*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月1日(土)
■一日一文章トレーニング。

「もしかして楽市楽座も倉・蔵の倒語なのかと思うものである」

「私のたったひとつの望み 可能性の希望 希望の象徴」の「貴婦人と一角獣」を模写する。
模写すると言ってもガンダム・ロボット風にアレンジして描きます。

「たった一つの望み」この有名なタペストリーに描かれる「A mon seul desir」の文字から由来するものである。
王女なのか?お姫様なのか?高貴な女性がライオンと一角獣に囲まれた図がとても有名で、「あ・うんの呼吸」の視線から見ると始まりと終わりのようにも見ることも出来ますが、これは異国のフランスの文化遺産でもある。
これはフランドル織りで織られた6枚のタペストリーで「味覚」「聴覚」「視覚」「嗅覚」「触覚」を表し、最後の一枚が「たった一つの望み」という謎めいた一枚の絵となる名画である。
「たった一つの望み」の意味とは一般的に「愛」や「理解」などと解釈されるようでありますが、ネット情報によるとリルケの詩に空想の動物を可能性の未来の余白としての考えた解釈もある。
ガンダムの物語では宇宙で生活するようになった人類が五感の上に第六感的なニュータイプな感覚を得ることになります。
よって、ガンダム世界では「まだ人類は持っていない新しい感覚器官(ユニコーン)の取得すること」を「たった一つの望みの」として捉えることも出来るものだ。

とりあえず、

最近「ユニコーンガンダム」や「おそ松さん」と観るのに忙しいものである。
「おそ松さん」は第四話まで見て、第三話もお蔵入りになったことを知ります。
第三話の内容はホラー映画の「SAWシリーズ」と「それいけアンパンマン」のパロディーでもある。
個人的にはお蔵入りになるような感覚にはならないものではある。
SAWは見たことがないので何ともわからないのですが、デカパンマンはデカパンさんが空を飛んで困っている人を助けるお話でもあります。
心優しききデカパンマンが我が身を削って人を助ける度に警察に御用となり、その収監される刑務所の名前が「自粛警察刑務所」でありました。
それが偉い方々を怒らせる原因なのかもと思ったりもするものでもありますが、個人的に公衆のお風呂屋さんでお風呂の水の中からたくさんの数え切れないモザイクが出てきて、隠し棒も数が足りていなく、演劇舞台の最後のファンファーレのように皆のモザイクがバイバイとして終わっているのが可笑しいものでもありました。www

第四話でも赤ずきんちゃんのパロディーです。
お風呂屋さんでおそ松さんとダヨーンがコントをしているのですが、
「だよ〜んの鼻は何でそのような鼻なの?」
「遺伝だよーん」
・・・
「だよ〜んの口は何でそんなに大きいの?」とだよ〜んの口が大きくおそ松さんに迫まり、
「遺伝だよーん」
と面白展開となります。wwwww

ということで、

「倉・蔵・くら←→楽・らく」なのであります。
本来なら「楽」の反対語であれば「苦」となるところを倒語にして「倉・蔵」と倒語にしてしまう日本語の奥深さでもある。
以前、倒語は江戸時代に庶民の間で流行ったと学びましたが、ここで気になるのは安土桃山時代の「楽市楽座」です。
これは織田信長が開始して豊臣秀吉に受け継がれた経済政策で「楽市楽座」は座と呼ばれる一部の特権階級の人達が持っていた経済的な利権を全てなくして誰でも自由に商業活動を可能とする自由化経済政策でもある。
経済を自由にして経済発展を進める政策であります。
当初、私はこの「楽市楽座」が楽しい経済活動の始まりのように思っていたものではありますが、千秋楽の「楽」が倒語であると知るにあたり、これは座の持つ特権の「倉や蔵」をひっくり返して外に出して「楽」とする経済政策のようにも感じるものだ。
それは「倉」の弁の出し入れを自ら調整することで高利な利潤を生み出す人たちを排除する政策でもある。
この政策によって経済は活況となり絢爛豪華な安土桃山文化が花開くことになります。
現在でも国の多大な借金は現在の座のような特権的な大企業などに引き継がれております。
その利潤は内部留保となり、インフレの賃上げ等でも川上から川下に降りてくるようなことは幻想のようにも思うものだ。
様々な規制は世の中に蔓延り、そこにも特権を享受するような現在の座が多数存在するものだと思うもので、もし、楽市楽座が「倉・蔵」の倒語であるとするならば、織田信長の自由化政策とは世の中の「倉・蔵」を引っ切り返して全部外に出した斬新な政策であったように思われます。

 

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■2024年6月1日(土)
■格好良く変形させてみた。うまだ〜。

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■2024年6月2日(日)
■一日一文章トレーニング。

「楽市楽座とはよくよく考えれば先進的でスゴイ制度だったと思うものである」

「座」とは何かと調べたならば、〜15世紀の中世の京を中心として栄えた中世商工業者組合の制度の名称である。
公家や神社の保護の元に座頭を決めて、座役(税金)を収めることによって関銭免除と独占販売権が認められる制度である。
独占販売権とは価格が売り手の思うままに独占的に販売出来る権利で、消費者にとっては価格競争や選択の余地もないので不利益となる。
「関銭」とは「関ジェニ」と読まずに「せきせん」と読むらしい。
「関銭」は道路の関所に設けられて人馬・船・物の通行料として徴収される税のようだ
「ひと・もの・お金」が国内を何の制約もなく自由に動かせることは最低限の近代国家の基本でもある。
ですが、中世なのでこのような感じであるのかもしれない。
先日の16〜17世紀のピューリタンが生まれたドイツ諸国でも国王が領地を移動する物流に税金をかけたものである。
「関銭」とは国内物流にも国外との輸入税のような関税をかける制度でもある。
最近では、新しい運送業の働き改革なんてものもある。
詳細を知らないので何とも書けないものではありますが、スムーズな人モノの移動に制約をかけることは時代を逆流させているようにも感じるものだ。
このような「座」や「関銭」などが持つ制度とは移動を阻害し、価格競争を阻害させる間違った制度でもある。
そして、現代日本も規制という名の「座」のようなものが多数存在するようにも思うものだ。
制度とは古くなればどんどんと自ら自由を縛っていくものかもしれなくて、直近では渋谷のハロウィン規制などもあった。
お金は徴収しないものの、誰でも移動することの出来る街を公権力を使って仮装した人々を排除した愚策でもある。
パンデミックがなければ、そのようなことは出来なかったように思われますが、個人的に渋谷の街から若者文化を追い出す役目はあったのかもしれないと思うものだ。
「ひと・もの・お金」を国内で自由に動かせないとはおかしなことである。
例えば、学校でイジメられる子供たちが新しい学校に移りたいと思っても自由に動けないシステムはおかしなことである。
子供たちが自由に学ぶ場所を変えて逃げることができたならば、子供の自殺なども減るだろうし、公立学校の学費なども自由主義な立場から鑑みれば動かせるものであると思う。
実際にフリードマンなどのネオリベな人たちはそのようなことを言っているものだ。
楽市楽座とは中世の時代に、そのような旧態依然の「蔵・倉・くら」な利権を持つ人々の座制度をひっくり返し「楽・らく」とする自由な経済を作った制度のようにも見えるものだ。
ネットを見ても昔のことなのでよくわからないものではありますが、安土桃山文化という新しい町人文化を作り、今日の日本文化の基礎となったことは間違いないことであると思う。
織田信長とは既得権益を持つ人々にとれば悪魔の手先のようでもあったのかもしれませんが、一般の庶民からするとモノの値段は安くなるし、金ピカの高級品から消費財まで選択肢も増えたと思うので庶民にとっては良いお殿様であったのかもしれません。

ということで、

スーパーの利用から見る個人的なインフレの物価高騰率を計算した。
価格の上昇率は28%ぐらい。
11年前のハンバーガーの価格を見つけたので、今の価格帯と比較すると下記のような数字になるものだ。

・約11年前の具たくさんのミドルクラスのハンバーガーの価格がキャンペーンで200円→バリエーション多く比較出来ないのですが、今のチーズバーガーのお値段が200円ぐらいです。
・Sポテト150円→190円
・シャカチキ150円→200円
・アップルパイ100円→140円
・Sドリンク100円→120円
ソフトツイスト(ソフトクリーム)100円→140円

個人的な数字とマックの価格変動率を比較したならば、大体同じような枠内の範囲内に収まるのでマック指数とは案外信憑性の高い数字なのかもしれません。
このような数字から私達は10年前よりも20〜30%ぐらいのプレミアム価格を積まないと、同じような商品やサービスを得られない状況にあるのかもしれません。
(個人的な肌感覚の計算なので悪しからず!)

