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■2025年1月1日(水) |
■明けましておめでとうございます 2025賀正押乙SCOS |
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■2025年1月6日(月) |
■一日一文章トレーニング。 「2025年の初笑いの道」 ぶるぶると新年も明けて布団に包まり天井を眺めると、ぼんやりとした天井に電球と2025年の夢も始まるのである。 そのような天井を布団の中から眺めていると実家の夜空を見上げたオリオン座を思い出すものだ。 ヒンヤリとした空気、空を見上げることなんて何年ぶりのことでしょう。 視力の低下なのか?空気の劣化なのか?オリオン座が何故か暗く見えるものである。 右上と左下の光量が特に小さく思ったもので、子供の頃に見たオリオン座はもっとしっかりと鮮明であったようにも思うものだ。 冬の空に輝く星と言えばオリオン座。 つづみ太鼓のような形は昔から結構好きで推しな星でもある。 街灯がない暗がりの路地の暗闇から星を見上げていた子供時代を思い出すもので、早速ネットで検索するとオリオン座を構成するベテルギウスの星は変光星でありガスや寿命などで時折暗く見えることもあるようだ。 ですが、そのペテルギウスは左上でしっかりと輝いていたように思うので、それとはあんまり関係ない右上と左下の星の輝きの弱さが気になったものだ。 よって、2025年の「初星見」は完了。 東京の空だと月や金星ぐらいを拝むぐらいが関の山でありますが、そのような星空の下を電車に乗って帰宅していると、お酒が入ったご機嫌なビジネスパーソン2人組が私の横に座っているものだ。 一人は赤いソックスにローファーを履いて足を組んだジョーカースタイル。 もう一人はカジュアルな金髪で若くておしゃれなイケメン。 どうやら新進気鋭のスタートアップの経営者たちのようである。 さっそく、我の耳は「どれどれ」と4~5倍に膨張する仮想の耳となるものだ。 2025年「初耳ダンボ」の完成。 ローファー野郎の頭にくっつくぐらいの私の耳で「貴様らのビジネス話は俺様がしっかりと聞きとげてやろう!!」と思うのだ。 話しの内容は資本金の集め方やその金額に、Aという両方の知人の営業の成功報酬を15%から25%にしてやった~というスカスカなお話で面白味はなかった。 星空に満たされてキレイに透き通った私の心はビジネス界隈で淀むのだ。 一昨年の「初笑い」は何かと考えれば「東京アベンジャーズ=(正解)東京リベンジャーズ」である。 イキりて「東京アベンジャーズ」の話の面白さを語っていたらタイトルを間違って覚えているオチである。 去年の初笑いは何だっけ? 間違いに 気づいていたら すぐに教えてちょ 凍る思いの アベンジャーズ (字余りの和歌) 耳や目から入ってくる聞き間違いや思い込みは最終的にドンデン返しみたいにひっくり返る面白さがあるものだ。 正に「ボタンのかけ間違い」とはこのことだ。 子が子ならば親も親でもあり、母が「カルディー」のことを「カルダイ」と言っていた。 ローマ字読みすればそうとも読めるかもしれませんが、本当にカルダイというパチショップがあるかと思えばカルディーそのものであった。 私の好きなハムをカルダイで買ってくれていたことは嬉しいことである。 これは2025年の「初笑い」に確定だ。 その後には真っ黒に焦げ付いたサーターアンダギーが「追い笑い」として完成して、サーターアンダギーという名前も面白いし、中はトロトロの半生カスタードで外は真っ黒に焦げたサーターアンダギーに腸がねじれる思いである。 キツネ色に揚がった部分の味はサクサクととっても美味しかった。 よいお正月でありました。 |
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■2025年1月6日(月) |
■バランス。 |
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■2025年1月7日(火) |
■一日一文章トレーニング。 「奈良公園に行ってきたよ」 「春眠暁を覚えず」いやいや新年早々寒くて布団から出るのが苦痛である。 「冬眠暁を覚えず」が正解かもしれない。 「覚えず」と何を覚えずなのか謎ですが、それよりも、お正月の朝は6~7時ぐらいには起床していたのに何故かお正月が終われば目覚めるのが遅くなる謎である。 これは我が家の七不思議でもあるものだ。 サーダーアンダギーの目に覗かれた呪かもしれないと、早速、焦げたサーダーアンダギーで画像検索していると、昨日の写真の焦げ具合はなかなかのトップバリューな炭化具合でもある。 そして、この黒いつぶらな瞳を見ていたならば、奈良の鹿の黒い目や鼻を思い出すものである。 そうなのである。 私はこのお正月中に奈良を旅したのである。 マイYoutubeにはこれまた何故か?鹿動画がオススメにやって来て、またその動画を観るので鹿がまたやって来る具合の鹿エンドレスである。 これは完全に奈良の鹿に鹿せんべいをあげたいと洗脳されているのである。 早速、JR奈良駅を降りて長い道を途中で買い食いなどもしながらてくてくと歩くのである。 そうして、奈良公園に着くとあっちにもこっちにも「鹿がいるー」とテンションも爆上がり。 さっそく、おばあちゃんが売っている鹿せんべい200円を購入して鹿に「ほれほれ」とあげるのである。 「あれ?」鹿は鹿せんべいを食わねいぞ! 透かした鹿たちは日向ぼっこしながら我のあげる鹿せんべいに「ふんっ」のガン無視である。 何かがおかしい。 私の知っている鹿たちは腹をすかして貪欲に鹿せんべいを奪いにくる予定である。 動画などでも貪欲に鹿せんべいを狙いに来たもので、入口付近の鹿たちは鹿せんべいをもらい過ぎているのか?貪欲さが足りないのである。 仕方がないので東大寺に向かいながら腹ペコな鹿たちを探すことになる。 東大寺の敷地や若草山にいる鹿たちは結構貪欲なようで餌を見せると近づいて食べてくれるものだ。 鹿せんべいは1枚だけを見せてもあまり反応が良くなくて、束で見せて1枚だけを抜いて鹿様に差し上げるのが食いつき良い呆法と学ぶのである。 おそらく、鹿たちも鹿せんべいの鮮度みたいなものを見極めているかもしれない。 地面に落ちているしめった鹿せんべいよりも、サクサクの新しい鹿せんべいの方がおいしいものだ。 ところで、奈良の鹿たちと戯れるのは子供の頃以来である。 学校の行事で来たと思うのですが体中にスギ花粉を付けて家に帰ってきて母にお風呂に入りなさいと言われた記憶ぐらいで、鹿せんべい代金を持っていなかったので鹿にせんべいをあげるのは今回が「初鹿せんべい」である。 大人になってからも奈良のお寺参りなどはしたことはありますが、鹿に全く興味が無くてガン無視でもあった。 その意味では我に鹿動画をオススメするユーチューブの罪は甚大である。 