■2023年7月1日(土)
■一日一文章トレーニング。

「サボテンのトゲとは荒ぶる者を抑えるのに、なかなに有効なトゲトゲでもあります」

サボテンにトゲがある理由を検索すると自己防衛から温度調整など様々な理由があるようです。
そして、サボテン三兄弟にもかつて刺々しいトゲで覆われていた時期もありました。
トゲトゲ・トゲトゲと危険に生えたトゲは少しでも移動させようと鉢を持った瞬間にトゲが手に刺ささってイタタとなる“beautifulさ”もあります。
トゲが手に刺さる痛みとは、想像よりも数倍痛い時もあります。
本格的にトゲが刺さった時には手も腫れあがりズキズキと痛みます。
お店の外にサボテンを出しっぱなしにしていたら盗まれることもあったので、閉店後サボテンを中に取り込む必要もありました。
移動の度にトゲが刺さることは痛すぎることでもあるので、サボテンたちをサボテンカートに載せて一気に移動させるアイデアでサボテンのトゲに刺さる機会は減りましたが全くなくなる訳でもありません。
そのような凶暴なサボテンたちも店舗から家のベランダの静かな場所に移動させることでトゲ無しの、もしくは全く攻撃性を持たない優しいトゲトゲとなります。
それはとても不思議なことであります。
店舗の最前線とは人間にとっても植物にとってもストレス負荷のかかる場所であったのかもしれません。

昨日、荒ぶるサボテン三兄弟が数日ぶりに仲良し状態に戻りました。
その状況を詳しく観察すると、動かなかった不動のサボテンから太くて大きなトゲが二本生えているのを発見します。
写真ではもう1本のトゲは先端に隠れて見えにくいのですが合計2本のトゲを生やしています。
一度、なくなった凶暴なトゲが再び生えてきていることは面白いこと。
それは、今まで封印してきた凶暴なトゲを生やして、他の2つのサボテンに動きまわるなと威嚇しているようにも思えます。
何にしてもトゲの楔は荒ぶる兄弟たちを治め、仲良いサボテンライフ・ネクスト2の始まりです。

植物を飾ることを一つの庭園であると見立てると、ベランダの植物たちも枯山水のように空間として見立てることもできます。
今は雑多に置かれた植物たちではありますが、東京の狭い居住空間のベランダに枯山水を作ることは面白きアイデアでもあります。
枯山水には禅問答なトンチ・ストーリーも必要ですが、ここにはサボテン三兄弟や多肉の森にアフリカ勢まで題材はたくさんあります。
サボテン三兄弟を治めるのが中間者であるサボテンの太くて大きい2本のトゲであることは興味深きことでもありますが、物事の本質はまだ結論を持たない現在進行中のことでもあります。
「3人いれば人中(ひとなか・世間)」でもあり、「3人よれば文殊の知恵」もあって、3人のサボテンを仲直りさせる方法とは十分に「瓢箪(ひょうたん)で鯰(うなぎ)を抑える」ことに近い一休さん向けの禅問答でもあります。

ベランダに枯山水のように鉢を並べるとなれば、先ずはベランダをキレイに整理整頓する必要があります。
家の中の乱れは気になるものではありますが、窓外のベランダの乱れとはあまり気にならない乱れでもある。
生活が乱れていた時代は部屋と同時に心も乱舞してました。
一般的に家の中(内)の乱れとは心の乱れ(鏡)だと言われることがありますが、これは経験則から言っても正しい。
不思議なことに部屋をキレイにすると、いろんな事もキレイに片付くことはあります。
そうすると、ベランダの外の乱れは外界に対する心の乱れとも捉えることもできます。
これは外界に対して興味がないのか?私自身と外の繋がりが乱れているのか?と考えたりもします。
これはベランダをお掃除する理由は十分にありそうです。
内なる心の乱れは棘がなくとも自分自身を治めることはできますが、外の乱れとは自分ではどうにもできないことでもあります。
確かに、お店の前とかお掃除していた頃にはタバコのポイ捨てやハンバーガーの食べカスやゴミ散乱していたものを「ぶつくさ」言いながらもキレイにしておりました。
それは、それなりにも外に関心がある状態とも言えます。
ボランティアをすることによっても、世の中の出来事に関心を持つことはあるでしょう。
ベランダの外と言えでも、外部分の乱れをキレイに整頓したならば、外界の出来事や繋がりにも一定程度の関心を傾ける可能性は高そうにも感じます。
自分(内)と外の境界とは常に意識する境界でもありながら繋がりでもあります。
この文章に関するならば、荒ぶる野良侍が開眼してSio参戦となれば面白いことだけれども、ここは100%自分自身についてのことしか書かないスペースでもあるので、そんな荒ぶりな心配ないような気もします。
※但し政治経済等の公事は躊躇なく書く設定です。

そして、今日は7月1日、恐ろしいことに一年も半分までやって来ました。
これはなかなかに、こわな出来事でもあります。

 
■2023年7月1日(土)
■バレエのちょこちょこの動きはパドブレ・トウシューズ?と言うらしい。
後ろ足が1動かしたら次に前足も1動かしてちょこちょこと動く感じです。
ふーーう YouTubeのバレエ動画を観察して描きます。
積年(2日前からの)のちょこちょこ移動完成。
 
■2023年7月2日(日)
■一日一文章トレーニング。

「下記文章を読み直して書き出したキーワードは気合と根性と無鉄砲と努力、そしてTekitouさ、何たる人生観ヤバっ、少しは反省せねばとは思いますが、そんな感じではないと毎日書くことようなことはできません」

慢性的なネタ不足の中でも書き続ける原動力とは何なのでしょうか。
それは皆の大嫌いな「気合」と「根性」です。(おそらく)

「おまえらー気合はあるのかー」「お〜〜」
「おまえらー根性はあるのか〜」「おっ」

これは紛れもない事実です。
何かを継続することは、人並みの才能に気合と根性のスパイスが必須です。
残念ながら「誰でも簡単に書ける文章ノウハウ」みたい謳われた本にもネタは落ちておりません。
逆に「気合と根性で文章は書け」と書かれた本があればビビるのですが何とも昭和っぽい感じです。
我らネタ切れ人は優等生的な発言すると「街歩きしながらネタを探しています」
ガラ悪な感じだと「降霊術師を探してでもネタを欲しいな〜」な感じでもあります。
夏目漱石を呼び出して話を聞ければとなれば、それは「ええな〜」のラッキーです。
間違って訳のわからない学者が降臨したら「はぁ〜〜」と死んだ魚のような目でその内容を聞いているはずです。
気合と根性が原動力なネタ不足人たちは幽霊もクトゥルフも怖くないのかもしれません。
ホラー映画であれば、魔界の門にわざわざネタ探しに近づくB記者のように、決して開けてはいけない扉を普通に開けちゃう展開も予想できます。
そのように考えると、暗黒面に恐怖を感じず頭を突っ込んでいく無鉄砲っぽさも必要です。
「気合」に「根性」に「無鉄砲」とは素晴らしき三要素。
現代社会に最も嫌われる全てがこの三文字に含まれております。
履歴書の自己アピール(自己分析)に普通の文字の3倍ぐらいの大きさで書きたい「気合と根性と無鉄砲」とはロマンです。
好きな言葉や座右の銘が「気合と根性と無鉄砲(機関銃タイプ)」とは、何かしらの問題を起きそうな予感しかしません。
ずーっとネタ不足の中で何かを書くということは、そんなことばかりを考えてしまうものでもあります。

今朝、書こうと考えていたことは「ゴミ箱にカレー粉」のお話。
暑くもなってゴミ箱も生臭くなってきましたが、ゴミ箱に賞味期限が数年単位で過ぎていたカレー粉を捨てたならば、カレー粉の匂いでゴミ箱の臭い匂いも消えてしまったというお話です。
「何が面白いんや?」と。
結構、面白くてカレー粉の匂いは継続的に残ります。
なので、臭くなったゴミ箱にカレー粉を捨てたならば、そのゴミ袋を捨てたとしても暫く(長い間)、カレー粉の匂いのするゴミ箱となります。

「古いカレー粉をゴミ箱に捨てたら、ゴミ箱の匂いがカレー粉になった」
という、そんな数行の事柄を1500文字とかに纏めるのは、ちょっとしんどい。
毎日文章を書いていると、話を盛ったりや文章構成に小細工を施したりする技術には長けてきますが、流石にカレー粉で長文は書けません。
恐らく、カレー界隈の世界観で埋めていくき、インド人が毎日食べているカレー粉が、我が家のゴミ箱の臭さを救ってくれたもうたと「インド人ナマステ〜」という感じをドヤっと書くであろうと思われます。
本当に気品や恥ずかしさの欠片もない文章です。
文章の足りない部分にはカレー粉のレシピなんてものも書くのかもしれません。
大体、カレー粉を料理に入れたら全部カレー味です。
昔、レジ中にカレー屋で働いているというお客様に「私からカレーの匂いがしますか?」と聞かれて「カレーの匂いはしません」と答えたことがあります。
本当にカレーの匂いはしませんでしたが、もし、カレーの香りが漂って店舗がカレーショップみたいになっても「カレーの匂いがするような・・・」とはなかなか言い出すことはできません。
まさに、カレー好きと気合と根性と無鉄砲さが滲み出ている辛く暑い文章になったと思います。

というわけで。

ネタ不足人たる者は昨日、たくさんの文章のネタを仕込みました。

1)キレイなお花を買ってきて、根腐れしなかった大根の菌糸をお花の茎に塗り込みました。(しめしめ)

2)露茜(つゆあかね)という二ホンモモとウメを交配したを買ってきて梅シロップを作る為によく洗浄してから凍らせました。(わくわく)

3)冷凍保存したままの山椒の実を使い「ちりめん山椒」を作った。(おいしくできた)

4)そのような仕込みの絵を描いている途中に「キジバト」が鳴き始めたのでiPadお絵描きを中断して、キジバトの声を録画する。(ラッキーラッキー)
面白いことは近場のキジバトが鳴くと、やはり遠くのキジバトも鳴いています。
キジバトの歌声は他のキジバトに伝播する可能性は非常に高い。
そして、まだHPにアップしていなくキジバトの音声が二つもあります。

来週に向けて十分なネタ仕込みをしました。根腐れしない花の実験に梅とチリメン山椒とキジバトのお話で何かしらの面白いことが書けるのでしょうか?梅ドリンクはどんな味がするのか?チリメン山椒を題材に何を書く?何にも思いつかないチリメン山椒です。このような文章であっても未来に向けてネタを仕込みをやります。そして、気ままにネタを回収して「気合」と「根性」と「無鉄砲」で書きます。一様「ネタを仕込む努力」もしているので、最終的には「努力」が大切とも言えます。この世の中、何より「努力」です。こんなにも毎日、訳のわからない「Tekitouさ・適当さ」に自分でもビックリするわ〜。

 
■2023年7月2日(日)
■スペース猫のポーズ。
■2023年7月3日(月)
■一日一文章トレーニング。

「カリカリベーコンをお家で焼こう」

「人間は習慣の束である」by デービット・フューム

スコットランドの哲学者で経験論者。そして、政治的には自由主義者でもあり米国の建国の人達にも大きな影響を与える。海洋国家型の経験則の積み重ねによる考え方をアップグレードしていくような哲学でもある。反対にヨーロッパ大陸型の普遍的な源泉から思考する哲学と対立する。なので、この考えは習慣という経験則から何かを学習していくことが人間の本質ではないかと説いているのではと思ったりもする。

ということで。

そろそろ、カリカリベーコンについて書く。人生100年の中の美味しいカリカリベーコンを焼く計画は、頻繁にベーコンを食べる習慣により100年待たずともそれなりのカリカリベーコンになってきている。これを習慣の束と言わず何と言おう。とは言え、いつもカリカリではなく、時にしっとりと上品なベーコンに焼きがる時もある。それでも、食感の違いはあれども、味は同じ美味しいベーコンでもある。海外ホテルのビュッフェにあるような捻じれカリカリに近づく為にはまだまだ先の長い話でもある。これまでの数か月間のベーコン経験から美味しく焼くコツをメモ書きする。

先ず、ベーコンはビニールパックに密閉されてフレッシュな状態よりも、ベーコンの水分は少なければ少ない程にカリカリに焼けます。パッケも開封されて冷蔵庫の中で冷燻されたようなベーコンの方がカリカリしやすい。水分の多いベーコンは、しっとりお上品で美味しいベーコンになる傾向にある。本来ならこちらの方が人間好みであるとも言える。目指す目標が噛み応えのあるジャンキーなベーコンであることは味覚の“貧弱さ”でもあると言えるのかもしれないが、それは前世、犬だったかもしれない私好みの味でもある。ベーコンをカリカリ風にするにはスーパーで売られるベーコンの選択も重要だ。ベーコンの厚みは最低でも3ミリぐらいの厚みは欲しい。それ以下の厚みだと貧相なベーコンとなる。ベーコンブロックと言われるものもありますが、あれは肉をスライスすることがすこす難しい。なので、私の場合は最初から切れているベーコンを選択し、いつかはベーコン塊から切り出して焼きたいとも思うのですが、包丁さばきも追つかないので今のところは切れているベーコンを使うので十分である。

ベーコンの置き方は油の引かない!フライパンに密着するように置く。隙間があると美味しい焼き目は付かない。ですが、スーパーで売っているようなベーコンは大抵うねってパッキングされているものでもあるので、それは焼きながら箸で押さえてフラットに矯正する。先ずはフライパンから火が飛び出ない程度の強火で焼く。ベーコンがパチパチと音を鳴らし始めたら、火をすぐに弱火に。この最初の強火状態の有る無しでベーコンの焼き時間や焼き具合も変わります。弱火にするといってもMAX弱火だと上品系のベーコンになるので、弱火から少し火力をアップした焼き加減にする。そうして暫くベーコン焼きを放置する。その間にパンを焼いたり、お茶を飲んだり、今日の大谷選手をWEB検索して時間を潰す。フライパンから(((8888)))と心地良い音色が聞こえてきたら、野球情報から目をそらしてベーコンの白い油部分が(((8888)))と弾けて出すまで待つ。この(((8888)))と油が弾ける状態を私は「肉の宇宙をみる」と言っている。黒いフライパンの上で肉の弾ける様子は星の瞬きのようでもある。(((8888)))と過払い金のCMのようではありますが、その状態になるとベーコンをひっくり返し、もう片面に焼き目を付ける。そして、再びフライパンの火力を上げて、数秒間(((8888)))と焼き音が響くまで火力を上げると完成です。その後火を止めると余熱だけでも十分に焼き目は付く。その時、ベーコンから出て来る油をベーコンから取り去る為にもフライパンに角度を付けて置くことがオススメ。

1)3ミリ以上のベーコンを買う。
2)フライパンに密着するように置く。
3)強火で焼く
4)パチパチと音が鳴り出したら弱火にする
5)弱火から少し火力を上げた状態で焼く。
6)ベーコンが(((8888)))焼けてきたらベーコンの焼き具合を見に行く。
7)ベーコンの油部分に(((8888)))の宇宙の瞬きを見たならば裏返す。
8)表面を再び強い火力でフライパンを温めて、火を止める。
9)後は余熱だけでも十分に焼き目を付けることができる。
※フライパンに角度を付けて置いて余分な脂を落とすことが良い。
そして、
10)げにやげに、ベーコンと毎回焼く度に異なるカリカリ具合ともなる
不思議だな〜のカリカリでもある。

 
■2023年7月3日(月)
■モダン猫ネコバレーダンサーズ。
■2023年7月4日(火)
■一日一文章トレーニング。

「大発見!!無鉄砲さと無鉄砲でない境界線を見つけた 無鉄砲な未来予測」

「気合」「根性」「無鉄砲」「努力」「適当」
私自身を体現する言葉、すばらしき五連星。
占いページにこのような「ネジゆるワード」で溢れていれば良いな〜と思う今日この頃。

