*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月1日(日)
■一日一文章トレーニング。

「もう9月だよ、1杯のコーヒーを飲むことで片頭痛がなくなる不思議を見つけた」

のろのろ台風は迷走中。
来るぞ!来るぞ!といつやって来るのかの不明な台風ではありますが、九州に上陸したら次は四国に渡り、海に出てからも停滞して、現在は日本列島に再上陸する機会を虎視眈々と狙う台風でもあります。
予報によると再上陸後に熱帯低気圧となるそうで、のろのろ・うろうろと私にも似ていて何をしているのかの混迷ぶりでもある。
台風も長く居座ると雨や曇の日ばかりが続くもので、そのような気候が続くと私の頭の中も気圧病的な片頭痛を起こるのであります。
暑くて溶けるような天気も嫌なのですが、蒸し蒸しと厚い雲が覆う蒸し暑い気候も嫌なものだ。
「あ〜悩ましきお天気、そして、頭が痛くて痛いのであります」
しかし、ナロンエースやバッファリンを飲む程の痛さでもなくて、静かに頭の中に広がる鉛色の空の痛みを耐えるのであります。

そして、もう9月なのです。
明日のジョーもリングから立ち上がり、ガンダムも立ち上がれるというので、そろそろオレたちも立ち上がって人生の何幕目かに向かって歩み始めるフェーズに来ていると思うのであります。
なのに、頭も痛くてそのような気分にならないもので、そんな時にはとりあえず、ホットコーヒーでブレイクです。
勿論、ホットコーヒーはブラックでポタポタとドリップさせながらまったりと飲むに限ります。
ドリップとは一滴一滴のコーヒー汁を滴るように落下させる儀式のことですが、あの香り立つコーヒーの時間は特に心が落ち着く何かはあるものだ。
「アチチ」と飲むコーヒーに育ちの良さは現れるもので、ちびちびと飲みながらぼんやりしていると「あらら不思議」なことに、なぜか頭の痛みも消えるものであります。
なぜ?コーヒーを飲んだら頭痛の痛みが消えるのか?
目の前に広がる空は曇っているものの、頭の痛みはキレイさっぱり、人生の中でもコーヒーを飲んで頭痛が消えたのは初めてのことであります。
早速インターネットで調べると低気圧の気圧変化は私の頭の中で血管の拡張を起こしているようで、そのような血管の拡張はズキズキな痛みを生み、それはコーヒーを飲むことで収まっているようである。

仕組みは下記の通り。

1)低気圧への変化によって頭の中の血管を「拡張」させ片頭痛を起こす。

2)その中身は血管の拡張に伴い炎症反応を起こす。
または、局所的な脳圧の変化も生み痛みを起こす。
それらは三叉神経(さんさしんけい)を通し脳に信号として送られ片頭痛の痛みを感じることになる。

3)コーヒーを飲むとカフェインが接種されます。
それが中枢神経系に働き脳内の拡張した血管を「収縮」させて頭痛を抑える生理反応を起こす。

とのこと。

頭が痛い時は薬を飲んで痛みをブロックする感じではありますが、こちらの方が拡張した血管を元に収縮させるので痛みの根本原因を正すような感じでもあります。
詳しくは病院に行って治す必要があるのかもしれませんが、気圧変化の頭痛は私の場合、病気ではないのでコーヒーで抑える方法を見つけてラッキーである。

ということで、

コーヒーは薬のようなものでありますが、厳密に言うと薬ではなくて単なる黒いドリンクであり、薬にも使用されるカフェインの成分が血管を収縮させ頭痛を抑えていることのようであります。
なので、エナジードリンクでも効く可能性もあるものだ。
冷蔵庫の中には先日のエナジードリンクがまだ1本残っているので、次に頭が痛くなったならばエナジードリンクを飲んで試してみましょう。

 

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■2024年9月1日(日)
■最強のオオタニバット。

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■2024年9月2日(月)
■一日一文章トレーニング。

「物体を識別する足の肌感覚となかなか優秀です」

この暑い時期は裸足でうろうろするのは基本です。
裸足でパタパタと裸足ですりすりと家族でペタペタと床を歩くのが日本の夏の定番です。
これは部屋でも靴を脱がないかもしれない外国人にはびっくりの生態かもしれませんが、裸足でうろうろとしていると足裏の感覚も敏感になるものだ。
今朝の足裏の接地面である床温度は24.1℃。
エアコン入り!!ですが真夏の床温度は28℃ぐらいあったので、一番暑かった時期と比べると−4℃ぐらい下がりすこす秋を感じる朝であります。

