でもあり、せっかく洗ったクーラーを再び起動させようかとも考えたが、何だか気が引けて我慢してアイス枕を抱えて寝る。
蒸し蒸しと暑苦しいお風呂上がりの室温は26.9℃・湿度71%、体感温度は29℃の蒸し上がる秋の夜。
因みに、去年の猛暑の記録でも10月5日にエアコンを終了させていたようで、猛暑の夏は大体この時期に夏を終わらせているようだ。
しかし、今日もまだまだ暑さは続きそなエンドレスサマーで、今年の夏は10月5日ぐらいまでは暑いという過去記録からの予想は大体当たっていたようだ。

このようなクーラーもつけずに窓全開の日々となれば、どこからともなく蜘蛛が部屋の中に現れ出る季節でもある。
5月のハエと書いて五月蝿い(うるさい)と書きますが、それに対抗し私は勝手にその10月の蜘蛛のことを「十月蜘蛛り・くもり(めざわり)」と命名する。
これは今思いついたもので、来月には確実に忘れている文章の余白。
実際に蜘蛛の季語は10月のようであり、ハローウィンと言えば蜘蛛である理由にも納得。
実家に生息する手足の長いびっくらと驚くような大きな蜘蛛と異なり、東京の蜘蛛は随分小ぶりで怖くない。
最初は蜘蛛の子供だと思っていたのですが一向に大きくならないもので、蜘蛛にも様々の種類がいると学ぶ東京生活でもある。
蜘蛛はハエ程にぶんぶんと飛ぶ五月蝿さはありませんが、壁をてけてけと歩けばかなり目障り。
夜蜘蛛退治は断念して見逃すものの、明るい内の蜘蛛は掃除機で吸い取って一件落着である。
昔話によると地獄に落ちた悪人にも1匹の蜘蛛を助ける善行があったようで、蜘蛛は天から1本の蜘蛛の糸を垂らし悪人を地獄から引き上げようと試みる有名なお話もある。
私の場合、「私は鳥である」と言い聞かせて、捕食者気分で害虫駆除を行っているのでノーカウントだ。

そして、壁時計を見ると時計に小さな蜘蛛が一匹いた。

私はいつものような無駄のないスムーズな動きで掃除機を走り取りに行き「ズズズー」と迷いなく蜘蛛も吸い取る。
しかし、「あれっ?」なのだ、蜘蛛は吸えない。
蜘蛛は時計の中にいるようで、ほぼ密閉状態のS字フックで引っ掛け穴から時計内部に侵入したようだ。
こうなれば仕方がないので夜蜘蛛の扱いで放置するしかない。

壁掛け時計を壁に掛けようとすれば壁に穴を開ける必要がありますが、我が家ではカーテンの引っ掛け具にS字フックで壁掛け時計を掛ける。
壁掛け時計と言ってもとても軽量だしカーテンのフックも余っており、窓側にぶらぶらとぶら下がる丁度良い壁掛け時計でもある。
【注意】落下したりしないように上手に固定する必要あり。

そして、再び時計の中に囚われた小さな蜘蛛も見ると時計内にもういないもので、あれは幻であったかと凝視すると時間軸の隙間に入った蜘蛛を見つける。
時間軸に住まう蜘蛛とは何かカッコ良きかな蜘蛛也。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年10月6日(月)
■これは1本300万円ぐらいしそうな高級時計だ。
■2025年10月7日(火)
■一日一文章トレーニング。

「チクタクチクタクと時計は時を刻み」

今朝は布団に包まれたチャシュー肉のように目覚める。
夢はゲレンデ滑り楽しむもので「さぁ白銀の山頂の超難易度コースに向かうのだ」と意気揚々とロープウェイに乗ろうとしたならば、肝心のスキー板がなくて夢の中でも探し物をしている。
オレのスキー板は何処に?
夢の中の時間とはチクタクと進み、我が家の壁掛け時計もコチコチとしない秒針で時を刻む。
そして、
「あーあー」時間軸に住まう蜘蛛よ、どこに行ってしまったのかとなるもので、密閉された時計の中の時間軸に住まう蜘蛛はもうどこにもいない。
あの時間軸に囚われた蜘蛛とは今思えば夢のことのようにも思うもので、いやいや、現実に家族に時間軸に住む蜘蛛を紹介して朝から何をメルヘン話を言っているのかとなるもので、あれは確かに夢ではない。
なぜ、証拠写真を撮らなかったのか悔やむ。

