*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月2日(月)
■野球大会!

■2026年3月3日(火)
■一日一文章トレーニング。

「コーヒーをこぼさず淹れる」

今日のような低気圧な雨の頭痛もコーヒーを飲めば痛みも消えて晴れやか。
コーヒーとはお薬のようでもあり朝の儀式でもあって毎度不思議。
人類は恐らく何千何百年とコーヒーや茶を無駄なくこぼさずに淹れる方法を格闘してきたもので、私も雨の日も風の日も毎日コーヒーを抽出しながらテーブルの上に1滴も落とさないように格闘している。
雨が地面を濡らすようにコーヒーの注ぎ跡も必ず残る。
そのような戦歴とは台拭きやティッシュペーパー拭き取るもので、私は「なぜ?コーヒーはこぼれるのか?」と悩む。
本当のところは全く悩んでいないのですが拭き取る作業がただただ面倒。
それは技の問題なのか?仕組みの問題?それとも物理呆則なのか?とNASAも揺るがす大問題だ。
無重力空間の宇宙船でお茶やコーヒーをポタポタ・ガッチャンとこぼす乗組員がいれば船内も水浸しで大迷惑。
茶も飛散して機械もショートすれば漆黒の闇の宇宙空間を彷徨い遭難することとなる。
お茶やコーヒーをこぼさず淹れ飲むお作法とは千利休から続くユニバースな空間を制する人類の叡智でもあるようで、人は人生に彷徨わないようにお茶を頂く。
これは「そうどすね」とお茶の先生に熱く語らなければならない重要事項であるメモメモ。
私はもう十分な大人であると言うのに、あちこちに湯やコーヒーをこぼして困った困った。
このままではスペースノイドにもなれないもので困った困った。
そもそも二番煎じの貧乏性を発しなければコーヒーの滴もたぶんポタポタぐらいで済む。
2倍の量のコーヒーを淹れたいと思うからこそコーヒーはこぼれ、このようなセコイ心がこぼれる量も増やす。
これは二番煎じなお茶を飲みたいと思うセコイ人間の代償である。

毎日コーヒーを淹れてその所作の悪さを観察しているとドリップする不織布は滲み出ながら図のようなAとA’の2点から抽出される。
そのコーヒーが出る導線とは約45℃ぐらいの角度で横に飛び出して流れ出るもので、水圧をかけて美味しく抽出しようと思えば勢い良くコップからはみ出る。
なので、このA、A’点を制御することが出来ればこぼれ水を制することが出来る。
コーヒーがこぼれる理由とは不器用な私の茶のお作法がすこす悪いこともありますが、そのほとんどはドリップの仕組みだ。
これを真下に抽出しようと思うと不織布のデザインを変える必要があるもので、一介の消費者がどうのこうの言う話でもない。
なので、市販の不織布はそのまま活用しながらこぼれない方法を考える。
昨日はひっかけ部分を引っ張りながらA、A’の注ぎ口が上から見て長方形の線上に来るよう淹れる。
勿論、力も余りドリッパーも動き安定しなかったので勢い良くこぼれる。
しかし、この方法で引っ張り注ぎ口の長方形の線上にA、A’点を維持固定できたなば完璧なコーヒー淹れとなるかもだ。
これはドリップの底上げ台を加工すれば出来るかもだ。
かもだ。

個人的に面白いと思う部分は平面的にコーヒーのドリップを真上から覗くと注ぎ口が長方形で、湯を注ぐと底面が4✕7センチ程の6角形に変形すること。
不織布のA、A’点は平面に見ると横に約2センチ伸びる。
不織布を折り張り合わせただけのモノが湯を入れると複雑な形状となることが面白い。
それもこれも不織布に接着された引っ掛ける台紙の型がそのような形状を作り出しているもので、これはコーヒーのドリップメーカーのこだわりのデザインである。
本当に世の中に作られる製品にデザインされていないモノは無いものだ。
写真のゴミは飲み終わったドリップの粉を落として形状検証の為に飾っている。
ウィルスやカニのロボットみたいで格好良い。
特にサビた茶色い感じが良い。

ということで、

まだ何にも解決していなくコーヒーを上手に入れる大問題も「さぞ考えています」風に書くことが真の座道でもある。
そう言えば、今日はひな祭りでもあり”お雛様”と”お内裏様”が鎮座している。
しかし、この座る雛人形とは江戸時代からの風習でもあるようで、それ以前は立った姿の”立ち雛”が一般的でもあったようだ。
カタチとはいろいろと変遷するものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月3日(火)
■宇宙のひなまつり☆スペースコーヒー。
■2026年3月4日(水)
■一日一文章トレーニング。

「ドリッパーにタイヤを付けてモビリティにしたよ☆」

今朝は新しいUCCの箱を開封して新しいコーヒーをドリップする。
新しいコーヒーの注ぎ口は10角形で最近まで注いでいたコーヒーは長方形でもあったのでドリッパーの形状とはメーカーごとに微妙に異なる。
何となくドリッパーの使いやすさ・使いにくさ等は感じていたものの値段ばかりを気にするもので、このようなメーカーごとの違いを観察出来てすこす嬉しい。
注ぎ口が広いと注ぎやすさもあるもので一投目のコーヒーの粉を湿らせる儀式で湯はこぼれない。
10角形の注ぎ口はドリップのひっかけ部分に斜めの折り線を入れることで広い口を再現しているようで、流石にコーヒー専門メーカーの研究成果のようでもある。
不織布とはカタチを持たない布でもありドリップさせる引っ掛けの型紙が折り紙のようにカタチを変化させる。
面白い。