そして、

昨晩からそのようなキッチンの床を歩く度に何か踏んでしまうものである。
しかし、足をひっくり返しても床をみてもそのような踏んだ物体を見つけることが出来ない不思議である。
これはおそらく固まった米粒だと予測するのですが、うろうろと歩く度に、お風呂上がりに通ったとしても、昨晩だけで軽く5回は踏んでしまう地雷である。
普段なら床上で踏んでしまう異物とは足裏に付いたゴミをポイっと捨てることで解決できますが、このゴミはなぜか足にくっつかないタイプのゴミで発見出来ないのであります。
道に落ちる種や枝などは上手に見つけることは出来るものの、この家の中のゴミはキョロキョロと探しても見つからないゴミなのであります。
LEGOを誤って踏んだ時のような痛さはないものの、カピカピに乾いたお米を踏むような感触はあり、それなりの存在感はあるものだ。
踏めば「あれっ」と感じる硬さとは微妙な痛さでもあります。
そして、遠目に見てもその物体Xは見えないもので昨晩から床に目をやり凝視して探しているのですが、これは明日に掃除機で吸い取るゴミだと思い諦めるのであります。
そして、今朝です。
眠気眼にトイレから戻る途中にヤツを踏んでしまったのであります。
痛くはないけれども、それなりのイタタの硬めのゴミ。
顔を床面に近づけあれこれ探してみるがやっぱり見つからず、諦めて進んだ瞬間に私は偶然に物体Xをキックしたのであります。
「ついに見つけたゾ!」
物体Xは2センチ程の長さのスパゲティーの破片。
ホットクックに長いスパゲティーが入らなかったので乾麺を真ん中でポキっと折った時の破片のようであります。
スパゲティーの麺は細麺よりも太ければ太い程に好きなもので、うどんのようなスパゲティーな麺だと尚も美味しいスパゲティーでもあります。
この麺は太麺で平たいタイプの麺の破片で、お米と麺は同じ穀物系でもあるので足裏の感覚とは大体で正しい感触を識別出来る肌感覚を持っていることはわかります。
これは明らかに金属ではないし、プラスチックでもなく、乾いた穀物の感触であると、触れただけで材質を識別できる能力とは微妙にすごいことのようにも思われるものだ。
このスパゲティーの破片が完全な麺のカタチであればすぐに識別できたものの、これは一方だけが鋭利に尖った形状となり、もはやスパゲティーの形状はないものであります。
普通のスパゲティーの形状をしていれば恐らく秒で見つけたゴミでありましたが、このカタチがうまく床の柄に擬態していたようでもあります。
絵を描くのも面倒なのでゴミ箱に捨てたスパゲティーの破片を拾って写真に撮ろうと思いましたが、小さなゴミは当然ゴミ箱の奥に落ちているので拾うことを断念。
絵も何だかホラー映画のワンシーンのようダ。

 

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■2024年9月2日(月)
■ブーンブンブンブブブブン♪

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■2024年9月3日(火)
■一日一文章トレーニング。

「インクペンはインクを吸わして補充することで再利用することができ、目線は内から外へ変えることで新たな視線を得るものだ」

悲報です。
お店にとっては悲報ですがユーザーにとっては朗報です。
その朗報であり悲報とはインクの出が悪い水性のフェルトペンは補充できること。
カスレたフェルトペン先を万年筆用の補充インクに漬けると、ほぼ無限に使用することが可能です。
これは使い捨て社会のアンチテーゼなのか、いやいや、リチャージングする社会の求めなのか?ペンはポイポイ捨てるのではなくて補充することで長く愛用できるものだ。

インクペンで絵などを描いている時に色で面を塗りつぶしたくなる時は多々あります。
そして、そのような面塗りをしていると途中でインク息切れを起こす日常でもある。
A4ペーパーの1/10でも真っ黒に塗りつぶせば十分にインクもカスレる予感で、線描きではインクが無くなるまでカスレませんが、ペン塗りのインク減退は定番行事のようなものだ。
全部真っ黒に塗りたいけれども、塗ればインクも無くなると思えば手も止まってしまうものである。
漫画家はつけペンなど使い面をぬりぬりと色のカスレのないように面塗りをしているのでしょうか(今やデジタルかもね)、一般ピープルな私たちはつけペンなどを利用するには少しハードルは高きことでもあります。
絵の具などで一気に面を埋めてしまう方法もありますが、こちらも紙が水分でヨレヨレとなるので嫌である。
やはり、面塗りはマジックの線を重ねて塗るのがキレイで早いのだ。
面塗りに適したペンとは先が太くて安物のカラーペンなどが最適です。
それらは安くてすぐにインクも無くなり使い捨てのペンである。
そして、我貧乏性は小さな頭を捻り考えたのである。
カラーペンのペン先から万年筆用の補充インクを吸わすとエセつけペンのような「万年インク」となるのではなかろうかという考えである。
そして、実際にペン先からインクを吸わせるとインクをどんどん吸引して吸引力が全く落ちない大損(ダイソン)なのである。
なので、あまり教えたくないけれど無駄な出費は極力防ぎたいと思う消費者の味方は書くのである。
長く嫌がらせ長文を書いていると時には有用な情報提供も織り交ぜていきたいと思うものであります。
そして、そのような文章の底には無数のアイデアが埋まっていて欲しいと願うのが制作者の願いでもある。
インクペン先はフェルトペンだけでなく、ファイバーチップペン先でもインクはよく吸います。
ボールタイプのペン先は無理ですがインクを吸うタイプペン先だとインクを吸わせることは可能です。