今を生きた蜘蛛は時間軸の時空を飛び去ったのであろうか。
時計の時間軸に時空の扉があることは盲点で、現在時間を示す時間軸からどの辺りの次元のタイムホールに落ちるのかと考えてもよくもわからないもので、落ちるならば今から今の並行世界に転生する蜘蛛物語かもしれない。w

そう言えば、先日異次元転生したかと思われる紛失した掃除機の部品は掃除機置き場から見つかるもので、失くした時に何度も調べて見つからなかった場所から今頃ひょっこりと見つかる不思議である。w

そして、蜘蛛は掃除機によって吸われてしまったのかもしれないもので、やっと時間という密閉空間から逃げ出したと思えば、そこに待つのは蜘蛛の糸にもかからない掃除機なブラックホールで蜘蛛を吸い込む危ない奴だ。w
時間軸に一時の住まいを得た蜘蛛は掃除機によって吸い込まれる一生を終えるもので、どちらにしても一難去ってまた一難の良き蜘蛛物語である。

「蜘蛛」の漢字は「虫+知る=蜘」と書いて蜘蛛のことで、「虫+朱い=蛛」で蜘蛛の意となり、両方の同じ意味の蜘と蛛が合体して蜘蛛となる不思議。
今の日本語は何度も同じことを繰り返すことを忌み嫌うもので、何でも時短な世の中でもあるので、もはや蜘蛛は蜘か蛛の1文字に統一せよと言う人もいるかもしれませんが、やっぱり蜘蛛は蜘蛛がしっくりだ。
ただ、この数日間「蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛」と蜘蛛のことばかり言っていたもので、蜘蛛という難しい漢字を書けるようになったことだけは良いことである。

ということで、

涼しくなると「これがハロウィン 楽しいハロウィン」である。
ハロウィン仮装の経験は未経験ですが、毎年ハロウィンな飾りを家に飾るものであり、大体はギャビーギャビー人形を使ってハロウィン仮装をしている。
去年の黒いマントに今年は伯爵の朱~い大きな襟をつけたもので、それだけで何かグッとくるドラキュラ感。
手には手作りのカボチャのハローウィンバックを持たせて残る難題は頭なのだ。
頭の仮装は何たるか、ドラキュラっぽい角やボンボンでも付けようかと思っているのですが、上手に作れるのかな。
あとはギャビギャビさんの隣に蜘蛛に扮したアルパカさんを飾ろうと思っている。
これで我が家の10月31日(金)のハロウィンの飾りは完成するもので、時計に時間軸に住まう蜘蛛が戻ってきたならば全ての物語は完成する。w

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年10月7日(火)
■横にゃー線。

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■2025年10月8日(水)
■一日一文章トレーニング。

「お茶は熱い冷たいに限るものだ」

朝起きると数日前からクンクンと何か感じる金木犀の香り。
毎度思うのですが金木犀はどこに生えているのであろうか?と思うもので、気持ち良く風吹けばしっかりと室内まで香る金木犀の爽やかさ。

私は毎朝植物たちにたっぷりの水で水分補給を行うもので、人間様にはやかんにたっぷり水を入れてお茶作りをする。
お茶の消費サイクルとは早いもので2~3日ごとに大きなやかんでお茶を作りしないと間に合わない。
お茶の味とは何たるかと考えても私の文章力では表現できないもので、水臭き白湯が茶葉をくぐるだけでごくごくと飲める飲み物だ。
これは味を楽しむというよりも香りや清涼感を感じる飲み物とも言える。
このお茶のストックを切らすとなればジュースなどで喉を潤すこととなるので、毎日切らさないようにお茶作りに励む。

海外旅行するとこのような無糖の飲み物はない。
知らないだけかもしれませんがジュースを飲んで日々の水分を補給していると、最初は良いのですがどんどん甘い飲み物もしんどくなり無糖のドリンクを探して三千里。
緑茶のような飲み物を購入すると甘い砂糖入りの緑茶で、結局2Lのミネラルウォーターを飲んで喉を潤す。
食べ物の量も多いこともありますが、外国人の肥満の原因は毎日の水分補給する糖分ウェイトが大きいような予感。
人間の体の60~65%は水分で出来ているようで、フランス人ならばオレの体はワインで出来ていると言うように、日本人の体はお茶で出来ていると言っても過言ではない。
そして、私達とはお茶のような香りや清涼感を感じるタイプの日本茶文化圏に住まう人々であるとも言える。
たぶん

