■2023年4月1日(土)
■一日一文章トレーニング。

「真っ新なノートには新学期の希望と不安が詰まっている
私の白紙なノートには迷走と寂しさ(わびとさび)が漂っているのを知る」

4月1日(土)新年度、新学期の始まり、空は若干黄味や赤味、紫がかったような青空です。
雲一つない晴天ですが、真っ青で透き通ったブルーという訳でもありません。
何とも表現できない青空に霞がかかります。
私の右目と左目は片方づつ閉じて見るとブルー系とセピア系に色が異なって見えます。
なので、他の人と少し見え方は違うのかもしれません。
RGBで表現すると(R95 G121 B218)から徐々に薄めるグラデーションな感じ。
微妙に違うと思えば、確かに見比べれば全然違うお空のお色。
空は時間の経過と共に徐々に移り変わるものでiPadに描いて再現することはとても難しいことのように思えます。
なので、空の色を完全に捉えたとしても意味のないことかもしれませんが、継続することで何かを発見するのがマイ呆経験則です。
暫くはお空色のペインティングも続けませう。
とりあえず、いつもよりも早めに咲いた桜の花は、本日まで長持ちして咲いているので良き、新年度の始まりです。
桜が散ってしまった4月1日とはとても寂し気な新学期・新年度となります。

ということで。

新年度のスコスもそろそろエンジンを再起動させる必要があります。
その奏でるエンジン音とは「ブッパブッパ」と暴走バイクのような不調和音なのかもしれませんが、今となりてはそのような騒音でもありがたく感じる程の活力源でもあります。
ここ数日間は「そろそろどうするんやすこす会議」を実施してきました。
その中で、いくつかの新芽なアイデアも検討されました。
年度末の最後にわらわらと出て来るアイデアとは背水の陣のような運命もあるようなものにも感じて、面白き事でもあります。
これらは情熱を持ちて取り組みたい案件でもありますが、果たして身になるのか?実にならないのか?それは天さえもわからなきことでもあります。

百人一首を読んでいると、和歌の中で表現される事柄は雅(みやび)な貴族の生活でもあります。
ですが、ところどころに「わびさび」な片鱗を見出すこともできます。
「雅とわびさび」とは本来対極にあるはずのものが同居していることは何かおかしなことです。
安土桃山の武士の世に生まれ育った「わびさび」の概念が平安貴族の雅の中にも多少なりとも萌芽していたことは少し不思議なことのようにも思えます。

「わびさび」とは毎度のことではありますが、何かよくもわからない概念でもあります。
何となくは理解でき体感的には知っているのですが言葉に表現することは難しいことば。
意味をネットで調べると、閑寂枯淡(かんじゃくこたん)で、ひっそりと寂しくて、ひっそりと深く趣きのある事柄とあります。
まーそんな感じなのかもしれません。

和歌を深く理解するには“ひらがな”を漢字に変換させて意味を探ることが恐らく必要です。
その技法を使い「わびさび」も漢字に変換すると「詫び寂び」と表現できます。
さっそく、これら漢字の意味を深く分解していくと・・・。
「詫び」とは、思い煩うこと。
「思い煩い」とは、あれこれ考えても、問題解決の為のこれと言った解決方法が見つからない様子のこと。
抽象性の先の何かエンドレスな知恵の輪のようなドツボな感じもします。
「寂び」とは寂しげなこと。

漢字から分解する「詫び寂び」の意味とは、何か私自身を表す言葉のようにも感じます。
解決の糸口を掴む方法を知らず、寂びしげなことは、私たちそのものです。
今こそ、汚い茶器を拾いて海外長者に売りに行くべか。\(草)/
即ち、
潮流の枠外にいるということは選ばれし「詫び寂び」を合わせ持つ所有者であるとも考えられます。
利休のように詫び・寂びな事柄の中から何かしらの新しき価値観を見出すことが、今の私に求めらる生き方のような気もします。

 
■2023年4月1日(土)
■CAT**BALL応援団。

■2023年4月2日(日)
■一日一文章トレーニング。

「上野にシャガの花が咲いていました」

写真は上野公園のシャガ畑。
一面のシャガで花がキレイだったので撮影しました。
写真で見るとイマイチ伝わりませんがなかなかに圧巻の面積に広がっていました。
シャガは私の好きな花の一つでもあります。
遠目で見ると花はキレイなのですが、近くで観察すると古代植物のような荒々しさも合わせ持ちます。
葉はしっかりとした緑色で花の白と、若干の薄紫色っぽさと黄色の組み合わせが好きな要素でもあります。
昔、母が庭に1本のシャガを植えました。
すると、根っこ部分で繋がって庭中に大繁殖したこともある花でもあります。
今考えれば、根っこの部分で繋がっているとしても、間隔を空けた少し離れた場所までポツポツと生息域を広げていたことは何か不思議なことでもあります。
もぐらしか見ることができない植物の見えない根っこの世界とは少し気になります。

庭にはドクダミ草のうっそうとした群生体もありましたが、こちらはジメジメとした感じもあり蛇でも潜んでいるような気持ち悪さもあります。
シャガの群生体にはそのような不気味さが全くないことが特徴です。
同じような花を咲かす植物でもありながら、このような雰囲気の違いからか、昔から人為的に植えられ繁殖してきた植物ならではの風流さを持っています。
ドクダミ草の方はほっといても大繁殖する雑草魂です。
シャガは常緑多年生草本の植物で原産は中国大陸のようですが学名が“ジャポニカ”となります。
「ジャポニカ」という名前からジャポニカ学習帳が思い出されますが、シャガの花を使用しているのか気になって検索したら、見たことない鮮やか花がたくさん出てきました。
ドイツ製のノートでも植物表紙のノートは時折見受けられることでもあります。
ノートの表紙に植物の写真を使用することは世界的にみても結構定番的な図柄なのかもしれません。
最近は谷中霊園でもシャガを見かけることはあります。
東京に来てからはシャガを見かけることはなかったと思われるので、上野の植物界隈にシャガブームが来ているのかもしれません。

我が実家のシャガは盛者必衰の理を表すが如く、今ではもう生えてはいないかもしれません。
その理由は犬がシャガをガシャガシャと踏みつぶしたからだと思われます。
動物が歩くことで植物が減退していく様子とは“けもの道”の成り立ちみたいな歴史でもあります。
うちの実家の犬は道など関係なしに全方向に突っ込み歩いていく犬でもありました。
犬は庭の草むら中をトボトボ歩き、おトイレし、草花の匂いを嗅いだりと、何をしているのか?わかりませんが縦横無尽に歩きまわっておりました。
シャガは当然、踏みつけられて、暑い日には木陰のシャガ畑や丸くふかふかした草に体をのせて「はぁはぁ」と息を切らして涼をとっていたものでもあります。
そのようなこともあり、シャガ勢は急激に減退していったように思われます。
なので、犬は決して“けもの道”のような道は作りません。
ただ、お気に入りの場所の下の植物をクッションにして平坦に踏みつぶし、平らに枯らしていく感じです。
それでも、母が育てる草花とかには侵入しない賢い犬でもありました。
そう考えると、植物は触ったり、踏んだり、刺激を与えるとストレスで弱ってしまうものかもしれなくて、あまり刺激を与えずに適度にほったらかすぐらいが丁度良く成長する秘訣なのかもしれません。
お店の最前線にいたサボテンのトゲがトゲトゲしてとても痛かったのに、ベランダの静かで陽当たりの良い場所に移すとトゲが全く痛くないサボテンに変化するように、自ら動けない植物たちはケモノに踏みつぶされて「もうあかん」ギブアップと枯れていくのかもしれません。

 
■2023年4月2日(日)
■リズム。
■2023年4月3日(月)
■一日一文章トレーニング。

「雑草でもしっかりとした根をはっているので見習わなければなりません」

「空の色はうつりにけりな」を記録するカラーパレットは1枚の写真として合成することにしました。
サーバー容量はいくらでもあれども「ふみトレ」のアーカイブは月ごとに1ページの容量で収めているので画像増えるとHPの読み込みにも時間がかかります。
今日の空色を最小単位で表現すると下記のようになります。
R238 G241 B245
R179 G214 B255
R238 G239 B231
R238 G239 B242
何のことなのか?のRGB表現なのですが、パソコンで絵を描く人や画像調整する人たちだけには通ずる呪文な言葉でもあります。
そのようなIT呪文を1枚の画像情報としてアップすると1.8メガ程のメモリーを必要としますが、文字情報で表現するとたったの4行です。
ですが、
この4行の文字情報だけだと流石に何色なのかイメージすることができませんので挿絵の画像の横にカラーパレットとして貼り付けることにしました。
朝起きて、80センチの机に座り、何の文章を書けば良いのかと思い悩む先の薄いカーテンの隙間から覗く空の色が写真端のカラーパレットとなります。
小さくとも画像さえあればスポイトで色を取り出すことは可能です。
特に意味のないカラーパレット作りではありますが、見たものの中から色を抽出するトレーニングを重ねれば、もしかしたら瞬時に象徴する何かしらの色を抜く能力を掴むことができるのかもれません。
今日の空は薄い白に近い雲からお日様が上がってくると同時に斑模様に青が濃く見えてきます。
読み返している今の空は随分青く青空となっています。

昨日はベランダの植木の草抜きと土を入れをしました。
不思議なことは手いじりをするとなぜか、爪がよく伸びることです。
なので、さっそく土いじりの後はよく手を洗ってから指の爪も切りました。
花粉症の為に1ヵ月ぐらいほったらかしであった植物たちの鉢には随分と雑草が育っていたので草抜きをします。
大きく育った雑草は主役級に堂々と大きく育っているので、ぱっと見、それが雑草であることに気づかないぐらいです。
さっそく勢力を拡大した雑草には悪いのですが「ずぼっり」とひっこ抜きます。
雑草の根のたっぷりの土をつかまえて、なかなかに引っこ抜くことは大変な位に根をはります。
そんな抜かれた雑草の根には、植物にとって美味しそうなふかふかの細かい土が根にたっぷり不着していたので、それらをキレイにパンパンとはたいて鉢に戻します。
そのような大きく育った雑草類を数本抜くと次に気になるのが小さな雑草たちです。
小さい雑草の芽がたくさん生えているのを見つけることができます。
これは取り急ぎ抜かないといけません。
小さい雑草を指で抜くには私の指が少々太すぎるので、ピンセットの登場です。
1本1本小さな雑草を見つけては抜いていると、数ミリ程の小さな雑草を抜くことは暇人にしかできない地道な作業のようにも思います。
ピンセットをクチバシにワカサギになった気分で小さな雑草をつついていると、土と一緒に時にキレイに育ったコケ類も一緒に剥がれます。
苔は冬場でも元気に育っていたようであります。
このような小さな雑草でも根っこ部分は随分と立派な根を広げて育っていることは、ある意味雑草の恐ろしさを感じます。
一度、抜き損じると茎だけになった雑草はなかなかに抜くことも大変です。
この小さな雑草たちが全部育ったことを思い浮かべると、とんでもない荒地になったことでしょう。
とりあえず、昨日は雑草抜きができて良かったです。
新しい土も入れました。
アフリカ勢の遊戯王植物たちも新しいふかふかの土に植え替えました。
今朝はたっぷりの水と共に肥料も投入しました。
万事最高の環境になったぞと写真を見返していたならば、写真の中に6つの小さな雑草を発見しました。
※赤丸部分。
文章の中の「草」とは多い程に楽しげなものでもありますが、鉢に生える雑草とは全部抜いたと思ってもまだまだ存在していて、根もその辺の木々と変わらない程にしっかりとはっている厄介な草でもあります。

 
■2023年4月3日(月)
■雑草を抜く。

■2023年4月4日(火)
■一日一文章トレーニング。

「雑草でもしっかりとした根をはっているので見習わなければなりません」

雑草と戯れることは苦痛でもあるが、面白く思ったこともあるのでそれについて書きます。
先ず、2センチサイズの雑草とは絶賛成長中の雑草でもある。
放っておくと、その内にデッカく育つ雑草となるのかもしれません。
雑草を抜くとわかりますが、葉や茎の長さが2センチぐらいあるとすれば、根は1:1同等の2センチ程で全長は4センチの雑草となることがわかります。
※雑草の種類によるのかもしれません。
2センチ程の根を伸ばした雑草はそれなりに強固な根を張った草なので、引っ張ってもそれなりに踏ん張りなかなかに抜けません。
小さな雑草とは言えども、地上に見える背丈と同じ位の長さの根っこを張っていると思えば、雑草の全体像はなんとなく想像することはできます。
大きな雑草の根はひょろりと長く下に伸びている訳ではなく、ピンポン玉のような球体を作り根の中に多くの土を抱きかかえています。
鉢もそんなに深くはないので当然と言えば当然でもある。
大きい雑草はポイっと捨ててしまったので、今となってはもう長さを計ることはできませんが、1:1の長さを有しているのかは次の雑草抜きで調べてみたいと思います。
小さな雑草の新芽は柔らく薄い緑色で美味しそうでもある。
このまま美味しそうな葉っぱに育ってくれれば、雑草卒業の野菜と雑草の境界線かもしれません。
緑素ある部分が見える世界であるとすると、土の中に埋まった根の部分は茶色い見えない世界でもあります。
雑草を抜くと気づくことが一つあります。
それは緑色の葉と土を被った根の境界線に茶色の枯れた葉っぱのようなものを見つけることができることです。
種の皮かとも思ったのですが、カタチが小さな葉っぱのようでもある。
普通に雑草抜きをしていれば、それは土壌の一部かと思ってしまう些細なものでもある。
これは単に取り置いた雑草サンプルだけの現象かもしれないので、また草抜きする時はよく観察してみましょう。
もし、仮にこれが葉っぱだとすると雑草の繁殖力の強さは自らの葉を栄養源として成長を果たすという「成長モデル」のようにも感じます。
果たして、どうなのでしょうか?

