■2022年4月1日(金)
■一日一文章トレーニング。

「ホムペに音」

「ホムペ」とはホームページの略。
すごく懐かしい言葉の響き。
今は大体「エイチピー」と表現するのでしょうか?
多分、死語であるような気もするのですが「エイチピー・エーエム」な今に「ホムペ」の語呂はとてもかわいく感じます。
ホムペに音をつけるということで・・・

ほぼ、忘れておりましたがRoland SP-404 MK2 がやって来ました。
予約してから半年以上は経過しているように思われます。
スコスHPに著作権とか関係のない自作の音や音楽を付けたいとの思いで予約しました。
随分と前のことです。
「鉄は熱い内に打て」とありますが今はそんなに熱い思いはありません。
ちょっと心配。

画面から音が流れてくるホームページは昔よく見かけましたが、音が邪魔臭いという理由でほとんど見かけなくなりました。
今や企業サイトに音付きのHPはほとんど皆無です。
YouTube等を観ると映像あり音楽や音や言葉ありの刺激あるネットは楽しいページです。
無音のネットとは乾燥した砂漠地帯のような感じもします。
新学期の春、この一年はコツコツと楽器や音作りを学んでいけたらと思います。
この機械が楽器なのかはよくわかりませんが三日坊主に注意です。

 
■2022年4月1日(金)
■「エイチピー・エーエム」
■2022年4月2日(土)
■一日一文章トレーニング。

「三日目の坊主」

桜が咲くと寒の戻りで花冷えとなる。
このことは不思議なことに毎年起こる現象です。
最近、ふとももが冷えるので歩きたいとは思うのですが花粉が舞う中を長時間歩くことは危険なこと。
そこで室内で血流が良くなりそうなスクワットなどの軽い運動もしますがすぐに飽きてしまいます。

と言うことで「三日坊主」!!

「三日坊主」は3日間のような短期間で飽きることの意味。
「三日天下」のように「三日間」には長続きしないことの短い期間を意味します。
「三日天下」とは明智光秀による主君、織田信長焼き討ち謀反により三日間の天下人となる物語。
そうなれば「三日坊主」にも何らかのストーリーがあると思われます。
そこで「三日坊主」の由来を勝手に想像します。

<私の「三日坊主」ストーリー>

むかしむかし、ある村に高名な僧侶が立ち寄ったそうな。
(1日目)
村人たちは偉いお坊さんがやって来たということで、できるだけのおもてなしをして「ありがたや・ありがたや」の大歓迎。
僧侶はそれに答えるようにお経を唱えて説法を説き村人に答える。
村人たちはそれぞれの願いをのせて祈ります。
(2日目)
村人たちはできるだけのおもてなし。
僧侶もいつになく力が入ったお経を唱えと説法を説く。
村人たちはそれぞれの願いをのせて祈ります。
(3日目)
村人たちはできるだけのおもてなし。
僧侶は力の入ったお経を唱えて説法を説くのですが、村人たちはどこか上の空。
村人たちの祈りの内容は「仏様仏様、高名なお坊様はいつになったらお家に戻られるのでしょうか?一刻も早く帰宅してもらえますように」とのお祈り。
三日目の坊主に飽きてしまう全くの京都的なお話です。

「三日坊主」の由来で検索したら、坊さん修行に耐えらえずに三日目でやめてしまうというお話が書かれていました。
私の考えた「三日目の坊主」とは少し視点が異なりました。
「石の上にも三年」と言うよりも三日間で飽きたならば貴重な人生の時間を無駄にしないという面では「三日坊主」そんなに悪いことのようにも思えません。
とても個人的な意見です。

 
■2022年4月2日(土)
■「三」は棒が3本で簡単なのですが証券などに於いては改ざんを防ぐ為に「参」の字でも表現されます。
それら文字の輪郭をカタチ取り模様を作ります。
「三」と「参」のカタチの違いをご参照あれ。
■2022年4月3日(日)
■一日一文章トレーニング。

「円形を人と説く」

 筆ペンで円を描くことは至難の業。力を入れると線が太くなり、細い線で力を抜くとミミズが這ったようなだらしない円となります。いずれにしても私の技量ではフリーハンドの筆ペンで正円を描くことはできません。調べてみると家紋の文様や和算の図形などでキレイな円形は多く見られます。なので、ちょんまげな時代にも正円を描く技術は存在しているのは確かです。その方法とは今と変わらないコンパスやテンプレート等のようなものを使う描き方だと思われます。細い線は竹や羽ペンのようなものを使っていたのかもしれません。おまけに当時は木版印刷となりますので、最終的にそれら文字や図形、罫線まで彫刻刀で彫り印刷しています。とても手間のかかる細かい技術と手作業。もちろん、フリーハンドな味のある線画もあります。流石に私が見たものだと彫りが大変な漢字の使用を減らして、ひらがなが多用された印刷物が多いような気もします。全部ネット検索での画像判断です。手書きの模写ではないとは思うのですがどうなのでしょうか。

 ところで。

 そのような円を見ながら「円形」を自分に投影すると、これはまさに自分自身のことだと気づかされます。a に始まりa に戻る。朝起きて通勤や通学して家に戻る。私の場合は中心点にバカ売れヒット商品等の目標があると仮定すれば、その周りを空虚に回るだけの空回りな一日。決して中心点と交わることはない円。そこで、このままではいけないとの判断で何とか中心点に交差するべく方法を考える候条。

1) 誰かの引いた線上ベクトルに中心点を置く。
2) 他の円と交差することで中心点を探る。
3) 直角三角形のような何かを持ってきて中心点を交差させる。

1)誰かの描いた道筋の上に中心点を置くことは私的には今さら感な感じです。ですが、自分の為と目的に合致するのであれば良い道筋であるとも思います。但し、国策とかの大きな流れに任せることは、潮流とは短いスパンで潮目が変わるような気もして何か躊躇。

2)中心点を交差するような相性の良い円を持つ人がいれば大変ラッキー。また接する人が多ければ多い程に中心点を知ることのできる確率が上がります。多分、どうでもいいような学校とかの有用性を説くとなれば。いろんな人、いろんな考え、そのような人たちと山あり谷ありで接することで何か自分の中心点を見つけることができる可能性が高まるという意味に於いて学校は必要であると思います。

3)直角三角形のような別の世界を作る。それは趣味であったり、夜のバーであったり何かわからないのですが、別なカタチ(直角三角形)があれば中心点と容易に交差することが可能です。私が常々考えることはこのようなことなのですが、またしても、これについて何も思いつきません。屁理屈な呆即は百程生まれるのに実は全然育たん。

 ということで、これらはあくまでも考え方の一つ。「思考の見える化」を実践しているが故に見える円。私を円に例えると「バカ売れは何処に?」中心点に辿り着けない空虚な円となります。なので、誰か直角三角形を下さい。※リアルな三角定規はマジでいらない。

 
■2022年4月3日(日)
■中心点を目指せ。

■2022年4月4日(月)
■一日一文章トレーニング。

「イチョウの枝色と幹色が変化」

春は一日一日、一瞬一瞬の変化がとても速い。
先日のプロヴァンスな季節は幻想だったのかもしれない位に、ジェットコースターで言えば最後のクライマックスな急降下。
「キャー、うわー」と溜まったエネルギーの大放出。
数日前まで裸の枯れ木だった木々がほんの2〜3日で写真のような新芽のグリーンが吹き出します。
あっと言う間の街の変化。
桜の開花は目視で追うこともありますが、新緑の息吹を追うことはあまりないことだと思われます。
そのような冬枯れた木々に少しばかりの関心を持ったことで気づいた「イチョウの変化」をメモ。
冬の寒い時期は街のノイズと思わせるぐらいにイチョウの裸木は上から下まで同系色。
それが、春到来のある時期から幹色が濃い茶色、枝色が薄い茶色と二分します。
これはハッキリとした色の変化でプロヴァンス以降の変化。
何か生命活動のスイッチに電源が入ったようにも感じます。
木の外皮色が変化するとは普通に考えたらおかしなことのように思われますが、多分、光の変化による見え方の変化ではないと思います。
※光は全く関係ないとあまり強くも言い切ることもできないのですが・・・。
やっぱり、木の外皮色は変化するように思われます。
何の木なのか知りませんが種類によっては枝が赤茶色に色づくものもあります。
イチョウの場合、幹が黒くなったような気がします。

いやはや春なのです。
春故に浮かれたことも書きたくもなりますが、プロヴァンスに気付いた時には時すでに遅し。
今はと言えばプロヴァンスのプロさえ感じることはありません。
※関係ないけども「春故(はるゆえ)」とは「事故」なカタチに似ています。
そして、プロヴァンスについて書くと曇天となる。
これはプロヴァンスな呪いなのかもしれません。
次の冬に確証が得られれば良いです。

 
■2022年4月4日(月)
■イチョウの木に新緑のが芽が息吹きはじめました。
■2022年4月5日(火)
■一日一文章トレーニング。

「何か」

いやはや。
グラっとくるとドキッとする。
地震がある度にピタリと動きを止めて「次のぐらぐらは来るか?来ないか?」と警戒と敏感センサーを働く昨晩の夜。
地震とは本当にしつこくやって来るのですが、これは生きた大地に巣を作る私たちの宿命でもあります。

ということで。

 昨日は雨。春の冷たい雨。雨なので花粉も少なく窓を全開にして部屋の空気を総入れ替えを行います。久しぶりの窓全開で溜まったハウスダストを「出ていけ〜出ていけ〜」と外に追いやると空気がキレイになったのやら、何も変わらないような気もして、でもいい気分。何せ見えない空気なことなのでよくはわかりません。久しぶりと言えば、昨日は久しぶりにたくさん歩きました。雨ゆえの恩恵。花粉も少なく、人も少ない最高の歩き日和。なので、移動は全てウォーキング。久しぶりなゆえに体のなまりを重く感じます。何か、歩く度に筋肉の節々の錆びが落ちていくような感じ。そのような疲労蓄積でぐったりとしていると地震の揺れがゆらゆらと。本当に大地様ご勘弁して下さい。地震が来ると「今の音って何っ?」みたいなラップ音刑事(デカ)のような五感が発動します。犬なら耳をピーンと立てた状態。または、中腰で次のビックウェーブに立ち向かうサーファーのように。サーフィンしたことはありませんので、スノボの体重移動を行うような固まった状態です。