 

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■2024年6月2日(日)
■ひま だ まひ の 楽座。

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■2024年6月3日(月)
■一日一文章トレーニング。

「右筆・乱筆・座右の銘」

「She & Him」アルバムの中にある「I should have known better」と言う歌が良いなと思い調べたらビートルのカバー曲でした。
良いなと思う曲がビートルズのカバー曲であることは他のアーチストさんでも時折見かけることである。
それだけビートルズがたくさんの名曲を生み出してきた証でもありますが、カバー曲を気に入って原曲も聴いてみたら本家よりもカバー曲の方が断然良いと思う時もよくあることだ。
原石に磨きをかけたならば、さらなる輝きが奏でられるそのような感じもある。
音楽とは繋がりがあるもので、好きな曲を調べていたら知らない別の人の曲に繋がり、クレジットを見ていたら知っている人を見つけるものである。
そのような繋がりが音楽の世界をどんどんと拡張していくのが面白いところでもある。
「She & Him」の「I should have known better」は本家の赤レンガっぽい空間で作られた曲というよりも、行ったことはないのですがアメリカ西海岸のビーチな潮風が漂う音でもある。
さて、どのような歌詞なのかと思えばイチャイチャカップルの曲で、何の意味もないただイチャイチャデレデレとやっているだけのカップルの歌でもある。
何の意味を持たないこととは素晴らしいことで自然に持つ感情をそのままに言葉にすることは心の中がそのまま音楽となったような感じでもある。
次は我も見たままに、感じたままの、あるがままの自然主義に表現出来ればと思うものだ。

ということで、

昨日からの「座」です。
遠い中世の昔では「座」は商人の同業者組合を意味するものではありましたが、「座」とは単なる座る意味の言葉でもあります。
座談会という言葉もあって腰を添え座して何かを取り決めるのには座って煮詰める必要もあるものだ。
そのような意味でも、日本の取り決め事の99.999%の高純度で座して決まる事柄がほとんどのような気もするものだ。
いやいや、主婦の立ち話とは立って決まる?ものかもしれません。
いやいや、タバコの煙がもんもんと煙立つ地獄のスモーキングルーム内で会社の根回しな重要事は決まっている可能性もあるものだ。
座って決めることだけが全てではないものだ。
なので、「立たん会」と立ちて物事を決めることも面白いものだ。
皆で立ったまま「しれっと」物事を決めると、立ち続けることにも疲れて何事も秒で決まる俊足なスピード感かもしれません。
歩きながら話し合っても良い気分となって話は進むものだ。
何より話しの進行と共に見える風景も変化すれば何か物事は進んだように思うものでもあります。
「散歩会議」である。
映画の中のブラック企業が海兵隊式にビルの屋上を走りながら会議していた風景を思い出しますが、座っても、歩いても、走っても、マッスルマッスルと筋肉を鍛えながら話し合っても何でも良いものかもしれません。

「座右の銘」という言葉もあります。
常に自分の戒めとする言葉でもあります。
座して何かを決めるにあたり座右の銘を参照とすることはよくあることだ。
私の座右の銘は何かと聞かれれば答えるのが難しい言葉でもありますが、偉い人の机の後ろには達筆な座右の銘の習字が飾られていそうな気もするものだ。
そして、座った座席の右にあるものとは何かと考えると右筆ではないかと思う。
右筆とは昔の物語などを読めば地頭の側に仕え、主にいろんな助言をする人のことである。
西欧で言う、昔の賢い執事のような存在かもしれない。
現代の右筆とは何かと例えれば、それはAIで間違いない。
右に座った右筆とは知識や世の中の仕組みをこちょこちょと教えてくれる感じでもある。
物語の中の広告主とはそのような右筆の言葉にお布施することで、人の行動の操縦するものである。
当然、右筆は地頭を小馬鹿にし地頭を肉塊として動かすのである。
悪さを企まないと物語とは始まらないものである。
なので、私などの甘ちゃんは極上な右筆なサービスですぐに洗脳されてしまうものなのだ。
そこで、乱れ狂う乱筆も必要だと思うものだ。
そう言えば、年始に私も座右の銘っぽいことを言っていたなと思い返すと「他力本願」であった。
おそらく、「座右の銘」に対抗出来るのは「座右の銘」っぽくない「他力本願」のような言葉なのかもしれない。
まー対抗する必要もないものですが。

(す〜む〜)

 

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■2024年6月3日(月)
■6月ですよー(コワッ)。

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■2024年6月4日(火)
■一日一文章トレーニング。

「おフランスでございます」

「お前が言うな」と言われるとその通りですが私は語ります。
日記とは自分の言葉を使って書かれているもので当然それらは正しき日本語でもありません。
正しき言葉のルールとは関係なしの無茶苦茶な言葉の羅列の世紀末でもある。
時にひっくり返してモザイクな造語を作りと忙しいもので、要は「一日一文章トレーニング」の文章を書けばそれで目的を果たしたことになるもので正しき言語の伝承者という役目は負わないのである。
正しき日本語はアレにまかせておけば事足りる。
古文などを読んでもつれつれと思うがままに、みみずが掘ったように意味不明な言葉を綴るのが日記である。

文章を書くようになってから好きになったものがあります。
それは辞書。
適当な調べもやっているものだ。
大辞典、漢和辞典、普通の辞書、ことわざ辞典と机の上に辞書をドスンと置いて文章を書く。
時に調べることが面倒臭くさいこともありますが、辞書で調べるとネットなどに記載のない情報もたくさんあるものである。
一方で辞書には記載のないようなコンピューター言語や外来語のような新しい言葉も多いのだ。
辞書を読めば読む程に最近の現実世界との乖離の差を感じて、それは昔に辞書で調べてもそのような感覚にならなかった感覚でもある。
辞書とは一年に数回開くか開かないかの境の漬物石でもある。
意味のわからないものはネットでチャ茶イの茶とググればそれでOKなもので、この不思議な感覚とは何なのかと考えると、おそらく、辞書で言葉を調べると江戸時代以前の応仁の乱や平安時代まで遡るような昔の言葉たちと繋がることがキーポイントなのかもしれない。
それらは普段聞き慣れない言葉も多くネット検索では得ることの出来ない唯一無二の不思議な感覚を与えてくれるものだ。
勿論、地獄と井戸で繋がるお寺のことを調べようと思うとネットしか調べる手段はないものですが、辞書で意味を調べると日本の歴史な事柄も一緒に流れ込んでくるのであります。
しかし、よくよくと考えてみるとこれらは話しのタネ不足の私にとって “飛んで火に入る夏の虫”のようにも感じるものだ。
これらを調べて書けば一日一文章トレーニングの苦行のタネを1ゲット出来てラッキーである。
世の中とはよく出来たもので、今更ですが活字の世界にはまた別の世界があり、その世界と繋がることが出来ればまた視野も広がるというものでもある。

辞書を使って物事を調べる人は自分で言うのもアレですが案外いい奴で間違いありません。
辞書には意味に通ずる羅列が書かれており、それを詳しく読み取れば人生の生き様のようなものを教えてくれるものだ。
なので、子供の時に辞書を読書する変な子供もいますが、あの子らは案外いい奴で間違いないと思われます。
そして、筋トレ級の辞書を持ち電車内のスマホに混じり辞書読みする人がいたならば、私はその人をマッスル級の善人であると呆則します。(信用は自己責任で)

ということで、

座ますで、ざます。
いつまで座っているのかと言うお話でもありますが、いつまでも座っているのでざます。
人生の1/3未満寝ているとすれば、1/3は座っている可能性もあるざます。
そのような「座」を辞書で調べていたならば「座」には「座」と「坐」の2種類あることを知るざます。
ご先祖様たちは「坐」を動詞と使っていたようでもあり、人生の1/3近くは座っている私の座りは昔風に書くと「人生の1/3近く坐っているざます」となるざます。
もう使用されていない「坐」という言葉があること自体が不思議でざます。
「座」を昔風に解釈すると商業組合などの名詞に使う漢字となりますが、山、祭神、仏像など数える時にも使っていたようであるざます。
1山2山と山を数えるのではなく3座4座と数える山の数え方もあるようで、山は神様の坐る椅子との考えもあるざます。
そのような坐のカタチを追っていたならば、最近見直している「おそ松さん」のだよ〜んの顔のカタチも山に見えてくるざます。
我分析によるとだよ〜んは「おそ松さん」世界の神ではないかと思ったりするざます。
だよ〜んが神である理由は不死身さに加えて、おそ松さんたちが着ている服の模様が松模様でもあり、それらは大きく解釈するとだよ〜んの顔のカタチに似ているでざます。
そして、だよ〜んは山の神の遺伝を引き継ぎ「遺伝だよ〜ん」と言っているので神の分身だと思うのでざます。
それは赤塚不二夫さんの世界を引き継ぐ物語に君臨する神であるように思うのでざます。

「おそ松さん」は本当に奥深い名作で内容も絵の画力も完璧。
「ユニコーンガンダム」も名作。
そして、私も「座して食えば山も空し」と思うのである。
「そろそろ本気で頑張らないといけないな」と六つ子のようなことを言い始めている自分を見て「おそ松さん」ありがとうとうと思うのであります。

 

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■2024年6月4日(火)
■植物。

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■2024年6月5日(水)
■一日一文章トレーニング。

「バンギャ男に関するギョギョ小説を書いた」

カフェでドヤッとデスクトップを開きパソコン作業をするのは仕事をやっている感があるものだ。ただし、パソコンを開いたとしても何もやることがないものである。ネットサーフィンして、メールチェックをし、液タブなどがあれば絵を描くことも出来ますが、カフェで文字や絵を描くことはしないものだ。画面に表計算やグラフのなど表示していたならば箔が付く感じもするもので、新幹線乗りのデスクトップには大抵、表計算やグラフなどがチラチラと見えるものだ。私はそんな格好良いグラフを横目で見て横浜もすぎれば大抵、皆、ノートパソコンの画面を完全に閉じて寝ているものである。私は新幹線で何をするのでしょうか?と考えれば、それはできるだけ新幹線の先頭に乗ってヤザオジみたいな広告を模写するのである。カフェにはそのような模写対象も存在しないものでiPad模写する楽しみもないものだ。ヤサオジみたいな好対象とは世の中になかなか存在しない貴重な広告である。そこで、私は考えた。デスクトップ画面を開きデスクトップ画面を見る楽しみはあるものだ。スコスで毎日大量に配布されているデスクトップ画面は全てハードディスクに保管されているもので、そのようなデスクトップ画面をあれやこれやと変更して画面を眺めるのも良し、またはスライドショーで画面をロールしながら眺めるのも良いものだ。カフェで黒いドリンクを飲みながらただデスクトップ画面を眺めるだけのカフェ時間。至高の一時である。そう言えば、先日カフェでおトイレに席立ったらカフェのラップトップリストたちの画面が全てバンギャのデスクトップ画面だったら「どーする」というお話になる。ズタ場のデスクトップリストたちの画面が全部、バンギャ画像である状況とはカオスである。「どーする・どーするの?」竹野内さんであります。あのバンギャの絵は私のお気に入りでもある。あり得ないけども、あり得そうなギリギリの線を攻めた傑作であると自画自賛している。そのようなバンギャのデスクトップ画像がカフェを席巻することになれば、これはもはや大規模広告キャンペーンのような感じもするものだ。バンギャを知らない人にとれば、このラップトップリストたちは皆、何かのライブ会場に集う人タチかもしれない。それは大体で正しいようにも見えるものだ。カフェ会場がバンギャのデスクトップ画像で揃っていたならば私は深く震え慄くであろう。