雑草を抜いていれば苔も一緒に抜いてしまいます。
コケと言えども、ジメジメして気持ち悪さもあって雑草と変わらないような気もします。
ですが、雑草は抜かれ、苔は大切に?そのまま放置されるのが多分、私たちの常識です。
それは誰に教えてもらわなくとも、自然と遺伝子レベルでそのように行動するようにインプットされているようにも思います。
雑草は抜き捨てられ、苔は大切にそのまま放置する感覚とは日本人の特有の美意識に関するもののような気もします。
海外の人たちはコケを剥ぎ取り捨てるのでしょうか?
雑草と苔の違いは何でしょう。
コケは根を深く張りません。
表面にくっついている感じです。
なので、深く根を張る雑草を抜くと表面にあるコケ類たちもその都度ひっくり返っります。
雑草はメイン植物の栄養源を横取りするような感じもするが、苔は何もしないと思います。
大きく成長もすることもないので控えめな植物でもある。

雑草を抜いていると、細いもやしのような群生体を見つけました。
大きめの雑草を1本抜くと、ついでに細く小さな1本のもやしのようなものも一緒に土壌ごと引っこ抜けたので、それらをよく観察してみると苔でした。
もやしのようなものは22.5ミリ程の長さがあり、もう1本のもやしは8ミリ程で成長中のものです。
コケと言えば面で埋まっている感じがするのですが、このような単体で見ると苔は1本の糸を分岐するように成長するように見えるのも面白いことです。
土台になる土の塊には4ミリ程の雑草の新芽が寄生しており、本当にどこでもいるなと思う雑草の生命力です。
その姿をiPadに描きネットで調べると、それは胞子体と呼ばれるものようです。
これらも雑草かもとも思ったので抜かなくて良かったです。
雑草と呼ばれる雑な草なお話でありました。

 
■2023年4月4日(火)
■空を見上げるモグラ、黄昏時の空、は随分と散りました。
■2023年4月5日(水)
■一日一文章トレーニング。

「たぶん、上の句があれば、当然、下の句もあります」

車が行きかう道路の上をぽっかりお月様が浮かびます。
一昨日の帰り道、球体の底から透き通る青空を眺め見上げたならばキレイな風景画を見つけました。
帰宅を急ぐ人たちが行き交う雑踏の中、私は空に向かって一人撮影をします。
画だけは静かな空間。
毎度ながら街の風景写真を撮る時は何だか気恥ずかしい気持ちにもなります。
気恥ずかしさに加えて、足を止めて携帯を取り出す手間も面倒なのですが、複雑な葛藤を天秤にかけてもこの風景を撮影しようと決めました。
何かのネタになるのかも?と考えたのかもしれません。
そのような意味では街でパシャパシャと小まめに撮影する人たちとは何かしらの情報やネタに飢えた人たちでもあるとも言えます。
少しの関心をお空に向けるだけで、日常の中にマジックアワーな心の肥やしを発見できることは素晴らしいことでもあります。
右端の雲は私の落書きで今朝の空色である。
最近、毎朝の空色を写真に貼り付けていますが、せっかくのキレイな写真も台無しになるとは思いましたが案外POPな雰囲気で良い感じでマッチもします。
この写真の色や雰囲気は「どこかで見たことがあるゾ!」ということで、さっそくお家に帰り思いつくキーワードを入力して画像検索するとルソーの絵画が出てきた。
いやはや、このお空色はアンリ・ルソーのお空の雰囲気とよく似ています。
何となく頭の片隅にあったのは真っ黒なヒョウな動物ではありましたが、実際はライオンの「眠れるジプシー女」の画です。
それ以外のルソー作品のお空色ともよく似ています。
月は米粒程に小さいのが現実ではありますが、月を大きく描くことは心象風景としての月の存在感が大きいからなのでしょう。

昨日は雑草の葉と根の仕組みを「見える世界」と「見えない世界」が1:1で存在していることを記録しました。
これを現実の世界の「見える世界」に当てはめて同等の「見えない世界」があると仮定すれば、何かしらの空想は膨らむものでもあります。
確か、雑草でない木々でも枝分の大きさの根を地中に張っていると何かで読んだこともあります。
見える範囲の外に同等の見えない世界が広がっていることは「ストレンジャー・シングス」の裏世界のようなロマンある世の中の見方でもあります。
和歌に例えて、美しいルソー絵画を彷彿させる写真から、別のもう一枚の別の絵(下句)を連想することは可能です。
それは大きなイチョウの木々が聳え立つ下に広がる暗い道を闊歩する人々や黒豹、ヘッドライトを付けて走る車の群れなした姿なのかもしれないし、ルソー風の南国のジャングルでも良い。
視覚できるものの背後に同等の「見えない」何かな余白を作る呆則とは、なかなかにアリで面白いコトのように思われます。

 
■2023年4月5日(水)
■黒ヒョウサイクル。
■2023年4月6日(木)
■一日一文章トレーニング。

「誰が為のバランスなのか」

この寒かった冬も通り越してサボテン三兄弟は60cm超ぐらいに成長しています。
随分デカくなったものであります。
単に長くなっただけでなく幹ももはや樹木の枝のようにずんぐりと固く太い。
鉢は小さかった時のままに背丈がぐんぐんと伸びたので、サボテン三兄弟の鉢は重いレンガブロックで挟んで支えないとコテっと倒れてしまうぐらいにバランスが悪い。
そこで、数年前にホームセンターで購入した大きめの植木鉢に植え替えました。
「やっとのこと」の何年越しであろうか?の鉢の植え替えです。
「横着による横着の為の鉢植え」とはいつも長い期間、常に後回しにされる事案でもあります。
しかし、往年のネタ不足はサボテン三兄弟を植え替えるだけでも、それなりのネタ作りにはなるので行動するキッカケにもなります。
ネタとは棚からぼた餅で向こうから自動的にやって来る事が理想ではあります。
ですが、そんな僥倖はほぼ起きないのが現実です。
ならば、自分から何かを作り出し、何かを観察し見つけ出さないと何も見つかりません。
たぶん、それが横着人を自発的・積極的に動かす原動力の「オレはやった」であり、ネタ不足を解消する唯一の行動なのかもしれません。
そのようなことで、サボテン三兄弟は大きな鉢に引越ししました。
新しいふかふかのたっぷりの土に植え替えられてドシンと鎮座します。
小さい鉢はしっかりと根付いて抜けなかったので、強力ハサミでバリバリと破壊しながら剥ぎ取りましたが、新しい鉢に植え替えて思うことは、こんなにもサイズ合わない鉢の中でよくも元気にスクスクと育ったものだと思います。
サボテンは乾燥地帯に生育しているので根よりも陽当たりなどの重要度が高く、私のように狭いところが好きかもしれなくて、前の鉢の方が居心地良くて有難迷惑と思っているのかもしれません。
その意味ではコテコテと鉢が倒れられたら困る私都合の鉢の植え替えとも言えます。
昨日の1:1理論で言うとサボテン三兄弟の根はとても浅く小さく裏世界は非常に小さいと言えます。
故に、見える範囲の容姿がとても荒々しい姿になっているのかもしれません。

サボテン三兄弟の鉢とのバランスは修正され、今、関心があることは「バランス」です。
昨日は上の句、下の句と書きましたが、和歌のことは当然何も知りません。
しかし、調べると大体当たっているような気もします。
上の句は(五七五)の17文字のことで、下の句は(七七)の14文字を表します。
見える世界と見えない世界の心情を詠うという意味では植物の葉と根みたいな関係性を見つけることもできます。
Aという人が上の句を詠うと、別のBという人が下の句を詠うカタチは連歌(れんが)と呼ばれるものです。
Aが曇り空の景色を読むと、Bはそれでも、私の心は雲の上の空のように晴れ渡る気持ちを語るかもしれない。
連歌を通して予想できないお話が作られていく感じはとても面白いことのように思えます。
謂わば、これはコラボレーション(共同作業)でもあります。
今話題のAIとの対話もCと言う人が何かを入力すると、AIが何かを返してくる連歌のように似ているのかもしれません。
既知の出来事であれば、数行の文章に対して数百文字に渡る返答を返してくるのかもしれません。
話しの通じない(五七五七七)の連歌の仕組みを説明することで、文字数のルールを理解もするかもしれません。
内容は兎にも角にも、文字分量の差は今意識する1:1のバランスの世界では共同作業と言うにはフェアではないような感じもしますが、そのようなやり取りは何かシーソのようなバランスでもあり、それは人との会話のような感じでもあり、より等価交換を超えた世界のより人間的なもののようにも感じます。
サボテンにしても、AIにしても、私たちの周りにはいろんなバランスものが存在していることがわかります。

 
■2023年4月6日(木)
■ハードコア(パンク)を聴きながら描いた猫。
■2023年4月7日(金)
■一日一文章トレーニング。

「げにやげに、道に落ちているもの拾うのは幼稚園児と私だけです」

昨日は大風。
ビュービューと吹く風は踏ん張って咲いていた桜の花のほとんどを吹き飛ばしました。
あのような風で飛ばされない桜の花とはある意味、縁起物なのかもしれません。
入学式も多かった日の突風とは何とも言いがたき新生活の始まりでもあります。
桜の花の多くは飛ばされてしまい本来の美しさは消え去りましたが、粘り強く残る桜も存在しています。
数輪残るしぶとい桜の花とは、人に例えると流行や周りの言動や行動にも流されない強靭な力を持っている人なのかもしれません。
言うなれば、縁起物な桜の花びらとも言えます。
そのような、桜は開花時期とは異なり、散り際の桜に誰もカメラを向ける人はおりません。
あれだけ、ちはほやと桜を愛でていた人々の関心が消えてしまうことは悲しいことでもあります。
流行の最先端に多くの人は注目しますが、散ってしまった数輪となる桜の木々に目を向ける人はほとんどいないことは面白い現象(呆則)です。
桜を見る人はほとんどいないと言うか、全くいません。
これこそが「わびさび」かもしれない。
何かしらの価値を見出すべく、おしべめしべが残った濃いピンクに新緑の葉の色が混ざる桜の木々を眺めますが普通の木々です。
美的センスの修行が足りないのかもしれません。
年を重ねれば、散る桜の美学を見出すことはできるものかとも考えることもできますが、当然、老人たちもガン無視の桜の散り際です。
ただ一人、幼稚園児だけが熱心に風で飛ばされた桜の花びらを拾いながら歩いております。
何か自分自身を見ているようでもあります。

突風な風はますます勢いを高めます。
自動車のボンネットや自転車の表面には飛散した花粉が不着した痕跡が残ります。
昨日まで見られなかった汚れです。
「気になる・気になる」と自分には全く関係ないそれら表面に付いた不純物を拭き取りたくも思います。
最近、ガラスワックスという商品を見てしまったからもしれません。
すぐにでも、拭き取りたくなるそれらシミは、私が本当に横着人かと疑問を持つのに十分な事柄でもあります。
本当は横着人でもないのかもしれないし、たぶん、本物の横着は毎日文章を書くこともできないはずです。
単に初動が重いだけとも考えられます。
ギアチェンジだと2速や3速スタートからの重く動き出す感じなのかもしれません。
気になる部分だけが気になる、それ以外はスルーできる横着系なのかもしれないし、まだまだ中途半端である横着なのかもしれない。

大風は美しい桜の花や花粉、いろんな類のものを飛ばします。
帰り道、ご老人を追い抜かし坂道を上っていると、大風で飛ばされたたくさんの葉っぱが道に落ちているのに気づきます。
それら葉っぱをよく観察すると葉に何か実のようなものが付いています。
「むむっ」
道端に落ちている種マニアとしてはそのような種は「気になる・気になる」種素材になります。
ある程度坂を上りきった後に、それでもやっぱり落ちている葉っぱにとても気になって、何か忘れものをしたような「はっ」と立ち止まり上ってきた道を下ります。
道で落ちている種を見つけた時に決断力が鈍っているのです。
熟考しならがら、やっぱり拾おうと思うのは即決できない私の優柔不断さでもあります。
誰も何も気づかないし何とも思わないであろう三文芝居ではありますが、こんなシチュエーションでも作らなければ道を逆走してまで落ちているものを拾うことはできません。
追い抜いたご老人を再びすれ違い。
キレイな葉っぱは落ちていないかと目をギラギラさせながら道に落ちている葉っぱを吟味します。
「これだ」
葉っぱを拾います。(笑)
2枚の何かしらの葉っぱを拾うとイチョウの穂みたいなものがポタポタと落ちてくるのにも気付きます。
勿論、「これも拾うわ」(笑)
よく見るとコーヒー豆みたいなものが大量についていてお得な気分です。
新緑のイチョウの新葉も拾う大漁です。(笑)
それらをビニールジッパーに入れて撮影すると芸術的な美しい写真になりました。
ビニールジッパーは毎日、このようなものを拾う為にバックに入っております。(笑)
大人が道端に落ちているものを拾うことは本当に恥ずかしきことではありますが、大風とはいろんな木の実を落としてくれるのでありがたいものであります。

 
■2023年4月7日(金)
■こんな時計は欲しい。

■2023年4月8日(土)
■一日一文章トレーニング。

「イチョウの木々が花を咲かせることを知っていますか?」

春のあたたかな陽気に誘われて今日は爆睡です。

一昨日拾った植物たちは小さなジッパー袋に入れて分類します。
何年何月何日の何曜日のどこどこで拾った何々の実や葉っぱとシールに書いてジッパー袋に貼り付けます。
そのようにメモ書きしておくと、後から見返した時に記憶が復活するので便利です。
それらは、もう使用していないプリンターの予備インクが入ったPP引き出しに入っているのですが、その引き出しは結構イッパイです。
不必要なものがたくさん入っている予感がするので、本日、整頓しましょう。

小さなコーヒー豆をたくさん付けたようなイチョウの木々から降ってきたものは若干水分が多いようです。
ジッパー袋に収納すると水滴が付くのでジッパーを完全に閉じないで陽当たりの良い窓際でよく乾燥させます。
これは何なのか?とネットで調べると、イチョウの木の花でした!!
ヴィジュアル的なインパクトある外観をしていますが、私たちが花としてイメージする姿とは随分異なる黄色〜緑色の花を咲かせております。
恐らく、これがイチョウの花であると誰も気付かないようなカタチをした花です。
黄色の花粉のようなものはたくさん落としていたので花と聞いて納得です。
※写真にも黄色の花粉の粉が写っております。
桜の木は花を咲かすとわいわいと人を虜にしますが、イチョウの木の花は誰からも気付かれずに咲いていることは面白いことであります。
桜の木とイチョウの木の共通項は、どちらも挿し木で増える植物でもあります。
私たちが遠目からイチョウの新芽が出てきたと思っていたものは、実は新芽の葉っぱと同時にイチョウの花を咲す新緑であったことにもなります。
イチョウは背が高すぎて、そんな新芽の様子を観察することも無理なコトです。
去年は全く気づかなかったことでもあるので、全ては嵐のような突風が吹いてくれたおかげで知る知識ともなります。
サンキュー大風〜〜〜。