私のコーヒー道は一投目からすでに的外れな場外ホームランでテーブルにこぼし、フィルターを通さずに湯を直接カップインしてブラックコーヒーを薄めてしまうこともある。
なので、的が大きいことは良い。
実は私は物凄く手が器用でもあり結構何でも作れて細かい作業も得意。
しかし、液体を注ぐという基本動作が苦手なようで器用貧乏とは正にこのようなことかもしれない。
さっそく器用貧乏を辞書で調べると、器用な為にいろんなことに役立つが一つのことをやり通さないので貧するようだ。
正にこの文章に体現されている。w

一般的にコーヒーをドリップしたならばポタポタと落ちないように気をつけて運びポイッとゴミ箱に捨てる。
なので、生活者とはドリッパーの形状云々に関心を抱かない。
しかし、我が家とはコーヒーの粉は植物の土に混ぜて再利用し植物たちにもコーヒーブレイクを提供している。
何という素敵な保護者なのかと思うものの、植物にコーヒーの残り粉や茶葉が良い事柄なのかよくわからない。
今のところ少々のコーヒーの粉や茶葉のカスを与えても枯れや弱りもないようで大丈夫なようだ。
発酵した茶葉であればほぼ腐った葉っぱのようでもあり土も増えて何かしらの栄養もあるかもで一石二鳥かなとも思っている。
※何の確証もありません。
よって、使用済みのドリッパーは数日間キッチン上に引っ掛けられて乾燥し春の土作り要員として溜めている。
お洒落な家人であればキッチンに使い古しのドリッパーが吊るされるだけで「キー」と発狂してしまうようなゴミである。
生活感丸出しとはこのような乾いたドリッパーとは主力級でもあり「これはなかなかいいドリッパーだ」と思えば乾いたドリッパーをカッコいいとお部屋に飾っている。
乾いたドリッパーが倒れば当然コーヒーの残り粉がこぼれ、そのような面倒事を処理しながら昨晩お風呂上がりにやっぱりこのドリッパーにはタイヤを付けたく思う。
厚紙に丸を描きハサミでジョキジョキ切ってタイヤを4個切り出して貼り付けるとモビリティに魔改造できた。
悲報!またゴミを作った。
このような工作物なゴミは捨てるのも勿体なく、最終的にサルガッソーな箱に仕舞われる。
そして、今はいろんなコーヒーメーカーのドリッパーの形が気になるもので、いろんなコーヒードリップを集めたい。
今まで何も気にせずにポイポイと捨てていたことが悔やまれますが、形状を比較するだけでの何だかヤバい収集癖発動させそうな予感でもある。
やばいやばい。
大してコーヒーやお茶の味の違いがわからないのにドリッパーの見た目の形状が気になる年頃でもある。

ドリッパーの尖った部分は折り曲げれば袋状となる。
我がよぼよぼな老後となれば、このようなロボットを連れ立ち重い食材や買い物袋はこの中に放り込んで運びたい。
買い物カゴがそのままモビリティように動くもので、ネギや大根もそのまま余裕で収納できる。
移動しない時にはドリッパーの如くペタンと小さく収納も出来て、バッテリーはそのように薄ペラくした時に邪魔にならない布部分に配置する。
モーターはタイヤに直接設置してステッピングモーター制御の4倍のフルパワーの力持ちである。
格好良い。
袋の部分に椅子を設置すれば街中に全くないベンチにも早変わりで、行きも帰りもこのベンチのような椅子に座りながら移動するのも面白そうだ。

 
■2026年3月4日(水)
■ゴゴゴ~午後のカフィー。
■2026年3月5日(木)
■一日一文章トレーニング。

「昨日からゴゴゴーと大風が吹いて今日もオオオーな大風である」

一昨日の雨の後はたくさんの花粉が飛散しているようで、おまけに大風吹いてシッチャカメッチャカな街の惨状。
こんなこともあろうかと私は雨の日に花粉症の運動不足を解消の為にたくさん歩いた。
丘を超えててくてくと歩き街を突っきりお買い物もして雨の中を遠回りしながらたくさん歩く。
おかげでなまった体も動かせて、体のあちこちが程よく痛くもなる筋肉痛で“痛”気持ちいい。
風の音とは外を歩けばゴゴゴーとビル風に増幅されて街路樹を揺らし、私の脳内ではマンガのようなゴゴゴーな文字が頭上を飛んでキャップが飛ばないように抑えながら歩く。
そして、建物の中に入ればビュービューと窓を揺らすタイヤを摩耗するような大風な摩擦音にドン引き。
悲しきかな、我々とは“すーむー”な音を聞きわけることの出来る国民性でもある。
そして、そのような大風の音を聞けば脳裏に黄色いスギ花粉の飛散が浮かぶ。
あーまいった、まいった。