昨今のインフレな世の中でもありリチャージング技術などを使い生活防衛も必要です。
電気料金も上昇し、米など主食も上昇し、世界はとってもインフレで円安となれば輸入品の価格の全てものが上昇する傾向にあります。
日本はゆっくりにインフレが進行していますが、これは価格決定権が諸外国よりも弱いことを示しているように思うものだ。
マスクや米騒動のように緊急時の買い占めなどが起こらない限り価格は急激に変動しない安定性はあるものだ。
最近はPS5の価格が1万円以上の値上げとなりましたが、これは最近プレステの本社が品川から米国に移り適正なレートで価格決定権を行使するグローバル資本主義の一端を見るような感じでもあります。
その面からも日本に於ける価格決定権とは資本主義的なマーケットで動いているというよりも社会主義的な側面の業界の村で変動しているように思うものだ。
取引先が多いと値上げをするのにも手間と交渉が必要なものであり、価格は市場で変動して決まるとなればホイホイと価格が変動するのが資本主義というものである。
それが良い悪いという話ではありませんが・・・

0金利やマイナス金利というのは本などを見ても未知なものであります。
これは別の目線から見ると資本主義の否定のようにも見えて、0.25%の上昇でこの世の終わりと評論家が吹聴している姿を見ると何か狂っているような感じがするものだ。
僅か0.25%で金利のある世界は狂っているのか?それとも、金利0やマイナス金利が常識なのか?
確かに如何なる政策も日常となるものだ。
彼らは金利のある世界を否定するものではありませんが時期やタイミングについて言葉を濁すものである。
しかし、いつでも何時もどんな時でも0はおかしなものである。
マイナス金利になった時に多くの経済人は普通にバズーカを批判していたように思いますが、非日常が日常になると非日常が日常となって、また新たらしき日常となるようなそのような感じの中では、そのようなアベノミクスを批判していた人たちはどんどん消えていなくなったものであります。
これはネズミーランドのスタッフがそんな非日常世界で働くと今までの非日常は日常となり乖離する新しい日常が生まれるような感じの新しい日常を国民が受け入れた瞬間かもしれないものだ。難解!
ネズミーランドは働いたことがないので脳内シュミレーションですが、新しい会社や学校に身を置くとまた新しい視線や嫌な部分も見えて、内目線と外目線の違いはあるものだ。
それらは根底に広がる内側から見る世界と外側からみる世界の相違とも言えるのかもしれない。
確かに金利は上がることは大変ですが、私はどちらかと言うと今までは預金者の預ける銀行口座から正々堂々とお金を泥棒されているように思うものである。
この国の不思議は政治の不正も外国の宗教団体との癒着も言葉を変えれば泥棒行為や賄賂なども正当な行為となるようなことである。
本質でなく表層の言葉をすげ替えるだけで何ともなる人達はいるのであります。
千と千尋でも本当の名前を奪われればその人のパーソナリティを消えてしまうように、正しき伝令者は惰性で権力の言葉をニュースや制作物等を通して拡散し、それ以外の全ては部外者であり、素人でありと排除することで加担者となるのであります。
頭から腐ってきている証拠は内から外に目線を置くことで見えてくるように思うものだ。(たぶん)
8月も終わったので少し経済にも触れてみた。

 

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■2024年9月3日(火)
■とりあえずヌルヌル。

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■2024年9月4日(水)
■一日一文章トレーニング。

「冷しゃぶの鍋にこびりつく油をどのように取り除くべきか?」

今朝はクーラーはいらない程の涼しさであります。
外気温を測ると25.0℃・湿度64%で吹き抜ける風は少し肌寒くも感じるものだ。
久しぶりに全ての窓を開放し部屋の空気を完全に循環させております。