昨日もなかなかの突風や雨でした。
そんな大風に耐え抜いて咲く桜はないかと観察すると、がんばって咲く花も数輪ありました。
そのような桜のめしべおしべも拾いました。(2枚目写真の右の赤っぽいもの)
これだけでもすでに花のような形状をしています。
ネットで調べると、めしべは飛んでいってしまったのか?おしべだけが付いておりました。
それとも、めしべが抜けると花びらを散る仕組みになっているのでしょうか?
3つ拾った桜の濃いピンク色部分はおしべだけであったことは不思議なことであります。

2枚目の左画像の緑の実は不忍池の道に落ちていた実です。
何の木の実なのかは知りませんが、木の種類は特定しました。
当然、木の種類の名前は知らないので、何の木の実なのかは知る由もありません。

ところで。

二枚目の写真から「二枚目の男」の表現の意味が気になり辞書で調べました。
「二枚目」とは歌舞伎役者の役柄の一つで立役(たちやく)の和事師(わごとし)のことを指します。
立役の意味とは老役(ふけやく)、敵役(かたきやく)を除く男役の総称で、原則的に常識ある善人風な役柄の人のことを指します。
和事師とは男役が女性的な柔らかみのある演技で演じることを言うようです。
二枚目は劇中の女主人公に好かれる色男役のことを意味し、その役柄が上演する歌舞伎の看板の役付け2番目に名前を書くしきたりから「二枚目」の言葉が生まれました。
歌舞伎は1度観たことがありますが、それなりに愉しく観た記憶はあります。
前方の高額席にキレイなお着物を着飾ったお上品な方々がたくさんいたことをよく覚えています。
何か2枚目の写真から2枚目役者に脱線しました。・・・

 
■2023年4月8日(土)
■ボール*パーク*ヴィーナス。
■2023年4月9日(日)
■一日一文章トレーニング。

「姉さん事件です」(ミュージック)

昨晩、ゴースト越塚もビックリするような事件が起きました。
我が家に住みつく遊戯王植物(アフリカ産)の触手の種子みたいなものがパックリと割れて花を咲かせました!!
遊戯王はここ最近春の暖かさでもあったので野外暮らしでしたが、昨晩は10度以下の最低気温となる予報もあったので防寒対策の為に室内に取り込んでみたならば、暗い闇の中で可愛らしい花を咲かせておりました!!

咲いた花の数は8つ。
花びらの枚数は6枚。
めしべ1本。
おしべ6本。
花のサイズは3センチ程の大きさです。

ここ数日で蕾を大きく膨らませており、また、ハチが遊戯王の周りもブンブンと飛んでいたこともあったので花を咲かせる予兆と言えば、予兆のようなものは今となっては確かにありました。
だが残念なことに、昨日まではその蕾の膨らみことを勝手に種子だと思い込んでいたこともあり、そのような些細な情報からこれらが花を咲かせる予兆であることを見抜く想像性を持ち合わせておりませんでした。
変化の予兆とは後から見れば、必ず存在するものでもあります。
思い込みを排除して「なぜ?」な純粋な気持ちになることは大切な呆則でもあります。

色は白みがかった薄紫色でキレイかどうかと言われると、か弱き夜に咲く花というイメージです。
今朝、起きてからもまだ花を咲いていたので撮影しましたが、部屋が明るくなると段々に蕾を閉じる不思議な夜行性の植物でもあります。
花の香りは鼻を近づけると微かに感じる高級ブランドの香水のような上品な香りです。
匂いを言葉で表すことは色を再現することと同じく、なかなかに難しきものでもありますが、何かに例えるとするならば・・・赤や黄色の香りではなく、薄紫色っぽいままの異国の香りです。
洋館の室内に漂う可愛らしい香り、アフリカの赤土雑貨の香りと言えばそのような感じなのかもしれませんが、いずれも嗅いだことはないので何とも表現できない香りです。
「可愛らしい香り」と言うのが唯一間違いない答えのようにも感じもします。

念のため花のまわりの温度・湿度を計ると。
室温:18.8度 湿度64%
遊戯王の花:18.7度 湿度64%
特段な変化はありませんが直径80センチぐらいの範囲で、手や体で何かしらのヒンヤリと感じる香りのオーラのようなものを感じとることができます。
何かしらの香りの化学物質を放出しているのは間違いありません。

ところで、

この遊戯王植物の名前が判明しました。
「サンスベリヤ ケニヤ」です。
「サン滑りや」何と何度も変換ミスで滑りながら入力する名前でもありますが、「ケニアかケニヤ」で悩んでしまいます。
意識したことはありませんが、口語では「ケニア」と呼んでいるような気もします。
ローマ字で変換すると「KENIYA」と入力する方がしっくりくるので「ケニヤ」なのかもしれませんが、念のために。辞書で調べてみたら・・・。
「あれっ」
「ケニア(KENYA)」が正解のようです。
なので、「サンスベリヤ ケニア」なのかもしれません。
こればっかりはよくわからないことでもあるのでゴースト越塚も登場したことだし、もう最後まで遊戯王でいいように思われます。

因みに、ケニアの国情も気になり調べてみたら下記のようになります。

・産業
高原地域:茶・コーヒー・トウモロコシ・小麦・除虫菊。
低地:ココナツ・カシューナッツ・綿花・サトウキビ・トウモロコシ・牛・羊・ヤギ・林業・繊維・化学・自動車組み立て・食品工場など。

・歴史
サン族系の採取狩猟民族が先住民族。ハム系・バントゥー系・ナイル系の民族が移住。海岸地域では8世紀頃からアラブ人が定住して香辛料や奴隷貿易を営む。16世紀にポルトガル人が進出し、19世紀半ばにイギリスが進出し1920年に直轄植民地とする。その後、1947年ケニヤッタがアフリカ人同盟を結成して民族運動が本格化。テロ活動などを経て、1982年ケニヤッタが初代大統領となり、一党独裁を合法化するケニヤの国が誕生したようであります。

遊戯王植物はこの寒い冬の中でも20センチぐらい大きく成長して意味がわからないのですが、ステキな花も咲かせてくれました。
「あー楽しい」 
遊戯王植物が楽しいネタと可愛らしい花を咲かせてくれて感謝であります。

【誤字】正式には「ゴースト骨塚」でした!!WWW

 
■2023年4月9日(日)
■球体をつつく鴨。
■2023年4月10日(月)
■一日一文章トレーニング。


【ささくれ】
(1)ものの先端が細く裂けること。
(2)爪が薄くかさむけること。
(3)気持ちが荒っぽく角が立つこと


(3)
いやはや春ですね。ふかふかな布団の雲の上には真っ青で雲一つない青空が広がります。今日はすばらしい晴天です。冬から春へと季節も変化すれば、当然、時間も経過します。そのような訳で、時を刻むことの悪い知らせもあります。それは令和5年も100日間が経過しました。「おーこわ(汗汗)」 この100日の間に何を成したのか?何を成さなかったのか?と自問すれば、寝て、起きてを繰り返しての100日であったような気もします。大体の人生とは忙しくとも、暇であっても暑い寒いと言いながら、時と共に酸化していくことが人生のような気もします。それとも、錆びた人生のサビ落としにお酢や重曹のようなものが必要な気もして、何かないものかと心もささくれております。

(1)
最近の朝は布団の中がじんわりと暑い。汗をかいて目覚めることも多い。早朝「あつい」と目覚めれば、冬用の羽毛布団の中がトロピカルな陽気に包まれて布団を横に投げ出すことになります。そうして2度寝すると、今度は布団がないことで肌寒く再び布団をかけ直して3度寝となります。そして、再び布団をかぶると、やっぱりと暑くなり、もぞもぞと布団から這い出した朝を迎えます。その意味では、この季節の冬用布団は十分にささくれています?この季節に冬用の羽毛布団とは少し暑すぎるのかもしれなくて、そろそろ布団替えの時期は来ているのかもしれません。げにやげに、暑い寒いとは一年中の口癖のようでもあります。

(3)
南国布団でもなくても睡眠中に何度も目覚めること多々あります。それが「ささくれ」です。爪のささくれとは冬用布団のもふもふの起毛部分に上手く引っ掛かる形状をしています。触れる度に「オレはここにいるよ」との謎な小さなアピールでとても気になる存在でもあります。熟睡していても寝返りの度に軽く目覚める浅い眠りとは、小ささと反比例して、とても厄介な”ささくれ”であるようにも思えます。そして、大抵の「ささくれ」とは寝静まった夜の夢の中で「あれっ?爪ささくれた?」と気づくことになります。

絵は味のある画になった。
しかし、今日の文章は3つに”ささくれた”でしょうか?
布団の衣替えにしても、“ささくれた”爪にしても一つ一つ克服して快適睡眠を目指したいものであります。

 
■2023年4月10日(月)
■桜も咲き終わり新緑のキレイな季節になりました。


■2023年4月11日(火)
■一日一文章トレーニング。

「猫の目に叶うことのできる人間にはまだなれない(ニャー先生を除く)」

4月6日の強風の日に根津神社前で拾ったイチョウの花を天日干しでカリカリに乾燥させると、少しの振動でも想像以上の黄色な花粉を大量に落下させるようになります。
そのような花粉は天然の黄色い絵の具になるのかもしれないと考えて、昨日、谷中霊園のイチョウの花をもう3個追加で拾います。
谷中霊園のイチョウの花は個々のパーツも大きさも根津神社の半分ぐらいの小ぶりなサイズです。
同じように見えるイチョウの木々でも何かしらの種類の違いがあるようで面白いことです。
因みに、小さな花を落下させる谷中霊園のイチョウの木の方が大木であり御神木のような神々しさもあります。
イチョウの花の図解を検索しますが、詳細なものを見つけることはできませんでした。
ですが、これには花粉があるのでおしべ部分だと思われます。
なので、イチョウの花とは花びらのない、おしべめしべがむき出しの花となります。
このおしべの花粉が受粉すると8月頃に付ける青い実になると思います。
イチョウと言えば、秋の銀杏が有名ですが、夏の暑い時期にも何か青い実を落としていた記憶があります。
後で、過去記録を調べてみましょう。
イチョウの木とは、春の新芽を出すと同時に誰も知らないような変な花を咲かせ、夏にも銀杏とは異なる、これもまた一般的に知られていない実を落とす仕組みの変わった木でもあります。(二毛作)

ということで。

昨日はイチョウの花を拾う為に墓場をうろうろと歩きました。
すると、黒猫と遭遇。
黒猫は雑草をムシャムシャと食べていたのですが、全身真っ黒すぎて写真に撮っても黒と目だけの真っ黒に潰れた写真となります。
私がずーっと写真を撮っていても無反応で一心不乱に草食いをしておりましたが、一通り満足したのかダダっと墓場を駆け抜けていきました。
実家の犬もそうでしたが、動物とは庭に生えている雑草をムシャムシャと食するものであります。
嫌いな食べ物にはフンっと見向きもしないこともあるぐらいに味覚にこだわりがある犬でも、苦そうである雑草を食べることは犬猫にも案外健康志向な動物なのかもしれません。
ネットを調べてみるといろいろな理由が書いてはいますが、毛玉吐きやお口直しみたいな感じが一番しっくりくる感じもします。
人間の子供も草を食べたりもしますが、草は結構鋭利でもあるので、草むらに入ったりすると肌が露出している手足を切ったりもします。
なので、そのような雑草を口を切らずによく食べれるものでもあります。

春となり暖かくもなってきましたので、野良猫をよく見かけます。
上野公園で白黒の模様の猫も発見しました。
猫とは写真を撮りに近づいたならば、動きを止めて私という対象物を目視で吟味して、ザザッと走り抜ける生物でもあります。
たぶん、エサを貰えるような馴染みの人間には「ニャー」と寄ってくるとは思うので、あの、冷たく目つき悪い視線に晒されても猫写真を撮ってしまう私たち人間という生物も、イチョウの木並みにこれまた変わった生物でもあります。
先日の夜咲く遊戯王の花も変わっています。
ここ数日、夜観察していましたが、あの日以外にはもう花を咲かせません。
一見すると、桜の花のようにキレイなものに隠れて見立ちませんが、観察力を高めると世の中には変わった不思議なものたちも結構多いことに気付かされます。

 
■2023年4月11日(火)
■野生の猫。
■2023年4月12日(水)
■一日一文章トレーニング。

「遊戯王が最後の一輪を見せてくれました」

昨日はビュービューと吹く大風でした。
そのような大風に吹かれた為なのか?
遊戯王植物の花一輪が夕方に咲きました。
夜に咲く花かと思えば、もしかしたら風力により花を咲かせる仕組みかもしれません。
この前に花を吹かせた時も、なかなかに風の強い一日でした。
花を咲かせる温度や風のインパクトとは蕾を開かせる為に必要な一つの要素のようにも思えます。
四六時中観察している訳ではないので何ともわからないことも多いのですが、私の知らない深夜や昼間でも風が吹くと遊戯王は花を咲かし始めて、私が気づかない内に花を閉じていた可能性もあります。
寝る前にもう一度、花を見に行くと一輪だけの可憐なお花を大きく広げて咲かせておりました。
夕方に見た時よりも大きく開花しているので満開状態にあります。(左図)
大風で飛んでしまいそうなのでお家の中に入れます。
香りはやはり外国の香水のような良い香り。
一輪咲きではあるので前ほどに香りは強くありません。
それでも、朝起きるとふんわりと室内に漂うマイナスイオンな香りは部屋の中に微かに充満します。
(右図)は今朝の写真です。
すっかりと、その他花の蕾は落下して、この最後の花だけが花じまいのように閉じ気味に咲いています。
茎にはめしべが付いているのが確認できます。
先日、拾った桜のおしべにめしべが付いていないことは、そりゃそうなな出来事なのかもしれません。
遊戯王のように、木側の枝にめしべは付いているのかもしれません。
桜の木は本来、サクランボを付けると思うのですが桜の木にそのような実が付いているのを見たことはありません。
さっそく、
ネットで調べると、「自家不和合性」という特性があるようで、自分の木の花粉では受粉できなくて他の品種の花粉によってはじめて受粉できるようです。
なので、桜の木でも多品種の花粉を受粉することでサクランボの実を付けることはできるみたいです。
桜が大風によって花を散らすことは風や鳥によって運ばれることで初めて受粉できることなので、それなり桜にとっても必要不可欠な風であるのかもしれません。
風により受粉できたかどうかわかりませんが、遊戯王の茎にはたくさんのめしべが付いているのを確認できます。
なので、何かしらの種みたいなものが育つことになれば良いなと思います。

最初は鋭いトゲトゲの針で毎日チクチクと私の手を刺していました。
「痛い痛い」と言いながら寒さ回避の為に室内に取り入込んでいたら、その内に信用してくれたのかトゲは全く痛くないぐらいに丸くなりました。
今では全く痛くないトゲトゲです。
鉢割れの衝撃により触手を伸ばしてきた時には人食い植物にならないかと不安にさせる不気味さもありましたが、その触手に小さな実のようなものを付け、その内に実をどんどんと大きく膨らませて成長し、何かのタイミングで花を咲かして人知れず夜に咲いていたのかもしれませんが、私が気付くように最後の一輪は明るい内に花を散かしてくれたようにも感じます。
そのように観察していると、植物とは人間の時間間隔では全く動かないのですが、植物時間で見ればゆっくりと動いているのかもしれなくて、何かしらの知能や感情ある生き物のように思えてきます。
遊戯王が花を咲かせて見せてくれたので「オレのターン」で記録に残しているのですが・・・
わい・・・
大丈夫なのでしょうか・・・???