眼球はゴロゴロと小さな花粉を感知して鼻もムズムズでクシュンと顔もぐちゃぐちゃ。
この時期の大風とはとても怖い、どうせ大風も吹くのであれば1回の風力で全スギ花粉を日本列島から吹き飛ばして欲しい。
花粉症を発症させない人たちとはこのような物理的な花粉の干渉をどのように回避しているものかと思うもので、私はこの時期になるといつも花粉症なアレルギーの身代わりを待望している。
病気などしてもいつも自分の真の痛みとは人に伝わらなくてジレンマ。
私はこんなにも痛たたーと苦しいのに他人には全く痛みは伝わらなくて困った困った。
このような苦痛を人やモノに痛み分けして共有フォルダに入れることができればなんと最高なことであろうか。
本当に人とは勝手なものだ。
オカルトな番組を観ていると人形に人間の念のようなものが移り私たちを怖がらせている。
あの人形から毛がのびた~手が動いた~目が動いた~と最高だ~。
特にそのようなお人形さんとは人型のお人形が多いような予感でもあり、我なら恐怖のお人形さんに花粉アレルギーを伝授して身代わりにしたい。w
ほれほれ、これが花粉症のムズムズだよってね♥
しかし、実際に念のこもったお人形に触ったことも無ければ生で見たこともないもので、この時期になるとスギ花粉のアレルギー身代わりお人形さんを妄想している。
そうすれば、気持ち良い日差しの中で春を感じ8✕4をシュッシュと大風でさえ気持ち良い潮風のCMのようだ。
そう言えば、立ち雛とは土偶っぽく見えるもので座する雛人形とは随分雰囲気が異なる。
立ち雛とは急に何かシャーマニズム的な何かを感じるもので、私はそのような立ったり座ったりするお人形さんの視点も気になる。
それは「視座」や「座視」のことであり、優れた人を見れば「あの人の視点はとても高いなー」と俯瞰するような目線の立ち位置を雛人形の目線にも感じる。
それが「視座」なのか「座視」なのかと迷うもので、さっそく、そのようなミラーワードな違いついて調べる。
自分ごとながらテキトースギるw

「視座」とは伝統的な辞書に記載がないもので比較的新しい概念のようで、主に社会的な立場で観察する視点のことの英語の(viewpoint)から派生しているようだ。
「座視」は側で見ているだけで何もしないこと。
街中のいざこざなどに私たちは座視して関与しないもので、実際には座ってはいませんが座するように手出しはしない。
座とは座る場所のことであり、星座の固定された星の位置も座でもあり、芸能の一団の座や中世の独占する組合の座も座である。
「座」とは頑として動かない状態や場所のことで、社会的な役職や立場や組織をベースとする視線のこと。
一方の「視点」とは「点から見る」世界のことでこれこそ正に(viewpoint)のこと。
「視点」は無数にある個人的な視線でもあり、「視座」は座の数だけ存在する専門的な視線の解釈でもある。
それが「視点」と「視座」の違いであると解釈する。
「座視」の反対語となれば「関与」のことであり、単に座って見る視線のことであれば「立ち見」の映画のようでもあって「視座」と「座視」は似ているけれども全く関係のない言葉でもある。
よって、「視座が高い」とは、社会的な地位からの目線で専門家の意見で、私たち一般ピオプルの「あーだこー」だと言うSNS的な意見とは「視点」である。

果たして、雛人形の立った座ったの立ち位置の目線とはどのようなものか?と思うもので個人的には立ち雛の方がシンプルですが親身なような気もする。
また、「視座が高く」ではなくて間違って「座視が高い」と書いたとしても、貶しているのか褒め殺しなのか全く動じない面白さを感じる。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月5日(木)
■3月5日と5月3日は勝手に353でスコスの日。
■2026年3月6日(金)
■一日一文章トレーニング。

「的撃ちゲームから見た視点と視座」

聖護院大根の花は全部咲いた。
最後の6輪もの花も咲かせて高さも65センチ程に大きく成長し4センチ程の大きさのサヤ豆も付ける。
2豆入りが1サヤ、1つ豆入りが4サヤ、そして、小さな子供のサヤを3つ数える。
桜の花のような淡い大根の花びらとはとてもキレイですが、まじまじと眺めることでもなく倒れないように何となく飾られている大根の花だ。
以前、お花を愛でると言えば夜に咲いたキレイなユリ系のお花もありましたが、ヘビのように天高く登る大根の花はジャックと豆の木のようでもある。
何せ水耕栽培の皿は2Lのペットボトル飲料の底を切ったものを使用しているものでお洒落度という面では皆無。
ただただ、大根の美しくてキレイなお花がそのような生活感を全て帳消しするもので、現実とはお洒落で有名なあの人もあの御方たちでも皆、聖護院大根の葉をペットボトルの底で育てお茶のパーの袋をお洒落キッチンに引っ掛けて乾かしながら生活しているものだ。
たぶんm(_ _)mT
そして、それらが写真に写らないのは全てAIの力。草