私は鹿に鹿せんべいをあげる為に奈良公園を散策し筋肉痛となり、鹿の丸い糞を踏み、参拝者の歩く砂埃で足靴もドロドロとなり、おまけに、いっちょうらのイタリア製のコートも焦げたサーターアンダーギーみたいな黒い鹿の鼻の鼻汁をつけられてしまったのである。 イタリア製のコートはウール95%、カシミヤ5%、同じ仲間の動物の香りがするのでしょうか?鹿が鼻をくっつけてくる理由はあるのかもしれない。 鹿は驚かしてはいけないと我慢して鼻タッチさせてあげましたが、鹿タッチの跡にはたっぷりの鼻汁がイタリア製のコートに付着していたのである。 鹿をなでなで超かわいい♪ ということで、 鹿の鼻汁は何の成分で出来ているのか調べてみた。 奈良の鹿たちはどの鹿も鼻がべちょべちょに濡れており、これは鼻の粘膜を保護し洗い流し、乾燥を防ぎ外部から異物の侵入を防いでいるようである。 また、空気中の匂いは水分子に溶けやすい性質があるようで、鼻が濡れていることで嗅覚も研ぎ澄まされるようである。 犬もクシュンと鼻汁を飛ばしているものであり、生き物の鼻が濡れていることは健康な証であるようだ。 人間が鼻べちょべちょだと嫌ですが、鳥や人がウィルスなどにも弱いのは鼻汁がない文化的、生物的な鼻水の壁を持たない脆弱かもしれない? この水分を含む粘膜はムチンと言われるタンパク質と糖と硫基酸で構成されているようだ。 なので、私のイタリア製のコートに付着した鹿の鼻汁は善き解釈すると(無賃乗車みたいな響きですが)水+ムチンなのである。 これは良いことなのか悪いことなのかよくわかりませんが、焦げたサーターアンダーギーな鼻汁も付き、考え方によっては鹿の神様の有難き鼻汁を頂いて運気も爆上がりのである。 関係ないけれども、奈良公園をたっぷり歩いて疲れた帰り道に「下下みてい」という看板がありました。 さっそく、その下の看板を読むと古美術店の「大谷選手」と「山本選手」の看板がありました。 ここだけ青い空の元でドジャースっぽい感じがしたものだ。 |
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■2025年1月7日(火) |
■春の七草。 |
■2025年1月8日(水) |
■一日一文章トレーニング。 「東大寺ミュージアムにも行ったよ」 新年も明けて先日、ポットから冷たいお茶を飲もうとしたならば、ポットには去年の年末に洗浄中の水が入っていたものだ。 水と言っても水道水のみで洗剤は使用していません。 「ほっ」 ポットに水を入れて振り振りとウォッシャしたままの、そのポットがそのまま忘れられてテーブルに置かれていたのである。 去年まであれだけお世話になったポットなのに暫く放置されていたものであり、お正月とはそれぐらいに生活のサイクルは変化するものだ。 湯上がりには冷たいお茶をごくごくと飲む習慣があり、私はそのようなポットに入った飲み物を何の疑いも無くそのまま一気に飲み干すものである。 「むむむっあれっ?」 ゴクゴクと一気に飲んでから気づく飲み物の異変。 ガラスコップが茶色であった為に目視で異変に気付かなかったものである。 いやいや、一様にお茶と水道水の違いぐらいは識別できるかと思えば、おかしいなと思うのは氷の有る無しのみの冷たさ感知のぼんくら具合である。 マイ味覚とは本当に頼りにならないものである。 そう言えば、奈良公園の鹿たちも汚い水をゴクゴクと飲んでいたのを思い出すものであり、我と同じく汚い水を飲んでいるな-と思うのである。 昨日の鹿写真をドアップにしながら眺めていると鹿には長いまつ毛が生えていてかわいいものだ。 そして、鹿たちは悟りのような虚無のような顔をしている。 私が生ぬるい水を飲んだ時には「オエー」と大騒ぎをしていたものではありますが、今年は鹿のような虚無な表情を出せるようになりたいものだ。 因みに、汚い水を飲んでもお腹は壊しませんでした。 よかった。よかった。 ところで、 東大寺の入場券売り場では東大寺ミュージアム付きの券が発売されているのでそれを購入します。 東大寺の大仏殿は大きな建物ですが国家権力と強く結びついた国家仏教であった為に二度の戦乱で焼け落ちて再建されています。 今年は巳年ですが8Cの741年に聖武天皇が12干支の真ん中の天秤のようにバランスを保てるような世の中になるように天平と改元したのも巳年です。 また、戦乱後に雨晒しになる大仏を再建する供養の儀式が行われたのも巳年で、鎌倉の大仏も潮風に打たれて雨晒しの修行中ですが、奈良の大仏様は2度の建物消失の後に再建されております。 上野の大仏様は破壊されて顔だけだし、鎌倉の大仏様は屋根無しなので誰かのお金持ちが寄進してお家を立てて欲しいものであります。 巳年の意味とは天秤のようにバランスを持つ真ん中の干支であり、脱皮を繰り返して再生し成長する年であるようだ。 公私共々に今年がそのような脱皮できるような年になれば良いなと思うものであります。 東大寺ミュージアムに行くと国宝級の宝物がたくさん展示されております。 大きな大仏様の建立と共に、右手を「よっ」とあげた小さなかわいい誕生釈迦仏立像と呼ばれる仏像も作られております。 それが今の展示のメインテーマのようであり、私はそれを巳年に生まれた奈良の大仏が幾度となく戦乱や荒波を越えて脱皮を繰り返して、見上げる程の大仏像となるストーリーであると勝手に解釈するものだ。 (東大寺の巳年の再生と成長、脱皮を表現した展示で大きな大仏と小さな誕生仏を見る演出です) たぶん。 それ以外にも鎮檀具(ちんだんぐ)と言われる寺院を建てる時に土地の神々を鎮めるお供えものも展示されています。 仏教寺院を建立するのに、土地の神々を鎮める発想が何か日本的な複数構造であるように思って面白く思うものだ。 建物を建てる時には地鎮祭などを行うことは当然のことですが、そのような風習は奈良時代にはもうすでにあったようです。 金や銀、鏡に銅、太刀、装飾具、水晶、ガラス玉、めのう?琥珀?、経典などなど、奉納されたものが展示されております。 写真撮影はダメだったので記憶だけが頼りですが、それら凡人には価値を見逃してしまいそうな些細なものばかりですが全て国宝です。 私はそのような昔の宝物をふむふむと眺めるのであります。 |
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■2025年1月8日(水) |
■血走って 今日も安全運転 ご苦労サマー (字余り・季語夏) |
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■2025年1月9日(木) |
