■2022年9月1日(木)
■一日一文章トレーニング。

「6次のステップとはもはや多すぎるのかもしれません」

私が嫌いで攻撃する人物は遠くの見知らぬ人物ではなくて知り合いの、知り合いの、知り合いの、知り合いであるかもしれなくて最低でも6人を通して繋がるお話が「6次の隔たり」。
そのような世間は案外小さいと感じるスモールワールド現象ではありますが目的の“もの”に辿り着くまでの行動も乗算的にネットワークにつないでいく現象に似ているような気がします。
そこで消費行動のステップを次元に割り振って整理します。

目的の”もの”を買いにお店に行く。
1次:店まで行く手段(電車・車・自転車・徒歩)
2次:入店
3次;購入するものを選別
4次:お会計
4次のステップで完結できます。
このお買いものに電車を1本乗り換えて、家族に頼まれた用事を済まして買い物に行くとなると急にハードルは高くなります。
1次:電車に乗る
2次:頼まれた用事をする
3次;電車に乗って店に向かう
4次:入店
5次;購入するものを選別
6次:お会計
このように6次まで増えると私のような横着は急にお買い物に行きたくなくなります。
その要因は頼まれ事が重荷となってしまった。
ステップが6次まで増えたことの煩雑さでハードルが上がってしまった。
私のような横着にとり、これら二つが大きな負担になったことが考えられます。
たった二つ増えただけの「ついでなおつかい」ではあります。
ですが、これら頼まれ事とは必ずこなす必要のある業務のようなもので、頭の中を完全なるお仕事モードに切り替える必要があります。
なので、6次のステップは私のような単細胞生物にとってはやはり多いステップと感じます。
行動のステップを3〜4次元内に収めることは理想的なカタチ。
もっと短いステップでお買い物できる方法はないかと考えると、通り道の店でお買い物をする方法ならば3次のステップで購入できます。
多くの人にとってはそのような購入形態が一番多いのかもしれません。

ネットでの購入はどうでしょう。
1次:ネットを見る
2次:カートに入れる
3次:会員登録
4次:購入
いつもの店ならば会員登録は済んでいるので3次のステップでお買いもの済ますことが可能です。
ネットショップの優位性とは物理的な移動を伴わないことではありますが、このような行動を伴うステップな視点から見ると、通り道のお店での購入と変わらない3次的アクションとして分類することができます。
それは何か面白いこと。
逆に複数購入となると「ネットを見て+カートに入れる」という行程は人によってはそのまま次元を増やす作業となるのかもしれません。
なぜ、6次のステップでは多すぎて億劫に思ってしまうのでしょうか?
ミルグラムが行った実験は手紙の郵送実験ですが、今やネット社会になりSNSも普及して最短でもワンダイレクト的に繋がることも可能です。
世界はどんどん狭くなるように、私たちの感覚ももはや6次のステップでも多いと感じてしまう体になってしまったのかもしれません。
※数字が半角全角入り混じり気になりますが時間もないしまーいいや。

 
■2022年9月1日(木)
■ステップ・ステップ・ステップ。
3次のステップ。

 
■一日一文章トレーニング
■2022年9月2日(金)

「有能なスライム」

猫置物ヤスリがけ作業を終えてサーフェイサーを吹きます。
サーフェイサーとはモデルの表面にスプレーを吹いて塗装の接着を良くする塗料。
塗装した色が物体の表面からゴソっと剥がれ落ちることを防ぎます。
また、これを吹くことによりプラ板とプラ板の合わせ目の溝や表面のヒケた部分を目視で確認できるようになります。
だいぶんとキレイにヤスったのに・・・パテ埋めする必要のある箇所はまだまだあってうんざりとした気分になります。
なので、長期間の放置。
型取りしなければこのまま色塗って完成でも良いのですが、そろそろ仕上げに向かって動かなければなりません。
重い腰を動かして製作途中の猫置物を持つと自画自賛ではありますがなかなか良い感じ。
先ず大きさが良い。
直線的な猫の形もいい。
尻尾は作るのを横着した訳でなく、お尻の辺りで丸まっていると考えた方が造形的に面白いです。(断言します・横着はしてません)
猫を触ったことがないのに猫ブームに便乗しているのも良い。
にゃー先生と最後に会った時に、にゃー先生は私の方に飛んで走って来てくれて背中を見せて「触ってもいいよ」な感じで座ってくれました。
なのに、私は何故か猫に触るのが怖くて触れることができませんでした。
もし、あの瞬間に戻れることができるならばタイムマシーンに乗り、にゃー先生をナデナデしたいと思う後悔は残ります。
今日は表面にクイックハードスプレーを表面に吹き修正箇所に瞬間カラーパテを爪楊枝などで微埋めして、固まったらヤスリをかけて表面をなだらかに整えます。
クイックハードスプレーを吹くと瞬間カラーパテはすぐに硬化するので便利です。
広い場所に液体パテをじっくり全面に広げて埋めたい時に、硬化のスピードが速すぎると液体が全体に広まる前に硬化することもあります。
直前に吹いたクイックハードスプレーが有効なこともあるのでスプレーするタイミングは行程をよく考えて使用する必要があります。
要は最初からキレイにモデリングすればこのようなパテ埋め+ヤスル作業も少なく済むのですが慣れない作業なので仕方なし。
キレイな鏡面として固まったパテは少し硬くなることもあります。
その場合は表面に粗目のキズを付けてからヤスるとヤスリの乗りが良くなります。
とりあえず、埋めてヤスリ、再び埋めてからヤスるんや〜!を繰り返すことで何となくの形と成してきます。
ヤスリ作業で出てくるマイクロプラスチックは「ヒヤッ!ドローッ!フシギナブッタイ!」のスライムを使用することで完全なる吸着システムを完成しました。
スライムとは緑色のベタベタした硬化しない柔らかい粘土みたいなもの。
スライムの遊び方と面白さは正直良くわかりません。
ですが、この物体は安定と不安定の狭間にある重心が存在しない柔らかい“もの”。
ダリの絵のようにとろけ落ち、重力に沿ってゆっくり落下、いやいや×重心はそのカタチに合わせて常に移動しております。
ベトベトと手に纏わり付くプラスチックの削りクズを100%吸着させて体内に取り込む有能さ。
手に残る若干のネバネバ感は気持ち悪いのでペーパータオルで拭い去り、バイ菌で一杯かもしれない手はキレイに洗浄します。
これにより猫置物から出てくるマイクロプラスチックは下水道を流れ出る心配は全くありません。
レベルが1や2とは思えない有能な働きです。
「ピンポーン」が鳴りました。
悪名高きマイクロプラスチック絶対に禁止協会の職員レスラーとの戦いの予感です。
私はスライムとパイプ椅子を手にとって立ちあがり今週末のバトル会場へと向かいます。

 
■2022年9月2日(金)
■スライム。
■2022年9月3日(土)
■一日一文章トレーニング。

「4頂点のネットワーク図」

4人または4組織のネットワークの図を書きました。
01図はABCD横並びでAがDにアクセスするにはBCを通る必要があります。
一方02図ではAがDにアクセスするにはダイレクトに1回で完了します。
ネットワーク図は線を引き足し、カタチを変形させることで自由に情報の流れを操作できるところが面白い。
試行錯誤すれば最短ルートの情報のやり取りは可能です。
最短ルートが構築できれば情報の流れはスムーズになり安泰であるとの考えは、それは少し浅はかでもあるのかもしれません。
情報とは常に速く正しく正確に伝わることが大切ですが、右から左へ流れ去り忘却の彼方に消えてなくなるようなものも、やっぱり情報であるので全体に周知させる手順(儀式)というのも必要です。
AからDに何かの情報を送る時にA→B→C→Dという手順で行われることも普通にあり得ます。
情報とは常に最短ルートを選んでいる訳でもなくバイパスの強い流れ、電気の流れ、川の流れのような慣習(01図)に沿って流れるのもまた日常。
また、01図のように情報は一旦流れて02図のように変形することも考えられます。
「1次:会議をするよ」「2次:会議中」みたいな図。
それはAに呼び出されたDがBとCに囲まれて胃を痛くする面談のようにも見えます。
若しくはDに伝える内容を単にBCに周知させる意味合いもあるのかもしれません。
要はこのような最も単調な4頂点図でさえ、ABCDを並べ替え、図形を変形しながら何通りものネットワークなカタチとして存在していることがわかります。
且つ、情報はいつでも最短ルートを通るとは限らずに迂回することも多々ありということで、それらは人間関係の縮図のようにも思えます。
仮に4頂点の関係性の全てを理解したとしても、世の中には人も組織もイッパイで様々なリンクの繋がりを形成しています。
それらは先日書いた乗算的に膨らむ複雑な関係性であります。

アルファベットの隣にある(数字)はリンクで繋がる辺の次数です。
それはリンクで繋がる数を表しており次数が多い程に情報はその頂点を通過していくことになります。
4頂点図リンク数の最大は3。
関係ないけれども、次数4が可能なのか検討すると図12のようなABCDが一点で重なっている時に次数=4を実現しているように思えます。
この状況は家族のような、若しくは濃密な運命共同体的な点なのかもしれません。
情報はもはや3次元のレイヤー上に重なっているのか、移動しない一点で停滞しているようにも見えます。

四角で囲まれる数字はコネクターです。
コネクターとはグループや情報を束ねている存在のことで何かにアクセスしようとするとそのポイントを必ず通過する必要があります。
このような単調な4頂点図でもコネクターが存在していることが興味深いこと。
図から判断すると、全員コネクターであり公平な図以外の全ての図にコネクターは存在して情報の流れるネットワークの中枢に君臨します。
05図ではBは3つのリンクを持つコネクターです。
09図ではDが3つのリンクを所有するコネクターです。
コネクターとは会社組織で言うとキーマンと呼ばれる人たちかもしれません。
学校で言うと先生。
国会議員で言うと日本に帰国できない黒光りな議員もコネクターです。
黒光りーな議員が異性関係の繋がりを仕切っていた過去の時に、学校の先生は道徳的模範な役割を演じてきたことに構図は似ています。
あくまでも図のカタチではありますが。
一方は永続的に道徳的模範を求められ、一方は国会議員に成り上がったけれども逮捕が怖くて産油国から帰国できないことは何ともカオスなことですがカタチ上の相違はありません。
これはネットワークな図から見る一つの考え方です。
最短であれ最長・複雑であれでも、どのカタチの図が正しいという意味は存在せず、どれもその時々を表すカタチであります。
ネットワーク図を知れば改善する方法やそれを壊す方法のアイデアも生まれる可能は高いので、知らないよりは知っている方が断然良いと思われます。
自然の定理に従えば、人は必要であるならば勝手に線を引き、また、線を削除したりすることは日常的に行われることのように思われます。
しかし、そのような普通なことでさえも、決まり事やしがらみで社会が組織化されてくると野生的な勘というものもホイホイと発動できなくなるジレンマに陥るのかもしれません。

 
■2022年9月3日(土)
■コネクター。
■2022年9月4日(日)
■一日一文章トレーニング。

「絵に陰を入れる」

 部屋の中の陰影は昼夜問わず如何なる時も健在です。それら室内の影を観察すると暗さにも黒のグラデーションがあることに気づきます。そんな濃淡な影を2次元画像で表現することは難しいこと。さっそく、架空のモデルを描き陰影を描きます。影のつき方、ハイライトの場所などの全ては空想ごと故にペン先の自己流レンダリング。※「くうそうごと(事)ゆえ(故)に」と入力すると「空想事故に」と漢字変換されて正に「空想事故」な暗示です!!でもね。失敗作であってもどのような結果になるのかは気になるところ。左はクリスタルの宇宙人。ガラスのようなヘルメットを被っているのでハイライトな光を写し込みます。陰影のグラデーションは「真っ黒」「影な黒」「それなりに暗い影」「やや影」4つの陰サンプルで描きます。それらサンプルを元に影を描き込むと黒色の面積が増えて絵に存在感が出てきたような気もします。ですが、影を上手く表現できているのかと考えると微妙なところ。手書きの黒としての圧力は強いです。影を描くならばハイライトは必須です。これはデジタルの後処理で入れた方がキレイにそれっぽく描けるのかもしれません。右は角付き恐竜。01的な「白」と「黒」と「表面素材感」の3つの陰影を使い描きました。白の部分はハイライトと言う訳ではないので、もう一つ別のアニメな陰を描いて合成しました。