 
■2023年4月12日(水)
■黒猫。
■2023年4月13日(木)
■一日一文章トレーニング。

「ムラあるものの美しさを再発見したい」

今日は黄砂が飛来しているようですが目視ではわかりません。

昨日、スーパーでゴロリと並んだ「たけのこ」を購入しました。
さっそく、ザルの上にたけのこを置き撮影します。
ザルとは毎度毎度の旬食材撮影の必須アイテムでもあります。
ザルの上に旬なお野菜を置くことで、見た目が締まって感じるのは日本的な感覚なのかもしれません。
西洋だと籐製のカゴや大きな陶器のお皿に旬の野菜やフルーツをもりもりと重ねて並べている印象はあります。
竹素材を美しく感じる要素は天然素材であることです。
網目に編まれた幾何学模様も美しくも感じますが、全ての人にとって美しく感じるかと考えればそうではないかもしれません。
若い頃の私は特にこのようにムラあるものは大嫌いでもありました。
大量生産が基本のプラスチック文明な世の中となれば個々にムラのあるものとは敬遠されがちなモノでもあります。
竹細工のように竹1本のそれぞれまちまちであり、節もあり、個々に均一的ではないものとなれば、それは私たち文明の外に追いやった過去の美的価値観の一つでもあります。
これは物だけでなく、人でも同じような気もします。
当然ムラのないものこそが正義であり、日常をよりよく美しく動かすシステムとはより機械的で均質であり品質のムラの存在しないものと言っても過言ではありません。
そんな世の中でも、多少の竹細工の良さを少し感じられるようになったのは年齢を重ねたことでもあるかもしれませんし、若しくは、世界が少しずつムラあるものの美しさを再発見し始めている可能性もあります。
どうでしょうか?
ザルの上に竹の子・・・竹の子供が載っていることは徹頭徹尾な竹づくしでもあります。
何かしらの美しさを見つけ出すことはできますでしょうか?
私の中ではムラあるものの美を少しずつ萌芽しているような感じもしますが、それを言葉にするのはまだまだ難しいことであります。

上から右からと撮影しても結局どこから撮っても、やはり、たけのこのである皮を剥ぎます。
たけのこの皮は剥いでも、剥けども皮ばかりが永遠に続きます。
恐らく、この層を成す皮の枚数だけ天高く空に伸び、中身は空洞な”たけのこ”となります。
たけのこの皮を1枚2枚と剥ぐ枚数を数えたならば、節ある数を計算できて、たけのこの成長する高さは予想できそう気もします。
今となっては捨てるだけのたけのこの皮でさえ、昔はおにぎり弁当の包み紙として利用していたとを考えると、昔の人たちは資源を何一つ無駄にすることなく消化していたことがわかります。

たけのこの皮を剥いでいると、みるみるサイズが小さくなくなります。
調理方法が間違っていないかと不安になりネットで調べると、包丁で切れ目を入れて剥くこともあるようですが、あながち間違いでもありません。
とりあえず全部の皮を剥ぎ、やわらかいたけのこが出てきたら、後は鉛筆を削るようにまわりのブツブツや固そうな皮の部分を削り落として完成です。
次に、ホットクックを使いアク抜きをすると、たけのこご飯に、たけのこのお刺身、たけのこ入りの味噌汁の季節のたけのこ料理の完成です。
美味しかった の 今晩もたけのこ料理也。

何も栄養素はないようにも思えるたけのこですが爆発的に上に伸びる成長力を考えてみたならば、何かしらの瞬発力を発揮する栄養素はあるようにも感じます。
子供の頃はたけのこを食べると“にきび”ができると言われて、あまり食べることはありませんでしたが、その理由をネットで調べると灰汁が多いことに原因があるようです。
小さい頃には竹林もたくさんありましたが、竹林とは入ることもできない竹の壁が生成しているものでもあり、原っぱとは異なり昆虫等も全くいなかったような気もするので、子供たちでさえ全く近寄らない薄暗い場所であったような気もします。

 
■2023年4月13日(木)
■別なタッチの猫画。
■2023年4月14日(金)
■一日一文章トレーニング。


桜の木にサクランボの実が成る
自然のものはムリ・ムダ・ムラだらけ?


昨日は黄砂飛び交うニュースもあり晴天の割には出歩く人の数も少なかった。(当分黄砂らしい)
わざわざ黄砂を吸い込みながら歩く理由もありません。
そして、人の少ないことは良いことでもあります。
人が少なければ新緑のキレイな桜の木々を見上げていても、人の目が気になることはありません。
私が木を眺めていたら「何を見ているのか?」と一緒に木に目を凝らして聞いてくるご老人たちもたくさんいます。
木に鳥がいれば鳥を見ているのだろうとも思いますが、単なる新緑の桜の木々を眺めていれば、そんな人たちの興味を引いてしまう可能性もあります。
「桜の木のサクランボを探しているのです」とは・・・面倒\草/すぎてムリです。
なので、人が少ないこととはネタ探しの観察者にとっては良いことでもあります。
半信半疑でサクランボを探していると、ちらほらと咲く桜の花とキレイな新緑の中に、いくつかのサクランボを発見することができました。
「本当に桜の木にサクランボが成るものだ」と驚きます。
「桜の木に花が咲けば、当然サクランボの実も成るであろう」という世の中の常識は、私の見ていない範囲で普通に成されています。
そして、風でキレイな桜の花が散ることにも桜の木には十分な花粉を遠くに飛ばす意味があり、風が強くて鳥も多かったのかもしれませんが、他の桜の木々の花粉を受粉し、めでたく実となった少数精鋭のサクランボたちでもあります。
木の上の方は小さくて見えないので、近場のだけの観察ですが数はとても少ない。
赤く実になるころまでには鳥に食べられてしまうかもしれませんが定点観測して、赤く実った頃にはぜひ食べてみたいとも思うのですが、いかんせ、木は高すぎます。
ネット民に罵られても桜の木に成るサクランボを食べてみたい。(本心です)
身長が2倍ぐらいあれば、さくらんぼをもぐことも可能なのかもしれませんが、比較的に近場で実に成っているように見えても木はデカすぎるので絶対に手は届きません。
我ら風任せの大風!!
大風が吹いて桜のサクランボを落としてくれることを期待するしかありません。
丁度、大風が吹く時には、人間様は皆、家にじっとしているような気もするので人目を気にせずに桜のサクランボ拾いができるはずです。
鳥さん絶対に食べないでね!!

ところで。

昨日のムラありの竹細工と工業製品をサクランボの実のように二つ並べて比較しました。
私たちが大好きな工業製品はムラなしで均一的な品質を保っています。
一方、竹細工の方は個々のムラは大きい。
工業製品の均一的な品質を保つものは、恐らく「ムリ・ムダ・ムラ」の概念だと思われます。
高額な車のような製品に於いて、安定的で不良がないこととは当然求められる品質でもあります。
この「ムリ・ムダ・ムラ」とは、効率良く「失敗」を排除しながら何かの完成形を作り上げる為の思想だと思われます。

「ムリ・ムダ・ムラ」=「失敗」を排除

一方の竹細工をこの考えの視点から眺めると、結構「ムリ」して曲げてねじ込んでいる竹の部分も多々ある。
「ムダ」なく効率的に作られているかと推測すると、のどかなムダ時間も予感できます。
「ムラ」は天然の材料からにして、常にムラと対話しながら自然な美の組み合わせで作られている。
一方的でうがった見方なのかもしれませんが、これら二つは相反する実でもあります。

「ムラありザルの美学とは何なのでしょうか」
良い面だけを探ります。
ムラありには手作りのストーリーがあるかもしれない。
ムラありとは良い解釈をすれば個性でもある。
天然素材なので自然の温かみがある。
工業製品な奴らとは完璧主義者でもあるかもしれないので、決して同じ土俵で戦ってはいけない。
何か新しいことに取り組む時に「ムリあり・ムダあり・ムラもあり」で失敗する前提でトライする方が気持ちは楽なような気もします。

失敗から生まれる・気付きもある(呆則)

新しいものを生むエネルギーとは生物的なものかもしれません。
失敗を恐れない若さ、野生的な欲求、感性とは新しく生まれるものの必需品でもある。
日本には「アニマルスピリッツ」がないと、よく言われるのもこのような事なのかもしれない。
「失敗を恐れ、効率性を高めて」機械の1パーツのような工業システムでの思想とは人間的かと考えれば、これまた超!!人間的な行動でもあります。
日本人とは人間すぎる存在なのかもしれない。
幾分洗脳しすぎな社会思想とは重すぎものではあります。
それで上手く機能するのも社会であることを考えれば、予想不可能で生物的のものを極力排除しようとするのも私たちが住む都市の仕組みでもあります。
ザルとムラと失敗とは同一線上にあるので、都市化された私たち反対線上にあるものである。
「ムリ・ムダ・ムラ」のような社会に根ざす成功談がこの社会には結構あるのかもしれなくて、それらが逆に今の日本の社会の硬直感を作り出す土台となっているのかもしれません。
この両輪の実が両立できる社会が個人的には理想的に思えます。

 
■2023年4月14日(金)
■草食う猫ワールド。

■2023年4月15日(土)
■一日一文章トレーニング。

「Berol CASSETTE の分解方法」

Berol CASSETTE はBerol 社向けに製造されたシンプルでかわいく使いやすい、日本製のデッドストック・シャープペンシルです。
新品ではほぼ、手に入らない珍しいものとなります。
下記にお手入れを方法を記載しますので、長く愛用するお役に立てればと思います。
パッケージ・デザイン図のように分解することも可能ですが、より慎重に解体するには下記方法をオススメします。
パケ図の分解方法は新品のカセットと交換方法となります。
これら行程でも分解可能ですが、キャップが飛んで紛失したり、戻す時にパーツを部分を壊す可能性も高く、あくまでもここでの目的は芯詰まりを直す分解方法となります。
ペンの分解は必ず自己責任の元で行って下さい。
一切の責任も負いません。

シャーペンの芯が詰まった状態での分解方法となります。
正常な状態のペンを分解する時には必ず使用中の芯を抜き取ってから分解して下さい。
分解したパーツ類は紛失しないように安定した場所に保管しましょう。



(1)ペンのフタをとる。
(2)芯の消しゴム付きキャップを取る。
いつの頃からか針付きの芯フタは見かけなくなりましたが、この針はペン詰まりを取る為の必需品パーツとなります。




(3)芯を全部抜きます。
Berol CASSETTE の特徴なのか、芯が15本も入っていました。
カセット部分が替え芯ケースそのもので、ケース丸ごと交換できることが、このペンの売りでもあります。
(4)先端のペン先を回し外しますが、ペン先は写真のように内部構造と連結しているので、まだ完全に外れることはありません。



※もしかしたら、(5)と(6)を反対にして「(6)→(5)」で分解した方が簡単もしれません!!
中に入り込んだカセット部分は取り出しにくいので・・・。

(5)ペン先の先端を「カポッ」と引っぱり出します。
芯が入ったカセット軸とペン先は「カポッ」とした感じのキャップのようなもので連結されています。
(6)芯が入ったカセット軸はペン軸の奥に入り込み、取り出しにくくなります。
これは細いものやテープなどを使い「ソロ〜り」と引っぱり出します。
先端部分から押し出すことは内部の先端パーツを壊す可能性があるのであまりオススメはできません。



(7)写真中央が芯の入ったカセット軸となります。
カセット軸は先端部分は折れやすいので、再度組み立てる時には慎重にペン先の構造体とゆっくり接続して下さい。
(8)ペン先はピンク丸部分で固定されるので、この連結部分を取り外します。
バネの力を押し戻しながら、少々の力を用いて、持ち上げ、スライドさせて外します。




(9)分解されたペン先部分です。
(10)ピンクで囲われている部分に芯詰まりがあれば、それらを取り除きます。
先端のプラスチック部分を下向けに押し下げると、芯を掴む部分が開いてペンの詰まりを取り除くことができます。
※写真は正常な状態です。
(11)ペン先の先っぽで詰まっている場合には芯フタの針を使い挿して、詰まった芯を取り出します。

組立ては同じように逆流して組み立てます。
慎重に組み立てる部分は(5)のペン先構造体とカセット部分を連結させるところです。
カセットの先端パーツを折らないように慎重にゆっくりと接続させて下さい。