かに座のあなた:
「話の見えない展開には気合と根性と無鉄砲が必要です。気持ちが集中できない時には、適当さも思い出して、たっぷりと努力してみて下さい。」

おとめ座のあなた:
「気合と根性の狭間で揺れ動く、移ろいやすい時期には無鉄砲が大切です。持ち前の努力と適当さがあなたの好奇心の扉を開いてくれるでしょう。」

ところで。

「無鉄砲」とは変な言葉でもあります。意味は結果を考えないで、がむしゃらに事を行うこと。別の言い方をすると「むこうみず」なことでもあります。「向こう見ず」というのも変な言葉です。それは未来の目標を見ずに行動しているようにも思えます。本来、未来とは常に予期できぬことでもありますが、明らかにこの人に、あのようなことをすれば、絶対に怒らしてしまうだろうな?と思うことを丸腰で「むこうみず」に自分から行ってしまうことを「無鉄砲」と表現するのかもしれません。とりあえず、何か事を行う時には鉄砲を持っていれば自己防衛のお守り替わりにはなるかもしれないと言う例えであるとも考えられます。これは予期できる未来に対して、備えの必要性について説く戒めの言葉なのかもしれません。「無鉄砲」を英語にすると「No Gun」でもあります。そのような言葉からイメージすることは、危険な物を持ち込むことのできないセーフゾーンな雰囲気でもあります。プラカードに「No Gun」と書いてデモすれば銃規制推進派のようなイメージもある。しかし、「無鉄砲」というプラカードを持って街を歩いていたならば、何かものすごくアホっぽい自己アピールをしている感じにもなります。「無鉄砲」とは少し癒し系の魔力を持つ言葉でもあります。「無鉄砲」は知っている未来への行動範疇となります。「無鉄砲と無鉄砲でない未来の境界線」を知ることは、未来予想の可能範囲の境界線を知ることになるのかもしれません。未来を知らない、私達であるが故に、誰も知らない未来に対し「おまえは無鉄砲だ」と言われても、説得力は低い事ような気もします。なので、探ってみよう「無鉄砲の境界線」。

1〜2ヵ月待たず、また、未来予測なお話について書いてしまった。

ということで、「ちりめんじゃこ」です。

悲報です。
先日、頑張って作った手の込んだ「ちりめん山椒」よりも、素の「ちりめんじゃこ」にかつお節と醤油をかけて食べる方が100倍美味しい現実に直面しています。
あの苦労は何だったのか?の「ちりめん山椒」です。
「ちりめんじゃこ」をお皿にざざっと広げ、かつお節をかけて、醤油をたらたら〜た〜たらたらとかけると、白いご飯が何倍でもおかわりの進む美味しさです。
もちろん、「ちりめん山椒」も美味しいのですが、このシンプルな醤油だけで食べる組み合わせには格別な美味しさがあります。
「ちりめん山椒」に加工することのメリットは保存が効きそうでもある。
ですが、生のちりめんじゃこも冷蔵庫に入れていればそれなりに保存は効きます。
やっぱり、「ちりめんじゃこ」には醤油とかつお節が一番お似合いで美味しいような気もします。

東京にはじめてやって来た時、スーパーで「ちりめんじゃこ」を買ったら、白くて柔らかくて「何だ?この白い小魚は?」ってなったことがあります。
上京するまで、東京では一般的な「しらす」は食べたことのない小魚でもあるので、このやわい小魚に大変戸惑いフライパンで炙って水分を飛ばしてから食しておりました。
結局、何でも食べる雑食でもあるので「しらす」でも何でも食べるのですが、江戸っ子は白玉丼を「美味しい美味しい」と食べるのですが、私は「ちりめんじゃこに醤油の方が絶対に美味しいよ」思ったりもします。
ネットで「しらす」と「ちりめんじゃこ」を検索すると同じイワシの稚魚であるようです。
釜茹でした後に天日干しするのか?しないのか?の違いです。
一手間、「干そうよ」と思うのですが、東京は圧倒的に「しらす」の方が好まれる傾向があり、「ちりめんじゃこ」は少数派でもあります。
これは、しっとり柔らかく上品なベーコンよりも、カリカリと噛み応えのあるジャンキーフードなベーコンを好む嗜好の違いかもしれません。
あーやっぱり、イワシの稚魚は天日干しにしてカリカリして欲しいと思うのだけれども、それはやっぱり、これも無鉄砲の範疇に含まれるのでしょうか。
一匹、イワシの稚魚でない色っぽい魚が入っておりました。(ラッキー)
タコやイカの子供が入っていれば、私の中の大当たりでもあります。
写真のテーマは「食べられる小魚たちはおまえを見ているゾゾ目」です。

 
■2023年7月4日(火)
■バレエ3。猫パンチの時間です。

■2023年7月5日(水)
■一日一文章トレーニング。

「無鉄砲な境界線を探してみた」

今朝は曇り空、涼しい風も流れますが、やっぱり、じめっと暑い。

7月3日から作り始めた梅ジュースは露茜(つゆあかね)という品種の梅を使用します。
これは色合いが美しくなるように開発された梅で、梅と氷砂糖を入れただけで、人工着色ぐらいの真っ赤なキレイな赤色に染まります。
南高梅の梅干しを漬ける時に赤紫蘇で色を着色する必要がありますが、この露茜と一緒に南高梅に入れて漬けても、キレイな赤色に染まるかもと思います。
来年の梅はこの露茜と南高梅をMIXして作りたいとも思うのですが、来年も露茜を入手できる保証もありません。
そこで、来年用に冷凍保存しておこうと思ったりもするのですが、このような果物は冷凍保存すれば1年間ぐらいは保存が効くものなのでしょうか?(無鉄砲?)
まだ、スーパーに売っているのかもわかりませんが、とりあえず、追加購入したい。
梅シロップは氷砂糖と凍った梅を容器に並べ、1日で9割程の赤い液体で満たされるようです。
梅エキスの溜まる仕組みはよくわからないいのですが、梅ジュースの水分は梅干し作りよりも早く液体が抽出されます。
梅干し作りでも初日に一番多く梅のエキスは抽出されましたが、梅の塩漬けの場合は約1週間のゆっくりと液体が溜まることと比較しても随分早い。
梅干し作りと今回の梅ジュース作りの違いは、砂糖と塩漬けの違いと、梅を凍らせるのか?そのまま常温の梅を使用するかの違いでもあります。
梅シロップの作り方には梅を凍らしてから使用すると書いていたので、その通りにしましたが、もしかしたら、梅は凍らせることによって梅酢の抽出にも影響があるのかもしれません。
数字のない棒グラフを書いても1日で増える梅エキスは理想的でもあります。
一番上に乗った3つの梅は昨晩、箸で押したり、氷砂糖を掘り返してそこに押し込んだりと細工をしたのですが、まだまだ梅エキスに浸かっていません。
(よく見ると下の梅が浮いて空洞になっている)
梅は液体に浸かってなくとも十分にぶよぶよとした柔らかい感じではあります。
梅エキスが完成するのは1週間後の7月10日になる予定です。

ところで、

「無鉄砲」のこと、来年まで露茜を冷凍保存することは「無鉄砲」なのでしょうか?

冷凍に詳しい人によっては「それは無鉄砲である」と即答できるのかもしれません。ですが、梅を1年間凍らす未来の結果を知らない人にとっては、それが「無鉄砲」であるかどうかもわかりません。「無鉄砲であるか?ないか?」の、その判断基準は「知っている未来」の境界線で間違いありません。そのような、「知っている未来」を分解すると「常識的な知識」としても置き換えることはできます。もしかしたら、「知っている未来」とは「常識的な知識」と通じているのかもしれません。

「知っている未来」→〇「常識的な知識」

最近、富士山登山解禁や登山などでもTシャツ半パンや登山靴でない装備の軽装で登山する人がいるという記事を見ましたが、この記事は「知っている未来」が「常識的な知識」で判断していることの参考になります。確かに、登山にTシャツ・半パン、街歩き用の靴での登山は「無鉄砲」な範疇で間違いありません。一般的に山とはどんな低い山でも怖くて危険な場所であります。これは「常識的な知識」の中の「無鉄砲さ」であるとも思えます。ただ、登山していれば、暑くて汗もかくし、Tシャツ・半パンでも登ることは人の欲求としてはごく自然の事でもあります。実際、登山道が整備されていれば、手足が荒れるような怪しい草木や怖い動物や虫などにも触れることもありません。なので、Tシャツ・半パンでも特段の問題なく登頂できるかもしれません。道を外れて自ら道を切り開いていくようなチャレンジャーでもない限り山で遭難することも先ず考えられません。但し、山の天気とは人の機嫌みたいにころころと変化するものでもあるので、服装や食べ物等を準備せずに山を登ることは「無鉄砲」と解釈されるのだと思います。

そこで、逆説的に「常識的な知識」が「知っている未来」になるかと考えると、必ずしもそうとは言い切れない。軽装で怪我をする確率とフル装備でも落石などで怪我することはどんな格好をしていても運次第である。それは危険なゾーンに入るかどうかの違いでもあります。必ずしも「常識的な知識」が「知っている未来」と繋がっているとは言い切ることはできません。それは相場などに置き換えるとわかりやすく、人は「常識的な知識」で未来を予測することはできますが、それが必ずしも一致するとは限らないことに近いのかもしれません。

「常識的な知識」→×「知っている未来」

 

■2023年7月5日(水)
■うる目ねこポットねこパンチ。
■2023年7月6日(木)
■一日一文章トレーニング。

「今年の夏はサンダルでうろつくことにした」

最近、梅雨のお天気が続いていましたが本日は雨(今止んでいる)。「ポチャン・ペキ・タンタン・ポタン・ポチャリ」とひんやりと冷たい雨音を聞きながら、裸足の足は絨毯の上や畳の上を自由になぞります。素足のままにうろつく行為は家族以外の他人がやってはいけないご法度でもあります。他人が自分の家を裸足でうろうろしたならば、水虫菌や足裏の皮膚や足垢が落ちていくイメージを持ってしまいます。多分ムリ。けれど、自分が裸足で他人の家をうろうろするのは気にならない。人間とは本当に自分勝手な生き物です。学生時代に友人が我が部屋を裸足でうろうろしたならば、帰宅後にしっかりと掃除機をかけていたような気もします。裸足うろうろとは身内関係だけに許されるサンクチュアリでもある。時には土踏まずを机の木の部分で指圧しながらリフレッシュもするが自分の足だから許されることでもあります。知らぬ人が80センチのMY書斎デスクに裸足の足裏をこすりつけていたならばロケット・パンチでもある。wwwこの涼しい雨な気候に私のコッペパンのような足はご機嫌でもありますが、このような気持ち良い天気に素足でうろうろすることはこの地球上で最も開放感ある瞬間でもあります。世界のほとんどの地域の人々が靴という文明により今も今日も足の自由は囚われておりますが、日本の夏は裸足の夏でもあります。良いですか?「日本の夏は裸足です」!!7月6日にもなれば、草履やサンダル履きの夏解禁でもいいような気もします。子供の頃の夏は毎日サンダルでした。家に帰宅して「ただいま〜」と言うと、台所から「お風呂場に行って足を洗って〜」と返事が返ってきます。「ただいま」の挨拶は「足を洗え」のまるで極道映画を見るようでもありますが、素直に汚れた足を洗う為に先ずはお風呂場に直行します。お水でごしごしと足洗うと、散歩後に足を洗っている犬みたいな感じもします。実際に足を洗うと土で真っ黒に汚れた水が洗い流されるので足を洗わないと家中、真っ黒に泥だられとなるので仕方なし。ある程度、大きくなると街の汚れが足に直接つくことが気持ち悪くなって、それっきり靴派になりましたが、今朝は裸足の開放感に憧れてサンダルにすこす惹かれている自分がいます。裸足の文化とは日本や東南アジアの人々ぐらいではないかと思うのですが、それはちょっと調べてみる必要があります。今、何にも縛られない裸足の時間はとても快適な時間でもあります。

明日は年に一度の織姫と彦星が出会う七夕です。思い返すと7月7日は雨で曇る日が多いような気がします。なぜ、そのようなことを思うかというと七夕の夜空を見上げた記憶はほとんどありません。因みに、七夕を辞書で調べと、五節句の一つで、陰暦7月7日の夜、天帝の許しで牽牛(けんぎゅう)と織女が一年に一度会うという中国の伝説に日本固有の女子の技芸上達を祈る乞巧奠(きこうでん)と棚機津女(たなばたつめ)の信仰と習合して奈良時代に日本の伝統行事となるとあります。七夕には5色の短冊に歌や願い事を書いて笹に飾り、地方によっては川に棚を設置して農作物の初物を飾るようで、文章だけ読むと何とも難しい内容でもあります。

都会にいれば天の川など見えることもありませんが、夜空の広がりにドラマがあることはステキなことでもあります。天の川(あまのかわ)とは雨の川(あまのかわ)とも読めます。なので、七夕の夜に雨雲が広がることは極自然なことで、それで良いのです。(たぶん)雲の上は晴れてもいるので、下界の我々に織姫、彦星の一年の特別な日を見る権利はないのです。もし、明日夜空が晴れれば
「キャンドルライトが ガラスのピアスにはじけて滲む おまえ彼の腕の中で踊る(チェッカーズ・ジュリアに傷心)」って・・・。
チェッカーズってノストラダムスなのかもしれませんね。
最近、ヤフトピのオススメニュース一番に叶姉妹のニュースがやって来てくるようになって、毎回、楽しみ読んでいるのですが恭子さま・美香さまも歌詞に分析を加えていらっしゃっておりました。
歌ってそもそも全て預言書や人生そのものかもしれないので、ネタ不足の時は歌詞から未来を予測するのはアリなのかもしれません。

写真は不忍池のカルガモの親子。
裸足に水で気持ち良さそうな鴨たちでもある。
今年の夏はサンダルを購入したい。

 
■2023年7月6日(木)
■3分で描くだだねこ。

■2023年7月7日(金)
■一日一文章トレーニング。

「口やかましきを封じる竹ちくわ」

今朝は晴れ。
カアカアと早起きのカラスの鳴き声につられて七夕の朝は明けていきます。
空には欠けたお月様がぽっかりと浮かび、アンリ・ルソーが描く空のようにどこまでも透き通った青はどこまでも青い。
最近は放射冷却もできないような曇り空が続いていたので日々暑くなるのは仕方なしとも思っていましたが、今日のような朝から快晴の空でも暑さは十二分に暑い。
室温27.7℃・湿度65%でムワッと暑い。
今夜は織姫・彦星の観察日和なのかもしれません。

そもそも7月7日の七夕とはもっと盛大に祝われても良いイベントだと思います。
織姫と彦星が1年に1回会う理由はよく知りませんが、笹の葉に短冊かけて願い事を書くことはロマンチックな事でもあります。
ただ、都心部では七夕が終わりの笹を燃やすことができないので、使用済みの笹はどうする的なゴミ問題は発生します。
短冊に願い事を書いて公衆面前に晒すことも現代的ではありません。
個人情報警察が真っ先に出動する案件かもしれません。
昔、短冊に「おねしょうしないように」と書いたら、友たちがそれを見つけてざわつき、母が「これは親戚の子が書いていたのよ」とフォローしてくれました。
おねしょうにざわつくおまえらもまだまだ、おねしょう時代であった頃だったと思うのですが、人の願い事を1つ1つ読んでいくような子供は碌な大人になっていないとだろうとも確信できます。
そもそも、ピュアに思いつくままに願い事を片っ端から書いていく自分も自分なのですが、母の親戚の子供が書いたという言葉に「そうなんだ」と鵜呑みにする子供たちもアホっぽくて可愛らしい。
笹に付ける願い事にも人間界の体裁というものが存在しております。
そもそも、人様に見せても波風立たない願い事とはキレイで表面ばかりな願い事とも言えます。
子供の短冊であればかわいらしものの、タガが外れた大人の短冊は欲にまみれた笹の葉サラサラであるかもしれなくて、皆がドン引きすることは間違いないので流石の母でもSio対応となると思います。
何か無難に天の川に願いを流す方法やと来年の七夕が盛り上がる方法がないのでしょうか。