ところで、夏と言えば豚の冷しゃぶです。
「れい」と入力して第一候補に「霊」の文字が出てくる不吉はあるものの、ホットクックの低温調理機能を使い豚を茹で、そこに別茹でのオクラと、水にさらした玉ねぎを入れてポン酢をかけるだけで美味しい晩飯であります。
これは無言で箸が進むタイプのお料理で幽霊でも何でも呼び寄せるかもしれない美味なのだ。
ネットで検索するとお店の料理ですかと思うぐらいのキレイ盛られた冷しゃぶもありますが、このような3品だけでも十分に美味しいのが豚しゃぶです。
前日に食べた豚料理は完全に火が通っていたのでカチカチなお肉ではありましたが、低温調理した豚はなぜか柔らかくて美味しいお肉でもある。
豚料理とはパリパリに焼き目がつくぐらいに焼くのが好きですが、しゃぶしゃぶ用の豚肉だけは柔らかく低温調理した方が美味しいように思うものである。
さっそく、ネットで低温調理のお肉が柔らかい理由を調べると下記のようになる。
肉は加熱することでタンパク質を固めますが低温調理だとゆっくりタンパク質を変質させて、しっとりとした口当たりとなるようだ。
また、低温調理することにより肉の細胞の破壊も少なく肉汁を保持することも可能となり、そうすると肉の柔らかさを決める成分であるコラーゲンが長時間の低温調理によってゼラチン化し肉はますます柔らかくなるようである。
やはり、コラーゲンと肉とは「YESボス=行け天才」の(byブルーロック)な関係性である。
しかし、豚肉とはよく熱を通さないと危ないお肉でもあります。
低温っていっても70℃ぐらいで調理しているので推奨の60〜65℃ぐらいの低温よりも少し高めではありますが、十分に柔らかくて美味しいお肉でありました。

ということで、

美味しいお肉を食べた後には釜や食器のお片付けが待っております。
本来、コンピューターに頼みたいことはこのような後片付けな面倒事ではあるのですが、頭脳仕事はエー愛さんにお任せして、肉体労働は人間様がやる本末転倒でもある。
冷えた鍋を覗き込むと鍋底や鍋横にぎっしりと貼り付く油があるもので、美味しい料理の後には余計な油が残った洗い物も残っているものであります。
先日、スッポンを使ってシュポシュポスッポンと排水溝をお掃除したので、そのまま排水溝に流すには何か気が引けるものである。
早速、皆はどのように冷しゃぶ後の油水を捨てているのか調べると、ラップで油をすくい取ったり、それぞれの対処法はあるものだ。
油は水と完全に分離しているものの、水に浸かった油だけを取り出すことはとても難易度が高いものである。
遠心分離機にかけて完全に水と油を分離するとしても、このような大きな鍋にどのようにして遠心力をかけることが出来るのでしょうか?
そこで、我、閃いた!!
たくさんあるラッピング用の紙袋に排水を流し込み油成分を完全に袋でキャッチしてしまおうとするアイデアである。
紙袋は強度を増す為に3重にし、そして、どぼどぼと紙袋に排水を流すとちゃんと袋は水を受け取るものであります。
しかし、「あれっ」である。
水を袋から流す方法を考えていなかったので、水はいつまでも袋内に滞留し溜まっているのである。
とりあえず、「どうしよう、どうしよう」となり、紙袋の一枚を剥ぎキッチンペーパーを排水溝の上で受け取ろうとあたふたとしていたならば、袋は完全に裂けて油水はドドッと排水溝に流れ出たのであります。
完全なる失敗、完全なる無駄な作業と無駄な時間。
そりゃ単なる紙袋でもあるもので、その内に水の浸水によって紙は破けるものであります。

そこで、次なる冷しゃぶの排水に向けて改良点を考えてみた。
紙袋はやぶけて水を排水する前提で、紙袋の中に排水溝につけるストッキングネットを装着し、破けた時の油分をそこでキャッチすれば良いかもしれないと思うものである。
そして、ネットの中にちぎった紙をパラパラと投入して油を紙に吸着させると、層を成したフィルター効果を発動してキレイな排水として流せそうな予感であります。
他の人たちは冷しゃぶの排水をどのように捨てているのでしょうか?

