*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月2日(月)
■一日一文章トレーニング。

「App Store のウォレットにアカウント残金が200円残っております、そして、その残金が1300円になりました」

いつの日も、来る日も、来ない日も、早くアプストアーの残金を0円にしたいものである。
このような残るリンゴ残金はどの家庭にもあるチリも積もれば埋蔵金となるかもしれないものである。
App Storeは正式にはアップ・ストアと呼ぶようですが、我が家ではアプストアと呼ばれています。
ですが、私が「アップルカード」とか「リンゴカード」、「アイチュンカード」とか呼び方が適当すぎて「どこのパチもんカードなのか?」といつも指摘されます。
200円で購入出来る欲しいものは無く、使い道もない200円である。
そのような残金の200円も目星を付けていたアプリがブラックフライデーで半額となり、200円を足して購入することで残高0円にしようと考えるのである。
購入するアプリは音源作りの追加の課金アイテムで、この追加機能でオレのiPadは晴れて目出度くスタジオとなる予感です。
但し、まだ、1回も使用していません・・・

XXXX円+XXXX円=XXXX円-残金200円=XXXX円と紙に計算機を使いわざわざメモして計算。

そして、そのメモ書きを持ってコンビニに行きピッタリ正確な金額のXXXX円分のギフトカードを買えば一連の残金0円の儀式は終了します。
任意の金額でカードを購入するには「1000円~100,000円」のカードでピッタリの必要な金額分を購入します。
これでウォレットに残った残金が0円となりスッキリである。

とりあえず、

ギフトカードをiPadに登録して1個目の音源サンプラーを購入。
2個目も購入して「Done」すると、お客様の残金が足りませんと出てくるものだ。
「アレっ?おかしいゾ」
ピッタリな金額を購入したのに何故か摩訶不思議なことも起こるものだ。
確か残金は200円あると思っていたのですが、妄想か幻想であったのか?と購入する為には200円足りない最初の状態に戻るのであります。
画面のスクショなども撮っていないので私が見た残金200円は幻だったのかと証明出来ない。
「おかしいな~おかしいな~」
と念の為にゴミ箱に捨てた計算の紙を拾って見直すとメモした計算自体が間違っていたのである!!
計算機まで使って計算したメモが、どのようにしたら間違うのか?と疑問ですが、わざわざ頭の中で暗算した200円引いた金額をメモに書いており、それが間違いの元凶である。
結局、再び200円不足となり、追加の1500円のカードを購入することになります。
人とは面白いもので、先ずは自分の間違えを疑わないもので、どこかに何かがあるのかと疑うものである。
レジ間違いを防ぐ為に暗算でも出来るような簡単な計算でも必ず計算機を使う習慣が身についたものではありますが、それでも押した数字や書いた数字が間違っていれば計算間違いは必ず起こるものである。
この場合、書いている数字が暗算で-200円した数字を書いているので、足し算して逆算して引いても0円の正しい計算となるもので、書き間違いを直さない限り防ぎようのないことでもある。
以前、パスワードのメモ自体を間違って記録していたこともあり、ドン引きされたこともあるぐらいのケアレスミスである。
仕方がないので再び1500円のギフトカードを再び購入して現行のリンゴの柄が5枚揃ったので良しとする。

ギフトカードは今や記号が書いた単なる紙切れが1枚入っているだけですが、昔のApp Store & iTunesカードはクレジットカードみたいな立派でお洒落なカードが入ったものである。
確かiTunesカードはお正月の初売りセールで少し安く買えたような予感もするので今年の初売りも狙ってみるか。
それにしても、もう12月であります。
恐ろしきかなの、この季節感がだんだんと薄く感じるのは私だけでありましょうか。
そして、柄はシールとして剥がして再利用出来るように見えるのですが、しっかりと粘着した強粘着のシールが貼られており、毎度剥がれないかと擦るのですが取れないのである。
(やっぱり、シールらしい)
いやはや、
写真ようにリンゴが並ぶと格好良いものだ。
特に古いApp Store & iTunesカードはカッコ良い。
リンゴカードの柄を集めている人たちっているのかな?

よって、

我のウォレット残金は1300円です。
200円から1300円に時給もアップした感じでもある。
何かまた欲しいものが出来るまで塩漬けしておきましょう。
そして、今書きながら思ったのですが「1500円」「5000円」「10000円」と「1000円~100,000円」と4種類のカードの中で1000円から任意で選べる「1000円~100,000円」買えば1000円で買えたのではなかろうかと思うのである。
あ~りんごの不思議であり、思い込みとは怖いものである。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月2日(月)
■冥界のおやつ~ゴーストワイヤー東京面白かった~。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月3日(火)
■一日一文章トレーニング。

「昨日、久しぶりにコレクション棚を漁っていたならば黒い金属の板を発見します」

それはシルバーの専用ケースの中に入ったWALKMAN。
このWALKMANは今見ても時代の古さを感じさせない美しいデザインである。
人はどうやら手にすっぽりと収まる四角いものが好きなようで、かつては音楽を持ち歩く道具であった板は、今では情報を持ち歩くiPhoneな板に持ち替えられているものだ。
電車などに乗るとほぼ100%の確立で皆スマホな板を手に持っているもので、そのような金属質な四角い板を手に持つ姿を見たならば2001年宇宙の旅で知恵か悪意かを猿に授けるモノリスの黒い板のことを思い出すものである。
四角くて黒い物体はそのような不思議な魅力があるもので、物語でなくとも私たちに常に何かの情報を四角い板から受け取ってアップデートしています。
そして、フチのゴム部分には若干のベト付きと経年劣化を感じるもので、昨晩は寝る前にもう動かす術のないWALKMANをピカピカと美しく磨くのであります。

先ずはシルバーの金属部分は綿棒にコンパウンドを付けて磨きます。
粗めで磨き、仕上げ目で整える。
金属の曇りは取れて輝きはそれなりに美しく輝くものである。
洗面所のガラスでも何でもキレイに磨いてピカピカにすると、その半径1メートルぐらいの範囲の空気間も明るく感じる呆則はあるものだ。
これは単に反射する面を磨けば反射する光量も増える現象でもあるが、このような小さな物を磨いても周辺の空気を少し輝かせるものである。

問題はゴムである。
ゴム部分の経年劣化はまだ初期段階のようで、このまま放置するとベトベトのベトベーターとなってしまう予感である。
先ずはセスキで表面の汚れを取りキレイに磨きます。
すると、機械の表面は美しくはなりますが、磨けば磨く程にゴムのベト付きの存在感も強くなるものだ。
そこで、このゴムのベト付きは重曹とゴムラテックスのスポンジで磨き取り去ることにします。
スポンジはゴムラテックスに重曹を染み込ませており、そのスポンジで磨くと汚れを浮き出しながら汚れをスポンジ内に掻き取る仕組みである。
スポンジを軽く水分で湿らせてゴム部分を擦ると経年劣化した消しゴムのカスみたいな粘質物体がスポンジでこすり取られます。
これでゴム部分はツルツルの新品みたいになるものだ。
加水分解という悪しき者を成敗して勝った瞬間でもあり、古いWALKMANはこのようにして新品同様の美しさとなったのであります。

ところで、

先日、遊びで石や陶器の物体を作り1万年先の未来に向けてカタチや情報を残せれば面白いと思った遊びのことでありますが、それは知らない未来の誰かに対するお手紙のようなものであります。
1万年後も人類は繁栄しているのか知る由もありませんが、幾人かの人間は生息しているだろうと思うもので、また、血走った目のウサギを土の中に埋めて、それを1万年後の誰かが掘り起こせば面白いことでもある。
埋めてから5年後の未来に「何じゃコレ?」と掘られて捨てられる産業廃棄物となるかもしれないので山などに埋める必要はあるのかもしれない。
未来の科学者は血走った目のウサギに文化的な意味を見出そうとするかもしれませんが、血走ったウサギなんて現代でも誰も知らないし何の意味のない落書きでもある。
金属やプラスチックなどはすぐに経年劣化によって破壊されカタチはなくなるもので、おそらく、金製品以外の私たちの身の回りにあるものでほとんどのモノは確実に1万年後には何一つカタチを残らないものだと思うもので、実体の無い電気情報なんてモノも機械が壊れ、電気が流れなくなり、規格も変われば一瞬で消失するものでもある。
土偶のようなものは過去から現代まで残っており、金メッキした板状のようなものであれば地殻変動などで圧迫されたとしても強度はあるのかもしれない。
石や陶器は最強やね。たぶん

そして、そのような1万年先の未来の手紙についてはどうでも良いのですが、1万年後の未来の日本語の不思議に頭を悩ますものである。
それは子供の頃のデジャヴのようであり「何で何で」と「未来なのに後なのか?」としつこく親に聞いていたような気もするものだ。
それは1万年後の未来は「後」を使って未来を表現し、1万年前の過去は「前」を使い過去を表現する不思議である。
1万年という大きな数字で考えなくとも5年後でもやっぱり「後」で未来のことで、5年前の事柄は「前」で過去のこととなるのである。
先日描いたモーション画で1万年後と後を付けるかどうかと考えて、何も書かなかったのではありますが、時は後ろから前に向かって流れているように思うものである。
これは未来予測を考える時に、時は前進し、過去は遠く後退していくことと真逆な違和感である。

「後」はあとずさり、うしろ、おくれをとること。
「前」は前に進むこと。

これは1分1秒と過ぎていく時の流れというものを昔の人たちは前を見て進むということを否定しているように思うものだ。
数メートル先の前を見て前進することは未来予知そのものであり、時を進むということは未知の未来に対して過去を見ながら後ろ向きに前を進んでいるような例えかもしれない。

 

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■2024年12月3日(火)
■カセットを取り出す。

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■2024年12月4日(水)
■一日一文章トレーニング。

「昨日の1万年”後”と1万年”前”の世界観についての補足します」

先ず、1万年後と1万年前の世界観は私の判断で整理すると図のようになります。
1万年後を言葉のままに解釈すると今現在を後ろ向きに歩く感じに思うのが昨日の話である。
時は左から右か、右から左なのか図ににすると悩みますが、1方向に時は流れているとすれば未来は常に「前」に向かって流れ、過去は過ぎ去った「後ろ」となります。
これが言葉の言い回しだと前後が反対になる不思議なのであります。

私はこれを後ろ向き歩きで未来に向けて歩くご先祖様たちの知恵(教訓)ではなかろうかと思うのである。
実際に金融商品の取引にしても商材への投資についてもビジネス方面だと過去のデータから判断することも多い。
未来は一方向な前に流れているとしても、不確定な未来を判断する材料は後ろ向きな過去から判断する必要性はあるものだ。
未来とは常に希望的観測や予測などの未知な領域でもあるので、より現実的な判断を下すにはデータ、過去帳、経験則から判断して未来を予測しながら進むことは普通である。
未来とは過去の積み重ねであり史料、データ、経験則を頼りに一度裏切った人や国は絶対に信用に足らない未来を予測することは至極当然なことでもあります。