大きなやかんにたっぷりの水を入れて、コンロに火をかけて沸騰させる。
私は貧乏性でもあるので1回のお茶作りはできるだけ多くのお茶を作りたい。
なので、お水は「これでもかー」とギリギリ満タンまで入れるもので、蓋を完全に閉めると湯が吹き出るのでフタは少し解放させながら沸騰させる。
そして、ぐつぐつ、ガタガタと湯が湧くと1)麦茶、2)緑茶、3)ほうじ茶とブレンドした茶葉を投入して30分待つ。
このブレンド茶の割合は適当だ。
その時のお茶在庫に合わせて混ぜて作られるお茶でもあり、1つのお茶だけでお茶を作るよりもあれこれと混ぜて作った方が確信はありませんが美味しい気がする。
麦茶をベースとしたならば、緑茶の清涼感を加え、ほうじ茶の濃さでお茶の濃度を上げる感じである。
お茶の煮出す30分も自分の中で勝手に30分と決めたもの。
だがしかし、30分経ったかなと思うと45分や1時間と時間が経過していることもザラであり、お茶作りのおもりもなかなかに大変なのだ。
そして、お茶を常温まで冷ましてから冷蔵庫の中で冷やし、お茶在庫を溜める。
飲むお茶はガラス製ポッドに氷を入れてキンキンに冷えたお茶として飲むことが一番美味しい。

出来立ての温かいお茶を飲むとホッする。
氷で冷えた冷たいお茶をゴクゴク飲めば生き返る。

熱いお茶は香り立ち美味しいもので、氷入りのガラスポッドで冷えたお茶もまた美味しい。
一番美味しくないかもしれないお茶とは中間のぬるくなり常温となったお茶で、冷蔵庫に入らなかったお茶は冷蔵庫の冷えたお茶が減るまでやかんに入ったまま常温保存される。
このぬるくなったお茶は飲んでもあまり美味しく感じないもので、やっぱりお茶は冷やすなり温めたりした方が美味しいものだ。
完全な個人の味覚ですが。

人とは迷ったら平均や中間値を選びがちですが、お茶に関しては熱いか冷たいに限るもので、おそらく、味覚の温度とは刺激とも言い換えることも出来る。
なので、はっきりとした甘さ辛さのない無糖ドリンクもこの理論だと美味しい飲み物だと言える。
この「中間値は案外美味しくないかも」の呆則は他にも応用できそうな予感である。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年10月8日(水)
■お茶パック。

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■2025年10月9日(木)
■一日一文章トレーニング。

「街は世の中を写す鏡かな」

昨日、都会のビル街のド真ん中を歩んでいると周辺にもくもくと煙が立ちビルの工事だ。
私は息を止めてその埃っぽい通りを通り過ぎようとするもので、途中で息が切れてゴホゴホと煙たい。
大抵の工事の煙とは我の肺活量であれば息を止めて通り過ぎることは出来るものの、煙の範囲が広すぎると無理。
工事現場は通りから1本奥に入った場所にあるようでよく見えない工事の煙である。
1箇所だけならまだ偶然かと思うのですが移動する距離の中で3箇所もあって少し気になる。
工事の煙が周辺地域にはみ出すような事柄は苦情案件でもあり、草々に無かったような気もする。
そう言えば、あちこちの都市開発は建築費の高騰でストップしているニュースも聞くもので、それだけ物価や人件費の高騰や外国人労働者の問題も話題となるもので、コストに合わない現場仕事は時間をかけて丁寧にやる感じでは無くなってきているのかもしれない。

流石に今やデフレな人は流石にいないと思うのですが、私の体感からすると世の中はますます進むインフレーションである。
お茶が私達日本人の体を形作るならば、同じく体を作る米は4000円台で高止まりして財布は痛い。
私は次なる生活防衛の為に経済の教科書を開くもので、インフレーションとは物価水準の変化を取り扱う不安定な経済状態の一つと学ぶ。