散った花びらやおしべがポタポタ机に落ちて、まーまーまーと掃除機で吸うだけですが、お花を飾れば散ったお花のお掃除も必要となる。
美しさと苦労とは比例しているようだ。
そして、聖護院大根の実を受粉させたのは誰かと言うと勿論私ではない。
大根の咲き始めと後半の2回、聖護院大根の横で育てている三つ葉のタッパから気持ち悪い羽虫が2度湧き、それら小さな羽虫たちが受粉させたようだ。
丁度、その2度の羽虫の発生時期は春の陽気もマックスで暖かい日差しの良い時に虫も大量発生するもので、本当に恐怖の羽虫である。
著名な蚊撲滅運動家でもある私は眼光鋭くビシバシとそのような羽虫を潰す。
私は絶対に奴らを逃がしはしない!!
そして、最盛期にはあまりにも数も増えて三つ葉の密林の中にいる羽虫などは見つけてもマイゴッドハンドやフィンガーでは太すぎてもうどうにもならない。
なので、私は掃除機を持って奴らを吸う。
これで見える範囲の羽虫は全部吸い取り完璧だ。
蚊撲滅家は虫取りにダイソンは必需品かもしれないと思うもので、すると、次の日にまた羽虫が飛んでいた。
私は数が増えた羽虫に恐怖するもので、これはある意味呪われた生き人形物語よりも怖い話かもしれない。
もう掃除機では無理だと悟り、毎日の新鮮な水換え時に三つ葉を根や葉ごとに水没させる。
すると水没させる度に羽虫が水に浮いてくるもので、飛んで逃げようとする羽虫たちはマイゴッドハンドで叩き潰し水面で溺れている羽虫はそのまま排水溝に流す。
私がホラーなのか?羽虫がホラーなのかもうわからないもので、三つ葉と羽虫と私は三つ巴の地獄絵図を描きながら羽虫どもを一網打尽だ。
めでたし、めでたし。

ということで、

私の視点とは蚊や羽虫を探し走査して、虫を見つけると狙いを定めて進行方向を読み取りながら追いかけてバシッと潰す。
マイゴッドハンドの虫叩きの成功率は何割ぐらいの精度かと思うのの記録をとっていないのでよくわからない。
しかし、パンパンと叩いて「あれっ」と手だけがヒリヒリと痛いだけの見逃すことも多々あることで空振りも多く、的に当てることとはなかなかに難しい。

そして、私は「視点」と「視座」の違いを的に向かって撃ち抜くイメージで絵に描く。
「視点(ピンク色)」は無数の人々が的に多数打ち込むもので上手い狙撃手もいれば下手な狙撃手もいて一貫性はない。
的の上に無数あいた穴となる。
毎日幾多もの視点が的に向かって放たれるもので、これは正に雨降る如くの痕跡で、視点は利益誘導などと無縁なので正義感や道徳観などに影響されながら撃たれる。

そして、反対に「視座(紫色)」とは座の利益や道筋に則って的に撃たれるもので、それは大きく広く痕跡を残すものだ。
雨が降った「視点」の後に「視座」な座が数発打ち込まれれば、それは「視座」の目線しか可視化されないものだ。
最初から的に大きなブームのような面を塗りつぶすのが「視座」の仕組みでもあり、これが国民の利益や声よりも座的な声が大きく見える理由でもある。
政治家に多くの国民の声が見えない聞こえないのはこのような「視座」な塊しか見えていないから。
よって、通常国民の声が政治に反映されない事はこのような「視点」と「視座」の的あてゲームに置き換えるとわかりやすい。
国民の視点とは元から右とか左にないもので、昨今の世界情勢と同じく国民や国益を最優先するものだ。
それは国民の「視点」でもあり座的なロービー活動との乖離はますます相違する。
座の持つ「視座」が偏った方向を示せば、それに反発した位置に「視点」が集中することは当然である。
そして、注目や評判を得てそのようなあちこちに撃ち抜く的が一点に集中する時の「視点」がブームとなり、その時に初めて国民の「視点」とは可視化される。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月6日(金)
■応援だー!
■2026年3月8日(日)
■一日一文章トレーニング。