一方で未来は前方に向かって歩くイメージであります。
一般的に持たれる過去と未来に対するイメージとはこのようなカタチであると思われます。
私達は今も常に前に向かって歩いているもので、進行と共に時を消費していく未来への歩みとは正にこのようなカタチでもある。
図にするとわかりやすいのですが普通に前方に向かって歩いている場合、前方で起きる未来の兆候に対して素早く感じ取ることが出来るのがメリットです。
一方で過去の教訓などは全く見ていないことがデメリットであり、これは観測範囲が前方にも広がっているので環境の変化や危険な兆候を発見しやすいようにも思うものだ。
後ろ向き歩きのデメリットは不確実な出来事に対しては弱くなるもので、データや前例主義の後ろ向き歩きであれば変化の兆候などを感じられない。
これはよく話しを聞く呆則でもある。
今の日本社会に後ろ歩きする人の方が強いのか?一見そうっぽく見えるけど過去からの教訓も学んでいるようにも見えないし、どうなのでしょうか?
1万年後の未来な言葉から言うと日本語の哲学は後ろ歩きを推奨しているようにも思いますが、これはどちらが良いのか悪いのかという話しではないような気もするものだ。
未来に向かって後ろ歩きする人と前歩きする人の2通り存在していると思えば面白いもので、「あの人は後ろ向き歩きの人だな」「この人は前歩きな人だ」と思えばそれなりに人分析にも幅も出るものだ。
そして、私のような人間はガンガンと闇雲に進み痛い前歩きタイプでもあります。
猪突猛進ガシガシと3歩進んでは3歩戻りと後ろ向きタイプな人にとってはアップルカード・ウォレット0円を目指す失敗談なども「コイツは一体何をしたいのか?」と不思議がられても仕方が無いものだ。
いやいや待てよ。
常に失敗と修正と繰り返しながら呆則を貯めて「前歩き(思いつき)+後ろ歩き(反省して呆則を貯めて修正する)」の混合みたいにも思えるものだ?
そのような意味に捉えると、未来に対する後ろ向き歩きとは自己反省の含みもあるもので、これはもう少し深い1万年後の前後反対かもしれないものである。

そして、この略図の面白く思う部分は「今(現在)」に幅があること。
時の流れとは点や線で考えがちではありますが、このような図に整理すると「今(現在)」に幅を発見するのである。
この幅とは今を生きる為の決断の余白みたいなものかもしれなくて、「今(現在)」に幅を感じれば判断の救いもゲット出来るものである。
こうして、人生行路の旅人は新たに「今(現在)の幅」をゲットしたのであります。
めでたし、めでたし。

 

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■2024年12月4日(水)
■ジャンプ。

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■2024年12月5日(木)
■一日一文章トレーニング。

「ピカピカになったウォークマンを手に持ったならば動かしたくなるものだ」

ウォークマンを動かす為にはガム電池と呼ばれる平べったいカタチの充電池が必要です。
この電池はもう製造されていない電池でもあり、どうしても見つけて機械を動かしたいものだ。
そして、この電池は時折見かけることもあるもので「正直どこかで見たなー」と思うのですが、どこで見たのか皆目思い出せないのである。
あそこの引き出しをガサゴソと、電池ボックスやITボックスと呼ばれる配線やガジェット類が詰まった箱も開けて中身を探るのですが見つからない。
そして、そのようなガム電池を探して深淵の箱を開封すると、とんでもないものが見つかるのである。

それはマッキントッシュのリンゴのシール。
PowerMacを購入した時に付属していたシールのようで、アップルは昔から製品を買うとシールのおまけが付く伝統はあるようだ。
緑+薄いオレンジ+濃いオレンジ+赤+紫+青のカラフルな6色のボーダー線のリンゴマーク。
そして、商品登録の(R)マークも付いて珍しいようにも思う。
なぜ、レインボーカラーが採用されたのかとネットを調べると、齧ったリンゴの商標デザインをしたロブ・ヤノフ氏がIBMの冷たいイメージの単色青の縞々模様に対抗してカラフルで家族でも楽しめるマイコンにしようと賑やかな色にしたそうな。
今のリンゴは白一色で外装もマークも当初の温かさと少し異なり冷たい感じはするものだ。
このマークを見ているとストレンジャー・シングスな世界観にもピッタリで、遊び心のあるデザインのように思う。
そのように考えると現代巷に溢れるロゴやパッケージデザインなどは遊び心に欠けるクールなものが多いように見えて、私がエナジードリンクのパッケージに惹かれるのもそのような所にあるのかもしれない。
このシールをマシンに貼ったならば格好良い。
しかし、シールって何故か使用するのに勇気が必要なものでもある
そう言えば、あのギフトカードのリンゴのシールも取れるようですがシールを剥がせないのは、取れたとしても取り外して貼る勇気がないからかもしれないものだ。

そして、そのようなシールもスゴイのですが箱の中からは古いマック用のゲームソフトなども発掘されます。
それは「VicTorian Park(バンダイ・デジタル・エンターテインメント)」というゲームです。
Macintosh+Pippin対応のソフトで紙箱+攻略本付きで発掘されます。
このゲームはパッケージ情報によると3次元空間で遊べるゲームでSGI(シリコングラフィックス)で作られたキャラクターがヴィクトリア朝の世界を歩くゲームでもある。
結構、面白かったような記憶もあるのですが覚えていないものだ。
ゲームを買う時にはゲームの攻略本も一緒に購入するもので、その本を読むとプロダクションノーツのような記載もあって面白い。
それを読むと子供目線を作るのに苦労したそうで、(米)CyberFlix社のオーサリングツール・エンジンを使用して3次元世界を構築しているようである。
さっぱりとよくわかりませんが、このような制作者のコメントを読むと何かワクワクとするものだ。
製作はエフツーでディスクは2枚組。
Windows版が6800円(税込み)でMacintosh+Pippin版は5800円(税込み)・システムは漢字Talk7.5以上と値段の差があるものだ。www
ゲームはアイテムを集めて謎を解き攻略する感じであり、主人公は声優の高山みなみさんなどの豪華なものだ。

ガム電池探しは清く諦め、まったりとお茶を飲みながら古いゲームやマッキントッシュのリンゴのシールを愛でます。
そのような時間とはお茶を飲むイギリス人や千利休の至高な時間かもしれないもので、ナンデモカンデモ寝かしてお茶を飲んで熟成させる時間とは必要な呆則でもある。
そして、我にも突然脳裏にあの場所にあるのかもしれないとの閃きがやってくるものだ。
そこは一度開封して中途半端に調べた引き出しで、もう一度再調査で「あった!」と充電機と一緒に発見されるのであります。

+Rechargeable-
充電式 ニッケル水素電池

正直言うと格好良い。
そして、おまけに出てきたMETALのカセットテープもげに恐ろしくカッコ良い。
80分録音の文字がMETALの中に表示されるのも素晴らしく、黒とシルバーとグレーとオレンジの組み合わせも素敵。
ガム電池もオレンジ+シルバーでデザイナーが同じな趣向が手に取るようにわかるようだ。
ところで、80分テープとは調べたら往復時間で80分である。
そして充電してピコピコとエラー表示で困ったなーと調べたら、高速ピコピコ点滅の後の15秒後に正規充電は始まるようで何と数分間の充電で完了するものだ。
何だか充電時間が早すぎないか?
そして、ガム電池を機械に入れて「動くかな~」とワクワクとするもののピクリとも動かない機械なのである。
そりゃ~長期間放置の充電池とはもうすでに終わっていてる可能性もあるものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月5日(木)
■「うさぎ追いしかの山~ふるさと~♪」の楽譜。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月6日(金)
■一日一文章トレーニング。

「はぁ~はぁ~はぁ~ササクレ情報を集計したらメチャクチャ疲れた~~」

なぜ「ささくれ」が起こるのでしょうか?それは人体の神秘である。
私の場合、ササクレはほぼ手の指のみに発生し、足の指がササクレたのは観測約3ヶ月間で12月3日の1回のみで、ササクレのほとんどは手の指で起こるようである。
爪と指の肉の境からその境界面を割くように現れる出るササクレとは境界面探求の私に、ピッタリで興味津々な観測物でもある。
指がササクレても人体にとって何も得るメリットはなく(たぶんです)、靴下や布団に引っかかったり、睡眠の邪魔をするぐらいのデメリットしかないものだ。
先ず、指がササクレると布団に引っかかり、一度ササクレを感知するとマイコンピュータは何度も何度も布にササクレを引っかけながら佐藤明風に「指がササクレているな~」と脳みその片隅にササクレの存在を感じ続けるのであります。
朝起きて一番に爪切りでカットされて、見つけ次第に切られて何も記録に残らないササクレであります。
なので、ササクレデータとはほとんど観測されていないものであり、人類の為、世の中の為、ササクレの為に出来るタイミングと場所を記録したのである。
ネットの情報などによると乾燥や栄養、ストレス、ケア不足でササクレるとある。
いやいやいや、知らんけど。
私の場合、子供の頃からよく出来るもので、いつも栄養満点でストレスも乾燥爪もなく良好でもササグレるもので爪の生え方の遺伝ではなかろうかと思うのである。
そして、そのようなササクレがどのような間隔で起きているのかを9月9日からの89日間の観測した記録が下記にあるものだ。

右手のササクレ回数 14回
左手のササクレ回数 12回
右足のササクレ回数 1回

約3日に1回にササクレを起こしている計算である。

右手の親指 0回
右手の人差し指 3回
右手の中指 3回
右手の薬指 6回
右手の小指 0回

左手の親指 0回
左手の人差し指 1回
左手の中指 10回
左手の薬指 1回
左手の小指 0回

左手は圧倒的に中指が多く。
右手は薬指が多い。
何やろうね。

ササクレる場所
右手の右側 12回
右手の左側 2回

左手の右側 11回
右手の左側 1回

右手は圧倒的に右側に、
左手は圧倒的に左側にササクレはできます。
指の外側に向けてひっかけやすくササクレているようである。

9月9日 右手薬指右側 室温25.7℃・湿度54%
9月16日 右手中指右側 湿度25.7℃・湿度51%
9月18日 左手中指右側 室温24.7℃・湿度70%
9月25日 左手中指左側(小)+右手中指左側(小)+右手薬指右側 室温24.6℃・湿度51%
9月28日 右手人差し指右側 23.7℃・湿度59%
9月29日 左手中指左側 室温25.6℃・湿度63%
10月5日 右手中指右側 室温24.9℃・湿度63%
10月10日 左手中指左側 室温21.6℃・湿度60%
10月18日 右手薬指右側 室温26.1℃・湿度73%
10月19日 左手中指左側 室温26.1℃・湿度66%
10月20日 左手中指左側(爪割れ) 室温26.1℃・湿度66%
10月22日 右手人差し指左側 室温21.9・湿度51%
10月27日 左手中指左側 室温22.7℃・湿度65%
10月29日 右手薬指右側 室温22.3℃・湿度58%
11月2日 左手中指左側 室温20.8℃・湿度67%
11月5日 左手中指左側 室温20.0℃・62%
11月6日 右手中指右側 室温20.7℃・56%
11月10日 右手薬指右側 室温18.5℃・湿度56%
11月13日 左手人差し指左側 室温19.6℃・湿度67%
11月18日 右手薬指右側 室温20.7℃・湿度68%
11月20日 左手中指左側 室温17.5℃・湿度56%
11月25日 右手人差し指右側 室温16.8℃・湿度57%
12月3日 右手薬指右側+右足小指右側 室温19.3℃・湿度59%
12月5日 左手薬指左側 室温17.4℃・湿度54%