大体、一年に1回しか出会えない状況は意味がわかりません。
もともとの中国の伝説では天帝と呼ばれる北斗の拳に出てくるような人物の許可が必要で、そのようなお話も西欧化すれば「おお〜ロミオ」みたく傷心のジュリア?ジュリエットみたく夜這いをかえて庭から窓に向かって恋心を詠うのかもしれません。
ですが、この国の最終砦には「夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」な清少納言が待ち構えております。
七夕とはピーチ姫に会いに行くゲームを永遠にクリアできない人が7月7日だけ面会できるお話なのかもしれません。
明日は織姫と彦星の話しを調べてみましょう。

ということで。

実家から「竹ちくわ」が送られてきました。
四国の竹ちくわ2パック(好物)と仙台の笹かまぼこ1袋、福井県の羊かん1本。
どのようなワールドワイドな組み合わせなのかと思うのだけれども、ありがたやの竹ちくわです。
東京ではスーパーで売っているのを見たことがないので、デパ地下やアンテナショップのようなところに行かないと入手することはできません。
ちくわに竹が刺さる意味があるのかと思うのかもしれませんが、ちくわには多分竹が必要です。
竹の刺さっていないちくわはふにゃついて物足りないちくわでもある。
昔は竹ちくわを横笛のように奏でながら食べていましたが、今のスタイルは少しトースターでほんのり焼いてから、鬼滅のように食べることが美味しい。
お皿のアールでなかなかにお醤油は付きにくいのですが上手にお皿を動かしながら、ちくわに醤油を付けてかぶりつきます。
この時のちくわは棒付きのステーキを食べているような気分です。
裸足に竹ちくわを家族で食することは野蛮な光景にも見えるかもしれませんが、ブーツを履き骨付きボーンをかぶりつく西部界隈のカーボーイと同じようなものでもあります。
口やかましい奴の口にも竹ちくわとも思いましたが文章量から見ても効果なし。

空を見上げると薄っすらと山登り風に言うとガスっています。(ウザっ)
今日は「サマー」と叫びたなるような良い天気です。
早速クーラーもON。
27.6℃ 71% クーラーON

 
■2023年7月7日(金)
■今夜は織姫と彦星を観察できるようです。
1チュールでいつでも天の川渡しのネコわいろ。
■2023年7月8日(土)
■一日一文章トレーニング。

「笹の葉さらさら 軒場に揺れる お星さまきらきら 金銀すなご〜永遠に聞いていても飽きません」

頭の中の短冊に「七夕が国民的な盛り上がる行事になって欲しい」と願う七夕祭りは何事もなき過ぎ去っていきます。
昨晩は生温かい風に吹かれ、うっすらとガスる雲(うざ表現www)に時折、お空を拝むことはできましたが当然、東京の空は明るすぎて天の川銀河は見えません。
雨の七夕は織姫と彦星の出会った時の涙が降り注ぐというロマンチックな考え方もあるようなので、七夕の夜の天候の善し悪しはどうでも良いことなのかもしれません。

七夕の歌は「笹の葉さらさら」と「お星さまキラキラ」ぐらいしか歌詞を覚えていません。
それでもスーパーで永遠に流れる七夕の歌はとてもエモく心地良いものです。
“すなご”とは蒔絵に金箔や銀箔を装飾する為の道具ことらしいのですが、子供の頃は意味もわからずに歌っていました。
当然、意味も分からないので、その部分は記憶から抹消されます。
昔の夜空にそのようなキラキラと煌めく天の川が見えたのかはさておいて、何よりもこんなにもヘビーローテーションで同じ音楽がズーっと鳴っていても耳に飽きがこないことは面白いことでもあります。
歌詞を分解すると「名詞+擬音語 その様子 名詞+擬音語 その様子」の繰り返しです。
単調な言葉の繰り返しは耳にも心地よいリズムなのかもしれません。
私の場合は思うことを片っ端から書いていくタイプであるので、韻を踏むとか文章のリズム感とかそんなに考えて表現できる技量もありません。
されど、定形のカタチというのは存在しております。
それは「前文書いて+ところで区切り+前文の要素を異なるものを対比させながら文章をまとめる」手法です。
これが私の基本的なマイ構文。
「起承転結」なカタチではなくて、ほとんどはこのカタチで書くことには意味があって楽だからです。
一般的な「起承転結」構文は文章量を区切ってしまう感じもするので、長文を書き進めるにはあまり適していない構造のようにも思えます。(個人的な感想)

「笹の葉さらさら」にはシンプルで読みやすきリズムがあります。
さっそく、「名詞+擬音語+その様子+そしてどう思ったのか」な構文で文章を書いてみます。

笹の葉がサラサラ。
令和5年の今では考えられないことでもありますが、私が小さいころは笹船を作りて、水辺に浮かべたり、川に投げ込んだり、水道水で流したりして遊んでいました。
笹船をどのように作ったかと思えば、今はうっすら記憶しか思い出されませんが、茎の部分を反対側に挿し込み、なかなかに立派なお船を作っていたと思います。
笹船はどんどんと下流に流され、岩につまずき沈み、渦に巻き込まれ沈み、流れにのっていてもそのまま沈みます。
結局、全ての笹船は沈みます。
船には乗員が必要だと言うことで、アリを捕まえて船に乗せて地獄の3丁目行きみたいな遊びもしていました。
今考えると何が面白いのかと思う残酷な流刑の流しのようでもありますが、子供の頃はそれが楽しくて一人ぶつぶつ言いながら笹船で遊んでいました。(こわい)
それは江戸時代の子供たちと同じような原始的な遊びでもあります。
東京の子供たちには竹も笹も見る事の無い少し贅沢な遊びかもしれませんが任天堂のゲームにも、そのような遊び要素が存在していると思います。

竹の葉がザワザワ。
竹林が風に吹かれてざわつき始めると、子供心に恐怖感が芽生えるものであります。
そのような、竹と笹は良く似ていますが竹は背が高くて葉っぱを見ることはありませんが、笹の葉っぱは低木なので子供たちの善き遊び道具です。
そのような竹と笹の違いを自由研究した記憶もあるのですが、大人になった今、笹と竹の違いについて説明しろと言われても何も記憶にございません。
これは、よくわからないことは記憶に残らない「金銀すなご」の呆則です。
早速、辞書を調べると、竹も笹も同じイネ科の多年生植物で、一般的な比較だと大小の差の認識で間違いないようですが、明確な竹と笹の区別はないようで、竹と笹とは奥深い不思議な植物でもあります。
ただ、幼き頃からの蚊撲滅運動家である私が感じることには笹が生える場所には、刺されるととても痒くなる白黒模様がハッキリした蚊がたくさん生息していた記憶もあります。
なので、笹の近くで蚊を肌におびき出してパチパチ撃墜するのは私の日課でもありました。
竹林はあまり近づきませんが、痒い蚊はいなくて、手足の長い大きく不気味な蚊、蜘蛛の巣、黒いアゲハ蝶が飛んでいるようなイメージではあります。
笹は約600種もあり、美味しい餅の入った“ちまき”も笹の葉っぱを使用しているようであります。
絵に描いても笹の葉とは笹の葉っぱらしい形となります。
笹は葉っぱが大きく、茎も太くならずに、何のことか?の成長が完了してから皮を落とす種類のものを笹と呼ぶらしい。

という感じで笹の葉構文で文章を書いてみました。

 
■2023年7月8日(土)
■ネコおもちゃ。
■2023年7月9日(日)
■一日一文章トレーニング。

「ビーサン買いに(by 新味何吉)」

7月にも入り毎日この暑さでもある。
今朝は朝一番からクーラーを入れましたが、クーラーを入れた理由は隣の家からタバコの煙が流れて来ること。
マジっ早朝からのタバコ煙・・・頼むわ。

昨日はビーチサンダルを買いに街に出かけました。
探し物のビーサンは凝ったデザインのものではなく、とてもシンプルなもの。
先日、裸足の記事を書いてからは毎日裸足の開放感を満喫しておりますが、言語化すると自分の中でも常に意識されて、ビーサンを履きたい気分は高まります。
裸足でうろうろすることは野蛮なことなのでしょうか?靴を履く、履かない文化に優劣をつけることは安直な考えであるようにも思います。
そもそも、私たちの文化とは畳や木板などより裸足に近いカタチで接してきた文化でもあります。
名もあるお寺に参拝して軒下を歩くことでもあれば、靴下を履いていたとしても木材の年輪の溝を足の下に踏みしめながら歩きます。
そうすると、足の裏面から伝わってくる感触はとても良い肌さわりでもあります。
手で道具の使い勝手や肌さわりな感触を感じ取るように、足の裏でも心地良い地面の肌さわりを感じていることは間違いないことであります。
裸足の文化については詳しくは知りませんが、この裸足でうろうろする日本の文化は東南アジアに通ずる南洋系の文化であると思われます。
日本の場合は隠れキリシタンのように、オモテ向きは靴を履く文明国の体裁は守ってはおりますが、家の内、人生の半分は完全なる裸足の世界でもあります。
その意味でも日本の文化の半分は東南アジア由来の文化に通じているように思います。
欧州や中国や韓国のほとんどは靴の文化ではあるようですが、ネット情報によると一部には靴を脱ぐ裸足の民族もいるようではあります。
中東やアフリカやヨーロッパの北欧諸国や北米や南米でも靴を脱いで裸足になる仲間たちも多い。
今やアメリカでも靴脱ぎの文化が急速に広がっているようでもあります。
そのように考えると、靴を脱ぎ、裸足を過ごす人たちは結構な人数が世界には存在している可能性もあります。
裸足の民族が靴を履く文化に蹂躙され、靴を履く、履かないで文化的な優劣を付けられる時代は長かったのかもしれませんが、いつ何時も重力面に面する足裏は常に地面と対話する感覚器官でもあります。
そんな感覚器官を四六時中、靴底の厚いソールで常に遮断してしまうことは人間の感情の一つを封じることのようにも思います。
裸足の季節になって思うことは、裸足は人間の本来持つプリミティブな文化形態でもあるようにも思います。

ということで。

今年の暑い夏はビーサン履きうろうろ街歩きしたいと思うので、ビーチサンダルを買いに街に出かけました。
街に出かけてわかったことは普通のシンプルなビーチサンダルは意外とあまり売られていないこと。
特別なデザインされたものや、理想のイメージと異なるものは多いのですが、私がイメージするものはなかなか見当たりません。
仕方なしということで、靴下だけを購入して次の店に向かいます。
そして、次の店に向かう薄暗い誰もいない自転車置き場のエレベータ内に乗っていると急に足がつりそうになります。
霊現象のような急激なヤバイ痛み!!
食品売り場で食材買い、服を見て、サンダルを探して歩くぐらいの距離しか歩いていないので、全く足を酷使した訳でもありません。
足がつる瞬間前の痛みでもあるので、このまま買い物をしていたら本格的に足をつってしまいそうな予感もして、サンダル探しを諦めて帰宅することにします。
自転車に乗ってペダルを漕いでいると足を回す度に足がつりそうになります。
ふくらはぎがつりそうになると、足の裏の接地面も痛くなり同時につりそうになっています。
図の(1)と(2)は連携して痛みます。
なので、仕方なく、痛みが来ないかかと部分でペダルを押しながら帰宅道を急ぎます。
不思議なことは、上野公園の人混みを超えると足の痛みもなくなったこと。
そのような、原因がわからない痛みとはホラー話のように怖いものでもあります。
もしかしたら、足に何か怖いものがしがみついていたと思い足を確認すると異常なし。
見えるものはスニーカーだけなので、もしかしたら、ビーサン時代の到来に、スニーカーが最後の抵抗を行ったのではないだろうと思うようにして自宅に帰ります。
そして、ビーサンはネットでポチっと購入しました。
良かった、良かった。

 
■2023年7月9日(日)
■応援する猫。
■2023年7月10日(月)
■一日一文章トレーニング。

「自然にはバランスを働かせる機能があるともないとも言えます(たぶん)」

「人生」とは・・・月曜日の朝から考えるものではありませんが、戦国時代の平均的な人生は50年だったようであります。
そのような人生50年は織田信長の「人生50年の舞い」という歌になり現代に遺されます。
「人間五十年、下天の内を比らぶれば、夢幻の如くなり」
本当に人生が50年であったかどうかはわかりませんが、当時の認識としては戦乱期でもあったので、そのぐらいの人生観であったのかもしれません。
ここでわからないものは「下天」と言う言葉であります。
「下天」を調べると仏教言葉で「化楽天」のことらしく、この星を持つ者は自ら妙楽の境地を作りて8000年生きるらしい。
8000年も生きて何が楽しいのか?わかりませんが、世の中の楽しいことを詰め込んだ8000年になるようでもあります。
そんな不老不死のような話は置いておいても、信長が「下天」と言うならば、そのままの生き様を鑑みれば「天下布武」と認識することが一般的だと思います。
信長公が本当にそのような歌を歌ったのか知る由はありませんが、後世の踊り手が面白可笑しく歌ったものと考える方が妥当なような気もして、「人生50年、天下を取るには人生は夢の如く短いこと也」と人生は非常に短いことの例えであると解釈できます。

そこで、現代の令和5年は人生100年時代と呼ばれる時代にもなってきています。
戦国の世の人生からは50年も伸びていることは、信長公からすれば、喜ばしき事柄であったかもしれませんが、私にとれば少し長すぎるようにも感じます。
実際に100歳まで生きるかどうかは別にしても、人生100年の歳月は百代の過客にして、行きかふ年もまた長すぎる旅人でもあります。

先日、本を読んでいたならば、西アフリカで蚊の媒介するマラリアの危険性の高い地域に於いて、鎌状赤血球性貧血という風土病が蔓延しているという文章を読みます。
鎌状赤血球性貧血は赤血球が半月状になり酸素運搬機能を低下させて貧血状態になる病気のことらしい。
この病により毎年、多くの子供たちが亡くなるようではありますが、この病気は劣勢遺伝子という「良くない遺伝子」を両親から引き継いだ人が発症する遺伝病でもあります。
ただ、この欠陥のある「良くない遺伝子」にはマラリアから守る機能も持ちあわせているようで、風土病としてマラリアが蔓延する地域では維持されてきた遺伝子でもあります。
1方の親から受け継いだ「良くない遺伝子」は他方の親から受け継ぐ機能的な遺伝子によって抑えることが可能でもあります。
なので「良くない遺伝子」を一つだけ持つ人はそれほどに酷い貧血にもならずに、マラリアにも耐性を持つことにもなって、この風土病が存在する地域で生きる人には適した遺伝子でもあります。
思うに、劣勢遺伝子の「良くない遺伝子」を1つ持つ人々はマラリアにかかりにくい利益と多少の貧血というメリットを持ち、反対に「良くない遺伝子」を二つ持ってしまった人は鎌状赤血球性貧血になるリスクを持つというバランスの上に成り立っていることになります。
「良くない遺伝子」を二つ持つ者は運が悪かったとしか言いようがなく、違う地域に移住することによって新らたな人生を切り開く可能性にかけることが生存の道なのかもしれません。
こういうのを進化の過程で生命の個体数、形質を進化させる「淘汰圧」のバランスが働いている状態とも言うようでもあります。

人生50年から人生100年の大変化とは大きなバランスの変化でもあります。
バランスが急激に変わる時には全てのものが揺れ動くことが物事の法則でもあります。
日本人の本当の寿命は戦国時代の人生50年よりはもっと長いはずとは思いますが、令和5年の医療が進んだ人生では、寿命という面では大きくバランスが崩れた未経験の領域に私たちは足を踏み入れているようにも感じます。
この本では老人になることは悪い遺伝子がゴミ箱のように溜まっていくことだと書かれています。
寿命が延びれば伸びる程に遺伝子的の欠損は多数発生し、個体は消耗することはあっても退化を選ぶ淘汰圧はないとも言っています。
自然とは常に有益な働きと不利益な働きのバランスの上で成り立っていると考えると、人生100年のバランスも何かしらのバランスな支点を作られてくるように思われますが、そのようにならないカタチもあるようです。
そんな例がハンチントン舞踏病という病。
ハンチントン舞踏病は運動神経が失われ認知症を起こす病でもありますが、これは1/15000人の確率で発症する病でもあり、この病気を引き起こすものが優性遺伝子と言うものであります。
前述の劣勢遺伝子が両親のバランスでメリット・デメリットを天秤にかけていたことに比べて、この優性遺伝子はたった一つの「良くない遺伝子」で病を発生させる遺伝子でもあります。
この場合にはバランスを取る概念はないので、その優性遺伝子を持つことで一発アウトな状態にはなります。
人の寿命が延びたならば、このような優性遺伝子のバグも常に発生することになるだろうし、この優性遺伝子自体は自然が人を淘汰しにきていると考えることも考えられます。
信長公みたく人生50年と楽しんだ方がその人にとって楽しく有益な人生であるのかもしれなく、人生の善きバランスとはなかなかに難しい”ものさし”であります。