■一日一文章トレーニング。 「得るとこととは失うことであり移動転移かもしれない」 残念なことに何かを得たならば何かを失う呆則はあるものだ。 例えば、大きなモノを購入するとその置くスペースやお金は失われる。 恋人や家族が出来ると仲の良かった友達との時間は失われて疎遠となる。 人類がスマホを得たならばその利便性を得ると同時に、他のことに使っていただろう多くの時間やお金などを失う。 お金を得ようと思うと、それを取得するまでの時間を失う。 山から望む絶景の景色を拝みたいと思えば、山に登る時間や労力、お金を失う。 このように何かを得ることは何かを失うこととは表裏一体である。 特に得ることと時間やお金との関係性は強いもので、この経済社会の中では何かを得れば何かを失うとは当たり前のことである。 しかし、私にとれば得る事柄と失う事柄とはスムーズに直結しないものでもある。 この関係性とは、得るモノの特性特徴がそのまま失うもの形となるのかもしれない。 時間を使うものであれば、時間を失い。 お金を使うものであれば、お金を失い。 大きさがあるものであれば、その大きさのスペースを失う。 得ることと、与えられることとは違うのであろうか?・・・ 自らの意思で得ることとは生物学的な欲求そのもののようにも思うものだ。 そして、それらを得たからと言って失われる事柄の現実なんて考えもしない日常でもある。 これは「鋼の錬金術師」の世界の等価交換みたいな話でもありますが、私達は何かを得る時には何かを失い、再び新しい何かを得ると同時に、何かを失う日常を過ごしているようにも思えるものだ。 以前、実家に戻った時に実家に自生していた多肉植物をカットして東京まで持ち帰りました。 その多肉植物は実家では雑草扱いの植物ですが、冬になると写真のように赤く可愛らしく紅葉するのが私のお気に入りでもある。 そして、その多肉植物をカットして東京の狭いベランダで育てている。 流石の雑草の類でもあり鉢一杯に他の植物たちと一緒にモリモリとよく繁殖しているものだ。 これは何かを得ると何かを失うという話でもありませんが、夏に実家に戻った時にその多肉が自生している場所が工事によってキレイに整地されて全滅しておりました。 なので、私が東京にこの種を持ち帰ることがなければ完全に途絶していた種でもある。 分散管理の必要性を強く感じるものでもあり、Aのオリジナルが絶滅しても遠く離れた場所にAの子孫であるA1が存在する意味は大きいものだ。 これは何か量子力学みたいな感じでもありますが、さっそく、実家の庭にこの雑草を植えて再生させる計画を立てて、帰省の際に実行するのである。 防災用の使い捨ての紙製の御椀に植物を入れてラップをぐるぐると巻いて運び、そして、実家の庭の日当たりの良い場所に植え戻す自然保護活動である。 そして、この多肉植物には大根の花を咲かせた白菌にも感染させているので、いよいよ植物を良く育てる白菌も実家の庭に初進出の初感染である。 大きく育て多肉植物!ついでに、白菌も大きく菌糸を伸ばして下されと願いながら土に挿すのである。 再び雑草を植えてはた迷惑でもありますが、次に家に戻った時の多肉植物の繁殖具合が楽しみでもある。 得るとことと失うことは表裏一体であり、その仕組を読み解くと移動転移であるようにも思うものだ。 暗号資産なども移転移動を伴って動くことで初めて存在価値を高めるものであり、失ったり得たりすることの背後には常に転移移動があるように思うものだ。 これは当たり前なことではありますが、改めて考えるとそのように思うのである。 |
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■2025年1月9日(木) |
■オレたちのヒーロー。 |
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■2025年1月10日(金) |
■一日一文章トレーニング。 「今、犬が伊勢詣りをしたお話の本を読んでいる」 伊勢参りは日本人にとって人生に一度の聖地巡礼であったようで人々はこぞって旅に出て、藩は関所を立てて通行料を徴収する大きなイベントであったようだ。 人々はお金を貯めて旅に出るのは勿論、着の身着のままの無一文でもお伊勢様まで向かうのが伊勢参詣のスタイルのようであり、今ではそのような徒歩での参詣はありませんので、四国お遍路参りのような感じであったのかもと想像できる。 そして、当時のニュースでは犬が伊勢詣に参拝したことが大きく話題になっていたようで、飼い主の高田善兵衛が飼う飼い犬が突然、伊勢詣りを行い無事に国元まで帰宅する素敵なお話である。 犬がある日突然お伊勢様までお出かけして、体にお金や御札を巻き付けた立派なイッヌとなりて帰宅してビックリだ。 この犬の伊勢詣りは「明和8年(1771年)4月16日の昼ごろに伊勢をお参りする」と詳細な記録が残っているそうだ。 犬は手洗い場で水を飲み、本宮の広場で平伏して神社に参ったようである。 伊勢神宮は死にまつわる事柄は禁忌であり、肉食をする者、喪中の者、葬儀をあげる僧尼や犬や鹿など動物の類も近場からの参詣は許されない場である。 犬はそのような厳重な網をかいくぐりてお参りしたようで、当時の人々の全ての関心をさらったようだ。 犬はどのような思いでお伊勢様まで歩いて旅したのでしょうか。 出会う人々によしよしと可愛がられ、水や食べ物も頂戴し、長く未知な道をトボトボと歩いたと思われます。 時にお賽銭を体につけてもらい、参詣の印でもある御札まで背負って、とっても楽しかった旅で間違いないものだ。 現代社会のヒトとイヌの関係は鎖に綴じられて自由に行動が許されない関係性でもある。 我物心生まれる時からの蚊撲滅運動家でもあり、東京に来ると蚊が全然いないのでその活動は閑古鳥中である。 そして、今、犬の鎖を外して人と犬が共存できる道はないものかと新たな活動を考えるのである。 江戸時代までは飼い犬は鎖に繋がれることも無く、家の番犬としてのお勤めをしていたものだ。 犬がどこかに出かけたいと思えば、それを咎める人はいなかったはずで、渋谷のハチ公の頃でも渋谷駅まで勝手に散歩して夜なると自宅に帰ってきたものだ。 正に番犬機能は全くないものですが、犬は自由で鎖に繋がれていなかったようである。 犬に鎖をつけるようになった事柄はどこに起点があるのでしょうか。 西欧化の流れかと思いても、ドイツなどでも鎖をつけずにエッペラく歩いている大型犬がいるもので、鎖の有る無しは国の近代化と関係ないように思うものだ。 パンデミックな時を思い返すと、病気に過剰反応する国民性はあるもので狂犬病などの啓蒙活動と共に犬は鎖に繋がれてしまったのかもしれないものだ。 知らないけれども。 高齢化社会の複数の家庭で犬を番犬として飼えば、犬はその家々を巡っておやつを貰い、ナデナデと可愛がってもらい、異変があれば人に教えることも可能なものだ。 いやいや、 彼奴等毛むくじゃらとは結構凶暴な面もあるものだ。 我も子供の頃に鎖に繋がれていない脱走犬一匹(丸々と太った中小型犬)に追いかけられて学校の門に必死に登って助かったことがある。 スタンド・バイ・ミーな映画でも猛犬にお尻を噛まれるようなシチュエーションがありましたが、猛犬に追いかけられて壁を登る経験がないとあのシーンは撮影出来ないものだ。 実際に犬に追いかけられてよじ登るとお尻に犬の牙がかすることは常識なのである。 我、牙剥く猛犬が怖くて持ち歩いていたお気入りの玩具を落とし、それをガミガミに噛まれてブンブンと振り回されて恐怖していたのである。wwwwww そのような野犬が徒党を組むとなるととっても怖いのだ。 奈良公園のように鹿とヒトが自由に仲良く共存できる呆法はないものかと考えるとイッヌの学校を作るぐらいしか思いつかない。 カリキュラムは「人を傷つけない、人を守る、自分自身を守る」のアシモフの3原則みたいな教育で人間世界の仕組みを教えて晴れて人と犬は共存関係を構築するのである。 信号の渡り方、歩行者の優先、おトイレの場所の確認、危険な場所、毛の生え変わりの時期には必ずブラッシングをしてもらい、困った人を見つけたら真っ先に駆け寄って助けるオレたちのヒーロー犬。 イッヌの鎖を解き放ちて高齢化社会のケア“ドック”ターとして新しいお役目をイッヌに与えたいものだな~。 我らの必ずやって来る老後に向けて犬と共に生きる道も考える必要もありそうだ。 |