 昨日は雨。雨の桜の色はより濃いピンク色です。晴れた日の桜色が白に近い薄いピンク色だとすると、雨の桜はドドドのどピンク色。キレイな発色。このキレイな桜色は曇った空だからこそ見える色なのかもしれません。昨日は木々の発色の変化について書きましたが、このような桜色を見るとやはり見える色とは光の加減なのかもしれないと感じます。人の目視とは如何にも頼りない。そして色を正確に記憶することはできません。色を記憶するとなれば、それは絵や写真に記録、または概念上の言葉で色を記録することになります。目をつむり昨日の桜色を思い出すと・・・何と!!朧気ながら桜色は目に浮かびます。色の記憶とはこのようなことなのかもしれません。見たことは確証のようなものも感じますが、その色とは光次第の側面も大きいです。でもね。枝と幹色の違いだとこれらは相対的なものであります。比較できるものは間違いようがないようにも感じらます。とは言え。記憶とは不確実なものでもある訳で、何か悶々とした日々を過ごしております。

 
■2022年4月5日(火)
■ラップ音刑事〜キョロキョロ。
■2022年4月6日(水)
■一日一文章トレーニング。

「a b c」

a)
情報は右から左へ移転することで価値を持つ。
なので、動かない情報はクソであるとも言われる。
その価値観に立つとSNSのインフルエンサーは力を持つ。
世の中の全ては情報であり、人も情報(データ)である。
そうなれば、人は藤子不二雄の生み出したコピーロボのように鼻をポチっと押すと複製されるように量産されることが好ましい。
しかし、私は実際にそのような金太郎飴のような人・人・人を見たことはない。
Aさんは頑固であり、Bさんはクセあり、Cさんは几帳面である。
また、誰しもそれらの全ての要素を持っているようにも感じる。
但し、コロナ禍の同調圧力という大きなベクトルの中では人は一瞬にして思考の情報体としてのコピー人間となることも体験した。
それらはインフルエンサーに対抗するエビデンスやファクトのようなカタチで現れ出たが。
私の中では二つの意見は対抗軸のように見えるがどちらも同根は同じである。
人とは情報であり情報は移転させなければならないという考えである。
「コピー」とは複製のことであり「ものまね」とほぼ同義である。
学習とは「ものまね」であり何度も訓練することで習得することになります。
それと同じように「複製してものまねる」ことが情報を移転させることになる。
そのようなことを重ねた成功体験がより現状の「まねる」ことの重要性や「オリジナル」軽視の発想の柱となるのかもしれません。
でありますが。
来るべく次の時代は少し異なるのではないかと私は考えます。
新しい世界の潮流はNFTに代表されるような「オリジナル」の証明と分散管理である。
あなたAは「AAA」を開発した。
それがBの手に渡り「AAAB」となる。
そしてCの手に渡り「AAABC」となる。
取引の内容は情報として全て情報に記録される。
ハッキリ言うとよくわからないのですが・・・暗号資産とは多分このようなことを意味します。
そこには管理者もいなければ、全ての取引がデータとして記録され、情報として紐づいて世界を駆け巡るのが仮想通貨。
それは、今よりもう一段階上の民主主義のカタチのようにも思えます。
思考の見える化」とは、たぶん、次の時代の漠然としたカタチとその体験。
人の中にある「情報の木」とはどのようなカタチとなるのかも興味がありますが、情報は情報と結びつき、きっと新しい何かを生み出すことの祈りです。

b)
「オレは飲食店でただ食いする」と豪語する人はいない。
私はそのような人は見たことがない。
賄い飯などでそのような会話になることはあるのかもしれない。
但し、このようなタダ食いを大きく宣言して、それに加えて様々な制限を加えてタダ働きをさせる業界もある。
それらバイアスは組織の規模が大きければ大きい程に大きな力を持つように思える。
個人<会社団体」
そんなことはないだろうと思われるのかもしれないが、私には実際にそのように見える。
間違いだったら・・・御免ね。
※これは全て「a b c」文脈で語られます。
それはアートやデザイン、云々等のコンペ。
詳しくはわかりませんがオリジナルであることや様々な制約を課しているように思う。
それでいて、それに参加する労働力はタダである。
これは公から民まで。
昨今、最低賃金が幾ら幾らというような状況に奴隷時代にも見られないような搾取に見える。
このような見方は経営的な目線で視るから故に、そのように見える景色なのかもしれませんが何か不思議。
そして、そこの中心にいる人達のほとんどは「オレ飲食店でただ食いする」と言わないような人たちです。
私のような者とは比べると対象にもならないような多士済済な面々。
ある意味では、そのような人を選ぶ審査員に顔出しでなるということは何かスゴイ心臓を持っているとも思えますが。
もしかしたら、そこには「コピーやものまね」で成り上がり、それらを高言している人も多いであろうとも思われます。
そこにオリジナル云々とは何ともカオスな話です。
どうでもいいと良いと言えば、どうでも良いことなのですが「真っ当ぽい」ものが「普通ではない」ことがこの話の個人的にヤバイと思う本筋です。

c)
まとめです。
要は「コピーやものまね」や「労働のタダ食い」の二つにつながる結論は、ある一つのことに辿り着きます。
それはアートや物事を考えたり、創作したりすることを軽んじていると。
次の時代、もし世界が一歩前進して進化するとするならば、今やっているようなこととは真逆の価値観が世界の本流となることを私は願っております。

※この「a b c」文章はある思いついた呆即の検証の為に書きました。
もう少し考えがまとまったら発表したいと思います。

 
■2022年4月6日(水)
■情報の移動。
■2022年4月7日(木)
■一日一文章トレーニング。

「三角文(直角三角形で文を書く)」

a)
「起承転結」は文章を書く上での組み立てる順序。
「起」で話を起こして「承」につなぎ「転」で話に変化を与えて「結」でまとめる。
いわゆる有名な文章の構成。

a)×2
何かを続ける為には何かのスタイル(型)が必要です。
私の場合は自分が思っていることをつらつらと書く訳で文章構成をそれ程に意識することはありません。
ですが、文章を起こし「ところで(転)」で話を切り替えて最終的なまとめにするというカタチの文章が多いような気もします。
これは無意識な天然発生的な「起転結」または「起結」。
「承」はありません。
「承」って何だろう?必要かな?とは思うのですが、これが私のスタイル。
「承」とは「うけつぐ」ことの意味なので「+追加話し」みたい判断で良いのでしょうか。

b)
昨日、目標や中心を見つける為に自分自身を「」に例えて中心点を探るお話を書きました。
それは物事の考え方を図形に置き換えるという概念です。
円の中心点とは円一人では決して辿り着くことはできない中心なのですが、何か図形を利用することで中心を目指すことは可能です。
直角三角形はその中で使用した一つの方法。
円と接する中点を目指すならばやはり直角三角形が必要です。

ということで「直角三角形」。

b)×2
そのような直角三角形を見ながら、これはもしかしたら文章の組み立て一つの方法になるのではないかと考えました。
算数の三平方の定理を使う作文方法です。
c2=a2 + b2
そのような文脈で書かれたのが昨日の文章。
内容はともかく三平方を意識して書きました。
a)は「copy(複製)とものまね」×2
b)は「タダの労働」×2
c)は「(結)軽んじられている」×2 (※1)
というようなキーワードが辺となります。

c)
c)は(結)。
私の(結)とは明確な「結」を持たずに出航する目標のない船のような時もあるので何ともどのような結末に盛っていくのかは悩ましいところです。
定理の都合上、話は2乗に盛らなければならないので何かと盛って盛り上げてがんばりますが、結果も同じように2乗に膨らますことは困難でしりつぼみになりました。
a)とb)に力を入れすぎて燃え尽きたのか、または、結末は数行でさらりと終わりたいタイプなのかもしれません。(※1)
そもそも文章にボリュームは必要なのかとも思いますが、文章をスペースであると考えれば分量としての空間を作らないと2乗な世界になり得ません。
結果を2乗するということは逆説的な大どんでん返しや、最終的な解の答え合わせで終結するというような、ひねりのある終わり方ということなのかもしれません。
持ちネタとして(結)でまとめる定型文(スタイル)を何個か考えておくことがとても良いことのように思われます。

c)×2
話しの2乗とは脚色技術のようなものであり、3辺のネタを書くとなると貴重な思いつきネタを一気に消費します。
一言で言うと、勿体無いような、たくさん文章を書かないといけないのでしんどいような、慣れないことをするととても疲れます。
※今もすごくしんどい。
しかし、これらを物語の展開として考えれば面白さを倍増させる技術となり得ます。
話しの展開を視覚的に見えるカタチに置き換えることは、円の置き換えと同じく「見える化」の技法です。
それら3辺のそれぞれにお話を視覚的に整理して膨らませることができるならば、その話の深みは何倍にも広がる可能性があります。
とっておきの「三角作文」、多分、これはラスボスであり最終奥義です。今のところの。

最後に文章の中での直角とは何に置き換わるものなのか?それは大きな謎です。
a)とb)で密接に接する事柄。
縦横に存在する時間やその他のパラメーターに関するもの。
何だろうね。

課題:
1.(結)は量として一番大きくて広い。複数の終わりかたの結末ラインナップをあらかじめ所有する。
2.2乗する。盛るもる盛るな脚色技術。とりえあず話しを2倍に盛れる技術を持つ。
3.文章の中の直角とは何かの定義を考える。

 
■2022年4月7日(木)
■文章を書く為の構造を意識したならば。
コンテンツとは単なる平面にある文章ではなく立体的な層を成したレイヤー構造として見えてくる。
骨組みがあり。
内容があって。
絵や写真がある。
多分、そこには書き手の様々な角度から思いや仕掛けもある。
新しい視点とは新鮮な異なった景色を見せてくれるものである。
そのような景色とは何かしらの視野を与えてくれるのでしょうか。
 
■2022年4月8日(金)
■一日一文章トレーニング。

「直角」

春うららな暖かい朝、冬用の布団では少々暑くて目が覚めます。
夏用の布団ではまだ寒いと思われるので布団から少し体を外に出して温度調整。
でも、寝てしまえば暑かろうと布団にくるまって寝ることになります。
そして、やはり暑くなり朝5時頃にふっと目が覚める。
これは2度寝の境。
昨朝は寝ながら「直角三角形の文章」を考えていたので、それを書き写すべく飛び起きて文章を入力。
寝ている間に頭の中が整理されて考えがカタチとなることは何か不思議な感じ。
寝ながら考えることは今までも度々あることです。
これはしめしめと「寝る子は育つ」という別解釈ではありますが本当のこと。
実際に文章を書くことはそれなりに面倒くさいことなのですが、睡眠の中で大まかな構成ができているので海図を持った船乗りの気分です。
何もない時には「さて何を書くか?」と真顔な石地蔵のように固まる日常の初動とは雲梯の差。
そして、今日も「直角」について考えて寝たならば何かを思いつくかとも考えましたが、何とも空虚。
厳密に言えば、空っぽではなく整理はつかなかった感じ。
下記、横着しながら寝て考えたこと。

