*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年11月4日(火)
■一日一文章トレーニング。

「読書の秋ですが、三連休とは読書もしない何もしない秋なのである」

昨日は木枯らし1号が吹いて、植物たちも大風に吹かれて1日中ゆらゆらと枝葉を揺らしていた。
私は何もなく何も起こらない一日を過ごすもので、週末に倉庫の箱でふっ飛ばして壊した電話の貯金箱を修復しようと考えていましたが一切触れることもなく一日も終わる。
何もなく何も成さないただ過ぎ去るだけの時を過ごすもので、明るかった外が急に暗くなっただけでも「あーあー」な気分となる。

こうして振り返ると、このような過ごし方は子供の頃からだ。
暇な夏休みは雨降って地面に水が溜まる様子をただ窓から眺めるもので、アリを見ているだけでも、石を拾っているだけでも楽しかった子供時代だ。
アリの行列を追跡するとその先にはセミやトカゲの干からびた死骸を発見する。
そのような食べ物を運ぶアリの行列に1本線を引けば、行列はたちまち規則性を失いわちゃわちゃと大混乱。
時にはバケツに浮かべた笹舟の遊覧船にアリたちを招待して地獄の観光船が出発する。
最終的にアリの巣穴に丁寧に水まで流し込む子供の凶暴さもあって、子供たちにとってアリや昆虫とは良き遊び友達である。
「アリか?ナシか?」と考えても「ナシ」の、アリの仕返しは真っ当に受けて立つ。

これらは日常の中のちょっとした変化が楽しいものかもしれないもので「三つ子の魂百まで」で何にもしないでも結構楽しい性格だ。
びっしりと小さな字で予定を書いた手帳を開き「その日はダメ」な充実タイプの人も多いと思うものですが、私の場合は手帳を使いはじめた数日間自慢げに手帳を持ち歩き、あまりにも予定が少なすぎて三日坊主で挫折するタイプでもある。
何ヶ月後に「手帳はどうしたの?」と聞かれればもう手帳は持っていないもので、予定はちぎったメモ帳に書いて持ち歩くズボラさだ¥ー¥。
その意味では時とは追いかけるのでは無く、時とは過ぎ去っていくものであって、井伏鱒二の「山椒魚」を地でいくような感じ。

そして、寒くもなればこの3連休に夏仕様のシーツから冬仕様のシーツに変える必要もあったもので「俺はやったーやったー」のである。
実際は植木鉢の配置替えも行い、なんもかんも結構やった。
ですが、身についたことと考えれば唯一の冬布団の衣替えだ。
上の布団は先取りした冬用の羽毛布団で暖かですが、下のシーツは夏用でいかんせヒンヤリと寒くボア布団にぐるぐると包まり”春巻き”状態で寝ていた。
「俺らと春巻き」とは夏休みの読書感想文の定番の「老人と海」みたいでもあり、流石に家族が「秋に春巻き」とは困ったものだ。

そう言えば、夏の読書感想文と言えば「老人と海」な気もするもので、私の場合はヘミングウェイの「武器よさらば」だったかな。
ドストエフスキーなども読んでみようかとも思ったのですが、塾の先生がドストエフスキー推しで要所要所で必ずドストエフスキーを推しをして、私の中では先生の髪型もドストエフスキーヘアーでもあったもので、私はドストエフスキーは読まなかった。
今、ドストエフスキーの画像を検索すると全く異なる髪型で先生の髪型はペタッとポマード風な七三分けでもあった。

私は「こりゃいかん!」と奮起して押入れから冬用寝具を掘り起こす一大作業を行う。
「よっこらよっこいしょ」と布団を担ぎ、まだ使用しない毛布類も取り出しあれやこれやとしていると、湯たんぽセットが出てきた。
湯たんぽセットはユニクロで売られている丈夫なプレゼント用の袋に入っていたもので、そこに入れたことも、押入れに入れていたことさえもすっかりとド忘れてしている。
探し物の湯たんぽの発見とは偶然の発見でもあった。
ユニクロのプレゼント袋とはこのようなモノを纏めて保管するのに良い感じで、出来ればマジックで「湯たんぽ」と書きたいのですが貧乏性なので布に直接書けない。

そして、

ついでに押入れから「リフトS」と書かれた謎の箱も発掘される。
さっそく、「何かなー」と箱で開けると「オキュラス・リフトS」のマスクとコントローラーや接続線など一式が入っていた。
追加のイラスト絵も描かれているものの、文字も絵も何を意味するのか認識出来なかった。
せめて「オキュラス」と書けばイメージ出来たものの、何故か「リフトS」と書いているボンクラさだ。
夏場は汗を掻くものでマスクを付けることは出来ませんが、寒くなると丁度良い季節でもあるので久しぶりに遊んでみたい。
押入れから出したり入れたりと大変ではありますが、押入れに入ると忘却してしまう確率は高い呆則で、悪い思い出や恥ずかしい事柄の全部は押入れに入れて仕舞うのが良いこと也。

ということで、

押入れの中は結構な大きな魔境空間でもあり、私は熊の冬眠のようにふかふかでぬくぬくな布団でとても快適だー。

「では、早春の暖かくなった日にまた会いませう、おやすみなさい」。

 

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■2025年11月4日(火)
■VRの世界。

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■2025年11月5日(水)
■一日一文章トレーニング。

「漬物自慢はスカスカ自慢」

じゃがいも、さといも、大きな唐辛子に、大根、にんじん、どれも立派に育ったお野菜ばかり。
収穫の秋の店頭に並ぶお野菜はどれもゴロゴロと立派に育ったお野菜が多くて、そのような大きなお野菜を抱えてお家に帰る。
春はあけぼの、秋は夕暮れと、カラスが夕暮れ空を一つ二つ三つと上野のお山に帰るように、真っ黒な服装の私も立派な大根を抱えてお家に帰る。
これは勤勉の話である!