 文章を書いていても「影」か「陰」を使うべきなのか?そこに明確な使い分けはありません。入力変換次第とも言える曖昧さ。さっそく辞書を調べると「影」と「陰」には微妙なニュアンスの違いがあるようです。「影」とは光線を遮って出来る姿のこと。3次元的空間の夕焼け道に伸びる巨人のような長く伸びる影をイメージします。もう片方の「陰」は日の当たらに場所や物の裏側の意味となります。やはりこの「陰」には概念的な要素が強く「影」のカゲよりも2次元寄りなカゲとなりそうです。そう考えるとやっぱり日本画的な“もの”は「日陰な文化」だと思えます。日本人が“もの”を平面的に捉えることを好んだから影らしき影を描いてこなかったのか?影を描く画材がなかったのか?影を描くという考え方が教育になかったのか?よくわかりませんが、とりあえず、2次元な絵に3次元的な影を入れ込むことは何かとても違和感ある感じの絵になることは間違いありません。描いていて思ったのですが線画を塗り込むことはそれなりリスクがあることのようにも思えます。線画の状態で素敵だった絵がしっかり描こうと意気込むばかりに描けば描く程に酷い絵になってしまうこと多々あります。途中で描くのをやめれば良かったと後悔します。いやはや、「気をつけよう空想事故と描き込みすぎ」かもしれませんが、どちらにも逆らい遡上していています。それを鮭と反抗期とロックと良い風に解釈します。
 
■2022年9月4日(日)
■クリスタル星人の交信。

■2022年9月5日(月)
■一日一文章トレーニング。

「キー坊」

「ピポポロピポロロン」と適当に鍵盤を弾く。
ピアノを弾くことはできないけれどもテキトウにキーボードを叩いていることは心地よい。
それは「ポッポロッポー」と窓の外の鳩の鳴き声よりも雑な音色なのかもしれません。
キーボードをノートパソコンに繋ぎ、小さな音量で10分未満で飽きて終了する雑音演奏会。
長い一日の中の一瞬の微睡みのようなもの。
そのような雑音を奏でた音をカセットアイコンにアップしました。
https://www.tumblr.com/blog/view/enpitoroys/694468747912724481?source=share
適当に弾いているだけなのになめらかに指が動かないことの不思議。
急にぎこちなくなるリズム感も少しおかしい。
許せ雑音、されど雑音。
私の中ではなかなかよくできた音であります。
二度と同じ音は出すことはできないので「Windows+G」のRECボタンを押して動画として音を記録。
当然、DAWソフトは持っておりません。
RECボタンを押すとテキトーに弾いているだけなのに急に手に緊張が走ります。
手の裏の汗。
このような雑音に緊張とは何か笑ってしまいます。
そして、鍵盤2個を同時に押しながら両手で!!無茶苦茶に弾きます。
緊張してなくとも鍵盤2個推しはなかなか頻繁な押しです。
音が入り混じることは、それはそれで「良し」と思うのですが、もしかしたら白い鍵盤が2cmぐらいとターゲットの幅としてはやや小さい故に真中を弾いてしまう可能性も考えられます。
それならば、飛び飛びにしか存在しない黒い鍵盤だけを弾いてみましょう。
「ピポポロピポロロン」
そんな黒い鍵盤でもやっぱり白い鍵盤も同時に押してしまいます。
黒い鍵盤の狙いが外れて白い鍵盤に当たる感じ。
指を広げて弾くので手が大変。
最初から適当に弾いているだけなので失敗も成功もありません。
弾けないキーボードなのに何故を音を奏でるのでしょうか?
目の前に音の鳴る楽器があるならば「ピーン」や「ターン」とキーボードを叩いてしまうことは誰しも持つ衝動なのかもしれません。
たまに動く絵に付けられている音はこのように作っています。

 
■2022年9月5日(月)
■恐竜vsクリスタル星人。どっちが強いか?どっちも強い。

■2022年9月6日(火)
■一日一文章トレーニング。

「ステキなキッチンの作り方」

 キッチンとは裏の顔なのかもしれません。光に照らされた日々の生活の裏にはカゲとして広がる台所の世界が広がります。※「影と陰」どちらが正解なのでしょうか。いやはや、これは難しい問題です。台所とは食べ物をこさえ、私たちの毎日の活動を支えるエネルギー源を作り出す大切な場所です。それは大企業を影で支える世間に決して名前の出ない会社に似ているような気もします。台所とは決して表に出ることのない完全なるプライベート空間。普段、私たちが会話する人たちの家の台所はどんな感じなのか?そのようなことは考えたこともありません。私の前にいる人は見たままの人物であり、その背後に広がるであろう台所の食物システムは誰も知らない世界です。あの人の台所を想像しても何も得られないのであらば「昨晩は何を食べましたか?」などの会話からキッチンの外堀を埋めることもできます。それはもはや誘導尋問っぽくて何かとても怪しい。今、私は他人の家の台所が少し気になります。その理由はおいおい書くこととして、気になるならばダイレクトに「あなたの家のキッチンを見せて下さい」と頼むことが近道です。頼んだならばホイホイと気前よく見せてくれる人はいるのでしょうか。家に上がり込み、キッチンの間取りとディスプレイ状況を確認して冷蔵庫を開けて中身を確認して帰宅する。これはもはや十三日の金曜日並みの変態です。そのような話は戸惑いや怪訝な顔で瞬時に拒否られることに間違いありません。そこはもう少し粘ってみてスマホ写真でもいいから見せて欲しいと頼むと見せてくれるのでしょうか。よほど自慢の台所以外、自分の家のキッチンを写真に撮って持っている人はいない予感もします。呆れられ、ヤバイ奴の称号を得て、あの人と会話するとキッチンを見せてくれとの噂が社内やコミュニティに一気に広がるのかもしれません。勿論、あだ名は「きっちん」。人に家の台所を見せることはそれ程に何か嫌なことであり、私でもダメな理由を作って丁寧に断るはずです。その理由は生活感を知られたくないに尽きると思います。ほとんどの人は同じような考えだと思いますが確証はありません。しかし、アンケートをとったら8割の人が家の台所をスペースを他人に見せることに全く躊躇なし驚きの結果の可能性もあります。正にキッチンとは私が想像を膨らますカゲな部分。

 そのような訳で写真は事務所のキッチン。家の台所ではありません。家のキッチンは人様に見せれる代物ではありませんが事務所のキッチンなら全然平気。事務所のキッチンはリフォームしてからほとんど使用していないのでとてもキレイ。滲み出る生活感は1ミリもありません。お湯も電気ポットで作るので、ここで何かを調理することはほとんどありません。今、そのようなキッチンの殺風景な感じが嫌で何かお洒落に変身させるべく企みを考えています。“もの”がないということではミニマリストのキッチンはこんな感じなのかもと思います。もしかしたら、殺風景とミニマリストは裏腹な関係なのかもしれません。私はこの事務所キッチンに少しナチュラル感が出るように木板を設置します。木板の上に塩とサラダ油とコーヒーメーカーのカートリッジが入った瓶が置かれていましたが、切ない感じが漂っていたのでキッチンの棚に戻します。コーヒーメーカーのカートリッジの入った瓶は緑色のガラス瓶でかわいいのでそのままにします。しかし、コーヒーメーカーが壊れてしまったので未使用なカートリッジの使い道はありません。こういうのは私生活のダメダメな感じです。多分、同じメーカーは購入しないと思うのでその内に処分することになります。さっそく、頭の中だけお洒落なスタイリストさんになった気分でキッチン周りをデコります。下の収納から飾れそうなキッチン小物を探しますが飾れそうな素敵なものは何もありません。フライパンやお玉のような“もの”を置いても全くかわいくならないならば、その辺に飾っている小物を置いてみたら・・・と置いてみるともっと切ない空間になりました。単独で机に飾るとステキな“もの”たちなのにキッチンに飾ると何か変。陶器の小鳥の置物、カニのフィギュア、ケロッグのトラのぬいぐるみ、紙のロールどれもそれなりお気に入りです。何がいけないのでしょう?もっとサイズの大きいものを飾った方が良いかもしれません。陶製のパンプキンの容器なんてものはいいです。勿論、そのようなものは持っておりません。無ければ自分で手作りな“もの”を飾るという方法もあります。雑誌などを見るとステキな家には絵が描かれた大きなお皿など飾られているのかもしれません。ということで、今、他人のキッチンがとても気になります。

 
■一日一文章トレーニング。
■全てを水に流しましょう。
■2022年9月7日(水)
■一日一文章トレーニング。

「鳥の鳴き声から鳥を探す」

私は鳥の鳴き声に敏感である。
遠くで鳥の声が聞こえたならば、その音を瞬時に耳で拾い次に鳥の姿を追う。
あっちで「チュンチュン」と鳴き声がすれば私の鳥センサーが「ピーン」と反応してスズメの姿を確認し、こっちで「ギャーギャ」と鳴き声が聞こえるとオナガの姿を捉えます。
久しぶりに見るバサバサと飛行するオナガの雄姿は美しい。
オナガの声は酒枯れた声はわかりやすい。

そして、道を真っすぐに進むと「ピーピー」と空を抜けるような珍しい鳴き声が聞こえて私の鳥センサーが反応します。
「何の声だろう?」
鳶や鷹の声に似ていると思い空を見上げるが旋回する鳥はいません。
台風の北上で暑さはぶり返してきましたが空は随分と高くなり、すっかり秋の空。
鳶、鷹は何処に。
すると、再び前方で「ピーピー」と鳴き声が聞こえます。
その声のする方に視線を向けると赤ちゃんを抱えたお母さんがいます。
音の正体は赤ちゃんの泣き声でした。
間際らしいこともあるものです。
残暑厳しい中にも確実に秋は忍び寄り、暑さに辟易としていたと思った次の瞬間にはぶるぶると寒さに震えているのが人生というものです。
私はそのような秋の気配を決して見逃しません。

さらに先を進むと「ピーイピーイ」との珍しい鳴き声が聞こえます。
これは珍しい鳥の鳴き声。
音がする空や木々の葉の隙間を探しますが、珍鳥とはそう容易く見つかるものではありません。
夏場の木々は葉っぱで覆われているので木にとまる鳥を見つけることは難しいことです。
それでこその珍鳥です。
「ピーイピーイ」との鳴き声が再び聞こえて、視線を声のする方に向けると散歩中の犬がいます。
「おやっ?」と思い注意深く観察すると。
再び「ピーイピーイ」と鳴き声がして確信します。
音の正体は犬がくわえた音の鳴る玩具の音。
犬はふんふん・ぶるぶると玩具を鳴らしながら散歩をしています。
何とも馬頭荒ら荒らしい犬もいるものです。

 
■2022年9月7日(水)
■オナガ。
オナガは1970年代は日本全域と九州の一部で生息していましたが、1980年代に入ると急に九州と西日本で見られなくなり現在は東日本中心に生息しているようです。生息域もヨーロッパのイベリア半島と極東アジアという真反対な地域のみに生息する端っこが好きな私みたいな鳥です。