1)道を直角に曲がる人は何か嫌だ。これは生物的な動きに関する嗜好なのかもしれない。一方で人は「もの」に対して直線的で直角的なものを好む傾向があります。大量生産を考えた時に「直角」とは効率化に必要な技術です。私たちの生活空間は窓から携帯、棚などほとんどのものは「直角」で溢れております。生物的な直角には嫌悪感を抱くが人が多いと思われるのに、人が作り出すものには心地良いと感じる。人が作り出すものも自然の一部だと考えれば何か不思議なこと。

2)直線型な人がいれば直角型の人もいるのかもしれない。直線型の人とは何か不器用な人のイメージですが、直角型の人とはどのようなタイプなのでしょうか。私は今まで「あの人は直角的だな」と感じたことは一度もない。直角人間とは気づいていないだけで身近な存在なのかもしれません。し。人は生物的な直角を嫌うが故に、それらを無意識で封印しているのかもしれません。

3)ワープロの文字入力は直線的でありながらも90度な世界で成り立っている。HTMLも含めてデジタルな情報の全ては「直角」によって支配されている。

あと、もう一つ何かを考えていた。思い出した!!

4)円と接する三角形は必ずしも「直角三角形」である必要はないのでないのかとの考え。そもそもの話です。算数の問題ではありません。テキトーな三角形でも十分に円の中点に辿り着けると思うのですがどうなのでしょうか。でも、直角な方が簡単に中心点に辿り着けそうな気もしますし、直角のない三角形というのは何か気持ち悪い。これはよく考えてみないとよくわからないことです。









眺めて丁度マウスの電池が切れたので三角形なトレーニングも終了します。

 
■2022年4月8日(金)
■眠っているのに頭が動いていることの不思議。
■2022年4月9日(土)
■一日一文章トレーニング。

「土日のお題」

人の活動を円形に例えて目標目的を円の中心に置く。その中心を目指す方法の図解。
三平方の構造で文章を書く。

そもそもである。
円に接する中心点を目指すならば三角形でなくても四角形や車型であっても良い訳です。
カタチとはどのような形であろうと自由なはず。
私たちは円に接するのが三角形や円形であることに慣れすぎた故の先入観。
直角三角形とは見えないもの可視化する為の象徴的な図形。
文章中の「直角」を探る中で多少の矛盾に気づきますが、それは「まーまー」と。
せっかく考えたこれら二つ呆即は何度も実践してみることが重要です。
粗削りな彫刻でも続けることによって意図しない何かが浮かび上がるかもしれません。

そのような訳で。
この週末はa辺を「犬(ドック)」、b辺を「猫(キャット)」、c辺を(・・・わかない何か?)というキーワードで三平方な法則な三角文にトライします。
今回のキーワードは犬と猫、それら動物を2乗しなければなりません。
犬と猫を×2倍するとはどういうことなのでしょうか?
2匹の猫、2匹の犬。
話しの内容を単純に2倍にする。
一つはワンとかニャーな鳴き声で、もう一つは動物の気持ちの音分け。
とりあえず、家前に鎖につながれた犬とその前を凛として歩く猫のイメージで話しを盛って盛る「二重術」。
そして、c)につながる何か。
怖いくらいにノープランで全てがよくわからなすぎてぼんやりとします。
それなのに2乗2乗2乗の倍倍倍で何とも欲張り。
話しも盛り盛りとなれば面白くなると思いますが本当に書けるのか?心配です。

<文章の構造>

1)a犬
2)a犬×2乗
3)b猫
4)b猫×2乗
5)c?
6)c?×2乗
「直角」は犬と猫の接点。

 
■2022年4月9日(土)
■犬と猫。
■2022年4月10日(日)
■一日一文章トレーニング。

「プレゼント」

(犬1)
 細い路地には犬がいる。玄関先に繋がれたやや大きめの犬。散歩中の犬や人間に対して決して吠えることもない大人しい犬。番犬という意味に於いては全くのお役目を果たしませんが、そんな風にやさしい犬なので近所の人からも大変可愛がられております。通りすがりの人からよしよしと撫でてもらい。おやつをもらい。時には木の枝や玩具のようなものも貰っています。犬の横にはいつもお気に入りの「もの」が並び犬にとっても居心地の良さそうな空間。時折のリフレッシュでそれらを噛み噛み、ブンブンと振り回します。

(犬2)
 昔、実家で薄茶の雑種犬を飼っていました。散歩に行くと尻尾を丸めてかわいいお尻を全開にして進みます。タッタッタッと道を進み、時折こちらを振り返ってアイコンタクト。散歩は犬にとっては楽しいお時間で仕事です。お尻は相も変わらず開けっぴろげで恥ずかしいという感情はないのかもしれません。庭の草むらで大きいものをする時には草でお尻を刺激してからフンッと気張ります。そのような様子をじっと後ろから観察していると犬は首を180度こちらに向けて私を見ます。その表情は恥ずかしいというか、悲しいというか、見ないでというか少し困ったような顔でもあって何とも言えない表情です。

(猫1)
 細い路地には猫がいます。私は猫を飼ったことはありませんので猫の習性はよくわからないのですが、その猫はとても人懐っこい。猫はそのような猫慣れしない私に「ニャー」と挨拶をしてくれます。都会に出てから人から挨拶されることもない私にとって猫との挨拶はその日唯一の人間らしい瞬間でもあります。そのような訳で人懐っこい猫に会うことは、その道の行き帰りの楽しみです。「気ままな猫」という言葉があるように猫とは滅多に会うことはできませんが、久しぶりに会うと「よう!元気?」みたいなポンと心が弾けます。

(猫2)
 この街には数匹の猫がいます。挨拶をしてくれる猫に出会ってから外で猫を見かけるとチェックします。家猫なのか野良猫なのかよくわかりませんが、私の生活圏には数匹の猫が生活しています。黒い猫はこの辺で。白い猫はあの辺りで。というように猫には生息域のテリトリーがあるようです。でも面白いことに大人しい犬と挨拶する猫のテリトリーは同じようです。時折、犬の横に座っている猫を見ることもあります。猫は犬の飲み水をペロペロと飲みますが、犬は不動で無関心。犬と猫と言えば仲が悪そう感じもしますが案外仲は良いのかもしれません。

(プレゼント1)
 大人しい犬の前を通り、挨拶のできる猫の通りを通ります。ですが猫はいません。今日は友人のプレゼントを買いに街に出かけます。プレゼントを選ぶことは私にとってちょっとした試練です。その人が好きなものをプレゼントすれば良いのですが、その人が好きなものとは何となくはわかります。でも、趣味・好きなものにはこだわりがあり、気に入るだろうと思ったものが「ああーこれかー」みたいなことも考えられます。その人の好きな「もの」のテリトリーに踏み込むことは少し躊躇することです。となれば、キッチン用品や文房具など。使えるものなども良いかと思うのですが、これら使う「もの」にこそ、その人特有なこだわりがあるのかもしれません。本や写真集。本を読むことの初動の重さのことを考えれば本をプレゼントするハードルも高くて何か重い。写真集だとペラペラとめくり喜んでくるだろうかと思うけど。興味のないものだと単に物理的に重いだけのものとなります。ならば、私が欲しいものをその人にプレゼントしようと思うのですが。私が欲しい「もの」なら喜んでもらえるという多分それは自分勝手な自分基準。迷ったら自分スケールで決めることがいさぎよし。なのですが、私が欲しいものを私が持てずにその人が持っていることは、それはそれで何か嫌な気分。少し、グレードを下げて私がそれ程欲しくないものをプレゼントに選ぶとなると何とも性格が良くない。何を貰ったら喜ぶのか何をプレゼントしたら良いのか全くわからなくなります。そのように頭がイッパイになったので今日は一旦帰宅。プレゼントはたくさんの「もの」から選べば簡単に決まると思いましたが少し安直すぎました。

(プレゼント2)
 トボトボと収穫なかった夕焼け道。電柱の傍で挨拶を交わす猫に会います。久しぶりの再会。空振りだった一日も猫との挨拶で気分爽快。挨拶をするだけで何か心が浄化されるような不思議な気分。猫は一連のかわいらしさを見せた後に「ニャー」と言うとトーントンと私の前を歩き始めます。そして、私の方に振り返り「ついておいでと」言っているようです。私は猫の後をついて行きます。すぐに舗装されていない道端の草むらに辿り着きます。そこはふわふわとした猫の為の草のソファ。おそらく、猫の秘密のテリトリー。猫はそんな草むらの上にトンと飛び乗ると草むらから一本の木をくわえます。そうして、また再び歩き出します。私は再び凛とした猫の背中を追いかけます。とても細い猫道をまっすぐ抜けると大人しい犬のいる細い路地に出ると猫は犬の方に軽やかに歩みを進め。犬の前に木の棒を置くと「ニャー」と一言。犬はその棒を咥えると嬉しそうにブンブンと振り両手でおさえながらかじります。猫は犬の横で毛をつくろい。いつも見かけるいつもの光景。大人しい犬の玩具を届けていたのは挨拶のできる猫のようでした。何かを見つけては犬にプレゼントしているのかもしれません。あんなに気を重くさせるプレゼント選びなのですが。今なら素直な気持ちでプレゼントを選ぶことができるような気がします。