そして、お家に帰った後はそのような野菜たちを塩漬けする。
大根は皮が一番美味しいもので捨てずによく洗って漬ける。
大根の茎や付け根の部分も捨てずによく洗い土や汚れを落として一緒に漬ける。
ついでに、きゅうりや茄子、唐辛子なども入れて一晩常温に放置したのが写真の自家製お漬物。
秋の涼しさで発酵するのかもわかりませんが冷蔵庫に入れずに常温のまま放置した。
赤白緑の彩りがとてもキレイな色で「どうだー」とご自慢な一品だ。
ご飯も進みそうな色合いではありますが、何の情報を参考にせずに勝手に適当に塩漬けしただけの不味いかもしれない食べてからのホラー。
ほらほらほらと漬物はその時々の旬と気候や湿度を鑑みて漬けるお漬物で、お漬物だと京都の「古漬け」や「柴漬け」が好き。
京都の任天堂ミュージアムに行った時にカフェでピクルスかわりに柴漬けを使ったハンバーガーを食べましたが、これはとても美味しかった。
バーガーでも人生でも、やっぱりご飯の進む漬物のない人生とは面白みに欠けるかもしれないもので人生にも自家製の怪しい漬物は必需品である。

ということで、

このようにちょっといい感じに漬かった漬物を自慢するように若かりし私は“漬かった・・・”いやいや“使った”ばかりの手帳を自慢げに持ち歩いていた。
そのような手帳とは合成皮製の大きな手帳でたっぷり書ける手帳である。
セカンドバックや大根のように抱えて持ち歩き予定や気になったことなどをカキカキ~メモメモする。
そして一通り自慢げに持った後は、やっぱり重くて、書くような予定もなく毎度の三日坊主を発動させる。
日記は昔から適当に気合と根性の横暴によって書き殴ることも出来ますが、手帳やルーズリーフは必ず三日坊主を発症させる。
そもそも、手帳で管理するような予定が無いのが大問題で、気合と根性で予定は作れないようだ。
時間や分単位の予定なども当然無く、毎日同じようなサイクルで同じように動くようなのんびり人生でもあり、大抵の事柄とはメモ帳に書けば事済む。
パスワードのメモが誤字脱字で間違っている罪状も持っているもので、メモは後から読むと汚すぎて難解である。

予定がスカスカというのは何だか淋しい。
それは何だか時代から取り残されたような寂しさでもあり、隣の手帳がカラフルな極文字でぎっしりと書かれているならば、我も負けじと耳なし芳一の坊主みたくぎっしりと隙間なく手帳を埋めたい。
だがしかし、手帳は埋まらない。
予定とは自ら積極的に作り出して埋めていくのかなとも思うのですが、それは強迫観念のようだ。

時に「アートやデザインとは空白なのだー」との達人たちの話も聞く。
確かに空間があることは素敵なことだ。
ならば「手帳も空間なのだー」「あーあ~~」と私も声高く唱えた。
スカスカの手帳を開き空間談義とは「スカスカ手帳のSKA」のようで、「エイヤー♪スカ♪スカ♪」とSKAは良い音楽だ。

手帳をぎっしりと埋めるというのは才能なのかもしれないもので、そのような思い入れのある手帳は捨てるのも困難のはず。
そうなると、死後に神保町辺りで売られる運命かもしれなくて陰キャにニヤニヤと読まれる悲劇かもだ。
なので、空間があまりにも清々しくてポイポイと捨てられる軽い手帳もまた良い手帳である。
予定の類はデジタルでも全く管理しないメモ派であり、ポケットにぐちゃぐちゃと突っ込みポイッとゴミ箱へ。
時折、道にメモが落ちているのを見かけると仲間がいるなーと思う。

 

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■2025年11月5日(水)
■色とりどり。

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■2025年11月6日(木)
■一日一文章トレーニング。

「漬けるのか、漬けられるのか」

秋のお野菜でお漬物を漬けると、冷蔵庫の中に入れられたまま忘れているお漬物のことを思い出す。
冷蔵庫の守護神、忘れられたアーク、月日が経ちすぎた白菜とは「ツケツケツケツケー漬けスギー」とお前は十分に漬かっている。by ケンチロウ
で、ツケ払いは絶対にダメ!