この話の本題はバンギャの男の呼び方であります。先日、バンギャの男は何と呼ぶのか?と議論になり誰も知らないので、人知叡智を集結したえ〜愛検索さんに聞いてみた。それによると、バンギャの男バージョンは「バンギャ男」と呼ぶようである。ほんまかいな?のマジである。この人工生成時代に人類は辞書を片手に持ちて、皆、善人の階段を登る必要はあるのかもしれません。バンギャ男は「バンギャおとこ」と読むのか?「バンギャお」と読むのかと質問すれば、どちらの使い方もあって言葉は正しく状況に合わせて選ぶ必要があるらしい。

・バンギャ男:最も一般的な言い方である。
・バン男:親しい間柄で使う。
・バンギャ兄さん:年上の人に使う
・バンギャくん:年下の人に使う。
・バンギャ先輩:年上や尊敬する人に使う。

兄さん、くん、先輩のフォーマットがすでに内蔵されているのかもしれませんが、丁寧にグラフを使って教えてくれます。使用例も教えてくれる有能さにサンキューサンキューである。使用例はライブ会場で知り合った男性に話しかける会話見本として次のような会話を想定しているようである。「〇〇さんはバンギャおですか?」言えない。m(_ _)mT 知らない人に 「あなたはバンギャ男なのですか?」=「ひぇ〜」横隔膜が小刻みに揺れるぜー。我慢、我慢、我慢なのである冷静に、冷静に。私がズタ場のカフェ会場に於いてバンギャデスクトップ画像を使っているバンギャ兄さんに後ろから声をかけて「あなたはバンギャおなのですか?」と話しかけることを妄想すると、声をかけられた「バンギャお」はくるりと後ろを振り返り、「エッ〜」となり・・・「いえ違います」と格好良いボイス(イケボ)で答えるだろう。そんな「バンギャお」のイメージは竹野内さんのようだ。頬の緩みをぐっと我慢し、横隔膜の震えを抑え、私は打ち勝つ。そもそも私は一人でカフェ出来ないことを思い出して良かった!良かった!となる。万事完璧、今日も地球は丸くて良かった良かったの一日であります。皆さん今日も良い一日を。

 

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■2024年6月5日(水)
■アン・ドゥ・トワ・アン・ドゥ・トワ・アン・ドゥ・トワ。

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■ 2024年6月6日(木)
■一日一文章トレーニング。

「ベビーパウダーとの付き合いは生まれてからずーっとのことである」

私は昔からのあせも体質である。そして、大人になってからはあまり発動させないあせもでもありますが、久しぶりのあせもを発動させるのである。1日中リュックを背負っていたからかもしれませんが、あまりにも久しぶりのあせもだ。これはベビーパウダーを買いに行くべと大都市UNに向かいます。あせもとは病気でもない単なる肌荒れの一つでもありますがベビーパウダーをたっぷり塗れば大体、落ち着く症状でもある。あの白い粉にどんな秘密が隠されているのかと調べると有効性部:酸化亜鉛+・・・と書いており何のことかさっぱりわからない白い粉でもある。とりあえず、あの粉で全身に粉まみれとなれば大体OKで肌荒れも収まるものでもある。パッケージには赤ちゃんのおむつかぶれ等に使うと書かれているものだ。いつもベビーパウダーを買う時の失敗はベビーパウダー購入後にお肌にパフパフと粉を付着させる為のパフ購入を忘れることである。しかし、そこは長年のベビーパウダー使いでもあるので抜かりのないところでもある。何度も失敗を重ねればベビーパウダー用のパフ在庫(新品)は常に自宅に備蓄しているものでもあります。このようにして私は白い粉まみれとなるのであります。

ベイビーな頃の写真を見れば必要以上にベビーパウダーを塗られて笑顔で写る珍童でもある。そして、思春期のあせもとは気持ち悪くて誰にも見られてたくはない自己嫌悪な隠し事ともなる。「誰も知らない、誰にも見せない」赤い点々のあせもとは自分でも何か許すことの出来ない唯一の隠し事でもある。それはとても青春的なことでもありますが、誰かが誰かのことを好きになるという気持ちよりも、あせもの出来た肌を誰にも見られないという使命の方が最優先な時期もあるものだ。そのような青春の謳歌とは、裸になるような気配を感じ取れば、我、猛ダッシュで逃げて距離を開けるのである。六速発進で仲良くなったとしても明日になれば急によそよそしくなりプラス+プラスの磁力のように深くてドーバー海峡のような溝を作るのである。たかが、お肌のブツブツなのかもしれませんが、何よりも重要なあせもでもある。それは恐らく「気持ち悪い」と思われたくない気持ちが大きいのかもしれませんが、今や随分と成長したもので、そのようなあせもとは表に出してもどうでもいいような呆則でもある。あの青春時代のあせもに関する悩みとは何なのでしょうか?にきびであれば顔見れば一目瞭然ですが、(勿論、にきびが顔にたくさん出来たら凹みます)体に出来たあせもとは外見からは全く見えない特殊性はあるものだ。普通に生きていれば「あの人はあせもやアレルギー的な肌荒れを持っている」とは誰にも絶対に気づかれないものでもあります。その人が持つ秘めた気持ちとは誰にもわからないものなのであります。

ということで、

薬局にベビーパウダーを買いに来た。街は外国人ツーリストばかりで日本人はあまりいない街である。私はお店でディスプレイを作って品出しをしている人にベビーパウダーの置き場所を聞くものだ。そうすると、冷たい真顔でここの店員でないから知らないと言われて何か凹むものである。他の店に行こうかとも思ったのですが、他の店まで行くのも面倒だし、あの人はここの店員ではないメーカーから派遣されて来て品出ししているだけのような人でもあるようだし、自力で店内をぐるぐると周回してベビーパウダーを見つけ購入するのである。何かこのような光景にデジャブを見ているように思ったら、1フレンチフランが20円であったユーロ統合前の安いヨーロッパの街を見ていようにも思えるものだ。

その後、私は下のスーパーに向かい吊るしベーコンを買うのである。ベーコンの前には本日の特別販売の行列が出来ておりベーコンを購入したいけれども行列の壁が出来て買えないなーと思っていたら列に並ぶおばあちゃんが笑顔でゆっくり見ていってと列から離れて隙間を空けてくれました。ありがとう。笑顔とは本当に大切なものである。言葉に笑顔が加わればその受取る印象とは随分と異なるもので、いまだベビーパウダーを塗っているようなようなあまちゃんが言うようなことではありますが、笑顔を人に与えることはとても崇高なことであるように思うものだ。我も他人と話す時には0円(無料)のスマイルを一つ与えるこの出来るような人間になりたいものであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月6日(木)
■金魚鉢。

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■2024年6月7日(金)
■一日一文章トレーニング。

「ギョギョ歴史小説・息人形編を書いてみた」

紙で作る造形物とは折り紙にしても、ペーパークラフトにしてもどこかカクカクとして真っ直ぐな直線的なものばかりとなります。
マインクラフトのような四角いものを作ろうと思えば朝飯前なのですが、自然界にあるような丸みある造形物を作ろうと思えば急に大変になる紙を使った造形物でもある。
私達は直線的な器の中で生きているものであり、使うもの、飾るものは自然な丸みのあるものを取り込みたいと思うものでもある。
植物を見ても、人を見ても自然なカーブに溢れるものばかりである。
人とはどこか人工的な空間に必ず自然的な要素を取り込みたいと思うものなのかもしれません。

そこで、アレは考えた。
「そうだ、己の息を 閉じ込めよう」
アレはやけくそとなり紙を折って大きな紙袋を作りその中に息を吹き込んだ。
「ふーふー」と、
自らの息を吹き込んだ空気とは案外、紙袋の中に閉じ込めることが出来るものだ。
偶然にも丸い紙の造形物が出来てアレは安堵するのだ。
これは室町時代・応仁の乱の最中に伝統工芸・息人形アーチストが爆誕した瞬間でもある。
アレは敵陣に囲まれた屋敷の中で百体もの息人形を膨らまして作って、あたかも屋敷の中に大勢の兵士が潜んでいるように細工した。
これはアラモの砦に一人で籠城し百体の息人形を作って助かったアレの話でもある。
敵兵は矢を放つものの、矢にも驚かずに静かに微かに動く紙の兵隊の気配を感じるものだ。
どのような猛者であったとしても待ち構える敵陣の罠の中に飛び込んでいく勇気はないものだ。
こうして、一人で籠城するアレと息人形たちは多勢に無勢に囲まれる大ピンチ中、敵は撤退して戦わずして砦を守ったという応仁の乱の武勇伝でもある。

そして、その話は今考えた。

ということで、

手作り息人形の肌を塗装してサンバイザーを作りました。
サンバイザーはとても良いカタチをしているもので、世の中に出回るサンバイザーのカタチを検索すると、どれもアバンギャルドなデザインのものが多いようにも感じるものだ。
帽子のつばは大きくて頭の日焼けよりも顔面日焼け防止に特化した判断はもはや清々しい潔さもあるものである。
また、レコード盤を回す人たちがかぶっても良く似合うサンバイザーでもあり、帽子の上の部分はもういらないと考える発想は女性的でもあるようにも感じるものだ。
頭のてっぺんがない帽子とは何やそれの帽子でもある。
そして、頭部に穴が空いていれば通気性が良いものだ。
ハチマキもそうなのですが、頭をギュッギュッと締め付けると何かギョギョっと気合も入るものでもあります。
ハチマキを巻いてない時よりもハチマキを巻いた方が数倍集中力も高まるもので、国会議員にもれなく手作りマイ必勝サンバイザーを配りたいものである。
息人形の念能力入りなので悪さを企むと孫悟空のアレみたいにイタタとなるような仕組みです。
蒸れずピシャリと何か閉まる感じもする帽子であるとすれば室内でかぶっていても可笑しくはない帽子でもある。
猫の置物に帽子をかぶせてみれば、えらく似合う帽子なのにゃ。
これはファーストフードチェーンの制服の帽子のようにも見えるものだ。
世の中には本当に引き算したような尖った帽子があるものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月7日(金)
■チェアアンパイア、プリーズ・ドージ・コイン。

