*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年4月1日(火)
■一日一文章トレーニング。

「果たして、桜の挿し木は根付くのであろうかモヤモヤ」

朝起きると桜のデカ挿し木が枯れていないかと先ずは気になる。
それだけ、新緑の緑緑していた葉っぱが黄色く変色するインパクトはあったものではありますが、ぼんやりと室内の窓際に佇む巨木の逆光の枝葉を眺め、ホッと一安心の桜の挿し木である。

葉っぱが黄色くなったキッカケは寒暖差のひっくり返しの大風で、葉も乾燥して水分不足になったとの仮説を持つ。
全ては土の中で詳細はわかりませんが、もしかしたら、大きな風揺れによりまだ弱い根っこが引きちぎれた可能性もある。
それほどに、桜の挿し木とは大風に吹かれてゆらゆらと揺れていたもので、また、水耕栽培である程度、根らしきものを発芽させてから土植えしましたが、こんなにも大きい1メートル超の枝を支える根がまだ育っていないことも当然である。

何せ、植物とは痛いも痒いも何も物申さないもので、変化とは突然起こって、全てはチンプンカンプンなまま勝手に予測を立てて対処するしかないものだ。
昔の私であれば自然に任せて放置していたものですが、今は随分と人間的にも成長したようで植物を生かす方法も考える。
そして、「これが自然と対峙することなのか」と、登山家みたいな言葉が頭に浮かびニヤニヤとする。

ネット検索すると葉っぱが黄色くなる原因は数々あるもので、この植物の場合は大風に吹かれて葉っぱが乾燥し変色し始めたので、吸水力とのバランスが崩れたのが原因かもである。
水を葉まで十分に供給出来ていないとなると、先ずは枝先まで吸水する力を強くしてあげる必要があるもので、よって、昨日は早速、謎の「樹木の水の流れは川の流れのように」理論で、枝分かれし分岐する枝をカットして木の中を流れる水の流れを良くする。
風水は何も知りませんが、これはまるで風水の気(木)の流れ如くである。
そして、もう一本の枝と枝の枝分かれ点が近すぎて黄色く変色する葉の枝もカットし、合計2本の枝を切断して、とりあえず、全枯れの危機は一旦脱したようだ。
よかった、よかった、なのではありますが、よくよく木を見れば自信もなくなる木である。

切り落とした枝は再び水を入れた瓶に挿し木して植物界のお嬢様の下に置く。
植物とは生存競争を生き抜いているようなイメージはありますが、我が家の植物を見ている限りでは生存競争ばかりでもない。
日照権や生存圏を奪い合う感も多少あるが、逆にお互いに「がんばれー」と支えあいながら生きているようにも思う時もある。
植物を育てて思うこととは、生存や競争などとは程遠いゆるい植物の生き方である。
大体、我が世話をしなければサボテンや多肉以外はほとんど枯れてしまうような気もするし、切り枝を土に挿せば根っこが生えてくる生き方も何か変。
昨日カットした2本の枝も、黄色く変色した葉っぱは落として昨日の状態よりも元気になったもので、葉っぱの先まで水が足りていなかった予測はだいたい当たっているようにも思うものの、詰めが甘いのが私のミソでもあるので、さてっ、どうなりましょうか。

先ほども書いたように、植物を育てることで何か自分の考え方などにも変化があるもので、植物の生き方や仕組みを見ていると何かしらの面白き経済活動の型のような気もするものだ。
それはとても儚く、それなりに元気に育っていると私も嬉しいし、弱ったり枯れたりすると悲しくもなり、今や食用せりも植えて、何だか不思議な関係性なのである。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年4月1日(火)
■スコスカーだもん。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年4月2日(水)
■一日一文章トレーニング。

「わかばはふ つちにえださし らっかよう 大枝ばって 小枝の水さし」
「若葉生ふ 土に枝挿し らっかよう(落下葉) 大枝伐って 小枝の水挿し」
(by 挿し師)