おにぎりを作った時に1枚そえるだけでも美味しさが倍増するお漬物で、白菜のお漬物とはシャキシャキとした歯ごたえが美味しい。
白菜は安い時に一玉で購入したもので、人間の頭2個分ぐらいの大物で消費するにはあまりにも大きかったので一部をお漬物にした。
米価も高く、パン食も増えて米離れも進むもので漬けたお漬物のことを忘れている。
冷蔵庫をピーピーと鳴らしながら「漬物はどこか?」と発掘すると想像していた容器とは異なる容器に入った漬物を見つける。
そう言えば冷蔵庫の圧縮収納で小さな容器に移し替えたような記憶。
透明だった液体は混濁した乳白色となり怪しさ満天のオーラを発している。
さっそく、フタを開けるとお漬物とお酢の香りがぷんぷんと、これはよく漬かったお漬物である。
内容物は白菜と塩、とうがらしのお漬物で、そう言えば、筋肉マンたちの大好物の水切りヨーグルトのホエーも少し入れたかもしれない。
ホエーの消費はいまだに解決していない葛藤中で何でも適当に投入してしまう困ったホエー話だ。
私は爪楊枝を取り出して恐る恐る白菜の漬物を一枚取り出してパックと毒見。
私が倒れたならば長期間漬かった白菜が原因である。

ということで、

白菜のお漬物の味を書き記す。
お口に入れると先ずシュワシュワと広がるサワー感の刺激があり、「なんじゃこれ?」となる。
発酵することによって塩辛かったお漬物の辛味も抑えられて、新しいフェーズのお漬物となったようだ。
何かに例えるならばシュワシュワ感の強いザワークラウトみたいな感じかな。
あの塩辛かった白菜がお酢な発泡酒のピリピリと刺激のある食べ物に変化してとても不思議也。
何だか怖い食べ物ではありますが、腐った感じもなく味も普通に美味しい。
そして、食べると頬がポッと暖かくなるようで、これは朝からご機嫌なアルコール度数の投入した予感でもある。
これは新種の貴重な珍味な気もして魯山人さんや料理研究家にもお裾分けしたい☆

お漬物を食べるとお腹も空くもので、冷凍庫で凍結されている棒パンを取り出してトースターでカリカリと焼き空腹時の発酵酒なお漬物を緩和させる。
すでに棒パンと正式名称も忘れているもので料理本を開くと「グリッシーニ」であった。
写真を見る度に見本の写真と似て非なる朝から笑える美味しさだ。
シュワシュワな発酵食なお漬物と棒パンを食べてひとまず腹は収まる。

そう言えば、「龝(あき)」という「秋」の古字を調べていたらインターネット情報は少し間違っていたので修正する

修正点は呪術的な記号の「龜」の「彐✕2」や「凶」の文字はくっついていた。(図参照)
これは豊穣の秋の「凶」を封印するお供え物としてこの2つは絶対に繋がっていないといけないように思うものだ。
因みに、この難しい「龜・亀」の字は龜を横から見た図のようであり、彐(けいがしら)はお腹のお供え物の肉の部分の足を表し、封印する凶は背中の甲羅で占いの材料となる部分となるようだ。
安直に考えて、亀を絵にしようと思ったならば上から描いて甲羅の部分を描いた図を書くことが一般的であるとは思うのですが、人が言葉に意味を持たす時には長寿の印でもある亀を横から描写した異なる目線で描いているのが面白い。

やはり、

何でもかんでも熟成期間とは必要なものである。
お漬物の学びとしては漬けて寝かせることでまた新しい価値観も生まれる。
発酵最高~

 

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■2025年11月6日(木)
■わんわん!

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■2025年11月7日(金)
■一日一文章トレーニング。

「ごめんね、サボテン三兄弟」

まだ新しいお家の鉢を見つからない。
本当のところは全く三兄弟のお家は探してもいないものですが、三兄弟はいまだ大きくて重い鉢に挟まれてこけないように固定されている。
不安定な小さな鉢に植わったままの三兄弟はヘビの如くうねうねと地面を這い倒れないようにバランスを保つ。
これはおそらくセルフコントロールである。
こんなにも幅広く場所を占有する植物も珍しいように思うもので、サボテンの大きさに比べて本体を支える根っこが小さいことが全ての元凶である。
人間の背丈に迫るほどのサボテンを天高く伸ばそうと思うならば根っこもそれだけ下に深く伸ばさないと倒れてしまうもので、支える根っこの基礎がないならばサボテン三兄弟たちは倒れないように地面を這う。

「あー神様よズドーンと細長く地下にたっぷり根を下ろせるでっかい鉢を下さいな」www。
大きくて細長く安定した鉢なんて想像もつかない形状である。
これはもう運命的に出合うしかない鉢の予感だ。
そして、この夏地を這う3兄弟の曲がったボディーから4兄弟目のサボテンが生まれた。www

猛暑なお日様も燦々と降り注ぎ二酸化炭素も豊富でサボテンたちはますます元気に繁栄している。
そして、長―く育った長男たちが上に向かって育つことが出来ないと判断したならば蓄積したエネルギーを新しい四男に注いでいるようにも思う。
夏の終わりから生えてきて、今は15センチぐらいの大きさに成長している。
この過酷であった猛暑な環境は植物たちにとてもマッチしているようだ。