ということで、

追記:上記の通りに湿度高くともササクレる時はササクレているので空気の乾燥とも関係なさそうであります。
(平均室温は22℃・平均湿度60%)
(MAX室温26.1℃・MAX湿度73%)
(MIN室温16.8℃・MIN湿度51%)

だから何だと言われば単なるササクレであります。

ササクレの詳しいデータは誰も知らないと思うので記載しましたが、とってもしんどい作業であった。
右・左と集計していたら右?左?どの指だったけ?と訳ワカメとなる感じでもある。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月6日(金)
■素晴らしきピアノ演奏。
■2024年12月7日(土)
■スクラップメモ機能の実験中。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月9日(月)
■一日一文章トレーニング。

「私の文章の書き方には1)毎日コツコツ書きと、2)登山型の2通りあって、山には資料の山が山と貯まるのか、山と溜まるのかという話でもあります」

いやはや12月9日です。
年末感も特に感じさせずに時は進行するもので、あと22日間も眠れば今年も終わるものである。
特に、最近の土日の一日一文章トレーニングの更新もサボるもので、人のサボリ癖とはなかなかの人間の本質的なものだと思います。m(_ _)mT

「トレーニングをサボることは正直、最高~でR(ア~ル)UR!」

あれこれと今日は何を書こうかなと考えないことは、とても楽なことで、何せ書き始めて3日後にはネタ不足になるような横着人が長くトレーニングを続けるには、持ち前のサボリ癖や悪知恵をフル活用して楽な方法を見つけ出して書くものである。
それは長距離走のランニングに例えると近道を発見して、その近道を進行しながら時短道短を計っているのである。
だがしかし、
文章トレーニングのサボリとは誰の目から見ても明白なサボリであり7日間の内の2日間もサボれば十分なサボリ魔の称号を得るものだ。
そのような最近のサボリの原因は慢性的な話の種不足の中で適当に種を植えている収穫・集計作業がしんどく思うことでもある。
ボンゴレビアンコの造形も作らないいけない。
豆苗の三毛作の収穫を行うと毎日の写真を撮り、観測記録が増えるとそれを集計する手間も大変な労力である。
毎日ちょっとずつ草は成長していること以外に、後から見ても何の感想も発見もないもので、その意味ではLIVE感のある毎日コツコツは最強である。

そのような話の種を集めて収穫するのが大変なので、これは“ためる”ことがしんどいと言い換えることも出来るものだ。
毎日コツコツと休まず努力を続けることもしんどいのですが、毎日消化は“たまる”事柄も少なくて山とはならないものである。
一方で話の種を集めて“たまった”ものを積み上げるとなかなかな山となるもので、その山を登ると考えればしんどくてげんなりとした気分になるものだ。
この継続する思ったことを毎日書き続ける努力のしんどさと、“ためて”集計して分析することのしんどさの違いとは「歩行」と「登山」ぐらいの異なるしんどさである。
「さあ山に登るぞー」な掛け声もなしに山は登れないもので、今年も後何日と考えれば山は登りて、たまったものを消化するべーと思うのである。
山は確かに毎日コツコツ歩行を続ける体力がないと登れない山でありますが、だからと言って体力があるから山は登れるか?と考えればすこす異なるのである。
山登りは計画的にを準備してやっとこ登れる山かもしれないものだ。
そして、目の前に聳える高い山を見上げると我3歳な赤子はその場に座りこみ山を見上げてしまうものだ。

ササクレ分析に例えると、12月6日の記事からの3日後にこの指からササクレるだろうとの予測通りに今朝指がササクレたものであります。
このような約3日1回でササクレが起こるという事実を得るだけでも、3ヶ月のデータ収集の努力は必要であったものだ。
そして、これの面白い部分は左手の中指にササクレの種のようなものをルーペで発見して、3日後に左手の中指がササクレると予測していたならば、それに反して右手の中指右側がササクレる不思議である。
ササクレとは予想外の部分から突然発生したのであります。
これもあれもそのような面白いことに気づけるには長い長期間の観測期間とその山を登るしんどい努力がないと何とも面白さが伝わらないもんである。
「今朝私の右手中指の右側にササクレできた。おしまい」
で終わる日記は少しつまらないのであります。
“たまった”データの山を登ったからこそ、そのような日常の平坦な道の先に言葉を繋げることが出来たものである。

「一日一文章トレーニング」には長期間の話の種を育てて“ためて”その山を登る努力のフェーズと、毎日のコツコツと繋げる努力の二通りの仕組みがあるものだ。
そして、その両方の努力はしんどいがしんどさの質が異なる。

1)「毎日の歩行」コツコツ努力は絶え間の歩みで繋いでいく→継続するしんどさ。
2)「登山」準備に時間が必要で“ためて”登る歩み→一時に収斂して山となる激しんどさ。

1)コツコツ努力の歩行では毎日の出来事を文章と文章で繋いで文(ふみ)とするもの。
2)毎日の計測の結果なしに唐突に「右手の中指の右側がササクレた」と文章を書いても話は深まらないものであります。
このような話は山を登るという壮大で見えない努力があってこそ話として成立するものである。

とりあえず、

12月も終わりに近づいて“ためた”ものたちも忘却しない為にも拾ってカタチに集める必要があるものだ。
そのような山を登ろうと山を見上げていると、子どもたちは足がすくみ穴を掘って遊んでしまうものである。
“たまった”山を登るという偉大なしんどさにビビるのである。
これが口達者なサボリ魔の屁理屈の全貌である。\草/
そして、土日サボっていても当然何も成していません。
やっぱり日々のコツコツ努力の方が成果はカタチになりやすいもので、そして、新しい種を得るには山を登らないと得ることは出来ないのである。

ということで、

“ためる”であります。
私という人間は放っておくて、いろんな種を拾って”ためる”もので、そして、“ためる”には「溜める」と「貯める」の二通りの言葉があることに気づくのであります。
私達が一般的に使うのは「貯める」であります。
「溜める」という言葉は死語のようでもあり、会話でも日常的な文章でも少しグレードが高そうな文章以外では見かけないものだ。
これは辞書を調べると面白い発見もあるもので「貯める」言葉の記載がなくて、辞書の世界では「ためる」を意味する言葉は「溜める」だけである。
「溜まる」とは、前向きな意味で「つもる、集まる、とどまる、増える」マイナスな言葉で「とどこおる」となる。
本来は「たまる」とは、このような「溜まる」という漢字を私達のご先祖様は使用していたようである。

一方で「貯まる」には貯蔵、貯水、貯金、貯蓄というような意味で使われます。
例えば、郵便局は「貯金」で、銀行は「預金」だと国が関与する否かで使う言葉の使い方は変化するものだ。
貯金は「たくわえること」で、預金は「あずけること」の違いである。
郵便局と銀行で言葉を変えているように、言語とはとても概念的な言葉であって、その言葉の開発者には必ずその意図する何かを持っているものである。
昔かは冷蔵庫のように何でも長期保存するような術はないもので、「貯まる」というよりも「溜まる」方が一般的な世の中であったようにも思うものだ。
「溜まる」とは「留・りゅう」のことであり、方丈記の「淀みに浮かぶうたかたは且つ消え結び久引く留まる試しなし~」な、カタチのあるものはいづれ川下に流れていく滞留を意味するようにも解釈できるものだ。
そして、私達が現在使用している「貯まる」の意味とは昔の日本とは若干異なる世界線(次元)を生きているようにも思うものである。
「たまる」言葉を見ただけでも私達の世界は昔の時代よりも「貯まる」世界へと変貌しています。
だからと言って、世界中の全ての国々が「 溜まる世界<貯まる世界 」の方が強いかと言えば、そのような感じでもない。
例えば、先日、ロシアの軍事的な動向に警戒して国民に備蓄をするように求めていた北欧諸国は「溜まる世界」にあるように思うものだ。
福祉が充実しており貯蓄率は低かったような記憶もあるもので、社会基盤が安定していると人は「貯まる」よりも「溜まる」側の思考に重きを置き、お金にも流動性も高まる言われである。
日本は危機を煽りそこら中にあらゆる危機の種が落ちていて「貯まる」傾向を強めるには十分な能力を持っているものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月9日(月)
■新宿大ネズミもやっぱり必要なので召喚する。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月10日(火)
■一日一文章トレーニング。

「”溜める”と”貯める”の違いについて補足します」

「溜める」とは一時的な留まりを示す言葉であります。
「貯める」とは永続的な保存性を持つ言葉のように思うものだ。

留年(永続的にに留年するものではない)、
留学(永遠に留学するものでもない)、
留任(永遠の役職でもない)、
留置(一時的に留める場所である)、
留鳥(夏冬関係なくその場所に留まる鳥のことで、その広い地域を飛んで移動している)、
留別(旅立つ人が後に残る人に別れを告げること)、
留意(心に一時的にとめること)、
留保(その場で決定しないで一時的に預かること)、
留守(家人の不在)
と時間的な流れと共に一時的に「溜めおく」状態である。

私にとって「溜める」とは「貯める」の旧仮名ぐらいに思っていましたが旧漢字でもなく意味も異なるのである。
そして、意図的に「溜める」を使用することも無かったので「溜める」は死語そのものでもあった。
「溜める」とは時間軸と共に所有権の移動やカタチあるものが変容する無常感であり、一時的に溜まる場所と解釈したものだ。

一方で「貯まる」とは時間軸の変容を持たない永続性を期待する四角い保存箱のような感じでもある。
貝へんでもあるので、財宝や貨幣にまつわる言葉でもある。

モノやお金を「ためる」と考えた時に、時間的な流動性を持つ人(溜める人)と、時間的な変化を持たない人(貯める人)では物事の捉え方も異なるように思うものだ。
格好良く言うと、この世の中には「溜める人間」と「貯める人間」がいるとなりますが、2元化はダメダメなので単なる言葉遊びの御愛嬌である。
投資家はお金を時間の推移と共に変容すると考えると思うので、お金やモノを動かし価値の保存を試そうとする者であるし、「貯まる」思考であればわざわざモノを動かそうなどと思わないのである。

山と積み上がった「たまった」話の種をどのように消化しようと考えていると「溜まった」と「貯まった」に辿り着くものであり、目の前に聳え立つ資料の山は恐らく「貯まった山」で、それを話の種として集計解析して消化しようと動かせば「溜まった山」となるように思うものだ。

たぶん。

なので、「溜まった」と「貯まった」は使い分けて使う必要があるものだ。
今更ではありますが文章を書くこととは言葉を学ぶということでもあります。
そして、古から続く物事の考え方や概念を学ぶことでもある。