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■2025年1月10日(金) |
■キラ~キラ~ヒ~カ~ル~オレたちの刃。 |
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■2025年1月12日(日) |
■敵のイメージはこのような感じ。(自作の音楽付き) |
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■2025年1月14日(火) |
■一日一文章トレーニング。 「生類憐みの令(1685~1709年)について調べた」 世紀の悪法として名高い5代将軍の徳川綱吉の法律に興味を持ったのはお伊勢詣り(1771年高田善兵衛の犬)が可愛がられる時代背景である。 そして、江戸に犬が増えると庶民の懐が肥えるという言葉もあるようで、街に犬が増えるとなぜ?町民の懐が増えるのでしょうか。 今は猫の時代でもあり江戸の法則で考えるとその懐具合とは真反対である。 当時の世の中も慶長小判84.2%の金の含有量を元禄小判で57.3%まで減らす政策などもあり、それは円の価値を下げるアベノミクスと似ているものだ。 生類憐みの令にも負けない悪法や政治家は令和時代に遜色のないものだ。 早速、生類憐みの令がどのような法律であったのかネット上の原文から読みます。 一の覚えとして馬の筋切りについて記載がある。 それは拵馬(こしらえうま)に関するよしべからずな法律であり、当時流行った馬の見栄えを良くする筋切りを禁止している。 このような馬の愛護に関するお達しは前年から仰せ付けられ候のことで、競馬の馬なども足を骨折すると安楽死させることも聞いたことはありますが、諸藩に於いて目に余る馬の扱いはあったのかもしれません。 2の覚えは正室などに鳥類貝・海老などを食べるなとのお達し。 これは城内の者に対する身内に厳しく制限を課する伝達であり、私もローストビーフの食中毒事件があった時には規制によって街から我らの灯明である肉の灯りが消えて泣いていたのである。 仕方がないので自分で手味のローストビーフを作り上達するものだ。 ただ、お公家様や特別なお振る舞いの際は例外であり、現代のおせち料理で海老を食べるような感じにも読める。 日頃から伊勢海老を食べるような贅沢を禁止しているような感じでもある。 当初は子供や老人、病人や動物など立場の弱い人たちを虐待することを禁止する法律であったものが87年からエスカレートして蚊やノミなどまで殺すなと「そんな殺生な」となるものだ。 「そんな殺生な」とは、おそらく、生類憐みの令から派生した言葉であると私は勝手に夢想するのである。 よって、 蚊の撲滅運動家であり、ローストビーフ好きな私は綱吉政権下では打首相当な可能性があるものだ。 なんまいだ~チ~ン。 店員に対する振る舞い、立場の弱い人への虐待等は令和な時代でも事欠かない不愉快なニュースである。 現代でもメディアなどの器が新たなヒエラルキーを作り出す装置となっているようで、綱吉が生き物の虐待に厳しい足かせはそのような弱い者に横暴を働く人間性を危険視したのかもしれない。 私は規制反対派であり、殺生禁ずるぐらいであれば弱い町民全員に武装する権利を与える呆な考えが浮かぶものである。www 当時は4代徳川家綱から武断政治という軍事力を以って諸国を支配する政治から文治政治に切り替わる転換点である。 諸国を支配する為に行われた「末期養子の禁(まつごようし)」という跡継ぎの作れない藩は取り潰しとなる法律によって、藩が取り潰しとなると牢人(浪人)と呼ばれる流れ者たちが街に溢れて乱を計画し社会がきな臭くなる時代でもある。 徳川様はそのような武力が再び世の中を支配する世界を恐れて強く殺生を禁じたのかもしれない。 1684年には大老の堀田正俊(群馬県・上野安中藩主)が江戸城内で若年寄の稲葉正休(まさやす・岐阜県・美濃青野藩主)に斬られて暗殺されます。 江戸城内の暗殺では1703年の赤穂浪士が有名ですが、それよりも前の事件である。 ちなみに、若年寄とは若いのか年寄りなのかややこしいのですが老中に次ぐ重職で、稲葉正休は1尺6寸(48センチ)の名刀の虎徹(こてつ)と呼ばれる脇差しを使って堀田正俊を斬ったものだ。 稲葉正休は周りいた老中によって斬られ死んだようで、この刀は本来自分自信の切腹用に作ったものではありますが結果は異なるものとなった。 名刀には生き血を吸う魔力があるのでしょうか。 前述の馬が拵馬であれば、刀の見栄えも拵と書き、綱吉が「拵」という器の乱れを強く意識したようにも思うものだ。 この事件の真相は藪の中ですが、大阪の淀川の治水事業を行うにあたり稲葉正休は幕府に4万両の予算を計上したのですが、それを怪しく思った堀田正俊が予算計上に同席した河村瑞賢を呼び出して問い正したところ半額の2万両で実施できるとの言質を得て稲葉正休の任を解き恨みを買っていたようでもある。 因みに、河村瑞賢は私が好きな土建屋であり鎌倉の建長寺にお墓もある。 一部には綱吉による生類憐みの令に反対する暗殺との推測もありますが、再び群雄割拠する世の中に戻る恐怖の方が強かったのではなかろうかと思うのだ。 どろどろとしたお金の動き、動物愛護にSDG’sと令和の現代と何かそっくりでもある。 そのようなわけで、私は「生類憐みの令」で書き初めを書いた。\草/ |
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■2025年1月14日(火) |
■空を飛ぶヘビ。 |
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■2025年1月15日(水) |