インフレの要因は下記のようだ。

・ディマンドプル(Demand Pull)
消費者・企業・公的機関が財やサービスを超えてディマンド(需要)が拡大することで供給が足りなくなり、マーチャント(商売人)が値段を釣り上げて物価上昇する。
このインフレの責任は経済に関わる全部門の責任とされるもので、大規模都市開発の頓挫なニュースとかはこのようなカタチかなと思える。
インフレ下の工事中止は建築費高騰によって地権者の持ち分も減るようだ。

・財政赤字(Deficit Spending)
財政赤字がインフレを誘発させるのは日銀が金利を引き下げて通貨供給量を増やす時。
これはディマンドプルの変形であり、ディマンドプルが経済全部門の責任とする時に、財政赤字は財政赤字だけの原因とする。
アベノミクスは複合型ではありますが、異次元バズーカの金融緩和で金利をマイナスまで下げて、民間需要が低いとあらば国が財政出動で財政赤字を膨らましてデフレからインフレに針を動かそうとした政策でもある。

・コスト・プッシュ(Cost-Push)
コスト・プッシュは原材料の上昇や労働力の上昇がインフレを引き起こすもの。
労働賃金が上昇すると物価水準も付随して上昇し、物価が上昇すると労働賃金も上昇するという具合。

・賃金・物価の悪循環(Price-Wage Spiral)
これはどの部門のどの集団もインフレに責任を負わないインフレで、これにより永続的なインフレのスパイラル状態となる。
昨今のインフレなニュースを見ても、物価が上昇しようとも、円安で輸入物価が上がり相対的に国民の生活水準が下がろうとも、責任がある人たちは傍観状態で、今や個々の利益追求がスタンダードとなりつつある。

・過剰通過供給量
マネーサプライ(通過の供給量)が実質GDPよりも増加する速度が速いと通貨供給量は過剰となりディマンドプル効果でインフレとなる。
過剰な通貨供給量は常に実質GDPの上昇よりも続けないと永続的なインフレは起こせないという考えもある。
直近の日本のマネーサプライを見ると7月は前年比+1.5%。

ということで、

私達の生活の中でインフレーションはどのような影響を及ぼすのか調べると、貨幣価値の減少、支出の変化、投機の増加、所得分配の変化となる。

・貨幣価値の減少とは物価が上昇すると去年1000円で買えたものが、今は1200円でしか買えない200円分のお金の価値の減少のことで、私達が去年よりも今年な日々感じるものだ。

・支出の変化はインフレの物価上昇で金利も上昇すれば住宅購入をする人が急減し住宅産業が崩壊して経済に大きなダメージを受けるようなお金の使い方の変化。

・投機の増加は物価上昇のメリットが見込まれる分野に投資が増えることで、インフレに強そうな投資案件とそうでない事柄がはっきりとする今の世の中でも散見される。

・長期のインフレは所得分配を変化させるようで、物価の低い状態で借りたお金は物価が高くなった現在のお金よりも減価しているもので、それで返済されるお金も減価しているという考え。
長期インフレは債権者よりも債務者に有利に働く。

ジョーカーが出ない限りに、全てのインフレ要因のカードは揃っているようで、我の生活防衛にも答えはでない。

 

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■2025年10月9日(木)
■お茶パックソング♪
お茶パックをかわいく(お茶パックをかわいく)
ちゃばばばーちゃばばばー。

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■2025年10月10日(金)
■一日一文章トレーニング。