「人生とは自己と自然との調整を言う」 by オイケン(新理想主義を唱えたドイツの哲学者)

 
■2023年7月10日(月)
■猫グッズは買いですね。(猫店員)
■2023年7月11日(火)
■一日一文章トレーニング。

「われわれは、おむすびから生まれ、おにぎりで育ち、最後におむすびの味を思い出すのかもしれない、おにぎりの民であります」

いやはや、昨日は暑かった。暑すぎてクーラーも連続稼働状態中でもある。自転車を直射日光の当たる場所に置いたならば、ほんの少しの時間でもサドルが見事にアチアチに火傷しそうな位に熱くなります。手でアチアチと触りながら、こんなにも熱いサドルに座れるのかと思うのですが、特段たるサドルの温度を下げる対処法もないので仕方なくそのまま座ります。風が吹いて涼しくなるかと思いきや、生温かい熱風が吹いてきて「こりゃあかん」と真夏の存在を身近に感じます。熱風に吹かれ木陰を探して進んでいると、他の人も考えていることは大体同じで日陰部分に人は密集します。密集することは暑苦しいけれども、こんなにも暑くとも多くの人々が出歩くようになるのを見ると「やっとこ経済は通常通りに動き出したのだな〜」と思います。

そして、今朝の空も真っ青なお空が広がってとても暑くなる予感。もう梅雨明けしたのではないかと思い調べたら、関東の梅雨明け宣言はまだありません。因みに、梅雨前線は現在、東北地方の辺りで前線の長さも随分と短くなっております。今後の天気予報を見ても晴れの日が続いているので、東京の梅雨明けももうそろそろではないかとも思います。過去の梅雨明け状況を調べたら、平年の梅雨明けは7月19日、去年は7月23日、7月前半の梅雨明けも過去結構な回数であります。

ということで。

梅雨明け後には梅干しを天日干しするフェーズに入ります。なので、梅雨明けの時期がいつ頃になるのかはとても重要なこと。昨晩は追加の赤紫蘇加工を行いました。赤紫蘇の仕込みの香りがとても好きで、もう1度赤紫蘇仕込みをしたいと思い再購入しました。赤紫蘇の旬ももう終わりを迎えてきているのか、葉っぱの鮮度も落ちて葉っぱがポトポトと落下します。新鮮な赤紫蘇の葉っぱであれば榊のようにハリがあることと比べても雲泥の差です。だがしかし、そこで新しい加工方法を考えました。それは洗浄前に葉柄を揃えて輪ゴムで止めること。そうすれば、そのまま輪ゴムに付いた状態で洗浄、洗った後はゴムの部分にS字フックをひっかけて乾燥させると一石二鳥でもあります。この方法だと乾燥後も葉柄の部分をむしり取ることが容易くて便利。

ボールに赤紫蘇を入れて塩をまぶし、ゴシゴシと揉む時の赤紫蘇の香りがたまらなく好き。この赤紫蘇の香りだけでもご飯一杯はいけそうな位に好き。このやたらと美味しい香りを堪能する為に再び赤紫蘇作りに励んでいることでもありますが、赤紫蘇を仕込む理由は「おにぎり」に赤紫蘇を入れるとめちゃくちゃ美味しいから。その為にもたくさんの赤紫蘇を作り保存しておきたいとも思う今日この頃。

この赤紫蘇を仕込んでいると、やっぱり、「おにぎり」は尊い食べ物だと思う。白いご飯に梅干しや紫蘇、じゃこに、お漬物、ねこまんまとその他おかずをトッピングして、お出かけ先で食べる「おにぎり」は格別に美味しい。「おにぎり」の別名は「おむすび」でもある。もし、「おむすび」をネットワーク的に解釈するとすれば、「おむすび」はその名称からも食べる人と何かを「結び」ついているとも解釈できます。それは、農家の人が育てくれたお米や食材などであり、ご飯を炊いて握ってくれる人の愛情や、旅に向かう人の安全を願い握ってくれる人の”思い”や”結びつき”かもしれない。そのような繋がりが三角形に俵型なカタチとして現れ出るのが「おにぎり」でもあります。その意味に於いても、この国は「おにぎり・おむすび」によって願いが込められ、結ばれている「おにぎりの民」の国であるとも言っても過言ではありません。いやはや、気温も暑いのに「おにぎり」について熱く語ってしまいました。赤紫蘇を仕込む段階から「おにぎり」を食べたくなります。

 
■2023年7月11日(火)
■近づいてきて、おしゃべりな猫。
■2023年7月12日(水)
■一日一文章トレーニング。

「朝から小さな収納ケースを漁る」

小さな収納とは細かく便利に使えるものではありますが、あまり使いこなせている感じもしないものでもあります。
それは「小さなものたち」の最終的な墓場のような気もしますし、使いこなすことができれば、役に立つ道具類が入った収納箱となるのかもしれません。

ここにミニ四駆のパーツ入れがあります。
ミニ四駆はガラスケースに飾られているものが1台あるだけで、わざわざパーツケースを持つ必要もないのですが、かわいいから買った容器でもあります。
手の平サイズの小さな容器に10セパレートされた仕切りがあり細かいモノたちを収納できます。
その収納部分の半分は買った時に入っていたクッション材を入れっぱなしにしております。
なので、10個収納の内、5つしか収納を使用できない中途半端なケースでもあります。
このクッション材のようなものはカッターで切れ目を入れて動かないようにする材なのかもしれません。
半分しか使えない小さな収納容器とは横着もそこまで極まったような気もしますが、このようにキレイにはまったクッション材にわざわざ捨てる理由もありません。
中にはヘッドホンのゴムやボタン、小さな人形、何かを挟めるパーツにネジ、SDカードと用途がわからないパーツが入っています。

さっそく、収納ケースに何が入っているのかを調べてみました。

中には、イヤーピースが30個。
ネットで調べたらヘッドホンのゴムのことをイヤーピースと言うらしい。
黒や白以外にも赤やピンク色みたいなキレイな色もあり、これだけあれば一生分安泰な数のイヤーピースを所有しているとも言えます。
それにしても、これだけのイヤーピースがあるということは、どれだけの数のヘッドホンを消費してきたのかという証でもあります。
詳細に分別すると大が18個、中が8個、小が4個。
小に限ってはどんな使い道があるのか?と思うぐらいに小さいサイズでもある。
イヤーピースとは街歩きすれば時折、道に落ちているもの。
音楽を聴こうと思った時にヘッドホンにゴムがないと物凄くガッカリすることでもあります。
ヘッドホンのゴムは一旦外れると急に外れやすくなるもので、直近の間に再び外れて紛失してしまう可能性の高いものでもあります。
1回目に外れる時は紛失から免れるものの、2回目以降はどこかに落としてしまう呆則はかなりの確立であります。
なので、取り換えるチャンスはたくさんあるのかもしれませんが、これだけの数が溜まっているということはヘッドホンの線が断線して壊れる確率の方が余程に高いのか?それとも。キャップがなくなったら新しいのを購入してドンドンとイヤーキャップだけが溜まっている現象なのかもしれません。
いづれにしても、数を数えたついでに黒・モノトーンと白透明カラー系に分けて入れ直してキレイに整頓しました。(満足)

次はかわいいLISMOのMicroSDと各種アダプター。
この手のメモリー関連でかわいいデザインは少ないのですが、これはかわいいSDカードです。
ただ、容量は1Gと少ない。
中に何が入っているかと調べたら、昔のイベントの商品写真などが入っていました。
何も面白味はない写真ですが、面白い写真っていうものも早々にないものでもあります。
携帯写真などを見返しても心揺さぶるようなものは何も無く、どーでもいい写真で溢れております。

他には、後ろに両面接着のシールが付いたクッションのようなものに、ミニ四駆のパーツかもしれない機械のパーツ1組、ストラップ用の洗濯ばさみが2つに、かわいいおばあちゃんの小さなお人形さん一つと、全てカタチの違うネジが7本とボタンが3つ入っています。
ボタンは服を買うと時折ついているものではありますが、そのボタンが役に立ったという経験もあまりない。
かと言って、ボタンだけが溜まるということもありません。
ボタンもネジも、いろんな場所に散らばって分散して保管されるものであります。
なので、これらは置き場として確立した方が良いのかもしれません。

正にガラクタ入れという名にふさわしい入れ物。
金目のものもが何もない。
だからと言って捨てる気にもなりませんが、オークションに出すと微妙に売れたりするのかもしれないと思わせる妙な雰囲気のあるコレクションでもあります。
本当に無駄なモノとはこのようなことだとは思うのですが、13.3×10×2.7センチの小さな収納の中に何かしらの宝物はあったでしょうか?
勿論1000年後にこのようなものが発掘されたならば、それはお宝に間違いありません。
恐らく、眼鏡をかけた学芸員の方々が刷毛やピンセットを使い貴重に掘り出して、これは何なのだろうか?儀式に使ったのだろうか?と頭を悩ますに違いありません。

 
■2023年7月12日(水)
■猫のステップ。
■2023年7月13日(木)
■一日一文章トレーニング。

「名刀ミニ四駆ピットケースの鞘に収まる」

ミニ四駆のパーツ入れにピットインするのはミニ四駆である。
以前、他のプラモデルに動力を移植するパーツとして購入したのですが、ミニ四駆の構造が意外と複雑であった為に改造パーツとして利用するのを諦めて、そのまま車として作ったものであります。
実車でもスケールモデルでもボディー色に「肌色」とは見たことのない趣味の悪い車であります。
ですが、ワンポイントの蛍光黄緑色を使い自分ながらにお洒落に気をつけた配色は施してはいる。
本来はモーターが欲しくての改造要員であったものの、作り出すと別売りの車体を安定させる真鍮製の重りまで購入してなかなかのやる気になっている四駆でもある。
車の顔と言えば、ヘッドライトの目が特徴的ではありますが、この車はそのままに、昭和の漫画を彷彿させるような、うるうるなデカ目で描いています。
ヒゲのようなバンパーも肌色に塗装し多少不気味に生やしているところがお気に入りなところでもある。

関係ないけれども、そう言えば、最近の車はバンパー無しなデザインの車も多い。
バンパーとは実車にとっては死語なのかもしれない。
そして、背の低いミニバンも絶滅危惧種のように見かけことも少なくて、おらおら系の大きくてイカツイ車が道路を席巻します。
その反対に小さなボディーのジムシーが人気であることを考えると、車に対する嗜好は伝統的な車らしい小さな四角いカタチと、大きくてイカツイオラオラした未来的な車の2極に分化しているようにも思います。
個人的にはオラオラ系デザインはアメ車衰退期のアメリカ国内だけでうけた奇抜なデザインの末裔のような気もします。

ミニ四駆は電池も入ったままに飾られてなかなかの重量感もあります。(166g)
個人的には大変気に入っているので捨てずにガラスケースの中に飾っております。
窓際のガラスケースには紫外線の影響も受けるかもしれないので、市販品のフィギア等は飾らずに自分が作ったものだけを飾ります。
ガラスケースに飾ると、とりあえずは自作のモノがゴミでないアピールはできるのは良いところではあります。

ということで、

昨日のお昼はステキなフレーズが思い出せずにうとうとと少しの間、寝てしまいました。
この昼間の微睡む時間とは常に手足が痺れて目覚める呆則です。
まるで、短時間で数時間も寝てしまったような充足感はすばらしい。
「果報は寝て待て」とは本当のことかもしれなくて、一つのワードが閃きました。
本当にひと眠りして良かったと思える位の睡眠です。
「果報」とは「因果応報」のことで、仏語で前世の因業(いんごう)に応じて果報・運に恵まれた幸せなことがやって来ることを意味します。
善い行いには良い果報が。
悪い行いには悪い報いが返ってくる例えでもある。
これらは人の力ではどうすることもない運命のようなもので、「果報は時期がやってくるまで静かに待ってろよ!」ということらしい。
これは実が熟することにも通じているような気もします。
何も思いつかない時には寝て転がっていたならば、前世の報いか何かで向こうからやってくることは好都合でもある。
我らが我らの為の横着の味方みたいなお言葉でもある。〜ありがたや〜
働きバチの動きを続けても得るものも多々ありますが、寝て待っても得ることはあることは面白きことでもあります。
残念なことは、今朝起きても何の果報のフレーズも生まれていなかったこと。
ただ、この文章の構成等のカタチだけは寝ながら考えていたので、「本当に欲しいのはそっちじゃないんだよな〜」と思いながら今文章を書いている。
ピリリとスパイスの効いたアイデアを思いつかない時には辞書でも雑誌でもひたすら頭の中にぶち込んで、「諦めの夏」みたいな感じに転がって、その内に眠りにつくことは頭の中の情報が整理されるような感覚はあります。
ただ、「寝ながら考えているのだ」の行動には、「見た目が体を表している?」な人を説得させる要素が何もないことが問題でもあります。
皆が転がって寝ながら考えだしたら、それは横着の国の完成でもあり、それはそれで問題でもあるような気もします。
わたしには、自分がこんな感じでもあるので、心のどこかでにはパチリと真っすぐで真っ当な人は常にいて欲しいと願うタイプでもあります。
そこで、善いことを考えました。
そんな「寝ながら考えているような横着人」に対して活躍するのが、この荒ぶるミニ四駆なのかもしれません。
電源スイッチを入れると「その物、何の服を纏わずに、金色の野に降り立ちて、横着共をなぎ倒す・・・by ババ様」。
どこかで聞いたようなフレーズではありますが、このミニ四駆とピットケースがゴミではない重要な発見でもあります。
このミニ四駆は因果応報な果てに寝ている奴らを起こす重要な役割を持った正当な武器でもある。
博物館に置かれる「名刀政宗」の横にそっと置いて帰りたい、「刀語(かたながたり)」みたいな名刀です。
よって、このミニ四駆は決してゴミではありません。
このミニ四駆とピットケースは正真正銘の正当な武器であります。

 
■2023年7月13日(木)
■リズムをとる誰猫。
■2023年7月14日(金)
■一日一文章トレーニング。

「落ちた笹かまを洗って食べる」

今朝は涼しい。

昨日、冷蔵庫の中から開封して残っていたの仙台笹かまを発見する。
消費期限は2日間程過ぎていたが、何か得をしたような気分にもなり食べる。
冷蔵庫の中とは魔境でもある。
少しものを動かしたりするとすぐに後ろの方に埋もれてしまい忘却の食材と化すことは多々ある。
そのような冷蔵庫の棚はフラット置きが基本ではあるが、お店の什器のように角度を付けて置けるようにし加工したら全体を見渡すことができるのにと思ったりもするが、重ね置きできなくなると、それはそれで不便でもあるので、やっぱり平置きの方が良いのかもしれない。
袋の中には笹かまぼこが2つ。
小腹が減って何かをパクリと食べたい時に冷蔵庫の中で冷えた「かまぼこ」や「チョコレートお菓子」はお腹の救世主でもある。
「チョコレートお菓子」は結構常時、冷蔵庫に入っていますが、「ちくわ」や「かまぼこ」が冷蔵庫に入っているのはレアケースでもある。

さっそく、笹かまを食べようとしたら、あのプルプル食感である故に手から滑り落ちて机の上を2バウンド後、床の上に落下した。
なので、水道水でキレイに洗い流して食べる。
我が家の床は特別にキレイでもあるが、最近はビーサン生活でもある。
なので、もしかしたら、裸足で歩く床は少し汚いのかもしれない。
家に帰宅しても、足は汚れていないという自己判断からお風呂場直行して足を洗うことはないが、時折、足のざらつきを感じることもあるので、足は必ず洗った方が良いのかもしれない。
笹かまを拾って食べる時に、そのようなビーサン生活が頭をよぎる。