「信じられないけれども野球場のファールボールを拾ったよ」

いやはや、昨晩の世界野球クラシック大会の日本VS韓国戦は凄かった。
大谷選手が瞬時にホームランだとわかるド・ホームランを打ち、たぶん荒川土手の野球少年だった鈴木選手がセイヤ~セイヤーと2本のホームランを打って、吉田選手がホームランで逆転して、やっぱりメジャーリーガーとは凄い。
そして、最後は周東選手が「シュートウーが取ったーーー」とファインプレーに歓喜するもので近所迷惑な奇声をあげながら私はガッツポーズで飛び跳ねる。
いやはや、観戦前はネットフリックスの少女アニメを観ながらスタンバイしていたもので、戦術予報士のスメラギさんの如く次に起こる少女マンガのプロットを予想観戦していたならば、野球が始まるといきなりド・ピンチでもあって頭も追いつかない。
東京プールも始まると我らにわかたちも急に頭の中がオータニ・オータニ選手となるもので、実は私は東京ドームで1試合観戦していた。
勿論、プレミアムチケットの日本戦ではなくてオーストラリアVSチェコ戦。
どちらも打っても勝っても負けても楽しい野球観戦で野球場に行くといつも緑と茶色のグランドを美しく思う。
「ファーボールが飛んできたら怖いね」と語りながらほのぼの野球観戦で、周辺には元野球部っぽい野球に詳しそうなおじさんたちがイッパイいるので「もしファールボールが飛んできたならばここの元野球少年たちが華麗にキャッチしてくれるよ」と話しながらベースボールクラシックを楽しむ。
すると、私たちに向かってファールボールが飛んでくるものだ。
通常の外野フライだとボールが空高く舞い上がると「ボールはどこだどこだ」と見失うのですが、私たちの方向に向かって飛ぶボールは放物線を描きながらしっかりと見える。
まさかこちらに向かって飛んで来ることはないだろうと思っているとボールは大きく空に舞いこちらに向かって一直線で「ヤバイ」どうしようと動揺する。
ボールが飛んで来たならば手を伸ばし「素手でキャッチしたろーかー」と話していたものの、実際にボールがこちらに向かって飛んでくると身をかがめて回避行動だ。
そして、肝心の周りの元野球球児みたいな人たちもお地蔵のように微動だにせず座っていた。wwwould
振り返りもしなければ、逃げもせず、何だか凄い、「ボールが来たー」と大騒ぎしているのはうちらだけでボールは私たちの頭上を飛び越えて後ろの座席の人に飛び込み「ドカドカンドカドカン」と激しい音を鳴らしながら音は止む。
「ファールボールなんて怖くてキャッチなんか出来ないなー」と思っていると「ドカン」と足に何かの物体が当たるもので拾うと大会の公式球であった。
「公式球を拾ったーーーよー」
野球観戦でボールをキャッチした人とは周りでも聞いたことも見たこともないもので、まさかボールをゲットするなんて思いもよらない。
公式ボールをまじまじと眺めると思ったよりも小さく格好良く、そして、ボールは思ったよりも硬い。
Rawlings 
★OFFICIALL BALL★ 
WORLD BASEBALL CLASSIC 
2026
と大会ロゴが印字されていますが文字がメッチャメッチャ滲んでいる。
先ず、頭に浮かぶシーンはピッチャーがぺろぺろと舐めた手でボールを握っているイメージ。
なので、こんなにも印字が滲むのはペロペロのせいかとも思うので一端ボールを触るのも止めて袋に仕舞う。
しかし、ボールのキズも汚れた色も使い古した味も格好良いもので野球の球は汚れていればいる程に素敵。
チェコVSオーストラリアを観戦するにあたり、もしかしたらひょっこりと大谷選手のサインが貰えるかもと痛い大妄想をいだき野球観戦をするもので100円均一(200円)で野球ボールを2個購入して用意周到だ。
用意周到の周到とは周東選手の周到なのかもしれない。
こういうサインボールとはかわいい野球少年しか貰えないものでボールにサインとはなかなかに難しきハードル。
だがしかし、そのようなサイン貰う用ボールがファールボールを呼び込んだかもと思うもので、ボールがボールを呼ぶことはスタンド使いがスタンド使いを呼ぶことに似ている。

ということで、

当然サインを貰えるような機会もなくサインボールは真っ白で卵農家の巨大容量卵入れに3玉並べると丁度キレイにディスプレイされて素敵だ。
一昨日の台湾戦でも昨日の韓国戦でもこのラッキーにも程がある幸運のファールボールを飾りながら野球観戦したもので、この3球とはもう我が家の家宝でもあり縁起物でもある。

 
■2026年3月9日(月)
■一日一文章トレーニング。

「ベースボールなのか野球なのかと思うこと」

昨晩の試合も最後の最後まで大変な試合でした。
ゲームは菅野選手・隅田選手・種市選手と好投し安定した試合運びのなかで、吉田選手の逆転ホームランでゲームが引っくり返り、私も飛び跳ねる。
野球観戦した時にホームランがない試合だと物足りないもので、やっぱり美しい軌道で外野席に飛び込むホームランとは偉大だ。
オーストラリアが走って守りまたは意表を突く攻撃でまるで日本のような野球をする時間も長ければ、球場を覆う重い空気もまた長い。
全ては一振りのバットが鳴らす「カーン」という快音によって霧散するもので、私はファールボールに飛ぶ「カーン」となる快音でも「おおー」と身を乗り出す。
野球のことは何も知らないのですが、たぶん、目をつむっていてもホームランの音は良い音だ。
もしかしたら、脳内再生される音なのかもしれませんがナイスピッチングでも見れば確かに「ドスン」とキャッチャーミットに吸い込まれる音が聞こえる。たぶん
野球とは視覚的にも球場は美しく、ゲームが動き出す時の音もまた美しい。

後半は周到選手が走り打って繋げる野球へと切り替わり流石のサトテル選手が長打を打って、私も勝利の変舞いを躍る。
そして、ゲームは終わった終わったと試合観戦を終わる準備をしていたならば大勢選手が淡々と2ホーマ撃たれて、私も芸術的にひっくり返る。w
ここまで、試合を観てきた感想は前半のどの打順からでも得点できるような力で押すパワー野球の後に、日本伝統のスモール・ベースボールが起動したようにも思う。
この試合で初めて相反する力のベースボールとスモール・ベースボールが混じり合ったような気もするもので1つのチームのカタチを見た。

ところで、

東京プールと見たり聞いたりする度にグループやブロックでなくてなぜ?プールなのかと気になる。
言葉とは概念でもあり、あまり聞き慣れない言葉をわざわざ使用する意味とは何かと考えれば、それは企画する人の思想が反映されているものだ。
さっそく、プールとは何かと調べると水溜りのプールのことで、またの意味は地底に眠る鉱床や共同の掛け金、一箇所に集める共有資源・資産もプールと呼ぶ。
よって、プールとは資源や資産のことでもあり大会を通じて新しい才能やファンなる資源を掘り起こし溜め決勝ラウンドに到達するものだ。
これはベースボールを盛り上げて発展させる道筋の意図を感じるもので、グループやブロックだと資源も分散がちだ。
このような造語に概念を込める事柄とは日本の社会の得意芸でもありますが、最近は横文字ばかりが跋扈するものだ。

因みに、ワールド・ベースボール・クラッシクのクラッシクとは古典的な意味もありますが優秀な、超一流の、模範的な、標準的な意味でもある。
これは世界の超一流の選手が集まり世界標準規格のルール元で行われる大会であるとも読める。