「お茶パックを絵に書こうと思うとあまりにもシンプルすぎて描くのが難しい」

単なる四角い袋を描いてもお茶のパックはなかなか伝わりにくいもので、袋の中に茶葉が入った微妙な厚みを表現することも困難だ。
四角い形状に特徴は全くないもので、出汁パックとお茶パックを間違えて煮出しても飲むまでは気付かない感じの無個性。
コーヒーならドリップを開きそれなりの特徴的なカタチはある。
紅茶でも三角形やマチ有りの紅茶パックに紐付きの独特な形状があるもので、パック形状がそのまま記号イメージとして成立する。
しかし、お茶パックとは真四角だ。
この極限に削ぎ落とされたカタチには日本的な侘び寂び美意識が隠れているように思うもので、私は茶パックを手に持って考える。
そして、
茶葉の粉は塗りで変幻自在に動く口として、目はお茶の種類の見た目を取り込んでお茶たちをイメージして作れば良いのではなかろうかと思うものだ。
こういうものには正解がないもので、誰にも何を茶々入れられようとも馬耳東風☆
紛れもなく茶パックであり、茶文化とは茶に始まり茶を飲んでご馳走様の礼に始まり礼に終わる道なのだ。
ふむふむ、流石のオレなのか何なのか自画自賛で、なかなかにお茶パックぽくもなったものだ。
こんなお茶パックのウンチクを熱く語っても仕方がないのではありますが、やはりお茶のパックと言えばこのカタチなのだ。
今さらお茶パックがお洒落なパッケージにニューアルされて値段も高くなり帰ってきたならば、我は間違いなく発狂するだろう。
お茶とは私達の体の大部分を形成するザ・ジャパンでもあり、英国人のティーのようにいつでも私達の身近であり、まったりと体と時間を温めてくれるお茶であって欲しいものだ。

確か、英語でジャパンと言えば日本伝統工芸の名前になっていたような気がするもので、さっそく調べると、ジャパンとは漆器のこと。
漆塗りされた漆の美しさとは特別なもので、これは原産地の場所を指してそのように呼ぶようで、陶器だとボーンチャイナとチャイナ生まれな陶器の輸入先の地名をとる呼び名のようだ。

そして、原産地の命名がてら少し話は脱線しますが、最近食品の産地表記が詐欺っているように思うものだ。
「国産」と「国内製造」という表記があることに気付き憤慨している。
「国産」とは言葉の意味通りに原材料が日本で作られたものを言い、通常私達が頭の中に浮かべる国産とは正にこのこと。
一方で「国内製造」は原材料が国内生産とは限らないようで単に日本で加工したとなる表記となるようだ。
「国産」の何かを購入してきたと話していたら「国内製造」と記載されており、「あれっ」と直感センサーが働き調べると国内産ではない。
私が甘ちゃんなのか何なのか、言葉通りに読めば国内製造であるかもしれませんが10人いれば10人とも国内製造と聞けば国産のイメージを持つような感じでもある。
人が口に入れるものとは輸入する際に厳しい検疫を通り輸入されていると思うのですが、「国産」と思い購入したものが輸入原材料で作られていると知ると騙された気分。
なぜ国がこのような規制を行うかと考えれば、これは国産のように曖昧に販売したい製造業者と利益に加担する需給関係にも思えるもので、消費者よりも明らかに製造者を上位に置いた感じでもある。

ということで、

私は使用済みのお茶の葉を捨てずに取り出してコーヒーの粉と同じように土に還そうキャンペーンを始める。
手力でお茶パックの袋をビリビリと破り、2Lペットボトルの容器の底を切り取り、そこに緑茶、ほうじ茶、麦茶の粉を入れて乾燥させる。
コーヒーの粉は1日で乾燥するものの、茶葉は量が多いので1日では乾燥しない。
この乾いた茶葉のカスを集めて土に撒いてお茶のお下がりのお裾分けを植物に行う。
酸性アルカリ性などは調べる術はない。
カテキン効果に何かしらの麦効果あるかもで知らない。
しかし、コーヒーの粉もそのような栄養分なども考えもせずに撒いても大丈夫であったので、おそらく、見た目が土っぽい茶葉も土に撒けば土に還るような予感だ。
因みに、写真の左が使用済みのコーヒーの粉で、右が煮出したお茶のパーである。エッヘン☆
と、茶を濁すのである。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年10月10日(金)
■煮出し中。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年10月14日(火)
■一日一文章トレーニング。

「すっかり秋っぽくもなり、私は夢を見た」

3連休はとやかく眠いもので土曜日はカレーを食べてすぐに横になると心霊動画を観ながらうとうとと寝てしまう。
心霊動画が子守唄とは真剣にヤバいことでもありますが、お化けの決定的瞬間を観ることもなく最初のわちゃわちゃとやっていることしか記憶にはない。
いやいや、牛のようにカレーを食べてすぐに寝てしまうことが真のホラーかもしれないもので、私が目覚めるとピッタリと深夜12時でもあった。
少し横になったつもりが目覚めると朝のような熟睡で、まだ4時間ぐらいしか寝ていない。
ふらふらとゾンビのように立ち上がりトイレに行き、歯を磨き、お布団に潜り込み、今日1日は終わる。
勿論、お風呂にも入る体力もない。
そして、ほぼ半分寝ている状態でお布団に入ると急に目がパッチリと冷めてくるもので、これ以上はもう眠ることはできないものだ。
おまけにカレーが喉から逆流してくるようでもあり「もう寝れない、寝れない」と思っていたならば、次に起きた時は朝の8時であった。
約12時間のたっぷり睡眠でお布団に入れば秒で寝ていたようだ。