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■2024年6月8日(土)
■一日一文章トレーニング。

「息を吹き込んで立体物を作る息人形と、ぎょぎょっと空想の物語に息を吹き込むことも2つは何か似ているように思うものである」

ぎょぎょぎょの小説に足りないのは人の内面を揺れ動く機微である。
さっそく、ぎょぎょっな主人公の気持ちになりきって、この人生最大のピンチを切り抜ける為の心の葛藤の構造について考えてみた。
主人公は一人で敵に囲まれた砦に籠城しています。
現在360度敵に囲まれて逃げることも出来ずに絶望しているとことろから物語は始まります。
彼がなぜ、この捨てられた砦に一人残っているかと考えれば、怪我や病人として遺棄された訳でもなく、彼にとって貴重な保管された書や絵の類をこっそりと盗み出そうと考え闇夜に紛れて砦に潜り込んだものであり、人から見れば火事場泥棒、よく言えば文化財の保護者でもある。
朝になって外を見渡すと敵軍に囲まれて、「さて?どうしよう」となる男の話でもあります。
みみずが這ったような仮名言葉で書かれた物語や漢文の類とは一介の兵士にとれば便所の紙にしかならないものではありますが、この文武両道の男はそれらに文化的な大きな価値を見出すのであります。
夜警の最中にコソコソと陣を離れ捨てられた砦まで戻ってきたのものの、この強固に守りの固い陣を捨てるということは殿に謀反の疑いを感じるものでもある。
しかし、男にとれば将軍の家督争いとは知らぬ遠くの出来事でもあり、そもそも自分たちがどちらの陣営の側に立って戦っているのかもよくわからないこの度の戦でもある。
恐らく、砦の内情を偵察にくる斥候もやってくるであろう。
そのうちに砦を明け渡せとの伝令もやって来るであろう。
たった一人で人のいない金庫に潜り込んだならば朝になって周囲は完全に敵陣の中にあったという余命数日の男の命でもある。
幸い、砦には筆や硯、紙も何でもあるものだ。
男は紙工作でも楽しみながら残された人生を悔いなく楽しむことにしたものだ。
一人で工作でもしていれば、独り言も増えるし楽しかった思い出や恥ずかしかった出来事、己の人生とは結局何であったのかとフラッシュバックさせるものでもあります。
「ふーふー」と己の息を吹き込みながら紙を膨らませていると自らの分身を作っているように思うもので、男にある一つのアイデアが浮かぶのであります。
それは百体の息人形を作りて、それらを要所要所に配置し籠城しようというアイデアである。
戦場とは物陰に隠れ息を殺して奇襲の機会を待つ敵兵が潜んでいるものであります。
敵軍とは言え数十人の規模の小さな部隊でもある。
幸い砦は見晴らしも良く防衛戦と考えれば優位な立地にあることは間違いない。
戦闘のセオリーとは敵の人数や規模がわからないと動けないものでもある。
矢にも恐れぬ無数の無敵の紙兵士がガサゴソと潜んでいれば、大勢の兵士が罠を築いて待ち構えているものだと思うものである。
主人公はそのようにして「ふーふー」と息を吹き込みながら大量の息人形を作り始めるのである。
そして、2部では新しい登場人物とウソを本当のように見せる騙しあい・試合で、スポーツ競技を見ているようなアクション展開の後に、3部で敵軍撤退となって晴れて目出度く誰一人も死なない平和の内に終結する応仁の乱の一戦場のお話となる予感である。

ということで、

私も紙袋を「ふーふー」と膨らましながら息人形を作るのであります。
肌もしっかりアクリル絵の具で塗り目や鼻、口、眉毛、耳、ヘアーカットなども紙から切り出して立体的な息人形を作ります。
次に顔パーツを彩色すれば次は糊付けするだけの計画でもある。
顔のパーツを仮置きしてみると、どこかちびまるこちゃんの野口さんにも見えるものだ。
検索すると野口さんの本名は野口笑子(のぐちえみこ)と言うそうな。
あの「クック・クック」と独特な笑いの野口さんの名前が笑子で草でもあるw。

このような息人形とは作るとなかなか捨てることのできないゴミでもある。
先日作った息人形のてるてる坊主もクルクルと窓で回転しながらいまだ捨てられずに生き残っているものでありますが、完成してもなかなか捨てれなくて、作らずにそのまま放置していても邪魔となる自作ものではあります。
そして、何より自分で作ると思入れもあって自らの息を吹き込み膨らましたとなれば自分の分身のように生命が宿ったようにも感じるものだ。
且つ、風などでゆらゆらと揺れていれば生きているようにも感じて、いよいよ、捨てるに捨てられないゾとなる造作物でもある。
この週末は息活を進めて、まともな作品発表出来るようにしたいものですが、さてどうしたものか。

そもそも、物語を作ることと息人形に息を吹き込むことと似ているように思うものであります。
どちらの息もウソか本当かもわからない実体の定かでない空気のようなものに生命を吹き込むことである。
そして、そのような吹き込まれる息はパンパンと大きく膨らんで虚像としての立体物を具現化させます。
息人形に吹き込まれるウソ八百の息も、世の中に蔓延るウソ八百も、息から吹き込まれるものは大抵は八百万の紙上に描かれるフィクション的なものであります。
息が吹き込まれた不気味な息人形も虚構の息でもあるとするならば躊躇うことなく捨てることは出来るのですが、やっぱり何か嫌なものである。
もう少し、人間離れした空想上のカタチに変形させた方が良いのかもしれません。

(ひなとき)

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月8日(土)
■息人形の顔モデルを描いたら1ミリも欲しくないフィギュアでボツだ。
「ヤバいヤバ美」もっとかわいいいい顔を作ろう鎌倉ちゃんです。
そして、何を描くべきかと悩んだら大体(L)(R)で事足りることがわかった。
今日は30度の暑さでもうアイスキャンディーにしか見えないものだ。
 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月9日(日)
■一日一文章トレーニング。

「植物には土に隠れて見えない根っこがあるように、人にとっての根っこかもしれない”心”にも土のように暖かくて安定した防御壁が欲しいものであります」

サングラスに麦わら帽をかぶりベランダで土いじりをする園芸作業、いやはや昨日は暑かった。
温度計を見れば30度、もはや初夏と言っても良い天気でもある。
そのような暑い日差しが降り注ぐ中で鉢の植え替え作業を行っていると顔から玉のような汗がボタボタと落ちてくるもので、今年2番目ぐらいの塩辛い汗の味を感じる一日でもあります。
あまりにも暑すぎるので出来るだけ早くこの作業を終わりたいと作業を急ぎながら、新しくて大きい鉢に植え替える準備も万端である。
後は植物を鉢から引っこ抜いて新しい鉢に挿すだけでの簡単なお仕事である。
しかし、鉢植えの根っことは案外しっかりと踏ん張って、なかなか根っこが抜けない鉢植え作業でもある。
その代わりに鉢の底から出てくるのはマルムシや小さなムカデみたい生き物たち。
見つけ次第、サンダルでバシバシと踏み潰します。
自分で言うのは何なのですが無慈悲である。
全ては暑くて汗だらだらで害虫にいちいち驚くのも面倒なのであります。
害虫とは放っておいても勝手に増える生き物でもあり、見つけ次第に駆除しないと気付いた時に虫だらけでも困ったことになるのかもしれません。
母のように庭の毛虫を踏み潰すことはまだ出来ないが、小さな害虫であればペシャンコである。
そう言えば、白菌発生源の鉢に小さな気持ち悪い微生物たちが鉢上をうろうろしていたものである。
水をたっぷりと植物にあげれば皿受けが水没して小さな微生物たちがわらわらと鉢の表面に出てくる小さくて気持ち悪い微生物である。
私はそのような微生物たちを人差し指でぺしぺしと潰していく無慈悲である。
そして、そのような微生物たちも最近は見かけないものだ。
恐らく、家蜘蛛に食べられたと思うものである。
先日も蜘蛛が鉢の側でもぐもぐとやっていたので気持ち悪い微生物たちは蜘蛛たちの美味しいディナーになったようである。
「ありがとう蜘蛛やん」
と言うと思ったかである。
夜蜘蛛は殺さないのですが、明るい内に我に見つかる蜘蛛とは我が家の掃除機の強モードで吸われてお陀仏である。
時には運の良く逃げることの出来る蜘蛛もいますが、ほとんどの蜘蛛は我が伝承の掃除機テクニックによって吸われてしまう無慈悲でもある。

↓我が家の白菌鉢は大切にケアされて大切に保全される。
↓白菌鉢の微生物たちは私によって指で潰される。
↓白菌鉢の微生物たちは家蜘蛛に食べられて壊滅状態。
↓家蜘蛛は我が家の掃除機に吸われて駆除されます。

微生物を食べる天敵もしばらくは不在となって、素晴らしき生態系を紡ぎ出しているようにも思うものである。
蜘蛛とて見つけ次第、駆除していかないとどんどんと増え蜘蛛である。
寝ている内に蜘蛛が顔を横切ることを考えれば、怖くてうかうかと寝ることはできないので蜘蛛を駆除することも大切である。
夜蜘蛛を殺すと、はて?どのような天罰が下るのかと早くマッドサイエンティストに実験して欲しいものでもあり、「夜蜘蛛殺し番長(byムラカミさん)」も絶賛発売中です。