 
■2026年3月9日(月)
■リリィーとキットとキャサリンを描いてみた!!
■2026年3月10日(火)
■一日一文章トレーニング。

「ゲームコントローラ型のクッションを修理する」

昨日スーパーで一玉199円の超お買い得の白菜を購入する。
人間の頭よりもはるかに大きい馬の頭部ぐらいはあるかなと思うデッカイ白菜で、これを見て買わない手はない。
野菜とは快適なお通じの為にもたくさん食べた方が良いもので、実際にたくさんお野菜を食べた次の日はお腹の調子も良い。
なので、野菜とはいくらあっても良い繊維でもあり、私はエコバックに入れて「よっこらしょ」と自転車にハンドルに引っ掛けて帰宅する。
自転車はカゴ無し自転車で来たものでハンドルに掛けないと運べない。
そして、ハンドルに重いものをぶら下げるとバランスも崩れてふらふら。
ペダルを漕げば足でエコバックをキックしてしまうのでゆっくり走り、坂道はバランスを保ちながらよちよちと押して歩くハンドル捌き。
もちろん、白菜一玉(2kgオーバー)だけではこんなに重くはならない。
ちょっと牛乳を買いに来たついでのお買い物であれやこれやと選ぶ内に数も増える。
老後に向けて絶対に荷物運びのモビリティは必要不可欠。
何だかいつも重いものを運んでいるような気もするもので、徳川家康公が「人の一生は重い荷物を背負うて遠き道を行くが如し」が脳内を巡る。
家に着くと冷蔵庫イッパイで中に入らないもので、とりあえず大きな白菜は紙に巻いて冷暗室に保管した。

そう言えば、

少し前の寒い日に京都のニンテンドーミュージアムで購入した64コントローラークッションが焦げた。
何か微かに部屋に広がるもくもくな気配で、もしかして靴下が燃えているのかと焦るとデカデカの64コントローラークッションが焦げていた。
そして、焦(こ)げる・焦(あせ)るとどちらも同じ「焦」の字を使用して焦々(あせあせ)と焦げればやっぱり焦るものだ。
焦とは焦熱・焦点・焦心・焦燥と何か一点の方向性に収斂する何かのことで、焦げるも確かに全焼ではなく一点一面だけが焦げる。
クッションは足元を暖めていた電気ストーブにくっつき10センチ四方程を焦がし中のスポンジもシュリンクして溶けた。
いつもキレイに部屋に飾って大切にしていたものが焦げて私は大変ショック。
何より、このデカデカの64コントローラーもまた大きくて運ぶのが大変であった。
京都からの持ち帰りものと言えば、この前は大きくて重い聖護院大根に三十三間堂の長くて運びにくい矢のお守りを持って運ぶもので、その時もヒーヒーだ。
人とは動けば移動と共に大きな荷物も付随するもので正に兵站。
兎に角、運ぶのも大変だったゲームコントローラクッションも焦げればそのダメージも相当なもので、私は全てを忘れようと封印する。
そして、昨日、焦がした部分を修復したのでその封印を解くもので、溶けた空洞にメラミンスポンジを詰めて、布を貼るだけの縫製もない雑な修理ですが表面のグレー色も馴染んで良い感じ。
若干焦げ色は残るもののまーまーまーこれでいいやと納得する。
ゲームやコンピューターであれば消したり、巻き戻ったりと失敗前に戻ることは簡単ですが、リアルはそうはいかない。
過去とは巻き戻し不可避の現象でもあり修理や軌道修正しながら道を選ぶ。
修復後のキズとは巻き戻しの証とも言えばそのような感じでもあり修復でもすれば多少の愛着も湧く。
ガシゴシと激しく操作するコントローラーとは中古品で購入して使うにはちょっと無理だなと思う潔癖症ですが、自ら付けたキズであれば問題もない。
この修理したデカデカのコントローラークッションのキズもまたそのような使用感だと思うことにして、キズの数だけ歴史ありで、そう思うと愛用品のキズとはなかなか格好良き勲章だ。

 

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■2026年3月10日(火)
■がんばれ☆キラキラ☆
■2026年3月11日(水)
■一日一文章トレーニング。

「いやはや、昨日のチェコ戦も勝ったー」

昨日の試合で印象に残ったのは高橋投手・宮城投手・金丸投手・北山投手たちの全力投球の素晴らしい投球リレーと、岡本選手のファインプレー、そして、やっぱり周東選手の俊足と盗塁と満塁ホームランと村上選手の満塁ホームランがこの試合を決めた。
投球のことも野球のこともよくわかりませんが金丸投手の奪三振ショーも圧巻であった。
まだまだ高校球児のような若い選手が威風堂々な雰囲気を醸し出す投球も良い。
私のような視聴者が観るピッチャー像とはほぼイメージだ。
応援チームに自分が勝手に苦手に思うピッチャーが投げていればほぼ打てないようなイメージでもあり、走ったりバントしてとピッチャーをかき回すようなプレーを期待する。
そして、逆にそのようなピンチを消すのがファインプレーでもあって岡本選手のナイスキャッチな守備もとても良かった。
昨日、アメリカVSメキシコも観ていたのですが、その中でメジャーリーガーの有名な誰かがファインプレーでピンチの芽を何度も摘んでおり、そのようなプレーとダブる。
鉄壁な守備とは偉大だ。