ルールと言えば、床に落ちてからの3秒ルールも変な話です。
スナック菓子など乾きものだと水で洗うことはできないので仕方のないこともありますが、3秒ルールとはいろんな地方の人と話してもやっぱり3秒であるような気もするので、日本全国の共通ルールであると思われます。(調べたことはないけれども)
目に見ない細菌などを毎日顕微鏡で見ている人や衛生面に特に気を使っている人にとれば、拾ったものを口にする行為は発狂レベルの行為なのかもしれません。
ですが、私でも目の前にいる人が3秒ルールで落ちた食材を口にしても、丁寧に洗って食べたとしても間違いなくドン引きします。
こういう些細な価値観みたいなものは、自分が行う分にはOKでも他人がする行為には厳しいものであります。
こういうのこそ、「客観性が足りない」という言葉がぴったりとくるような気もする。
落ちたものを3秒ルールで食べた人を前にして「いいね」とはやっぱり言えない。
真顔の無反応もちょっとおかしい。
なので、そこは一緒になって競って食べると相手も我に返ってくれるのかもしれないwww。

これは文章構造から考えると、「出来事」に対する「その人の価値観が試される対話」でもあります。

「落ちたのを食べますか?疑問形(メッチャ失礼)」や「食品ロスについて語り出す(こわい)」「サイキックパワーを発動させて浮かせる(できたら良いな)」「腕をぶんぶん回して遠心力で細菌類を完全に飛ばした体にしてから相手の手平の上に置いてお裾分けをする( 一一)」「落ちているのを気づかないフリをする(鬱陶しい)」あ〜 エッセンスの効いた感じでスマートに切り返したいと思ったけれども、もう全部面倒くさい。
やっぱり、順当に落ちたものは捨てることが順当な人間のやることなのかもしれません。
ですが、やっぱり、笹かまは洗って食べてしまうような気もします。
そもそも、大人たる者、食べ物は落とさずに食べて欲しいものであります。
1つ落下させるとそれに釣られて他のものもパラパラと落ちだす呆則もあります。
新調した服を着ている時にこそ、ポトポトと食品が落下する確率も上昇します。
普通にご飯食べていても忘れているだけでポロポロ・ポロポロと食べ物を落とはよく落としていることもあります。
精進料理を食べるように、食べる事に精進することが足りないことが笹かまを落としてしまう原因かもしれません。
精進とは心を打ち込んで努力することです。

ところで、

「ちくわ」も「かまぼこ」も同じ魚のすり身で、お肉に例えるとハンバーグに近い食品でもありますが、それはジューシーさのない加工食品です。
ネットですり身にする魚の種類を調べると、適した魚の種類がそれぞれあって魚であれば何でも良い訳でもありません。
焼き方や加工技術などによって種類が変わってくるようであります。
そんな、竹ちくわや笹かまなどの好物が冷蔵庫にたっぷりと入っていれば、それは一つの幸せのカタチでもあります。

 
■2023年7月14日(金)
■足をぶーらぶら。
■2023年7月15日(土)
■一日一文章トレーニング。

「良いモノには手にした時の感触でビビッと伝わるものがあります」

いやはや。

昨日は夜9時前からお風呂に入ってごろごろと転がり、そのまま寝ておりました。
令和5年に開発した寝る前からごろごろしてお風呂上りの体温を下げることは良い習慣なのかもしれません。
まだ、体が暑い時に寝ようと思うと本当に暑くて寝れない寝苦しい夜が続きます。
布団の上でネット見ながら、ごろごろしていると体に籠る熱もいい感じに奪われて、その内に気持ち良く寝れる体の状態にもなります。
昨晩は夜の12時頃に一度、目が覚め。
約3時間睡眠で朝がやってきたと勘違いの目覚めではありますが、一杯のお茶を飲んでから再び床につきます。
そして、朝、7時30分過ぎに本当の朝がやって来て目覚めるので約10時間以上の寝すぎぐらいのたっぷり睡眠です。

最近、12時台に朝が来たと勘違いして目覚めることが多い。
例え、11時に寝たとしても約1時間の間に疲れを取り去るような短時間の質の良い集中睡眠で、やっぱり12時頃に「朝が来たのか〜とふっ」と目覚める。
目覚めの直前とはとても気持ち良い睡眠です。
1回の睡眠で2回の朝がやって来ることは随分得した気分にもなる。
昨日は流石に3時間以上寝ているので、スッキリとした目覚めで、もう寝れないのかもしれないと思っていたら、その内に寝ていました。
そのような寝る直前に考えることは、全くのノープランの中で「明日の一日一文章トレーニングをどうしよう」と思うこと。
それは「諦めの夏パート2」みたいな感じでもあります。
「何を書こうか?」と、もやもやとキーワードや文章構成を考えていると、そのまま寝落ちしているパターンです。
たまに、夢の中で本当に新しく文章内容を考えている時もあるのですが、そのようなラッキーなことはほとんどなく、大体は虚無。
もし、何かを考えていたとしても夢の中の事は、朝起きたら霧散する儚い夢でもあります。
なので、一日一文章トレーニングを書くことは「気合と根性と無鉄砲と努力と適当さ」が必要なことが、たぶん間違いないことであります。
クーラーがよく効いた部屋の中でたっぷり睡眠できたことは良き事也。

ということで、良く寝れました。

昨日、梅干しを干す為のザルを購入しました。
おばあちゃんが経営している倉庫のようなお店で素敵な竹ザルを買いました。
ザルは店内の奥から埃まみれに掘り起こされているので結構ドン引きする程の、なかなかに年季の入ったザルでもあります。
おばあちゃんは「洗って使ってね」と言っていたけれども、勿論、言われなくとも真っ先に洗って使います。
竹の色具合から見ても、数十年の歳月を棚の守護神として守ってきた感じもするザルである。
失礼で罰当たりかもしれませんが、これを製造した人はもうこの世の中には存在していないのではないかと思ったりもする年代物のザルでもある。
ですが、私はこの竹ザルを手にした時にビビッと感じるインスピレーションの良さを感じて好きにもなります。
竹を等間隔でキレイに編む丁寧なお仕事、この商品が作り手の性格まで体現しているようにも感じる竹ザルでもあります。
もし、私が製造者だとすれば、自分の作ったものが末永く壊れずに人に愛されて使われるようにイメージしながら作るものだと思われます。
それはその人が例え死んでしまったとしても、その人の分身である「もの」は長く大切に生きて使われることを意味するようにも思います。
「良いもの」は作り手の人生を超えて長く愛用される感じです。
ニュータイプみたいな事を言っていますが、「ものと私」の直感的に何となく感じるフィーリングが会う感じ。
私はこのザルを使い自分で作った梅干しはこのザルで干したいと思いました。
商人はそんな「もの」に価値を見出し、必要とする人に繋ぐお役目のお仕事でもあります。
そのような循環が「限りある資源を大切にする」ことなのかもしれません。
商品をもりもりと、大量生産、大量消費というのは私たちが生きて来た道でもあり、人生そのものでもあります。
この竹細工を手にした時に「もの」を作った人の思いや、それを大切に使いこなしたいなという気持ちになったことは大きな発見でもあります。
今のところ一年に1回の梅干しの天日干しの予定しかありませんが、干物でも何でもこの夏の強烈な紫外線にバチバチと当てて美味しい食材をたくさん作りたいと思います。
サイズもたっぷりと大きいので、梅干しもゆったりと並べることもできます。
今年の梅雨明けはいつ頃になるのでしょうか。
早く、梅干しを並べるのが楽しみだな〜。

 
■2023年7月15日(土)
■猫さん合唱団低いところの担当。
■2023年7月16日(日)
■一日一文章トレーニング。

「裸足生活推進組合のお話」

ビーサン生活も数日たち、サンダルにまつわる事柄について記載します。
先ず、裸足に外気が触れることはとても気持ち良い。
曇り空でも真夏の日差しの中でも裸足にサンダルは東京リゾート気分を楽しめる唯一の方法です。
サングラスをかけてより浮かれるのがより正しいビーサン生活です。

B)
気になる部分は階段を下る時のパカパカとうるさい音。
足とサンダルを支える支点は一つしかないので絶対に音は鳴ります。
解決方法はくるぶし部分でも支える高価なサンダルを購入すれば、アホっぽいパカパカ音も鳴らさずに静かに階段を下ることもできるのかもしれません。

A)
昨日はサンダル履きで長距離を歩き、サンダル・ズレと言うべき「靴ずれ」を起こします。
歩く度に痛いので、痛くならないように気を使って歩いていると、のろのろ歩きとなります。
なので、どんどんとスニーカー族に追い抜かれて老人になったような気分です。
そのようなことを考えるとスニーカーとはすばらしき発明ではあります。
だがしかし、
ここは裸足生活をもっとアピール推進組合でもあるので、裸足の気持ち良さについて書かなければなりません。
今日からは擦れ傷の部分に絆創膏を貼って対処方します。
昔はサンダル履きでも走ることはできました。
どうやって走っていたのだろうかと思うサンダル走りです。
信号機の点滅には走ると擦れが痛いしコケるかもしれないので信号待ち。
「慌てな〜い 慌てな〜い 一休み 一休み」で、移動時間は必要以上にかかります。

D)
ということで、歩いて靴ズレの痛みに耐えることはもうできないので上野には自転車を使って移動します。
前回の不気味なこともあるので、自転車は地下の自転車置き場に置かず、地上に置きました。
ですが、帰り道、やっぱり足はつりそうになった。
「何だろうね?」先週と今週の2回連続、あそこに行く度に足がつりそうになる現象は不思議なことでもあります。
何かしらの変な暗示のようなものをかけているのかもしれません。

サンダル状態で足がつりそうな状況になると良いこともあります。
それは、裸足であるので、正常な足と、足のつりそうな足で指の異なりを観察できます。
普通の方はしっかりと指が閉じた感じですが、足がつりそうな状態の足は足の指が普通の状態よりも遙かにムリに「パー」と開いています。
足の指が足指を開ける健康器具を付けた時のように開いているので、足がつりそうになるのも仕方が無き事。

C)
鮮魚売り場には生きているドジョウや沢蟹が売られており、食べる目的ではなく飼育してみたいな〜と思いながら売り場を歩いていたら、私のサンダルの後ろ部分を踏んでいる知らないおっさんがいます。
足が「ガタっ」となり振り返ると真顔のおさっさん。
サンダルは全ての靴に対して脆弱です。
上野のようなごちゃごちゃした街を歩くと道も汚く足も汚れます。
安全靴みたいな固そうな靴やスニーカー族の軽快に交差しながら歩かないといけないと考えるとなかなかに危険でもあります。
ビーサンは慎重にゆっくりと人混みを避けて歩かなければならないので、人の多い街に出かける時には靴の方が安全かもしれません。
踏まれると痛いだろうし、特に鮮魚売り場は床面が魚売り場の水で濡れており、その液体が足につくことはとても気持ち悪いこと。
なのに、知らないおっさんは真顔で私のサンダルのかかとをそんな汚い液体を踏みしめた固そうな靴で踏みつけております。(マジ頼む)

3連休なので、ゆっくりと小品(小話)みたいなものを書いてみようかとも思ったのですが、結局のサンダル話でもあります。
ネタ不足も極まりてビーサンでサンダル擦れを起こす話を書けれども、Threadsには未だ擦・スれることもありません。
「投稿したスレッドはまだありません」の状態は寂しいので何かアップしたいと思うのですが何をアップすれば良いのかわかりません。
そのような状態でもあるのに、どーでも良いビーサン話を長々と書けるのはよくわからないことでもあります。

因みに、今朝、寝ながら考えていたことはビーチサンダルのこと。
夢の中で「ビー3、ビー4、ビー5」と何が面白いのかわからないダジャレを繰り返していました。
なので、眠りの質も悪く、悪夢のように寝起きも悪い。
そう言えば、A4、B4のBサイズの紙は日本にしか存在しない特殊サイズの紙でもあります。
ヨーロッパ大陸は大体A規格であり、同じ島国のイギリスは発明者でもありながら変な規格サイズあり、同じ島国のような大陸アメリカもリーガルサイズみたいな変わった規格です。
コピー用紙の企画から世界を眺めると大陸ヨーロッパの思想とは規格サイズで世界に影響を及ぼす下心がまんまんで、日本の細かく規格を規定する面倒なとことはヨーロッパ大陸譲りだと思われます。

 
■2023年7月16日(日)
■はもりねこ。
■2023年7月17日(月)
■一日一文章トレーニング。

「お家の難題を何でも解決、お助けシャーロック、S字事件」

いやはや暑い。

昨日のタブレットの外気温表記は35度。クーラーをガンガン効かした部屋の中でも暑さはやっぱり暑くてクーラーがこの世になければと考えると恐ろしく殺人的な暑さでもある。こういう暑い時は事件の香りがするものでもある。今朝の外気温でも31度ある。間違いなくこれは事件でもある。今日も暑くなるのは間違いないだろうが、今朝の天気図を検索すると梅雨前線は消失しているので、はて、梅雨明け宣言はもうそろそろかと思うのですがいかがなのだろうか。梅干しについては、この天気で、この暑さでもある。天日干しは今日から干しても良いのではなかろうかと思ったりもする。暑さで脳みそも体もオーバーヒート気味で「暑い寒い」の「暑いだけ」のフェーズにも入りましたが、事件はいつも突然やって来るものでもあります。

今回の事件は用途不明の謎に長いS字フック。小さいS字フックはどこの家にでもあるものではあるが、大きくて長いS字フックはどこの家にもあるものでもないものかもしれない。その意味では特殊性のあるものとも言えるので、このS字フックに注目することは事件を解決する鍵である可能性は高い。これはドアに引っかかっただけで、何かに使用されることもなく、単にドアにぶら下がっているだけの大きくて長いS字のフックでもある。間違いなく家の中で使われないものの筆頭角である。ですが、そんなにも邪魔になるようなものでもなく、静かに毎日ドアに引っかかるS字フックである。シャーロックの入れ知恵を借りるならば、常に物には何かしらの用途はあるものかもしれないと考えることが妥当なことである。なので、このものにも何かしらの使命があるはずである。

長いS字フックは56センチで3本。
短いS字フックでは23センチのものが1本と、28センチの長さのものが1本ある。
ベランダの物干し竿には植物をぶら下げるのに1本使用している。

これは以前カバンや帽子などをドアにひっかける時に使用していたものである。だがしかし、現在は使用されていないものでもある。使わない理由は一つ。ひっかけて飾る収納は大変便利であるものの、実際に部屋の壁面にどんどんとひっかけて収納すると一見スッキリとしたように感じる部屋が、俯瞰して眺めると雑然とした圧迫感もある暑苦しい部となる。そのような理由からはS字フックを使った引っかけ収納はほとんど使わなくなる。こんな猛暑のうだるような暑さである。部屋をすっきりと整然に爽やかであって欲しいと願うことは当然でもある。S字フックは100均などで売っているような安いものであり、この数年間全く使用していないものでもあるので、「数年間使っていなければ、そんなモノはとっと捨ててしまいな」と囁き女将の声が聞こえてくることが現代社会のセオリーでもある。

そのような理由から捨ててしまおうかと手に取ったS字フックからシャーロックの脳天にピピーンと閃光が走る。

「ワトソンくん このS字フックは捨てるにはちょっと勿体ないのかもしれない」

「洗濯ものを部屋干しする際に活躍するのがカーテンレールである。カーテンレールの場所は洗濯ものを干すには丁度良いスペースでもある。部屋干しをする洗濯ものを掛けることのできる場所は部屋と部屋の境界や、このカーテンレールのスペースしかないというのが正しい。窓際に洗濯ものを干せば紫外線も当てて殺菌することもできるのかもしれないと考えると、部屋干し洗濯物は窓際のカーテンレールに干すことは妥当でもある。曇り空と言えでも紫外線は常に地上に降り注いでいるものでもある。ただ、洗濯物の間隔が狭すぎてくっついてしまうと半乾きや乾かなかったりもすることもある。そこで、思いついたのが、この大きなS字フックである。先ず、洗濯物をカーテンレールに掛ける。次にこのS字フックを使い段違いに洗濯物を干すと、洗濯物と洗濯物の間が干渉することもなく窓面に掛けることができる。頑張れば通常2倍の量を乾かすことも夢ではないかもしれない。洗濯物同士もくっつこともなければ、半乾きの心配もなくなり一石二鳥である。ワトソンくん、これがやたらと大きいS字フックは捨てる必要ないという解答である。物は使ってこそに価値が生まれて愛着も生まれてくるものなのだよ。」by シャーロック