ということで、

世の中とは常に移ろい変化していくもので無常観とは避け難きことでもある。
先日、経年劣化したゴムのベトベータを取り除くことが出来た有能なスポンジのパッケージを模写しました。
これは100円ショップで購入したものでパッケージのデザインも特段なるものはありませんが、古いカセットウォークマンを加水分解からの危機から守ったスポンジでもあります。
このスポンジのミソはゴムラテックスの成分。
劣化したゴムのベトベトは同じ天然ゴムのラテックスの粘着力でくっつけて取り去るという仕組みである。
セロテープの取れないベトベトは同じセロテープや布ガムテームの粘着力のベトベトでくっつけて剥がすことと同じ原理である。
ラテックスとは封筒などにも使用されるペロッと舐めて封緘接着するアレである。
私はペロペロするのは気持ち悪いので水道水を指に付けて塗っております。
絶対にペロペロしていない。
機械で大量の郵送物など送る時などには特殊なラテックス封筒で表面に塗られたラテックスとラテックス同士をくっつける方法もある。
要するにラテックスゴムはラテックスゴムと良くくっつくのである。
舞台やTVのセットなどに作られる発泡スチロールの巨大なオブジェの接着もラテックス+ラテックスで発泡スチロール同士を接着して巨大な塊を作ってからそれらを削り造形物を作るものである。
ゴムの加水分解のベトベタ退治に同じ成分のラテックスの粘着力を使うことは「毒を以って毒を制する」みたいな感じでもある。
「毒を以って毒を制する」とは悪事をなくす為に悪事を利用する例えでもありますが、世の中の大切なモノを加水分解なベトベタで破壊することを防ぐのが、同じゴム成分であるラテックスというのが面白いのである。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月10日(火)
■封筒の山を崩す。

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■2024年12月11日(水)
■一日一文章トレーニング。

「昨晩から暖房のスイッチがONとなり、今年美味しかったラーメンを謄写する」

ぶるぶると寒い。
一昨日から室内でも寒くなり布団の中で包まりながら眠ります。
今年も足の爪先が寒くなる季節となり、ふかふかの布団に包まれてちくわのように寝る。
そして、昨晩から暖房のスイッチもONとなります。

室温16.9℃・湿度46%

この室温が今季暖房を使用しようと思った境界線なので日記にメモメモ。
そして、このようなデータはしっかりと暖房器具にも弱粘シールで貼って記録します。
そうすれば、来年の再び暖房を使用する時に気温変化の推移を比較することが出来るのだ。
暖房をつけるまではどのように暖をとっていたかと言うと電気毛布に包まる感じでもあります。
膝の上にチェックの電気毛布を置き座れば、それだけでも簡易のこたつの完成である。
しかし、そのような電気毛布を剥ぐと本当に寒く感じるもので「こりゃもう寒さにも耐えられん」と暖房器具のスイッチに手が伸びるのである。
因みに、クーラーのスイッチをONしたのは去年が6月11日で一昨年が6月17日である。
29.3℃の暑さに耐えきれなくなるので、その暑さ寒さの室温差は12.4℃。
大体同じような6ヶ月推移の時期に同じような暑さ寒さに耐えられなくなるのが面白い。

<我慢ならない暑さ寒さの境界線>
6月11日・29.3℃(クーラーのスイッチON) 
12月10日・16.9℃(暖房のスイッチON)

これでもう部屋は温かなのである。

去年は一昨年よりも38%ぐらいの暖房を節約できたもので、今年も去年と同等に太陽フレアさんは活発なようで同じ暖房具合の予測である。
さて、どうなりますでしょうか。

ということで、

今年もチクタクと年末に近づくのであります。
そして、今年買って良かったものを発表すると、ラーメンの「マルちゃんのズバーン」がとても美味しかった。
ズバーンは美味しいというだけでの言葉では足りないように思うメチャメチャに美味しいラーメンであります。
ラーメンは滅多に食べないのですが、色分けで何種類もあり、どれも個性的な味で美味しいのである。
即席ラーメンなのですが本物の麺のような食感と味が特徴で、具材を入れて普通に出されたならば即席なのか本物なのか私ならの区別がつかない自信はある。

そして、新しいガンダムでも「機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)」とZubaaanみたいに同じ文字を複数並べることが流行っているようであります。
なので、今年一番にうめえええええラーメンとはZABAAAN!で決まりなのである。

写真に撮るのも良いのですが、最近、謄写(とうしゃ)と言う余計な言葉を本で覚えて謄写します。
謄写とは書き写すことの意味で、版画などでコピーする時に使う用語でもあるようだ。
模写するよりも、謄写する方が何故か格好良くも感じるもので、来年は同じ言葉の連打と謄写を多用する予定である。

文字の大きさでデザイン解析すると下記のようになります。

ZUBAAAN! 33ミリ
横浜家系 26ミリ
家マーク 22ミリ(味の特徴、他に魚や噌、豚などある)
JASマーク 22ミリ(味の特徴マークの部分にJASマークを貼っている)
マルちゃんマーク 18ミリ
醤油豚骨 17ミリ
マルちゃん 8ミリ
TOYO SUISAN 5ミリ
お店品質の一杯 5ミリ
ラーメン好きのど真ん中。 3ミリ
調理例 3ミリ
日即食協NO.17 2ミリ

あ~美味しい~。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月11日(水)
■スネーク麺好評発売中デス。

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■2024年12月12日(木)
■一日一文章トレーニング。

「お気に入りのボアにマツモトキヨシのお買い物シールをくっつけたまま歩いていた( ゜o゜)ガーン」

モコモコとボアに包まれて着込むボアジャンパーの温かさとはそれなりの温かさでもある。
メチャメチャに温かくもないが、寒くもないもので、われはモコモコとした肌さわりの生地を着込みとても満足して着ています。
去年から部屋着っぽくならないボアを探して約三千里、今年は羊になった気分で意気揚々と街歩きをしているのである。
視線を変えれば野犬や野良の鎖に繋がれていない野良動物とも言えるかもしれない。
肌さわりはとても良いのですが迂闊に触るとガブッと手を噛まれるかもしれない猛犬注意でもある。
「ガルル~る~」
見た目のモコモコ感を纏うことは野生の本能なのか結構満足度が高いものだ。
シンプルすぎるボアだと部屋着っぽくなり、それなりにデザインされたボアだと何だか微妙に値段が高いもので、我は中間価格で、この周辺地域では絶対に誰とも被ることがないと確信できる変なボアジャンバーを着ているのである。

素材は100%ポリエステル。
裏地も表生地もリブも全て100%のポリエステル!って・・・何をドヤッているのでしょうか。
化学繊維自慢みたいな感じでもあり、化学繊維を着込むことは天然素材の良い生地を着込む育ちの良さと正反対にあるような気もするものだ。
ネット情報によるとポリエステルとは石油から作られる化学繊維で、世界で最も生産されている繊維もポリエステルのようだ。
元を正せばペットボトルの素材でもあるようで、私や知らない人たちが飲んで資源ごみとして回収された容器がこのボア生地と元となっているものかもしれない。
なので、とってもエコなのである。
たぶん。
ポリエステルとは虫も食べない合成繊維で保管も簡単、摩擦にも強く魚を採る網などにも使用されるぐらいに軽くて丈夫でシワに成りにくい耐久性ある素材のようだ。
一方で毛玉や静電気が発生しやすいようで先日もスーパーの金属部分でパチンと電気が来たものだ。
この数日パチパチと静電気を感じるのはポリエステルに原因があることを学んで納得である。

そのようなボアジャンは家に帰るとハンガー吊るされて置かれるものでありますが、昨晩お風呂に入ろうと寒い寒いとその横を通りかかるとボアにマツモトキヨシのお買い物シールがくっついているのを発見するのである。
何も知らずにマツモトキヨシをくっつけて数日過ごしていたことを考えれば何だか恥ずかしい気分になるものだ。

マツモトキヨシのお買い物シールがボアジャンにくっついたのは箱ティッシュを購入した時である。
レジにて「シールで良いですか~」と聞かれれば「イエス・オフコース」と勿論、箱のまま持ち帰るティッシュ箱である。
その時に上手にボアジャンに転写されたようだ。
なので、その後にわれを見た人は「この人マツモトキヨシのショップシールをつけてるな~」と思ったかもである。
異変に気づいたら教えて欲しいものではありますが、もしくは、マツモトキヨシブランドのボアジャケットを着ていると思ったかもしれない。
マツモトキヨシ製のボアジャンって微妙に気になる服でもある。
ヤンキー御用達な感じの予感。
それとも、服屋でタグを切ってもらい、お買い物シールも服に貼ってもらって、そのまま帰宅するような感じでもある。
または、シールの貼り具合はよく言えば微妙に架空のポケットデザインにも見える「shi Matsumoto k」でもあります。
ベテランクラスでないと「マツモトキヨシ」だと判別できない絶妙な切れ具合でもある。
「shi Matsumoto k」とはシェ・シェフの名前みたいなフランスのブランドのようなのである。

さっそく、明るくなった朝に証拠写真を撮影するものだ。
写真だけ見ると絨毯に貼られたマツモトキヨシのシールのようでもあり、ボアって絨毯を着込んで歩いているようにも思うものでもある。
しかしだな~黄色とグレーの配色の組み合わせはオシャレで良い感じでもあるので「まーいいぜよ」。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月12日(木)
■ぼあユニバース。

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■2024年12月13日(金)
■一日一文章トレーニング。

「東京特許許可局ホニャララキョカキョク」

政治の独裁、企業の独占、個人の独善、それ以外にも独占できるものはあります。
それは開発者特権で知的財産に正当な独占権を認められること。
国内の劣化話とは毎日事欠かないですが、企業の特許件数の統計を見たら案外、等身大の経済状況を表しているように見えるものだ。
国別、企業別の知的財産統計はWIPOという国際団体から2023年度版が発表されております。
https://trademark.jp/ip/detail/2244
2023年は世界の特許出願件数が350万件を越えて過去最高となり、国別の国際特許出願件数は日本が48879件と3位となります。
2位のアメリカは55678件で6779件少なく、1位の中国は69610件で20731件少ない出願件数となる。
知的財産・出願の情報とは国の未来を表しているとも考えられます。
国別3位は昨今のニュースで流れる未来への展望とは少しかけ離れた数字でもある。
日本の48879件の出願数でも1日で144件も国際特許が出願される計算です。
生みの苦しみ等を鑑みれば、これだけの新しい技術が毎日生み出されていることは大変にスゴイことでもある。

1位の中国は1日に190も出願しているので、1日に46件の出願数が増えればトップの中国の出願件数に追いつくことは可能です。w
年間の69610件の総数から見ると果てしない数字ではありますが小さく割れば、出来なくもない数字のようにも見えるものだ。
その為には20731のプロジェクトを立ち上げるか、20731人の若くて変わった面白い人に投資して技術開発を行ってもらえば技術立国にも近くなる予感である。
その予算とは一人開発だと20731人✕(年収)+設備投資で、大抵、一人だと挫折する予感でもあるので複数人プロジェクトが理想的だと考えると、それなりの投資金額となるものだ。
ですが、そのようなスモール開発をコツコツと行えば20731件の発明の内の何個かは必ず革新的な技術になる可能性は高いものでもある。

特許申請の内の独占権が認められる数字は不明ですが、それなりにアグレッシブに特許出願は行われていることはわかります。
企業ではトップ10中の4位に三菱電機、10位にNTTがランクインしています。
この2社は技術開発に力を入れている会社であることがわかります。
大学では米中の大学が占める中で唯一大阪大学が教育機関の10位にランクインしています。
教育機関が発明した技術からライセンス料を得て人材を育てることは素晴らしいことでもある。