以上です。

 
■2023年4月15日(土)
■草食う猫たち。

■2023年4月16日(日)
■一日一文章トレーニング。

「3つの噛み後を残す草」

墓場に住む野良猫が草をムシャムシャと食べていた件。
時間が経てば経つほどに、私の中の何の草を食べていたのだろうか?という気持ちが強くなります。
そこで、先日、野良猫の足跡を辿る再取材を決行しました。
探しに行くと行っても、寄り道しながら探す感じでもあります。
流石の私でも猫の噛んでいた草を探しに行く目的だけで行動する、あたおかではありません。
草はどこにでも生えているような雑草でもある。
品種は何かと調べることさえできない程の特徴のない草ではありますが、私の知識では子供たちが鋭利な草のエッジで手足を切るタイプの草でもあります。
そんな雑草を広い墓場の中から探し出すことはできるのかと思われますが、できるのです。
黒猫が食べていた草は群生して生える他の草とは異なって、1本だけ横に長く伸びていたのが特徴です。
猫の噛みやすいポジションに生えていた草でもあります。
なので、後から再び探しに行ってもすぐに見つけやすい草でもあります。
それでも、雑草を見分ける能力とはなかなかなの観察眼かもしれなくて、探偵のように猫が葉っぱの表面に痕を残した3つのキバ痕を以って、この草だと確信することができます。
3つの猫の噛み後を残した草とは、いとおかし。
草の気持ちになれば、体に猫の三つキバ痕を持った草となります。
まねけな感じと、傷付いた勲章みたいな両輪を持ち合わせます。
要は猫の食べやすい位置に適当な草があったのでそれを齧っていたことになります。
猫の歯の仕組みがどのような感じになっているのか知らなかったので、早速ネットで調べると・・・猫の歯ってほとんど獰猛な肉食動物の歯であります。
犬みたいにキバは前牙だけかなと思っていたら、奥歯まで全部キバキバの歯で草をすり潰すことはできないようです。
ならば、なぜ噛み切れない歯で草を噛みしめていたのかは気になります。
歯の掃除のような感じもしますし、人間がコーヒーを飲むような嗜好的な時間だったのかもしれません。
見た目にも不気味で真っ黒で苦い飲み物を人がさも美味しく飲むように、猫も草を牙で噛みしめながら、お口の中に広がる青々しい苦々しさを愉しんでいたのかもしれません。
通常なら人が少しでも近づくと秒速で逃げる猫たちが長時間にわたり、人の視線を許しながら、それでも草を噛み続けることは、それなり草には猫を夢中にさせる何かがあるものと思われます。

ところで。

そのような猫が噛みしめていた雑草目線で草を愛でていたならば、変な草を見つけました。
人の視線とは不思議なもので、対象物に何かしらの関心を向けないと目の前にあっても視界に入ってこなかったり、情報として認識されないものも多々あります。
最初はカマキリの卵が付いているのかな?と思い観察すると、麦の穂のようなものを実らした雑草です。
雑草はイネ科な植物だとは思うのでイネのような穂を下げることには不思議はありませんが、この雑草はスズランのようなカタチで穂を下げていることは少し不気味で斬新な姿でもあります。
さっそく、1本抜き取り持ち帰りました。

草づくしとは文章とは、自分で言うのは何なのですが、ほのぼのする感じがしてとても心地よいものです。
雑草のことが気になると雑草魂の上原元投手のYoutube 番組の雑談魂もオススメに来るようになりました。
上原さんとアナウンサーな人が座っている洋館風のソファーが小さすぎて気になります。
一時期のオススメと言えばサッカーづくしではありましたが、最近ではサッカーは駆逐されて大谷選手を筆頭にする野球ニュースばかりとなります。
その中でも一番、草だったオススメ動画は”どんでん”こと阪神の岡田監督がベンチのゲーミングチェアに座り、ビンに入ったお菓子をがさごそと漁っている動画です。
何かわけわかめな草な気持ちになる動画でした。
猫の足跡を追っていたならば、変な草を拾うことができて面白きこと也。

 
■2023年4月16日(日)
■草食う黒猫。

■2023年4月17日(月)
■一日一文章トレーニング。

「けやきの新緑から意匠を作る」

先日、強風時に坂道で拾った葉っぱの名前は欅・ケヤキでした。(確定!)
「ぼーっ」としながら図鑑を「パラパラ」と見ていたならば「むむっ」と目に付く絵柄が、先日、拾った名も知らない樹木の葉っぱです。
昨日も書きましたが、人とは関心のあるもの以外はほとんどを見ていないものであります。
対象を認識してピン打ちすることで初めて何かしらの情報体として繋がりを認識できることは不思議なことでもあります。
それを、またの名前で「運命」と呼ぶのかもしれません。
ケヤキの木の名前と葉っぱのカタチを知っているからといえ、何かしらの人生にプラスになる事柄はたぶん何もないとは思われます。
ですが、道を戻ってまで葉っぱを拾うことがなければ、一生、ケヤキな情報にひっかかることのない人生であったことも確かであります。

さて、

このケヤキの葉っぱから何を見出すことができるのでしょうか?
ケヤキの葉っぱは流星形のようなカタチで、ギザギザした流れ星が葉っぱの中央に集合しているデザインにも見えます。
このような流星が中央に集まる紋様とは面白き図案のようにも思えます。
ケヤキの葉は大きく育つと私たちがイメージするままのザ・目玉型葉っぱとなるので、この流星形の細長いカタチは新緑・新芽の季節だけに見られるカタチとなります。

ケヤキを漢字で書くと「欅」で「木」+「擧」。
とても難しい漢字で「擧」の冠部分がとても複雑です。
どのような構造になっているのだろうか?と思う複雑体ではありますが「挙」の旧字体となります。
「挙」には何かしらの概念をもち挙げることや、手を使い何かを行うという意味があります。
木の名前にその「挙」が付くということは大きな木になるという意味が込めらた木の名前なような気もします。
実際に樹木自体も立派な大木として育つようであります。

拾った葉の枝の下の方にぷつぷつと付くものはケヤキの花です。
こんなにも地味な花を樹木が咲かしているとは誰も気づくことのない花。
桜の美しいピンクな花、イチョウの不気味で個性的な黄緑の花、ケヤキの花に見えない茶色の花、世の中には様々な種類の花があるものです。
ケヤキの花は大木からは想像できないとても小さな花で茶色の地味な咲かせます。
道端にこの葉っぱが落ちていた時、私にはこの小さな胡麻の実のようなものがキレイだと感じたられたこそ、わざわざ引き返してまで拾った葉っぱでもあります。
その意味では地味な花とは言え、それなりの美しさを見出したとも言えます。
そんな美しく感じたものはカタチに起こす必要があります。
さっそく、テキトーに紋様を作ってみました。
流れ星の表現にはもうちょっと改良が必要です。
図案からもう一度見直すと、流れ星なカタチの新緑の集合体(五本指)にはエネルギーが集中するビックバーンなイメージを持つことができます。
欅の意味が大木になることだとすれば、新緑の流星がぶつかる衝撃の軌跡に不思議な花を咲かせる図案には大きな成長への祈りが込められているようにも考えられます。

 
■2023年4月17日(月)
■猫の拍手はまだまだ続く。
■2023年4月18日(火)
■一日一文章トレーニング。

「文脈の裏を読む」

ノープランな日に唯一頼りなるのが百人一首です。


君がため
春の野に出でて
若菜つむ
わが衣手に
雪は降りつつ
(光考天皇)」

百人一首の中でも数少ない春の句です。
(訳):君の為に 春の野に出て 若菜を摘んでいたら 私の服の袖にも 雪が降り積もりました
という句です。
新緑吹き出す春の景色と、袖に積もる白い雪の春の天候不順さのギャップを感じることができます。

この文章の中で気になる言葉は「君」であります。
「君」とは古典的な意味でとらえると天皇を意味すると思われます。
光考天皇が天皇の為に雪に打たれてまで若菜を摘むとは、やや不思議に思われる行動でもあります。
一昨日も春のビックリの雹(ひょう)降る天気でもありましたが、春の雪とはこのような激しい雹や風雨混じる中で若菜を摘んだことを意味するようにも思えます。
そこで、さっそく、光考天皇とはどのような人物なのか?と調べました。
光考天皇は若い頃から読み書きや博識が高く、ご高齢で即位した天皇でもあるようです。
高齢で即位するということは、直系の跡継ぎが見当たらずピンチヒッターとして登場したとも考えられます。
調べると先代の陽成天皇は幼く奇行気味でもあり、宮中殺人事件などもあったことにより首になった天皇でもあるようです。
先代から次の天皇への繋ぎ役として求められる資格とは人間的な真っ当さであることと考えれば、光考天皇は人徳の深い人物であったようにも思えます。
即位後の3年後に後継者を指名せずに亡くなられた天皇でもあったようでもあり、唯一、行った政策が40人いる?子供の爵位剥奪ぐらいと書かれております。
40人の子供とはいささか多すぎるようにも感じますが、身内を切って天皇家の大ピンチを救う為に即位したとも考えられます。
そのような経緯を鑑みながら、この歌を詠むと「天皇に即位する為に、春爛漫な野に出でて、自分の子供たちの若芽を摘むことになってしまった 自らの手で汚してしまった私の衣手には 春の嵐の雹が降り積もりました」とさ とも読めます。
この句はとても政治的でとても悲しい歌のようにも聞こえます。
どうでしょうか?

ところで。

悲しいお話しはもう一つあります。
最近【ゲーム】エルデンリングの周回も再開し、ゲームは広いのでまだまだ知らないことも多いのですが、パッチ・イベントにも続きがあることを発見します。
パッチとはフロムゲー定番のプレーヤーを騙し、裏切り、不意打ち攻撃と何でもありのクソキャラでもあります。
それでもたまに、ヤンキー座りをしながらどこから聞いてもウソみたいな本当の情報も教えてくれたりもします。
そんな、パッチがフリーの盗賊団長から火山館という闇ギルドの一組織員に鞍替えしているのですが、その目的が女棟梁のタニスさんに近づくことにあるようです。
いつものパッチという感じではありますが、ゲームを進めていると瀕死のパッチを見つけることになります。
死に際の話を聞いていると女主人のタニスさんに「踊り子の打楽器」を渡して欲しいと頼まれます。
腐れ縁でもあるパッチの最後の願いでもあるので、さっそく、女館長のタニスさんに「踊り子の打楽器」を渡しに行くと、タニスさんは王の肉を喰らいながら「こんなものはいらん」とポイ捨てしていました。www
パッチの恋心破れたり。
風天のパッチはどこかで「踊り子の打楽器」を演奏するタニスさんを、見て憧れていたのかもしれません。
火山館が滅んでしまった今、愛用していた打楽器を渡し、再びその世界に戻って欲しいと考えたのかもしれません。
何でもない、どうでも良いお話ではありますが、恋心とは盲目でもありパッチでさえも曲者にするものでありました。

 
■2023年4月18日(火)
■あわてて描いたらタヌキになった。
■2023年4月19日(水)
■一日一文章トレーニング。

「全ての事柄は道にある・・・かもしれない」

春の陽気に誘われて、最近の歩道は混み合うことも多い。
そのように道が混み出したならば、できるだけ人の少ない裏路地へと道を歩みたくもなります。
そんな風にいろんな道を開拓していると、待ち時間なしで渡ることのできない横断歩道を見つけます。
いつ何時、通りかかっても赤信号で渡れない横断歩道。
時折、そのルートを選択すると毎度、毎度の赤信号です。
裏道利用の横断歩道であるが故に、多くの人が利用する信号機でもないかもしれませんが、信号の待ち時間が長いこともあり、数人は常に信号待ちする横断歩道でもある。
なぜ、通りすがりの偶然に青信号にならないのか?と気になります。
そこで、移動ついでのネタ収集に、信号機との相性が悪い理由を自分なりに考えてみることにします。

1)直前に渡る青信号と移動スピードの時間経過でドンピシャのバッドタイミングである。
2)この信号機自体の青時間が少ない可能性もある。
3)私の持っている「道路運」が悪い可能性もある。

早速、信号機の赤と青の時間を計ることにします。
すると、信号待ちのおっさんと目が合います。
確かに青信号を渡らずに信号機の時間を計っている人は怪しいか枚番上手で怪しい。
このように道に止まりて、人の行動を観察すると人とは何とも不思議に怪しい生き物のようにも思えてきます。
大体、赤信号と青信号の時間を計っている人なんて見たこともないので、それだけでも十分に怪しい。

怪しさを緩和する為に、信号機から少し離れた距離を保ち時間を計ります。
何も用事もない無意味なスマホ操作を操りながら赤信号の時間と青信号の時間を計ります。
信号機の時間を計って思いましたが、信号機には赤でも青でもない点滅する曖昧な狭間時間があるので、どのように計測すれば良いのだろうかと思います。

今は選挙の季節でもあります。
当然、選挙の街宣カーも普通に私たちの目の前を走行していきます。
すると、選挙カーから「ご声援ありがとうございます」とマイクパフォーマンスを流れてきます。
当然、私は誰の選挙応援もしておりません。
タイムアタック中は暇であるが故に、音のなる選挙カーを見てしまったのかもしれない。
ただし、選挙カーの周辺にいるのは私だけで、遠目に信号待ちする人たちからすると私が選挙カーを声援しているようにも思えます。
それはそれで何だか気まずい気分でもある。
誰も道で棒立ちする人間が赤青の信号機の切り替わり時間を計っているとは考えも及ばないはずでもある。
昔、若かりし頃、浅草の公園でアイスキャンディーを食べながら人と待ち合わせしていたら、極道の大名行列みたいなのがやって来て、先頭を歩く数人の怖そうな人が道に唾を「ぺっぺ」しながら歩いて来るので何をしているのかとアイス食べながらそれらを眺めていたら「見てんじゃねー」みたいに怒られて「浅草こわっー」て逃げたこともあります。
元からの東京人からすると「なぜ?目を合わすの?」みたいな感じではよく言われるのですが、音や目立つものには自然と目で追ってしまうのが、スルーできない地方人の性なのかもしれません。
なので、選挙カーや街宣カー、バ二ラバ二ラ〜みたいなものまで、必ず目で追ってしまいます。
困ったものである。

青信号は32秒ぐらい?
点滅も含めると35秒ぐらい?
赤信号は90秒ぐらい?