 
■2022年9月8日(木)
■一日一文章トレーニング。

「美味しい栗」

栗とサツマイモ、この二つは秋を代表する秋の味覚です。
ザルの上にそれらを並べると、このインフレ時代に少々高めな旬食材を購入した私の判断が正しかったことを確信できます。
そして、この赤茶色な二つの食材とにらめっこして何か面白エピソードはないかと対話します。
栗拾いをした訳でもなく、土から芋を掘り起こした訳でもありませんので、私と芋と栗の間に何か特別な関係はありません。
単にスーパーで買ってきて食べて美味しかったよ〜となるお話が思いつきます。
※残量はまだまだあるので暫くは秋の料理を楽しめます。
それは栗とサツマイモの入ったご飯を食べて美味しかっただけの文章であり、美味しかったことの美味しい気持ちをただ伝える為だけの文章となります。
このような「美味しかった」だけの何でもない時にこそ「一日一文章トレーニング」で鍛えられた「話しを盛るまつ毛な技術」の深化を発揮できる時でもあります。
栗は間違いなく美味しかったので美味しい以外の言葉は見つかりません。
「栗が美味しかった」気持ちを伝えることはラブレターで好きな気持ちを延々と書くことに似ているような気もします。
好きな気持ちを「LOVE・ラヴ」や「愛している」などと変化球な言葉を投げかけることにはちょっと待てよ!!な気持ちになります。
私ならその想いをどのように表現するでしょうか?「美味しい栗」。
A4用紙に大きく二文字で「好き」と書いて相手に叩き渡すことが栗に対する「美味しい」の賛辞をささげることと同義なような気もします。
ストレートで直接的な文章とは潔き良きもの。
想いをたらたらと長文にするよりも派手に轟沈する方が清々しい奴だったとの涼しい風を残すかもしれません。
それとも、やはり定形に従って、いついつの何時のあの瞬間に・・・と文章に書き留めることが正解なのでしょうか。
このような恋話は恋愛番長に相談するしかありません。
私の恋愛相談窓口だと上記のような「A4用紙に好きとシンプルな言葉で相手に気持ちを伝えてましょう」というバカ回答となり後日のクレームのメッセージが殺到する予感です。
栗が美味しいという話になれば栗の番長が必要です。
栗の番長とはもしかしたらインターネットの世界に存在しているのかもしれません。
ですが、検索する前に自分の栗に対する旬な美味しかった気持ちを書き出すことは大切です。
その気持ちとはどの方向から転がったとしても栗に対する「美味しい」という言葉のみ。
ホクホクな栗とは一口食べるごとにほんのり甘い栗の香りが口に広がって幸せな気持ちとなります。
「秋ですね〜」と思いながら秋の味覚を頬張ることは幸せな気分です。
勿論、サツマイモも栗程のインパクトはありませんが美味しい。
このような数行分の美味しい気持ちを伝える為に延々と関係ないことを語るのが「一日一文章トレーニング」の書き方となります。
おしまい。

追記:「秋ですね〜」で「おしまい」ではないのです。
先日、日本海を北上した台風がせっかく秋っぽくなった空気をすっ飛ばしてジメジメとした蒸し暑い空気を置き去りました。
誰かが我が家に遊びに来て、いらない邪魔で大きな“もの”を勝手に置いて帰ったような気持ちです。
そのような感じで最近、残暑とムシムシな湿度で少し夏バテ気味です。

 
■2022年9月8日(木)
■パカッと栗。
■2022年9月9日(金)
■一日一文章トレーニング。

「ステキなキッチンの作り方2」

人の家のキッチンに上がり込み冷蔵庫の中まで調べるというお話
それは流石に無理なこと。
ならば、私にはインターネットという文明の利器があります。
Tumblr にKitchenと入力すると海外屋敷の台所写真が大量にアップされております。
「これは良い」「これはな〜イマイチ・・・」と、それらをにわか棟梁になった気分で飽きるまでスクロールしていると「なるほど」と何か悟りの境地に達します。
数多くの台所を見ることで私好みのキッチンのカタチも徐々に見えて来るものです。
それらを元に事務所キッチンの改良点(図)を描きます。

A) 風景画を飾る。(自分で架空の窓の外の風景を描く)
B) 木製のオブジェを飾る。(食べ物に関係する“もの”を彫刻して吊るす)
※ステキなキッチンには木製のナチュラル素材が使用されていることが多い。
C) キッチン用品を3個ぐらい壁に飾る。(実用性・生活感)
※たくさんぶら下げると生活感と圧迫感が増すので注意が必要。
D)お洒落なワンポイントを飾る。(実用性・生活感)
E)フルーツなどをボウルに入れて飾りビタミンの摂取。(実用性・生活感)
F)換気扇の上のスペースに何か飾ることができる。(アート)
G)見せる収納棚を設置する。(実用性・生活感)

大きく分類すると2つのポイントに分けることができることに気づきます。
1)「アート」的なモノを飾る。
2)「実用性・生活感」あるモノを飾る。

結局、事務所キッチンの「脱ミニマリスト」を実現するには何かステキな物を飾ることが必要です。
それらはキッチンに関係するモノである必要があります。
キッチンに関係ないものはステキなキッチンには飾られておりませんでした。
アート風な物は購入するか自分で製作するしかありません。
実用性・生活感ある物はよく使用する“もの”を飾る感じです。
事務所キッチンは使用頻度が極端に少ないのでフルーツなどの食べ物辺りの消費する道具辺りから始めるのが良いのかもしれません。
殺風景とミニマリストな空間の境界線はどの辺りにあるのでしょうか。
どちらも実用的はあるが物が少ない。
殺風景と感じるか、物が少なくてスッキリと感じるかはその人の感じ方(見方)次第ではあります。
シンプルであり且つ、ゴチャゴチャもせずに勿論、殺風景でもない程良い物量に囲まれたキッチン空間。
そのような空間の実現にはA)窓が必要です。
海外のステキなキッチンには窓があり解放感があります。
そして、見える外の景色や自然光も素敵。
事務所キッチンには勿論、窓はなく、そそり立つ絶壁が閉鎖空間が殺風景な景色を醸し出しております。
そこで風景画を描き壁に飾ると空間的な広がりを感じることができるかもしれません。
それは油汚れにもへっちゃらな絵である必要があります。
以上が私の考えた改善のポイントです。

 
■2022年9月9日(金)
■風景画。
■2022年9月10日(土)
■一日一文章トレーニング。

「NYノートを探す」

 先日、資料を整理しているとBORDERS のレシートが出てきました。十数年前のレシートなので随分色褪せております。秋のNYは厚着しないと凍えそう位に寒い極寒な寒さ。凍える体を温める為にBORDERSという本や音楽、カフェなどを併設したお店でノートを購入しました。よくよく考えてみると暑いだの、寒いだのと弱音を吐いていることは毎年の恒例行事。暑さに弱く寒さにも弱い。そして、春の一番快適な時期には花粉症で苦しむので四季の内の3/4は不遇な季節となります。何か可哀そう。ノートにはその国ごとに異なる罫線や形状、大きさ、紙質、技術などの差異があります。それら特徴はお国柄一端をの表す工業製品のように感じます。なので、海外に行くと重くとも必ずノートも購入して持ち帰ります。NYで売られている“もの”は大体、面白いのが多くボーダーズで購入したノート類も大変面白くお洒落であった記憶があります。

 そうならば、どのようなノートだったのか確認したくなります。探し物とはなかなか見つからないもの。物を探し始めると関係ない物に目移りしてしまう誘惑も多くて本来の目的を忘れてしまうことも多々あります。NYで買ったノートを探すことは切迫した探し物ではありません。見つけることができなければ「まーいいや」と諦めてしまう可能性も高いのですが、そのような中でも今回は幸運にもノートを発見することができました。発見するまでの行程を書き記します。先ず、第一候補の場所を重点的に探します。「確かこの辺りで見かけた」と思い込んでいる場所。思い込みの場所には大抵の探し物はありません。本棚の本の隙間を覗き込み確認しますが見つかりません。第二候補の場所に移りその周辺も探しますが、やはり見つかりません。再度、第一候補の本棚の場所に戻って今度は本をごっそりと移動させて調べますが当然見つかることはありません。「ないな」と諦めていたら「ふっ」と第三候補の場所を思い出します。そして、第三候補の場所の箱を持ち上げるとその箱はずっしりと重い。中には海外で購入したノート類がギッシリと収納された紙の箱。ノートが詰まった箱を運ぶこととは一種の筋トレです。筋肉がピクピクと戦っているのがわかります。そして、その箱をドシンと床に置いて探すとノートは箱の一番下に鎮座しておりました。なぜ?一番底にあるのか?と多少の不満には思うのですが見つかって良かった。

 ノートの総数は全部で6冊。紫色のノートが1冊、茶色のノートが2冊、黒色のノートが1冊、銀色のノートが2冊。米国製なのでインチだと思いますが約14×19センチ程の大きさで、手に持つと小さすぎず大きすぎずで程よい良い大きさ。表面には100%リサイクル紙の表示と「Journal(日記) Made in the U.S.A」の表記のシールが貼られています。メーカー表記なし。シールは弱粘で綺麗に剥がれます。ページを開くと左側は無地、右側は6o程の横罫線が引かれております。枚数は何ページあるのかわかりませんが書くことに不自由ない位の十分な量があります。Journal(日記)という商品名の通りに左に絵を描いて右に文章を書く仕様。日記帳だと上下に分割することが多いですが、このノートは広いスペースを使えるところが特徴です。表面のカバーが丈夫で特殊な素材。このような変わった素材を使用しているところが先進国らしさを感じます。紫表紙は恐竜の肌みたいな凸凹で、茶色表紙は植物模様な感じのエンボスで肌さわりが良いです。黒色は爬虫類革みたいなぬるぬるした肌さわりで、銀色は惑星のクレーターみたいに凸凹しています。どれも素敵なデザインでお洒落なノート。これらノートは資料として未使用で保管しています。ノートとは消耗品なので古いデザインのものは残りにくく文化的な資料としての価値もあるように思います。1冊をペラペラとめくるとボールペンで試し書きをされておりました。これは2冊あるし使用しても良いかも。買ったノートに落書きされているというのは海外のあるあるな出来事です。ですが、日本でもPP袋に入れない裸のままでノートを販売すると確実に試し書きされます。なので、本当は裸のまま販売した方がコストも手間もかからずに素材感もよくわかって良い事づくしではありますが、ペン売り場から少し離し、又はPP袋に詰めてと自己防衛しないとノートはボロボロの0値な商品となってしまいます。

 面白いと思ったことは、1次(1日目):古いレシートを見つける。2次(1日目):お洒落ノートを思い出す。3次(1日目):A場所でノートを探す。4次(2日目):B場所でノートを探す。5次(2日目):A場所でノートを再確認。6次(3日目):C場所でノートを探す。7次(3日目):ノートを見つける。偶然のほぼほぼの6次アクションです。このような探し物の工程を一連の繋がりとして書き出すことは面白いこと。それはロードムービーのような「あれやこれや」言いながらただ物を探すだけの「探し物の物語」。日をまたぐこともありますが、探す行程が増えると諦めてしまうので1日の行程とはやはり3次アクションぐらいが私の限界なのかもしれません。

 
■2022年9月10日(土)
■波打つノート。

■2022年9月11日(日)
■一日一文章トレーニング。

「好きな音」

朝晩は暑さも一服してだいぶと過ごしやすくなります。
夏場の暑い時期には紫外線対策のビタミン摂取を目的に果物やビタミン剤を飲んだり食べたりします。
勿論、毎日でなく気づいた時だけ。
あのビタミンの細粒の封を開ける時の「サッサッ」と立てる音が結構好き。
それは封を開ける時に開封側にビタミンの粒が残らないように下に落とす儀式。
袋を開ける時の誰しもが細粒入り袋を開ける時に「サッサッ」と袋を振ることは何か面白いことであります。
それは一種の「サッサッ」音のオーケストラを作れそうな気もします。
「サッサッ」「サッサッ」「サッサッ」「サッサッ」
「サッサッ」「サッサッ」「サッサッ」「サッサッ」〜
「サッサッ」「サッサッ」「サッサッ」「サッサッ」「サッサッ」〜「サッサッ」「サッサッ」
あの小さな粒が袋の中で奏でる「サッサッ」音には気持ちを落ち着かさせる何かがあります。
赤ちゃんを大人しくさせる魔法の新聞紙の「クチャクチャ」音と同音なのかもしれません。
そこで、iPadを使いその音を抽出しました。
音を取り込むことは簡単なことではありますが、それをHPに貼り付けることは難問です。
DAWソフトのようなものは持っていないので、いつものように音を動画に変換して編集します。
そのように、いつものような邪道な方法で「サッサッ」動画を作りました。
いやはや、この動画に心を落ち着かせる効果はあるのでしょうか。