ということで、

仕方がないのでプラスチック製の鉢をハサミでカットしながら破壊します。
根のついた土をグリグリと引っ張りながら外していると植物もさぞ、驚くことであろう。
毎日引っ張っている訳ではないので今日だけの我慢である。
植物の身になった気分で考えると、普段、風などでも全く動くことのない根っこが過激に動くことは天変地異なことであるはずだ。
我が身に置き換えると、普段根っこのように静かな腸が過激に繊毛運動している腹痛状態なのかもしれない。
あの痛みは死ぬほど痛い腹痛でもある。
植物の半分は目に見えない安定した土の中で守られており、人間の半分も安定した土のような防御壁で囲まれて守られて欲しいものだ。
もしかしたら、その根っこにあたるものが可視化することの出来ない人の「心」という奴なのかもしれない。
特に私のようなガラスのハートにはふわふわの土は必要です。
他人の心とは勝手に覗き見たり、傷つけたりしてはいけないもので、より大きな鉢へのお引越しにより私は植物の「心」を引っこ抜いて、その「心」を見てしまったような罪を感じるものだ。
なので、暫くは奴らを静かに見守ろうと思うものだ。
そうして、その時はやって来た。
古い鉢からスポリと抜けた植物は急いで新しい植木鉢に植え替えられてお引し作業は終了となります。
汗ビッショリだ。
手も真っ黒だ。
指の爪もこの作業中に伸びたような気もするものだ。
後はほうきでゴミや土をキレイにお掃除して完了です。
この後には今年の梅干し作りの準備や息人形を作ろうかと思っていたのですが、昨日は疲れて「暑い暑い」と何も出来ない土曜日でありました。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月9日(日)
■ナイス・カット・サロン・バサバサのHPにようこそ。
1)スイマー斬りが得意です。
2)ネズミーランドに行く際はバサバサでカットしよう。
3)石頭もカットできます。
4)鳥の巣パーマ。
5)リンゴ刈り風のカットも数例あり。
6)AI野口さんを導入しているので会話はクックックと楽しめます。
7)このCMは「LR」の提供でお送りしました。
 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月10日(月)
■一日一文章トレーニング。

「1ヶ月も10日まで来ると月日の流れの速さを感じるものであり、昨日は鳩の挨拶まわりをうけて、私はハイブランドのデザインを考案するのであります」

皆さん!ハイブランドをゲッチュー!できる方法をしっていますか?
それがあるのです。
その方法は「鳥の恩返し」です。
・・・
昨日、我がベランダにコッコロコッコロと鳩の大合唱が聞こえてきて、これまで聞いたことのない大音量の鳩の鳴き声でもあったので窓の外を覗くとベランダの柵に3羽の鳩がいたものだ。
今までは鳩は2羽で1羽増えた換算である。
人生経験もそれなりに積むと「あっ!これは鳩のお礼参りだ」とすぐにわかるものだ。
よく、ユーチューブなどを観ていても親動物を助けると、生まれた子供を見せにやってくるあのシチュエーションでもある。
「あー来た、来たのだ」と思いながら見守るのです。
この辺りを縄張りとするカラスの王をパパラッチ・カメラの連射で追い返した時に、鳩は横目でその武勇伝を「じーっ」と見ていたものだ。
それは恩返しにくのも納得である。
私は網戸を開けて外に顔を出すと部屋からパパラッチ頭が現れ出て鳩たちも大ビックリである。
この周辺に住む人たちは恐らく誰も気にしない鳩の子育てと思うのですが、私だけがどこかにあるだろうかと鳩の巣が気になってパパラッチ・カメラを連射させながらカラスから子を守護していたのであります。
そのような面白光景を見つけるとすぐに激写したくなるもので、パパラッチはカメラを取りに部屋の奥まで行き戻ると、もうすでに鳩はいないものである。
残念、正に「飛ぶ鳥跡を濁さず」である。
もう少し待機して、我にパパラッチさせて欲しかったものだ。
ただ、私の頭の中には鶴の恩返しのようなハイブランド模様が閃くものである。
それはハンドバックのデザインでもある。
人間に扮して挨拶回りに来てくれたならば、部屋とミシンを用意して「どーぞどーぞ」とハイブランドLRハンドバックを制作してもらって売り出そうと思うものではありますが、よくよく考えると知らない人を家にあげて部屋を与えるなんて少し尋常なことではないものだ。
住み着いたら、どーするのか?女将さんであります。
鶴の恩返しはすこすヤバいお話かもしれない。

ところで、

鳩3羽とはおかしなものである。
パパラッチ一羽・ママラッチ一羽・もう一羽は誰ラッチなのでしょうか?
ヘルパーッチなのか?
第三の男ラッチの可能性も捨てることが出来ないものだ。
私は決定的瞬間を撮れなかったことを悔やむものではありますが、記憶を辿ると3羽の鳩はみんな同じ大きさでもあり、どの鳩も痩せ気味なおっさん感でもある。
アメリカのアイススケートのリンクの中に投げ込まれる鳥の人形のようにも感じるものだ。
それだけ子育てを頑張ったのかもしれない。
なので、パパラッチ・ママラッチ・子ラッチの鳩家族で間違いないと思ったりもするものだ。
もともと、子供とは小さなおっさん、おばさんみたいに見える要素を持っているものであります。
ただし、鳩3羽とは3つ子ラッチという線も捨てることの出来ないのですが、丸く世の中を纏めるには親子鳩が一番しっくりとくるものだ。
鳩のヒヨコとは見たこともないヒヨコでもあり証拠の写真も何も残っていないので、これ以上の深く堀ることは出来ないものだ。
今日も遠くに「くーくーくー」と鳴きながら鳩3羽は電線に止まって鳴いているものでもあります。
一時期、鳩を見なくなって気にしていましたが、とりあえず鳩が1羽増えて良かった、良かった。
まるで、胡散臭い手品のような鳩のお話しでもあります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月10日(月)
■スリー鳩。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月11日(火)
■一日一文章トレーニング。

「“梅は食うとも核(さね)食うな、中に天神寝てござる”である」

実生活で聞かぬ「ござる」ではありますが活字等ではたまに見る「ござる」でござる。
それは「どろん」の友人であるようで脂ぎる面倒臭さを感じるものだ。
これは生梅の種には毒があるので食べてはいけないという戒めの言葉のようでもある。
天神様とは梅干し好きの菅原道真のことで、青梅の種を齧ると殻に閉じ込められた道真公を開放して毒で呪われてしまうということを意味しているようだ。
それにしても、菅原道真公とは災害、災難などの人の災いの全てをたった一人で背負う立派な人物でもあります。
これこそ真の伝統的ハイブランドでもある。

さて、子供の頃に梅干しの種を齧って中の酸っぱい部分を食べたこともあるものだ。
しかし、梅干しの種の中を齧っても毒に侵されることもなかったもので、早速ネットで梅干しの種の中を食べることについて調べます。
熟成加工された梅干しの種の中は安全のようですが生の青梅の種の中は食べると危ないようでもある。
そもそもですが、青い生の梅の実とはあの甘い梅の香りから想像出来ない「オエッ」と食えないエグみの強い果実であります。
そのような青い梅の種の中まで食べる発想にはなかなかならないものではありますが、これはもしかしたら、青梅をすり潰してエキスにしたものを昔の人が食べて中毒を起こしたのかもと思ったりもするものだ。
「良薬口に苦し」という言葉もあるように松竹梅と縁起も良く苦い薬を昔の人は好んだのかもしれません。
時代劇などを思いかえしても昔のご老人たちとは何かに座敷に座って怪しい薬草などをすり潰しているものであります。
そのようなお仕事とは西欧では女性の魔女の仕事かもしれませんが、この島国では男性の薬師やご老人たちが薬草をゴリゴリとすり潰しながら妙な妙薬を作り出しているような感じもするものだ。
梅干しの殻を割った時のニョロっと出てくる酸っぱさとはあんまり気持ちの良いものではないものです。

ということで、

今年も梅干し作りに挑んでいます。
今年はあんまり準備をしていなかったのでスーパーで売っていた大きめの梅を普通に買ってきました。
買ってから思うのですが梅干し作りに使う梅は南高梅・完熟梅が良いと書かれているものであります。
普通の南高梅の大きめを買ったので何か失敗してしまったような気もするものだ。
とりあえず、昨晩に梅のヘタを取って、汚れを洗浄して下準備を行いました。
梅はその名の通りに梅雨の雨に長時間打たれることで完熟へと向かうようでもあります。
水に長時間漬けて強制的にアク抜きを行えば、実も一晩で黄色味が色濃く出る完熟の風合いになってくるものでもあります。
※写真は昨日の晩のウメです。
よくよく考えれば去年作った梅干しには少し苦みが残っているように思えて、思い返せば、去年は水に浸すアク抜き作業をやっていなかったような気もするものだ。
一晩、梅を水に漬けたのを観察すると確かに水の表面にアクが浮いているのが見えるもので、ラップを少しめくると清々しい甘い梅の香りが部屋イッパイに広がるものであります。
梅干し作りの醍醐味の一つにこの梅の香りがあるものだ。
部屋に広がる梅の香りを嗅ぐだけでも面倒な梅干し作りをやって良かったと思うものであります。

アク抜きをする時間は大切でござる。
熟成時間も必要でござる。
何でも時間が美味しく物事を解決してくれる呆則はあると思うのでござる。
この文章であれば、ほぼ勢いで書いているものではあり、書いたら書きっぱなしの川流しの脱字誤字でござる。
書き足らない部分も多々あれば、まるで校正人材開発キット教材のような赤ペン先生の手は震えているのでござる。
例えば、昨日の「夜蜘蛛殺し」であれば、夜にHPの表記だけ「夜蜘蛛殺し番長」と「番長」の文字を追記したのござる。
騎士団長に似せるには夜蜘蛛殺しの番長な言葉があった方が味わいも深くなるように思うのでござる。
そして、文章とは熟成し何度か読み直していると何度でも何回でも手直しは出来るものでござる。
そのような呆則発動しながら日記を寝かせば、もう二度と読まない漬物石でござる。
いつの日にか校正しよう思うのでござる。
脱字誤字に加え鬱陶しい長文を書いて御免でござる。
これらはササッとワード5ページ分ぐらいの分量を書く為のトレーニングでもあるので悪しからずでござる。
文章は食うとも種(さね)は食わざるでござる。
もの凄くいいことを言っている風にも聞こえますが「何のことなのかな???」でござる。
そういうのはとても得意でござる。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月11日(火)
■ウメ変形ロボ「難攻敗」。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月12日(水)
■一日一文章トレーニング。