何せ信号機の赤青時間のデータを何も持っていないので何とも言えません。
計測方法もその時々でまちまちな曖昧さもある。
信号機の時間を計測するには、少し恥ずかしがりやでもある。
誰も何も気付かれずにスマートに信号機の点灯時間を計りたいものである。

 
■2023年4月19日(水)
■ネコ埴輪。
■2023年4月20日(木)
■一日一文章トレーニング。

「時間×速度×距離と制限」

赤青の信号機の点灯時間をスマートに計る方法についての考えていたならば、毎度ながら、毎日あれだけよく見る信号機なのに色の組み合わせなどの詳細なことについては何も思い出すことができません。
さっそく、ネット検索で信号機の写真を見ると図のようになります。
これは当たり前と言えば当たり前なことではありますが、面白い事です。
信号機とは私たちの行動の自由を制限する機械ではありますが、機械そのものの詳細については何も見ておりません。
ただ、赤青黄色と色の情報のみを受けとることで認識し行動しています。
色の識別信号だけで社会ルール的にこのような行動を制御するものは信号機ぐらいかと思いましたが、男女のトイレマーク等も人の行動を制御し制限する仕組みを持ったものであります。
サインにより動線を確保し、スムーズに動かす仕組みとは私たちの回りに結構多そうであります。

私たちは自由に何ものにも束縛されずに動いているようにも見えますが、常に人工的な仕組みの指示の中で動いていることになります。
近未来AIが人間の行動を指示してくる時代は必ずやってくるとは思いますが、日本人の場合、操作されているとは気づかないぐらいに静かに無意識の内に浸透しそうな気もします。
以前、メキシコに行った時に赤信号でも突っ込んでくる車に恐怖したこともありますが、世界には信号無視してビュンビュンと走る国も多々あることを考えれば、システムに従順な国民性とそうではない国民性の二種類の根本的に異なる国民性があります。
これは警察権力の力の具合や腐敗度合と比例しているようにも感じます。
発展途上国でなくとも日本よりも先進的な国でも緩いところ多々あります。
そのような国々の多くがAIの危険性を議論しているのに、電極操作的な信号でも無意識に動いてしまうかもしれない私たち自身がAIについて全く議論しないことは日本的なことのようにも思います。
自分の身に立てども、人間に指示されると腹も立ちますが、非人間的なものに行動を指示される方がイライラ度合は少ないような気もします。
そりゃ、AI会社の幹部がやって来て、日本人とAIは親和性が高いと話す事は本当のことなのかもしれなくて頷けます。

ということで。

昨日は自転車で信号機の赤青タイムについて見ながらゆっくり走行していました。
すると、前方に超のろのろ運転のおばあさんの自転車が走っていたので、当然追い抜きます。
赤信号で止まり信号機の切り替わり具合など見ていると、のろのろおばあさんが追いついて私の前に止まります。
青信号になり、私は再びのろのろおばあさんを追い抜き真っすぐ進んだ赤信号で止まり、再び信号機の切り替わり具合を眺めていると再び、のろのろ運転のおばあさんに追いつかれます。
おばあさんと私の低速・低レベルなデッドヒートです。www
私の速度も信号機を見ながらの走りなのでなかなかの低速なのですが、自転車の速度は2倍ぐらい異なるのかもしれません。
なのに、赤信号で止まる度にのろのろおばあさんの自転車に追いつかれることは、これは時間的には速度を出す意味は全くの無意味のようにも思えてきます。
とはいえ、自転車で走る速度感覚とはとてもプライベートなものであります。
ゆっくりすぎる速度とは体にとても負担がかかるというかストレスも溜まります。
時間と速度と距離の関係性の中で制限が多いこの感じは何かに見たことのあるような・・・見たこともないような。
感じですね。

 
■2023年4月20日(木)
■埴輪風ネコをブラッシュアップしたつもりが、そうでもなかった。
■2023年4月21日(金)
■一日一文章トレーニング。

「大根の生育日記(失敗編)」

先日、スーパーで大根を買いました。
旬の特売野菜でたいそう立派な大根である。
帰宅して、新鮮な大根の葉っぱとはお漬物や炒め物にしても美味しいものであるので早めに切り落とします。
そうとすると、大根の葉の茂った奥に花の芽のようなものを見つけます。
大根の花とは珍しいものであります。
もしや、一輪挿しに挿せば花を咲かすかもしれなと考えて、根本に包丁を入れて小皿に入れて飾ります。
大根の盆栽みたいなものができてかわいらしい。
ダイニングテーブルに何かしらの小さな植物があることは良いことでもあります。
立派な大きな花とかあれば、それは当然良いのですが、小さな植物には小さなかわいらしさがあります。
「早う、花を咲かせよ」とかわいがっていると、大根はスクスクと小さな大木のように茎も太くなり天に向かって葉っぱを広げて凛々しく育ちます。
花の蕾もどんどんと膨らみ、期待も膨らんでいた今朝のこと。
朝起きて大根の水を取り替えて、葉水でもかけてあげとうと思い水道水をじゃぶじゃぶとかけてあげると水圧が強すぎたのか、根本の葉の茎が2本取れてしまいました。・・・
「あ〜、やってしまった」
余計なことをしてしまうことは私の定番でもあります。
大切なお気に入りなモノは、あちこち持ち歩き、落とし壊し紛失し、さらなる磨きを入れよう大事に磨いていたら塗装を剥がしてしまったこともある、げにやげに、余計なことをしてしまうことは多いことである。
このような、お気に入りのあまりに進んで余計なことをしてしまい、元の状態からさらに悪くなることをなんて言うのだろうかと思いて、ネット検索すると「画蛇添足・がだてんそく」というのが出てきた。
蛇を描いていて、蛇の足という余計なまで描いてしまうお節介さのようである。
私は蛇に足を追記してくれるようなサービス精神旺盛な人は結構好きでもある。
「何で蛇に足が〜」
ということで、それだけでとても面白いようにも思う。
私のお気に入りなモノに余計な熱量をかけてしまうことは、そんなサービス精神の片鱗かもしれません。
「大根ちゃん御免ね」
ということで、ハイポの霧吹きをイッパイかけました。

絵を描くことに例えると、美しく描けた・塗れたと思うお気に入りの部分にさらなる上塗りでブラッシュアップを続けたならば、どんどんと色がくすみ絵も歪み「おまえ〜やってしまったな〜」な気分の修正不可能な絵になることも多々あることだと思います。
「美磨混濁」
美しき愛着のあるものに私の熱量が加わると、本来持っている美しさを壊してしまう素質を持っていることだけは確信できます。
熱量とは程々にしておかないと対象物を熱の高温で溶かしてしまうのかもしれません。
愛着あるものには、ほどほどな距離感を以って愛でる必要があります。

この2本の葉茎は大根を安定的に支えていた2本でもあります。
それがなくなった今、大根はコロンとすぐにでも転がってしまうような不安定さもあります。
私の持論呆則では不安定さの先に何かしらの発展があると考えるものでもあります。
ドシンと構えて空に葉を伸ばす威厳のようなものはもうありませんが、昨日よりも不安定になった大根には何かしらの植物の回避能力、生命力の神秘で花を咲かせる力を期待をしたいものです。
昔、道のコンクリートの隙間から生えたド根性大根のニュースをみたこともあります。
大根とは(たぶん)結構やる奴らでもあります。
遠目に観察することが(たぶん)今大切なような気もします。

 
■2023年4月21日(金)
■草食うネコ。
■2023年4月22日(土)
■一日一文章トレーニング。

「AT1債<株<T2債<社債<預金?」

いやはや、昨日も暑かったです。
写真でもピンボケになるぐらいに桜の木のサクランボはひっそりと成っております。
そんな、5ミリ程小ささの実も緑色から赤色へと変色を始めました。
思ったサクランボと随分違うのですが、これから丸々と大きく育つのでしょうか。

百人一首でもそんな春から夏への変化を詠った句があります。

「春過ぎて
夏来にけらし
白妙の
衣ほすてふ
天の香具山」(持統天皇)

訳:春過ぎて 夏がやってきました 輝く白の 衣を干す 天の香具山(の様子)

この句は湿気や情景が「ぶわっ」と浮かんでくるようなとても美しい句でもあります。
そして、教科書にも載るような百人一首の中でも最も有名な句です。
気になるのは誰の衣を天の香具山に干したのか?という部分です。
「天の」という言葉が付くことから、洗濯ものを干す人は神様であることも考えられます。
天皇が歌う句となれば毎度ながら背景に何かしらの政治的な意図が含まれるものです。(たぶん)
持統天皇は先代の天武天皇の皇后でもあり、天武天皇の崩御後に即位した女性天皇でもあります。
天武天皇政治の継承する藤原京(奈良)への遷都が主要な政策となります。
天の香具山は藤原京の東に位置しており、太陽が昇る方角に天照大神(あまてらすおおのかみ)の岩戸隠れ信仰の場所があることを考えれば偶然ではないはずです。
なので、洗濯物を干す神様は天照大神で間違いないと思われます。
このような時代背景から解釈をすると「春もすぎて(藤原京にも)夏がやってきました(天照大神も岩戸の洞窟から出てこられて)天の香具山に白く輝く衣を干している(様子が見えています)」とも読むこともできます。
この句は藤原京遷都を記念して作られた句で間違いないように思われます。
いかがでしょうか?

ところで。

そんな昔から時代変革の句が歌われるように、新しい時代のルールというのも私たちの目の前に徐々に可視化されてきています。クレディ・スイスの破綻に関して「破綻」という言葉を使わずに「救済合併」という名前が使われます。予期せぬ危機の場に現れる新語とは、ヨーロッパの国々でもあるものだと感慨深くも思うのものですがクレディ・スイスとはメガバンクでもあり、破綻するとなれば当然大きな副作用があります。今回はスイス政府の支援によりUBS銀行への買収というカタチで救済されることになりましたが2兆2千億円のAT1債が無価値となりました。「救済合併」なのにAT1債が無価値になったということでニュースになりました。AT1債とはゴーイング コンサーン キャピタルの中に含められるもので、ゴーイング コンサーンとは会社が将来に渡り継続的に事業を行う為の基礎的な経済価値という意味になります。それ以外にもT2債などもありますが、こちらは会計上の自己資本に含めることができるようになったようであります。バーゼル3規制(国際合意!!)に於いて自己資本比率が2%から4.5%に引き上げられて預金者の損失が及ばないように銀行規制が進められます。今回、無価値となったのがメガバンクの発行するAT1債というのは債権です。AT1債はオートマ1のような名前でメガバンクが発行する債券となれば信用度も高そうでありますが無価値となりました。とりあえず、今回の散見される銀行破綻処理に於いて、先ず預金者の元本保証が実行されます。そして、銀行破綻が他業種に伝播しないようにベイル・アウト(救済)されます。それは銀行株式保有者よりもゴーイング コンサーン キャピタルの債権保有者の資産が無価値となる今まで考えられてきた損失の被る順位が逆となったようでもあります。それに加えて1兆2000億円の納税者負担による政府保証付きでもあります。要はバーゼル3規制ではメガバンクの預金は守られました。スイスもマイナス金利に近かったことを鑑みれば、預金を保護しないことは先ず考えられませんが、そこで思い出されるのが「貯蓄から投資へ」のスローガン。貯蓄が多すぎると救済額も大きくなってしまうということかもしれないのですが・・・何ともな感じではあります。リスクには真っ当な利益とは必要不可欠なものでもありますが・・・。

 
■2023年4月22日(土)
■赤色と緑色。
■2023年4月23日(日)
■一日一文章トレーニング。

「文章とは経国の大業である」

昨日のこと。
ドアを開けると一昨日の夏のような暑さが嘘なぐらいに涼しげな気温である。
出かける前は半袖でも良いかと思った季節感は玄関を開けた途端に流入する外気によって打ち砕かれます。
「打ち砕かれる」とは大げさではありますが、何を着ようかとあれこれ考えた末に外に出たら思った気温と異なることは着替え直すことも面倒だし、どうしようという気分にもなる。
天気予報を小まめにチェックできることは大人の必須事です。
なので、急遽玄関に吊っている春物のスプリングパーカーを羽織ります。
春前に意気揚々と購入したパーカーはまだ10回程しか着ていません。
なのに、もうサマー?のような暑さがやって来たのでもう着ることもないのかとも考えてもいたのですが、まだまだ春で良かった。

ということで。

昨日はシャツを購入しました。
シャツは白いシャツで縫い目や輪郭部分に黒い糸でミシンしてある白に黒い線がワンポイントなシャツです。
素材感や肌さわりは微妙な感じがしたのですが、見た目のデザインが気に入ったので一目惚れで購入。
帰宅し素材表記を見るとレーヨン・コットン・リネンとの混合表記がありました。
レーヨンとはあまり着ない素材でもある。
店内で素材とかも調べれば良いのですが、お店で見る時には服の見た目しか見ていないものです。
買ってから、あれやこれやとお家で気付くことが多いのもお買い物です。
もう少し、何か情報があればとは思うですが、そういえば、洋服屋にはPOPはありません。
うちらとは商品のウンチクを熱心にPOPに書き記したものでもあります。
私が服屋の店番を頼まれたなら、シュッとしたお洒落なお店が商品の魅力や感想についていろいろ書かれた文字溢れるカオスショップになる予感もします。

いやはや、文字です。
毎日、長文をたらたらと長めに書きます。
目標としてはワード5ページ分ぐらいをスラスラ書きたい。(今の2〜3倍ぐらい)
川の流れのように文章が進むことは理想でもありますが、どうでも良いようなことをペラペラとしゃべっていたならば、ことわざにもある「下手の長談義」や「下手の長文」みたいな感じで皆がドン引きしていくのもわかります。
ともあれ、駄文であれ目覚まし後に5000文字ぐらいをダダダダっと書けるような力量がAI時代に必要なのかという話しでもあります。
5000文字の長文とはAI様にお任せすれば事済むことかもしれますが、文字を書くこと、絵を描くことは人間にだけに与えられた特権でもあります。
tan23を電卓で叩けばいっちょ事済むようなものも、自分で計算するとなると大変で面倒なことに似ています。
ですが、実際に文章を書くことで何かしらの気づきを得られることも多々あります。
経験事を書きながら、経験事を思い出し、その時にどう思ったのか、そして、今書きながらどう思うのか、書き綴られることが日記です。
それは本を読むことで得られる知識と同じようなものかもしれませんし、そうでもないとも言えます。
自分で考えることと、外部から知識を入れることに違いはあるのでしょうか。
AIに書いてもらう文書にも何かしらの発見や気づきは確実に得られるものでもあります。
それらも「経験」と言えば「経験」でもあるのでチャンネルの違いというコトなのかもしれません。
個人的な感想を述べると、自らの手で何かを作ることを放棄しないことは、人が人間であることの芯の「自分の経験」を有しているような気もします。
「文章は経国の大業なり」という言葉もあります。
文章がたくさん蓄積されることは何かの大業にも繋がるのでしょうか?