ということで、

サボテン三兄弟はサボテン4兄弟となり、これは植物たちがセルフコントロールを行った結果の解釈である。
セルフコントロールとは「自制」のことで自制とは自分自身で欲望や感情を抑えることで、3兄弟は蓄えたエネルギーを自身の繁栄よりも新しい命に振り分けて4兄弟目が誕生する。

よくよく考えると「自制」とはとても難しい言葉だ。
私の場合だと野生満々の文章に”ことわざ”や名言を文章を組み込むことで、自らの自制と人間性を学習し確認することが以前に書いた通りである。
前首相の酷い醜態であらば、選挙による民意を無視しても平然と政権に留まり続けるような独善的な自制の欠落である。
他には何かと考えても全ての事柄は「自制のあるなし」に繋がっているように思うもので、世の中には自制している人が多い中で、そうではない人が横暴に振る舞うことの不平等感な不満が世の中に蔓延しているように思う。
おそらく、物価の高騰も自制する国民に向けて撃たれた異次元なバズカーによってふっ飛ばされた人々と一般人では手の届かない不動産や金融資産を自慢するような特権風な人々との軋轢のことでもあり、外国人問題なども自制する日本人と勝手気ままに振る舞う外国人に帰依する。
全ては自制と自制の反対語がよりハッキリと可視化される世の中の変質のようにも思う。

私は宗教家でもないし、先生と崇め奉られる人物でもないもので、一般ピオプルがとやかくうるさくは言わないのですが「盗み」な言葉一つとってもそうである。
盗作、盗掘、盗賊、盗聴、盗難、盗品、盗癖、盗用、盗人とこれも自制の裏の反対にある言葉で「盗」とは間違いなくよくない言葉である。
ですが昨今、そのような言葉を肯定的に表現するものも増えるもので、いよいよ世の中の荒む具合のバロメータとして「盗」の文字は活用できそうな予感だ。
それは「盗(パクる等)」に付随するワードを使って良き解釈をする事柄で使う程に何かしらの世の中が崩れてきているかもしれない思うもので、ビックデータな分析の指標となるものだ。
勿論、盗塁や怪盗ルパンなど物語やスポーツなどの用語などは除く。
昔のことはよくわかりませんが「盗」的な事柄とは忍耐で制御されており、常に目に見えない影で行われてきた事柄のように思う。
それが最近徐々に表に出てきているようにも思う。
ちなみに、「盗」という漢字を調べると「次」に「皿」でこれは皿の上を次々によだれを流す意となる。
直視してよだれを次々に出し計画を立てる時点で「盗み」の発端としているところが面白い。www

自制の反対側の言葉とはとても難しい。
(1) インターネットによれば勝手気ままな「放縦(ほうじゅう)」のことのようであり、「Self-control」の反対と考えれば「Disinhibition」な「脱抑制」でもピッタリだ。
(2)自制の反対の他制とも考えられますが他制という言葉は存在しないので、「委任」や「お任せ」のような他人に自分の決定権を委ねることも自制の反対語である。

 

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■2025年11月7日(金)
■豊穣のお祭り。

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■2025年11月10日(月)
■一日一文章トレーニング。

「オサレな電話にまつわるエトセトラ」

「ハイもしもし」とおニューな携帯の画面がとてつもなくお洒落。
お洒落すぎて正直ビビる。
新しいSONYのスマホもオサレでお気に入りで、表も裏も張り切ってデコレーションしている。
写真は何ともよくわからない画ですが色合いや空間がスッキリで携帯待ち受け画面史上一番オサレかな。
モノトーンに淡いアクセントな色が気に入っている。
角度を変えて見ると、話題の「3i/atlas」のように外宇宙から切り裂いて飛来してくる赤い彗星にも見えますが、実はこの画はぐるぐるとしたお目々と赤い舌を「ハァハァ」と出したご機嫌な犬なのだ。
https://www.scos.gr.jp/useing2025c.html#R071022Inu
※この画像はスコスのネットページからダウンロード出来ます。
「A面(目ん)B面(目ん)」のテーマで、ぐるぐるなお目々とレコードのA面(表面)とB面(裏面)を表現している。
レコードにA面とB面があるように、人にもA面とB面があるかもワンな力作である。
自分で言うのもアレですが・・・あまりにも良い感じの壁紙でもあったので、画面を邪魔するアプリは「フォト」以外全部次ページ以降に移動させる。
そして、3ページ目までスライドさせるとA面な目とB面な目を同時に表示して佳境に入る。
だからと言っても何でもないのですが、このように設定をいろいろと触るのは新しいスマホを買ったばかりだけの楽しみである。
自分の作った画を壁紙にするのも何だかですが、そのような目的でデスクトップ画像を作っているもので万事OK。
そう言えば前の壁紙は「ガンダム00」の刹那・F・セイエイがアリー・アル・サーシェスの電撃攻撃を受けてビリビリとなる名シーンでもあった。www
刹那のあのシーンのあの顔の壁紙と何だかウケる。
その前はゲームのスクショで「ライフイズストレンジ」のクロエの不思議な3D風景画であったような。
壁紙とは十人十色で面白い予感だ。