「夏の空気を感じ、目覚め、梅壺の前を通って、梅干し作りの季節を感じるのであります」

今朝は「もわり」と夏を感じる朝。
昨日からの空気が夏の空気に入れ替わったように思うものだ。
日本列島は雨の国と言ってもよいぐらいに雨の言葉が多いものであります。
関東の梅雨入りはいつぐらいになるのでしょうか。
梅雨入りとは6月10日〜7月10日ぐらいまでの長雨のことで、天気予報を見れば来週日曜日ぐらいから梅雨入りしそうな予感である。(知らないけれども)
気象庁のHPを見ると例年は6月7日頃に梅雨入りなので、少し遅れているのかもしれません。
雨は降ったり止んだりでもあり、個人的には梅雨入りよりも梅雨明け後のサマーな印象の方が強いものだ。
梅雨入りしてしまうと雨降って行動範囲も狭まるものでもあります。
雨降りの前にやるべきことは全て終わらせておくべーはマイ大切な呆則でもある。
昨日、梅雨の雨と梅は関係深いものと書きましたが、実際に、ややまだ青梅感もある梅の実も水でアク抜きすれば半日ほどでやや黄色く変色するものだ。

梅雨の漢字を「つゆ」と読んだり「ばいう」と読んだりとややこしいもので、このような同じ文字の読み方が2通りあることはとても不思議なことであります。
読み分けるにはそれ相応の意味があるというのは私の考えでもあり、なので、今日も勝手な分析を行うものであります。
梅雨の「ばいう」とは音だけ聞くと中国語の「バイウー」な外来語をそのまま取り入れているように思うものである。
辞書を調べると梅雨は黴(カビ)の生えやすい中国語の黴雨(かびのあめ)から由来しているようでもある。
しかし、日本人にとり梅雨の雨とは降らなければ水不足となり生活や農作物にも大変な影響を被る大切な雨でもあります。
また、梅雨の雨で例えジメジメと黴生えたとしても生活に必要不可欠な雨と思えば松竹梅の「梅」の字の付く恵みの雨となるというのも納得である。
住む地域も異なれば見える景色も違うのであります。
中国大陸から生まれた雨の種は梅雨前線となって日本列島まで伸びると考えたならば、「ばいう」という言葉はピッタリでもありますが、ならば、もともと日本語の梅雨な長雨な言葉とは何かと考えれば、それは五月雨のようでもあります。
五月雨(さみだれ)とは5月の雨と書きますが、これは旧暦5月の雨のことを表しております。
旧暦5月をネット検索すると5月下旬から7月上旬と書かれているので梅雨時期の雨で間違いないものだ。

「さみだれの〜 降り残してや 光堂」

松尾芭蕉が平泉中尊寺光堂を訪れた時に、数百年も毎年降り続く長雨に打たれても尚も美しき金色の姿の金堂に感銘して句にしたものである。
おそらく、五月雨と聞いても梅雨時期の雨だと思う人は私を含めても少ないのではないのでしょうか。
五月雨撃ち、五月雨戦術と使用例の少ない五月雨ではありますが、それだけ現代人は新旧暦の差で過去の伝統や文化から少しずつズレて失っているようにも思うものだ。
季節感が毎年薄れていくのは年齢のせいなのでしょうか?
それとも、本当に季節感が社会から薄れているのか?
それは大いなる問題で個人的には毎年の季節感の薄れとは確かなものでもあります。
このような季節感の喪失とは暦のズレによる過去の歴史と私達の生活との喪失とも考えることも出来るものだ。

ということで、

梅干し作りは昨日塩漬けしました。
6月11日漬けで6月18日頃に赤紫蘇投入なスケジュールである。
紫蘇の下ごしらえをする準備の必要があります。
紫蘇のアク抜きはものすごく面倒で嫌いなのですが、紫蘇の塩漬けを作るとおにぎりに入れても何に使っても美味しいほぼ賞味期限なしの万能調味料の完成です。
なので、この時期に赤紫蘇を加工しないことは人生の大きな損失のようにも思うものだ。

今回はアルコール吹きが少しおろそかであったような気もして梅雨時期のムワッとした空気で黴ないかと心配で、今朝も梅壺を覗き見します。
フタは開けませんがガラス蓋からじっくりと見る梅干しちゃんは数ミリ程の白梅酢を生成します。
梅壺に顔を近づけてくんくんと香りを嗅ぐと梅の甘い香りが脳天に突き刺さるもので、甘くて美味しいあの香りは壺の前を通る度に嗅ぐ香りでもあります。
そして、クンクンと梅の香りを嗅ぐと鼻の油が壺に触れてアルコール消毒でシュッシュと拭き取るのものだ。
このようにして梅の香りを嗅けば季節感も感じるもので、伝統の料理を作り学べば、その香りや面倒臭さが触覚を刺激して少しは季節感を取り戻せるのかもしれません。
明日はどれだけ白梅酢が上昇してくるのか!楽しみな梅干し作りであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月12日(水)
■いろいろといろんなものが詰まっています。
それが、梅干し作り。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月13日(木)
■一日一文章トレーニング。

「温度計測等の記録の日課は話の種をゲッチューする為にも続けております」

今年は令和6年6月11日に室温29.3度でクーラーをONします。
クーラーが壊れていないかとの点検を含めた起動でもある。
そして、昨日令和6年6月12日にも室温29.3度でクーラーをON(お〜ん)しています。
そう言えば、最近お〜んなニュースを見ないのである。
因みに、去年のクーラー初起動は令和5年6月17日で、今年は去年よりも6日早いクーラーONだ。
この6日間が何を意味するのかは未来のお楽しみでもある。
去年の室温湿度の計測は忘れているのですが、翌日にクーラーを起動した室温湿度が28℃・59%で、お風呂上がりに暑くなった体を冷やす為にクーラーを起動させたようでもある。
夏も近づくとお風呂上がりの体はとても暑くて、なかなか寝付けないものであります。
一度寝ようと思って「あー暑い」となってしまうと、目も完全に覚めてさらに寝くなくなるサイクルに入ってしまうのである。
特に昨晩はそのような暑苦しい気温でもあり、そのような時には下記のような対処呆則を発動する必要もあるものだ。

1)寝る随分前にお風呂に入ってしまう。
汗をかいた体はすぐに流した方が気持ち良いし、寝間着でうろうろするだけでいつでも寝れる状態にあるのはベストでもある。

2)本格的に寝る前に布団の上でゴロゴロとして体温を下げてから寝る。
体は横になると不思議なもので体中の粗熱も下がってくるものであります。
寝る前にブルーライトやスマホなどNGのようでもありますが、私の場合ユーチューブなど観ながらゴロゴロしていると眠気がやって来るものだ。
特にお気に入りの映像は音楽が鳴るようなものではなくて、経済や哲学、心霊動画など小難しい話しを語っているのがベストである。
その内にうとうと睡魔がやって来てタブレットを持ったまま寝てしまい、手の筋肉も緩んでしまえば剣道の1本のようにおでこに「メーン」とタブレットがヒットするものである。
このような状態になると本格的な就寝の準備となる日課で、大体、毎日このようなルーティンで朝を向かえるのであります。

クーラーを起動させるのは「ムワっ」とさせる暑い空気で、今年は29.3℃がクーラーをつける・つけないの境界線でもあるようだ。
これらは感覚でもあり正確な数字を誰も知らないと思うし、クーラーをスイッチONする時にその室温湿度を記録して、その境界線を見つけたいものだ。

因みに、サーキュレーターを倉庫から出して来て作動させたのは令和6年5月24日で、サーキュレーターを去年閉まったのが令和5年11月19日でもある。
5月24日にサーキュレーターを出したことは5月24日頃は暑かったことが推測出来るものだ。
また、11月ぐらいまではサーキュレーターを回していた可能性もあるし、分解洗浄してからのモスボール保存する作業が面倒で11月の中旬まで閉まっていなかった可能性もあるものだ。
お風呂上がりに目一杯の風に当たる需要とは11月ぐらいまであるのでしょうか?
機械に起動日と閉まった日を記憶しておくと暑さ・寒さが一目瞭然で良いものだ。
(写真参照)
デスクトップ画像も用意したよ。

この時期は去年も今年もやたらと眠い時期でもあるようで、計測を放棄して寝てしまうことが多々あるものだ。
温度は段々と暑くなり、または、段々と寒くなるのがその性質でもあります。
なので、多少の虫食いデータでも、その山の頂点を計測できれば良いものである。
そう言えば、今年は雪解け水のような冷たい水道水は計測できなかったものだ。
暖冬で川を冷たく冷やすような大きな雪解け水はなかったのかもしれませんし、これも、毎年手だけで感じる冷たい水道水の水温なので実際に計測しないと幻想か本当なのかわからないものでもあります。

冷え性の足の温度も測るのであります。
床の温度が27〜28℃ぐらいであると裸足でも快適なようで、床の温度と足の体温の差が10℃未満の差ぐらいでることがベストな環境なのかもしれません。
今日の朝の室温湿度は26.3℃・64%、床温度は27.4℃、体温は36.6℃でふくらはぎが35.6℃、足のこうが35.6℃、足の親指のつま先が33.6℃で床面側の親指裏が33.6℃、名前わからない足の先端山部分が33.8℃、土踏まずが34.8℃、かかとが35.6℃と今が一番足の温度が安定しているようにも思います。

ところで、

何でいろんな温度を測っているのか?不思議なものです。
大いなる暇つぶしとも言えますし、過去の温度変化データを知れば数歩先の未来の状況も予測できるような気もするものでもある。
全ては書くことがなくて困って話の種を植えていることでもありますが、家庭内データも集積すればそれなりに便利な時はやって来るのかもしれません。
本当に書くことがなくて困っているのに、長文を書く気合と根性こそが真のホラー小説の種かもしれません。
「文章は食うとも種(さね)は食わざるでござる」である?