国際商標権出願の順位は1位米国、2位ドイツ、3位中国で、日本の順位は7位と内向きの日本の姿を現しているようにも思うものだ。
国際的に商標を取得するということは世界市場向けて商いをするというメッセージでもあります。
なので、その指標の順位を見れば国内企業の内向き具合を知ることは可能です。
ドイツ製品を見れば複数言語が記載されていることは当たり前で、開発段階から商品は外国に輸出されることを想定して作られているように思うのでこの順位になるのかもしれません。
日本企業では7位に資生堂、8位にミズノ、14位に任天堂と国際的に活躍する企業が国際商標権を取得しようと申請しています。

意匠登録とはデザインに対する特許で日本の出願数は8位。。
日本のデザインに対する意識などを考えると国際比較の8位の順位で肌感覚に近い感じでもある。
意匠権出願の順位は1位ドイツ、2位中国、3位アメリカ。
工業デザインの話は少しわかりませんがヨーロッパ旅行をしていてもドイツを中心に同心円で外側に行けば行くほどデザインはドンくさくなるような傾向を個人的には感じます。
ドイツは建物やモノから何だかシュッとしたデザイン性を感じるものだ。

日本の知的財産権取得の出願は技術特許中心で国際的な商売や商品のデザインに関する意識は低い傾向にあります。
意匠や商標登録など目に見えるカタチよりも目に見えない技術開発に積極的な国民性であることがわかり、商標や意匠を強化して再び諸外国と繋がりを強化するとドイツに抜かれたGDPも再び挽回することは可能なような気もするものだ。

特許出願のメリットは一定期間独占権が与えられることであります。
その技術が評価されれば新たな技術が開発されて社会や消費者にも恩恵はあります。
デメリットは1に高額な費用がかかること。
2に、出願すれば必ず特許が取れるわけでもないので特許が取得できなければ、単に技術を公開するだけで真似される可能性もあります。
よって、年間48879件の特許が世界に向けて開発されて発表されていることはとてもスゴイことなのである。

 

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■2024年12月13日(金)
■ビビットひらめき。

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■2024年12月15日(日)
■一日一文章トレーニング。

「墓場好きの 墓場好きによる 墓場好きな人の為の は(・・)か話」

都会の真ん中に広がるだだぴろい地平線に黄昏色のキレイな夕焼け空の帳(とばり)が舞降りていきます。
私はボア服からボンバった温かな冬コートに衣替えして、墓地の底から明るくて美しい夕焼け空を眺めながら家路を急ぐのである。
背の高い墓地の木々はそのような夕焼けの光を遮って暗くて冷え切った墓石の闇を作り出します。
明るく美しい世界とはそのような明るさの中にいれば気づかないものではありますが、暗い墓場の底から明るい空を見上げれば、そのような赤紫黄色の美しい輝きを見出すことは可能です。
これをズバーンと客観観観観観~性!を高めたと言うべきなのか?
そのような哲学じみたことを考えながら墓場を急いでテクテクと歩くのである。

この明かりの美しさはローストビーフの灯台に近い美しさでもあります。
道を迷わないように前方の暗がりのポツンと光り輝く一点の輝き、それがローストビーフの光なのである。
墓場が真っ暗すぎて夕焼けの空を眺めるぐらいしかないとも言えますが、ローストビーフな夕焼けを見ていたらローストビーフを食べたくなるのである。

毎度のように墓場のランナーとは墓地をトボトボと歩きながら雨の日も風の日も墓場の風に吹かれて気持ち良く墓場を通り抜けるます。
子供の頃は墓場と竹藪、ため池は怖い場所であり不用意に近づかない場所でもあったものだ。
ただし、ゲームの世界でも墓場には何か面白きものが落ちているように、年齢を重ねれば重ねる程に墓場の面白みにも気づくものだ。
これは熟年が醸し出す墓場の味かもしれない。

ゲーム・ゼルダでも墓場とは剣をエイヤーと振り回して遊ぶ遊び場であるものだ。
最近遊んだゴーストワイヤーでも墓場を見つければ壁をよじ登り、宝物を探索し、マレビトを浄化する場所でもある。
そう言えば、ゴーストワイヤーではトロコンしようと思ったのですが犬のエサをMAX購入したら金欠となり冥貨を稼ぐのもしんどくてトロフィーコンプリートを諦めてしまったものである。
また、天狗の大ジャンプで渋谷のカゲリエ頂上まで登れる為の勾玉をもう取得できないので最初からやるべ~か~と思ったりもするものだ。
関係のない話ではある。

そして、現実の昼間の墓場には工事の人たちと、片足を墓場に足を突っ込んだご老人たちの社交場となるものだ。
不思議なことに墓参りの人たちとはあんまりすれ違わないのである。
結局、人とは年齢を重ねれば重ねる程に墓場との境界線は曖昧と近くなるものかもしれないものであり、夜の墓場では電光石火のビジネスマンたちも暗闇に紛れながら携帯を片手に商談するカオスな場所となるものだ。
墓場での商談話とは何とも乙なような気もするものですが、静まり帰った墓場とは案外大切な商談話にはピッタリな空間であるかもしれない。
トラックや電車で声が聞こえなくなるようなこともない。
そして、極秘の数百億の大商談話をしていたとしても盗み聞かれるのは人畜無害の亡霊のみである。
もしかしたら、墓場での商談電話をしているビジネスマンとは辣腕で有能な人たちかもしれないのである。
それとも、誰からも聞かれてはいけないような秘密を持った人たちの可能性もあるのか???
とりあえず、夜の墓場とはとても静かで人もまばらで、風が吹き卒塔婆がガタガタと揺れても気にならない人であれば、大都会で唯一雑音のない静かな場所なのである。
時折、場所がら怖い現実ヒューマンは存在しますが、それらを除くと静かで落ち着く都会のオアシスなのである。

一人は墓場の前に仁王立ちしながら電話中。
墓は結構大きな立派な墓前でもあるので経済的な成功者の墓で間違いないものであり、そのような墓前で商談電話でもすれば、ビックビジネスの成功の恩恵しかないような感じでもある。

もう一人は歩き電話をしながら墓場を通り抜けていくビジネスマン。
静かな闇の一本道を明るい前方の街に向かい真っ直ぐと歩んでいくのである。
電話の口調から恐らく商談電話で間違いなしングである。

墓場の闇に紛れて商談電話とは、これは一部の人たちにプチ流行している事柄かもしれないのである。
流行とは常に追い続けたいものですが、来年は「墓場オフィス」が流行ったらホラーすぎて怖すぎます。
私も墓場は結構好きであり、今月に入ってからはクリスマスのオーナメントを作る為のヒノキの葉っぱと実を墓場で拾っているものだ。
墓場で木の実を拾っている人はなかなか珍しき事象ではありますがw墓場好きには墓場好きな人の気持はよくわかるのである。

写真は朧月を撮影したもの。
墓場と朧月と冬枯れした木々が照明に照らされて、とっても怪しい雰囲気を醸し出します。
そういうことで、墓場のランナーは今日も墓場の通り抜けてヒンヤリとし夜空ノムコウを思うのであります。

 

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■2024年12月16日(月)
■一日一文章トレーニング。

「私のたった一つののぞみ、可能性の牛、希望の灯り、ローストビーフ」

昨晩、夕飯後にローストビーフを作りました。
ご飯を食べて腹も落ち着いたところで肉をじっくりと焼くのであります。
先ずはフライパンの上でニンニクを炙って良い香りを立て、香りが立てば食彩の準備も整ってフライパンに肉を投入します。
肉は岩手県産の国産牛モモブロック1500円ぐらい。
肉を焼く時には煙が出るので、寒いけれども窓を開け換気を良くして弱火でじっくりと肉を焼きます。
肉の厚みにもよりますが最初の面の肉の表面はフライパンとの隙間が無くなるように押しながら5分オーバーぐらいで焼きます。
しかし、肉表面の中程にキレイに焼目はつかないもので押さえ込みが足りないのかもしれません。
確かに、肉を焼く時間とは暇なので箸でツンツンと押しながら、ネットを閲覧したりして時間を潰ぶすものだ。
だから、ながら料理はいかんぜよ・。・なのであります。
ローストビーフの場合は少し焼きすぎたぐらいが丁度良いローストビーフになる感じでもあり、全部の面をしっかりと焼目を入れたならば次はお肉をアルミホイルで包んで保温します。
タオルなどで包む人もいますが我が家は湯せんです。
2重にしたアイラップで包み温めたお湯の中で温めると仕込みは完了で、温める時間は何分ぐらいだったけ?と思いながら12~15分弱ぐらいお湯につけました。
今までジッパー袋を使い湯せんしていましたが最近はアイラップを使ってローストビーフをお湯で温める日々の進化もあるものだ。
なので、面倒でも必ず湯せんを行うのですが、ローストビーフはそれを一晩置いて冷蔵庫の中で冷やせばさらに美味しくなります。
おそらく、肉も冷やせば出汁も凝固してピンク色になって美味しくなると思う。

こんなにもイキりローストビーフ作りを語るのですが、1回目は見事に失敗しているもので、昨日のローストビーフ作りは2回目のリベンジ肉なのである。

先日にトライしたローストビーフは肉を購入する時点で失敗していました。
ローストビーフを作ろうと思い購入した四角いお肉はアメリカ産かオーストラリア産の牛バラ肉で、最初のフライパンで焼いている段階で何か白っぽい焼き具合で、これは豚肉ではないかと思い捨てた肉のパッケージを拾い情報を見たら「牛バラ肉」と記載されていたものである。
肉は今回の国産モモ肉とそれ程変わらない値段で、牛の文字と四角いカタチしか見ないで購入したのが失敗の始まりであった。
ローストビーフに使えるお肉とはネット情報によるとモモ肉、イチボ、サーロインだそうだ。
イチボってナンボのお肉さんなのですか?
サーロイン肉であればステーキ一択であるので、我が家のローストビーフにはモモの選択しかないものだ。
豚バラ肉とは脂がギトギトしたお肉ではありますが、しっかりと焼き目を入れて脂も落ちれば美味しい豚肉となるものです。
昔は豚バラと言えばお買い得肉の代名詞のような感じでもありますが、そう言えば、最近はお買い得な安売り肉としてはあんまり目にしない感じもある。
とりあえず、特売品にしか目がいかないものであり、肉は切った肉のカタチしか見ていないようである。
牛のバラ肉とは恐らく初めて食べるお肉の部位で、牛バラ肉をローストビーフにすると脂っこさが強いお肉となる。
良い言葉で表現するとおせち料理の中に入っているお肉の味だそうで、塊肉として頬張るには脂が多くて気持ち悪く、おせち料理にも失礼なのである。
兎に角、牛バラ肉のローストビーフは脂っこくて噛みちぎるのも大変で、「脂身を噛み切れない、飲み込めないから捨ててもいい?」と家族団らんの晩ごはんはなかなかの地獄絵図となる。
仕方が無いので細かく切ってパスタやラーメンの具材となるもので、何だか、ローストビーフを作る時には毎度毎度、一回目に失敗してからのリベンジのローストビーフ挑んでいるような既視感もある。
なので、夕焼け空の向こう側がローストビーフに見えたりしてしまうものであり、それ程にローストビーフ作りは難しいのである。

ということで、

岩手県のローストビーフは今晩、肉に包丁を入れれば成功か失敗かの答えが出ます。
肉は切って断面を見ないとわからない部分があるのでドキドキである。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月16日(月)
■Food Delivery Niku。
■2024年12月17日(火)
■一日一文章トレーニング。