ところで、ビタミンC剤の袋には細粒ではなく顆粒と表記があります。
細粒と顆粒の違いが気になり辞書で調べます。
顆粒とは粒のこと、結膜に生ずる水泡状の粒や細胞の粒のことを意味します。
どうやら医学的な用語な気がします。
一方、細粒とは私の持っている大辞書には何故か記載はありません。
勿論、ネット等には当然記載があって、そのまま細かい粒という意味です。
特に何でもないお話なのですが、細粒とは比較的に新しい造語かもしれないと思いました。

 
■2022年9月11日(日)
■腕が回る。
■2022年9月12日(月)
■一日一文章トレーニング。

「チャリは二度追い抜かれる」

先日、上野を自転車で走行中のこと。
後ろから私を追い抜いていく自転車が一台あります。
自転車の特徴は電動自転車でヒョウ柄のおばさまが乗っています。
その一台に続きもう一台、同じヒョウ柄のおばさまの電動自転車に追い抜かれます。
何から何までよく似ているので姉妹かもしれません。
同じヒョウ柄とパワフルな電動の走りが私の記憶にインプットされます。
そして、暫く走ると赤信号でヒョウ柄のおばさん達と再び追いつきます。
二人は何やら楽しそうに会話しています。
上野の街とはなかなかに変わったところがありますが、この段階では私の記憶の痕跡を残すものはありません。
そして、青信号になりヒョウ柄のおばさま二人は軽快なスタートダッシュで私の遥か前を進んで行きます。
私は進行方向をマイペースに進み、途中裏道へと曲がり赤信号で停車、再び走行しながら鶯谷方面までやって来ます。
すると、驚いたことに後ろから再びヒョウ柄のおばさま方二人に追い抜かれます。
「えっ」と思いましたが間違いなくヒョウ柄のおばさまのパワフルな走りと息のあった連なる走行です。
「エンヤエンヤ」と私を追い抜きます。
二人は一度追い抜いた私を二度追い抜いたことにお気づきなのでしょうか?
気づいていたならば、もう少しショートカットできる近道の存在にも気づいたでしょう。
一度追い抜かれて、私が追い越した訳でもないのに暫くしてから二度目の追い抜きに会うことは早々にないこと。
競争していた気持ちは全くないのですが何かしらのジェットヒート感もあります。
そのような訳でヒョウ柄の電動自転車のおばさま二人に二度追い抜かれて、私は大変面白く思いました。

アクションの次数で数えるとこれは4次展開です。
1次:上野を走る。
2次:ヒョウ柄のおばさま二人の電動自転車に追い抜かれる。
3次:裏道を走る。
4次:ヒョウ柄のおばさま二人の電動自転車に“再び”追い抜かれる。

ディズニーランドや街、観光地や異国の海外旅行でさえ何度も出会う人達は必ずいます。
「あのカップルは入場の時から何度も会うね〜」みたいなことです。
何度も出会うと流石に「またお前か〜」みたいなお互いに気まずい感じにもなりますが、冷静に考えるとこのようなことは少し不思議な感じもします。
人の行動様式とは大体同じなのか?確かに観光地だと見て回る順番はルート化されています。
アトラクションでも乗りたいものは人気のある乗り物で皆、大体同じと考えてもおかしくはありません。
それでも、他人と同じようなルートで移動することは性格や趣向が似ているとも言えるような気もします。
買い物で同じ物をカゴに入れる人には横目でチェックしてしまうようなことと同じ。
それとも服装などの見た目に特徴があって、それでその人を単に記憶しているだけのことだけかもしれません。
忍者のようにオーラを消し去る人ならば二度会うことさえも気づかないかもしれません。
ヒョウ柄のおばさま方二人というのはそれなりのインパクトがあります。
人の縁というものもそれなり存在するのかもしれないとの立場に立つと何度も会う人とはそれなりの何かしらの縁がある人との可能性も考えられます。
または、ひねくれた考え方に立てば意図的に作られたキッカケや腐れ縁みたいな感じもします。
なので「何度も会いますね〜」と心を開き話しかけることは何か人生の新しいページが開けるのかもしれませんし、そうではない悪い扉を開くかもしれません。
その辺の判断は結果が伴なうのでよくわからないことでありますが、関係ない人と気軽に世間話ができることは大人な特権です。
それは私にはなかなかできない事ではあります。
ですが、ゲーム脳であらば間違いなく全てのモブに何度も話しかけることができます。
その意味ではゲーム内の仮想世界と現実世界ではやっぱり行動形式は異なるのかもしれません。
META的なものが普及してきたならば私みたいな内向的な人間は「イエーイ元気デスカ〜」みたいな陽キャに変わったりするのでしょうか。
やっぱり、隅っこの方で「この辺りの水辺のバシャバシャ感は少し違う」などと言っている現実と変わらない姿も予測できます。
スモールワールドに於ける遠い縁とは最強のリンクとして繋がることを意味します。
その時の遠縁とは知り合いの>>>知り合いの>>>ネットワークを通しての縁なので、このような野良な繋がりとは少し異なるような気がします。
数年後、数日数カ月後、ヒョウ柄おばさん方と何かしらのご縁があって、私が三台目として後ろを走る機会があれば結構笑えます。

 
■2022年9月12日(月)
■何度でも追い抜かれるのであれば、それはもうどうでもいいような事のように思われます。
■2022年9月13日(火)
■一日一文章トレーニング。

「豹と私(伏線のカタチ)」

昨日書いた内容を今朝はヒョウ柄のおばさま方の視線で振り返ります。
※以後、「豹」と「私」に省略。
一度追い抜いたはずの私を遠く離れた場所で再び追い抜くことは豹にとって不思議な体験のはずです。
当然ですが豹と私には同じ時間(h)が流れています。
豹の走るAXCは一般的に皆が走る正規ルートで豹にとりそれが遠回りであるという認識はありません。
また、豹の速度は速いので(AA‘)ポイントで私を追い抜きます。(豹の速度>私の速度)
(XY)のポイントで豹と私の距離の隔たりは最大となり(CC’)で再び合流して豹は私を追い抜きます。
明らかに速度の速い豹が(AA‘)のポイントでスピードの遅い私を追い抜き、遠く離れた(CC’)ポイントで再び私を追い抜くことは同一ルートを走っている限りあり得ないことです。
所謂、私がチートであり近道をしたことは明白ではありますが、それは豹にとって私は(AA‘)地点から(CC’)地点に突如ワープした存在のように感じるはずです。
これは疑似的なワープであります。
そして、ワープすることはあり得ないと感じるならば近道ルートの存在を知るはずです。

仮に豹と私がロードムービーの主人公として(CC’)地点までの物語の質に変化はあるのでしょうか。

1)豹と私の関係性を図にする。
2)豹と私で見ている景色はそれぞれ異なる。
3)豹は私よりも移動距離が多い分多くの情報を持っている。

図にすると三角形の面積の差、XとYの差で移動距離の差として確認することができます。
豹は移動距離が多い分、情報量は確実に多くなります。
しかし、見ている景色の違いはあるものの面白さに違いはないのかもしれません。
移動中の面白さとは観察眼や偶然の発見が重要な気がします。
情報量の差がそのまま面白さの比例に直結することは疑わしきことであります。
とういような感じで、豹と私の視点を変えて書き出すと二度追い抜く、追い抜かれるとの間に全く異なる物語が存在していることがわかります。
私が豹のAXC道中の物語を知る方法はありません。
豹に取材するしかありませんが、一時な自転車移動中の記憶が残っている可能性はほとんど0でしょう。
もしかしたら、X地点で自転車カゴの中に猫や鳥が入ってきて急停車したかもしれませんし、豹の友人に偶然出会って挨拶をしていたのかもしれません。
その場合の近道とはそれ程の差を生むほどでない近道だったかもしれない可能性もあります。
このようなスレ違う図形は一般的に言われる「物語の伏線」という現象を表すカタチなのかもしれません。

 
■2022年9月13日(火)
■LLL・・・イカの文字。
追い抜き追い抜かれる構図はイカのカタチに似ています。
■2022年9月14日(水)
■一日一文章トレーニング。

「スライス方式」

さて、インフレ円安で輸入ものの価格は上昇します。国内で生産する物でも海外から輸入した材料やエネルギーを使うので何から何までの何でも価格が上昇します。これらは早くからの企業物価指数の上昇や海外諸国のインフレ状況を鑑みれば、皆が予想する通りの展開だと思います。あまりニュースにならないけれども為替も変動率を最初の基準からもうすでに20円も余裕で超えているので新しいフェーズに入ったように思います。メリット・デメリットは当然あるものの生活を営む国民にとって物価上昇は幾分もの利益をもたらさないことは生活していればわかることであります。そこから利益を得る人達というのはそのポジションを故にその利益を得る人達ということとなります。勿論、その人達も生活をする上では不利益は被りますが、それ以上の利益を業務上得ていることになります。それらは借金の生命網かもしれないし、経済思想、若しくは単なる投資のポジションなのかもしれません。世界情勢に飲み込まれずに日本一国で保てる方法があるのか?もよくわかりませんが時代の変換点にはいろんな事が同時に起こるものです。マスクを続ける国民を見て臆病でバカであると言う国を動かす政治家や有識者がカルト宗教と癒着するニュースを目にすると、投票率の低い選挙の命運を握っていたのが組織団体であることのヤバさが白日の下に明らかになります。そのような世の流れで日本国民が未だマスクを外さないことはもはや「同調圧力」ではなく、それは「自己防衛」であると確信できます。西部開拓時代にカーボーイが拳銃ぶら下げて自分を守ることと同じ。保安官も街の人も誰も信用していない状況と同じです。確かに事の始まりのある一時期には「同調圧力」は確かに存在していました。それは時間を経て「自己防衛」と「他人への配慮」に変化していったような気もします。庶民感覚で考えると何か病気にかかってもまともに治療もできないかもしれないと考えるならば、世の中が安定するまではマスクを離さずに自分自身の体は自分で守ろうと思うのは当然のことであります。国民生活に関わるインフレや円安みたいなものも日銀・政府の無策。長年の経済政策のツケが世界の趨勢に対応する手段をなくしてしまい嵐が過ぎ去るのを待つだけが物価政策だと国民が感じるのであれば生活の「自己防衛」を考えることは当然のことであります。要はこのような物価上昇が大変な時には安いものを買って食べることが賢明なことであります。一般的に高いと思うものを買わなければ高いものは市場によって価格が調整されます。日本の場合は価格設定が硬直しているので時間がかかったり変わらないことも考えられますが・・・。そこでキャベツ。大きくまるまるとした旬のキャベツが美味しく安く食べれます。キャベツの切り方にも新しい切り方を考案しました。これまた常識かもしれませんが。それは芯の部分を真横にスライスカットする方法です。キャベツの底の部分を真横にスライスカットすると、食べれる部分も切り落としてしまうような気もしますが大丈夫。いつも捨てる芯の部分を大幅にカットするだけなので後から芯部分をカットする手間を省け、また、芯の固い部分を薄くなり一挙両得。そして、葉の隙間に包丁を入れるとパコっとキャベツの葉を一枚一枚外すことができます。インフレ時代を賢く生き抜く方法って何なのでしょうか。

 
■2022年9月14日(水)
■イカを作り込む。
■2022年9月15日(木)
■一日一文章トレーニング。

「2マメは嫌だ」

 旬といえば枝豆。枝豆は茹で上げた直後からついつい、つまみ食いしてしまう食材です。なので、実際に食べる頃にはもともと出来上がった量から幾分減少した感じで食卓に並ぶことになります。そうすると枝豆を食べる分量が少ないので物足りなくも感じます。世の中の常として物足りないぐらいが丁度良いとの考えもありますが、ならば、2〜3袋と多めに枝豆を購入して茹でれば枝豆もイッパイ堪能できて満足度も高まるかもしれません。たくさん買うのならば枝豆の質を失敗したくはないものです。最近、スーパーの特売コーナーで販売される枝豆は豆が3つ入っていないことが多いです。所謂、低ランク枝豆だと思われます。また、枝豆のパッケージが印刷により中身が見にくくなっていることが多いので2個入りの枝豆か?普通の3個入りの枝豆か?と識別することもやや難しい。小さなパッケージの窓から覗き枝豆の質を吟味しなければなりません。昔は枝豆と言えば3つ入りが常でした。ですが、今やそうではない2つ豆の枝豆の確率が高いとなると、その理由は単なる不作なのか?良いカタチの枝豆はどこか違う場所に出荷されているのか?と考えてしまいます。高級スーパーには当然あるでしょう。もしくは、カタチの良いものは中国やアメリカなどに輸出されて残った規格外のものを私たち日本人が食べているのでは・・・との邪念も浮かびます。価格の安い“もの”を買っているからだと言う意見もあるかもしれませんが1袋300〜400円ぐらいなので、そんなに安いとは思いません。全部2個豆に遭遇する機会はますます増えています。もしかしたら、これが円安の現実なのかもしれません。良い物は外国へ出荷され。規格外の豆は私たち国内の胃袋へ。まー全ては推測ですが、そのようなことはウソであって欲しいと思います。