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月13日(木)
■ソー・ビューティフル。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月14日(金)
■一日一文章トレーニング。

「壺の模様は様式美である」

朝起きてカーテンを広げたならば窓の外に鳩3羽。屋根の上に乗り乾いた大地の崖上に立つ西部劇の保安官のようでもある。いやいや、痩せっぽちな鳩に武運も恰幅もないもので砦上に立つ貧相な用心棒というのがしっくりだ。屋根上に鳩も3羽立てば、それは何か物語の始まりを予感させるものでもある。応仁の乱最中、砦の屋根を守る3羽の鳩を見つけて防人は餌付けする仲間として迎えるであろう。鳥をたくさん手懐けて鳥の楽園を作れば、それだけ潜み近づく外敵の危険も鳥が知らせてくれるものである。兵士たるもの食料がなくなれば鶏という選択肢もあるもので、鳥と仲良くなってこそ長く繋がる命の可能性もあるものだ。ヒマな時間と紙筆あれば、当然屋根上の鳩の物語なども書くであろう。黒ずむ屋根に朝日を照らす中「コッコロコッコロ」と鳩が出てくる姿はヒーローの姿でもある。人生最大のピンチに鳩のヒーローが救ってくれると考えたならば鳩でさえ愛しい生き物である。しかし、実際の鳥とは本当のピンチにバサバサと飛んで逃げてゆく薄情鳥でもある。

遠くから姿の見えないカモメたちの鳴き声も聞こえる朝だけの鳥たちの楽園は美しい。そして、鳩と私とは朝起きるのも遅く、日常の風景のどこにでもいる似た者同士であることに気づくものだ。なのに、私とくれば街で鳩を見かけても親近感も共感を感じないものだ。寧ろ軽蔑的な目線で鳩を見ているのも面白いものである。「鳩とは自分自身の鏡である」とはカントも言っていると思いますw。街に生きる鳩などの野生動物に温かな眼差しを持ち、そして、公園にいる鳩をまるで散歩中の犬に近づくように「わ〜鳩だ〜かわいい〜(赤ちゃん語)」みたいな痛い人間にはならないように気をつけなければならないものである。

ということで、

鳥たちの楽園の声を聞いた後は梅干しの壺の見回りです。クンクンと甘いフルーティーな香りはメロンっちゃん?な高級な香りがするのだ。流石が我が家自家製の梅干しは上質に育つものである。梅の香りが若干メロンの甘い香りになって少しビビる私でもありますが、白梅酢も梅干しの8割ぐらいまで上昇して順調な仕上がりになっているようである。もう一度、梅の香りを嗅ぐとやっぱり高級メロンな上品な香りで、「私は鳩である」という格言を完全に取り消し「私はメロンである」と断言します。

R060611 梅干し漬け
R060614 白梅酢が8割ぐらい上がってくる
R060618 赤紫蘇投入予定

梅の壺を見て思うことはあの定番の茶色壺と液体が垂れたような模様である。田舎っぽい茶色器に適当な黒い墨を垂らして描けば完成のテキトーさでもある。良くもあんなにも簡単で適当な模様を昔の人は考えたものだ。この模様にどのような意味があるのか?と調べたら、どうやら、これは高級な窯焼きで偶然発生する「玉だれ」という侘び寂び的な有り難い文様を人工的に筆でぺぺっと描いたようでもある。この模様の適当さとは何か自分自身を見ているようでもあり、カントも「私は適当に描く玉だれのようである」と言うと思うw。日本の伝統模様の液だれが和の象徴であることは困ったことである。黒を赤に変更すれば、血も滴るホラー模様であり、緑にすれば博士が研究所で生まれる怪しげな未知の生物の滴りのようにも見えるものだ。そのような滴りを紫やビビットカラーに変更するとエナジードリンクのようなデザインになるもので、昔の人が考案する意匠は少し時代が早すぎたものだ。

誰が何を言おうとも、どこからどのように見ようとも、この壺は梅干しを漬ける壺以外には見えないものである。これは様式美と表現するものである。おそらく、様式美の発生には先生と呼ばれる作り方を教える人が必要で、このような液体も滴る文様を丁寧に伝授していくことで一つの美意識が生まれるのだと思うものだ。これを素人が自由に作ってしまうと誰もが想像するような梅干し壺にならないもので、この世の中には「磨く人」と「磨かない人」の2種類の人がいるとすれば、「様式美を持つ人」と「様式美を持たない人」の分け方もあるものだ。様式美を遂行するということには必ず教えというものがあり、最近、毎日絵を描いて思うことは誰の教えもないものに様式美とは育たないものでもある。私の家系を見ても曾祖父さんだけは俳句を趣味でやっていたようですが、誰一人の絵や文章を見たことも無いものだ。なので、「遺伝だよ〜ん」はその環境に有る無しの違いと思ったりもするものだ。私の作るものは教科書やノートに落書きされて教室の中で生まれるものが原点でもあり、唯一先生と呼べるのは隅々まで熟読していたファッション雑誌だけが先生である。

雑誌先生サンキューである!

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月14日(金)
■梅ちゃん圧縮中。

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■2024年6月15日(土)
■一日一文章トレーニング。

「湯葉すくいの教えはIT用語の漢字化です」

いやはや、昨日は暑い一日。
あまりにも暑いので足はサンダル履きとなり、通る道は日陰道を選んで進む境界線をまたぐ一日でもあります。

R060615 サンダル履き・日陰を進む

梅干し作りは白梅酢が9割ぐらいまで上昇し、明日には完全に水没しそうな感じでもある。
そうなると、次にやることは赤紫蘇の仕込みです。

1)先ずは葉っぱをたっぷりの水のボールの中でよく洗います。(2〜3度水を替えて)
2)次に紫蘇を束ねて茎の端をゴムでくくりS字フックなどに引っ掛けてよく乾燥させます。
3)パリパリと乾燥したならば紫蘇の葉を切ってボールの中に投入、表面に粗塩をふりかけて、紫蘇をひっくり返し再び塩をふり万遍なく塩が回るようにします。
4)後は、ひたすら紫蘇の葉をもみもみともみほぐすと乾燥した紫蘇の葉から灰汁(水分)が出て粘土のような紫蘇ボールが出来ます。
5)紫蘇ボールは握力を使いギュッと握り潰しさらなる灰汁を絞り出します。灰汁はその都度流し2〜3回続けると写真のような紫蘇ボールの完成です。

手の色も黒ずんで染まる大作業ではありますが、これを18日以降に壺に投入すると赤い梅干しの完成予定です。
去年との違いは紫蘇の茎部分を捨てたので、紫蘇の赤い染料が去年よりもたくさん流れ出たようにも思うものだ。
もしかしたら、去年の梅よりも赤色の薄い梅干しとなるのかもしれません。

ということで、

昨晩は豆乳鍋の湯葉を作ります。
豆乳は3度目の正直で調整豆乳→調整豆乳→無調整豆乳と2度の間違いから、やっと正しく購入できた豆乳でもある。
豆乳の価格は220円で、値上がりする牛乳とほぼ変わらないお値段です。
豆乳はあんまり飲まないもので、もっと値段が高いようなイメージがありますがこのインフレ時代の相棒のようにも感じるものだ。
面白いのは、昨日のような今年初の猛暑日の暑い晩にホットクックの鍋を開放しながら、もんもんと湯気舞う部屋で行う湯葉すくいである。
写真は一回目の湯葉。
何じゃこれ?の湯葉です。
このような暑い思いをしながら食す湯葉の刺し身とは美味しいのですが見た目が何とも貧相なものだ。
ネット検索すると、クックお写真は詐欺レベルの上手さでもあって我が家の湯葉と雲泥の差でもあります。
それに加えて何より暑い。
湯葉が出来たかとアセアセと嗜む京風湯葉とは何かが異なる阿鼻叫喚でもある。
何事も場数を踏めば技術の向上もはかれるもので、湯葉すくいもやっている内に上手になるであろうとの算段ではありましたが、見事なままに最後までこのような感じの湯葉すくいでもある。

結論1)湯葉は買うものであり、家で作っても上手に作れないのだ。
結論2)湯葉の鍋をするにしてもサンダル履きや日陰を選んで歩くような夏のような日に絶対にやってはいけないものだ。

ということで、

失敗は失敗の数珠繋ぎであり、ダメな時にはダメな呆則しか生み出さないものであります。
そのようなダメな湯葉すくいをしていると日本のダメなIT化について思うことがあるものだ。
おそらく、100人いればそのほとんどが自身のデジタル化に失敗したと考えるものであると思いますが、これは湯葉すくいにも似ているものだ。
上手く出来る人は上手に使いこなし、他人の芝とは青く見えるものであります。
私達は見慣れない新しい概念がやって来るとさっぱりとよくわからないもので、例えば、「エコノミー」という概念が異国からやって来たならば「経済」という言葉に翻訳して日本化したものであります。
しかし、デジタル技術に於いてはこのような日本化はないものだ。
英語ペラペラなパリピたちは新しい概念を日本語化することもなく、他の人たちがよくわからない横文字で格好良く話せれば、頭も賢く見えるのだとミエミエなのである。
プログラムなどを見れば文字の規則上、理系の関係は薄い文系そのものなプログラムでもある。
私は日本の失敗は新しい概念を日本語化するという入口で全て失敗したと湯葉を見て思うのであります。
OSやディレクトリーとは大した概念ではないものの、横文字であることで私達ピープルを拒絶させるに十分な単語となります。
一方で同じアジア圏でも中国などではIT化に成功しているものだ。
なぜ、中国で成功して日本で失敗するのかと考えた時に言語化する入口で失敗したと考えることも出来るものだ。
中国語のことはさっぱり知らないのですが、デジタル技術の文言は漢字に変換されて多くの人に周知するような仕組みはあるような気もするもので、早速それらを輸入してはどうかと思うのである。
黴雨を梅雨と呼ぶ私達である、おそらく、上手に日本語化すると思うのだ。
独裁国家のスパイ法ある人材を情報産業に組み入れるのは安保上絶対に反対でもあるので、漢字のIT用語を輸入して魔改造を行えるの君たちしかいないと思うのであります。
(他力本願中)