「PS5の今月のフリーゲーム”It Takes Two”をクリアしました」

このゲームは完全なる協力ゲーで一人では遊べない仕様であります。
なので、仲の良いゲーム友達と一緒に遊ぶか、EAのアカウントを取得してネットを介して知らない人と遊ぶしかないものだ。
協力ゲームということは一人がミスすると先に進むことが出来ないゲームでもあります。
待たせたり、待たされたり、と結構、面倒でしんどいゲームである。
とりあえず、大ジャンプが苦手でよく谷底に落ちてシぬものであります。
ゴーストワイヤー東京でも誰も死なないようなジャンプ飛行ゾーンで記録的な屍の山を築いていもので、このゲームでもやっぱりジャンプのタイミングのX押しが下手なのであります。
ジャンプゾーンを乗り越えることができなければ連帯責任でこの先に進めなくてゲームオーバーの重大責務を感じ、焦って再び谷底に落ちるのであります。
その時に相手は何をしているかと言うと「まだかまだなのか?なぜ飛べないのか?」と連続の屈伸煽りをしながら遠くで待っているのであります。
焦らせ!煽り!ダメ!絶対に!!
私はますます焦って谷底に落ち、協力者は「まだか~まだか~」とイライラを募らせるのである。
攻略の方法や協力のタイミングをボイチャなど無しに意思疎通することは不可能なので、このゲームを知らない人と楽しむことは人見知りな私にはアルプス山脈ぐらいに高そうなのである。
その意味に於いて、このゲームは死にゲーの類でもあり、シにながらクリアのコツを覚えてクリアするのである。
そして、せっかく慣れてきた操作もゾーンごとに攻略の仕組みが変化すれば、新しく操作を覚える必要があり結構しんどい。
しかし、最後までゲームを進めることが出来たことはそれなりに面白いからこそ最後まで行けるのであります。
それは協力者がいたからこそラストまでクリア出来たようにも思うものでもあり、実際に遊んでいるとノンストップの映画のアクションを楽しむようにゲーム休憩や今日のゲームの終了のタイミングを失う程に没頭していたのであります。
ステージごとにパズル・アクション・ステルスゲーに音ゲーとこの世の中で発売された人気ゲームの全ての要素が詰め込まれていてる容赦のないゲームでもあります。
一人では解けない謎も二人揃えば「文殊の知恵」で何とかなるものだ。
来年には「It Takes Two」の新作が発売されるようで、ぜひまた遊んでみたくなるゲームであります。
新作の発売前にフリーゲームで販売促進することは良い戦略のようにも思うもので、やはりゲームの良し悪しとは経験しないとわからないものであって、最後まで楽しく遊べば再び新しいゲームも必ず楽しみたくものでもあります。

また、

ゲーム内の細かいセットはよく作り込まれております。
そのような造形物を見ているだけでも楽しいもので写真はコーディーがメイに送ったラブレターです。
コーディーとメイとはゲーム内の主人公で、私と協力者がどちらか選択しゲームをプレイします。
ゲームも終盤に近づき屋根裏を細かく探索していたならばラブレターを発見するのであります。

May,

I miss you and long for you every minute of the day. The only time I'm not missing you is when I'm asleep. But then,
I'm dreaming about you too. The first time I heard you sing I knew you were the one.
Thank you for being you and for the pep talk I know I can make it now ! I think the coolest thing I've done in life is to find you.

Love you forever,
Cody

PEPは叱咤激励!!

翻訳は自分で翻訳するか、AIや機械翻訳などを利用して翻訳して下さい。
この恥ずかしい手紙は子供が屋根裏で見つけて読んだ跡なのかもしれません。
画像ではよく見えませんが・・・鉛筆手描きのIの文字はクセありです。

コーディーは造園業の夢を持っていたようで、そのような植物愛の種のようなIの字を表現しているのかもしれません。
最初はメイとコーディーのストーリーなんて不必要だなとお互いに話していましたが、ゲームも終盤に近づくともっと明確にハッキリとした物語作りを作り込んで欲しいと思うものでもあります。

そして、

今年、面白かったゲームは何かと考えれば、エルデンDLCとか面白かったのですが、ゴーストワイヤー東京の街中散策も楽しかったし、このIt Takes Twoの協力プレーもゲームの面白さが詰まって楽しかったものであります。
フリープレーで遊べなかったならば知ることも無かったこの2つのゲームが2024年発売のゲームではありませんが面白かったゲームだと個人的に思っています。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月17日(火)
■NIKU✕NIKU=Believe NIKU

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月18日(水)
■一日一文章トレーニング。

「こころの声は大きく、自分自身に叱咤激励なのである」

昨日のゲーム中に出てきたラブレター英文のPEP単語を調べれば励ましの言葉でありました。
エナジー+アクティビティ(活動)+ストレングス(強さ)やパワーマインドのことであり、ペプシコーラのPEPSICOもPEP由来の言葉を持つネーミングなのかもしれません。
PEPとは英語圏の人が聞いたらエナジードリンクのようなイメージを持つ響きなのでしょうか。
PEPは格好良く訳すと叱咤激励(しったげきれい)でもあります。
文章とは絶えず4字熟語なパワーワードを入れて強くしたいものであり、この叱咤激励という言葉もPEPに負けないぐらいのパワーワードでもある。

叱咤激励とは1)激しく叱ること、2)激しく励ますことの意味である。
令和時代だと人は褒めて激励する必要があるので、賞嘆(しょうたん)激励となるのかもしれませんが、叱咤激励だとスポ根感が強いのである。
賞嘆激励だと賞嘆と激励で同じ方向に向かうプラス+プラスな言葉であります。
叱咤激励だと叱りながら励まして、異なる負の力と正の力の正反対の方向にエネルギーが分散する感じでもある。
言葉とは概念であるとすると、その言葉には人々を導く為の方向性が必ず存在するようにも思うもので、不思議な言葉のようにも思うものだ。
もしかしたら、これは方向性の違いとは声の大きさで凌駕して声デカパワーによる背中の後押しかもしれないかもと思うものである。
わからないけれども・・・

叱咤とは叱正(しっせい)と正す言葉でもあり、これは詩や文章を人に読んでもらう時に「御叱正賜りたく・・・」と謙遜して使う言葉でもあるようだ。
文章を書くこととは叱正賜りながら書かないといけないもののようで、今朝だって何のアイデアもないノープランの中で29×29=841じゃないと思って目覚めるのであります。
29×29とは昨日のNIKU×NIKU=ビリーブNIKUみたいな肉の詩の計算です。
世の中は広いとは言え、こんなにも無意味な計算はあるのかと思うかと思うぐらいに29×29で話をどこまで広げるのかというのが今日という日の戦いなのである。

因みに、NIKU×NIKU計算の詩の中で本当に伝えたかった事柄は、自家製のローストビーフが本当に美味しかったことと、NIKUの文字とNIKEのロゴが微妙に似ているな~と思うダジャレである。
NIKUとNIKEが似ているというのを懇切丁寧に説明しないと誰も伝わらない虚しさがあるもので、しかし、NIKUがNIKEに似ていると人に伝わったとしても「それが何?」みたいな寒い反応しかかえってこないのであります。
そして、ネット検索すると毎月29日は肉の日もあって、朝起きて一晩経つとNIKU×NIKU=29×29で841じゃないかと思うのである。
ちゃんと計算機で計算しました!
そして、841は「は良い」でNIKU×NIKU=肉好きにとって良いお日柄となったのであります。
いやはや、本当に叱咤されても、激励される要素は皆無なのである。

ただし、

このような肉の詩みたいなものを書くだけでも、不思議と血走りウサギに与えるとキャラの血肉は立つようだ。
そして、毎日描いていると血走ったウサギもだんだん上手となるもので、それなりに少しづつキャラ立ちしているようにも思うものだ。
スズメの頬の目を持つ男はお肉を食べてムキムキな肩筋肉となった感じがヤバい感じですが、個人的にはお気に入りで、人も架空のキャラクターもいろんな栄養素を食べて血肉として成長する呆則はあると思う???
「叱咤激励」と「お29の計算式」は上手く繋げることは出来ませんでしたが、オレは何という駄文を書いたのだと叱咤して、しかし、気合と根性でよくぞ一文とムキムキ肩肉を仕上げたのだと激励するのであります。
おそらく、「叱咤激励」とはこのように使用する言葉だと解釈したのであります。
違う?

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月18日(水)
■猫のギリシャ風彫刻。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月19日(木)
■一日一文章トレーニング。

「レゴ社(デンマーク)の歴史から叱咤激励の意味を探ります」

【誕生】1891年創業者のオーレ・キアク・クリスチャンセンが生まれる。
【仕事の誕生】1916年生まれた故郷で大工となり家や家具を作り始める。
【災難】1924年に息子のゴッドフレッドとカールジョージが父の仕事場で遊んでいて火事を起こし、自宅と仕事場の全てを全焼して失う。
【再建と投資】オーレは信仰深く忍耐強い人間でもあったので、この試練は乗り越える為に授かったものと考え、火事で燃えた仕事場を2階建てにして大きくし、自宅はそのままのサイズで再建を始める。
【不況】1930年世界的な不況によってデンマークも飲み込まれる。オーレは建材費の高騰などで最初の見積もりを超える赤字となっても変更を要求せずに教会を作るような人であったそうである。
【工夫】アイロン台やハシゴなどの日用品を作り始めて、誰も家を建てない不況下を乗り越えようとします。
【玩具会社の誕生】お客様に商品を見せる為のミニチュア・サンプルを作ったならば、それが子供の玩具として遊べることに気づき玩具製造を始める。
【災難】問屋から木製玩具の大量注文があり、商品を納品しようと大量生産したら問屋が倒産して大量の不良在庫を抱え込む。
【工夫】近所の人々と物々交換して食料などにかえる。
【破産寸前の危機】オーレは親族に掛け合い借金をしてこの危機を乗り越える。玩具では無く実用品を作ればという助言をもらい会社の再建を目指す。
【設備投資】ドイツから1年間の収入よりも大きい電動機械を購入する。
【大量注文】街でヨーヨーが流行し始めると工場に大量のヨーヨーの注文がやってくる。
【大量の不良在庫】熱が冷めるようにヨーヨーブームは終了して再び大量のヨーヨー在庫を抱え込む。
【工夫】ヨーヨーのコマはトラックの玩具の車輪に代用し売り出す。
【叱咤】節約の為に息子のゴッドフレッドが塗装の二度塗りをやめると、父オーレはそれを叱咤し子供の為に良い玩具を作るように諭す。
【LEGOの名前の誕生】デンマーク語の「LEG GODT(よく遊べ)」から生まれる。後にラテン語のLEGIOで「たくさんの」、LEGOで「組み立てる、一緒にする」という意味を知り運命を感じる。
【設備投資】1947年プラスチック製造の機械を購入する。その当時、高級な木製玩具製造メーカーとして知名度が付いてきたところで、安物玩具の代名詞でもあったプラスチック製造に投資を始めるという会社の大きな変化が起きる。
【LEGOの原型の誕生】オートマ・ビンディング・ブロックという現在のレゴの原型を初めて製造する。このネーミングはお互いにしっかりとくっつくブロックというような意味の玩具であった。
【LEGOの誕生】1958年に忍耐強くブロックの玩具の開発を続けたLEGOは完成し、表面の山型ポッチと下部のチューブ状の造形でしっかりとハマり、しっかり組み上げることの出来るブロックとなる。
【引退】父、オーレーは息子のゴッドフレッドに社長の座を譲り渡し、レゴ社は現在でもファミリービジネスを続けています。