 「インフレが財政圧縮の手段であり道具である」と考えれば今、世界中で起こる高インフレは財務当局にとり債務残高を圧縮できる良い機会だと考えるかもしれません。その理由はインフレになれば雪だるま式に増えた財政赤字を一気に圧縮することができるからです。ですが、世界の通貨当局は支払うコスト(金利)が増えたとしてもインフレ退治が重要だと判断して動いています。(財政危機が表面化する方を選んでいる)ほぼ日銀とチャイナ以外の全ての国。これは「国より人」が大切だと考えているからと思われます。このような世界中の通貨の金利差により当然円安は進みます。これはデフレだったとか、人件費が上がっていないとかの屁理屈を抜いても究極的には人の生活を見ているのか?見ていないのか?の違いのような気もします。インフレで財政圧縮するということは国民に新たな増税を課すことと同義であります。”ぱんでみっく”や物価高で苦しむ国民にさらなるムチを打ち続けることは処刑執行人のようにも見えます。このように恥ずることなく「人より国」が大切だとの政策を実行できることは血が通っていない異様な感じです。失敗とは誰にしも失敗することではありますが失敗を失敗と思わないことは失敗を失敗でないかとも信ずることで???失敗を認めることはつらく悲しいことであります。諸外国の政策はそのような異次元の円を反面教師にしているかもしれません。かつてのイギリスはこのインフレで財政政策を圧縮することに失敗し、アメリカも失敗して1996年を100とすると1970年のCPIは20であったことを考えると26年間でものすごい物価上昇を経験したことになります。このような経験則からFRBは景気を犠牲にしてもインフレ退治をするという強い決意を持っているのかもしれません。多分、通貨の番人がアクションを起こすことで通貨の信認は国民に行きわたるのだと思います。※CPI(消費者物価指数)はインフレ率ではありません。イギリスには鉄の女がいて規制緩和などの政策が推し進められ第三の道でさらなる改良されて今のイギリスの発展があります。アメリカは次々と新しい産業が生まれては古い産業は淘汰しながら常に発展しています。日本にはどんな経済思想があり、どのような設計図を作るのでしょうか?適当なことを言っていますが風に流されたまま漂流するのは嫌です。

 
■2022年9月15日(木)
■イカのお土産(イカダンサーズ)。
■2022年9月16日(金)
■一日一文章トレーニング。

「排水溝の掃除」

朝晩が秋のようであっても昼間は汗。
暑いと思ったら意外と涼しくも感じるが、ですがやっぱり暑くて汗が出る。
いやはや毎日毎時間で感じる気温が異なります。
これが季節の変わり目なのかもしれません。

ということで。

昨晩、キッチンの排水溝のお掃除をしました。
お風呂に入る直前、水切りネットを交換するついでの排水溝掃除。
ついでというよりも排水溝の掃除とはなかなかの一大イベントです。
よくわからないネバネバしたものや塊が不着するギトギトベタベタの世界は一種のホラー。
顔をしかめ「うわ〜うひゃ〜」と言いながらゴミを拭き取りビニール袋の中に捨てます。
排水溝の映像とは血が飛び交うスプラッターの次、虫に襲われる映画に匹敵する怖さがあります。
それは何か良くわからないヌルヌルが排水溝に溜まり逆襲する映画。
ゴボゴボと音を立てながら排水溝からネバネバな奴が出てきて私たちを襲います。
あのキモチワルイぬるぬるが体に纏わりつくと考えるだけでも蕁麻疹が出るので、人を100%不快感にさせる能力を持つ映画です。
ぬるぬるの中には人の体を若返らせる謎菌成分があり排水溝に襲われた老若男女がピチピチの超人となり街を汚物まみれに汚します。
細菌学者VSボスぬるぬる+ぬるぬるに襲われた人々のバトル。
ネタバレすると細菌学者がぬるぬる成分を解析して大金持ちになるビジネス・サクセスストーリーです。
LOVE有り動物有りの2022年秋の映画、正にどうでもいい低ランク映画な予感。
整った生活を送る人々はそのような汚れを細かく清掃しているのかもしれませんが、横着は排水溝の流れが悪くなってから掃除します。
なので、排水溝のお掃除とは毎回ものスゴイ光景を目にすることになります。
「こんなに汚いものを毎日流してゴメンね」と言うことで、いつも同じようなことを考えているような気もします。
一日一文章トレーニングも毎日どうでも良いようなクソ文を流し続けているので、文章の排水溝もとても汚れている可能性があります。
流しっぱなしは良くないので、たまにはパイプ掃除は必要かもですね。

 
■2022年9月16日(金)
■イカの研究。
■2022年9月17日(土)
■一日一文章トレーニング。

「枝豆」

「変化とは些細な部分から始まる」かもしれません。
これは海外の偉人の言葉ではなく私の言葉なので何の信憑性もありません。
ということで。
早速2つ豆か?3つ豆か?そのような枝豆の数の違いを調べます。
今回検証するのは群馬県産の「味緑」という品種。
2022年9月12日にスーパーで369円(税抜き)で購入した枝豆です。
「味緑」とは枝豆の味と茶豆の香りを持つ品種のようです。
枝豆の消費税が10%か8%なのか?よくわからないので税抜き価格で表示をしています。
ちなみに、前回食した2マメばかり枝豆は特売品の山形産299円(税抜き)の枝豆です。
この枝豆を選んだポイントはパッケージの窓から3豆を確認できたこと。
また、枝豆を持った時の重量感が他産地の枝豆を持った時と比べてもずっしりと重く美味しそうに感じたからです。
枝豆の袋にはグラム数などの表記はありません。
なので、一袋に枝豆が何個入り一粒何円ぐらいするのか?枝豆のデータを記録します。
1袋に61個入りの枝豆。
2豆入りの枝豆:46個
3豆入りの枝豆:15個
グラム数は286グラム
枝豆1個の値段は6円ぐらい。
マメ一粒の値段は2.7円ぐらいです。
安いけど、よくわからない相場感です。
2つ豆のような顔をした3豆入りの枝豆が一つ有りました!
全体の24%が3つ入りの枝豆となりますので、やはりほとんどの枝豆は2つ豆となります。
もしかしたら、3つ豆の枝豆ができる確率よりも2つ豆ができる可能性が高いのかもしれないし、出荷時に分別して分けて入れている可能性もあります。
こればっかりは実際に枝豆を育て収穫してみないとわからないことです。
ということで、いろんな所でいろんな枝豆を購入して枝豆の数量や2つ豆3つ豆の割合等の情報を今後も記録していきたいと思います。

 
■2022年9月17日(土)
■イカの武将。
■2022年9月18日(日)
■一日一文章トレーニング。

「枝豆の次数」

いやはや。
食べる枝豆が2個入りか3個入りかなんて考えることもなかったので、過去にどのような枝豆を食べてきたかは全く記憶にありません。
マメ数に記憶にないと言うことは好きな枝豆をたくさん食べてきた幸せ記憶だけが頭に残ります。
もしかしたら枝豆の中身の数についても定期的に話題にしているような気もします。
毎日文章を書いていると書いた次の日から次々に書いた内容を忘却します。
それは文章化していれば読めばいつでも思い出すことができるので容易く忘れることができます。
このような考え方を医者は認知症の前症状と診断するかもしれません。
ですが、忘れることは良い面もあるかもしれないと若干思います。
文章に下水管の機能があるか?ないか?と先日考えましたが、流されずに長時間記憶に残るものとは油つくギトギトとしたホラーなゴミのようにも感じられます。
それはその内に水流を詰まらせて感情を溢れさせるかもしれません。
過去の彼方に流されたものは何の怨念も持たない爽やかな出来事です。
なので、忘れて流すことはそんなに悪いこととは思いません。

ということで。

枝豆を絵に描けと言われると間違いなく3マメ入りの枝豆を描きます。
2個入りの枝豆とはステレオタイプな枝豆像としては弱い。
そこには枝豆と言えば3つ入りの豆という先入観があります。
これは個人のイメージというよりも社会全体で持つ枝豆のイメージに近いと思います。
昨日はそんな枝豆の数を数えたら3つ豆入りの枝豆が少数派であり、もしかしたら、枝豆とは2つ入りが主流かもしれないという3つマメ入りの固定概念にヒビが入りました。
3つ入りの枝豆は妄想の類かもしれないと今まで食べてきた枝豆は何だったのか?と弱気になる今日この頃。
昨日は枝豆にサツマイモ、少し秋を感じる味覚を美味しく頂きました。
持った重み、パッケージの上から3つ豆具合を厳選した枝豆は今期一番美味しかった枝豆です。
枝豆を食べ始めたらやめられない、止まらない感じで61個の枝豆は一瞬にして胃袋の中に納まります。
そうしてテンポ良く食べる枝豆にはリズムがあることに気づきます。
2つ豆は1プッシュで食することができます。
所謂、1次のアクション。
一方、3つ豆入りの枝豆は2ないし3次のアクションで食べることになります。
掴む動作を入れると4次かもしれません。
いやいや、手についた塩をペロペロ、又はティッシュで指を拭き取りながら食します。
そして、枝豆の皮をポイっと捨てます。
これは6次のアクションです。
時短、アクション数を減らすことを考えると2マメ入りの枝豆はポンポンとテンポ良く食べることができます。
1アクションで食べることができることのメリットは大きいです。
3個入りの枝豆ではプッシュするポイントを失敗すると豆が口から外れて明後日方向に飛んで床に転がる可能性もあります。
食事中に転がる枝豆を探して拾う手間は横着にとっては少し面倒。
枝豆は3個入りで見た目良し、それでいて全ての枝豆が3個入りであって欲しいと思うのが私の願望です。
けれども、食べることを考えると2個入りの枝豆も食べやすくてそんなに悪い感じもしません。
胃に入れば全て同じ。
心変わりは秋の空、このことを「質実剛健」と言うのかもしれません。
物事の良し悪しを一概に決めつけることは良くないと枝豆先生は言っているのかもしれません。

以下枝豆を食べる行動を書き出しました。
枝豆を食べることは何か夢中になることで行程を書き出すと案外せわしない食事です。

(2個入り枝豆)
1次:枝豆を掴む。
2次:枝豆を1プッシュ→2マメ入りは同時にお口にイン。
3次:手を拭き取る。(毎回ではない)
4次:枝豆の皮を捨てる。

(3個入り枝豆)
1次:枝豆を掴む。
2次:枝豆を1プッシュ→1/3マメ入りは同時にお口にイン。
※私の場合3個入りの枝豆の1回目のプッシュは1マメごとのプッシュします。
3次:枝豆を1プッシュ→2/3マメ入りは同時にお口にイン。
※2/3と3/3を同時にプッシュすることもありますが、その場合失敗して枝豆が床に転がる場合もあります。
4次:枝豆を1プッシュ→3/3マメ入りは同時にお口にイン。
5次:手を拭き取る。(毎回ではない)
6次:枝豆の皮を捨てる。