■一日一文章トレーニング。 「拵・こしらえる」とは器というよりも見栄えのことである。 昨日は「拵」とは「器」の意味のように解釈していましたが、それは化かしたり、キレイに整えたりと見た目を装う本質や中身がよくわからない器の外側のことである。 1)「ものを拵える」と形あるものを作り出し、 2)「資金を拵える」と用向けの数字を供給する準備して、 3)「外見を拵える」と着飾って装い、 4)ついでに、刀剣品の外観のことも拵と呼び、 5)「作り話まで拵える」と有ること無いことの作り話まで捏造してしまうのである。 私も時によくわからないモノを拵えて作るもので、また、話を拵え、ネットの拵えモノに惑わされてしまう毎日でもある。 そうなのである。 私達の世界はとっても拵えもので出来た世界なのである。 そして、また徳川綱吉の時代も武断政治が終わり武家諸法度も緩められ、服従を誓う人質制度も1665年に廃止されて、現代のような見た目重視な文治政治な拵えものの世の中となっていたのかもしれないものだ。 1600年の関ケ原の戦いから数えても85年後のことである。(1685年生類憐みの令) 武器でもある馬が拵馬(こしらえうま)として装飾品化していくことは戦車に戦闘に無意味な装飾品を付けていくようなことと同義である。 勿論、刀も拵(こしらえ)と呼ばれて飾りモノとなる。 平和になるとはそのようなことだ。 それに反して名刀虎徹とは質実剛健とした刀のようでもある。 それは戦時体制のような軍事力が支配する武断政治とはそんなに長くも継続できないとも考えることも出来ますし、また、軍の規範の緩みは平和な時代の到来と共に溢れる浪人達のきな臭い動きと裏腹でもあって、首脳部は再び内戦が行われる世の中に逆戻りしてしまうかもしれない危機感はあったのかもしれない。 1657年は江戸の街の55%を消失する明和の大火があり江戸城も消失して幕政も随分と弱体化しています。 そして、現代は何かと考えれば、グローバリズムは終焉し文治が支配した世界から武断政治のような側面が表れ出てきているようにも見えるものだ。 「文治の世の中=拵・見た目」「武断の世の中=器・質実な中身」のフィルターな視線も結構有りではなかろうかと思うものだ。 「こしらえ」とはおばあちゃんが良く使っていた言葉でもあり、方言かと思えば生類憐みの令にも出てくる古くからある言葉でもある。 私の世代以下ではあんまり誰も使わないような気もするし、あまり聞かない言葉でもある。 そして、拵えの漢字も読めなかったもので、世の中はこんなにも見た目重視で拵えな世の中だと言うのに拵えな言葉が死語である不思議である。 今だと何という言葉に訳すと良いのでしょうか? 昨日は首が寒いので“とっくり”が欲しいと言っていたら、とっくりとは何のことだとタートルネックの話かと盛り上がるものだ。 ネットで検索しても“とっくり”とは容器のことであり、とっくりとタートルネックは直接結びつかないのである。 しかし、会話の中でとっくりのことをタートルネックと解釈する人間の読解力の不思議はあるもので、聞き直すことでかろうじて生きている言葉のようにも感じるのだ。 最近、特に生類憐みの令など原文を読むことで「こしらえ」や「とっくり」と頭の中も古典化していますが、「こしらえる」もそのような使わなくとも理解できる不思議な言葉でもある。 ところで、 写真は私が昔作ったガンプラ。 ゴリラガンダムと名付けて、せっせ、せっせと大きなタンクを積み込み、腕も大きな腕に取り替えて全部ずんぐりとゴテ盛りの重量級のガンダムな拵えものである。 箱の中に収納されていたものですが休み中に掘り起こして愛でていたものである。 このようなプラモデルは飾る場所も無く、作ったは良いのですが、その後にどのように飾れば良いのかわかないプラモデルでもある。 持って遊ぶとしてもパーツがポロポロ落ちてゴリラガンダムのブースターエンジンが床に落下してエンジンブースター1個が行方不明である。 あ~さてどうしたものかの拵えモノ。 消えたブースターは見つかるのでしょうか?と撮影していたならば今度はズサの方が倒れてランチャーが折れてしまった-のである。 あ~鬱陶しい~捨てようかとも思うけどもっと改造して作り込みたい気分もあるものだ。 そこで一句。 「ポロポロと 落ちて壊れる ガンプラの 何のために 作るものかな」 (ALLシーズンの季語無しである) |
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■2025年1月15日(水) |
■行け行けヘビ^^^^^ののぼり。 |
■2025年1月16日(木) |
■一日一文章トレーニング。 「小判の質と量を調べた」 今年も始まったばかりですが、もうすでに今年購入して良かったものがある。 それは湯たんぽ。 寝る前に布団に足元に入れると温かで、腕に抱えてもこたつみたいでポッカポッカと暖かくてぐっすりだ。 湯たんぽが来るまではホッカイロを消費しておりましたが明らかに湯たんぽの方が経済的な予感。 湯を沸かすエネルギー料金とは私には計算できないのですが、布団の中に湯たんぽがあるだけで朝までそれなり暖かくて快眠である。 おかげ様で朝起きるのは大変で、そして、そのような湯たんぽの形状は立てて乾かすことの出来る下半分がないステキな小判形である。 そうなのである。 小判の形とは何と言えないとても良い形をしているものだ。 昨晩は江戸時代に発行された小判の金の含有量と重さ質と量を調べた。 江戸時代をざっと俯瞰すると人々の暮らしは搾取されてとても大変そうな時代である。 そう言えば、現代もなかなかの搾取率であり江戸時代にも負けない状況になって来ているようにも思うものだ。 さて、 小判のデザインは1588年に豊臣秀吉が発行した慶長大判のカタチにならったもので、その意味に於いては良くぞ俵状?お米型?の不思議なカタチを採用する秀吉公のセンスを感じるものだ。 普通に考えれば穴銭から通ずる丸型にしてしまうのが世界の金貨の流れでもある。 このようなコバンザメみたいな変わったデザインを採用するところが絢爛豪華で豊かであった安土桃山文化の面白さである。 そして、初めての小判を拵えたのは徳川家康の1601年の慶長小判。 秀吉に許可を得て金貨の小判を作ったようで、移動できる高額なお金の価値を支配することで天下国家の礎となったようである。 その時の慶長小判の金の含有量は84%で重さは18g。 この慶長小判を基準として考えると金貨の質と量は時代と共に減価されているものだ。 その理由は災害の復旧費の捻出、財政赤字の穴埋め、海外の金の価値の為替差等によって金の質や量も減少する。 これは金利が上がると財政赤字が膨らんで大変だと、国民の富をかすめ取って国の体を維持する現代の状況と似ているものだ。 歴史から学ぶとすれば、徳川幕府も滅ぶし、鎖国などをしても国際関係によって影響は受けるし、国民の資産や価値を守る意思を持たない政権とは継続できなくなり、どのような政権も必ず確実に滅ぶのである。 それにしても264年の長きにわたって江戸時代の人々は搾取に耐えたものである。 令和のオレらは264年の自壊まで我慢出来るのでしょうか? 現代の価値観から判断して地獄の江戸時代を見ます。 1695年に5代徳川綱吉が元禄小判を発行。 金は57%で慶長小判よりも27%減価し重さは同量の18gである。 