こんなにもたっぷりと寝ていたならば、さぞ、体の疲れも取れてさぞ快適な1日であったかように思うものの、何か夢が忙しすぎて疲れる。
夢オチや夢の話しとは駄文の基本ではありますが、我の文章はいつもの駄文でもありマイナス✕マイナスはプラス発動の論理でもあって問題なし。
ここに夢の内容を記載しますが、夢分析は絶対にダメ。

<夢の内容>

私はどうやら仲間内の大勢で台湾旅行に来ているようで、大勢の人の後をつきながら楽しく観光している。
観光バスの移動とかではなくて電車移動の旅のようで、私はペチャクチャと喋りながら電車に乗り、普段見慣れない駅の風景に目がいくもので「あれも気になる、これも気になる」と一つ一つが気になる。
夢を観るだけで旅気分とは何とも安上がりなもので、そうすると、手に持っていたものがヒラヒラと落ちるものだ。
それを追いかけて拾い、話をしていた兄やんの後を追いかけて歩くものだ。
とても長いエスカレーターを上り、兄やんに話しかけると「お前は誰や」と全くの別人の台湾人で外に出た景色も全く知らない場所で困惑。
私は再び大慌てでエスカレーターを逆流し地下に戻り、ひらひらと物を落とした場所に戻るものの完全に迷子となる。
私は「困った困った・困った困った」と心の中で呟きながらその場に立ち尽くす。
何分位立ち尽くしたのであろうかと、「困った困った」のポーズで立ち尽くしているとよっぽど怪しかったのか駅の職員らしき人が話しかけてくるもので、私は日本語で「自分は完全なる迷子だ」と話す。
しかし、言葉の壁があるようで、英語で言っても話はチンプンカンプン。
仕方なく私は手に持っていたお絵描き道具を使い筆談談話を開始する。
芸術の秋でもあり、私の絵心も出てくるもので無地ノートに筆ペンだけは手に持っていたものだ。

「我超困道迷子大人笑」ww

勿論、中国なんてニーハオ・シェーシェーぐらいしか知らないもので、このような中国語で良いのかもよくわからないのですが、寝ている頭をフル回転して生み出した言葉だ。
そうしたならばホテルに戻れば良いと真っ当なことを言っているようで、それはその通りなのですが団体旅行の後ろをくっつき観光しているだけなのでホテルの場所や名前も人任せで全く覚えていないし、携帯も持っていない絶望。
そう言えば、初めてのホテルで意気揚々と朝食を食べて部屋に戻ろうとしたならば部屋番号を覚えていなくて「どうしよう~」と一人ウケていたことを思い出す。
それ以来、ルームナンバーはすぐに暗記の呆則!で、私の旅とはいつもハチャメチャでオレ風の無茶苦茶な中国語で下記のように記す。

「我不知飯店名前、我不知飯店其場所笑」
(私はホテルの名前も場所も知らない笑)

昔に台湾旅行をしたことがありホテルのことを「飯店」と呼ぶことは知っている。
何だか中華料理屋みたいではあるが、その時はアメリカ系の有名なホテルに泊まったもののやっぱりそれも飯店であったような気もする。
話しかけてきた人は呆れているのか、完全な記憶喪失者と思ったのか、こっちに来いと言っている。

私はそれを明確に拒否する。

「絶対嫌断固拒否、御前怪不信頼、我留其場所、我信再戻仲間集団」

と意味不明なレ点返しな漢文で書くものだ。
私の翻訳だと「絶対に嫌、おまえは信用できない、私はこの場所に留まり再び仲間がこの場所に戻って来ることを信じている」と書く。
夢の中でYOUのことを何と書くのであろうかと考えて御前と書く。
そして、「おまえ怪しい」と人を全く信用していない面白さで十分に失礼だ。ww