 
■2022年9月18日(日)
■デフォルメされたイカ。
■2022年9月19日(月)
■一日一文章トレーニング。

「巧言令色鮮し仁?」

質実剛健」の反対を調べたら「巧言令色」で「巧言令色鮮し仁(すくなしじん)」とあります。
四字熟語を飛び越える「鮮し仁」の謎の文字?
「鮮・し・仁」の意味がわからないのでネット検索すると孔子(論語)の言葉のようです。
言葉巧みに飾り立てて、取り繕ろうとする者に「仁」の心がないという意味。
「仁」とは何のことなのでしょうか?
孔子とは1ミリも知らぬ存在ではありますが「仁」の心とは何となくは理解できるもの。
ですが、それが何であるかと説明するには朧気でぼんやりとしたものでもあります。
具体的なものを探すと映画「仁義なき戦い」があります。
インパクトのあるネーミングですが、これは恐らく「仁」も「義」もなくなった無秩序な状態の映画だと思われます。
観たことも、観ようとも思わないタイプの映画なので内容は全く知りませんが、多分ヤクザの内部分裂で人間関係もぶっ壊れて戦争になる話だと思います。
最終的に「仁」や「義」をもって組織を統一するかもしれないし、「仁」や「義」がなくなると結局、誰もいなくなり平和(ピンフ)な世の中になったお話なのかもしれません。
「仁」や「義」とはこの令和時代には少々暑苦しい言葉でもあります。
「仁」を辞書で調べると徳の基礎概念で思いやり慈しみなどの人と人を繋げる心の概念の一つとあります。
・・・
この「仁」とは人を繋ぐやさしさ溢れるネットワークの繋がりなのでしょうか?
・・・
そうそう、枝豆の殻のことを「莢(さや)」といいます。
一個二個三個の枝豆が2粒3粒とサヤの中、その内にゴマメがポロリと出るかもしれませんし、全ては程よくサヤの中に収まるのかもしれません。
枝豆のさやの中のマメ数が2個か3個か気になり調べている内に辿り着いた先が「巧言令色鮮し仁」。
それは何やら意味深な言葉であり、何よりも見た目重視な安直な私にとって少々耳が痛いお話でもあります。
3つ豆入りの枝豆を求める心が「巧言令色」で2つマメの枝豆が「質実剛健」であると・・・何となく言いたいことはわかります。
これが偶然であれ必然であれ、物語を繋ぎとめるキーワードの繋がりを書き出すことで「インフレ円安」から「巧言令色鮮し仁」へと話しの道は繋がります。
でもね。
やっぱり私はどう転がっても3つマメの枝豆を探してしまうと思う。
持った時のずっしりとした感触で枝豆の良し悪しは何となくわかる。
3つ豆をパッケージ上からたくさん目視できれば、それは買う時の選ぶ重要な指標となるはずです。
3つ豆のデメリットは食べる時の行程も増えることも知った。
なのに、それでもやっぱり3豆を求めてしまう心とは何なのでしょうか。
まー2マメでも満足して美味しく食べているので、このような話はどうでも良いと言えばどうでも良いお話ではあります。
欲望の塊、巧言令色、何と言われようとも説教じみたお話が目の前の現物を超えるにはまだまだそれを超える何かが必要な気がします。

Pre1)・・・文章は何となく連続しながら継続しています。
1) インフレ円安
2) キャベツのシン(新・芯)の切り方
3) 枝豆の2マメ3豆
4) 排水溝の掃除
5) 群馬県産の枝豆を検証
6) 文章の中の排水溝
7) 2つ豆は意外と食べやすい
8) 質実剛健
9) 質実剛健の反対語「巧言令色」

 
■2022年9月19日(月)
■イカデザインの研究。
■2022年9月20日(火)
■一日一文章トレーニング。

「サヤ」

豆にとりサヤとは大切な家みたいなもの。
固く立派なサヤがなければ鳥に食べられるかもしれません。
けれども、鳥が食べなくとも最終的に私が食べるのですが・・・。
カタチに沿ったピッタリのベットは様々な衝撃やストレスから守ってくれます。
農家は立派なサヤから作物の生育状況を推測することも可能です。
莢のカタチとは中身の良し悪しの写し鏡でもります。
植物にとってのサヤとは「莢」ではありますが、武人にとっての「鞘」とは武器である刀を収めるサヤとなります。
「莢」と「鞘」二つの「サヤ」とは中身をやさしく包み込むピッタリの家であり収納容器。
「元の鞘に収まる」とは結局、カタチあればこその元の場所に戻ること。
「鞘当て」とは街角で侍の持つ刀の鞘と鞘がぶつかり緊張感が走る言葉です。
気の早い侍であれば、次の瞬間に刀を抜いて斬りかかっているのかもしれません。
「鞘当て」は争いが起こる予兆やきっかけの場面として使われます。
「利ざや」みたいものもあります。
こちらは商人の持つ鞘であり「差や」とダジャレを含んでおりますがビジネスの価格差を表現する言葉となります。
商人の持つサヤはお金の入る容器であり、こちらは豆や刀程のいつもピッタリとカタチに沿うとは限りません。
「順ザヤ」とは順当に価格が推移していることを意味しており、買った時の値段よりも売る時には高い相場になっていることです。
逆に「逆ザヤ」とは買った時よりも今売ると損して売らなければならない状況のことです。
商人とは常に利益の追求だけでなく「損してとく(徳・得)」を取れとの教えもある少し複雑な生き物でもあります。
なので、商人の持つサヤとは一癖も二癖も異なるカタチをしているはずです。
もしかしたら、私たちには一人一人にはそれぞれの大切なサヤがあるのかもしれません。
それは中身を守る容器ではありますが、そのサヤがぶつかったり、傷ついたすることでも争ったりもする不思議な器。
それは単なる収納容器ではない中身相応の分身みたいな存在のようにも思えます。
なので、単なる枝豆とは言え、単なる枝豆の殻の話ではなく誰かの大切なサヤに触れるのかもしれない話なので慎重な言い回しが必要かもしれません。
 
■2022年9月20日(火)
■イカの研究はつづく。

■2022年9月21日(水)
■一日一文章トレーニング。

「フランスパンと枝豆」

昨晩はクーラーを停止して窓を開放すると冷蔵庫のような冷気が流れ込みます。
部屋に溜まる夏の熱気は涼しい空気によって次々と駆逐されます。
すっかり涼しいというか寒いくらい。
流石に寒いので扉は閉めて寝ることとします。
ここ数日間、台風が運んでくる蒸し暑い空気にはうんざりしていました。
ですが、台風一過ですっかり空気が入れ替わってしまうと夏も終わってしまったような気がして少し寂しい。
とはいっても、夏らしいことは何もしていません。
過ぎ去る夏の思い出とは何があるでしょうか?
暑くて暑い太陽光を避けていたぐらいで、強いて言うならば今年に入ってからは旬な食べ物を積極的に食べるようになったこと。
食いしん坊な私が夏野菜や夏のフルーツを積極的に食べていたような夏の記憶です。
そして、昨日は寄り道して長いフランスパンを買い物しました。
外に出ると置いてきぼりの台風が強い風と雨を吹かしています。
空は黒い曇天色でこれはヤバイかもと思ったけれども先を進むと当然、傘は飛ばす勢いの突風と雨に晒されます。
ザザザーと道を洗う雨の痕跡は見えるものの、当然風は見えないので突然の突風に備えなければなりません。
その時に邪魔になるのがカバンから目一杯飛び出すフランスパン。
何で?こんな風雨が強い時にこんなにも長いものを買ってしまったのかと後悔します。
長いフランスパンは切るのも面倒なので嫌われ気味ではありますが、私は固い表面のあの感じが好き。
なので、雨でビショビショに湿ったフランスパンは見たくないものなので必死にガードします。
傘にフランスパン、雨から守らなければならないフランスパン。
雨が小降りになると傘を閉じてフランスパンが濡れないように体でガードしながら先を進みます。
フランス人でもないのに長いフランスパンを台風の時に買うことは何とも可笑しいこと。
フランス人はよく裸のままの長いフランスパンをかじりながら歩いているけれども、雨の日もフランスパンの売り上げに変化はないのでしょうか。
そして、私は台風の時にはフランスパンを買ってはいけないという呆則を得ました。

ということで。

昨晩は枝豆を蒸します。
「人にはサヤと呼ばれる何か大切なものがあるのかもしれない」などと語りながらも、やっぱり気になる枝豆の3個入りの状況。
今回使用した枝豆は福島県産の大容量枝豆550円。
枝豆の種類は昔からある普通の枝豆。
グラム数を量ることを忘れてしまいましたが大容量で151個入り。
内訳は・・・
3豆が26個
2豆が121個
1豆が4個
3豆入りが入り割合は17%でこれまたほとんど2豆です。
サヤに収まる枝豆の値段は1つ3.6円
いやはや、枝豆のほとんどは2豆です。
先日の美味しい枝豆と平均すると全体の2割が3つ豆で、3つ豆の枝豆が希少だと意識すると積極的に2つ豆から食べてしまう貧乏性の私がいます。
もうそろそろ枝豆の季節も終わりです。

 
■2022年9月21日(水)
■イカの研究。昆布風の服。
■2022年9月22日(木)
■一日一文章トレーニング。

「肥料」

2マメか3豆か
それはしつこい豆話ではあります。
枝豆が成長する時に器の成長にあわせて実も育つのか、実に合わせてサヤも成長するのか気になりネットを調べます。
それは器がカタチを決めるのか?カタチが器を決めるのか?気になるところ。
しかし、それは良くわからないこと。
そのようなことを調べていると異なる見識を得ます。
それは2マメか3豆の差には窒素などの肥料が関係しているのではという考えです。
枝豆は早取りの大豆でそのまま収穫せずに放置するとその内に大豆になります。
納豆やお豆腐になるあの大豆と同じ。
大豆は土にパラパラと撒き土を被せて良く踏みしめることで簡単に作付けできます。
所謂、水やりも不要、除草するだけのほったらかし農法でも成長できる作物です。
そのような理由から外国の乾燥した広い土地で機械的に大規模農園の経営が可能な作物なのだと思います。
一方で育苗(いくびょう)から育てる農家もありますが、これはとても手間のかかる作業です。
育苗とは苗を育ててから畑に植える農法で、この農法で作られた枝豆にはびっくりするぐらいのほぼ3つ豆の枝豆がたわわに実っておりました。
なので、2マメと3豆の差は肥料と育て方の差ではなかろうかと考えました。
また、育ちの良い3豆の枝豆を根を引っこ抜くと根粒菌が根付いております。
根に付くジャガイモみたいな丸いのが根粒菌、何かしらの微生物が住んでおり大気中の窒素をアンモニアに変換して大豆に供給する役割があります。
根粒菌はマメ科の植物に多く存在しておりマメ科を育てることは土壌改善に寄与できるようです。
そこで、円安とインフレ、2マメと3豆の違いについて繋がります。
人工的に化学肥料のアンモニアを作り出そうとすると超高圧力と500度というエネルギーを加えて窒素と水素を化学反応させる必要があります。
現在、円安と世界的なインフレにより肥料価格は高騰しておりますが、その理由は化学肥料を作るのに膨大なエネルギー消費が必要だからです。
私たちが毎日呼吸している空気のほとんどは窒素です。
その次に多いのは生きていくことに必要な酸化の燃焼材である酸素、地球温暖化が叫ばれる二酸化炭素はちょっぴりしか存在していません。
そのような大気中に溢れる窒素はものすごく安定しているが故に分解するにはとてつもないエネルギーが必要となります。
よってエネルギー価格が高騰すると肥料価格も上昇することになります。
もし、私たちが農家であるとした場合に高額な化学肥料を大量に消費して作物を育てようと考えるでしょうか。
少しでも減らしたいと考えるのが人の営みです。
そのようなことが、おそらく世界中で起こっていると考えるのが一般的に思いつく空想力です。
作物の収穫量が減ればその分だけカロリーベースで人が摂取できる栄養も減少することが予想されます。
日本のインフレ円安は諸外国と比べてまだまだ大した問題でない(笑笑)との意見の学者・専門家の方々は多いのですがエネルギー価格の高騰とはそのような意味に於いて問題の質が異なる現象だと思います。
人工的に作ると物凄いエネルギーが必要なアンモニアを根粒菌は自然に作り出して土壌を豊かにする菌ではありますが、いづれにしても土壌を作るのに様々な肥料は必要となります。
気候状況やその他、様々な要因は絡み合うでしょうが、このエネルギーのインフレが長く続けば食料の危機的な状況がぽつぽつと散見されるようになるのかもしれません。