 

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■2024年9月4日(水)
■あの名シーンを思い出しながら描いた。

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■2024年9月5日(木)
■一日一文章トレーニング。

「鳩たちは風に飛ばされ、私は草むらで怪しい毒キノコを見つけて、小さな秋を感じるのであります」

チチチチと未知な小鳥の鳴き声が外から聞こえてきます。
窓を開けてキョロついたならば、遠くに飛んでいく小鳥の残像を見るもので何の小鳥なのでしょうか。
雀よりも小さいような気もしますが、私がニョキッと顔を出すので驚いて飛んで逃げる野鳥であります。
鳥の観察者はどのようにして透明な存在となって鳴き声のする鳥を見つけ観察するのでしょうか。
私なんて目の前にいるメジロでさえ警戒されて飛んで逃げてしまうような鳥観察不適合者であります。
何かしらのオーラーを醸し出しているのか、動きが早すぎて鳥を警戒させてしまうのか、目がギョロギョロしているのか。
公園で体に雀や鳩をまとわり付けている変な人もいますが、あの人たちは鳥を警戒させない何かの技術を会得しているものである。
「私は樹齢100年の大木である」モゴモゴと念じていれば鳥に好かれるのでしょうか。
鳥は遠くから発見し双眼鏡で覗き徐々に距離を縮めるのが一番手っ取り早き観測方法ですが、街中で双眼鏡を持ちうろうろ覗いている奴はとっても怪しい人間でもあります。
また、時にこの街にはカラスに向かってな何かペチャクチャ言っている変な奴もいて、都市でのバードウォッチングは自宅の窓からお目々をギョロリが定番であります。

そして、朗報としては、この周辺に住み着いていた鳩たちが一つ前の台風で大多数いなくなり、最近のノロちゃん台風で全3羽どこかに飛ばされたようであります。www
いやはや、風の力は凄いもの。
このような風のパワーで飛ばされるならば、どこかにホコリが溜まるようにやたらと鳥たちが集まる場所があるのかもと思ったりもするものだ。
台風の方向をメモっていたならば良かったもので、その方向に向かって歩けば鳥たちが飛ばされて集まるサンクチュアリーな場所を発見できるのかもしれません。
確かに、台風後の街に鳥はどこに行ったのか?と思うぐらいにあんまり見かけない鳥たちでもあります。
これは落ち葉が風で吹き飛ばされて隅っこに集まるような方程式のようなもので、次の台風で風の方向をメモっていれば飛ばされる予測地を割り出せる可能性もあるものだ。
何という暇人なのでしょうか、しかし、予測通りに本当にたくさんの鳥たちが飛ばされる楽園を見つけたならば、すこす感動で泣いちゃうかもしれないものであります。
\草/ 

それにしても、私は自然の法則に逆らい鳩の天敵であるカラスをパパラッチカメラで追い払う負い目はあるものであります。
そして、それなりに鳩も増えるとどうなるやらと責任を感じていたものである。
しかし、今は鳩数0羽。鳩圏消滅、めでたしめでたしの完璧なハッピーエンドであります。

そして、窓を開けると朝の涼しくて気持ちよかな風が入ってくるもので、あ〜風も電波みたいな波なのかな?と思ったりもするものだ。
調べると風は周期的に振動しエネルギーを運ぶという性質に於いては一種の波であるらしい。
風は空気を媒体として他の風と干渉し強まり、弱まったりしながらエネルギーを遠くに伝えることになります。
異なる点は電波の速さは高速で一定ですが、風は気圧や温度によって変化し、電波は波長の長短はあるもので、そのような相違点はあるようだ。
山の上のトビなども見ても風を読み旋回したりするもので、鳥たちは人には見えない風の方向や強さが見えているのかもしれないものだ。

ところで、

昨日、変なキノコを見つけました。
空き地の草むらに生える白いきのこ。
写真のキノコはピンポン形ではありますが、周辺のキノコは傘が開いて円盤状になっています。
さっそく、ネットで名前を調べると「オオシロカラカサタケ」という種類のキノコのようであります。
春から秋の季節の変わり目に生えるキノコのようで正に季節の変わり目は気候以外の土の上からも見えます。
このキノコは日本ではレアキノコであったらしいのですが、私が見つけてしまうぐらいに最近は頻繁に見かけるキノコでもあるらしい。
理由は地球温暖化によって生息域を広げているらしいのですが、私などはこのキノコが芝生などによく生えるそうなので、そのような芝生に寄生して生息域を広げているようにも思うものだ。
勿論、毒性で食べると嘔吐や下痢をするような危険なキノコであるようであります。
このような怪しいキノコは誰も拾って食べようと思わないと思うのですが、何でも拾いたい私が一瞬キノコをもぎって収穫してたいと思っていたので食べてしまう奴もいるかもしれないものであります。

 