※この文章は三角文で書きました。
 
■2022年4月10日(日)
■猫からのプレゼント。
■2022年4月11日(月)
■一日一文章トレーニング。

「チーズ」

食パンが苦手です。
食パン好きな方御免なさい。
食パンの何が苦手かと言うと匂いがあまり好きではありません。
ですが、朝は大抵食パン。
なので、ハチミツやチーズ等いろんな味付けで食します。
チーズも大量に消費することになるので、とろけるチーズの大容量のパックを購入します。
大容量パックは普通の市販品のメーカー品とは異なるメーカーもの。
少しクセのあるチーズだなと思ったらドイツ製であり。
食べやすいチーズだと思えば日本製で日本人好みのチーズの味となります。
チーズの味も千差万別。
どのような味のチーズが好きなのかと考えたならば、これまた思いつかない。
さけるチーズは美味しい。
燻製チーズや6ピースのやわらかいチーズも好き。
青カビなどの超クセありのチーズはムリ。
外国ホテルの朝食のチーズは美味しい。
最近は海外に全然行っておりませんが、外国のホテルに泊まると朝食に様々なチーズが置かれております。
大抵は2ミリ程の厚切りカットされたスライスチーズ。
そして、サイズも大きい。
中にはマンガで見る定番の穴あきのチーズもあります。
「あっ!穴あきのチーズだ!珍しい!」ということで穴あきのチーズばかりを食することになります。
ホテルのチーズはどれもクセもなく美味しい。
黄色やオレンジなど複数の色違いで用意されます。
そして、どれも硬目で安っぽいオーラをぷんぷんと感じさせるチーズたち。
もしかしたら、クセありのチーズというのは高級品の証なのかもと思います。
チーズの味の決め手は何なのでしょうか。
見た目、塩分、食感、濃厚さ、発酵するチーズの味。
チーズの美味しさの意味がよくわからないと書きましたが、チーズやパンを美味しく感じるのは旅行マジックなのかもしれません。
いやいや。
フランスのパンとかはマジで美味しい。
何もつけなくとも焼きたてのパンは美味しい。
パリジェンヌたちも我慢できないのか、単に行儀悪いだけなのか?買ったパンを歩きながらむしり食べます。
やはり、チーズやパンの本場だから美味しいのだと思う。
日本のチーズとは何かが違う。
何が違うのかと問われると穴あきのチーズからにして天然に熟された感じがします。
日本のチーズは工場で作りましたよというような均一化したチーズの見た目です。
そもそもチーズの概念が異なるのかもしれません。
そのようなホテルのチーズ数枚をパンの上にのせてハムやサラミを挟んで食べると美味しい。
アニメのパンのような気分。
そう言えば、外国のホテルのモーニングにはサラダが少ない、若しくは、置いていない。
そして、不思議なことにそのような憧れのパン・チーズ・ハムサラミ生活も1週間もすれば飽きます。
そんな時、納豆お米が恋しくなるTHE日本人だなと思います。

 
■2022年4月11日(月)
■サンドイッチ。
■2022年4月12日(火)
■一日一文章トレーニング。

「ワゴンを狙え・・・野菜生活」

最近、レタスを毎日食べる。
生野菜をたっぷりモグモグと食べると青虫になった気分。
何やらバージンオリーブオイルに塩の野菜食は体内炎症を治すのに効果があるらしい。
炒めや温野菜は食べるのですが生野菜はあまり食べないので新しい変化です。
野菜はお皿に置くと実質的な量以上にモリモリとかさが増えます。
それに、オリーブオイルと塩をかけ混ぜると野菜が一つ二つとお皿から飛び出して机に落下します。
野菜が飛び出さないように、もう少し深い皿はないかと考えると。
そう言えば、サラダボールがあったと探します。
ですが、サラダボールはサイズが大きくて使わないし邪魔だったのでもうすでに捨てた後でした。
捨ててから探す探しもの。
これは使わないものを捨てる断捨離一族の弊害です。

そのような訳で野菜のむしり方が気になりネットで調べる。
出てくる、出てくる、いろんなむしり方。
冷水につけて野菜をシャッキとさせる下準備の方法から。
50度の温水に温めてシャッキリとさせるもの。
包丁を使い丁寧にカットするやり方。
手で正しく野菜むしる方法まで様々。etc.
インターネットがないと絶対に知らないことばかり。
野菜のページが(草草草〜)と永遠の草となり「もーええわ〜」と言うことでそっとページを閉じます。
それらページのほどほどに目を通すことにさえ面倒に思うような人間が、野菜を美味しく食べる為の処理を施すことはほぼ考えられません。
野菜のむしり方、それはテキトーに限ります。

1)野菜を野蛮にむしりボールに入れる。
2)水道でジャーと洗浄。
3)しっかりと水を切る。(放置)
4)野菜袋に入れて冷蔵庫の野菜室に入れて保管しておく。

野菜を摂ることは健康に目覚めたような感じではありますが。
レタスは今、スーパーのワゴンで山積みです。
インフレ時代到来の生活術とは安いものを食らうことに限ります。
安いものは多分、旬のものであり、体にも良いと思われます。
そして。おサイフにも良い。
「ワゴンを狙え」
マンガのタイトルのようですが、どこかの誰かのフードファイターの座右の銘となる言葉です。
ワゴンとは人をウキウキと心弾ませる楽しいゾーンです。

 
■2022年4月12日(火)
■レタスのカタチ。レタスをよく観察して描きました。
■2022年4月13日(水)
■一日一文章トレーニング。

「半袖と新緑」

昨日は夏の日差し。
とても暑い。
「この季節の服選びは少し難しい」と前日までは何を着れば良いのか悩み所。
昨日は長袖のシャツに袖を通した瞬間に、これは違うと感じます。
引き出しの奥から半袖の服を引きずり出すと今年はじめての半袖。
少し爽やかな白系のシャツ。
暑くとも一様、春なので爽やかな気分でいたいものです。
気温の上昇にともない私たちはコートを脱ぎ、その下の厚手の服も脱いでと薄着になる。
それとは反対に落葉樹の木々は新緑のパウダーをふりかけて厚着となる。
「半袖と新緑」逆の力学、美しい季節と風景。
何がキレイだと感じるのかを考えると色のコントラストだったり緑色のバリエーションであったりで生命力がキラキラと輝いているように思えます。
後ほど画像から色を抽出してみます。
写真はイチョウの木、過去の変遷を辿ってみると。

・黄色く紅葉して葉を落とす←→私は厚着(秋・冬の走り)
・茶色く色枯れた街のノイズ←→私は厚手のコート(寒い冬)
・美しく発色する冬枯れた枝々←→私は薄めのコート(冬の終わり)
・薄いキミドリの新緑←→私はトレーナー(肌寒い春)
・緑色が濃くなる変化←→私はシャツ(春)
・もうすでに裸木であった枝々は見えなくなってきている←→私は半袖(夏の走り)

花粉症がなければ「早めのサマ〜」と気分もアガるのですが、いやはやマスクも花粉も鬱陶しい。
花粉症は自然の息吹であると考えれば仕方がないこと言い聞かせる。
鬱陶しいと言えば、毎日しつこく私の目に入るプーチン画も鬱陶しい。
毛穴やシミのCMと同じ不快感。
世界は確実に悪いベクトルに進んでいるような気もします。
ですが、これもまた「半袖と新緑」というような逆の力学も働くことも考えられます。
うまく考えがまとまらないのですが「良きシーソー」が働いてより良い未来になって欲しいと願う道半ばの文章。

 
■2022年4月13日(水)
■上記は春のイチョウ写真から色をサンプリングしました。
個別の色から春らしさを感じることはありません。
色は様々な色の集合体となった時にはじめて、キレイなグリーンだったり、赤味を帯びた美しい枝色として感じることができます。
アプリのスポイトでは美しく感じる自然の色を取り出せない、画面上の色にまつわる不思議。
 
■2022年4月14日(木)
■一日一文章トレーニング。

「シーソー文」

今日もノープランで書きまっせ。
「シーソー」のようにトントンと内容がそ浮き沈む文章、それはきっと面白い。
「シーソー」とは支点(O)で支えられた不安定な構造。
半袖と新緑」のような正反対な関係性。
多分、「シーソー文」で文章を書くと文章の頭から「本筋」となり次の章でその「本筋の結果」となる。
「結果」とは「反動」という運動が行われるので前章で書かれたことの真逆となる。
あるいは、立場や敵と味方が点々と入れ替わり、それは何かガンダムUC的な物語。
物語が動かないことは安定した状態であり、安定とは「作用反作用」の力の均衡のことである。
「シーソー文」とはつり合いが崩壊したその様子を書くことになる。
そのような面白き「シーソー物語」とは異なり、現実に起きる「シーソー」とは私たち安定志向な人たちにとっては受け入れがたき現実でもある。
Aの運動はBの反動エネルギーとして必ず帰ることは既知のことである。
なので、一般的に人々はバランス感覚をとても大切にする。
同一・同質直線状の高いものはその力学に伴う反動はそのままダイレクトに帰る。
支点とは不安定なものである。
そのような不安定さを安定させる為には同等の力によって均衡させる必要がある。
または、支点が不安定ならば支点を大きくしたり、支点そのものをなくす知恵も必要となる。
そして、安定を崩壊させる方法が「シーソー」であることを考えると、それらを怠ることは力の崩壊をわざと助長していることのように見える。
昨今の情勢や「シーソー」技術で文書を書こうと考えた時にそのような天秤を思う。

 
■2022年4月14日(木)
■AX=BY。
■2022年4月15日(金)
■一日一文章トレーニング。

「シーソーな文」

シーソー文」の構成で文章を書きます。
ON、OFFを「窓を開ける」と「窓を閉める」で設定。
「心」を支点として、その揺れ動きを書く。
乱文御免 m (__)m。

ON「窓を開ける」
昨日は雨、霧雨のような雨で空気も心も洗われます。
当然、花粉の量も少なくて家の窓を全開に空気を入れ替えます。
窓の開け閉めは「心の解放」を操作する弁のようなもの。
しかし、窓の開けっ放しは良くありません。
無暗に窓を開放してウェルカムしていると心を傷つけることも多くなります。
そのように考える訳は、例えばビジネスの窓。
ある日、仲間内の取引先が「〜の商品うちでも扱うことになりました。これからも仲良くやっていきましょう」みたいなことも起きます。
私たちの輸入商材の領域に仲間だと思っていたものが参入してくる。
当然、寝耳に水で「ハぁ〜?」みたいな感じになる訳で「仲良く」って何?談合話しの持ちかけ?とヤバイ奴らだったと距離を置くことになります。
仕事をしている人からすると、よくある話ではあります。
「ビジネスの目とは人を出し抜く目であります。」
そのような事柄がカタチを替え、ネタを変化させながらいくつも起きます。
ですが、対面する人物から相手会社の意向など知るすべはありません。
仕事上の付き合いとは「お金」であると考えると、ビジネスに於いて「心は簡単に開かない」ことは重要です。
とは言え、窓を閉め切っていると空気も汚れてきます。