うわー駄目だ~もう駄目~もう無理。
成長の春に葉っぱが黄色くなることは悲しい。
葉っぱが黄色くなると100%散るもので、もっと悲しい。
SSDGS(再生・栽培・で・グレート・挿し木)のせりとにんにくは順調に育っていますが、1メートル超のグレート挿し木は葉を散らして禿山となる。
葉は今日も黄色くなり散り、毎日どんどん散るもので、外科大先生は剪定バサミでジョキジョキとジョキーンと枝をカットして大手術をする。

挿し木の新緑が次々に散っていくことは何も原因のわからない大失敗だ。

植物を育てているとあまりにも全部意味不明なことが多すぎて、我の頭も混乱し昨晩は再び鉢を雨降る外に出す。
たっぷりの水攻めで隅々まで水が行き渡るようになればと思ったのですが、外を見ると冷たい風がビュービューと音を鳴らしながら吹くもので、弱った葉っぱのほとんどを見事に吹き飛ばされて禿山(木)となる。
  ~
 ~

目を離す度にグレート挿し木とはどんどんと葉っぱを黄色く変色させて散るもので、最後の1枚を数えるのも時間の問題である。
これは、もう私の手に負えないので、賢い人工知能先生のアドバイスを聞く。
先生のご意見は、挿し木にはたっぷりの水が必要で、そして、水のあげ過ぎも駄目なようで(どっちやねん)、栄養過多などにも注意してと、様々なアドバイスを教えてくれます。
アザス(m(_ _)m)
桜の挿し木を育てることは比較的に難しいらしく、結局、いろんな可能性を教えてはくれるのですが、さっぱりと原因はわからない挿し木である。
私でも1メートル超級の枝で挿し木することは根本的に無謀であったことは理解出来る。

昨日切り落とした水挿しの枝は1日も経てば先端の葉っぱがピーンと伸びて来るので、やはり、葉っぱが黄色くなる原因は水が足りていないような気もする。
水が足りなくなれば葉緑体の細胞壁も壊れ、細胞壁の緑色も消えて、枯れ色となろうと思われるホトトギス。
葉緑体の緑色が引き算されれば、残る色は黄色の予感。
葉緑体というぐらいだから多分緑色で間違いないだろう。
確証を持って何も言えないことがもどかしいのですが、やはり、何もかも全てよくわからないもので、何もよくわからないのにグレート挿し木を土植えにしたら50枚以上の葉っぱを生やして我を喜ばし、今度は1枚1枚と葉っぱを落として我を悲しませるのである。
罪深きグレート挿し木。
葉緑体は葉っぱのエンジンみたいなもので、葉緑体が壊れたら緑も無くなり、葉っぱも落ちてアーメンかな???なのである。
たぶん。

グレート挿し木は結局、1本の棒となる。
残ったものは1本のグレート棒と11本の枝と植物を育てるセンスのない私だけ。
残った3要素はこれからも仲良くやっていきたいもので、このグレート棒は闇バイトがやって来た時に戦闘用のグレート武器として保存しておくべきか否かと思うのである。
後で、グレート棒は土から引っこ抜き根っこの生え具合を確認しましょう。
全ては振出しから戻るもので、これは植物を育てるゲームだと言い聞かせて何とかマイ桜の枝を再びグレート挿し木として土植えたいものだ。

この極秘のSSDGS計画は下記のように、まだ現在進行形で第四フェーズに移行する。

・第一フェーズはお花屋さんで買った桜の花を愛でる。
・第二フェーズは咲き終わった枝は水差しのまま葉っぱを育てて根を生やす。
(これは失敗!小さく切ってから水差しした方が良い~多分)
・第三フェーズはグレート挿し木を土植えにする。
(葉っぱはどんどんと増えたが→葉っぱはどんどん減少する)
・第四フェーズは枝を細かく切って、再び水差しで根を生やせるようにがんばる。【現在】

本当に何でも書いておかないと忘れてしまうメモメモで、「散る散る」とのお話が受験シーズンからズレていたことだけは良かったものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年4月2日(水)
■スコス車ダモーン。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年4月3日(木)
■一日一文章トレーニング。