ということで、

上記のLEGOの歴史から「叱咤激励」みたいなものは無いかと探してみたのであります。
山あり谷ありのレゴ社の歴史の中で、個人的に叱咤激励が行わたれと考えられるシチュエーションは息子のゴッドフレッドが不良在庫を抱えて会社経営が苦しい時に塗装の二度塗りを止めて、1回塗装で市場に商品を出す経費節約を行った時である。
会社の危機とは火災や不良在庫に巨額な設備投資と様々な事柄がありますが、父オーレの立派なところは品質を落とさずに我慢強く耐え忍んだことのように思うものである。
これは北欧精神みたいなデンマークのお話ではありますが、日本の古い経営者などにもそのようなタイプの経営者は結構いるようにも思うものである。
日本語の意味をデンマークの会社の歴史から探ること自体がおかしなお話でもありますが、令和な日本はアメリカや中国のビジネスモデルに毒されすぎているようにも思うものであり、世界は案外広くて様々な仕事のカタチがあるものだ。
そして、「叱咤」とは品質を下げるような時に行われるものかもしれなくて、そのような叱りの背後には温かみのある激励が隠れており、それで「叱咤激励」となると読むのであります。
そのように考えると「叱咤激励」とはスポ根魂全開の酷い言葉ではなくて、温かみも感じられるのではないでしょうか。
ぞなもし。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月19日(木)
■ロボットUI。

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■2024年12月20日(金)
■一日一文章トレーニング。

「9×26×5センチの小宇宙」

その小さな容器の中にはスプーンやフォーク、箸などが無作為に入っております。
ヒーフーミーと数えても一家庭には多すぎる量のスプーンやフォーク、箸が入っている。
因みに、スプーンやフォーク、箸などを総称してカトラリーやカラトリーと呼ぶようだ。
しかし、それらは自分の話し言葉にはない。
当て字で「カラガラと取り出す容器」と表現すれば、毎日ガチャガチャとスプーンやフォークを取り出しているので、そのような容器で間違いありませんが、我が家の呼び名は「スプーン入れ」である。

スプーン入れとは毎日何かを食べる度に必ず使用しているので、すぐに手の届くところ置かれております。
スプーンが欲しいと思えば容器をガチャガチャと掘り起こしながら取り出して、晩ご飯の時間となれば箸をガサゴソと取り出して食べるのである。
毎日使えば、毎日思うこともあり、箸やスプーンを取り出す些細なことでも面倒に思うものである。
それはスプーンを取り出そうとするとフォークの下じきとなって取り出すのに四苦八苦。
また、フォークが欲しいと思っても何故かスプーンの下に埋もれてなかなか取り出すことが出来ないのである。
この欲しいものが一発で取り出せない現象に皆ブーブーなのである。

早速スプーン入れの中を詳しく調べます。

容器には箸やスプーン以外にも小さな泡だて器にバターナイフ、様々なものが収納されております。
ペタペタと触らないのでガシャガシャと目視で確認するとフォークの数は若干少ないようにも見えます。
スプーンにはカレー用の大きいタイプはありますが、フォークは小さいものと中ぐらいのサイズのみで大きなフォークは1本しかありません。
ステーキを食べる時にも肉は包丁でカットして、箸を使って食べるtheジャパニーズスタイルでもあり、スパゲッティを食べるのも当然、箸を使って食べる痛リアンスタイルである。
そして、スプーンは紅茶やコーヒー、木製のスプーンに計量カップ、小さな食材をすくう為の小さ目のものから、柄が長くて細い瓶の底をすくえるものとバリエーションに富んで入っております。
どのような形状のスプーンを使用するかと悩んで選び取り出せば、それなりに選ぶ手間はあり、それが1発で取り出せないスプーン入れの秘密かもしれないものだ。

キチンと引き出しに入れてスプーン、フォーク、箸と整然と並べる方法もあります。
しかし、何周か回り回って辿り着いたスプーン入れのカタチが今の完成形でもある。

昨日、読んだレゴ話によると、レゴの面白さとは出来上がったものを提供しないことにあるようで、何を組み立てようかと子供たちに語りかけるところにレゴ遊びの無限の可能性は広がっているようであります。
その理論に立てば、もし、このスプーン入れが完璧なものであったならば「いつもスプーンは取れないな~」みたいな愚痴の一つも生まれなくて試行錯誤の一つも起こらないお店の食事みたいでもある。
遊びの時間とは神経も集中し夢中になって何かをする時間でもあります。
人が時間を忘れて集中する時間とは楽しい時間でもあることを考えると、夢中にスプーンやフォークを探す時間も楽しい時間かもしれない(楽しくもないけども)ものであり、逆に完璧に用意された空間とは食べる楽しさも減退しているかもしれないものである。
「あ~だ、こ~だ」と不完全さのスプーン入れの話でもお食事を楽しくさせる一部分になり得る可能性はあるのかもと、LEGOの遊びの哲学を読みながら思ったのであります。
スプーン入れの中を覗くと少し汚れているもので、そろそろスプーンたちもキレイに洗って改善する時期に来ているようであります。

 

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■2024年12月20日(金)
■テクテクチクタクチクタク。
■2024年12月23日(月)
■一日一文章トレーニング。

「It’s Takes Twoをトロコンした」

最近寒くて布団の中の足先が激寒なのである。
寒い寒いと足元にカイロを入れてぐっすりと寝ていると、私はどこかのお宅にお邪魔しており、ここの大きなテーブルが邪魔なので隣の部屋まで運ぼうという話になるものだ。
頼まれた大きなテーブルを複数人でテクテクと運ぶと「何というべヴィーな重さでありましょう」。
隣の部屋まで運んでホッと一息ついていたならば「この前あげたアレどうだった」な話になるものだ。
私は「えっ???」とあれって何だっけ?となるものだ。
頭の中は急にF1レーサーのように高速回転するもので、頂いたアレが何かわからないので能面みたく薄ら笑いをしながら猛速に考えるのである。
一向に何を頂いたのか、何も頂いていないのかわからない忘恩状態で、「え――――――――――――」と焦りながらそのまま朝の目覚めを迎えるのであります。
あれって何ジャロ?
ジャロ?って何じゃったジャロ?
夢で良かった。
夢の中で焦って目が覚めて!良かった!良かった!

ところで、

この週末に「It’s Takes Two」のトロフィーをコンプした。
普段はトロフィーの数なんて気にもかけないものですが、このゲームは二人でしか遊べないものだし、ゲーム内の隅々のアイテムまで丁寧に作り込まれているもので、それらを見ながらトロフィーコンプを始めるのも良いものだ。
未発見のミニゲームをネットで調べての攻略。
良ゲーとはゲームが終了してからも周回したくなるところはあるものだ。
未発見なミニゲームを探しながらサクサクとゲームを進めているとヘルタワーに辿り着くものだ。
ヘルタワー以外は全部攻略して残るはこの難攻不落の塔を攻略するだけである。
ヘルタワーは塔のテッペンまで登るゲームであり、クルクルと回転する足場をタイミング良く登るのが大変難しい。
そこで、チートな私は簡単に攻略出来る方法を探すのである。
先ずは近くに聳える建物から飛び移ることは出来ないのかと考えてあちこちの方面から建物にジャンプして登る方法を探るのである。
すると、近くにあるロープから塔にジャンプすることでヘルタワー中腹までを一気にショートカット出来る方法を見つけるのである。
シメシメ。
これでタワーの中腹まで攻略したのだ。
そして、F1レーサー並の神経を研ぎ澄まし、集中力を高め、塔の最後の1段までやって来るのである。
あと1球、あと1段!とやめてくれ。
あと1段登ればゲーム終了でトロフィーコンプリート出来ると思えば心臓がバクバクで手も震えて、案の定、あと1段のヘルタワーの頂上から真っ逆に落ちるのである。
どこかの足場に引っかかることも無く、スローモーションのようにキレイに地獄の底まで真っ逆さま。
「あ――――――――――――」私の集中力は終わった。
床に転がり相棒にバトンタッチ。
私は羊のアトラクションに乗り、あと一歩まで届いたチャンスを掴めなかったことの悔やむのである。
そう言えば、メイには分身を作り一気にそこまでワープする能力があるものだ。
地面に落ちた時にメイの能力で分身を作っていれば失敗した直前まで一気に戻ってワープすることが出来るのである。
なので、中腹攻略までのロープに幻影を作れば、いちいち戻らなくともショートカット出来るのである。
早速、その方法を相棒に話すと、回転する足場ごとに分身を作れば良いのでわと言う話になり「おまえは天才なのか」と思うのである。
そうして落ちた足場までワープしながらスルスルと登り、特別なワープ能力を使って攻略するのである。
「おまえたちはそのような能力を使って攻略して楽しいのか」(天の声)
「YESボス、我らはタ・ノ・シ・イ」
ということで、頂上まで登り打ち上げ花火を打ち上げて喜ぶのである。
「あれっ?トロフィーが取れていないぞ」
そうなのである、ネットにカタカタと入力して攻略を調べるとヘルタワーの頂上へは主が登らないといけないようである。
ズコ---ん。
我は高所恐怖症のビビりてもう出来ないので相棒にお願いして、メイを主に幻影ワープ技術を駆使してヘルタワーを登るのである。
オレらはやった-やったのであります。
トロフィー「足場づくりの天才(達成率5.4%)」をゲットし「It’s Takes Two」の全てのトロフィー(達成率1.9%)もゲットしてめでたし、めでたし。
 

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■2024年12月23日(月)
■ツリー。

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■2024年12月24日(火)
■一日一文章トレーニング。

「自分で自分を何ジャロした」

じゃろって何じゃろで調べたならば広島弁と、誇大広告など広告主に改善を求める民間の広告自主規制団体の名前でもある。
先日も書きましたが経済の教科書によると、広告とは完全競争下と純粋独占下では全く広告効果を発揮しないものであり、また、広告効果が発揮されるのは独占競争時と寡占状態でのみとなる。
なので、自由市場であれば広告を打てる業種とは結構限られてしまう。
私達が普段目にする広告とはある程度、独占状態である会社のものを見ているもので、誰でも広告を打てば広告効果を発揮できるものではない。
これは毎日どこよりも美味しい新鮮なマグロを仕入れる魚屋さんがたくさん広告を打ったとしても、まぐろはそこかしで売っているものである。
スコスでも広告効果なんてないもので「絶対に買え!」と自分のHPに広告を打つぐらいが関の山だ。
広告の効果とは独占的な何かを持っている時にこそ意味があるもので、独占的なものを感じない汎用品等で広告を積極的に打つ場合には、何か特別な付加価値的な意味があるのかもしれない。
広告を見る時にこの広告は視聴者に何を伝えたいのかという視点があれば良いかもしれないのですが、そんなに真剣に見ないのも広告である。
広告の怖いところは人の潜在意識の空間の隙間を狙って飛び込んでくる飛び道具でもある。
しかし、最近広告を全く見なくなったもので、目についたとしても高速でのスキップし、スキップ出来ないものはフィンガーでの高速トントンタップで他のことをしながらガン無視で通り過ぎていくものだ。