ということで、

新しい携帯をデコレーションして楽しんでいますが、壊れたアップル電話をこの週末に修理した。
自分で壊れた電話を修理することはとんでもないことですが、コレは実際にとんでもないことでもある。
アップル電話は名前の通りに赤いリンゴの付いた黄緑色の電話の貯金箱のことで、本物のアップル好きにもたまらない一品である。
実際も私も大好きなアップル電話でもあり、いつも目立つ所にドカッと飾っていたものだ。
ダイヤルを回すと昔は「チリンリン」と軽やかな音を奏でていましたが、今や「ヂッリ」と鈍い音が鳴るだけの年代物で、おまけに割れて壊れている。
だいぶん前に段ボール箱を運んでいる時に箱の端が電話に当たりハーランド選手のキックの如く直線的にスっ飛び見事に壊れた。
本当ならゴミとしてポイッと捨てるところではありますが、あまりにも好き好きと好き過ぎる為にアップル電話は修復しようと取り置いていた。
そして、壊れたパーツと共に一緒に押入れ入れたまま忘却されて、先日の冬布団を出す儀の際に見つけて今年中の完全修復を誓ったのである。
何せ今年も11月であり、去年一昨年と長年溜まる事柄とは今年中に終わらせたい。
ということで、この週末には壊れかけたアップルフォンも修理して「オレはやったーやりじはじめたー」のである。
ついでに、粗大ごみの手配も終えて子熊ちゃんオーバーぐらいのゴミも処分出来て、今なら何だか何でもポイポイと捨てれてスッキリな断捨離モードである。
なので、この調子で今年中に本棚の一棚分ぐらい本も処分したい。

ところで、

アップル電話には3センチ程の穴が開いていて、このプラスチックの穴を埋める必要がある。
穴を埋めると言ってもプラスチックに開いた穴を埋めることはそれなりの難関だ。
先ずは甘い良い香りの「流し込みリモネンセメント」をクンクンとひび割れた部分に流し込み、大きなパーツもこの接着剤を使い接着する。
小さな欠片は通常の「タミヤセメント」のボンドを使って壊れたパーツを接着し、パズルのように合わせながら壊れたパーツを接着しますがどうしても足りないパーツもある。
そのような穴は「ウェーブのエポキシパテ」で埋める。
カチカチと固まった古いエポキシパテですが2種類混合タイプでもあるので、まだまだ使用できる。
そうすると粗目ではありますが何とか表面は埋まったもので、後は出っ張った部分をヤスり、窪んだヒケや合わせ目部分は「ガイアノーツの瞬間カラーパテ」で埋めて目立たなくなるまで磨く。
これらの素材が揃っているだけでも凄いことですがプラモを作る人は大体これぐらいは持っているモノだ。
滅多に使うものではないので乾燥して固まっていなくて良かった良かったと、とりあえず、穴は塞がり、後はキレイに表面を整えて黄緑色に色塗れば完成である。

 

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■2025年11月10日(月)
■何でも直せる。
■2025年11月11日(火)
■一日一文章トレーニング。

「中華人民共和国領事の発言を非難する」

電話とは無線であれ有線でも離れた場所と離れた場所を繋ぐ1対1の対話だ。
話した内容は基本対話した者しか聞こえませんが、家族電話となると電話の後ろから声が聞こえてきてややこしくなる複数会話もある。

一方でSNSの発信となると1人の意見や出来事などを複数人の不特定多数に向けて発信するものだ。
多くの人に伝えたいことがある時には便利で、このような機能はTVや新聞などの大きなメディアしか持てなかったものですが今や民主化されて一般の人たちでも発信できる。
このようなSNS時代に私達は短文の力やインパクト、情報発信とは扇動的でもあり人々を操る道具でもあることも学ぶ。

中華人民共和国の領事が我が国の高市総理を名指しで「その汚い首を斬ってやる」とSNSで発信しニュースとなっている。

先ずはじめに、私はその発言を強く非難する。

私はこの発言を最初に見た時に中華人民共和国がタリバンのような斬首作戦を行うと読んだもので、これは日本国に対して宣戦布告であると解釈する。
そして、このメッセージが電話や書面で直接発信されたのではなくSNSで気軽に発信されたようでもあり、この文面が広く国民に対して周知されるように発信されたとの判断である。
これがどのような意味を持つかと考えれば、一見、高市総理に対する恫喝であると考えがちではありますが、この発言は日本国憲法や法律を有する1億の日本国民全体の首を斬るとの発言である。
総理が攻撃されても国民に対する攻撃で間違いありませんが、SNSで発信されたことで私やあたなの家族、その近所の人たちや街歩く人々の全員の首を中華人民共和国の領事が「その汚い首を斬って殺してやる」と告知しているのである。
首を斬られたら当然人は死ぬものだ。
今はその文言は削除されているようでありますが、これは文言を受け取った側の解釈次第で何とでも解釈できるもので、彼の国ではその発言を否定をしていないようなので間違いなく戦争行為である。