OFF「窓を閉める」
最近は花粉の量も減ってきたような気もします。
ですが、花粉は目に見えないもの。
ネットの花粉情報以外にハッキリとした確証は得ることはできません。
そこで部屋に黒紙を置いてしばらくの間、空気中に舞うゴミの量を測ってみました。
写真は降り積もったハウスダスト。
漆黒の紙を白くかすませる靄(もや)のようになり、とても小さい点がたくさん見えます。
この黒紙は4月5日頃から置いているので約10日間の塵。
案外溜まっておりますがどれもミクロン単位の小さい粒。
小さな点は多分、花粉だと思います。
このような空気中に舞う塵の量を可視化することで家の中の空気の汚れ具合を知ることができます。
見えるゴミは除去したくなるものです。
窓の開放により内なる溜まった塵やゴミをどんどん外に放出して空気が入れ替わると爽やかな気分。
心も同じく閉め切った状態だといろんなゴミが蓄積していくことだろうと思われます。
よって「心を開ける」ことはとても重要なことのように思えてきます。

「窓を開ける」ことを考えると「窓を開ける」ことの悪影響ついて考える。
つまり、「窓を閉める」必要性。
逆に「窓を閉める」ことについて考えると「窓を閉める」ことの悪影響を考える。
つまり、「窓を開ける」必要性。
シーソーとは真逆な存在ではありますが、文章にしてみると表裏一体のもの。
要はどっちもどっちな事柄であり、両方必要なことであります。
何を言っているのか?と考えが纏まりませんが。
「適度に開けて、適度に閉める」ことが大切で「心が望むこと」の実現には「心が望まない」ことを徹底することが近道であることを示唆しているようにも感じます。
もしくは。
これは私の性格が捻じ曲がる所以の寝言なのかもしれません。

 
■2022年4月15日(金)
■ON OFF。
■2022年4月16日(土)
■一日一文章トレーニング。

「シーソー」

昨日は「シーソー構文」で文章を書きました。
AとB相反する二つの内容が同居する文章とは何か読みにくい。
真逆なことは何とも煮え切らない気持ちになる。
「朝令暮改」に「口も八丁に手も八丁」「風見鶏」と話しがころころと変わることは一般的に嫌われることです。
でも、やってしまう朝令暮改、結構好き。
いやはや、流されやすき人の心と、移ろいやすき私の心。

ということで。

結論から言うと。
シーソーとは揺れ動く感情のダイレクトな反応。
その力の行く先は極論となる。

では、なぜ全く正反対の事柄が表裏一体のように感じたのでしょうか。
もう1度整理します。

・Aは機械を投げて壊して爽快な気分。(プラス)
・Bは機械を壊されて腹が立つ。(マイナス)
・支点は破壊。

表裏一体と感じる要素は(プラス)と(マイナス)。

Aのアクションに対する反動として。
・BはAの機械を飛び蹴りで破壊して爽快な気分(仕返しプラス)
・AはBによって機械を壊されてガッカリ。(仕返しされてマイナス)

シーソーとは(プラス)と(マイナス)の感情の起伏の反転。
要は「因果応報」。
それは感情だけでなく物理的な面に於いても(マイナス)を生み出します。

そして。

「シーソー」とはどちらがやめないと終わらない運動です。
Aが極論状態だとBは高すぎていつまでも降りることができない。
AとBが同じ高さになり、はじめて両者はシーソーから降りることができます。
それは多分、仕掛けたAが(マイナス)な部分を認識できる能力と、
BがAに対して(マイナス)であると認識させるだけの反撃能力。
しかし(マイナス)を(マイナス)として認識できないAもあり得ます。
それは正しい情報を知らない、見ない、人間的な絶対的な優位性を信じている、または、異なる認識、そもそも認識できない異常な状態。
極論、行くところまで行くという話しになります。

また。

シーソー構文」を物語として考えた時に、その文章を締めくくりには「三角構文」のようなCという結論の章(まとめ)を作る必要がありました。
そのカタチを図形で考えると「歪んだシーソーの形」となります。
これは本当の意味での異次元、別次元。
一段上に移動した平行線。
人間の知恵が試される最もクリエイティブなもの。
「シーソー」という物語を完全に終結させる為にはCという別の何かを用意する必要があるのかもしれません。

 
■2022年4月16日(土)
■(プラス)と(マイナス)は表裏一体。
■2022年4月17日(日)
■一日一文章トレーニング。

「横着魂に火が付く」

毎日文章を書くことはしんどい。
何か伝えたいこともなければ、溢れ出てくる言葉もない。
「さて何を書くか?」とネタ帳を眺めながらヒットする案件について書く。
または、長々と何週間にまたがり頭の中で考えていることについて書くこともある。
毎日文章を書いていれば文章がうまくなるだろうという浅はかな期待はすぐに裏切られる。
文章を書くことは考えるよりもより具体的もの、明確な意志がないと前に描き進むことができません。
まさに「意志あるところに道」である。
そのような概念的なのものを薄める効果が朝の寝ぼけ頭なのかもしれない。
私の場合は文章を書くことは頭がシャッキとした昼間よりも、朝のぼんやりピンボケな状態の方が良いみたい。
※夜に書く文章は暗〜い文章になると言うので、それはそれでどのような暗澹たる文章になるのか気にもなります。

時折。
寝ながら文章や文の構成を考えていることがある。リンク
Aという話を書いてBの本題に入りCの結論としてまとめる。(夢の中の出来事)
これだけ考えつけば、一日一文章の骨格が完成したことと同義である。
でも、なぜそのような現象が起きるのか?とても不思議なことである。
それは「ん〜」と考える捻ることではなく、普段考えているものがパズルのように前後して整理されていくような感じ。
そのようなラッキーな「棚ボタ楽勝」を横着人間が見逃すはずがありません。
むしろ、最近はそのことについてばかり考えている。
それらは多分、深夜の深い時間よりも寝起きの直前、朝方の虚ろな時間帯に「きっと来る〜」やって来る感じ。
そのようなぼんやりとしたものを意図的にカタチにできれば何かチョロくて素晴らしいこと。
と言うことで、今朝はたっぷり二度寝、三度寝してゆっくり「ネタ文」を「寝た分」だけ掘り下げる。

ちなみに今朝、寝ながら考えたことは下記のようなこと。
交渉しない → 私
交渉する → オレ
交渉できない → わい
私・オレ・わい・は夢の中ではバカ・普通・・・という感じだったのでガラが悪いので上品に修正。
よくわからない話ではありますが近日中にまとめます。

「寝ながら考えるぞ」という邪心満々の睡眠。
それはよだれズルルな「横着全面展開」のトランザムな感じ。
そして、本日は10時ぐらいまで寝て今(お昼に)文章を書いている。
最近、暖かくなり完全な朝方生活に戻ったので朝10時までの睡眠は少し寝すぎな感じでほんのり頭も痛い。
そのような中で考えたことは。
「寝起き頭で文章を書くこと」と「寝ながら考えていること」のこの二つは両方ぼんやり寝ぼけ頭の状態で似た者同士。
「ぼーっと生きているじゃねー」のような言葉もあって「ぼーっと」生きているように見える人は怒られる時に恰好の餌食になりがちです。
でももしかしたら、この「ぼーっと」した状態こそ何か頭がフル回転している可能性もあります。
隣りに座るブラックホールのような「ぼーっと人」は想像もできないような面白いことを考えているのかもしれません。
なので、頭の回転の速い人の対極にいる「ぼーっと人」を無暗にイラついたり、怒ったりしないでね。

 
■2022年4月17日(日)
■くろ。
■2022年4月18日(月)
■一日一文章トレーニング。

「野菜生活」

昨日はストーブをしまいました。
もうストーブを使うような寒い日は来ないだろうという判断。
表面の汚れをキレイに拭き取りビニール袋に入れてモスボール保存。
ストーブ一台とは言え、それがなくなるだけで部屋の景観は随分と変わります。
季節がまた一歩進んだ感じの「季節の変化」。
冬物のコートやダウンジャケットは邪魔なので一刻も早く収納したいものです。
ですが、花粉の季節が完全に終了してからの天日干しを経て仕舞う予定なのでまだ少し先になりそうです。

ところで。

生の野菜を食べる生活は毎日続けています。リンク
「体の変化」体の何が変わったのかと考えてもその効果は良くわかりません。
睡眠の質は少し向上したような気もします。
ですが、それは単に気候が暖かくなったのが理由なのかもしれません。
デメリット的なことだと野菜摂取で最初の一時期、おつうじが逆に悪くなった。
野菜と言えば、繊維質なのになぜ?という気分でしたが、今となっては通常モードなので要は腸さんの野菜慣れのような感じです。
あとは、レタスの価格変動。
大体、1玉、100円程のレタスを購入しています。
ですが、時にレタス160円、180円と値上がりすることもあります。
その時はワゴン内の別の安い旬野菜を狙い大玉キャベツを買って食します。
(たぶん)別の種類でも野菜は野菜です。

生野菜の味とは苦みや葉っぱの味、そんなに美味しいものではありません。
でも、飽きずに続けているということは何かしらの良い面もあるように思えます。
それを考えた時に思いつくことが一つあります。
それは、野菜を前もって洗い野菜袋に入れて冷蔵保存しているので、すぐに食べれること。
小腹が空いた時にお菓子を食べずに生野菜のバリバリ・サクサクとワイルドに食べていると腹持ちも良く、それなりに満足します。
気分は串カツ屋さんの時に出てくる野菜をつまみ食いするイメージ。
野菜を食べることによる体の変化はよくわからないのですが、すぐに食べられる野菜が常に冷蔵庫にあることは良いことのように思われます。