今回のWBCを観るにあたり私は気分を盛り上げる為に事前に野球の勉強をした。
勉強の材料は「忘却バッテリー」のアニメでwww変化球等の野球の説明などはほぼ忘却したものの野球選手の気持ちを知る。
なので、少しやさしい。
何よりチェコVSオーストラリアの生試合を観戦するものでファールボールなどが飛ぶとあの辺が私たちの場所だと勝手に自分のテリトリーのように画面から球場の雰囲気も手に取るようにわかる。

バッターは反対に「ヒットを打ってくれーホームランを打ってくれー」との祈りの連続。
昨日の打線は良い感じに打てているものの打線が繋がらずに後半まで無得点。
そのような苦しい時間帯に内野ゴロを韋駄天の如くの俊足でセーフとなる周東選手の走りで沸き立つ。
恐らく、このようなアグレッシブなプレーによってピッチャーも動揺しチャンスとは生まれゲームは動くものである。
周東選手を観ているとイチロー選手のことを思い出すもので、昔に生イチロー(呼び捨て御免)を観たことがあったもので外野からレザービームな返球をした記憶は今も鮮明に瞼に残る。
そして、ゲームはやっぱりホームランが決めるものでホームランもまた偉大だ。
周東選手はホームランも打つのかーと思っていると村上選手のボールも外野席に吸い込まれホームランとなって、我もガッツポーズで歓喜する。
そして、客席に飛び込むボールに群がる人たちを観てチェコVSオーストラリア戦の元野球球児っぽい地蔵たちに囲まれた中で平和にファールボールが足元に転がって来た幸せを感じる。
野球観戦はなかなかいけない時もあったものですがここ数年は毎年野球観戦出来ているものでもあり、今年も絶対に野球場に行くぞーと思っている。

 
■2026年3月11日(水)
■ぴょんぴょん!
■2026年3月12日(木)
■一日一文章トレーニング。

「飾った人形(ピオプル)をひっくり返してピオプル全員を救出した」

キズ防止のケースの中に飾る携帯のシールや印刷物を探して何マイル、時折ケースを外しては中身を変えてと何かと素敵な飾り物はないかと探している。
ですが、これだと思うようなデコレーションにはなかなか出会えないもので何かを入れてはスグに飽き、中身のデコレーションは抜いて何を入れるべきかと彷徨う迷い人だ。
おかげで今は何の装飾もないシンプルな真っ白な板で何の飾りもないことはつまらない。
スマホ飾りとは自分の中の秘めた自己主張と考えれば学生証の透明窓にも似ている。
学生証の窓飾りに何を飾っていたかと思い返せば雑誌のオサレなモデルさんなどの写真を切り抜き飾いて入れていたような気もする。
気に入った写真があればハサミでジョキジョキと切って学生証に入れる飾り物でもあり、または、自作の落書きなども気に入れば切ってデコレーションしていた。
他の人は推しの有名人や好きなアニメなどを入れいたような気もするもので、何も入れていない人も多い予感。
携帯をデコレーションすることはアイデンティティに近い何かであり、他人に学生証の飾りを見られると「何を入れてるのか?」とあーだこーだと言われたものだ。
中高生にファッション雑誌の切り抜きとはちょっと変化球である。
しかし、自作の落書きを学生証に入れることはもっと規格外でもある。
今ではスマホに自作画を飾ることはすこす恥ずかしいことで、それだけ着実に成長している。
そして、
昨晩も携帯電話に入れる「何かおもしれーものはないかなー」と探すもので、古い箱をガサゴソと掘り出してくる。

すると、

箱の上に乗っていたプラスチックの小さな人形が落下するもので、小さな人形たちを床にぶちまける。
「あーあー、やってしまったー」
小さな人形たちは床から低い置棚の上や床にじゃらじゃらと散らばって落下するもので、棚上に落ちた人形を拾うと手からどんどん逃げて棚の隙間に吸い込まれていく。
我は呆然となりながら明日片付けようと眠りにつく。

ということで、

昨日は小さな人形たちを救出するべく机を動かす棚移動の大掃除。
人形(ピオプル)たちは以前販売していた在庫品でもあり、あまりにも好きすぎたので全部ワイがゲットした。
簡潔に説明するとケロッグのおまけのようなモノたちで母をたずねて三千里なマルコ造形の珍しきビンテージ品。
色もカラフルで収納ケースに納めると美味しそうなキャンディーにも見える。
一体一体の人形たちを拾ってはケースに戻し、何体の人形を落としたのだろうかとメチャメチャにたくさんのお人形さんたちを落としている。
このような棚裏棚下にはマジックハンドの先端に付けて取ろうと苦戦した形跡の粘着テープを落ちているものでそのようなゴミを捨てる。
また、私が描いた落書きや謎の工作ゴミも落ちているものでそれらもポイポイと捨てる。
埃だらけの棚下の大きな埃を掃除機で吸い取り、雑巾で細かい埃を拭き取って、これまた我のやらかしにより部屋は少しずつキレイになる。
これは掃除してキレイにしてから落として汚し、また再び掃除してキレイにするいつもの人生サイクルである。