面白いことはいつも民主主義だー人権だーと立派に思想を語る人達が急にだんまりをしていることである。
仮にこれが戦争行為で無いとしても、外国の領事が憲法や法律も越権して高市総理を解任できるとの発言ならば民主主義の根幹を揺るがす一大事である。
ほらほら目の前にこんなに良い題材が転がっているのになぜなぜ何も発言しないものかと不思議になもので、やっぱり、単に反権力がかっこいいと思っているのか、活動資金なお金を貰っているだけなのかもしれない。
日本の国のカタチは憲法や法律で定義されており、外国の領事が総理を首にできるとの格の違いを見せたいのだろうか?しかし、現実的は不可能である。
昔、日清戦争の本を読んだことがありますが、その清国の振る舞いとはとても酷い内容であり戦争になっても仕方がないものだ。
お金持ちで強力な軍事力も持った清国が日本国内でやりたい放題の摩擦の横暴を繰り返していたことと似ているもので、いよいよ日本国民の堪忍袋の緒が切れてもおかしくない。
そもそも、中華人民共和国は大国意識なのか何だかわかりませんが、日本から反撃されるかもという思考も欠落しているように思う。
このやり放題の感じとは清朝末期とダブって見えるもので、自分が総理の関係者であれば外交であれ、何であっても絶対に中国本土に足を踏み入ることには反対するであろう。
北朝鮮に行くよりも反対で、もし行くのであれば戦力と共に行かないと危険である。
そして、斬首作戦な宣戦布告を受けたのでいつでも国際的に反撃は可能であろうし、安全保障の強化も必要である。
そして、何より台湾問題に深く関与出来る御旗を得たことにもなる。
台湾海峡を挟んで戦争が行われることは物流などを鑑みても日本の安全保障と関わるもので誰も望まない戦争だ。

そして、今ならスパイ法案なども通す下地や根拠も出来たもので、このような国家の基盤を崩すような事柄には最も厳しい刑罰が適用されると思うので国家動員法がある彼の国陣営の人々の資産も合法的に接収することも可能である。
これで、日本国民には減税を行い、スパイからは資産を没収して穴埋めすれば一件落着かな。www
大体お金の流れなどを見ればわかるだろうし、可視化されて一目瞭然でもあり、膨大なデジタル魚拓も残っている。
そして、急にこの問題は大したことがないみたいな世論誘導も流れてくるもので火消しにも必死なようではある。
私はこの発言は全ての日本国民に汚い首を斬って殺すとの殺傷予告であり著しく国民の権利を踏みにじるもので強く非難する。

 

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■2025年11月11日(火)
■旅行は寛容を教える。ベンジャミン・ディズレリ
■2025年11月12日(水)
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「20年のサイクルについて」

「鶴は千年、亀は万年」と末永い長寿の象徴でもありますが、その続きのような「亀の年を鶴が羨む」との“ことわざ”もある。
これは千年の寿命を持つ鶴が万年生きる亀を羨むことの意で欲に限りがない例えでもある。
果たして人間の欲とは限りがないのかとも考えられますが、私の場合には年齢を重ねるごとに欲も少しづつ減少している。
これは細胞のエラーや劣化なのかなと思ったりもするもので、実際にそうなのかもしれない。

鶴の寿命はネット情報によると50年~80年の長寿、亀は種類により異なりますが小さい亀だと10年~20年、大きなゾウガメだと100年以上生きるようだ。
生命に寿命があることは面白いことで、寿命のある・なしの話になれば生命と言えばやがて命尽きるからこそ生命なのである。
最近は未知数な寿命のAIのというものもあるもので、それらはグラボをブンブンとフル稼働されれば特急料金で消耗する寿命でもあり財布の大きさが寿命の大きさかもしれない。
エネルギーのムダ遣いは寿命を縮めるとなれば、手抜きもまたAIの生存戦略でもあるかもで同じようなテンプレの使い回し金太郎飴のような世界な未来も想像できる。

ゾウガメが長生きであるならば象も長生きの60年以上は生きるようだ。
体の大きさと関係があるのかと思ったのですが心臓のドキドキな回数や遺伝子、生活環境など様々な要因によって寿命は決定するようである。
因みに、鳥の寿命は15年で、我々のワンワンな寿命も14~15年、オウムやフクロウなど大型鳥類は50年ぐらい生きるらしい。

生物に寿命があるからこそ進化の面からも利点もあるようで、古い壊れた遺伝子は死に至り、新しい細胞に入れ替えることで生命の進化を成し遂げているようである。
よって、我が愛しのマイボディーはいつも空っぽに新しく様々なエラーを上書きして改良して更新していきたいものだ。
これは欲と言えば欲かもしれない。
そもそも「欲」とは空っぽな空腹を埋める空虚な間かもしれなく、同時に様々な視野や自分の世界を更新していくものだ。

そして、「欲」とは仏教的には何色と制御・自制していく考えではありますが、神社的にはどのようなものかと思う。
進化を遺伝子のバトンすることであると考えれば「20年サイクル」とはよく出来た考え方もある。
これは古くから伝わる20年のサイクルで式年遷宮する伊勢神宮の時の流れである。
20年間かけて森や建材の木々を育て、お供えする食べ物をも育て、建物を新しく建造する技術も人から人へと同時に伝授していくようだ。
このようにお遷りを伝承するサイクルの20年が人を育てる期間としては最適のようだ。
そもそも人がいないと祭りとはままならないものであり、1300年以上続く伝統行事はこのように20年間の人を育てるサイクルがあるからこそ可能なお祭りでもある。