 
■2022年4月18日(月)
■グリーン。
■2022年4月19日(火)
■一日一文章トレーニング。

「ドクサイ・ジャーニー(旅行)」

シーソーの上にまたがる1つ上にある高次元なC。
それは恐らく「ウルトラC」。
そのようなCを思い浮かべるにあたり、とてもくだらない空想が渦巻く。
それは「公益団体ドクサイ・ジャーニー」。
本当にそのような名前の会社があるとまずいので一様ググる。
検索には何もヒットしませんが「ドクサイ」という言葉の響きだけでも悪い印象しかないので多分存在しないと思う。
この団体は世界の一部に根を下ろす独裁者を丁重にもてなし宇宙へ運ぶプロジェクト。
快適な宇宙船、最高の飲み物と食事に演奏や芸術、月と地球の間に設けられたコロニーホテルに滞在して最高なサービスでおもてなしが行われる。
吸い込まれるような漆黒と星の瞬きに浮遊できるガラス張りのラウンジ。
「宇宙、私、地球、月」という広大な世界観を感じとれる空間。
勿論、重力ブロックの部屋もある。
知性をそそるたくさんのスタッフが宇宙の成り立ち、人類誕生の奇跡と生命の存在意義、その他たくさんのコミュニケーションを行う。
このプロジェクトに誰でも参加できるものではない。
協会が選ぶ「独裁」定義にマッチした選ばれた独裁者のみに招待状が届く。
独裁シフトを敷いている期間、権力やお金の集中具合、言動や行動など様々な検証が行われる。
独裁と言えども、一個人から一党派、一階級まで権力が集中することが考えられるのでスペースシップは100人程度乗船できる大型のものである。
招待状の中に入る切符は片道切符。
「独裁者を永遠の宇宙の片隅へ」と考えた初代、創始者の思いである。
しかし、実際はたくさんのスタッフが働くこともあり安全に地球に帰還することが求められる。
それは宇宙に行くことによって人生観の変化を促すものである。
独裁者の傍にいれば、その人に異議を申し立てることは大変勇気がいることだし危険なことである。
一方で権力を持った人たちの考え方の変革の可能性があれば、それはより良い世界への近道でもある。
おそらく、それが可能なのは地球の外。
頭の上に広がる広大な宇宙に異なる価値観や考え方が存在することに意味がある。
そもそも宇宙は無重力であり何かを支える必要はなくシーソーの支点も必要ない自由な空間。
権力者が宇宙を旅する一旅人になること「ドクサイ・ジャーニー」は権力を持った人たちに世界的な視点を持ってもらう為の教育的なプロジェクト。
まあ、そのようなことを考えなくとも宇宙時代になるとお金持ちはどんどん宇宙(そら)へ上ることになるだろうから、未来はより支配的な人たちから世界観の変革は普通に行われのかもしれません。

 
■2022年4月19日(火)
■ドット。
■2022年4月20日(水)
■一日一文章トレーニング。

「根津神社のつつじ祭り」

緑のまんまる頭に赤、白、ピンク色の花が咲きます。
花、花、花が咲き乱れるとはまさにこのこと。
花が開花すると緑の葉っぱを隠すようにラッピングするので全面が花の色。
何ともスゴイ花密度。
ここ数日の雨で特にキレイ。
写真は根津神社のつつじ祭り。
最近はエルデンリングの「ラダーン祭り」に参加しているので「祭り」という響きに胸熱です。
関係ないけどエルデンリングは「エルデンの王様」になれなくて「狂い火の王」で終わりました?
火に狂った王様www。
今は2周目に行く前に、やり残しを進めて他のプレイヤーの攻略お手伝いをしています。
つつじは昨日の状態で半分ぐらいの開花、今日はもっと咲くように思えます。
つつじと言えば、街路樹や庭などどこでも見かける低い木。
そのような普通の木々でも色や品種を集めて庭を作ると、このようなすごい景色となります。
子供たちが口にくわえてチューチューと密を吸いながら歩く遊び道具でもあるつつじ。
時にはアリが口の中に入って「ペー」となります。
花のカタチはラッパのようにも見えて、窪地の崖に咲き乱れるつつじは春の季節を歌う合唱団や楽団に例えることができます。
その音楽とはどのような音色を奏でているかと想像しますが私にはちょっと聞こえません。
楽譜が読める人にとっては点々と咲くつつじの咲き乱れは何かしらの音を作り出すのかもしれません。

ところで。

合唱団と言えば、開いた楽譜を手に持って歌うイメージ。
しかし、誰も楽譜を見ることなく前を向いて一生懸命に歌います。
当然、歌詞は暗記していると思われるので楽譜はいらないと思われます。
これは恐らくポーズです。
合唱団のスタイル。
メルボルン派?とかメルビゾン派?などの派閥系の歌い方で方式が変わるのかもしれません。
歌詞が書いていれば歌詞をド忘れした時に安心です。
でも、ちょろちょろと楽譜みながら歌っている人が楽団にいるとその人ばかりに注目が集中します。
なので白紙かもしれない。
もしや、これは楽譜ではなくて交換日記のようなものが書かれているのかもしれない。
私も部活とかでサボっている時に何かしらを「やっている感」のポーズをとっていましたが、そのようなポーズとは明らかに次元が異なります。
合唱団の持つ楽譜にはどのようなことが書かれているのかも少し気になります。
ググったり知恵袋に行けば答えはあると思います。
答えがわかれば一日一文章のネタが文章化しないで終わるので調べない。

 
■2022年4月20日(水)
■つつじの楽器。
■2022年4月21日(木)
■一日一文章トレーニング。

「計算ボオズ」

電卓をたたいて計算をする。

5389 +2859 +1294 +750 +4050 +1728 +・・・

計算機とは人によってはもっとも沢山叩かれる道具なのかもしれません。
いやいや、今はパソコンのキーボードやスマホなのかもしれない。
簿記な人達は驚くスピードと軽快な音でタタタのタンである。
一方、私の計算機はポチポチポチと犬との散歩。
リズム感と軽快な音の違いはそのまま計算の正確さにも現れます。
デジタルデータであれば一瞬の計算で済むことが手入力計算で時間も手間もかかります。
そのような意味に於いてデジタル通貨が普及することは便利なことではありますが、本日は令和四年弐拾壱日の朝。
ポチポチと計算することは仕方なし。

そして、合計された金額を逆算する。

・・・ −1728 −4050 −750 −1294 −2859 −5389 ≠0

0にならない。
0にならないことはどこかで計算間違いをしている証拠。
最初から数字を入力して再計算をする。
すると、またまた合計金額が異なり「うわー」と頭をかかえる。
計算する量が多ければ多い程に比例して間違う可能性も高まります。
そこで、慎重に計算することが求められるので、私は最強の計算マシーンになるべく考えた。
計算間違いを起こさない為にはゆっくりと一つ一つ丁寧にキーを入力することが大切。
数字の2と3の間に鼻が痒くなったり、アイスクリームのことがよぎることは計算間違いを誘発させる。
あと、入力のリズムが出てくると計算間違いが減るような気もします。
先ずは、(+足す)の読み方をリズム風に(+トン)と表現します。
(トン)とは重さの表記のようですが(+)を正確に押すという(トン)とキーを押すイメージ。
また、数字を和読みします。
数字の読み方を考えながら入力すると惰性の思い込み入力が減少するような予感。
これは通常5389(ゴーサンハチキュー)と数字を読み上げるところを「ごーさんわーく」みたいな感じで読み上げます。

<5389 +2859 +1294 +750 +4050 +1728 +・・・>
ごーさんわく(トン)にーわーごく(トン)いにくし(トン)なーごーれー(トン)しーれーごーれー(トン)いなにわ(トン)・・・

と言うようなお経を読む感じ。
数字の読み方はその時々のテキトーです。
この計算方法は計算高いお坊さんになった気分にさせる高等な計算テク?。
もぞもぞと口に出して計算するとまわりから不気味がられることは間違いないので独り言は厳禁です。
特に街のカフェでぶつぶつと計算すると周辺から人がスーッといなくなることは間違いありません。
でも、この計算方法は少し楽しい。
変な数字の読み方と(トン)のリズムの切り方で計算間違いは確実に減少するように思われます。
本当に計算間違いが減るのか?増えるのか?の検証は試してトントン。

 

■2022年4月21日(木)
■計算ぐるぐる押し問答、故に「いにさしごーろく」トントンとリズム。



■2022年4月22日(金)
■一日一文章トレーニング。

「三と四」

建物が隙間なく立ち並ぶ都心部にも大木は意外とあります。
どの木々も私が生まれる以前からあっただろうと思われる立派な大木。
その中でもこの写真の木はいつも何かしら神々しく感じるイチョウの木。
冬枯れた状態でも異彩を放っておりましたが新緑を纏っても存在感があります。
いわゆる私が好きな木、推しの木。
そのような木の何がそんなに気になるのか?
私自身もよくわからないのですが、いつもその木を見上げて何かスゴイと思う。
私たちは食べ物を食べる。
生き物を捕食することで明日への未来に命をつなぐことができます。
同時に家という器に守られることにより厳しい環境からも守られております。
その家の素材は伐採された木材や天然の資源。
私たちの活動は何かしらの生命を糧にした生き方となります。
昔の人はそのような木々を倒す時にも畏敬の念を持って接していたのだと思います。
その理由に今でも日本製の斧には右に三本の線、左側に四本の線が入ります。
斧は切り倒す木にもたせかけて「ありがとうございます」と拝んでいたそう。
命を断ち切る祈り。
今ではチェーンソーで機械的に切っていくので、そのような伝統はもう薄れているのかもしれません。
三本線は「ミキ」と呼ばれるもの神様に捧げるお酒、御神酒(オミキ)の意味。
反対側の「ヨキ」と言われ、地水火風を表すと言われる。
地水火風とは「地水火風空」の五元素を意味しますが、それなら五本線になるのではないかと思います。
なので、個人的に「ヨキ」の四本線とは単純に神様にお供えをする「お米、魚や肉、野菜、塩」等の供物のことではないかと思います。
山中で地元のお供えものを揃えることはできないので斧に傷を入れて常に木々への感謝の気持ちを打ち込む。
これは一種の呪い封じかもしれません。
でも、身の回りには毎日使う机があり、家があり、床がある。
木製品はそこかしこに存在し食べ物が溢れています。
私は実際に斧を持ったこともないし、木々を切り倒したこともない故、それらが命を断ち切った上のものであるという認識はありません。
「三と四」のことを考えると。
「もの」はたやすく消費し捨てることは命を粗末に扱うことと同じことのように感じます。
少し横暴であったと反省します。
「大消費時代の終焉の始まり?」
それは良い「もの」を大切に長く使う時代の始まり、または「資源を人工的に作り出す」時代の始まりなのかもしれません。
「もの」は大切に使うこと「たべもの」を大切に食すということは命を大切にすること。
新興国密約というのはあるのか、わかりませんが世界を隙間なく覆ったグローバリズムは今、風前の灯。
ロシアや中国などのつながりは自由主義国のサプライチェーンから弾き出される可能性も高くなります。
世界は数十年前のような再び色分けされた景色へと戻るのかもしれません。
地産地消とまではいかなくても資源を大切に回していくことは大切です。
エネルギーの外国依存がリスクであると周知された今、藻から石油を作り出し、太陽などの自然エネルギーを有効に活用するなどの人工的に資源を作る技術革新は待ったなし。
多分、そのような技術はこれからもっと進化するはず。
墓場の大木を眺めてそのようなことを考える。