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■2024年9月5日(木)
■ドライブ。

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■2024年9月6日(金)
■一日一文章トレーニング。

「目の前に立ちはだかる柵を越える」

「急がば回れ」とは全人類的な教訓です。
それなりに長い人生の中で「急がば回れ」は子供時代から何度も口にしてきたことでしょう。
そして、今日のテーマは「急がば回れ」で文章を完成させようと思ったものの、根本的な言葉の間違いに気付くのであります。
それは「いそがばまわれ」を今まで「いそばがまわれ」と「ば」と「が」をひっくり返し言っていたことに気付くのである。
誰も気付かないし、オレも気付かない、夢の中で「ばが」ってどういう意味だろうという夢を見て、今朝はじめて辞書を調べることで根本的な間違いに気付くのであります。

「急がば回れ」とは急いで目的地に到着しようと近道を選択することで、かえって道に迷って目的地に着くのも遅くなる教訓でもある。
同類の言葉だと「急ぐ鼠は雨に会う」や「急ぐ鼠は穴に迷う」みたいな言葉もある。
急いで物事を推し進めることの戒めのような言葉でもありますが、チューチューと道を急ぐ鼠の無駄な動きをみて着想を得た言葉かもしれない。
しかし、実際に急いで近道を選んだとしても良い結果とならないことも多々あるので、これは結構正しき言葉で間違いないものだ。

先日、道を歩いていた時にぐるりと大回りするのも面倒に思ったものである。
歩数で言うと数百歩以上は確実に増えるだろう道を歩むならば目の前の柵をサクッと跨げば時短で近道となるものだ。
我が脳みそにはもうすでに大回りで歩く選択肢はないものでスタスタと柵に近寄りサクッと足を上げてまたぐのであります。

「あれっ」と意外に柵は思ったよりも高さのあるものだ。
柵に跨る乗馬スタイルとなってはじめてヤバいと思う上手も手から水が漏るるな感じでもある。
足が短いのか想像よりも背の高かかった柵に少々ビビり、次にもう一方の足を跨ごうと思うと体が固くて「あれれイテテ」とかなりきつい。
利き足ではない足はそんなにあがらない足でもあり、颯爽と柵を跨ごうと思ったものの最後の一歩の足があがらなくて苦戦するのであります。
もう一方の足があがらないので柵の端っこまでイモムシにように移動しようかと思うのですが、多少の足の長さも足りなくて、そのようなお作法も出来ないものだ。

人生には絶対に越えなければならない壁があるものだ。
そのような柵の壁にまたがり、私は「いそ-ばが-まわれ」と間違った言葉で反省するのであります。

技術や体力で足りなくて越えられない壁や山脈は気合と根性で越えてきたもので、ドゥーマイベストを尽くせばもう一方の足も確実に上がるはずと頑張るのである。
「イタタ」
イタタのパンデミック以来運動不足とは常々感じるもので、ここ数年運動らしき運動はしていないものであります。
このような柵は昔であればササッと越えられた壁であったかもしれない壁ではありますが、無理な体勢に足をあげると忘れられていたカチカチのコチコチの体に気付かされるものである。
同時にこの「イタタ」の筋肉の感覚とは微妙に気持ち良い体の痛さでもある変態性。
一人で蜘蛛の糸にひっかかったような虫のように、「イタタ・イタコの戦い」をやっていると何かと足をひっこ抜くことが出来てギリギリのセーフ。
通りすがりの足の長い外国人に何をしているのかと見られながら「わらわは自分自身の限界を越えているのだ」と思うものである。
何事もなかったようにスタスタロードを歩みパン屋でパンを買って帰るのである。
道とは常に切り開かれるものであり、私の前に立ち尽くす壁はないものだ。
私が歩いた道が踏みしめられて道となり、あの柵はもう二度と跨ぐことはないであろうと誓った。
正しく言えば、「いそがばまわれ」である。
私以外にも間違って言っている人は多いような予感のする言葉であります。

 

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■2024年9月6日(金)
■あ〜かわいい〜バイクカーたちだ。

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■2024年9月7日(土)
■一日一文章トレーニング。

「この世は相手に対する気遣う文章が足りていないような気がしたので手紙の構造から探ってみた〜伝えたいことは相手への敬いの言葉でサンドイッチすることで吉となる?」

アツイ!!暑いのです。
暑すぎるので残暑御見舞い申し上げるお手紙を書きたいものである
さっそく、辞書にてお手紙の書き方などを調べると、巻末には丁寧にも生活の知恵や手紙の書き方などが詳しく書かれています。
お手紙を書くこととは一世一代の大仕事でもあり、手紙なんてここ何年も書いていないものでもある。
何とか頭を捻り伝統的なお手紙の文章構造を分析したみた。