服屋のPOPにぎっしりとテキトーな手描き文字が書かれることは面白いことです。

「XXXX円。高いか?安いか?結構高い!縫い目に後追いの黒糸でミシンしています。白い服はもはや単なる白い服ではなく一手間、二手間かかった服です。メアリーチューズデー(誰?)がデザインしたオサレな服。大きなポケットが特徴で結構何でも入ります。【注意】シャツに重い物を入れると服のバランスが崩れます。素材はレーヨン・綿・リネン素材。洗うと少し縮むかも?なので少し大きめで大丈夫?絶対に買ってね!!」

レーヨンはネットで調べると洗うと縮みやすいようでもあります。
サイズは少し大き目でSでも良いかとも思ったのですがSはなかったのでMを購入しました。
少しレーヨン効果で縮まってくれるとうれしいです。

そのような感じでシャツ1枚を買う為だけにイッパイ歩き、家に帰ると足が痛くなりました。
体がなまっていますが、一晩寝ると足の痛みもすっきりキレイに取れました。

 
■2023年4月23日(日)
■さんかく。
■2023年4月24日(月)
■一日一文章トレーニング。

「捨てられない本」

写真はNINTENDO64「ゼルダの伝説・時のオカリナ」と「スターツインズ」の攻略本。
多くのお友達がPS(プレイステーション)のディスクで遊んでいた頃に、まだまだカセットディスクの64派であった私です。
昔はゲームソフトを買う度に攻略本も一緒に購入していました。
オールカラー160ページと130ページで1000円(本体価格952円)の本です。
ゲームに迷った時にペラペラと調べて参考になる本です。
特にアイテム図鑑とはゲットしたかどうかの確認の為に常に見ていたような気もします。
ゼルダの伝説ではナヴィという妖精ボタン押せば次に何をすれば良いのか教えてくれる機能もあります。
なので、広いフィールドでも次に何をすれば良いのか迷わないようになっています。
特に「ゼルダの伝説・時のオカリナ」は画期的なゲームで「Z注目」という敵キャラクターにターゲット固定する機能が初めて搭載されたゲームでもありました。
これはとても画期的な機能です。
当時はZ注目Z注目と連呼していましたが、「Z注目」という言葉は64のゼルダを遊んでいる人だけに伝わる単語で「Z注目」の凄さについて人に語るのですがなかなか理解してもらえない機能でもありました。
後に「Z注目」は「注目やロック(ノーロック)」と呼ばれるようになり、今ではどの3Dゲームに注目機能は普通に搭載されております。
しかし、私の中ではそれは長い間「Z注目」ではありました。
任天堂ゲームに関しては、今となってはガタガタに見える低解像度のポリゴンでも、当時は何も違和感なくキレイに見えて遊んでいたように思います。
流石にPS版の初期トゥームレイダーは「画質汚ない〜な〜」と言いながら人の家に入り浸りゲームを最後までクリアするまで遊んでおりましたが・・・今考えると迷惑千万な鬱陶しいことであります。(>_<)

隙あらば、いらない本を捨てて本棚の質量を減らそうと思っている私ですが、この2冊の本に関しては決して捨てられない本でもあります。(完全殿堂入り)
ゲーム本は写真や絵、地図などがギッシリと記載されておりゲームをしていなくとも見ているだけで楽しい本です。
ゲーム世界で遊んだ思い出もたくさん詰まっています。
ネット時代にもなり、ゲーム攻略はネット調べることが基本となります。
なので、今では流石に攻略本は買うことはありませんが、時折、好きなゲームのアートブックのようなものを買ったりもします。
アートブックは海外生産のものだったりして、大きく重く場所の占有率も高いので困りものでもあります。

「スターツインズ」のキャラクターは今見ると奇抜なデザイン画です。
女の子の髪型も頭身と足の長さも無茶苦茶な味があって結構好き。
自分でも描いてみましたが、足が少し短くなってしまいました。
後で、もう一度描き直してみましょう。
怖くて不気味な顔の犬はゲーム内で動かすと、メチャメチャかわいい犬でもあります。
背中の鉄砲を撃ちながらフィールド内を走り回ります。
「スターツインズ」は楽しく遊んでいましたが、ゲーム途中で多忙で中断してから、そのまま遊んでいなかったゲームでもあります。
いつか、また遊んでみたいとも思うゲームの筆頭でもありますが、ニンテンドー64の本体を箱から出し、モニターに接続するのもハードルが高そうなので遊ぶことは当分難しそうなゲームでもあります。
今も昔もゲームは中断期間が長期化すると、そのままフェードアウトして遊ばなくなる傾向があります。
ゲームの中に、これまで遊んだ流れや展開のストーリーや操作性を思い出すことのできるような機能でもあれば、再びゲーム参加できて最後まで遊べるゲームになるのかもしれないですね。

 
■2023年4月24日(月)
■ネコ風の髪型の女の子から新しいタッチを学習しました。
■2023年4月25日(火)
■一日一文章トレーニング。

「意味のない長文を読む苦々しい苦痛と、濃いブラックコーヒーを作り飲むことの共通点はなかなかにあるような気もします。久しぶりにコーヒーを豆から挽いて苦々しいドリンクを作ったというお話です。どうでも良いことを延々に長文にしたためました。無印の商品説明文みたいな長めのタイトルではありますが、苦々しさを好む気持ちとはそのような黒く苦いドリンクの深淵の中に見い出されるのかもしれません。」

いやはや、昨日は少し肌寒かった。

ということで。

そのような少し肌寒い日には温かいコーヒーやお茶を飲みながら体を温めたいものであります。
昨日、忘れられた未開封のコーヒー豆を見つけて、その豆を砕き粉にして黒いドリンクを作りました。
コーヒー豆を挽く為の電動ミルサーはカッコ良い外観なのですが、普段使うことはないので鉄の置物として事務所に置かれています。
なので、コーヒー豆は事務所まで持って行って粉とします。
コーヒー豆が入った銀の袋を開封すると「ブワっ」と燻された濃い香りが漂います。
これはまだまだ大丈夫な良い豆です。
さっそく、プラスチック製のコーヒー豆専用の計量スプーンを使い、豆を3杯すくう。
そして、ミルサーの透明のプラスチック容器に「カラカラ・カラカラ」と投入する。
この「カラカラ」音とは、とても心地よい色でもあります。
このプラスチック製のコーヒー豆専用のスプーンはコーヒー豆以外の何にでも愛用される、よく使われるスプーンです。
本業のコーヒー豆を計ることには滅多に活躍の場はないスプーンではありますが、他のことにはよく使用されるスプーンでもあります。
言い換えれば専門性よりも汎用性が高いスプーンです。
スプーンとは大体に於いて浅いカタチが基本なのですが、このスプーンはコーヒー豆をすくう為に掘りが深いので何でも一気にたくさんの量をすくえるところが重宝しています。
私にもこのような汎用性の高さが欲しいものであります。
一方でド専門の機械と言えば、この棚の守護神と化しているコーヒーミルサーです。
ヘビー級の重い機械とは滅多に豆を砕くこともなく事務所のキッチンに鎮座しています。
ミルサーにもコーヒー豆以外の使用用途があれば汎用性の高さを真っ当できそうでもありますが、ピーナツなどの乾燥された豆類であれば細かく粉砕もできそうです。
今度ナッツ類を粉砕したいと思うのではありますが、ナッツを細かく粉砕して何かしらメリットがあるのかどうかは私にはよくわかりません。
時折、コーヒーの粉も混じるナッツのふりかけとは美味しく食べることはできるのでしょうか。
次にコーヒー豆を挽いたならば、前回ナッツを砕いた豆の風味が漂い美味しく香ばしくなるかもしれません。
とりあえず、コンセントを挿し、電源を入れて機械を「ウィ〜ン」と唸らせる。
ほんの数秒で豆は挽かれて粉々となる。
いやはや、この一瞬にだけ活躍する機械とは何とも勿体ないことでもある。
因みに、コーヒー豆を挽くことの「挽く」とは、ノコギリで固い枝を挽くことと同義である。
コーヒー豆は機械の中でノコギリや臼のように挽かれて粉となります。

挽かれたコーヒー豆をフィルターにのせて、お湯を注ぐ準備は整いますがコーヒーを受け止める為の愛用のビーカーが見つかりません。
そういえば、落として割ってしまったような気もします。
愛用し、よく使うもの程によく壊れてしまう呆則はあるあるな日常です。
代用品としてロイヤルミルクティーを作る為のホーローのポットを使用します。
本来はホーローポットで「美味しくな〜れ」と藤岡弘風にお湯を注ぐことで味わい深いコーヒーとなるような気もします。
但し、「美味しくな〜れ」と言いながら「ポタポタ・ポタポタ」とホーローポットに落ちるコーヒーの音色とは、ガラスビーカーでは鳴らない音で良い音です。
抽出されるカフェインはゆっくりとポタポタと落ちながら、私はその音を聞きながら眠気を誘います。
こうしてできた黒いドリンクが美味しいのかどうか?と言われるとどうなのでしょうか。
普通と言えば、普通ではありますが、この豆はコーヒーの酸味もなく、それなり苦さと、苦すぎることもなく、ザ・コーヒーな普通なコーヒー味であります。
豆は欧州オーストリア製のコーヒー豆です。
よく見ると、真っ黒というよりも濃い茶色という方が正しいです。
無駄に洗い物の手間だけは増えるコーヒー作りでありました。

 
■2023年4月25日(火)
■揺れるネコ。
■2023年4月26日(水)
■一日一文章トレーニング。

「密室の魔空間、エレベーターの怪」

 私はエレベーターが混んでいたり、もう誰かがエレベーター待ちだったりすると無駄に遠目で時間を潰して人が乗った後にエレベーターに駆け足で向かいてボタンを押したりもします。急いでいる時は階段を使って上ったりすることもあるのですが、要は極力、他人と接しない絶妙な間合いを選択するように動いています。特にエレベーター乗る時は・・・。とは言っても、次にエレベーターが来た時には後ろに人が並んでいる場合もあります。よくよくと考えるとエレベーターを一人で占有して利用することは電気料金のムダでもあります。1回の鉄のカゴを上下させる電気料金とは想像すらできませんが、私の体重+カゴの重さとはなかなかに重そうであるので、モーターに負荷のかかることは間違いありません。そのようなことを考えると、大勢の人間を一回で効率良く運搬することはエコなエレベーターの仕事でもあります。とはいえ、エレベーターにイッパイどしどしと乗ってきたら「のってキター」と脳内で叫ぶことになります。商業施設のエレベーターでも扉が開いたら人がすし詰め状態で「お先にどーぞ」となることも多々ある。人感センサーを搭載して上下するエレベーターの混み具合がエレベーター待ちのパネルから可視化できれば良いなとも思います。

 少し前のことですが、事務所のビルに工事があり、エレベーターや通路の床にブルーシート、壁に養生パネルなどが貼られて建物が傷つかないように処理がされておりました。そのような工事用のブルーシートを眺めていたら面白いことを発見をします。それは多くの人がエレベーター内で立つ位置のブルーシートが擦れ、頻繁に人が立つ位置が「見える化」されていることです。画像のグレー位置が、人が多く立っていた位置です。ブルーシートの擦れとは本当に正直な動線データでもあります。多くの人がエレベーター移動中の際に、押しボタンパネル右側寄りの前方向にいることが多いことがわかります。階数ボタンの近くに立つことは当然と言えば当然のことではあります。左端にいればボタンを押せません。エレベーター内の立つ位置を可視化するものが工事用のブルーシートの擦れ具合だということは面白いこと。この位置に立つということは、私のように一人乗車(?)を好む人も多いのも推測できます。本当はブルーシートの擦れ具合の写真を撮影しようと思っていたのですが、いつでも写真を撮れるだろうと思っていたら工事はいつの間にか終了してしまいシートも撤去されて結局、写真を撮ることはできませんでした。「いつでもできるだろう」な甘ちゃんな考え方は時の容赦ない流れにより「もう二度とできない」呆則となります。何かに気づいたならば、もう一度上の階を押し、誰もいない密室空間で一人三文芝居を行いながら写真を撮る必要がありました。自然な演技をして、さり気なく携帯の写真を撮れるスキルを身につけたい。私が写真を撮るとなるとカバンからガサゴソと携帯を取り出して、カメラの構図などを考えて大ごとな感じで写真を撮ることになります。擦れたブルーシートの写真を撮っているだけで十分挙動が怪しい行動とも言えます。

ということで。

 エレベーターと言えば、押しボタンです。最近はダブルタッチで押し間違いを修正できるのですが、エレベーターパネルが新しくなってから違う階を押し間違えることもなくなり、そのような優秀機能も使用することはありません。新しいエレベーターのボタンとは大きくて押し間違えにくいような加工がされているのかもしれません。エレベーターのボタンを押す時にいつも考えることは建物の階数の半分です。10階なら5階、20階建てなら10階の半分の数字です。10階の半分は5階なのですが、厳密に空間の階で考えると10階の半分は5階の天井の位置であり6階の床部分の境界線部分となります。半分と言えば、0〜10の半分な5である気分なのですが、建物の半分を空間で考えると突然、若干のズレが生じて不思議な感覚となります。「真中の階に来て」と言われることは全く考えられないことではありますが、10階建ての真中の階を押すとなれば5階を押すべきか?6階なのか?とそれは大問題です。これは現実空間と机上の空論の差のようにも感じますが、当然と言えば至極当然なことでもあり、アタオカな私だけが不思議に思う「エレベーターの怪」でもあります。