 
■2022年4月22日(金)
■立派な木。

■2022年4月23日(土)
■一日一文章トレーニング。

「水準基標」

水準基標の3個目をゲット!!
「下( 7 ) 根岸三丁目25 東協ビル前 東京湾平均海面 3.7960m 霊岸島量水標 4.9304m」(令和3年)
徒歩中に偶然見つける。
ゲーム中に宝物を見つけたようなうれしさ。
最近のゲームでは少し移動すれば、すぐに宝物を発見できるのでゲーム以上の喜びなのかもしれません。
約3か月ぶりの水準基標。
通りすがりの人に怪しく見られながらも地面のマンホールを写真に収めます。
水準基標探しはPDFに記載される住所から調べて何度かトライしたこともあります。
この辺りだろうと、うろうろ歩いて探すのですが、もうすでに道路工事などで埋められてしまったのではないかという疑念も浮かんでしまうぐらいに水準基標は見つかりません。
この場所は荒川区かと思えば台東区。
目印は「ほか弁」と大きなスーパーマーケット「ライフ」側近くの歩道にあります。
あの「おたけさん」の名前のついた尾竹橋通り沿い。
以前の記事でも書きましたが「おたけさん」は橋の名前にもなるお茶屋さんの娘さん。
マニアックな道ではあるものの大きな道路の名前にまでなっていてこれまたスゴイこと。
尾竹橋通りを地図で追うと南はJR鶯谷駅から北は足立区竹ノ塚まで伸び、そのまま「埼玉県道・東京都道103号線」に接続します。
「おたけさん」の知識がついたからこそ何か感慨深くも思えます。
もしかしたら、私はすでに「おたけさん」ファンなのかもしれません。
この辺りは寛永寺がある上野のお山に登らない限り坂道はありません。
なので、0mに近い低地だと思ってはおりましたが海面から3.8m程あります。
いやはや。
新しい水準基標の発見とは、見つける楽しさにとどまらず土地勘や「おたけさん」の歴史など多岐にわたる興味に紐づけます。

 
■2022年4月23日(土)
■赤色。明日から数日、更新お休み。m(__)m
■2022年4月25日(月)
■ゲーム上の選択肢。
■2022年4月26日(火)
■一日一文章トレーニング。

「プライドはあるのか?」

先日、エレベーターのない駅の長めの階段を登っていた。
階段の中腹の辺りで女性が電話をしている。
声の大きさやトーンから電話でケンカをしているようだ。
私はしんどい階段を一気に登りたい方なので一段飛ばしでゼエゼエと登る。
電話とは言え公共スペースで喧嘩できる人を見ると毎度ながらスゴイことだと思う。
その電話中の女性の横に辿り着いた時に「あんたにはプライドはないのか?」という言葉が耳に入る。
何やら穏やかではない言葉。
私の心はすでに階段にあらず「プライド」と発するその会話に集中する。
耳は2倍3倍と大きくなり後ろに遠ざかる会話を追うのですが、私の足はそのまま階段を一段飛ばしのまま一気に上段フロアへ。
それは修羅場を過ぎ去ろうとする本能と内容が気になる私の葛藤。
車窓を過ぎ去る電線の軌跡のようにそれは一瞬の出来事ではありますが、私の意識は「プライド」という言葉にロックオンされます。
「プライド」とは最近、考えたことも口にすることもない言葉。
「プライド」とは「誇り」や「自尊心」のこと。
自尊心とは自分が偉いと思うことであり卑屈にならずに自分の人格を尊ぶこと。
英語なので英英辞典から調べると。
適切な自分の価値(感覚)。
自分の仕事に対する喜び、満足、誇りを持つこと。
息子など自分以外への誇り。
自分の意見等が高すぎる「うぬぼれ」。
繁栄している状態の期間とある。
何やらCMで見たようなフレーズではありますが。
知らない女性から「あんたにはプライドはないのか?」と聞かれた時に私はどのように答えるだろうか。
多分Yesであり、「はぁ」とガン無視、苦笑いをする、「えっ?」と後ろを振り返りそのまま通り過ぎる。
自分自身のプライドについて「ある」のか「ない」のかを考える。
大体、このような文章や思考プロセスを公開している時点でプライドの欠如を感じる。
それは「無知」を晒すことであり、脱字誤字もたくさん、完璧な内容や文章でないものを平然とアップする。
「誇り」という意味に於いての「プライド」は今や案外希薄。
しかし、そのような「無知」ではあるが。
これら文章の根底に流れる「無知とは力である」という私の持つ感覚は「プライド」の高さの現れとも捉えることができる。
「無知」とは知らない何かの発見につながる事柄。
その発見による好奇心はやがて興味へと変わり見たことのないお山の向こう側に誘導してくれます。
リチャード・ワーマンの言葉を借りれば、それは「理解」。
「無知とは力である」考えは自分自身の体内スケールであり「プライド」という名の鎧のようなもの。
プライドが高いことそれは何やら鼻につく。
ですが、自分自身の「プライド」を持たない人間が他人の「プライド」を認めて、その人格を尊重することはできないような気もします。
何事にも物事に良し悪しがあることは当然のこと。
「あんたにはプライドはないのか?」の問いは結構深く、即答するには重すぎます。

 
■2022年4月26日(火)
■次なる選択。
■2022年4月27日(水)
■一日一文章トレーニング。

「境界」

大通りの電柱を地下に埋める電柱埋設工事の境界はどのようになっているのでしょうか。
その伏線を回収するべくのメモ。
(図参照)
多分、電柱横の地中から上に伸びるグレーの線が地下から電柱の先端に電気を持ち上げる電線だと思う。
また、地中から電気を持ち上げる電線が見られない電柱もある。
地下に潜った電線は大通りに面した路地の縁で再び持ち上げられて住宅街の電柱に接続されます。
なので、片方側にしか電線がつながらない電柱となる。
それは電気の出発点、始発駅のような境界の電柱。
大通りに電線がなくなると、それなりに見通しの良い景色です。
そもそも、この電柱埋設工事がいつ頃から始まったことなのか知りません。
大通りに電線がなくなっていることに気づかない人も多いと思う。
いくら景観が良くなったとしても電線の有無を認識するにはある程度の観察眼が必要なのかもしれません。
私の場合「電柱は繋がるよどこまでも」と電線をノードとして見ていたらこそ電柱がないことに気付きました。
ちなみに、あのおたけさんの尾竹橋通りにはまだまだ電線は現役です。
※m(__)m 尾竹橋通りも完全に電線地中化してました。
電線が地底に潜れば新たなる境界が生まれます。
これは変化が新たなる境界を生み出すことを意味します。
「境界」とは英語で「border」のこと。
端やヘリ、境界、国境のことで「border line」となると国境線となる。
「border line」には合否の「ボーダーライン」と言うような言い回しもあります。
どっちつかずの中間線という意味。
英語の国境いとは最後の一押しで確定するような曖昧模糊とした線の表現のようにも感じられます。
それは何か面白いこと。
「ボーダー」と言えば「ボーダーのシャツ」などのタテシマの線を思い浮かべますが、英語の「border」には縞々の線の意味はありません。(辞書に記載はない)
表現するとなれば「stripe」。
私たち日本人は「ストライプ」なものが大好きです。
ヨーロッパの人たちも縦横のストライプが大好きです。
それは、恐らく、日本人と欧州の人たちの共通点。
でも、ストライプの線のことを、なぜ「ボーダー」と呼ぶようになったのか気になります。
「ボーダー」「棒ーだー?」「棒だ」・・・(タテヨコの棒の線)≠「border」
まさか、そのようなことはないよね。

 
■2022年4月27日(水)
■「境界」の補足。
尾竹橋通りの電柱も完全に地中化が実施されておりました。
いつも、ごちゃとした街のイメージなので電柱が立っているものと思っておりましたが、本日、改めて確認すればスカッと電線のない曇り空の道が続きます。
いやはや先入観・思い込みには注意が必要です。

それにしても電線ネタは伝わりにくい。
電線・伝染(でんせん)とよく似ているのに、なぜこんなに伝わりにくいのでしょうか。
文章力は仕方がないとしても、興味や関心が低いことでも機械的に内容を書き進めることはできるはずです。
ということで、考えられる理由を書き出します。

(一)先ず、文章を組み立てる内容として電柱・電線は難しい。
それは多分、電柱・電線にまつわる経験がないから。
経験があれば、この線はこのように繋ぎ、ここを触るとビリビリ感電するよ!などといろいろと書けます。
経験なければ空想で書けば良いと思いますが電柱・電線から想像を膨らますのは、これまた難しいこと。
配線のつながり具合を文章にするのはちょっとムズカシイ。
仮に文章にしたところで、その文章にどのような面白味があるのか?ちょっと疑問です。
とりあえず、電柱・電線は間違いなくハードルが高いお題となります。

(二)電線の仕組みを理解している訳ではないので漠然なイメージをそのまま文章にしている。
「グレーの線が地中から伸びて電線につながる・・・」と何か意味がよくわからない文章になります。
具体的ではなくアンニュイな文章。
アンニュイとは気だるい・退屈な意味。
まー退屈は退屈です。
ぼんやりと書くこと、これはいつものことなので仕方なし。

(三)電柱・電線などの単語が続くと文章を読むのが苦痛になる。
鬼滅のように電柱をハシラ、またはデンセンみたいに扱うと別物の話になって面白くなるかもしれません。
文章に感情を排して事務的に書くことはもっと良いことなのかもしれません。
「地下に埋設された電力ケーブルは地上の電柱に接続されます。そして、電線から電線へとつながり家々に電気が供給されます。」
何か好感は持てます。
普通に内容を伝えることはシンプルで大切なことです。

(四)電気は頭上の電線を流れるという一般的なことから逸脱している。
地下に埋まっていない電気は当然、頭上を流れるものです。
状況をイメージしやすいように状況説明は必要なのかもしれません。

(五)電気は目に見えないように、電柱・電線も誰も意識して見ていない。
誰も関心のないことを書くことは、書き手、読み手に苦痛なこと。
私自身も関心の低いものを書くということはこんなにも頭に入ってこないのだと改めて感じます。
電柱のパーツ類には様々な形状があり、それ自体は面白く思います。
ですが、電柱そのものに関心を抱くというのは少しハードルが高いことです。
先入観から頻繁に通る道の電柱を勘違いしたように、ほとんどの人にとって電柱や電線(電気料金以外)は空気と同じ透明人間のような存在です。

今朝の文章を要約すると。

電柱埋設化等に関心はなく、電柱と地底の電線ケーブルの「境界」について興味があります。
地中に埋設された電線が再び地上に現れ出たその瞬間の境界線を見つけて、それを何かしらの文章にしたいというお話でした。

電柱・電線について「書きにくい、書くことがない、伝わらない」と言いながら、電柱・電線についての長文をたらたらと書いている自分にビックリ。
明日か明後日か再び電柱・電線にまつわる「一日一文章トレーニング」にトライ!!したいと思います。
たぶん、しつこい、でも書きたい、でも書けるかな? 

