*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年9月2日(火)
■一日一文章トレーニング。

「ニンテンドー・ミュージアムに行ってきたよ」

地球圏の皆様こんにちは。
グリニッジ標準時間午前3時、フライパンの上からフライパンの上へと戻りて今日もとても暑い。
晩夏休暇の降り立った東京の夜の街の気温も十分に暑くフライパンのように暑かった。
遅くとった夏休みから帰ってくると今までは夜の東京の街は幾分涼しく感じるものですが、去年も今年も「暑いいい~い」と残暑こたえる夜である。
いつまで暑いかとこの天気、来年の研究テーマはフライパンを効率良く冷やす方法の、または、フライパンな街に溜まった熱の冷まし方である。

そして、私はニンテンドーミュージアムに行ってきたよ。
元任天堂の工場跡地に出来た施設のようで、工場が潰れて高層マンションや商業施設になることは頻繁に見るこの数十年の景色ですが、このような円安で任天堂のような大企業でも工場を稼働するよりも別の施設な費用対効果の天秤を考えた結果だと考えると少し淋しい世の中だ。

京都もなかなかのフライパン日和で人々を炒るには立派な干物に出来そうな位の暑さである。
そして、私はミュージアムショップで60×60×11センチぐらい巨大なニンテンドー64のコントラローラ・クッションを購入し、それを抱えてお家に帰る。
大きな袋を持って満員電車に乗ると人の出入りの度にはた迷惑。
また、大きなクッションが入った袋も特大の面積のある巨大な袋であり、小さな風にも煽られて歩きにくいし大迷惑。
歩行者に当たらないように如何に歩くかと者幅感覚や気遣いをしていると大変疲れるので、東京への帰宅道は大きなコントローラーは袋から出してヒモでしばり肩掛け抱っこして運ぶ。
これが一番移動しやすい方法であった。

私はこの旅でリアルな体当たりおじさんを二人見かけた。www

ぶつかりおじさんの定義とはわざと体をぶつかってくるラガーマンみたいな肉体派な人であるとの解釈ですが、人に体当たりでぶつかるにはそれなり痛いかもしれないし、体が頑強でないと逆に弾き飛ばされる可能性もあるように思う。
そして、二人共おじさんでは無くて若かった。
自分と関係ないところでの体当たりで無害ですが、大きなコントローラーを持ちて歩いていれば明日は我が身かもしれない。
私は安定的に大きなコントローラー・クッションを運ぶ方法について考えて、ぶつけられたならばイラッとくるし、大切なデカ・コントローラーがダメージを受けるのも嫌だし、大きな荷物を持っていれば存在自体も迷惑でもある。

(ジャンジャンジャンとエヴァンゲリオンな音楽♪)

一人目の体当たり体は電車に乗って来た若い人が、降りる人も待たずに体当たりで乗車してきて2人分の椅子にドシンと座る。
見た目から怖いおじさんにぶつかっていたもので、案の定「コ※スぞー」と電車の外から大声で怒鳴られていて怖い。
電車の扉が静かにそっと締まりて私はホッとしましたが、車内の人たちは何事もない日常を過ごしていて誰も話題にしないものだ。www

二人目の体当たり体は始発駅で停車中の電車に乗って来た若いサラリーマンで、バックと肩をぶつけながら電車内の奥にスピードを落とさずに突っ込んで行った。
夜も11時過ぎの結構満員な電車で、もしかして酔っ払いかもしれませんが左と右を華麗に「ドシン」と音が聞こえてぐらいに体当たりしていて怖い。
若い女性とおじさんはムッとしながらも平静を保っていましたが、私の危機察知能力はそれを見逃さずもう1本奥の車両に乗車する。www