 
■2023年4月26日(水)
■ネコの模様を重なる半透明色で作ってみました。
■2023年4月27日(木)
■一日一文章トレーニング。

「奇遇か偶然かそれは大問題である」

最初はグ―、最後もグーで、グーの音も出なく「偶」「遇」「隅」ということで、このお三方はよく似ています。

「偶」は「たまたま」な意味で「偶然・偶数・対偶・土偶」などの漢字がある。
「遇」は「あうこと」で「奇遇・境遇・千載一遇・厚遇・冷遇」等となる。
「隅」は「すみっこ」のことで「一隅・大隅(おおすみ)」などで、わかりやすいので問題なし。

「ぐう」の部首が「にんべん」か「しんにょう」の何れかを選択することはとても難しいことであります。
「にんべん」が人の行動や状況を表し、「しんにょう」が人の移動を表す部首ではあるようなので、それに合わせて「偶然」「奇遇」を読み解くのですが、人の行動や移動の中の「たまたま・出会うこと」の共通項を持っているので、ほぼ同じ。
「偶然」「奇遇」の違いがよくわからないので調べると下記のようになります。

【偶然】は予想できないことが偶然起きること。因果律ではとらえられないことが起きる状態。必然。思いがけないこと。

【奇遇】は思いがけない出会い、不思議なめぐり合わせとある。

※因果律とは物事の生成・変化・消滅等あらゆる現象はあってこそ生じて、原因がなければ何も生じないという哲学的考え方。

いやはや、難易度高し。

そこで考えた!!
時間的な経過の「長さ(線)」が感じられるものが「遇」となり、時間経過がない「点」の状態を「偶」と認識すれば、何となく使い分けができるような気もします。
「偶然」発見することができるポイントは「今」であり「点」の状態であります。
「奇遇」な出会いとは時間経過の長い期間の中の「線や面」での運命的な出会いであるとも思えます。
はたまた、「奇遇」にも「奇遇な発見」とはあるのか?ないのか?
いかがでしょうか?
朝から「グーの音も出なく」頭もパンク状態ではありますが「偶」と「遇」のヤバさを感じております。
もしかしたら、日本語には英語で言うところの「by chance」な出来事には「偶然」と「奇遇」の2種類の別の「by chance」があるのかもしれません。
追加調査のピンを打ちしました。

ということで。

昨日のつづきで建物の真ん中のお話であります。
10階建ての建物の中央が5階と6階の接合部分だとすると、11階建ての建物の中央は6階の空間部分となります。(図参照)
これは少し気になります。
仮に何かしらの応力などが働いた場合に奇数階である建物の断面が空間で途切れた壁面だけで接合しているのは少し強度的に弱く思えます。
そして、面白く思ったのは建物の階数が1階づつ伸びることに対し、真ん中の階は0.5づつ伸びていること。
これまた、1フロア上に伸びたら、その1フロアの半分が建物の真中で上昇するというのは奇遇でも偶然でもなく当然のことではありますが、1増えたら真ん中が0.5上昇するという、その数字的な関係性が面白いです。
どうでも良いお話しではあるのですが・・・。

 
■2023年4月27日(木)
■線の太いネコ。線が太くなると存在感はある。大雑把でもある。
■2023年4月28日(金)
■一日一文章トレーニング。

「ものの上にものを置かず」

福沢諭吉のような有難いお言葉はお掃除の鉄則であります。
物が置けそうなスペースにはついつい本や書類などを積み上げがちです。
一度積み上がった物たちはサッと閲覧することもできないので漬物石のように物の熟成期へと入ります。
積み上がることで発酵して何かしらの化学反応を見せることはあるのかもしれませんが、家の積み物(罪者)は定期的にブルドーザーで崩して平らな更地にします。
※積み上がるプラモデルの箱やCDの類は除外されます。

お部屋のプリンターの上とはついつい物を置きたくなる衝動に駆られる平らな場所です。
机のすぐ側にあることも物を気軽に置いてしまう理由の一つでもあります。
机の上に置けない邪魔な物は先ずはプリンターの上に移動させられることは定番な呆則です。
ポイッと床に直置きするよりはプリンターに積み上げる方が大分マシです。
プリンターはよく使用する時にはヘビーローテーションで動きますが、使わない時には部屋で大きな場所を占有するだけの平たい場所でもあります。
もし、この場所にプリンターがなければ、物が置きやすい格好の場となるので、ここにプリンターがあることで定期的に積み物の罪は洗われ整頓されているとも言えます。
平たく開けたスペースには「君、少し置いてごらんよ」みたいな誘惑は常にあります。
少し前にPS5も縦置きをすると冷却ジェルが流れてしまうというような真贋がよくわからないニュースが流れていましたが、念の為、PS5を横置きに変更しました。
ヨコ置きすると占有するスペースは大きく広がるのですが圧迫感はないので、縦置きと横置き、どちらの方が良いかと考えれば今は横置きの方が良いです。
そして、PS5は表面が歪曲して物が置けないような外観になっているので、こちらには物は置けません。
物が置けないので、積み上がることもなく全部の罪はプリンター上に積み上がります。
これはPS5設計者の冥利であると思う。

とりあえず。

時折、積み上がる読んだ本は本棚に、書類は分類して仕分けし、実行中の資料はどうしましょう?と積み上がった物たちを整理します。
そして、再び積み上げて崩し、そんなムダなサイクルを繰り返す日常であります。
プリンターの上を整理すると、ついでに机の上も整理されます。
時計を机の隅っこに移動し、濡らした布で机の上を拭き取るとまーまーな埃もキレイに拭き取れます。
そして、拭き掃除の余波で目覚まし時計は机から転げ落ちます。
この落下時にアラームのスイッチが入ってしまったようで、深夜13:30分頃に目覚ましの時計の地獄から雄叫びをあげます。
ビックリおろおろと寝ぼけまなこに狼狽し、眠気もすっ飛び再び寝ます。
なぜ?13:30にタイマーを設定したのかというと、お茶の葉を取り出す時間の名残りです。
タイマーも毎度計っているのではなく、気が向いた時にだけ使用しているので、その時の設定です。
とりあえず、就寝中に予期せぬアラームが鳴り響くとビックリします。
全てはプリンターの上には物をついつい置いてしまうことですが、積み上げる罪を思いとどまらせる何か良い手立てはないものでしょうか。

カリカリベーコンの話を書こうと思ったのですが、プリンターの上に物を置いてしまう話で終わりました。
本題のカリカリベーコンの美味しい作り方は次の機会に書きましょう。

 
■2023年4月28日(金)
■猫はやっぱり指で表現するのが一番しっくりします。
■2023年4月29日(土)
■一日一文章トレーニング。

「カリカリベーコンの道は長く険しい道である。by 刹那・F・ベーコン」

自宅でホテル朝食にあるようなカリカリベーコンを食べたいとの思いから、朝のパン食時になんちゃってなカリカリベーコンを焼いています。
毎朝のようにベーコンを焼いていると、それなりに微妙にカリカリにはなってくるものです。
朝からの一切れのカリカリ風ベーコン食とは、すこす贅沢に感じる朝の楽しみでもあります。
ホテルシェフの足元にも辿り着けるようなものではなく、全くの別物ではありますがそれなりにはカリカリで美味しい。
毎日、テキトーなことをテキトーに文章にしたためて書いていることも、暗中模索しながらのカリカリベーコンを焼くことも似ているような気がします。
私の文章トレーニングとは真剣に正当性の系譜の中で文章を書く人からみると鬱陶しくて間違いだらけの文章ではあるとは思います。
「ぼーっ」と何もしないで立っているだけでも人を怒らすことのできる才能を持つ私であるからにして、文章や絵を描き行動を起こせば人を怒らせることも朝飯前である。
何かしらの正義感を発動している訳でもないので御免候。
人とは一旦気になると「ボーっ」していても、ただ黒板を眺めていても、熱心に何かノートに書いているだけでもイラッとくるものでもあります。
パンデミック期間中に久しぶりに書き始めた文章ではありますが、このようなものを書くことは大昔から書いたり辞めたりを繰り返しながら結構長年続けていることでもあります。
書く期間で言うとなかなかの修業期間を積んでいるとも言えます。
また、長く続けるとは、書くことの方程式のようなものを自然と身に付けることでもあります。
それは力業のようにも感じますが、論理的な仕組みも程々にある。
書けば書く程に雑文になっていくようにも感じますが、それが今の自分自身であると思えばその通りの等身大の自分自身であるような気もします。

昨日は指で気持ち悪い猫画を描きました。
指で絵を描くということは、「ついに猫は指になってしまったのだ」と猫画の限界を感じます。
猫の拍手を続けることは英国プレミアムリーグ爆上げ状態から続いていますが、猫を触ったこともない私が猫画を更新していくことは、なかなかに猫難しいことでもあります。
これは昔、猫に全く興味がないのに猫グッズをアホほど販売した呪いなのかもしれません。
「猫」と「描」の違いを解釈すると多種多様な猫を描くことで、この邪心は洗われていくのでしょう。

スポーツでも筋肉限界でピクピクと震えるところまで来ないと「筋肉がキター」となる肉となる瞬間はやって来ません。
とりあえず、何でも限界まで突き進むことで筋肉はやっと身に付く猫筋なのかもしれません。
ということで。
ここ数日の猫画は踏ん張り時であります。
カリカリベーコンの焼き方について書こうと思っていたのですが、大きく脱線しての猫筋話しです。
また次の機会にカリカリベーコンの焼き方について書きたいと思います。

ところで、

昨日は珍しい鳥を見かけました。
我ら憩いの場でもある谷中霊園を通りがかった時にスズメサイズの小さな鳥を2羽見かけました。
頬が白い鳥で、すぐにこれは珍しい鳥だと気づきます。
早速、携帯写真で撮影しますが毎度毎度の画質悪。
家に戻りて画像を最大サイズにアップし野鳥の本で調べると「シジュウカラ」という初観察の野鳥でした。
漢字で書くと「シジュウカラ(四十雀)」、物凄く中年感が漂いますが、「ゴジュウカラ(五十雀)」と呼ばれる、別の中年ラインナップまで揃っている鳥です。
「四十から・五十から」考えることとは人それぞれなのかもしれませんが・・・日本全国に生息していているようで、そんなにも珍しい鳥ではないようです。
「カラ・ガラ・雀」の鳥は他にコガラ・ヒガラ・ヤマガラ・・・とまだまだ、たくさんの種類がいます。
特徴は頬の白さではありますが、写真に撮って気づきましたが背中が若干グリーンがかった感じがあるので、その背中の緑色と頬の白色が識別のポイントであります。
動きが早いので動体視力をMAXにして観察する必要があります。

ゴールデンウィークです。
私は部屋に籠りて資料作りに励みたいと思います。
カリカリベーコンの道はまだまだ遠し。

 
■2023年4月29日(土)
■指猫を図像化しました。
■2023年4月30日(日)
■一日一文章トレーニング。

「循環する蒲鉾板」

かまぼこ板とは何かと自宅に溜まるもの。
木製で何かに使用できないかと考えるのですが、結局、何も使い道が思いつかないのも蒲鉾板です。
それでいて、木製の温かみがある故に多くの人がホイホイと捨てられないものでもあります。
先日、まな板の横に洗われたままに放置していた蒲鉾板1枚を捨てようかと思ったのですが、何故か捨てることに躊躇してキッチンの引き出しの中に収納しました。
キッチンにはもう一枚の保管されている蒲鉾板が1枚あり、合計2枚の蒲鉾板が我が家に在庫していることになります。
しかし、
そのような絶対に使わないだろと思っていた蒲鉾板2枚が、次の日に活躍する時がやって来きます。
捨てようか?捨てまいか?と悩んだ後の捨てた後にやってくるマーフィーの呆則みたいな話です。

特売の立派なカブを購入し、葉っぱはもりもりと元気で美味しそうであったので捨てずにカットして塩漬けの漬物にして食べることにします。
葉っぱを容器に入れ、塩を振り、塩漬けに。
小さな重しを載せようと思った時に容器に収まる適当な落し蓋がないことに気づきます。
適当なものを探してキッチンを右往左往しますが見つかりません。
そこで思いついたのが蒲鉾板。
昨日、捨てようかと悩み結局捨てなかった蒲鉾板は容器にすっぽり収まるコンパクトサイズです。
木製で清潔でそれなりの厚みもあり重石を載せてもそれなりの安定感もあります。
これ以外にフィットするものはありません。
さっそく、蒲鉾板2枚層を重ねて重石のフタとして活躍することができました。

蒲鉾板は捨てなくて良かった(>_<)

ところで、

この蒲鉾板とは不思議なネーミングです。
さっそく、辞書で調べると「蒲」とは「ガマ」と呼ばれる夏になると茎の長さが2メートルぐらいに伸びて、穂先に円筒状の花穂を付ける多年生草本のことであります。
※草本は茎が木のように成長せずに一年以上存在しない植物のこと。
蒲鉾とは魚のすり身を板に張り付けた日本固有の食材ではありますが、大昔は串に刺して食べていたようであります。
すり身が棒に刺さった状態が「蒲・ガマ」の花穂の状態によく似ていたことから「蒲」に似た「鉾」(やりのような武器)のような食べ物に例えから「蒲鉾」となったそうであります。
現代人の私たちにとり蒲鉾状と言えば、あの丸く半円のカタチをイメージしてしまいますが、言葉通りに受け取ると昔の人にとっては武器のような串に刺ささる食べ物であったことになります。
現代人と昔の人で同じ蒲鉾のイメージするカタチが異なることは面白いことであります。
最近見かけないけれども、竹に刺さったちくわとかも美味しい食べ物ですが、あのような棒に刺さる感じが本来の蒲鉾の姿なのかもしれません。

かまぼこは冷蔵庫を開けて「パクリ」と小腹を満たすのに重宝する食べ物です。
勿論、西欧風のベーコンなども美味しいけれども、あのぶよぶよした伝統食材も負けずと美味しい食材です。
見た目を表す言葉はそのままに、カタチが変わっても誰も疑問に思うことなく、私たちのイメージだけが変質することは変化に対応し残り続ける伝統の持つ力強さのようなものを感じます。

竹に刺さった”ちくわ”や”かまぼこ”を食べたくなってきた(>_<)
 
■2023年4月30日(日)
■指から出来た猫をかわいくなるように加工中。