そして、再び「困った困った」のポーズってどんなポーズだろうかと「迷子の人」の芸術の秋を感じながら、ひもじく仲間が再び戻って来ることを待つ秋の長編長夢。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年10月14日(火)
■10:10の猫。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年10月15日(水)
■一日一文章トレーニング。

「体温と温度の差が13℃開くと肌寒く思い半袖から長袖に変わるようだ」

カレーなる無茶苦茶な夢を見た三連休の10月11日(土)にはもう一つの大きな変化があった。
それは布団に入る時に窓全開から半分ぐらいまで閉めて、寝間着が半袖半ズボンから長袖長ズボンへと変わったこと。
よたよたと長袖長ズボンを探して三千里、「もう半袖半パンとはおさらばじゃー」と衣装棚をガサゴソと発掘して着替える衣替え。
室温23.4℃・湿度56%
ここ最近朝晩寒くもなり寝間着が長袖に長パンツへと変貌する身近な変化だ。

そして、昨日の10月14日(月)は長袖の服を着る。
数年前のセールで、1000円以下で購入した安い服には刺繍の穴がイッパイ開いており、なかなかかわいい。
そして、それにパンツを履くと「似合わんな~」とあれこれ着たり脱いだりとファッションショーが始まる。
穴の開いたシャツは穴開きのシャツと呼ばれていてアナーキーと揶揄される服だ。
そして、このような服を着こなせるピオプル(PEOPLE)は存在しないように思うもので、服は数あれどよく着る服とは楽で着心地が良い服のことであり、何となく自分で似合うように思う服でもある。
とりあえず、ダボッとしたパンツにその服を着ると何かが可笑しい愉快な面白さ。
なので、細身のパンツにシャツをインして西部劇の保安官側ではない方の雰囲気で街に繰り出す。
寝間着は体温が36.4℃の温度差13℃で長袖長パンに変化して、長袖の服は体温35.9℃・室温22.8℃・湿度59%のやっぱり13.1℃の温度の差であった。
体温と温度の差が13℃開くと半袖から長袖に保温したくなる私の境界線のようである。

ということで、

窓は全開では無くなり冬に向かって徐々に閉まる。
窓を解放しているとキレイな新鮮な空気が入ってくるように思うものの、最近、そうとは言い切れないことにも気付く。
それは黒いノートパソコンを使用しているのですが、窓を開放していると細かい塵のゴミがそのパソコンの上に積もる。
神経質のようにも思いますが、黒色のパソコンだとそのような塵は見て下さいといわんばかりによく見えるもので、そして、他の物にも当然そのような小さな塵は溜まる。
真夏の完全に窓を閉め切った部屋の中でも黒いキーボードに塵は溜まるものの、それは衣服なホコリとは違う予感で、私は黒いパソコンの上に溜まる小さなゴミを拭き取り、または、掃除機で吸って取り毎日綺麗にしている。
今こそ顕微鏡でその小さな塵の正体を突き詰めたい。
しかし、残念ながら顕微鏡は無い。
目視で見ると衣服や布団のホコリは小さな線で、窓を解放して溜まる塵は花粉のようなとても小さな粒の粒子だ。

東京の空気が綺麗かどうかと知る由もありませんが、先日の工事の塵も外にバンバンと舞うもので、何かの花粉が飛んでいる可能性も考えられるし、部屋に溜まったホコリが外気の流入で舞っているかもしれない。
エアコンをつけているとフィルターで部屋の空気がまだキレイかもしれないもので、窓を開けるとキレイで新鮮な空気を取り込んでいるようで実は小さな塵を取り込んでいるかもしれない。

涼しくもなって窓を解放すると謎の花粉のような小さな粒子の塵がノートパソコンに毎日積もり、この塵は何の塵かなと思うオツベルの象な気分だ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年10月15日(水)
■13のスイッチ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年10月16日(木)
■一日一文章トレーニング。