金の量を減らした理由は明暦の大火で江戸の半分以上消失した災害による赤字の補填と、金の含有量を減らして通貨量を増やし財政状況を改善しようとしたようだ。 しかし、その策は芳しくなく市中ではインフレが進行して犬公方と呼ばれた綱吉政権が終わるまで景気は悪かったようである。 1710年に綱吉は金84%に戻し、グラム数を9gに減らした宝永小判を発行して経済を安定させようとしたようだ。 そのように考えると「江戸の街に犬が増えると景気が上向く」という言葉は綱吉の生類憐みの令が終わり街に犬が戻ってくると人々は景気も良くなったという言い回しなのかもしれない。 1714年には6代徳川家宣が綱吉の政策を改め新井白石と共に改革を行い、幕政の威信の低下を防ぐ為に正徳小判の発行を行う。 金の含有量と重さは家康の慶長小判と同じ84%の18gに戻す。 しかし、鎖国という海外との繋がりを断ち切っている為に大飢饉が起こるなど社会不安は続く。 翌年の質の悪い小判を回収する為なのか?1715年に84%18gの同等の質量の享保小判を発行する。 1736年の8代徳川吉宗は金66%13gの質量を落とした元文小判を発行する。 景気が上向いていたようで町民に対する倹約令を発して景気を減速させようとしていたようだ。 インフレで米の価格も上昇し、吉宗は米価安定に尽力したので米公方とも呼ばれている。 1819年には11代徳川家斉によって文政小判が発行される。 金は56%13gで質量を落とし財政状況の悪化が見受けられる。 1837年には12代徳川家慶となり金57%と質を少し上昇させて重量を11gに下げた天保小判を発行する。 その当時は大飢饉や大塩平八郎の乱などがある社会不安の広がる時期でもある。 1859年には14代徳川家茂が安政の小判が発行する。 金57%重量9gで海外との金の価値差から国内から金の流出を防ごうとしたようだ。 翌年の1860年には金の価値がさらに国際的に高まったようで、金の含有量57%3gの小さな万延小判を発行してさらなる金の海外流出を防ごうとしたようだ。 このように小判の質と量を見ると徳川幕府の威信の流れを垣間見ることが出来る。 |
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■2025年1月16日(木) |
■脱皮。 |
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■2025年1月17日(金) |
■一日一文章トレーニング。 「我が道を照らす灯火、甘いささやき、壊れやすき儚さのケーキ」 私が力説しても説得力はありませんがケーキはアートなのである。 これは間違いのない事実である。 ケーキとは見た目にもデコレーションされていて美しいもので、そのようなケーキを持ち帰るとなると丁寧に化粧箱に入れて倒れないように収納してくれるものだ。 過保護という言葉が食べ物業界にあるならば、それはケーキにのみ与えられる言葉である。 そして、ケーキはそろ~り~そろりと能楽のように丁寧に持ち帰りはするものの、どこかのどの部分かは必ず崩れてしまう残念なケーキなのだ。 ケーキはまるで私みたいにすぐに壊れてしまう取り扱い注意な壊れ物である。 私の持ち方が悪いのだろうか。 いやいやいや~ ずーっと手に持っているのも邪魔なのでリュックに入れたり途中でお茶にしたりしたりと様々な角度面に晒されてケーキは傾くのである。 ケーキを壊さずに持ち帰ることが出来る人は寸分違わない集団で行進する人たちぐらいしか無理なような気がするものだ。 昨日のケーキは下をしっかりとセロテープで固定してくれていたのですが、頭がコケた。www 途中にウェンディーズなどでも休憩したので、まっすぐな帰宅ではないものだ。 久しぶりのウェンディーズでもあって何だかトレードマークの女の子が随分と成長しているのではと議論になるものだ。 世の中にこんなにもくだらない話はあるかと思うのですが、昔のウェンディーズのマークを調べたら、それ程に子供ではなかったのである。 私の脳内の記憶だとウェンディーズちゃんは長くつ下のピッピのような赤毛の女の子のイメージだった。 どうせ食べるものだから壊れてしまっても良いと言えば良いのですが、店頭で見たあの美しい芸術的なケーキのカタチが壊れてしまうのは何とも勿体ない。 ケーキ職人は自宅に持ち帰ったら必ず壊れてしまうケーキのデザインについて苦汁をなめているかもしれないものだ。 買ったケーキをどのようにしたら家まで無傷で持ち帰ることが出来るのか?ジーザスそれは大問題なのである。 そこで思い出すのがドイツの街角で買ったケーキのこと。 海外のとっても甘そうで大きなケーキを購入しホテルまで持ち帰ろうとしたら、記憶はあやふやなのですが紙皿みたいなのにドーンと置かれ、そのままウェイトレスのように持ち帰った記憶である。 何だか皿の上にケーキを置いた時点でケーキは傾いていたような気もするもので、異国情緒の高まる通りを皿の上に置いたケーキを生でおっとおっとっととホテルまで持ち帰るのである。 クエストの成功! テイクアウトでその辺でケーキを買い食いするのかと思ったのであろうか?いやいや、ドイツ人も紙皿に置いたまま持ち帰っていた。 ケーキを紙箱に収納する概念はないのかもしれない? また、紙皿でもなくてケーキ用の厚紙のような感じであったかもしれない。 ある意味ケーキは皿上に置かれている方が箱入りのケーキよりも常に見えていているので壊れない可能性はあるものだ。 しかし、箱入りでないと常に雑踏の中に揉まれ、少しお店に寄り道をしようと思っても無理で、お茶にしようと思ったら皿の上に置いたケーキはそのまま他店のカフェでお茶菓子となって、他店のカフェオーナーは上がったり下がったりなのである。 壊れやすいものの可視化は有りですが、見えなくすることでの行動力がアップするジレンマは、これは何かの学問かもしれない。 日本でケーキを購入して紙皿の上に置いて渡したならばSNS界隈をさわがせる間違いのない面白さはありますが、ケーキを複数購入して絶対に動きませんとの大名買いであればケーキの破損も少ないですが、最近のケーキは随分と高額でもあるのでポツポツ買いが一般的でもある。 そこで、デパ地下の高級ケーキを購入して、雑踏にもまれ、お買い物やお茶もして、夕方に帰宅するとケーキはどのようなカタチになっているのかの発表会は面白そうでもある。 忘れていなかったらやりませう。 ケーキは丁寧に持ち帰ってもダメージがあるもので、そのようなケーキが長時間移動すれば、さぞ芸術は爆発しているように思うものだ。 ケーキを壊さずに持ち帰る方法を考えながら、話の種が欠乏するこの世の中で、我らの道を照らす灯火がローストビーフだけでないことに気づくのである。 しめしめ。 勿論、ケーキの絵も芸術なのでこのようなケーキで仕方がないのである。 |
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■2025年1月17日(金) |
■ケーキはアートじゃけん。 |