というわけで、「オレはやった~やり遂げたものである」

全人形を拾って全ピオプルを救助して、これは米国16代大統領のリンカーンの民主主義の簡明な表現のような偉業である。
「government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth」
そう言えば、あの有名な「人民の人民による人民の為の政府」後ろには「人民の為の政府は地上から滅びることはないであろう」と続くものでそのような言葉はあんまり翻訳されない。
この後ろに続く永続性とは英国であれば威風堂々な「Land of hope and glory(希望と栄光の国)」やglowly goes on forever(栄光は永遠に続く)となるもので、リンカーンの言葉とはピオプルこそが永続性の確信であると言っている。
中国の有名な「国は人を以って本となす、人が安けれ国安し」ということわざもある。
国は人で出来た本との表現も面白いものですが、人が格安であれば国も安いとは何だか鋭い。
これは正に失われた30年の結果を端的に表しているようでもあり、誰のための政治であったのかと弊政心から反省してもらいたい。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月12日(木)
■ビューーーンー。
■2026年3月13日(金)
■一日一文章トレーニング。

「壊れたアップル電話の葉っぱ部分に真鍮芯を挿して繋ぐ」

昨日は文章を書きながら永続性を「かくしん」するもので、それが「確信」であるのか?「核心」なのか?よくわからない。
私は物事を断定できるような才も無ければ苦手なもので個人的には確信はしているけれどもリンカーンの核心を突いているかと思えばそのようなことも言い切れないと言うか、よく知らない。
「あーー、どちらかなー」と思いながら書いて後から気になる「かくしん」である。
文章を書いていれば思っている事柄とは忘れぬ内に一気に書きたいもので脱字誤字も日常茶飯事。
そして、書いた後から気になることは毎日の話の種不足の中でしっかりとボールをキャッチして繋ぐ一日一文章トレーニングである。

「確信」とは確かにそうだとかたく信ずることで“名詞や動詞”としても使われて、多くは個人的な意見や感想としての確信である。
「核心」は物事の中心となる重要な部分のことで“名詞”のみに利用される物事の普遍的な核心を表す。
「かくしん」は一方の確信では心情的に信ずるものでもありながら、もう一方の核心は真なる答えを貫く動詞とはならない面白さだ。
動詞とは物事の動作・存在・状態を表すもので、普遍性が動詞とならないことは日本語の曖昧な表現の特徴なのでしょうか。
生活を営む人々がいなければ国なんて存在し得ないものでpeopleこそが国の根幹であることは間違いなき核心でもある。
しかし、数百年前まではそのような国民主権なる概念さえも無い封建的な時代が続いた歴史でもあって今後も価値観とは揺れ動くものだ。
新しき常識とは良きアップデートとなることが期待されるもので、世の中とは常に不安定さと共存している。
そのような価値観の普遍性とは「かくしん」なる曖昧さに表現されるのが日本語の特徴かもしれない。
上手く表現できないのだけれども・・・。
昨日のリンカーン大統領の言葉の他に何かヒントはないかと調べると、第4代・5代ジェファーソン大統領の「あらゆる権威は人民に属する」というpeopleな言葉を見つける。
これは国民主権について語るものでヨーロッパ大陸からの様々の非難や注文で外圧をかけられた大統領が「まずは生きさせて下さい」と言ったことが有名だ。
peopleとは米国とヨーロッパとの関係上から生まれた重要な芯であることは間違いない。
そして、人が立つ軸の位置がpeople側に立つか否かの良い識別方法も見つける。

ということで、

昨日は「前髪を切った?」と聞かれるもので、私は「前髪が燃えた」と返す草。
これは現実の会話かと思うのですが現実の会話である。
people側に立つか?立たない?というお話でもありませんが、ただし1本の芯は通す。

それはプチ掃除でキレイになったついでにアップルの貯金箱電話の上に溜まった埃を拭っていると赤色のリンゴの葉っぱがポキリと折れて葉っぱを修理したお話。
アップル電話はだいぶんと古いビンテージ品でもありプラスチックの経年劣化も進んで脆いようだ。
そのような折れた葉っぱの接着面は3ミリ程でボンド接着したとしても、すぐに外れそうで心もたない細い幅なので真鍮線の芯を通しからパテや樹脂埋めで固定しようと考える。
先ずは電動ドリルでガリガリと真鍮線を挿す穴を開けるもののプラスチックが溶けてドリルの先に密着してキレイに穴は開かない。
ドリルの先に付着した溶けたプラスチックはライターで燃やし溶かしながら剥がしていると金属は熱して押し挿せば良いものではと考える。
さっそく、ペンチで真鍮を持ちガス台で燃やす。
しっかりと燃焼させないとプラスチックには刺さらないもので長時間温めてからプラスチックに挿すと今度はプラスチックを溶かしながら刺さるには刺さるのですが溶かす必要のないプラスチックまで溶かす。
この溶ける熱によってリンゴの葉っぱの接着面のカタチは変形するもので一応固定は出来たものの隙間は開く。
写真参照。
その真鍮刺しの隙間は土日にUVジェルで埋めて固定することにして、そのような真鍮を温めてプラスチックにぶっ挿す作業をしていると前髪も焦げて燃える。
前髪を触ると髪の毛がチリチリと焦げた球のようになっているので我のキューティクルも焦げて燃えて焦る。
ガスコンロに顔を近づけすぎかもと思うのですが、金属の線とはとても小さく細い線でもあって気を抜くと床にポロポロと落してなくすもので、多くの真鍮芯を挿す加工をするプラモデラーたちもまた前髪を燃やしながら芯を挿しているように思うものだ。

 
■2026年3月13日(金)
■リンゴの鍵♪