こんなにも暑い日も続くので「残暑お見舞い申し上げます」と書きたいところではありますが、残暑とは8月の慣用的な時候の挨拶であり、9月の文章としては適当ではないようだ。
ならば、9月のこの暑さを何と表記すれば良いのかと調べると「秋の日差しはまだまだ強く」「秋暑(しゅうしょ)なお続きますが・・・」と書くようである。
秋の涼しさの欠片を感じるのであるならば、「秋涼の候(しゅうりょう・秋になって感じる涼しさ)」「初秋の候(しょしゅう)」と書く方法もある。
前文は読む相手の共感を得やすい現在の気候を記載して、文章の締めには「夏の疲れが出やすい折からご自愛下さい」「台風の季節ですのでお気をつけ下さい」「しのぎやすい秋が待たれますが健康にお気をつけ下さい」のように相手側に気遣う文面で文章を締めるのが大人の流儀のようである。
そして、このような流儀は私に足りていないものである。

分析すると下記のような構造となる。

・前文→(拝啓)ありのままの季節を表記し「お元気ですか?」と相手の挨拶と気遣いを文章に込める。
・内容→ご自由に。
・結びの挨拶→相手の健康とご多幸を祈る気遣った文章で締める(敬具)。

・拝啓の「啓」は口を開けて啓上(けいじょう・申し上げる)ことで、相手へのお辞儀と敬意を示しながら文章を開始することになります。
・敬具の「敬」は相手を敬愛し(敬い、愛すること)、「具・お供え物」を供えることで文章を締める。

このようなお手紙文章をすらすらと書ける人は本当にスゴイものであります。
私なんてどのような文章を書くとなれば、前文の挨拶は「オッス」の3文字から始まり、結びは「乙」の一文字で終わる文章である。

・前文→オッス!
・内容→短文で。
・結びの挨拶→乙。

このような手紙はこの世の終わりのようで、なかなか酷い文章である。
それもこれもあれもどれも全部スマホが原因だと思うのですが、「オッス」は挨拶でもあり「乙」とは「おつかれ」の乙でもあるので多少相手の気遣いもあるものだ。
スマホやメール等でやり取りする文章とは自分の言いたいことだけを簡潔に表記する感じでもあり、余計な事柄を書かないことがまともな人間の書く文章でもある。
今や「。」をつけるだけでもハラスメントと言われるので、「拝啓敬具」などの相手への敬いの言葉も消えて自己中心の言葉が連なるものである。
ビジネス文章みたいな伝達のみの文章であれば、ご自愛とか相手への関心とは全く不必要であり、求められるのは正確に正しく短く記載することである。
そう言えば、はじめてメールを書いた時にどのように文章を書いていいやらと悩んだものでありますが、そのような文章とは横文字で綴られた外国語を見るようにも感じたものである。
文章の良し悪しを問うものではありませんが、技術進化が一方的な伝達装置となり脳内思考も切り替わっているように思うものである。
文章には言葉の念というか言霊のようなものがあるものだ。
現代人の文章には相手の敬いを伝える機会は少ないとなれば、言いたいことだけの言葉がピンポンと飛んで打ち返すだけの殺伐とした他人に対する敬いのない世界である。
形式的でも相手への敬いが感じなければ、人との接し方にも変化があるのが人というものである。
カタチだけでも相手への気遣いを文章に込めれば、このギスギスとした概念世界にも多少の癒やしはあるのかもしれないと考えればお安いものでもある。
拝啓、敬具、拙者と重たい文章ではありますが、相手の気遣いと敬意をすこす取り込んだ手紙の定型例を作ってみた。

皆様

拝啓

こちらは秋暑溶けるような日差しが降り注ぎ、雲が日差しを隠してくれまいかと思う毎日であります。皆様お変わりなくお元気にお過ごしでしょうか。

オッス〜です〜乙

虫鳴く秋は待たれますが、夏の疲れが出やすい折からご自愛下さいませ。

敬具

拙者

令和6年9月7日

勿論???です。
ですが、重要なのは相手に対する敬いの言葉が前文と結びの挨拶にあること。

・前文+内容+結びの挨拶の構造は
・(相手に対する敬い)+(内容)+(相手に対する敬い)でもある
・自分言いたいこと、求めること、伝えたいことは相手に対する敬いでサンドイッチにすることで一つの定型文と成す先人の知恵である。

 