 
■2023年7月17日(月)
■にゃおにゃみゃお。
■2023年7月18日(火)
■一日一文章トレーニング。

「ネタバレ無しの映画感想」

昨日も暑かった。
暑くて、暑くて、暑かったのでディズニープラスに入会して映画三昧。
「AVATAR1(以前映画館で観た)」を観て、「AVATAR2」を観ようとしたらメーキング映像しか無かったので、「あれっ」おかしいなと思い、次に「ピーターパン&ウェンディ―(2023)」を観ます。
その後、一覧をスクロールして視聴可能なものが子供フィルターのかかったような番組ばかりで、何かおかしいなと思い調べてみたら、大人な番組にフィルターがかかっていました。(>_<)
そんな18魔法を解除すると「AVATAR WAY OF WATER(2023)」を観れた。

映画の感想は一言で言うと「(1)スゴイ」。
CG映像も普及して、どんな映像を観ても何も驚かない私でもありますが、未だかつて見たことのない美しい映像の連続に感動を覚えました。
勿論、どの最新作にも映像の凄みはあるものではありますが、「アバター2」の映像は全体を通して美しくて「スゴイ」。
このような映画全体を通して「スゴイな、スゴイな」と思うことは、「TOY STORY(1)」の映画を観た時以来の感動でもあります。
「ウッディーが動き、シドも動いている、シドの犬も走っているよ」と始めてみた全編CG映像に度肝を抜かれた感動は今も記憶に刻まれております。
勿論、「AVATAR1」を観た時にもそのような映像に感動はしましたが、その映像美は1を飛びぬけたものがあると思います。
途中、別の惑星のドキュメンタリ−を観ているような気にもなり、そんな生物たちの生態を学んでいくように映画上の登場人物に感情移入していくことにもなります。

映画の感想「(2)長い」
3時間以上ある長編映画であり、1も十分に長かった。
ですが、どっぷりとその世界観に浸かることができれば、あっと言う間の3時間でもあります。(888)
映画は映画館で観ることが常識ではありましたが、今や生活のスタイルは変わり最新作も自宅で観られる時代でもあります。
一般的に映画を映画館で観るとなれば、人は中央寄りや通路の空間が開いた席を予約するように、その周辺に人は集中します。
私はどっちかと言うと、映画の席はババくじを引く方なのかもしれなく隣の人の挙動などで外れも多い。
そして、3時間もの長編になると途中おトイレに行ってしまうことも多々ある。
映画の最終局面、タイタニックの海に沈む感動のシーンで私はおトイレに走っていました。
そして、もう1回映画館に行くことになります。
映画業界人にとっては何よりもの光明かもしれませんが、良い映画とは2度観ても面白い映画でもあります。
映画館に行くと途中出入りする人たちがいて映画の内容がつまらないのかと気にもなりますが、私の場合は「ヤバっ」と映画のクライマックスと共に急降下して単におトイレに向かって走るランナーでもあります。
そういうのが1回、2回ではなく何回もあるから困ったもの。
特に冬山の吹雪や水がチャプチャプする映画にはおトイレもようも強いものである。
本屋に行けばおトイレに行きたくなる人と同じような感覚です。(たぶん)
ということで、「AVATASR WAY OF WATER」を自宅で観賞できて良かった。
遮光カーテンをし、暑さも忘れてどっぷりとトイレ休憩もせずにノンストップでアバターの世界にはまることができました。

アバター2の感想「(3)もっと続きを観てみたい」。
恐らく、アバター1の世界情勢はラピュタの飛行石のような鉱石の資源開発が背景にあり、アバター2は惑星が荒廃して入植準備みたいなバックグラウンドも見えます。
3作目では見たこともない大勢のスカイ・ピープル移民が大挙して来るのかもしれないことを予測できます。
そんな続編を期待させるお話でもあるのでアバター3は今からとても気になるお話でもあります。
この映画は侵略とか入植とかの人類の経験してきた黒い歴史をそのままなぞった人類史、若しくは、神話のようなお話でもあります。
以前にも書きましたが、私たちの文化は目に見えない部分(芯)で裸足生活をしております。
一方で可視化された部分に於いては欧米化した靴を履く文明国のような生活もしています。
その意味では最もニュートラルに近いアバターで言うところの混血種というか二つの顔を持つ橋渡しできる特殊な存在でもあるような気もします。
恐らく、このような文明と文明が衝突する時にはそのような狭間にいる人たちの活躍が重要となるはずです。
そんな意味であればこそ、日本とはとても文化的にも宗教的にも八百万の神様でもあり、多様性に富んでいるとも言えます。
一般的には日本文化とは多様性は無き単一性であること言われることは多いのですが、目に見えない部分では多く多様性や曖昧さを内包しています。

「AVATAR WAY OF WATER」はジェームズ・キャメロン製作・脚本・編集・監督という肩書からにしても、全てを統括しているから体現できた世界観であると思います。
映画はそんなにたくさん観ている訳ではありませんが、とても面白く好きな映画でした。

 
■2023年7月18日(火)
■にゃおカイト。

■2023年7月19日(水)
■一日一文章トレーニング。

「直感がとらえるもの と 経験値に収斂するもの」

最初の1枚とは偶然性・直感等、被写体の第一印象を感じたままに写し撮る1枚なのかもしれません。

構図も大して考えることもなく、ただ単に撮るものを画角のフレームに収めてパシャリ。
最初に撮った「おにぎり」の写真と最後に撮影した「おにぎり」を見比べると、一枚目の写真の方が荒々しさ(粗々しさ)や、野性味と雑味を持っております。
とりあえずのビールのように、とりあえず写真に収めた「おにぎり」感でもある。
デジタル写真は何枚も撮ってもメモリ分だけ撮れるので、できるだけたくさん撮影してその中でも一番キレイで見栄えの良い写真を選ぶことがデフォな行動でもある。
複数枚撮影していれば、中には構図もピントもまともな写真が数枚あるものです。
そして、面白いと思うことは撮れば撮る程に微修正されて、当たり障りのない無個性な写真に収斂されていくような感じもします。
そのような呆則を考えながら撮影した「おにぎり」はどうでしょう?
あまり変化はないと言えば、その通りではありますが、1枚目の「おにぎり」には若干の平衡感覚が足りないような気もします。
構図のズレは良い意味に解釈すると、それは静止画に多少の動きがあるようにも感じます。
ラスト1枚は平均的な「おにぎり」な構図。
「おにぎり」を撮ると言えば、「おにぎり」が置かれている状態をそのままに前から具が見えるように撮影するのが一般的だとは思ので、素人のカメラマン100人集めても皆、多分このような写真になると思います。
もしかしたら、何度も同じような動作を繰り返す行為は深層の美意識にどんどんと収斂し固定していく行動であるのかもしれません。
そのようなことを考えるとアラーキーさんが安物カメラで気が向くままにパシャパシャと写真を撮るという行為には、そんな美意識の固定観念に留まらにようにする偶然性に期待した写真なのかもしれません。

ということで。

「おむすび」です。
先日、ネットを見ていたならばカレーの2日目やご飯などがカビたり、腐ったりしやすいという記事を見ました。
最近、猛暑で暑くもなり食べ物を痛みやすい時期でもあります。
そのような記事を読むと素直な私はものすごく気になります。
なので、先日、残りご飯で作られた「おむすび」を蒸し暑い常温の食卓の上に放置せず冷蔵庫保管しました。
冷蔵庫と常温だと常温保存の方が柔らかくて間違いなく美味しい。
冷蔵庫保存の「おむすび」の味はご飯が固く、冷たくなった感じです。
まだ、温かいご飯の「おむすび」にラップをかぶせると留まる湿気には昔から多少気になる水分です。
そんな水分からカビ等が繁殖してお腹を壊したならば元も子もないとは常々思っていました。
食品の注意喚起なネット記事など読むと、そのような心の奥底にある、あらぬ記憶を呼び起こしてしまうものであります。
昔風に竹の皮に包んだ「おむすび」であれば、湿気も程よく自然に換気されるかもしれませんが、ビニール製のラップだと水滴に逃げ道はありません。
そのような水滴の持つ湿度や温度がカビや菌にとってもご馳走なのかもしれないと思うと則、冷蔵庫行きです。
科学的な根拠は何もありませんが、「おむすび」についたカビが繁殖に最適な環境であれば爆発的に増えることもあるかもしれません。
冷たくとも「おむすび」の味は美味しいもので、どうせ、冬の寒い時期の常温でも冷蔵庫の中ぐらいにキンキンに冷えた「おむすび」を普通に食べていたこともあるので、暫くの暑い時期だけは冷蔵庫に「おむすび」を保管しましょうか。

「おむすび」はカツオと昆布がべローンと飛び出た雑おにぎり。
「おむすび」の上には自家製の赤紫蘇をのっけると、さらに美味しくなります。
「おむすび」とは美味しくて尊い食べ物であります。

 
■2023年7月19日(水)
■ガーデン。
■2023年7月20日(木)
■一日一文章トレーニング。

「剥がれない絆創膏の貼り方について」

日向から木陰に入ると砂漠から避暑地に入ったような心地良さ。
木々の隙間を流れていく風も気持ち良くて耳も澄ませば微かにセミの鳴き声も聞こえてきてきます。
もう夏であると、そんな気持ちに感じる日差しです。
そのような夏の暑さの中をビーサン移動していると靴ズレ部分も痛くなります。
大人が平日の昼間からビーサンであることはヤバき事柄なのかもしれませんが、今年の夏は脱文明人らしさを体験する為に靴脱ぎ生活を実践します。
ただ、唯一の困り事は靴ズレ(サンダルズレと言うのかもしれない)していること。
先日のサンダルの長距離移動で靴ズレた傷は完治していないので、歩く度に痛みます。
そこで、絆創膏を貼って痛みを緩和させているのですが、足に貼る絆創膏はすぐに剥がれてしまうことに困っております。
多い時には1日に3回程外れて貼り直しすることもあります。
原因はどこにあるかと、マイ足の油が強いのかもと考えたりもするのですが、マイ足はオイリーというよりも寧ろ干からび気味の足でもあります。
そこで、足の動きをよく観察してみると、どうやら足は想像よりも可動範囲が大きく、その為に絆創膏も剥がれやすくなっているようでもあります。
絆創膏を足に貼るのは見た目にも格好悪いので、最初はAのパターンで貼っておりました。
この貼り方はサンダルのひもに隠れて絆創膏が目立たない貼り方でもあります。
逆の足に同じAの貼り方でセロテープを貼って、足を動かしてみると図のような感じで接着部分は剥がれます。
テープとテープの両端が浮いて剥がれると絆創膏は落ちてしまうことは当然の結果でもあるので、要は両端が外れないようにしっかりと接着すれば絆創膏は落ち難くなります。

一日に1回は見かけるのかもしれない道に落ちたマスクを拾うことは気持ち悪さナンバーワンの落とし物(ゴミ)でもありますが、落ちた絆創膏を拾うこともなかなかに味わい深い気持ち悪さです。
自分が落とした絆創膏とわかっていても、絆創膏を拾うことが気持ち悪いことを考えれば、これら2つは街中で最もゴミ拾いしたくない2巨塔と言っても良いのかもしれません。
なので、絆創膏が落ちない貼り方を研究します。

Bは意外と外れにくい貼り方でもあります。
全く落ちないとも言えませんがAよりも断然しっかりと接着しております。
この貼り方は絆創膏を貼るとなれば、誰もが最初に思いつくような基本的な貼り方でもあります。
絆創膏でも基本に忠実な貼り方をすれば足の複雑な動きにも順応して外れにくくなることは少し面白き発見でもあります。
絆創膏が外れにくいポイントは図のように両端のテープが真中部分でしっかりと接着していること。
要はテープの端部分で肌と接着しているので、絆創膏は外れることはありません。
絆創膏の両端部分が外れてしまうと、真ん中のキズパッド部分に粘着はないのですぐに落ちることとなります。
この貼り方の難点は足に絆創膏を貼っていることは見えることであります。
しかし、落ちた絆創膏を1日に何回も拾うよりもましな事でもあります。

ところで。

絆創膏という漢字は絶対に多くの人たちが書くことが出来ない漢字の一つでもあります。
先ず「膏」の字、細かい部分がどうなているのかわからない難しさもあります。
「膏」は私の持っている辞書にも記載のない言葉でもあり、ネット検索によると「膏油」という粘性のあるという油の意味が由来っぽい感じです。
昔の人は傷口に粘性のある油を塗っていたのかもと思ったりもしますが、傷に塗る粘性の油と聞いて思い出すのがメンタム等の軟膏を思い出すので、ああいう事なのかもしれません。
確かに傷口に軟膏を塗っていれば、結構何でも治るものでもある万能薬でもあります。
「絆創膏」は絆を創造して膏油を塗るという変な漢字でもあります。
創の言葉からしても、「絆創膏」の発明は当時、大発明であったのかもしれません。
「傷・キズ」は「絆・キズな」の駄洒落のようにも思えますが、ネットワーク脳的に解釈すると、「傷とその原因」には絆と呼べるかどうかもわかりませんが、何かしらのネットワークな繋がりを見出すことは可能です。
この2〜3日は「絆創膏」の「膏」の難しい漢字を覚えているかもしれませんが、4日目には「バンソウコウ」と書いている予感もします。
「膏」の漢字の詳細がわからなくとも、「絆創膏」と読むことができるのは人間の曖昧さ適当さの集大成を感じさせる認識能力でもあります。
しかし、数秒後の今、「膏」の下の部分が1本だっけ、2本だっけとなっているので自分がいるので、数時間後には忘却膏となっているのかもしれません。

 
■2023年7月20日(木)
■ガーデン・ニューズペーパー。
■2023年7月21日(金)
■一日一文章トレーニング。

「ああ〜本物を見極める眼力をつけたい」

「明鏡止水」の理を表す。
「曇りなき鏡」と「静かに澄んだ水」の意。
心にわだかまりなく落ち着いていること。

青い青空をも写しとる、透き通ったこの赤い食べ物はゼリーであります。
色鮮やかな赤、「ぷるる〜ん」と震える鏡面には何かしらの体に悪い成分が詰まったような感じも漂います。
街でこのような食べ物を食すると間違いなく体に悪いものがイッパイ混入しているな〜と思う。
味は美味しいけれども、やっぱりどこか駄菓子感も強い。
私にはそれが本物なのかジャンクフードなのか見極める目や舌もありません。
ただ、一つ言えることは、この食べ物が見かけのジャンキーさに関わらずに天然素材のみで作られたデザートでもあるということ。
赤い成分は露茜の梅ジュースから抽出した成分であり、そこにゼラチンを加えて固めたものでもある。
市販のドリンクを使えば、中身はよくわからないもので着色料や保存剤なども入っているかもしれないが、自家製の梅ジュースからの仕込みであるので全て完全な手作りの余計なものも一切入っていない。
使用したのは露茜という品種の梅と氷砂糖に消毒用にアルコールスプレーをかけただけ。
体に悪いものは100%入っていないと言い切ることもできます。
唯一、少し体に悪いかと思うのはたっぷりの氷砂糖が溶け出したジュースであることぐらい。
糖分がちょっと多すぎるかもしれません。
最初から最後まで自ら作ったものなので答えを知っていますが、見た目だけからは決してわからない“もの”、目に見えない伝わることのないもの“もの”とは必ずあります。

昨日の絆創膏の話です。
なんやかんやの貼り方を云々やっていても結局、剥がれてくるのは今使っている絆創膏です。
なので、昨日、やっぱり絆創膏は剥がれてしまい事務所の絆創膏で貼り直しました。
事務所の絆創膏はジョンソンエンドジョンソンのかわいい缶ケースの中に収納されており、中身の絆創膏を調べるといろんな種類の絆創膏がMIXして入っております。
絆創膏の缶とは見た目もかわいく、使い終わってからも他の絆創膏を継ぎ足しながら使用されるものでもあります。
缶を開けて、どうせ貼り直すならジョンソンエンドジョンソンの絆創膏を貼りたくも思い、ジョンソンエンドジョンソンの普通サイズの1.5倍ぐらいある絆創膏を見つけてそれを靴ズレ部分に貼ります。
正直言うと、靴ズレはもう治ってきているのでもう貼らなくともいいかな?とも思うレベルではありますが、傷の治りかけを傷つけてしまうと傷が長引いて良くないことになりそうなので、とりあえず貼ります。
今まで使用していたのは自宅にあった薬局オリジナルの安い通気性が良いらしい絆創膏です。
それとジョンソンを比較すると粘着力に差はあるような気がします。
ジョンソンエンドジョンソンの絆創膏は明らかにしっかりと接着する良い感じ。
そして、
実際に歩いても動いても全く剥がれず、家に帰りて足を洗っても外れることはありません。
絆創膏が簡単に外れないことは当然と言えば、当然のような気もしますが、絆創膏マニアでもないので、同じような形、同じ機能の絆創膏を見れば、どこのメーカーでも正直、同じ絆創膏であると思っていました。
まさか粘着力に差があるなんてことは知らぬ仏であります。
今後は少々高くともジョンソンとジョンソンを買おうと思いますが(忘却しないように)特に医療品はブランド品の方が良いのでしょうか???