ジャロ社によると「嘘」「大げさ」「まぎわらしい」が3大誇大広告のようである。
そして、政治、宗教、ギャンブル、占い、係争中の広告、取引契約、測量みたいなものには日本国憲法の言論の自由に則って扱わないようである。
いきなり言論の自由が出てきて面白いのである。www
詐欺師とは言葉巧みなりであり、毎日文章を書いていると誇大文章というのも確かにあるものだ。
「嘘」「大げさ」「まぎらわしい」とは物書きの必須事項でないかと思うものであります。
小説家なんて誇大文章の天才かもしれないものだ。
一つの出来事を面白可笑しく脚色して、誇大(古代)妄想の神々がにょにょりとそそり立てば話は面白くなるものである。

ということで、ということなのである。

昨日、夕方も寒くなりカーディガンを羽織ったならば、ボタンがズレて着ていると指摘されるものである。
確かにカーディガンのボタンはズレているものでご指摘通りである。
マツモトキヨシのシールを貼ったボアジャンを着ていた時には気づいたら教えてくれ!と強くお願いしていたものの、カーディガンが1コマズレて着ていた時には「こういうデザインでございます」とそのままボタンの掛け違いを無かったように過ごす頑固者でもある。
これが俗に言う「ボタンの掛け違い」かもしれないものだ。・・・

早速、この案件は「嘘」「大げさ」「まぎらわしい」の3大誇大文章の原則から審査を行います。

1)カーディガンのボタンが1つズレていた。
→本当にボタンはズレていたジャロ~

2)カーディガンのボタンのズレはこのようなデザインと直さなかった。
→本当に面倒臭くて直さなかったジャロ~

3)これが俗に言う「ボタンの掛け違い」かと思った。
→本当に明日からのテーマに「ボタンの掛け違い」がいいジャロ~って思ったのジャブロー。

ジャロ~の言葉に勢いあまり、紛らわしいジャブローの戦いの言葉を使ってしまいましたが、全ての話しが真実でもあり逆に「怖っ」なのであります。www

 

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■2024年12月24日(火)
■月とキンクロ。

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■2024年12月25日(水)
■一日一文章トレーニング。

「ブルブルブル とっても寒いよ ドラえもん♪」

ということで、

昨晩も布団の足元にカイロを入れて寝るものだ。
ここ最近、足のつま先がとっても寒く、冷え性の足元を温めるカイロは必需品である。
お風呂から上がり体も十分に温まり布団に入っても、しばらくすると足の先が急に寒くなる七不思議。
なぜ?足の先がこんなにも寒いのでしょうか。
足があまりにも寒いので椅子に正座してジャパニーズスタイルでパチパチと入力するものだ。
プロンプト?喫茶店のことなのか?ホトトギス。
コマンド?特殊部隊出動なのか?と最上川。
あ~足が寒くてどうしたものかなマイ足である。
この家の寒さは銀行のATMコーナーよりも寒いもので、なぜうちの家はATMコーナーより寒いのかと思う七不思議でもある。
そこで解決策の一句です。
床暖房のある家に 家族まるごと 居候。
(字余り&怖がらないで冗談です)
 (・(・
  ゝ
 ~
9月までは猛暑で暑い暑いと唸っていたことから考えると私の頭の中のほとんどは暑いと寒いで出来ているものだ。
脳筋という言葉があるように暑寒脳(熱燗脳)もあるかもしれない。
ここ最近の暖房のスイッチを付ける温度は平均で室温16.2℃・湿度57%。
体温36度の体が寒さに耐える限度は下限で20℃の温度差の限界。
上限の暑さはクーラーのスイッチを29.1℃でONするので、体温と室温の誤差は約7℃ぐらいが限度である。
この室温の意味は16℃ぐらいになると体温の熱が奪われる方が大きくなり体も冷えて、室温29℃ぐらいになると体温に熱が加算されて汗をかいて温度調整する体の仕組みのようにも思うものだ。
たぶん。
よって、我が愛しのマイボディーのスペックは16℃-29℃が快適に動ける限度である。
これは履歴書に書く必須の個人情報である。

面接官:「マイボディーのスペックは16℃-29℃とはどういう意味ですか?」
私:「私が動作する温度です」
面接官:「・・・」

そのような寒さに震えながら今年良かったものについて書く。
忘年の世の中とは本当によく出来た言葉であり、一年間の出来事とは隅から隅までもうすでに忘却しているものである。
今年一年どんな年であったかと考えれば暑い記憶と寒い足の記憶しかないもので、そのような一年間の大谷選手の50-50ぐらいに大活躍したものは象印のガラス魔法瓶だ。
母も何かフィフティ・フィフティとよく話しておりましたが、この魔法瓶は真夏の暑い時から寒い今日も50-50で一年中我が家の食卓で大活躍する相棒である。
夏場は冷たい氷を入れて冷えたお茶を飲めば冷蔵庫のお茶よりも冷たく美味しく。
冬場は温かいお茶を入れて飲もうかと思っていたのですが、温かいお茶は流石に時間が経つと冷めてしまうので、冬場でも氷を入れてキンキンに冷えたお茶を飲めば冷たくて美味しいことに気づくのである。
こんなにも毎日寒い寒いと言いながら、冷たいお茶を飲むことの矛盾はありますが冬場でも何故か冷たいお茶が美味しい七不思議である。
熱いお茶を飲みたい時にはコンロでお湯を沸かして飲めば温かいお茶をまったりと飲めるもので、沸騰した湯気が室内に広がれば加湿もされて冬の部屋も暖かくなるものだ。
ガラス魔法瓶を食卓の上に置いたならば冷蔵庫を開ける回数も減ります。
冷蔵庫は開け閉めすると電気を消費するようなので節電にもなるようである。
冷蔵庫を開けなくても冷たいお茶が飲めるので、工程数はコップ出してお茶を入れるの工数2でもある。
おじいちゃんは赤く光る焼酎を温めるポットをいつもテーブルの上に置いていたものであり、ダイニングテーブルにドシンと飲みものが入ったポットが鎮座するのは我が家の伝統かもしれません。
すぐに飲める酒はヤバいのですが、ガラス魔法瓶は健全です。
この魔法瓶は本当に手放せない食卓の相棒であり一年間ありがとう。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月25日(水)
■ビリビリとくるぜ。NATTOU&NUT

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■2024年12月26日(木)
■一日一文章トレーニング。

「失うことと得ることは表裏一体かもしれない」

「年忘れ・としわすれ」と「忘年・ぼうねん」の読み方の違いが気になり調べたら「忘」は心を失うと書き「心の中から忘れる」という意味だそうだ。
忘れるということは心の中から忘れることで間違いない。
私は今年もどれだけ多くのことを忘れてしまったかと考えても、忘れたことを思い出すことはなかなかの難題である。
忘れてしまったことを思い出すことは、タイムマシーン的なものでもあり、切れてしまったリンクをどのように繋ぎ直すかという問いでもある。
忘れたことを思い出す呆法論を見つければ、受験勉強などにも使え、「忘れた大切ものは何ですか」と物語にも転用できそうだ。
忘れたくない事柄は文字に記すと忘れないとも言いますが、日記として言葉として記録していても次から次へと忘却してしまうのが現実である。
ただ、文章として記録していると読み返した時に「そうそうそう」と思い出すのである。
なので、忘れたことを思い出すには過去の経験をなぞるか、キーワードとキーワードを結び直して繋がりを強化しないと忘れてしまうのである。
忘れられた事柄とは紐の切れたタコのようでもあり、どこか知らない空間へと流されてしまうのである。

そして、何より気になるのは忘れた分以上に何かを得たか?ということだ。

今年の直近で得たものは
1)「懐の心」と
2)怒りは「腹八分目の腹」に収めて脳に直結させないこと。

ネット社会もそうですが脳にダイレクトに繋がることの多いもので、懐のフィルターや腹のフィルターを持つ意味はあるものだ。
言葉の意味から探ると、これらは明治の文豪たちが西洋化によって抱える近代的自我のぼんやりとした不安ではなかろうかと思ったりもするもので、そのような概念が何気なく話す言葉の中に潜んでいるのかもしれないものだ。

「忘」は忘恩(恩を忘れる)、忘却、忘憂(憂いを忘れる)であり、「亡」は亡君(国を滅ぼす君主)、亡国、亡者、亡命、亡霊と、いろんなものを失う言葉として存在する。
ここ数十年の日本経済や社会を振り返っても得たよりも失ったものが多いと思う「忘」や「亡」である。

そして、「忘」や「亡」の言葉を調べていると「の~」の字が付くと急に日本人らしい平等感が生まれるのだ。
「の」が付くことのプラスアルファ1機能・1意味を付与する会意(かいい・2つ以上の漢字の意味が重なりあうこと)である。

忘形の交わり→相手の身分など気にかけない親しい親交(平等な関係性)
忘年の友→年齢に関係なく親しい友(平等な関係性)
亡年の友→年齢に関係なく学問や人徳によって交わる友(平等な関係性)
亡羊の嘆き→逃げた羊が多い道の為に見失った嘆きから転じて、学問の道が多方面であると真理に辿り着けない例えでもある(人生の教訓でこの話とは関係ない)

おそらく、これらは漢文の翻訳だと思うのですが、「の」が付くだけで急に階級社会に対するアンチテーゼみたいなるのが面白い。
忘形の交わり、忘年の友、亡年の友などの言葉は残念ながらほぼ死語である。
言葉が失われていると考えれば、そのような概念も消失して社会は階層化していると考えられる。
そのような世の中で、唯一頻繁に使用されるのが忘年会だ。
その忘年会も東北の大地震の自粛やパンデミックに高齢化と風前の灯火のような感じもあって、忘年会参加の有無や酒を飲まない問題もあるようだ。
私なんかは「参加でも不参加でも、どちらでもいい」とは思っていたのですが、忘年の言葉を調べていると役職の差、年の差を乗り越えて集いて交流する意味もありそうに思うものである。
また、不平不満があればある程に「忘形忘年」に逆行する階層の壁を作っているかもしれない。

そして、失った分の何を得たのかである。

「得」は貝を手にしたカタチで財貨を得る意。
道を歩いてお金を拾うことのようであり、「得・忘(亡)」とは文字通りに読むと「得失」のプラスとマイナスと、これは人生そのものようでもある。
「得体が知れない」とは正体のわからないことで、その得る得体とはものの正体であり、真の姿である。
「得手」とは自分が得意とする技のことであり、「得手勝手・えてかって」と自分勝手にわがままに行動することでもあり、それは得意となって行うことで、「得意」とは自分が一番良く出来ることで、または、商売上のお得意様や、驕り高ぶり事柄でもあって、自分の思いのままにすることでもある。
「得る」こととはお金を得ることの出来る得意なことであり、時に奢り高ぶり「得失(とくしつ・利益と損失・得ることと失うこと)」の「忘や亡」と繋がるのである。
なので、おそらく、失うことと得ることは表裏一体なのである。
これはどういうことなのでしょうか?

因みに、写真はこの秋に拾ったどんぐりの実。
枝付きがかわいかったので拾って凍らせて防虫加工にしました。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年12月26日(木)
■季節外れのどんぐりオルガン、ONEキーNUTテクノ。