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■2025年1月19日(日) |
■ニャオ♪(自作の音楽付き) |
■2025年1月20日(月) |
■一日一文章トレーニング。 「災害はどこでどのように起こるかわからないものである」 災害が頻繁に起こる国と、そうでもない国もあるようで、調べると、オーストラリアやスウェーデン、フィンランド、イギリス、フランス、スイス、シンガポールにバリ島は災害リスクが低い国に定義されるようだ。 メディアの発信具合かもしれませんが、私の知らない災害ニュースは世界にはあるのかもしれない。 それでも大きな災害とは一部の地域や国に偏っているようにも思うものだ。 子供の頃に見ていたゴジラ・戦隊・仮面ライダーの怪人たちでも定期的、または毎週と、次々に日本に襲来するものだ。 世界には資源も食料もたくさんの国があるのに、狙うのはなぜ日本なのか?と思うの子供心である。 怪獣や怪人は戦う準備が整うまでは待ってくれますが、襲撃は熱心でしつこい。 アニメだと何でもない回もあってホット一息できる瞬間もありますが、特撮系にはそのような時間は欠落しているように思うものだ。 あったら御免候☆ 心痛めたキッズたちはそのような幸せな時間の中で癒やされますが、いじわるな物語の創造主は幸せフラグが立った次には180度反転させた世界に逆戻りさせるのである。 人類の発展とは人が想像することを実現することで発展するイマジネーションの連鎖でもある。 しかし、ゴジラやスーパーマンを空想したところでそれらは生まれないものだ。 アイアンマンぐらいなら遠い未来に作ることはできるような予感もありますが・・・未来人はゴジラみたいな生物を生み出している可能性もあるものだ。 人が何かを妄想すれば妄想するほどに現実化するお話は妄想戦隊アキバレンジャーみたいでもある。 それほど人の念ずる力とは強いのかもしれない。 よって、退けても退けてもやって来る災害の妄想に対し、それを跳ね返す無敵のヒーローで中和しておいた。 よっし! さて、 現実とはなかなかに不条理なもので、東北の地震では原子力発電所の問題で復興も出来ず、能登半島でも過疎地域な為に再建が難しいようで、我が国は徐々に災害に対して再建できない国になりつつあるのかもしれない。 過去の記録を辿ると方丈記では鎌倉時代の災害についても知ることが出来ます。 ・安元の大火事(安元3年・1177年) ・治承の旋風(辻風・治承4年・1180年) ・福原遷都(治承4年・1180年~1180年) ・養和の飢饉(養和元年・1181年~2年ほど続く) ・元暦の大地震(元暦4年・1185年) と鴨長明の住む京都では短い期間に5つの災害を記録します。 辻風とは台風ではなくて竜巻みたいなもので、京の街はこの竜巻によって破壊されて福原に首都機能を移転したものの、1年間を待たずに京に戻ったようである。 鴨長明はこれを政治による人災であると言っている。(たぶん) 竜巻と遷都は大火事が起きてからの復興4年後の災害であり、その後に飢饉と地震が立て続けにやって来てもう無茶苦茶だ。 無常観とはこのような時代背景から生まれたようだ。 ということで防災バックの見直しを行います。 災害用品の見直しは家族を恐怖させるのに十分な行事である。 地震があってもすぐに取り出すことが出来ない場所からリュックを掘り出して中身を確認すると「こんなのはいるの?」と言う話になるものだ。 先ず、第一に非常時の照明系統の電源が逝っている。 再充電してもうんともすんとも動かない備蓄品で、長期間不使用で放置されている電子機器のバッテリーは駄目になってしまう可能性が高いものだ。 我、考えた。 災害があった時に日常品をそのままバックに詰めるのがベストなのでわ? 同じく使っていないヘッドホンや電子機器のバッテリー残量が異常に減っているもので、電気製品は使わないと経年劣化でベトベトしバッテリーも駄目になる。 写真は毎度、バックを開ける度に出てくる生茶のパンダ。 実家から災害の非常用に持っておきなさいと渡されて疑問に思いながら防災バックの中に入れていたものである。 口からは葉っぱが出てかわいい奴で、ペットボトルケースも底から開封できる特殊ケース入だ。 ペットボトルの容器にはパンダと共にビニールの中に入った液体カイロも一緒に入っており中に入った金属をパチっと折ると発熱するようだ。 そして、お湯で温めると何度も再利用できるらしい。 再利用方法は中に詳しく書いているのですが、これはなかなか面倒でハードルも高い。 くんくんと匂いを嗅ぐと若干お酢のような匂いがするもので成分表を見ると蒸留水と酢酸ナトリウム水溶液で中の金属板を押し曲げで発熱反応するようだ。 ちなみに、カイロのあたため時間は約2時間。 このパンダの中に入れて温めて持つようだ。w 確かにこのパンダを持って手を温めたなら癒やしはある。 |
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■2025年1月20日(月) |
■押し合いヘビ試合い=中和。 |
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■2025年1月21日(火) |
■一日一文章トレーニング。 「これは先日も書いた今年に購入して重宝している湯たんぽ」 昔は金属製や陶製が主流だったようですが、今はプラスチック製の湯たんぽに沸騰した熱湯を入れても大丈夫。 ぐつぐつと沸騰したやかんのお湯を注ぎ、蓋をして袋に入れるだけでの寝る前のお仕事。 私の場合はソフトタッチになるようにタオルを巻いてから袋に入れている。 ドイツだと氷もそのまま入れることのできるゴム製の湯たんぽが薬局で売られており購入しましたが、医療用品に近い部類なのかもしれない。 湯たんぽの“たんぽ”とは唐音(とういん?とうおん?)と言う中国由来の発音をそのままに使用しているようで、「ゆーたんぽー」みたいな感じであるよ。 古い湯たんぽで検索しても小判型が多いもので、豊臣秀吉の時代にはもうすでにこのような小判型の湯たんぽは存在していた可能性は高いものだ。 表面のひだを付けることで接地面が大きくなったり、フラットな表面よりも熱伝導等が良いのかもしれない。 なので、秀吉公が贈答用に作った大判のカタチとは「湯たんぽのように肌身離さずに金で温まっておくんなまし」と成金風な洒落かもしれない。 そして、そのような大判をもらった徳川家康はその湯たんぽ型の金貨のミニチュアを作りて日本中の津々浦々まで人々の懐を温めて、またヒンヤリとしたお金の価値を生み出すのである。 湯たんぽが時代を動かしたのかもしれないと考えると胸熱なデザインでもある。 ところで、 私が購入したのはタンゲ製の湯たんぽ。 この19センチぐらいの小判型の湯たんぽは下部分がカットされて立つように設計されている。 この何かスコッと立てて置ける感じが特にお気に入り。 