物事の杓子として比較することはとても大切なことであります。
絆創膏と言えば、私たちにとってはあの定番な形ではありますが、世界的なブランドの粘着力と安売りの絆創膏の粘着力の差に大きな違いがあることは経験を積み重ねないと知らぬ知識でもあります。
恐らく、「本物志向の本物を知る人とは」たくさんの場数を踏み比較対象のピンをたくさん立てて来た人なのかもしれなくて?、もしくは、幼少の頃から本物である良いモノしか使って来なかった人なのかもしれません。
または、可視化される見た目の部分だけではなく、可視化されない機能性の部分まで見極める人たちでもあります。
結局、皆、それがわからないので「ブランド力」に頼ることになるのかもしれませんが、ネームタグだけな「ブランド」もあると思うので、本物を知る真贋の目を得ることは難しきことでもあります。

 
■2023年7月21日(金)
■ガーデン OR ニューズペーパー。
■2023年7月22日(土)
■一日一文章トレーニング。

「場数(馬鹿頭)を踏むルート」

先日、購入したばかりの服は襟の高さもあって、硬さも固い。
そのような服を炎天下の元で着ていると首元の圧迫感が苦しくて夏バテのようになってしまいます。
夏服は首元の開放感がないと暑くてしんどい。
そんな当たり前のようなことでも経験しないと気づかないものであります。
人生とは数々の失敗を踏みしめた上に成り立っているのだとつくづく思う。
一瞬の衝動買いで購入してしまった服は勉強代であったと思い学習する。
かといっても、まだ、数回しか着ていない服を捨てる程の勇気もないのですが。
年を重ねても、人は失敗事からしか学ばないものであるとつくづく感じます。
「夏服を購入する時には襟元が楽な服を購入する」と目利きの必須事項を私の呆則帳にメモります。

ということで。

絆創膏話の続きです。
サンダル履きの靴ズレに対して最初からジョンソンエンドジョンソンを使っていたらならば、ネタも生まれなかったし問題意識も発生しませんでした。
これをネットワーク的に考えると絆創膏を貼ったという(1)行程で終わる出来事です。
その先にあるものは「本物志向」という名の“もの”を見極める真贋な目であるような気もしますが、無意識で使用している人に本当に“もの”を見る目があるという確証もありません。
前述のように、それはブランドに対する「信頼の目」であるとも言えます。
水で洗い流しても外れない絆創膏とは当然の感覚かもしれませんが、もしかしたら、“もの”を見極める真贋の目とは数々の失敗を繰り返しながら、場数(馬鹿頭)をたくさんこなしている人こそ持ち得る境地なのかもしれません。

もう一方のMYアホ生活でもある「安物買いの銭失い」な道をなぞります。

(1)お店で安い絆創膏を見て、他ブランドよりも量も多いし安いしこれは良いぞ・・・と思い購入する。
安く購入できて大満足でもある。
(2)靴ズレに絆創膏を貼るとすぐに剥がれてしまい「あれっ?」となる。
自分の足がオイリーすぎて粘着拒否をしているのかと思ったら、寧ろ干物のようにカラカラと干からびております。
ならば、絆創膏の貼り方に問題があるのかとも考えてテープの剥がれにくい方法を考える。
(3)セロテープを足に貼って粘着の剥がれ方を模写すると、斜め貼りだと足の動き方によってテープの両端が浮いて剥がれやすくなることを発見する。
(4)いろんな貼り方をして、絆創膏を体に対して真横になるように貼ると、絆創膏の両端が外れにくいことを見つける。
※このような過程を「創意工夫」という。
(5)でも結局、絆創膏は外れる時には剥がれて落ちてしまうので、試しに別のメーカーのジョンソン絆創膏を試してみる。
※これは「現状の満足の殻を破る」行為でもある。
(6)そして、絆創膏は粘着が重要でしっかりとした粘着力さえあれば絆創膏は外れないという、当たり前のことに気付く。
(7)場数(馬鹿頭)をこなし「本物志向」という名の “もの”と“もの”の比較によって「ドヤっ」と近づけたような気もして昨日ノリノリで文章に書き起こす。

このように紆余曲折、7行程の寄り道を経て世界的なブランドが持つ品質の良さを確認できたことは失敗の上に得た知見でもあります。
何事も世を動かす全ての出来事が、先人の失敗と場数(馬鹿頭)の上に成り立っているかもしれなくて、IT長者の成功談を100話聞くよりも、1度の失敗談には人の役に立つ情報が詰まっているという古くからの言い伝えは正しいのかもしれません。
今やこの世の中は右を見ても、左を見ても成功談で溢れております。
寧ろ、成功談と成功者ばかりの薄っぺらさも感じます。
失敗事とは忌むべきものなのでしょうか。
上記のように、場数(馬鹿頭)を踏めば踏む程に絆創膏の粘着の強さの重要性に気づくことはできます。
それは、少しずつ真理に近づいているとも解釈できます。
『失敗談は学ぶ(真似ない)ことであるとすると、成功談はコピーして学ぶ(真似る)こととも解釈できます。』
失敗が見えない世の中とは、失敗が見えた時に大きく叩かれるだろうし、そんな失敗を隠蔽しようと考えたならば、社会にもっと大きく重大な爆弾を抱えることになるのかもしれません。
また、試行錯誤する道さえも見えなければ、場数(馬鹿頭)を踏むこともできなくて、一つの新しく生み出された成功談にカーボンコピーのように皆で物真似て市場を食い尽くすだけのような感じもします。
あくまでも個人的な感想です。
何か失敗に関する格言はないかと調べたら「失敗は真理の生長する学校なり」by ヘンリー・ワード・ビーチャー(奴隷廃止運動した牧師)というものを見つけました。
リアル学校に失敗も受け入れる俎上があるだろうかと考えたならば、経験で判断するに少ないような気もします。
「次に同じ状況・同じ問題に出会った時に気をつけよう」と思うのが学びなのかもしれません。

 
■2023年7月22日(土)
■くびふり猫ちゃん。

■2023年7月23日(日)
■一日一文章トレーニング。

「共生菌の話」

花の一生が結構長いのか?短いのか?さておき。先日、育てていた長生きの大根花の共生菌らしきものを花の切り口にこすりつけ、強制的に細菌に感染させた実験花の一生について書きます。花は赤紫に白の絶妙に混じり合った美しいお花です。勿論、名前は知りません。お店で花の名前を聞いたとしても家に帰るころには「花の名前はなんだっけ」と忘れていることが私のあるある生活でもあります。これは、そのような名も知らない赤紫のキレイな花に菌を綿棒でこすりつけて生育させた花の記録です。

7月1日(土):花を買ってきて大根の共生菌らしきものを塗り込む。

買って来たばかりの頃は花瓶に対して、花の背丈が随分と長くて花瓶に対して斜めった状態で飾られています。生け花の人達がみたら「キー」となりて手入れをしたくなるお花の飾り方なのかもしれませんが、生ける花の量が少なければ、花瓶とは普通にスカスカで安定しない容器でもあります。花瓶も1つしか持っておりませんし、その花瓶もヨーロッパ風なガラス製の大きいサイズのものでもります。未だかつて、この花瓶にもりもりと花を生けたこともありませんが、もし、この花瓶に満たされる花の密度で花を生けるとすれば、お財布の方が心配になる程の容量を持つ花瓶でもあります。器は立派であることは全てに於いて、良きことではあるようにも思いますが、器に対して中身が伴わない器というのも少し面白き貧相さでもあります。当然、剣山のようなもの持っていないので仕方なし。花は花瓶の淵に横たれて飾られることになります。そんな花の置き方でも部屋に花を飾るとフワッと明るくいい感じの部屋にはなります。

7月5日(水):茎は固く丈夫でしっかりはしているが、栄養や水分を吸う力が弱まり花に元気がなくなったので茎の底をカットする。

カットした茎はジッパー袋に入れて保管しておりますが、しっかりとした丈夫な茎から4センチぐらいまでを纏う菌が現在繁殖しています。茎をカットすると花は元気になります。繁殖する菌の見た目は大根の花と大体同じように見えるので、綿棒で茎にこすりつけて感染させる方法は成功したようにも感じます。ですが、比較対象として何も手を加えていない花はありませんので、結局、花が菌によって長生きできたのかはわからにことであります。

7月9日(日):再び花の元気がなくなり茎と枯れた花をカットする。

カットした茎はしっかりと丈夫。菌の繁殖範囲も4センチぐらいまで成長しています。見た目には菌糸の糸が見える感じで、7月5日の菌が繭のように密集しているのと比べると密度が薄くなります。茎をカットすると花は元気になりました。

7月13日(木):花の元気がなくなったので茎と枯れた花をカットする。

花の茎を3度もカットすると背丈も随分と低くなります。茎や葉はしっかりと丈夫でありますが、葉付きの茎の菌の繁殖は今までの菌の繁殖の仕方が異なります。それは、茎の切り口部分からではなく葉っぱの方を纏うように菌糸が広がっていること。これは今までは茎の切り口部分から菌が広がっていたのと全く異なる菌の繁殖の仕方です。花が水を吸う時に葉っぱまで吸い上げた証拠なのかもしれません。また、新芽の茎には丸く点々と繁殖する新しい見え方の菌も繁殖しています。これは大根の花で繁殖したものと形状が異なっております。

7月21日(金):花は完全に枯れてその一生を終える。

赤く枯れた花の色合いも美しく、枯れても味わいのあるドライフラワーみたいな花でもあります。今のところこの花枯れたものには菌は不着しておりません。その内に着いてくるのかもしれませんが。7月21日(金)の「金」と入力しようと思うと第一候補に「菌」出て来ることは嫌だなーと思うけれども、第一候補が「金金金」でも何か守銭奴みたいで嫌なものでもあります。確か、大根の花に繁殖した共生菌のようなものは窒素を固定する根粒菌みたいな形状をしておりました。花にはそのような根粒菌は付かなかったので菌の種類が違うのかもしれません。そう言えば、大根の茎に根粒菌のような黒い菌が繁殖しだしたのは、前日に毎朝のベーコン焼きで生のベーコンを触った手で大根の水を触っていた記憶もあります。その翌日から急に水が濁り出して大根の茎に根粒菌のような黒い不気味なものが着き始めたような記憶もあります。大根の茎を長生きさせたのは動物の肉などにつくバイ菌たちであったのかもしれなくて、また、花を買ってきて、次はベーコンの菌を茎に吸わせて試してみたいと思います。花の観察で面白く思ったところは花に元気がなくなるサイクルが4日間隔であること。ピッタリの4日間です。この4日間のサイクルを伸ばすことができれば、それが切り花を長生きさせることなのかもしれません。

名も知らぬキレイな花の一生の21日間が長かったのか?短かったのか?それは比較対象がなかったこともあり、知らぬことではありますが、人間の一生も日々長くなっております。最近は副業をもっとやりましょうとか、定年退職もさらに伸ばしてもっと長く働こうとか、その内、おまえたちは人生100年で死ぬまで働き続けろと隠さずに話し出すメディアもあるのかもしれなくて、私はそのような事柄に大変恐怖しております。好きな仕事であれば、死ぬまで働いてもそれは美談でもあるかもしれませんが、落ち着いて考えてみたならば、そんじょそこらのお化けよりも怖いホラー話しでもあります。早く、その辺にいる幽霊をタダ働きさせる方法を見つけなければなりません。そして、そのような、あからさまな言葉が普通に報道されるようになっても何の不平も出てこない奴隷生活みたいな世の中にもビックリします。わいは、そのような国策に絶対に御免候でもあります。そのまま垂れ死んでしまうのかもしれないので、何かマイ共生菌生活やアイテムな「菌・金・筋」を考え出して国策に対抗していきたいとも思います。

 
■2023年7月24日(月)
■一日一文章トレーニング。

「梅干しの天日干しを開始しました」

今朝、ネット検索で知りましたが7月22日(土)関東平野も梅雨明けになった模様。
いよいよ「サマーーー」の到来です。
そして、昨日は、雲のない良いお天気でもあったので梅干しの天日干しも開始しました。
野生の勘というか、梅干しの音が鳴ったのかもしれませんが、梅干しを干すのにピッタリな時期のスタートです。
さっそく、竹ザルの上に製法の異なる3種類の梅を並べて、どれが何の梅なのかわかるように写真を撮影識別します。

(A)は「完熟梅」から作った梅干し。
ザルの外輪郭に沿って置きます。
完熟梅の赤紫蘇(A’)はザルの真ん中に盛ります。

(B)は完熟前の「青梅」から作った梅干し。
青梅から梅干しを作るには完熟梅の2倍以上の時間がかかりました。
梅がどのような感じで出来るのかをガラス瓶で観察した「勉強梅」でもあります。
(B’)は「青梅」の瓶から取り出した赤紫蘇。

(C)は市販されている2年ものの梅干し。
塩分20%以上なので容器から取り出した時点から塩の結晶も見られます。

以上の3種類の梅干しを天日干しします。
自家製梅干しはこの倍以上作りましたが、この写真以外の梅干しは干す場所がないので実家に送りて天日干ししてもらっております。
なので、この写真の梅干しが東京都会っ子産の梅干しとなります。
この太陽光に紅ショウガも一緒に当てて乾燥させたいと思い、後から隙間に紅ショウガ二つも置きました。
紅ショウガはどこまで干せば良いのかわかりませんが、いい感じの天日干し具合で食したいと思います。

梅干しはお日様が欠けると室内に取り入れて、夜は部屋に取り入れてクッキング・ペーパーの布団を被せて寝かせます。
こうなると梅干しは子供のようでもあります。
そんなクッキング・ペーパーをそおっとめくると「ツ〜ン」と香る梅干しの香り。
クンクンと嗅覚に集中すると部屋中に香る梅干しの香りです。
こんなにも室内に梅干しの香りがあっても唾が出てこないがおかしいなと思い、今文章を書きながら微かに香る梅の香りに集中すると、やっぱり自然と出てくる唾でもあります。
やはり、梅干しは梅干しであって、意識する・しないで唾が出る・出ない感じは変な感じでもあります。