車の事故でも交差点の事故がほとんどで、人と人とのぶつかりも交差する場所が非常に危ない。
「交差点は常に注意せよ」の呆則である。

ということで、

こんなにも大きなゲームのコントローラーを抱えて幸せだー。
素材も高級なベルベット風な生地に刺繍とふわふわ生地でボタンが縫われている。
ニンテンドー64と言えば、ゼルダの時のオカリナでエイヤー、エイヤーと楽しく遊んでいたもので、今でも時折エポナな草原の歌が脳内に流れる。(ピーポナーピーポナー♪)
中央のコントローラーはぐりぐりと動くアナログスティックで、今では左右のアナログスティックで3次元空間を動くことが基本ですが、このコントローラーの現在のコントローラーの元祖だと思う。
そして、裏面には当時画期的であった対象物をロックできるZ注目ボタンも付いている。
こんなにも大きな64リモコンを抱えて街歩き、電車を乗り継いで一緒に旅をすれば、もうすでに愛着も生まれているもので部屋の中心のように佇む。
Wiiリモコンのビックサイズやドンキーコングの樽型の大きなクッションも気になりましたが、ビックサイズのコントローラー・クッションは1つ持ち帰るだけでも大変なので向こう見ずに複数買いしなくて良かった。

新幹線の中では窓際の引っ掛けに壁掛けしても良かった。

また、東京―京都間の移動中は向田邦子さんの本を読書していたので、この文章は向田作品に強く影響されて平穏に淡々と日常の大きなニンテンドー64リモコンのクッションを向こう見ずに家まで運ぶ道中を描写した。www

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年9月2日(火)
■戦えパンチにキック、アクション・ファイト・コントローラー。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年9月3日(水)
■一日一文章トレーニング。

「旅人はなぜ、いろんなモノを背負いて道を往来するのか」

旅の持ち物とは最低限にできるだけシンプルな方がその道程も楽に動ける。
反対に背負うモノが大きくて重くなると疲労して行動力もガタ落ち。
もし、人生行路が旅と同等の道筋であると仮定すれば、人生往来の旅もモノが少ない方が行動力は高まるように思う。

人とはなぜ?様々なモノを背負いて所有するのか。
単に生きる為だけであれば、リュックの中に収まる程度の決まったいくつかのモノだけでも、何とかなるのが旅先で感じるミニマリストな擬似体験である。
スーツケース1つでお引っ越しできれば何と楽な引っ越しであろう。
憧れのホテル生活で一切の不便も感じなければ極論、家のモノのほとんどは不必要とも言える。

しかし、

人生の旅人とは不思議なもので、一期一会のそこでしか買えない大きなコントローラー・クッションを抱えて帰宅するもので、旅のお供とは思い出と共に増えていくものだ。
徳川家康公は「人生とは重荷を背負いて遠き道を進むが如く」と言っている。
様々なモノをよっこらしょと背負い増えていくのが人生の道かもしれないもので、確かに、大きくて重い社長のバックにはその人が背負う人生の重みを感じる。
軽快に動けるだけの機動性だけが旅の道ではなく、一歩一歩と踏みしめる道もあるかもしれない。

旅は旅の準備から始まるとも言われ、そして、人生行路の準備もまた人生の旅の前日談かもしれない。
私の旅の前日を思い出すと下記の通りだ。

リュックにあれこれと必要なモノを詰めて、ニンテンドー・ミュージアムに行くならば、やっぱりマリオな服を来て気分もアゲアゲに行きたい。
マリオのTシャツとはどこに行ったのかとあれこれとドタバタ探しているとTシャツはバンドT高騰の記事を読み、今シーズンからは着るのが勿体なくて仕舞われていた。
ここにあるかな?
ここにはありそうだと、
旅行の前からあちこち掘り返す掘り出し市で、そのような探し物をしていると箱の中から旅と全く関係ない電王ストライクフォームやアルパカのフィギュアを見つける。