もし、私がタイムスリップして若かりし私に教えることが出来るならば、四季報と競馬全集記録を手に持って、食わず嫌いのニンジンは目に良いので食べるように勧め、または、人に技術を伝承させて育つサイクルが20年であることも伝えたい。
人を育て技術を繋ぐサイクルが20年であることは長いのか短いのか。
若かりしき頃には何でも勢いで何ともなるものではありますが、今となれば20年の計で物事が見れるようにもなりたい。
これは派遣業などの人を人材として消耗品のようなシステムとは異なり、人を育てバトンを渡し繋ぐことの全く異なる経済システムのようにも思う。
これこそ働く人の扱いの経済界の失われた30年の答えかも?
20年先の未来を見ていた先人がいたからこそ、今の伊勢神宮のカタチとしてあるものだ。

伊勢神宮の参拝道には“おかげ横丁”という新しい商業ゾーンもあり、その場所もすごく好き。
電車も直結しないような不便な場所ですが大勢の人とお店で賑わい、江戸時代の街に迷い込んだように、食べて、お土産を買ってとトコトコと歩くだけでも楽しい。
これも伊勢の20年のサイクルなのか?と思うもので、確かに伊勢には20年のサイクルは存在している。

 

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■2025年11月12日(水)
■貪欲。
■2025年11月13日(木)
■一日一文章トレーニング。

「命数・命運・命題」

寿命とは大枠で決まった生き物の生きる年数の「命数」で、それは誰もが避けようもできない「命運」でもある。
そして、その生きる意味とは「命題」なのかもしれない。
人生を20年のサイクルの「命数」で考えると20歳までは様々な世界や事柄を学び吸収し、人格形成する子供から大人への階段を上る期間だ。
そして、20~40歳は職のある技術を人から人へと学び吸収してその型を受け継ぐ期間となる。
そのように考えると人の若い時期とは学びばかりで、この運命に出会えるか、出会えないかの命運もある。
40~60歳はその人から受け継いだ技を人から人へと伝授して繋げる「命題」を持つような時期な気もして、私が仮に「お伊勢様経済」と呼ぶ大まかな流れが上記図の通りである。
このお年頃は自分が持っているものを開放する期間でもあり、人に教えることによって自分もまた学ぶ、やっぱり人生とは学びばかりとは案外正しいのかもしれない。
その20年間のサイクルが正しいのか?正しくないのか?私には判別する手段はありませんが、このようにシンプルに生きるのもまた幸せである。
このようなカタチこそ純粋な終身雇用であるようにも見えて、継続して繋げるシステムである。
60~80歳、80~100歳とは何の命かと考えると、人生100年と言われると結構長いもので命日、命中、命令も何だか違うし、命知らずに、命乞いも何だか違う。

人生に於ける「命題」とは何か?とは難しいもので、辞書によるとそれは題名のことで、哲学的には判断内容を言葉で表したことのようだ。
何のことなのかな???のチンプンカンプンですが「命題」とは何か良いものだ。
「命題」の答えが年老いた世界で花開けば、それはそれで格別たるものだ。
とりあえず、人生40歳にして命題を持つとは凄く立派なことでもあり、人の一生とは時に炎のように燃え上がる時期もあれば灰のように燃え尽きている時期もあるもので「50にして49の非を知った」by荘子という人生もまた然りである。
このような20年の計な考え方がありそうな予感を感じるだけでも日記を書く意味はあるかもだ。

ということで、

AIの寿命繋がりでGPUの寿命を調べた。
ネット情報によると、パーソナルベースのグラボで約4~5年、大規模データセンタの高性能GPUだと1~2年と結構短い。
GPUはフル稼働すると大量の熱を発し、まるで延焼するように消耗していく。
そのような意味に於いても、現状のAIの寿命とはやっぱり財布の大きさで間違いない。
これはグーテンベルクな印刷機の寿命と比べても圧倒的に短い期間のような気もするもので、耐久性の低さは際立つ。
果たしてこのような寿命の短さに持続性はあるのであろうか。
ブロックチェーンのようにデータは数珠つなぎにパソコンからパソコンへとデータを繋げて非中央集権的な個人執事的なAIとなれば消耗品問題は解決するのかもだ。
もしかしたら、最近のAI対応のスマホとはそのような分散処理が組み込まれているのでしょうか。
または、中央集権であるならばポイポイと捨てるチープで格安なGPUとなれば本格的なAI時代の到来である。
エネルギーを大量消費してGPUを壊しながら作る意味に疑念が湧くかもの草で、GPUは非中央集権的な仮想通貨で盛り上がった後に中央集権的なAIに主戦場が変わり時代の変化とはとても早い。

そう言えば、最近IT業界で話題となる循環取引な不正行為のニュースも関心の薄い私の耳にまで入ってくる。
循環取引とは2000年代のITバブル崩壊の際に実態のない架空の取引を繰り返して売上を水増し計上した手法のことで、それによって市場の信頼喪失でバブル崩壊を招いたようだ。
やり方はA社とB社が協定を結び、A社が自社のサービスや製品をB社に販売して、B社は同程度な金額でA社にサービスや製品を販売して、価値を産まない取引を何度もを繰り返し売上を水増しすること。
これによって、我が社は売上が上昇する成長企業だと見せかけることが出来て資本を集めたようだ。
当時はITバブルな成長期待でもあり巨額の資金がIT企業に集まったようで、企業は売上上昇を望む投資家の期待に答える為に成長偽装を行ったようだ。
そして、現在のAI関連もGPUなどを製造する会社とそれを使ってAIなどの開発会社などを巻き込み、価値(利益)を生み出さない巨額の資金循環の疑義があるそうな。
ITバブルな時代と違いAI開発には世界中の公的資金も入っているようで、だから安心であるとの考え方もあるようですが、昨今の量的緩和のペーパーマネーな世の中でもありこれらがバブると何だか大変そう。
さて、どうなのでしょうか?