 
■2022年4月28日(木)
■一日一文章トレーニング。

「境界」

いやはや。
最近、昼間は暑くて移動するだけで夏のような汗をかいたりもする。
夏の汗とは異なるまだ、暑さに慣れていない汗。
夜は逆に寒くて布団に丸まったりと思えば、やっぱり暑くなり布団を蹴ったりと落ち着かない気温である。
なので。
恐らく夏用の薄い布団ではまだ寒く、冬用の布団では暑く感じる、どっちつかずな気候。
まさに、季節の分かれ目、境界線。
今日着る服でも同じこと。
この服だと暑すぎるかも。
この服だと夏っぽすぎる。
何を着れば良いかと引き出しをガサゴソ漁るもナフタリンの匂いがするので、この服は干してしわ伸ばし明日以降に着ることにする。
結局、長袖をまくり温度調整。
ユニフォーム的な服の楽なところは季節の分かれ目を考えないで良いところ。
毎日、それを着ていればラクチンである。
季節を感じなくて楽ではありますが、自然に触れないことはちょっとつまらない。

そのようなことを考えていると「平準化」することは「境界」を薄める効果があることに気づきます。
世の中が平均的になると「境界」もぼんやりと曖昧になる。
要は「対比」のことであり「不均衡」が意図的に強調されると「境界」は強くなります。
「境界」を弱めたければ「平準化」。
「境界」とはどこの誰にも、また、そこかしこに存在し、新しき何かが生まれる度に新しい「境界」も生まれます。
そのような「境界」を意識的に見ると、その社会構成が異なったカタチで見えてくるはず。
ちなみに、我が家と自然の「境界」の窓を開けると夏の香りがしました。
何かムワッとする植物の香り。
日本の住宅はもともと「境界」はゆるいので、欧米に比べて「境界」がゆるく感じれるのは風土的なものもあるのかもしれません。
それでも英語の「border line」はぼんやりとした中間線。
「境界」は際立たないことが円満の秘訣のようなことを感じさせます。
「電柱・電線」は明日以降。

 
■2022年4月28日(木)
■黄色。
■2022年4月29日(金)
■一日一文章トレーニング。

「情報」

100人いれば100通りの意見がある。
200の目があれば200パターンの景色が広がる。
人数分の意見があれば世の中はバラバラです。
それは問題だということで情報の集約を考える人たちもいます。
それが企業や業界団体、制度政策のようなもの。
情報は無限に溢れているようには見えますが、私たちの見る情報のほとんどは何かのフィルターを通ったワンセットのパッケージ(多くの人が見る同じ情報)であることが多いです。
ニュースなら報道番組を電波で流し、ネットであれば自分にカスタマイズされた情報が一方的に送られる。
趣味趣向により選り分けられた情報。
その情報伝達する選別のアルゴリズムを理解する人はほとんどいないと思う。
私も同じ。
わざわざ検索(調べる)アクションは少々面倒なので、それらオススメをクリックする。
見えていないものは 見ていない。
見えているもののほとんども 見ていない。
私たちは見たいものしか 見ていない。
しかし、何も見ていないのではありますが無意識の内にいろんなものを 見ている。
それが潜在意識に訴える広告であり情報である。
そのような感じで食べるものが同じ、見るものも同じ、いろんなものが同じで私たちの境界は薄れて平準化します。
これは情報リテラシー前の前提条件。

このような情報が溢れる世の中で、どのような情報を信ずれば良いのでしょうか。
私ならどうするか考えた。(あくまでも私の場合)
先ず情報の信憑性の云々の前に自分自身にスケールを作りたい。
無知のバケツに情報をほり込む為の最初の基準点。
そのスケールを作る為の最初の一歩はとても重要です。
なので、厳選した人を選びたい。
業界に友人が誰一人いないその筋の評論家のお話。
そのような人のお話は少し気になる。
自分自身のスケールなので文章量に関係なく会話の中のワンフレーズでも良い。
利害関係のない一般人の意見やコメント、ツイートでも十分。
もちろん、とても難解な哲学深い専門家の一冊というのもあります。
自分の主義主張に近い人の方が初めのスケールとしては良いように思われますが、それを読むことはスケールというよりも背骨を作るような感じもします。
なので、簡単なものが良い。
一方、専門家の意見は原発やコロナ禍で十分に学習してきたように業界の利益誘導が直接的なので、私は初めの一歩としては何とか避けたい思う。
入り口と考えたならば素人が専門分野を経験していく過程を日記のように纏めたものも読むと疑似体験できそうです。
一旦、スケールができれば、それが正しいのか?間違っているのか?わかりませんが物事の判断基準にはなります。
これはあくまでも自分基準。
自分中心のスケールです。

とは言え、何を信ずるかなんていうのはやっぱりわからないもの。
結局、役に立つ情報とは文章全体から得るというよりも「一行一文」にキラリと光る何かを発見することであり、そこからインスピレーションが湧き上がるものです。
その意味で「99%の情報を捨てて1%から価値を見出すこと」は案外、正しい。
それは自身の考えの正当性を追随、または共感しているだけとも言えます。
ですが、「情報が目的遂行の道具」だと考えれば、情報とは立場によって「正しさ」が異なることは当然であり、それに「中立的な何かを信ずる」ことは間違っているようにも感じます。
いずれにしても、アンテナを立てて様々な情報にアクセスすることは大切です。
情報とは時刻表のように「正しさ」の権現のようなものでもあり、でも、やっぱり遅延などもあって正確ではなく、見方が異なれば全く反対になることもある。
先ずは話半分な感じでよいのかもしれません。
ふ〜スゴく疲れた。
情報」とは朝の短時間で書くような内容ではありません。
これだけは間違いありません。

 
■2022年4月29日(金)
■リモート待機。
■2022年4月30日(土)
■一日一文章トレーニング。

「犬・電線・電柱で文を書く」

昨日の晩はとても早く寝落ちして今朝はとても遅い寝起き。
今朝は昨日の雨が信じられないような青い空と澄んだ空気。
とても爽やかな朝。
机の上には布製の犬の置物が置かれている。
目も口もない無地な赤色の犬。
側面と尻尾は蛍光オレンジ色でお腹から3本の線が伸びている。
その下には見たことのない形状のバッテリーが置かれている。
(+)と(−)の差し込み口、そこに電線を挿すような構造になっている。
電池には「正しく接続して下さい 故障の原因となります」との注意書きと(+)と(−)表記以外に何もない黒い電池。
このような玩具なようなものに、このようなまでの重くて立派なバッテリーが必要なのかと思います。
でも、それはこの犬に接続して下さいという感じで置かれている。
3本の線は赤・青・黄色の電線。
先端にバッテリーにパチッと接続できるような端子が付いている。
でも、電池にはアース線のようなものはないので2本の線でしか接続できない。
どういうことかと犬を持ち上げ赤い布製の犬をくまなく調べる。
3本の線はお腹の電池が収納できるジッパーの中から伸びている。
ぬいぐるみの表面を触ると人形の内部に明らかに硬い何かがあってギミックが内蔵されていることがわかる。
それら機械のようなものを布の上から押して確認すると赤い犬の体内からカチカチとタイマー音が鳴り始める。
「あーやっぱり」
嫌な予感は的中です。
カチカチカチという音色は気味の悪く部屋に響きわたります。
赤い線を切るか?青を切断するのか?
これは爆発物を不発化させる為の最後の山場に似ています。
普通に考えれば赤と青色の線で電池を接続することが正解のように思われます。
赤と青でどちらの色が(+)だったのかと考える。
流石に故障の原因にはなるかもしれませんが爆発することはないだろうとも思う。
とは言え、ぬいぐるみには必要以上の重量感はあります。
布製の犬に何かヒントがあるとすれば赤色。
なので、赤色の線は決定です。
あとは青か黄色。
直観的に言うと青色は違うような気がします。
カチカチのペースも幾分早くなり焦ります。
とりあえず、赤色の線を(−)にパチッとはめ込む。
そして、黄色の線を手に持つ。
映画などでは手が震え、汗滴る緊張な大切なシーン。
私は窓から見える電柱に目をやると。
そうだ、あの電柱に向かって赤い犬を投げれば爆発に巻き込まれないと思う。
もし、電柱の傍を歩いている人がいればそれは爆発に巻き込まれるかもしれない。
それはとても運が悪いことである。
赤い犬の爆発に巻き込まれる確率とは天文学的にありえないことのように思われます。
そもそも、スイッチがない時点で接続した瞬間に通電するような予感。
赤い犬を外の電柱に向けて投げる時間はないのかもしれない。
赤い犬は爆発の前に「ワタシはイマからスウフンゴにバクハツします」と爆発を予告してくれる親切犬であるだろうか。
そもそも机に無造作に置かれるだけの不親切仕様である。
それは期待できない。
私は黄色の線をパチッとバッテリーに接続した瞬間にドカンと「おさらば」かもしれない。
ドカンとの爆発で「ジ・エンド」一瞬の出来事。
線にまつわる何の知識もないことは気軽なものである。
黄色か青色か赤色かなどと考える素地は全くない。
全ては直観。
腸型人間の持つ野生の本能発表会。
早まるタイマー音が鬱陶しいので黄色の線にパチッと接続する。
「パチッ」との音色は何か心地良い音。
赤い犬はピコピコと蛍光オレンジ色の尻尾を振っている。
何だ?コレ?

 
■2022年4月30日(土)
■しっぽふりふり。