アルパカは毛もふさふさで可愛くゼンマイをねじるとコトコトと歩く。
以前は背中にギターを持った電王を乗せて飾っていたもので、今再びそれを再現し机の上でまじまじと眺める。
これらアイテムは旅行の必需品でもなく、人生の寄り道と言えば旅の準備な寄り道でもある。
ふむふむと、いやいや、やっぱりと私の人生に必須な理を見い出せないものの、今見るとアルパカは複数買いして横一列にズラリと並べて飾れば面白かったかもしれない。
私は大人買いしなかったことを後悔している。
アルパカとはお顔を拝見しても癒し系なかわいいお顔で、なぜ?電王なのかわかりませんが仮面ライダーフィギュアとは常に何かの乗り物に乗せたくなる人形でもある。

人生の1/3は寝て、人生の1/24ぐらいは探し物をして、私の人生の多くの時間は探し物を探す時間に費やされる人生かもしれない。
おまえの人生とは本当に有意義な時間を過ごしているものかと自問自答するもので、旅をすることとはやっぱり人生を振り返るきっかけにはなるのかもしれない。
旅の荷物と言えば、松尾芭蕉の「旅の具(ぐ)多きは道のさわり也(なり)」である。

「さわり」とは何であろうか?
「触り」とはモノを触った時の感触で、話の中の一番の聞かせ所や肝心な所。
「障り」なのか?

松尾芭蕉とは江戸時代の歩いて旅するで有名人でもあり、そのような達人がそう言うからにして機動性を追求した身軽さのみの旅を良しとはしていないのかもしれない。(荷物の少ないことを良しとしている)
具とは必ずしもモノを意味するものかはわかりませんが、旅のモノの多きことはいろんなものに触れた証でもあり、見聞も深まり、具体的な土産話しもあって、良いことだと言っているように私は解釈する。
間違えていたらm(_ _)mT候。

正解は全く反対の意味で荷物が少ない旅の方が良くて、「障る」方かもしれない。笑
よって、芭蕉の言葉を借りると大荷物を抱えた旅人は大変なのだ。
むずかしい。汗汗

 

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■2025年9月3日(水)
■ピアノ演奏♪

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■2025年9月4日(木)
■一日一文章トレーニング。

「旅行中のベランダ植物の夏枯れを防ぐ方法」

ミンミンゼミやツクツクボウシが鳴き始める。
木々の葉っぱもどこか茶色が混じる紅葉色がぽちぽとと現れて、それは夏枯れかもしれませんが多肉植物も1本だけ紅葉している。
いよいよ秋の気配ではありますが、いやいや気温はまだまだ高温。
今日のような曇り空であると幾分過ごしやすいのですが、少しでも外に出れば汗汗と汗が滝のように吹き出す毎日の鉄板焼生活である。
生き物たちの活動とは気温と関係なく案外暦通りに進んでいるのかもしれない。
一雨降って涼しくなるかと期待しても天気予報も外れるもので、季節は一雨ごとに進み本日の雨予報は当たって欲しい。(雨降ったー)

溶けるような猛暑の暑さの中で家を空けたならば、毎日の水やりしない植物たちは夏枯れてしまう。
そこで、我は考えた。
旅行中に枯れてしまいそうな植物たちは家の中に緊急避難すれば良いのではないかと。
遮光カーテンで直射日光を遮られた涼しい部屋の光合成しない植物たちはそんなにも水を必要としないものかもしれない。
台風の時もクーラーで涼しい家の中に避難した植物たちは元気にバカンスを楽しんだもので、これによってベランダ植物の外出中の水あげ問題は解決する。
実際に家に帰宅すると、涼しい家の中で過ごした植物たちは葉っぱを青々とピーンと張り以前よりも元気で大成功だ。
多肉植物やサボテンたちは暑さや乾燥にも強いのでそのままベランダに放置。m(_ _)mt