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月16日(日)
■一日一文章トレーニング。

「コレクターの敵を書き出した」

コレクターの敵は何かと考えてみたら以下のようなものが考えられます。
・破損
・災害
・経年劣化
・紫外線
・加水分解
・家族
・キャパシティ
・インフレ

大切なもの程、落下させ引っ掛けて壊してしまうこともあるものだ。
箱に大切に仕舞っていれば壊れることもないのですが「飾らないコレクションとは何であるか」と自問すると、それはとても哲学的なお話でもある。
所有する心と、飾る心、触れる心に、揺れ動く心、それがコレクターでもある。
大切に飾ったとしても地震などがやって来れば倒れて壊れてしまうこともあるものだ。
東北の大地震の時には、私は家に飾るコレクションの全てを偶然に全部箱に仕舞ったものだ。
「地震の到来を予知していたのか」と家族に不気味がれるのですが、勿論、単なる偶然である。
毎度の気分転換の棚変をしていたら「日頃の行いが良いせいか?」たまたま地震がやって来て破損を防いだのである。
それ以来、私がコレクションを仕舞い防災用品をチェックする度に皆は不気味に思うのだ。
残念ながら私にナマズ機能はないもので、コレクションとは365日同じ風景ではなくて、たまには普段スポットライトに当たらない新しい風を取り入れながら飾りたいと思うものであります。
コレクターとは喜怒哀楽・監督業のようなものだと思ったりもするもので、お気に入りのイレブンを並べ、新しいヒーローも発掘し加えて少しずつ棚配置も変化させるのであります。

経年劣化とは常に避けられぬものでもある。
私もあなたも毎秒ごとに劣化していくもので紫外線はその中でも最強に怖いものでもあります。
窓辺のフィギュアとはガラスケース無しに怖くて飾られないもので、特に赤や紫色は紫外線によって色が薄くなるやすいので気を付けて飾ります。

加水分解もなかなかに怖いものだ。
大切に保管していたとしても自然劣化でゴムやプラスチック素材がベタベタと劣化してしまうこともあるものだ。
加水分解を調べるとA(陽性)B(陰性)の素材が水(H2O)と化学反応を起こすと、水がAOHとBHに分かれて素材がAとBに分解されるようでもある。
これは火に酸素を入れるとよく燃える化学反応と同じことで、水は反応性が高いので何とでも結びつき、モノを破壊していくようである。
ならば、乾燥すれば良いのかと言うと加水分解の反対の脱水縮合というのもあるようだ。
モノを所有する限りカタチが消滅する無常観とは切っても切れないようでもある。

そして、ここにプラスチック素材のUNOがある。
「プールでも遊べる」とのうたい文句につられてパリピな私はこのプラスチック製のカードゲームを購入するのである。
勿論、プールーもないので陸(おか)で遊ぶだけのカードゲームである。
カードは何度もシャッフルして並べれば表面は傷だらけで摩擦熱も発生するでしょう。
また、手脂と汗(塩分)も表面にくっつけば科学変化を促進する強い味方となるはずです。
そのような訳で、このプラスチック製のUNOは加水分解をはじめて少しベトベータとなります。
一度始まった加水分解はリバースカードを出したとしてももう戻らない。
この7月に切り替わる新紙幣もプラスチック製にするべしとのお話もあるものですが、平安の昔から和紙素材は劣化に耐え抜いて残る素材でもあります。
加水分解や紫外線等は普遍的な現象でもあるのでプラスチックが紙の耐久性を超えることは難しいのかもしれません。
その意味ではゴールドは最強の永遠の輝きであるものだ。

そして、コレクターにとっての最大の敵は家族でもある。
私にとっては宝であっても家族にとってはゴミということもあるものだ。
家族を怒らせてコレクションの全てを失った人々の涙を私はいくつ見て来たのでしょうか。
このような話は時に笑い話のように語られるものではありますが、コレクターにとれば恐怖そのものでもある。
そして、そのようなコレクションが邪魔になる要因がキャパシティでもある。
狭い家にもうこれ以上置けないのだとなるならば、コレクションの終焉を意味するものであり、飾って愛でるスペースあってのコレクションでもある。
そして、お気に入りのものを集めるとしても値段が高くなって元も子もないものだ。
その意味ではコレクターの敵はインフレでもあり、「物価高で困ったなー」と憂う全地球市民の敵もプーチンで間違いないものだ。
巨悪は数珠玉のようにあるものですが、このように一つの戦争がきっかけとなり人々の富を奪うのは珍しいことのように思うのだ。

そのような訳でコレクターとは哲学でもあり、ユニバースでもあり、文化の保存者でもあってとっても不思議な人たちでもあると思うものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月16日(日)
■スゴイ日差し。
眉毛は湯葉から、目は紫蘇団子、ハットは紫蘇干しから出来ております。
 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年6月17日(月)
■一日一文章トレーニング。

「月に目あり、鳥にも目ありで、昨日は大きな黄色い目玉のような「果物」を食べるのであります」

今朝は昨日の朝よりもムワりと暑くて寝苦しい朝。
室温は0.5℃・湿度4%上がっただけで、こんなにも暑く肌に密着する不快感でもある。
室温もあと2℃上昇すれば、寝る時もクーラーのスイッチONしながら寝る毎日となるのでしょう。

R060617 室温27.3℃・湿度68%
R060616 室温26.8℃・湿度64%

昨晩は雲に隠れながら朧に見えるお月さまを風流に見て寝たものであります。
雲を透かしてぼんやりと見える欠けたお月様の風情は良いものだ

そして、今朝は寝苦しい朝を起きて「シャーーー」とカーテンを開けると黒い何かがバサバサと隣の家に飛んで行きビックリするのであります。
どうやら、カラスが我がベランダに止まり、こちらの中の様子を確認していたようである。
カラスに部屋を覗かれるのは2度目のことである。
一度目は早朝やかましく鳴いているカラスを上手な鳴き真似でおちょくっていたら、その後にカーテンが開くのをこっそりと待ち部屋の中を覗きに来たのであります。

そして、今回は子育て中の鳩を応援する為にパパラッチカメラを連射させてカラスを追い払ったら、それを根に持ったのか?カラスが敵情視察に部屋を覗きに来たようである。
何と言う知能を持つ変態鳥でありましょう。
カラスと私は目と目を見つめ合いながら気まずい雰囲気となるものだ。
人間なら部屋覗き見の罪でお縄となるところではありますが、カラスはバサバサと法の外へ飛び去るものであります。
私とて鳩の子を救う為とは言え、カラスをパシャパシャとパパラッチして嫌がらせをした負い目を感じるものだ。
カラスを追い払ったのは数日も前のことでもあり、私の海馬にはそのような記憶もすっかり忘れているものでもある。
しかし、カラスの記憶には得体の知れない筒に連射されてパパラッチされた記憶は残っているようで、時を待って部屋の中を確認する朝活をしていたようでもある。
勿論、カラスの鳴き声は一切聞いていないので隠密にやって来たものだ。
前回もそうなのですがカラスの記憶とは結構長いものであり、人が忘れて油断するところを狙ってやってくるゲリラ戦法のような感じでもある。
「鳥は友であり」鳩の子育ては終わったので、これからは仲直りフェーズでもある。
とりあえず、朝一番のカーテン開けて驚いたので、「オレとお前さんは友であり、もう仲間でもある」パパラッチとカラスの驚かせで全てノーカウントである。
朝一番にカラスが飛んでビックリしたものの、あまりにも寝ぼけた体は俊敏に動くこともなく驚きもない反応薄でもある。
そのような網戸の前で仁王立ちとなりカラスと見つめ合う私でありますが、数日後にもう一度カラスはやって来ると予感しております。

ということで、

月に目あり、鳥にも目ありで、昨日は大きな黄色い目玉のような「果物」を食べるのであります。
黄色くて直径9センチ程ある大物の果物はグレープフルーツのようにも見えますが「果物」です。
スーパーで購入した時から「果物」としか書かれていないその「果物」にはどこにも詳細な名前がなく、POPにも「果物」と書かれていたものである。
そのような「果物」の中の果物に惹かれて購入するのであります。
その風貌からグレープフルーツのような果物の果実を想像して購入しますが値段は4個入りで554円。
レシートを見てもやっぱり果物554円と書かれているもので「果物」で間違いないものである。
最近は真夏のような強い日差しを体イッパイに浴びているのでビタミン不足を感じるもので、そのようなビタミン補給にはこのように大きくてジューシーな果物を食べることが最適のような気もするものだ。
果物はグレープフルーツ程に皮も固くなく程よい硬さ。
手でも剥けなくなさそうですが、いちよう天と地に包丁を入れてサクッと半分にするものであります。
黄色皮もそんなにも固くなくて結構剥きやすいものだ。
実に付く白い皮の子分は取れにくいのですが、果実の皮を剥いて中身を出す部分に包丁を入れると薄皮の白い子分を取らなくとも美味しく食べれる果物である。
味は酸っぱくなくて甘くてジューシーで思ったよりも数倍美味しい果物の王道みたいな味のする果物であります。
この「果物」農家さんの畑に自生している新種ではないだろうかと思ったりもするものだがどうなのでしょうか。

このように果物のような大分類に触れると、前述の月は惑星であり、鳩やカラスも鳥であり、全てのことがぼんやりと朧げになって平和(ピンフ)となるものだ。
前述のIT用語の日本語化のように新しい概念を自分の言葉に置き換えるということはそのものを理解することでもあります。
私達が子供の頃は造語したりすると「正しい日本語を使いなさい」と怒られることになりますが、新しい言葉がそもそも新しく生み出されることにより新領域を開拓することもあるものだ。
世の中に新語・造語が外来語のみで、国内から何も生まれない社会とはそれだけでも停滞して面白味を感じないようにも思うものでもあります。