呼吸するキャップ(別売り)という謎なキャップも同時購入して{プシュー}と空気を中和させながら湯たんぽ内の気圧を保ちて容器が壊れないようにしている。 この湯たんぽは実家に帰った時にお布団の中に入れていたらとても暖かくて気に入って購入したものだ。 このような人と人の繋がりから世界が拡張して広がっていく感覚はとっても好きだ。 防災時やキャンプ使用などを考えて一番小さくて機動性がある600MLサイズと大きな2.2Lの大サイズで揃えた。 湯の量が増えれば温める力も強大で大サイズをお布団の中に入れているとお布団がこたつみたいに暖かくなるものだ。 足冷え対応に使用しているのですが、湯たんぽは足寒い部分に直接温めるよりも、お腹や体の中央で抱っこしながら抱えているとその内に体全体足の先までポカポカと温まる呆則を見つけるものだ。 そうなのである。 日々、マイ生活も進化して改善し進歩しているのだ。 朝になり湯たんぽのお湯もそれなりのぬるま湯である。 ぬるま湯でもそのまま捨てると勿体無いので猫が顔を洗うような洗い方で湯たんぽの湯をちょろちょろ流しながら顔を洗うのである。 キレイな沸騰した水道水を使っているので、このお湯を再沸騰させてコーヒーを飲んだとしても多分大丈夫。 ですが、それはキャンプや災害時にとって置くことにする。 この猫みたいな顔の洗い方はおばあちゃんによく注意された洗い方でもある。 「朝は気張ってゴシゴシと顔を洗いなさい」とよく注意されたものだ。 そう言えば、この猫みたいな洗い方と共によく言われた言葉は、悪い記事は勿論、良い記事であってもお願いだから新聞にだけは載らないでくれと口酸っぱく言われていたものだ。w 何で良いことでも駄目なの?と聞いたならば、良いことでも絶対に駄目だ!と言っていた。ww 本当に面白いものである。 ネットはOKかな? おばあちゃんの家訓 1)猫の洗顔のように顔を洗わない。 2)新聞には絶対に載らない。 それ以外にもたくさん教えはあるものだ。 こういう教えは湯たんぽみたいに懐を温めるものである。 ピチャピチャ。m(_ _)mT 洗っている-のだ-www |
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■2025年1月21日(火) |
■BtoB(バック・トゥ・バック)。 |
■2025年1月22日(水) |
■一日一文章トレーニング。 「自分の住む街に自慢できる象徴する何かがあることは素晴らしい」 街に象徴となる建物や自然などの観光資源があることは素晴らしいことだ。 しかし、大抵の街にはそのような誰にも自慢できるような街のシンボルなんて無いのが現実である。 そこで、わが町のランドマークを勝手に夢想してみた。 ・縦型の古墳:日当たりが悪くなるのですぐに潰されそうだ。そもそも古代人が縦型に作らないと話は始まらないもので地震が来たらポキっである。 ・街の下にある夏でも涼しい地下世界:防空機能も含んでいるので涼しくて良いインフラですが、ジメジメと壮大なお化け屋敷となる可能性も。 ・リスの住む街:空き家問題には立派な大木に置き換えて、奈良の鹿ならぬ街のリスが住めば個人的にはうれしい。ですが、確実に怒る住人も多いだろう。 何を考えてもどのようなことにしても、無限のお金と労力がかかりそうな予感がするものでアイデアも無い。 また、作ったとしても街のシンボルを維持することは大変そうでもある。 そのように考えると、元から素晴らしい自然があることや、街の象徴となるような建造物を作った人たちがいたことには感謝しかないように思うものだ。 方丈記の京都を見ても奈良の東大寺をみても何度も起きる震災や災害、破壊を乗り越えて大切に復元し守ってきたものが現在まで残っている。 東京の街の象徴的なものとは何だろう? 東京タワーのロウソクのような赤い灯りに心ときめくものである。 新宿都庁の雲がかったサイバーパンク感も好き。 天まで昇るスカイツリーの大きさにも驚くものだ。 皇居の森など東京駅の真上には巨大な無の空間が広がっており、東京の街を象徴するものはたくさんある。 私の知っている範囲の江戸東京のシンボルであったような建造物は壊れても復元されない事柄は多いように思うものだ。 江戸城は火事によって消失し石垣だけ。 上野の大仏や寺院群も戦火や破壊などにより消失していますが再建することもなく美術館や博物館になっている。 東京には人もお金もたくさんあるのに、なぜ復元できないのか?と不思議なものだ。 江戸城再建は政治家が国費で再建を口にしたならば叩かれていたような記憶もあるもので、そのような意味に於いては再建を言い出す言い出しっぺの人望みたいなものも必要かもしれない。 なので、前述の東京らしい建物も耐用年数が来ればさっさっと壊されて再建されることも無いように思われて、あの東京タワーの灯火がいつか消えてしまうと考えればとても寂しい。 墓場のランナーは時折通る谷中霊園の真ん中にもかつて東京の象徴と言われた五重塔があったことを知っている。 そこは今は殺風景な小さな公園となっており、住民の憩い場。 東京に来ていつも不思議に思うことは何で?墓場にこんなにもくつろいでいる人が多いのでしょうか? ベンチに座りお弁当やお茶をし、子どもたちが遊ぶ墓場の公園で、自分も通り抜ける墓場である。 五重塔は東京で一番高い五重塔であったものが2度の火事で消失して今は更地となる。 史跡の立て看板を要約する下記のような歴史だ。 1644年・正保元年に創建 1772年・安永元年の目黒行人坂の大火事で消失 1791年・寛政3年に近江(滋賀県)の棟梁48人によって再建される 1892年・明治25年に幸田露伴はこの五重塔をモデルに小説「五重塔」を執筆する 1908年・明治41年に東京都に寄贈され、震災・戦火にも遭遇せず 1957年・昭和32年に放火によって消失 明治の文豪の文章はとっても難しいのですが幸田露伴の「五重塔」はネットでも読めるようなので今度読んでみましょう。 放火による原因は不倫による男女の痴情のもつれによる焼身自殺だと言われている。 ですが、事件現場に第三者がいたとの噂もあって真相は藪の中だ。 金閣寺も燃えましたが長い歴史を繋いできた建物に放火する意味がわからない。 谷中霊園は墓場なのに人がやたらと多いこともあり、恐らく昭和32年の昔でも夜でも昼でも朝でもやたらと人がいる墓場で間違いないように思うものだ。 なので、目撃者も多いような予感。 実際に延焼中の五重塔の写真も撮影されている。 明治に東京都に寄贈ということで霊園まるごとの寄贈なのでしょうか? お墓には徳川慶喜公や一万円札の渋沢栄一、大名のお墓などもあり、都のお金で宗教施設を再建することは米国のトランプさんみたいな人物が出てこない限り無理ごとかもしれない。 自分の住む街に象徴する何かがあることはとっても素晴らしい。 東京の街は江戸から東京と名前が変わったように、過去から繋ぐ街というよりも現在進行形の街かもしれない。 |
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