そして、

この夏、私はまるまると太って元気な大根を1本購入したもので、その大根の葉っぱを培養して育てている。
コーラー2リットルの容器の底をカットしてそれを受け皿にして育てていますが、その容器もなかなか良い感じ。
毎日水換えしないと雑菌が繁殖して腐ってしまうもので、数日間家を空けるとなれば、そのような大根の葉っぱも枯れてしまう可能性は高い。
本当は切ってゴミ箱にポイッと捨ててしまうような大根の葉っぱですが、一度育てると愛着も湧くもので枯れるのは可哀想である。
そこで我は考えた。
大根の葉っぱは冷蔵庫に保管して冷やしチャオっと。
事前に4日間ぐらい大根の葉っぱを冷蔵保管する実験では元気に冷え冷えと過ごしているもので、水換えをせずともドアを開け閉めするぐらいの冷蔵庫内の光の暗闇でも元気にすごしている。
お花屋さんでも冷蔵庫みたいなものがあるように、旅の道連れで植物たちを枯らさない方法とは涼しくて暗い場所に一次避難すれば解決できそうだ。
こうして、来年の夏休みも夏枯れを防ぐ植物の管理方法を編み出して一件落着。

ただし、

困ったこともあるもので、植物の入った鉢をどけていると丸くならないマルムシがいるものだ。
風の谷のマルムシは姫様に隠れて育てられようとしますが、私の谷のマルムシたちは巨人のフットワークによってベシベシと踏み潰される。
何か地上に住まうエビ類や海岸の岩肌に生息してガサガサと動くフナムシにも似ていて非常に怖い。
あまりにも怖すぎるのでコンコンと全てのマルムシをベランダの上に落として踏み潰し鉢を家に持ち込む。
そして、恐怖の夜がやって来るもので3匹のマルムシが床の上を散歩していたのを発見する。ヒエー☆
夜も暗くなり部屋の電球も暗く床を歩く黒い物体を発見し、「お前を見つけたーゾ」とティッシュペーパーで巻き取りブチッと潰す恐怖!
オレが怖いのか、お前が怖いのか、これはもう哲学の先生に聞かないとわからない。
最近、阪神のサトテル選手がフランスの哲学者の名前のようにも聞こえてくるような私と虫のどっちが怖いのか、それはなかなかホラーだ。

ということで、「旅の具多きは道のさわりなり」だ。

この文章は「さわり」が「障り」なのか「触り」になるだけでも印象が180度変わる文章で面白い。
「障り」だとネット上の一般的な解釈の「道の触り」でモノが進路を妨げるモノ多き事の不便さと読める。
そして、「触る」と読むと旅の特別な思い出を集めする多幸感な俳句にも読める。
流石の芭蕉なのか何なのか、なぜこのような何とでも読めそうな曖昧な表現をしたかと空想も膨らむもので、江戸時代の旅行とは一生に1回の大きなイベント事でもあったかもしれない。
先日読んだお犬様のお伊勢参りの本でも旅に出る為にお金集めの講を募り代表者を旅に送るような時代でもある。
一般の人々が旅に出るということは非常にお金のかかるイベント事でもあったようだ。
最初で最後の旅かと思えば、あれやこれやとお土産もたくさん購入し荷物はたくさん膨らむであろし、ハメも外すかもしれない。
今でもそうなのですが地元の人達から見ればそのような大きな荷物を持って旅する旅人を馬鹿にしたり迷惑に思うもので、確かに、荷物は少ない方がそれに越したことはありませんが、たくさんの荷物を持つ理由というものもあるものだ。
そのような二面性の軸を考えた時に「当たり触りのない」表現でどちらとも読める「さわり」と表現した妄想も浮かぶ。
芭蕉とは江戸きっての旅人でもあり特別な人物でもある。
彼の旅はいつでも出来る旅かもしれませんが、庶民にとっては一世一代の旅かもしれなくて、確かにモノは少ない方が良い正論ですが「当たり障りのない」「さわり」と表現したのかもしれない。

 

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■2025年9月4日(木)
■にゃにゃにゃのうた。