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年11月13日(木)
■キジとサル。
■2025年11月14日(金)
■一日一文章トレーニング。

「ここ最近観た映画はゾンビランドサガとプレデターでネタバレをしないように書いた」

映画を観た時には映画館に置いているチラシは片っ端から貰う。
最初は気になる映画だけを数枚貰うのですが、右から左、左から右へとどれを貰おうかと選んでいると結局選ぶのも大変で全部のチラシを手に取る。
先日、映画「ゾンビランドサガ・ゆめぎんがパラダイス」を観た時にもチラシをたくさん貰ってきたもので映画のチラシは袋に入れて本棚に刺さっている。
通常、映画は滅多に見ないのですが短期間の間に観に来た映画館でもパンフレットも総入れ替えであった。
映画とはたくさん作られているようだ。
そして、その時に貰ってきたパンフレットの中に2枚あるものが「プレデター・バッドランド」のチラシ。
その映画のチラシだけが気になって最初に1枚貰ったのですが、最終的に全部貰うと2枚となった。
プレデターのチラシはゲーム「デススト2」にも出ていたエル・ファニングさんが下半身の無い状態でプレデターに背負われた絵で「狩られてたまるか」とのキャッチフレーズと共に描かれている。
映画館のチラシ効果とは後々に気になる映画もあるのもので、このようなチラシにも「観たくなる効果」はあるようだ。(自分の経験則)
何せ、映画を観たいというアクションとはなかなかの腰の重い動機が必要で、ゲームに出ていた俳優さんの下半身がない姿が気になったのかもしれない。
そのような意味ではヴィジュアルのインパクトとは結構重要である。

しかし、実際に観る映画とは厳選された1本で、今回であれば「アバター・ファイヤーアンドアッシュ」が気になる。
アバターは1・2の全ての映画を観ているので気になるもので、映画館で観る映画とは大画面でどっぷりと浸る醍醐味と美しさが良い。
チラシは顔が全部アバター星人で全く異なる異文化圏の映画のようだ。

勿論、私はゾンビランドサガファンでありプレデターファンではないもので、プレデター経験とは子供の頃にTVで観た体中泥を塗ったシュワルツェネッガーさんが泥の中で白い目をギョロギョロさせているイメージだ。
それ以外にも何話か観たような気もするのですが、それがエイリアンなのかターミネーターなのかと全てにごっちゃ混ぜにブレンドされたような記憶でもある。
ゾンビランドサガは歌や踊りが大好きで、映画は「たえちゃんがーたえちゃんがー」なのだ。
あのアニメはいつも「えーーー」となりながら楽しむアニメで、シーズン1のアニメは何度観ても面白い。
プレデターには縁もゆかりも無いものですが、今回は映画館まで足を運んだものであり、映画は少年漫画のような楽しさで娯楽映画の王道みたいな面白さだ。
そして、ゾンビランドサガを観て、バッドランドを観てとの「ランド」繋がりもある。

映画館に行くと、映画をまだ観ていなくとも先ずは映画のパンフレットを購入する。
以前、映画を観た時に良かったのでパンフレットを購入しようと思ったら売店が閉まっており購入できなかったので、それ以来、映画のパンフレットは観る前に購入している。
その前に観た映画は「国宝」で国宝は間違いなく良い映画ですが、お気に入りの映画のパンフレットは完売で購入することが出来なかった。
ゾンビランドサガを観た時にはその「国宝」のパンフレットは販売されており、瞬間で「買うのか買わないのか」と頭を急速回転させて考えたのですが結局買わなかった。
対面販売でなければ買っていたかもしれませんが、私の中では「ゾンビランドサガ」のパンフレットと「国宝」のパンフレットの同時購入が何だか恥ずかしかった。
「プレデター」と「国宝」でもどうであったかと言うと、「プレデター」のパンフレットを購入する時には「国宝」のパンフレットの販売状況は見ないようにしていた。
人の心とは何だか不思議だ。

映画のパンフレットとは内容が薄いものが多いのですが、「ゾンビランドサガ・ゆめぎんがパラダイス」のパンフは物凄く充実している。
パラパラとページをめくってもどのページを見ても楽しいもので制作者の愛を感じる。

ということで、

「国宝」→「ゾンビランドサガ・ゆめぎんがパラダイス」→「プレデター・バッドランド」と不思議なラインナップの最近観た映画のお話を全くネタバレをしないように書いた。

 
■2025年11月14日(金)
■めっちゃ上手に描けた番長みたいなデクとティア画。