「人として大切に育てたい、失いたくないもの」

食べて美味しかったグミのパッケージを模写する。
その名も「ノーベル・ペタグー」コーラ味。
薄型のハードグミの食感が丁度良く、最近のお気に入りのお菓子だ。
インフレで分量の少なくなったスナック菓子は最近あまり食べなくなりましたが、グミは良く食べる。

たこのような宇宙人デザインが施されたグミで、いつも宇宙人の姿を確認せずに食べているのですが、今回この文章を書くにあたって、はじめて宇宙人グミもよく観察する。
宇宙人のサイズを計測すると3.5×2.5×4ミリと意外に大きなサイズであった。
直径1センチの口の穴も開いており、口穴があることで恐らくハードグミの固さとソフトグミの柔らかさを同時に味わえるお菓子の仕組みを作っているように思う。

文章を書くことや謄写することの良い面は対象物を良く観察することだ。
文章にしなければ宇宙人の大きさなんて私の人生にとってどうでも良いことでもありますが、対象を観察することで始めて何か有名な存在哲学のように、あれこれと想うものだ。
何哲学というのでしょうか?すこすよくわからないので後で調べましょう。
気合と根性で文章を書く・絵を描くというアクションの目的がなければ何の関心も生まれないもので、関心もなければ観察することも無いもので、関心を呼ぶ為の目的も必要なものだ。

この対象物を純粋に観察するという行為は人としての崇高な祈りのようでもある。
※何を祈るのか無でもあり生物的な好きだ。
インターネット時代からAI時代の大変革と簡単に出力される力を得ることで、人は確実に観察眼を退化させると思う。
これは逆算すると、「観察することもなければ→関心もなく→目的もない」ということで人として大切な生きる目的を失ってしまう可能性もある。

今回ペタグーを描き、文章を書くことでペタグーの気に入っている部分を確認すると下記の通りだ。

・味は美味しい。
・ペタグーの絵はコーラ味ですがソーダ味も美味しい。
・グミは冷やすとさらに食感が固くなる食べ物となり、我が家ではグミは冷蔵庫で冷やして食べる習慣もありますが、ペタグーは冷蔵庫で冷やしても程よい固さで美味しい。
・私はパッケージ好きでもあり、好きなパッケージしか模写しませんが、好きなものを描くことで好き部分に気付くもので、私の場合は赤系統を黒でしめた感じの配色が好きだ。
・宇宙人グミの大きさを測ると、グミ穴には2通りの食感を楽しめる仕掛けを発見し美味しさのこだわりを知る。

ということで、ペタグーの好きな部分も整理される。

このように、何が好きなのかと語ることはとっても人間的な仕組みを語るようにも思うものだ。
好きなモノの何が好きなのかと語ることは簡単そうに見えて意外に大変で、好きなことを語るには、それなりのその人なりの視線や分析も必要で、そのような多方面から眺める対象物の総合的な好きな部分が整理されるのである。

「たべっこどうぶつ」とて同じで、食い意地が張った私は「たべっこどうぶつはかわいい~」と他愛もないない3時のお茶会を開くものである。
そして、最初の一口目や二口目のライオンやドックの文字やカタチを確認するのかもしれませんが、それ以降は一切柄も文字も見ずにガムシャラと食べるものだ。
これは愛犬がおやつを飲み込むように食べることに似ている。

そうなのであ~る~人間には2種類の人間がいるのだ~m(_ _)mT。

1)食べ物の詳細を一つ一つ確認しながら食い意地をコントロールして観察眼を使い哲学みたいことを語る透かした奴



2)食べ物の詳細や絵柄よりもとりあえず腹減ったと食べてしまう奴

私は普段は後者なのですが、文章や絵を書く時だけは、観察眼メガネをかけて透かした奴へと変身するのだーーー。
駄目な二元論を展開して御免なさい候。
ですが、
何となくそのような観察モードになる時とそうでない時の違いは確かにある。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年4月3日(木)
■吉備だんごた”よ~。