 
■2022年9月22日(木)
■イカ顔の研究。
■2022年9月23日(金)
■一日一文章トレーニング。

「メモ帳」

今日は何も思いつきません。
そんなことの為に毎日気づいたことをメモ帳に記録しています。
そうしないと「一日一文章トレーニング」のネタも溜まることなく朝起き一番何を書くかと路頭に迷うことになります。
今もなかなかの迷路を走っておりますが。
その意味ではメモ帳とは心強い味方です。
ですが、一つ問題もあります。
それはメモ帳の走り書きが汚すぎること。
例えば判読不能なメモ帳を書き出すと「人のとこちょうを見て●かなと思う」と書かれております。
内容は全く意味不、●文字についてはもはや読めません。
そのような謎の暗号文をじっと見ていると「人と蝶を見て〜かなと思う」とも読めます。
おそらく、この頃は黒色とオレンジ色の珍しい蝶を度々見かけることがあってネタにしようと何度か撮影にトライしていました。
携帯をモゾモゾと出している間に蝶々はひらひらと飛んでいってしまい結局、一枚も蝶を撮影できませんでした。
蝶とは想像よりも意外に動きが速く撮影しようにも小さいのでカメラに収めることは難しいものであります。
「人と蝶」のメモはそのような関係性に何かしらの面白さを見つけたのかもしれません。
その内容は今となっては何かわかりませんが、どの角度から考えてもどうでも良い内容だと予測できます。
そんなこともあって今まで文章で触れられることはありませんでした。
メモ帳の問題は全てに於いて字が汚いこと。
「ふっ」と思いついた瞬間に立ったまま、歩きながら書くとなれば、それは汚字となってしまうことは仕方がないことであります。
しかし、椅子に座りリラックスした状態でじっくりとメモすることはメモ帳の本分ではないような気がします。
スマホ入力にすればと言うお話もあるでしょう。
ですが、私は断然読めない乱筆だったとしてもメモ帳派ではあります。
それは携帯に文字を打つのが遅いこともあります。
タイプしていても「書いて(入力)」間違えて「Delete(Back space)」を押して、また「書いて(入力)」を延々にやっていると辟易して内容も「何を書いていたっけ?」と忘れてしまうかもしれません。
最初は小さい字でメモしていましたが、汚いわ、小さいわ、で読めないので大きい字で書くようにしました。
大きな字になったところで読めないことに変わりありません。
どちらにも、最初の1ページ目はとてもキレイに丁寧に書かれますが、メモ帳の後半にはものすごい乱筆のアホっぽさが滲み溢れる勢いのあるメモとなります。
ひらひらと掴みどころのないメモ蝶(帳)の意義とはキーワードの提供だけでも十分に価値があるのかもしれません。
現にこれをネタに今文章を書けました。

意味不明なメモだけでなく、ちゃんとしたメモもあります。
「9月16日は木々のミドリ色の質が変化」と書かれています。
日付があることは良いことです。
9月の中旬辺りから木々の緑色に色の幅が出てきた変化について記録しています。
最近、赤茶の緑色、黄茶の緑色、暗い緑色に明るく薄い緑色と様々な木々の緑色を見つけることができます。
純粋に落ち葉も増えてきたので変色した葉っぱも多く、そのような葉っぱが全体として見ると木々の色にバリエーションを与えているのかもしれません。
夏場の強い日差しに照らされる木々の緑色がどんな色だったのかと考えるとコントラストの強目の日差しと木陰、黒色と葉の緑色が強調される木々の色でありました。
そもそも、毎日ほぼ暑いとしか言っていないような猛暑の中で「あの木々の発色が・・・」なんて観察している人は少しおかしなところがあります。
このように色の違いに気づくのは気候が涼しくなり、ようやく景色を眺める余裕ができたからかもしれません。
いづれにしても、木の色が変わってきたことだけで一文章を書くことはそれはなかなかにハードルが高いことなので、このような文章にくっつけることでメモ帳記録を回収できました。

 
■2022年9月23日(金)
■イカの顔をアイコン化。
■2022年9月24日(土)
■一日一文章トレーニング。

「豆は器から育つ」

部屋の加湿器も77%でジメジメと台風接近の雨降る天気。
一方、ベランダの植物たちにとっては恵みの雨でもりもりと元気です。

ところで。

枝豆がサヤから育つのか?豆から育つのか?問題の正解がわかりました。
【答え】枝豆はサヤから育ちます。
枝豆は日光をたくさん浴びて栄養分を摂取して先ずサヤを育てから次に豆を育てます。
枝豆の成長に何かしらの正義がある訳ではありませんが、自然界で生き延びる豆の戦略の一端を垣間見ることができます。
要は立派な器を作れば中身はその器の大きさに合わせて成長するということになります。
なので、2マメは2マメのサヤが出来た時点で2マメの運命を背負い。
3豆は3つのサヤを持つことで3つの立派な豆を育てる宿命を負います。
この2マメ3豆の「差は」どこにあるのでしょうか?
「豆は器から育つ」ということで、おそらく、実を付ける前の成長段階で決定し、それは日当たりや土深く根を伸ばす土壌の質(環境)に影響しているように思われます。
たまに、2マメのサヤの中から3つの枝豆が発見されることもありますが、それは想定外の器を飛び越える栄養価を後ほど得て形成されカタチとなります。
枝豆の成長に人生を習う・・・という考え方はおかしな話ではあります。
ですが、枝豆の成長戦略に沿って何かを育てようと考えるならば最初に器は大きく立派な大風呂敷を作ることは理にかなっているのかもしれません。
だからと言い品種改良で4豆5豆6豆と欲張りすぎると栄養価が全体に行きわたらなくて小さな貧弱な大豆となる予感もします。
また、世の中の小さなことでイライラする私のようなちっぽけな器ではなく、この人は大きな器を持っているというような人も確実に存在しています。
それは枝豆の2マメと3豆の差とよく似ているように思います。
そのような大きな器を持つ人というのは後天的に得たものと言うよりも、もしかしたら先天的に得た大きな器なのかもしれません。
いづれにしても、生育途中でカメムシに食い荒らされるかもしれませんし、日照不足で畑全体で栄養不足となることも考えられます。
そのような環境状態とは運命だとしても2つと3つのサヤを決定する「差は」苗の若い時の栄養状態に左右されるように思います。
その考えに立てば子供たちにとって窮屈で養分の少ない世の中というのは人の器にとっても何かしらの影響はあるのかもしれません。
実際に枝豆を育てた訳でもなく、ここに書いていることはネット情報を拾ってきただけなので浅はかな頭でっかちな意見ではあります。
作物を育てる人の人を育てる概念とはどんな考えなのか少し気になります。

 
■2022年9月24日(土)
■かわいいイカの研究。
■2022年9月25日(日)
■一日一文章トレーニング。

「にんにくを丸かじりする野蛮人」

昨日はずいぶん雨が降りました。
雨の日にはいろんな匂いがするものです。
土の香りに空気の香り漂う雨の香りです。
そのような雨の香りとは空気中の菌の香りのようですが、ここ最近は私の鼻の中には強烈な香りが記憶されています。
それはニンニク臭。
数日間ズーっと鼻の中で記憶しています。
それは先日、鳥のもも肉と一緒にニンニク欠片を芋料理のように焼いて食べたニンニクの香りの記憶。
いやはや、鳥もも肉は本当に美味しくできました。
鳥の皮の部分が香ばしく茶色に焼けて食べると表面はパリっとして中はジューシー。
牛やブタにも劣らない極上の風味。
そのような鳥肉をさらに美味しくするのがニンニクです。
細かく粉砕することなくそのままの姿焼きにして食べると、ニンニクのすごい香りがズドーンとお口の中に広がります。
その香りの広がりは頭の血管が弾けるばかりの勢いの香りです。
これだけの量のニンニクを食べれば、もうどんだけのニンニクを食べようとも恐怖はありません。
そのような訳で、ここ数日ニンニクの臭いが鼻の中に記録が残っています。
流石にもうニンニク臭は残っていないと思います。
残るはニンニクの記憶です。
焼き方は塩味のみで、それぞれの両面を5分づつぐらいじっくり焼きます。
ニンニクも一緒に焼くと鶏肉に香りが移ります。
長時間焼いてしまうとニンニクはすぐに焦げてしまうので程よい焼き色の状態で先にお皿にあげます。
品種はスペイン産の紫っぽいニンニク。
最近の国産ニンニクは香りが弱くなったような気もします。
ですが、中国産のにんにくでは大容量で安すぎることが逆に何か怖いのでスペイン産のニンニクを選択。
ニンニク丸かじりの野蛮料理を食べても何かしらの体が元気になる訳ではありませんが、ニンニクとは少し入れるだけでも料理は確実に美味しく魔法の食材です。
リモート生活のメリットとはニンニク料理も臆せずに食することにあるのかもしれません。
枝豆を茹でても室内に枝豆の香りが広がります。
肉を焼いてもニンニクの香りが室内に広がります。
この家は何とも野蛮な香りで溢れているのでしょう。
香りが強いものは何故か美味しい、お腹が減ります。

ところで。

昨日はスニーカーを洗おうと考えておりましたがお昼寝をしてしまい洗うことができませんでした。
今日こそはゴシゴシと白く磨きたいと思います。
寒くなり水が冷たくなって来るとスニーカーのお掃除も億劫となります。
お湯を使うとしても裸足でゴシゴシ磨く必要があります。
なので、冬になり寒くなってからの靴磨きはちょっとしんどい。
なので、多分、今のこの時期が最後のスニーカーお掃除日和だと思います。

 
■2022年9月25日(日)
■スリムなイカ。
■2022年9月26日(月)
■一日一文章トレーニング

「スニーカーを洗う」

今朝起きてカーテンを開けると空に一本の太い雲が長く続きます。
超太な飛行機雲みたいな雲。
空気と空気の境なのでしょうか。
変わった雲、不思議な雲。
空が明るくなっていくに連れて雲もだんだん薄くなり今見ると雲はすでに霧散している。

昨日はスニーカーを洗浄しました。
お湯を溜めたバケツにスニーカーを放り込んで暫くそのまま放置して汚れを落とします。
次に靴の洗浄剤を靴に塗って棒たわしでゴシゴシと磨く。
白いスニーカーは白い泡を立てながらキレイな白色を取り戻していきます。
表面をゴシゴシと磨いたらソールのゴムの部分もゴシゴシと洗浄しますがゴム部分の汚れはあまり落ちません。
けれども、外を歩いて汚れた部分なのでそれなりゴシゴシとキレイにします。
シャワーで泡を洗い流してから再びバケツの中にスニーカーを入れて脱水、二足の白いスニーカーを竿竹の隅にひっかけて干して乾かすとボタボタと水がしたたります。
そのような白いスニーカーを眺めてやり遂げたことに自己満足します。
ついでに、お風呂の掃除もします。
夏の暑い間使用していない湯船にお風呂の洗剤を撒いて湯船にうずくまりながらゴシゴシと洗浄。
次にお風呂内に発生する汚いカビ類を見つけては次々にゴシゴシと磨いて洗い流します。
洗い水が外に飛び出さないようにドアを閉めるとお風呂内が物凄い湿度となり玉のような汗が出てきます。
夏の暑い時期でもかかないような大玉の汗。
お風呂場の椅子の汚れもキレイに洗浄して気持ち悪いカビ類は全て根こそぎ洗い流します。
排水溝のヌルヌルや髪の毛などもキレイに取り除いて洗浄。
ということで、靴掃除のついでにお風呂もキレイになって一石二鳥。

何故、スニーカーを洗浄しようと決意したかと言うと。
先日、電車に乗った時にドア付近で立っていると何か足元がベタベタするなと思い床を見ると汚れていました。
「あーやってしまった」と言うことで次の駅の人の下車に合わせて移動することにします。
椅子も空いたけれども椅子の前にも変な液体みたいな落ちているので別な場所に移動する。
所謂、外れ車両。
よく見ると1本のうどんのようなものも落ちていてナゼうどん?な気持ちになります。
その時に何か気持ち悪いと思ったので絶対に靴を洗おうと決意したのでした。
そのような危機回避能力には少し疎いところがあります。
なので、電車内の床のベタベタに気づかずに踏んでしまうことも多い。
とりあえず、靴洗浄日和な穏やかな日にホーラ・ルー(エルデン雑魚ボス)を倒した気分。
「オレはやった!」by ダクソ のメッセージを残します。