「さぁ~お茶のお時間だ~」

涼しい朝に温かいお茶一杯を飲むと心もホッと一息。
勿論、この一杯とはコーヒーや紅茶でも良いのですが温かいお茶を飲むと心身もろともリフレシュ。
このホッと一息とは何かと考えればTEAとTIMEが現在進行系のように繋がりTEA BREAKと一息つく“ひととき”な「間」でもある。
お茶とは単なる飲み物ではなく私達日本人の6割の体を作り出す水分でありながら、同時に「時」の延長線上に触れる飲み物のようにも思う。
うまく表現は出来ませんが、お茶とは単なる水分補給の飲み物ではなく過去―現在―未来とお茶で繋がる“ひととき”を作り出す所作全体のお茶を飲む行為であり、お茶の時間を通して様々な事柄を結びつけてくれる時の飲み物かもしれない。
意味がわからないとは思うのですが・・・恐らくそういうことやねん。
高名なお茶の先生にそのようなお茶論を語ると「そうどすね」と軽くあしらわれると思うどす。

そして、

もしかしたらグローバリゼーションさえも、この一杯の“ひととき”を得る為のお茶探しの旅から生み出された営みかもしれないもので、私達が毎朝飲むこの一杯が世界を大きく変化させるバタフライ・エフェクトな最初の羽ばたきだったかもしれない。
日本でも安土桃山時代の茶室で語られる政治もあれば、昭和な料亭の最後に出されるお茶で締めくられるティーライフもある。
ぬるく不味いお茶で人をもてなせば末代まで語られる恥かもしれないもので、私は「おっとおっとっと」とお茶をこぼさないようにお盆の上の湯呑みをカチャカチャと鳴らしながら茶を運ぶのである。
なぜ?お茶くみなどしないといけないものかと思うものの、やっぱり、客人に茶一つ出さないことは人として非礼でもある。

私はお湯をぐつぐつと沸騰させて、今朝は外国製の緑茶を頂く。
パッケージには100% PURE CEYLON GREEN TEAと書かれておりスリランカ製のセイロン・グリーンティー。
これは紅茶のセットに1つだけ含まれていたグリーンティーで面白いと思ったので飲まずに取り置いていたもの。
どれどれと、ずっずずっと味見をしてムムムと何かのスパイシーさを感じる異国のお味である。
緑茶はツバキ科の若葉を加熱処理して発酵を防ぐ製法で作られているようでビタミンが多く含む緑色のお茶のこと。
一方で紅茶とは若葉を発酵させることにより紅茶となるようで、謂わば、お茶と紅茶とは同じ源流にある親戚でもある。
なのに、スリランカで作ると緑茶とはどこかエキゾチックな風味がするもので、この味わいとは土地や水の香りなのか、土の香りなのか、飲むとドドンチャチャンと東南アジアなエキゾチックの音色が聞こえてきそうでもある。
見た目も薄い紅茶で緑茶というよりもほぼ紅茶で、行ったことは無いけれどもスリランカな香りがするセイロン緑茶の正論(セイロン)なのだ。

お茶と言えば、いろんな言葉に茶の字は含まれているもので、そのような言葉の中でも私のお気に入りの茶の字は「無茶苦茶」という茶の多い言葉である。
辞書によると「無茶」という乱暴で筋道通らない程度の悪いことであり、「無茶」に「苦茶」と強めた言い方が加わってあまり良い言葉ではない。
しかし、私はそのような言葉が好きだ。
なぜ、そのような言葉が好きなのかと半生を振り返ると、時に私は無茶苦茶に度が過ぎることもあるもので、血の中に「無茶苦茶と滅茶苦茶」な血が流れているように思うものである。
今は至極真っ当ではありますが(www)時折、湧き出る無茶苦茶で破茶滅茶なエネルギーを発散することもあるもので、そのような時は滅法楽しい。
無茶苦茶な時とは「何か生きているなー」と思うもので理屈無しに楽しい。
ブルドーザーの如く猪突猛進する感じでもあり、茶の多きこととは面白きことかな。

無茶苦茶・破茶滅茶とはなかなか良い字の羅列。
無茶とお茶が無いのに苦い茶のようにも読めて、破茶とは茶を砕き難しい事柄を砕いて話した感じでもあり、滅と茶の滅びについて語っているようでもあり、または、「メッチャ好き」とは「滅茶好き」のようにも思うものだ。
そのようなお茶のお味とはどのような味かと考えれば常識では測れないようなとても前衛的なお味のようにも思うもので、そのような空想は楽しい。

ということで、

令和8年の∞文字として書き初めする言葉は「無茶苦茶・破茶滅茶」に決定だー。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年10月16日(木)
■秋の新作ティーバックハンドバック(鳥の脚付き)。