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■2024年9月8日(日)
■一日一文章トレーニング。

「拝啓と敬具で言葉を囲う意味は十分にありそうだ」



メジャーリガーのアルファベットが書かれた帽子は格好良きもの。
しかし、アルファベットには数の限度がありそれなりに文字の飽和状態が来ているように思うものだ。
キャップのデザインとはアルファベットだと格好良く決まりますが、漢字やひらがな、カタカナだと何か変な感じにもなる。
カージナルス球団みたいな鳥マークだと素敵ですが象徴としてのロゴマークをデザインに落とし込むほどの、こだわりのマークもない。
そう言えば、イチローさんが昔かぶっていた「b」の帽子が気になりネットを調べると全く出てこない帽子であります。
オリックスやシアトルチームの帽子、メッセージ性の高いTシャツなどは検索結果に出るものの、探している帽子のマークは全く見つけることが出来ない帽子だもんだ。
私がイチローさんのイメージを頭に浮かべると昔球場で見たレーザービームな感動の返球と「b」の帽子を被った姿が頭に浮かぶものである。
野球は打ってなんぼではありますが、単に打たれたボールをキャッチして返球するだけで「おお〜」となるのがイチローさんのスゴイところである。
この帽子は私の妄想かもしれないと諦めていると、検索ワードが「イチロウ」になっているよと指摘されます。w
そういうことで、もう一度検索ワードを見直して入力し直すと今度は「イチョロウ」となって恥ずかしいものだ。ww
パソコン入力を横から人に監視されると妙に緊張するものだ。
答えはDJホンダの「h」マークでありました。
そもそも「b」でも無くて人の記憶とはあやふやで不確かなものである。

昨日「拝啓+手紙+敬具」の定型文は日本文化のカタチを表しているように思うと書きました。
例えば、武道であれば「礼に始まり+試合+礼に終わる」が典型的な日本の型である。
しかし、日本の武道でなくともラグビーであれば「ハカ+試合+ノーサイド」みたいなこともある。
危険なスポーツだからこそ相手を敬い、お互いに健闘を称えあい試合を終える必要もあるものだ。
このような何かと何かで挟む構造とは数式であれば関数の函のような感じもするもので、HTMLのプログラムであれば<div>コード</div>タグにも現れ出るものである。
面白いところだと、優秀な方のAIさんの返答なども「はいその通りです(相手を敬い)+内容+参考文献リンク先」を貼る感じのサンドイッチ構造である。
この形状は身の回りの様々な部分に存在しているもので、AIさんのカタチもたくさんの文章量をこなすからこそ自然とそのようなカタチ収斂していくのかもしれない。
私の文章構造も「前文+内容+まとめ」というような形状になることも多い。
文章構造とは通常、起承転結みたいなテンプレを思い出すものの、数をこなせばこなす程に、そのような思い込みは崩れ「前文+内容+結び」のような構造に辿り着くのが世界の普遍性でもある。

ネット文化の文章には相手に対する思いやりはほぼ見られないものである。
恐らく、ご先祖さまたちは文章や言葉は呪文であり、呪いでもあり、武器でもあると考えたこそ言葉の前後に「拝啓敬具」などの相手を思いやる言葉を添えたと思われます。
これは言葉をつむぐことが格闘技などと同じく危ないものであると感じていたからこそ、昔の人は拝啓敬具な文字で言葉を挟んだのかもしれないものである。
365日×10年間、SNSに降り注ぐネット文字のシャワーを浴び続ければ人はどのようになってしまうかと想像すれば、想像通りの結果になりそうな予感でもある。
ここは先人の知恵を借り、もう一度我、襟を正し学び直す時ではないかと思うものである。
人工知能の文章でさえどのような相手に対しても敬いと情報をサンドイッチした構造にあると考えれば、人が如何に未熟で暴力的であるかと理解出来るものだ。
私も何か相手にメッセージを送信する時にそのような相手に対する敬いの言葉を添えて包み込める存在になりたいものだ。
相手への敬意とは第一に挨拶を行こない相手の名前を覚え(初見でこれはなかなか難しい)、その人の売りや特技に関心を持つことで相手への敬意は生まれるものである。
そして、これは一期一会の精神とも読めるものである。
しかし、打算で行動してしまうのも人であり、こういうのはとても当たり前だけれども大人になればなる程に出来なくなる不思議でもある。
これは私自身の反省でもある。

ということで、

朝から習字で「押乙」した。
墨汁が手やあちこちに飛ぶ惨劇でA4コピー用紙にプラモデル用の筆で書いた。
小学校以来かもしれない習字です草、押乙の精神を忘れないように壁に貼っておきましょう。


 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年9月8日(日)
■押乙☆