 
■2022年9月26日(月)
■関節を意識して描いたイカの研究。(三頭身)
■2022年9月27日(火)
■一日一文章トレーニング。

「辛さラグ」

辛いものは苦手です。激辛のカレー、パスタに本当に美味しくなるのか謎のフリフリかけてしまうタバスコ、※タバスコが一番マッチングするのは多分うどんです。必要か不必要かと問われればあんまり必要性を感じないホットドックにマスタード、生ものにワサビは殺菌作用もある気もするのでワサビは定番的に必要です。辛いものとは苦手ではありますが積極的に食べることはありません。ですが、それなりに摂取しているのも辛いものであります。その中でも唐辛子の辛さとは不思議な辛さであります。唐辛子入りの辛いものを食べると「辛い」や「熱さ」と感じるまでに時間ラグが発生します。それは海外と通信の時差。いやいや、もっと長いかもしれません。月やその他惑星と地球との距離ぐらいの通信の差があるかもしれません。勿論、地球圏以外に人はまだ生活圏を広げていないので宇宙との時間差は可笑しな表現です。人が宇宙に生活を求める頃には通信の手段ももっと高速な技術が開発されていることでしょう。なので、「こんにちわ」・・・(しばらくお待ち下さい)・・・「こんにちわ」のような唐辛子的な時間差は唐辛子のみが持つ独特なタイムラグです。もぐもぐもぐ>>>そんなに辛いか?>>じわじわと辛くなり>>>本当に辛いねとそんな感じ。それらは脳みそへの辛さを伝達する時間そのものです。舌から右手、左足を回り辛くなることはネット情報によるとカプサイシンという唐辛子の成分が口の神経細胞に伝わるのに時間のようです。単に舌が辛さに痺れて麻痺しているのかもしれません。私の体感では辛く感じるメカニズムはよくわかりません。甘さは瞬時に甘く、塩は瞬時にしょっぱい、酢は瞬時に酸っぱくて、苦いものは瞬時に苦くて、唐辛子のピリ辛さは異星間の通信ぐらいにゆっくり脳に届きます。なんとも不思議。「辛い」時間差は自分自身の味覚が何とも怪しげな味覚であることに気づかされます。その理由に、この唐辛子の辛い食べ物を思い出して文章にしているだけでも、なぜか舌が麻痺します。それは辛さよりも苦み。唐辛子な文章を書いているだけで舌にぴりぴりと痺れを感じることは疑似的に口の中に唐辛子が広がったような感じです。それはあまりよろしくない事なのかもしれません。そこで、お口直しにスッパイ梅干しを思い出します。父が夏場に天日干しする我が家伝統の塩が吹き出した梅干しを頭に浮かべるとお口の中に唾液が広がります。想像だけでいろんな味覚が広がるなんて、どれだけおめでたい味覚をしているのでしょうか。人の感覚とは何とも不思議なものであります。

 
■2022年9月27日(火)
■スーパーで生鮮食品のイカを観察。
すると、イカとは直線的な生き物であることがわかりました。
よって、直線的な改良を加えます。

 
■2022年9月28日(水)
■一日一文章トレーニング。

「宿借りのすすめ?」

そういえば、いつの日からかセミの鳴き声を聞かなくなりました。
最後にセミの鳴き声を聞いたのはいつの頃でしょう。
全く思い出せません。
季節とは日々刻々と移り変わっていくものではありますが、そのような連続する毎日の中で些細な変化に気づくことは難しいことであります。

ということで。

しつこく先日の枝豆のお話。m(__)m
枝豆の2マメか3豆の違いについて先天的な要素があることは何か救いのない考え方ではあります。
「枝豆」と「人間」、それは考えれば考える程によく似た者同士であります。
そして両方ともほったからし農法にても、それなりに良く育ち2割ぐらいは3豆として立派に育つこともできます。
一部のエリートとその他の人々、一般的な諸外国のイメージはこのような感じかもしれません。
2割と言えば、蟻の社会性なお話を思い出します。
2割の働くリーダー蟻。
6割が働き蟻。
2割のサボっている蟻たち。
この割合で蟻の社会が順調に回っているお話です。
人口が増えている状況であれば2割でもそれなりの3豆はたくさん生まれるので、ほったらかしもそれなりアリなのかもしれません。
これの気持ち悪いところは自然に2割な数字を作り出すところであります。
もしかしたら、この2という数字には自然に生み出される摂理と言うものがあるのかもしれませんし、これこそが「見えざる手」の働きかもしれません。
2粒と3粒の違いは視点の置き方で異なりますが0.66666であり、多い少ないかと考えるとその違いはやっぱり大きい。
土壌や環境を整えて手を加えれば多くの3豆も作ることは可能となりますが、これには多くの手間がかかります。
人手不足や費用対効果などを考えれば手を抜いての2豆な大豆を育てる意味はそれなりにあるような気がします。
それでも、やっぱり3豆を食したいと思うし、わいも3豆サヤ持ち仲間に入れてちょ〜とも思うのが人の心です。
ここでは2豆の生き方について考えようと思っていたのに「豆」の枠組みで考える限り「2マメ3豆」の枠組みからは抜け出すことはできません。
そこで、小粒な脳みそをフル回転して考えました・・・後天的な成長を目指す2豆たるがサヤを大きくする方法を・・・。
それはヤドカリのように器(サヤ)を大きく乗り換える方法です。
土地に縛られて栄養を摂取する農業的な方法から、幾分収奪的とも捉えられますが自分の体に合わせて器を変化していく生きていく生き方。
人はそれを「ヤドカリ生活」というかもしれません。
その時々の栄養に合わせて器を変化させる戦略の転換。
枝豆である限り先天的なサヤの大きさで人生は決まってしまうとなれば、そのようなサヤは捨ててしまいその時々の大きさに合わせたサヤに着せ替えることで、いつまでも栄養を摂取しながら成長できるかもとの考え方です。
変化とは常に最初は小さな変化だったかもしれませんが「ふっと」気づいた時には大きなムーブメントになっているものであります。
外部要因が常に変化しているならば、その時々の環境に合わせて「宿借り」することもそれなりの生き方かもと思います。
そして、私の生活も元からヤドカリっぽいところもあります。

 
■2022年9月28日(水)
■イカの研究。
再び線に丸みを持たせる。
イカ足のスカートを短くする。
頭身のバランスを変更。
手足10本は多すぎてすこす描くのがしんどい。
 
■2022年9月29日(木)
■一日一文章トレーニング。

「リュック」

この猛暑の中で学んだこと。
一部の中高生がだらしなく背負うあのリュックの背負い方は、あれはあれで機能的で意味があることであります。
それはリュックの重心がおしりの方まで下がるので背中に密着しません。
いわゆる、背中とリュックの間に空間ができます。
背中に密着しないことは背汗をかきにくいこと。
間違いなくピッタリとリュックを背負った時みたいな背中に宝地図のような汗をかくことはありません。
この背負い方は背中のシャツが汗でびっしょりとなることを嫌う子供たちが開発したリュックの背負い方であります。
確かに赤信号に変わる前に小走りするととても走りにくい。
重心が下でリュックが体に密着しないのでバックが大きく揺れます。
だらしなさとはファッションの一つであります。
それはささやかな抵抗かもしれない。
若い頃にはそういうことは往々にしてあるものです。
私の時代はペタンコなバックやリュックで学校に通っていたので、今の子供たちが重そうなバックを二宮金次郎ばりに背負っていることにある意味感心します。
辞書や教科書が詰まったカバンの中身は実はマーガレットやジャンプかもしれません。
そういうケースはうちらの時代にはよくあることです。
リュックには重い物は上に積むと運びやすい等様々なうんちくもあります。
重いカバンを持つ人はその人が背負う「人生の重み」を表していると言われることもある。
確かに買い物した食べ物の重みはずっしりと重く。
今日も一行も読まない重い本は単なる重石を運んでいるだけのことでもあります。
それらは精神を安定させるお守りのようなものかもしれません。
時折、とても薄くて小さいカバンの私にとってそれらお話は少し耳が痛い話です。
ペラペラカバンを持ったビジネスマンは「あいつは毎日毎日ほぼ手ぶらで・・・」みたいなことになりかねません。
iPad やノートパソコン、スマホがあれば持ち物なんていらないかもしれない時代に重い荷物を自宅から目的地に運ぶことは無駄に電車の電気消費量を増やすだけかもしれません。
IT化とはペラペラな荷物革命なのかもしれません。
ただ一つ言えることは、ビジネスバックの中にシルバニアファミリーの人形が紛れ込んでいたらほっこりと笑えます。
ドイツからやって来た人が電車の中でビジネスマンが漫画を読んでいることに大変ビックリしていたことがあります。
「あなたの子供たちは電車で漫画を読んでいるようになっているいかもしれません」
ということで、価値観とは時代と共に常に変化していくものであります。

 
■2022年9月29日(木)
■イカの側面。


■2022年9月30日(金)
■一日一文章トレーニング。

「物語の次数」

枝豆を買いました。
今回は安めの258円山形産枝豆。
価格も安いだけあって3豆の入り数も少ないみたい。
3豆を食したければ値段相応なものを買うべしかも?
さっそく、入り数等の詳細を記録します。
1豆)2個
2豆)6個
3豆)70個
総数)78個入り
1個あたり3.3円
グラム数)292グラム
1個あたりの重さ)3.74グラム

いつも重さを量るのは忘れてしまいます。
洗浄して塩と水がのっかった状態での計量なので3.6グラムぐらいが適当かもしれません。
1個あたり3.6グラムは過去3袋分のデータと同じです。
豆の重さ、サヤの重さに入り数の違いなど相違があっても1個あたりの重量が3.6グラムになるのは何か不思議なことです。
枝豆のサヤを切り落とし分別して微妙に調整しているのかもしれません。
3豆入りの割合は7%。
なんとなく、枝豆の季節はもうすぐ終わるような気がします。
そして、再びの栗も購入。
まるまるとした色艶の良い立派な栗。
色艶もキレイです。

ということで。

今朝は「物語の次数」について。
「物語の次数」とは要約して物語がいくつの次数のネットワークで構成されているのかを検証します。
物語は簡単でシンプルなものが良いので、遠い昔に教科書で読んだ新美南吉の「ごんぎつね」を選択。
内容は全く記憶にありません。
読む前の「ごんぎつね」のお話を予測すると弱ったキツネを助けたらキツネーランドに招待されて大判小判を持ち帰るお話を予測します。
(全然違うお話でした)

※以下完全にネタバレです。

1次:ごんぎつねについて(昔話)。
2次:ごんぎつねが兵十にいたずらをしてうなぎを盗む。
3次:ごんぎつねは兵十母の葬式を見てうなぎを盗んだことを後悔する。
4次:ごんぎつねは罪償いにイワシ屋のいわしを盗んで兵十の家に投げ入れる。
5次:ごんぎつねは兵十がイワシ泥棒に間違われて大変な目にあったことを知って再び反省する。
6次:ごんぎつねは山から栗や松茸を拾い兵十の家に置くようになる。
7次:ごんぎつねは兵十が友人に最近起こる不思議な出来事について話していることを立ち聞きする。(神の恵みかも)
8次:ごんぎつねは今日も兵十の家に栗を届けますが兵十の家から出てきたところを「あのうなぎ泥棒め!」と兵十の猟銃で撃たれて死ぬ。
9次:兵十は土間に栗が置かれた様子を見て不思議な出来事がごんぎつねの反省のしるしだったことを知る。

物語はシーンごとに6つの段落で分かれています。
物語の次数のネットワークの繋がりで考えると9次で物語は展開します。
動画も時短の為に倍速で観る時代、次数とはより短く早く終わらせたいものであります。
なので、次数展開で物語の粗筋を知ることはそれなりに親切で有意義なことかもしれません。

(つづく)

 
■2022年9月30日(金)
■動くイカ。