そのように、ザルの上にキレイに梅を並べ終わると残るものが梅の赤い液体(梅酢)です。
これは少し舐めただけでも、ご飯が美味しくすすむような味でもあります。
さっそく、昨日はスパゲティーの麺に絡ませて食すると、とても美味しい梅スパとなりました。
梅の香りと、しょっぱさと、スッパさが夏の暑さで細りがちな食欲を刺激してそそるような味でもあります。
何かとても新しいような味でもありますが、何年も食べ馴染んでいるような味でもあって、不思議に親近感のある味のスパゲティーでもあります。
こういうのは自家製マジックと呼ばれるものなのかもしれなくて、作った本人は長い時間をかける過程も見ているので愛着も人一倍あるものでもあります。
故に、誰しも美味しいと感じるものではないのかもしれませんが、お金を出して購入する梅干しよりも、数百倍有難く感じることは当然で大切に食べたいと思う食材でもあります。
また、作る手間のことを経験したならば、他の人が作る食材にも手間ひまがかかっていることを想像することができます。
それは食べ物の有難さをわかることでもあることなので、このような都心の隙間で家の伝わる伝統食材を継承したり、我が家の自家製の味を作り出すことは、たまに話題になる「食育」の一つなのかもと思ったりもします。
こんな梅干し一つとっても、それなりの大変さで大切に思うと、その廃液でさえ何かに活用したいと思うものでもあります。
これは、食べ物を「循環」しているとも言えます。
梅干しの廃液であるこの梅酢は来年の梅干し作りにも活用できる素材でもあります。
来年はもっと上手に梅干しを作れるとは思うのですが、美味しく梅干しは完成できるのでしょうか。

梅干しは天日に晒されるとみるみると乾きて梅干しらしい赤色に色づきます。
1日天日に干しただけでも、梅干しの味も身もどんどんと引き締まっていくような感じです。
ザルの上で食べ物が干からびていく様子は美しく、美味しそうに見えるのですが、これをわが身に置きかけると太陽光・紫外線の恐ろしさをまざまざと感じることでもあります。
昨日、ちょっと移動しただけでも太陽光の当たった肌はひりひりと痛いのは、ザルの上の梅干しのように私の肌もいい塩梅に焼かれているのだと思います。
生物の肌とは、よくもこんなにもスゴイ光線に当たりながらも干からびずに新陳代謝できる細胞を持っているものだと感心します。
そんな、梅干し話とはよく唾が出てくるお話でもあります。

 
■2023年7月24日(月)
■いやはや暑い。
■2023年7月25日(火)
■一日一文章トレーニング。

「気が熟すまで待つこと也」

紅ショウガを天日干ししたら、「どえら〜え」癖アリの食べ物ができました。味は紅ショウガを濃縮したような味。噛み応えはビーフジャーキーのような危ない食べ物です。一言で言うとパンチが凄くて人を選ぶ絶妙なる美味です。天日で二日間の乾燥後は約1/4以下に縮小して小さくなった生姜の小さな面積に全ての生姜のエキスが濃縮されたと考えれば、この天日干し生姜の味の濃さを痛感できます。食べると徐々にお口の中に広がる生姜風味、次にしょっぱい塩味がやって来て、その後に苦みが広がってから舌の上を長時間ピリリピリリと生姜の辛さで痺れさせます。まさに、珍味という名にふさわしい食べ物です。少量を口にするだけで、全ての味に変化をつけるような調味料にもなり得るような気もします。とはいえ、たくさん摂取すると血圧を上げてしまいそうなヤバさも感じます。そんな干からびた不気味すぎる生姜を拙い技量で捌きで薄くスライスすると芸術的で美しいサーモンピンクの側面が現れます。小さく切った一欠片を口にすると「うわ〜」と強烈な味覚に圧倒されて、もう一欠片と食べたくなるクセのある美味しさ。この生姜は塩と酢漬けしたものに、その後自家製の赤紫蘇を加えて赤く染めたものを今回の梅干しの天日干しの横に沿えて乾燥させたものとなります。一般論として永遠に保存に効く食べ物とはクセありなものが多いことを考えると、クセありのもの程に腐ることもなく長持ち呆則は成立します。人とて永遠に長持ちするような人とは、もしかしたら梅干しや生姜みたいなクセ強な人たちかもしれませんので、そんなクセありにあやかりクセあるものを食せば、そのような一クセも身につくものでありましょうか?

ところで、

完熟梅は梅干しらしい梅の味となって美味しくはできてきていると今のところ思います。しかし、青梅から作った勉強梅に関しては表面の皮も固く、味もただスッパイ味だけの安物の梅干しのようなチープさです。味を一言で言うと「青い」。完熟と青梅の差とはこんなに違うものかと思ったことが勉強梅からの学びです。梅干しは完熟梅から作れという古からの言い伝えは間違いなき正しきことであり、「完熟」と「青二才」の差とは何なのか?と思い調べます。「完熟」とは果実または実が熟して内容が充実していること。「青二才」は未熟で一人前になっていない男のこと。男限定であるようです!!青い実の感じと3歳ではなく2歳であることは、いろんな年齢を当てて読んでみたところ一番ゴロの響きが良いのはやっぱり青二才であります。この言葉を発明した人はものすごい煽りの才能がある人だと思う。梅干しを作るに限っては完熟であることは良いことであり、他の事柄に関しても完熟していることは良いことだけかもしれないので青二才がクセありの美味しい梅干しになることの願いは今のところ叶いそうにありません。青二才をどのように教育すれば美味しい梅干しになるのか考えても時の熟成に期待するしかないような気もします。梅の青二才を考えるにあたり「機が熟すまで待て」とは本当に正しい言葉かもしれなくて、最後に勝つ人とはホトトギスが鳴くまで待てるような胆力ある人で間違いないように思われます。

 
■2023年7月25日(火)
■「twitter(トゥイッター)」が「X(エックス)」になるみたい。
最近、広告なしが流行っているらしい。
■2023年7月26日(水)
■一日一文章トレーニング。

「日陰を巡る攻防戦、文明度のバローメーター、替の意味」

いやはや、強烈な太陽。
こんなにも強い日照りの日が続くと信号待ちの小さな日陰は先着順の争奪戦となります。
ある人は運良く小さな木陰のオアシスを確保すれば、そこからあぶれた人々は炎天下のアスファルトの上でこんがりと焼かれる食材の如く暑さに耐えなければなりません。

AはAA地点の日陰を確保する。
BはAAを通り過ぎてBB地点の日陰を確保する。
CはAAを通り抜けて、信号待ちの歩道の直射日光の当たるど真ん中で立ち尽くす。
それ以降のDもEもFもGも・・・皆、炎天下の太陽に焼かれます。

AとBには小さな優越感は生まれるのでしょうか。
真夏太陽が燦々と降り注ぐ信号待ちの木陰争奪戦には数分間の小さなドラマが潜んでいるように思います。
もう少し注意して信号待ちの人々を観察してみましょう。
今や電柱が作る小さな日陰や、数センチの交通標識本の日陰でさえも、信号待ちの人々の太陽光を遮る人気スポットです。
小さな日陰を見つけてはそのような場所から埋まっていく信号待ち。
自転車勢は信号機から遠く離れた場所の木陰スポットから青信号になる瞬間を伺いて行動することも可能ですが、歩行者の場合には歩行スピードもあるので、あまりにも遠い木陰から青になるタイミングを調整することも難しい。
また、信号機は歩いてくる道からわざと見えないように設置しているようにも思われるので、横断歩道前の前まで来ないと目視できないのが信号機でもあります。
なので、どんなに暑くとも横断歩道前までやってくる必要はあるし、人とは歩いていたならば、少しでも先に進みたくも思うものでもあるので、途中で止まって時間調整する行動は余程に決心して行動しないと難しいような気もします。

そんな猛暑の中でも長袖長ズボン・スカートで颯爽と走り抜ける人たちもいます。
長袖長ズボン・スカートで紫外線を防御することは理にかなったものかもしれないのですが、この猛暑の中でそれを実践できることは結構凄いことでもあります。
もうすでに、足もサンダル生活となったように、あらゆる箇所がビシバシ紫外線に晒されたとしても薄着になっていくことは自然な流れです。
「太陽と北風」のイソップ童話を完全に無視するような厚着になる展開とは「文明」を持つ証なのかもしれません。
ポプリン素材であれば長袖でも、それほど暑く感じもしないかもしれないし文明の力を活用すれば幾らでもやりようはあります。
それはオリックス・バッファローズのユニホームのBuXXaloesのXXの部分が読めないぐらいの謎なのでもありますが、「文明」であると解釈すると腑に落ちます。
関係ないけれども、XXは多分、ffで間違いないのですがiiにしか見えないので、フランス語で表現しているのかと思ったりもしたのですが、見る度に誰も読めなくてむず痒くなることに似ています。
今季は巨人の選手の名前表記もなく、発注に失敗したのかも思ったりもして、それも凄く気になるむず痒さです。
野球のユニホームとは結構、自由でいろいろあって楽しいものです。
この炎天下の中で、人の服装とはそれぞれで、いろんな選択もある服装の違いとは「文明度」の異なるバロメータによって変わってくるようにも思います。
この原理で解釈すると、私の文明度は著しく低下していることはわかります。

ところで、

この炎天下で頭もオーバーヒートすれば、見えてくる文字もあります。
それが「替」。
「替」の文字には二人の夫がいて、その下に日の文字があります。
これをよくよく見ると、猛暑で頭がオーバーヒートしているせいなのかもしれませんがヤバイ意味を見出します。
それは大口の「替顔」が「日ごとに夫をとっかえひっかえ」するという意味です(草)
さっそく、熱ット(汗汗)という最新のポンコツ機械で「替」の由来を調べると、夫は口を開けた二人が太陽の元で何かを引き継ぐ様であるらしい。
「マジなのか?」と全然、説得度が足りませんが、見たままを、見えるままに素直に「替」を見ることと随分異なるような気もしますが、「まーまーまー」一旦落ち着きましょう。
交換、為替に代替にしても物理的なやり取りの意味は変わらないので、このような炎天下の元で何かをトレードしていたならば、多少のバグも発生してしまうのが世の中というものでもあります。
この熱波はまだまだ続くので、皆様もご自愛くださいませ。

 
■2023年7月26日(水)
■のんびり猫。
■2023年7月27日(木)
■一日一文章トレーニング。

「さあ、ベェリエ地下に行こう」

ズラリと積まれた本棚から「ふっ」と目につく本とは、それは何かしら本が私に向かって「おーい」と手を振っている本でもある。
そして、そのような本を手に取って読む確率のことを考えると、その本と今の私は気持ちや波長が合っているような気もします。
(たぶん)

それは「ビェリチカ・地底岩塩採掘抗」の本。
自宅の本棚にこの本があれば、とてもマニアックな人とも思える本でありますが、これは世界遺産の採掘場を観光した時に入場券売り場で購入した本でもあります。
本の書体、デザイン、雰囲気や佇まいがの全てが海外の観光地で売られている「ザ・観光本(日本版)」な感じです。
本にもデカデカと大きく書かれているにも係わらず、当時というか昨日まで、この本を手にするまで「ビェリチカ」のことを「ベェリエチカ」と思っていたぐらいに、(エ)が一文字多く間違った名前で記憶していた場所でもあります。
数十年ぶりに本名を知った友人みたいな感じでもある。
昔、ポーランドを旅行した時に霧の街、グレー色の街に飽きて、どうやら近辺に世界遺産があるらしいという情報を得てから無計画に向かった場所です。
とりあえず、電車に乗って世界遺産に「ゴーゴー」と思ったら「ベェリエチカ」までは電車は行けませんといことで。
「・・・どういうこと?」
と、寄り合いタクシーに乗って知らないツーリストたちと一緒に世界遺産まで向かいます。
慣れない国で寄り合いタクシーとはメチャメチャに怖いことです。
お金ぼられたら、どうしょう。
まーお金を持っているようには見えないしな〜と思いながら。
戻れない場所で降ろされたらどうしょう。
ヒッチハイクしてでも気合で戻るしかありませんと。
知らない異国人に囲まれて妄想だけは一丁前に膨らみます。
ですが、そこは持ち前の無鉄砲さで世界遺産まで向かいます。
目的地に着くとそれなりの観光地化された場所で「ほっと」ひと安心。
採掘場入り口の建物だけはよく覚えております。

今、この本を読むとこの「ビェリチカ」はベェリチカ村の井戸から偶然に塩水が出てきたことが始まりで、そこから製塩産業の街として栄えた歴史でもあるようです。
ですが、塩水も取り出しすぎると枯れてしまい、その後、地下へ地下へと資源採掘することで現在のような遺構として残りました。
何も全く知らない場所であるが故に、この観光本を購入しましたが、当時は円がとても強かったので、こんな本でも安っスな買い物でもありました。
この家主(ヤヌシ・ポドレツキ)さんが書く書籍があったおかげで、この世界遺産が岩塩を掘っている場所であることを理解でき、この本がなければ単なる謎の地下探索となっただけなのかもしれなくて、今日のネタにもなりませんでした。

ポーランドと言えば、欧州の内陸地でもあります。
そのような地域から塩が取れることは不思議なことでもありますが、2千年前はこの辺りまで海水の下に沈んでいたようでもあります。
今でも、「ビェリチカ」がどの辺りのどこの場所なのかも全く把握もしていませんが、地下は64メートルの第一層から9層の327メートルまで続き、観光できる場所は一部だけのメイドインアビスのような地下世界が広がっています。
残念なことに「ベェリエチカ」の地下観光の記憶は全くありません。
完全なる虚無。
その理由は多分、帰り道、どうやって乗り合いタクシー拾うのか?無事にホテルまで帰る方法について不安ばかり渦巻いていたような気もします。
結局、帰りのバスはあって多くのツーリストな人達と一緒にバスに揺られながら中心街まで戻ることができました。
地下を採掘すると当然、事故で亡くなられる方も多く、洞窟内に教会なども作られております。
その佇まいがUCガンダムでマリーダクルスが宇宙の暗闇教会で祈る場所にも似ていて、光の届かない地底世界と宇宙とは似ているような気もします。
「ビェリチカ」の採掘坑を描いて思いましたが、モグラ世界とかアリの地下世界とはこんな感じなのかもしれません。
フランスの地下墳墓もそうですが、私と地下世界観光は大体相性が悪い。
フランスの地下墳墓の場合はお気に入りの靴がどろどろ泥だらけに汚れた。
「ベェリエチカ」の場合は採掘場まで行くまでの道が難易度が高かった。
当然、ポーランドでは誰一人の日本人も見かけることもなく、このような家主さんの本が売られていて助かりましたが、毎度、旅の珍道中からよく帰国できたものだと思います。
若い頃にたくさん旅行をしていたことは、とても良い思い出であります。

 
■2023年7月27日(木)
■足をばたばた。
■2023年7月28日(金)
■一日一文章トレーニング。

「夏バテしないように、ちゃんと食べよう 激暑でいいね?」

じりじりと肌を焼く太陽。
私たちは灼熱の太陽の下でこんがりとミディアム・ローストされます。
暑さも度を越せば、私の暑さもMAX急上昇するのですが、そのような「暑い」気持ちを超える最上級の表現が思いつきません。

「30度を超えて今日も暑いですね〜」

「36度を超えて今日も暑いですね〜」(へにゃへにゃ)
では暑さのレベルもニュアンスも異なります。

一方が社交辞令な暑さとすれば、36度超えの暑さには生命危機を感じる暑さでもあります。
そのまま、「ヤバイ暑さですね〜」でも良いのかもしれませんが、大体、私たちは四六時中、良いことも悪いことも「ヤバイ、ヤバイ」と「ヤバイ」という言葉に頼りすぎなところもあります。
「ヤバさ」とは極まった言葉の天地の全てを一つの言葉で表現する激ヤバ便利なツールでもありますが、品はありません。
訪日外国人が「ん・はい・えっ・はぁ〜・あはは」「暑いですね」「寒いですね」と「ヤバイですね」と暗記すれば何とか日常会話になるのかもしれませんが、ちょっと少なすぎるかな?

冬であれば、寒い寒波がやって来た時の「寒い」の最上級の「極寒」があります。
「ごっかん」と読めども、口語体で話すとなると「ごくさむ」と言っているような気もします。
文章に書くのであれば「極寒・ごっかん」でも良いのですが、会話で表現するとなると言葉とは常に角が丸く柔らかく表現したいものでもあります。
ならば、「極暑・ごくしょ」でいいのではとも思うのですが、これだと幾分硬すぎて一般的に使われる言葉でもありません。
「ごくあつ」とかわいく表現すると、今、ホットに何かに熱くなる「ごくあつ」な出来事のような気もして暑さMAXな表現とは異なるような気もします。
熱波に炎暑、猛暑と暑さを表す言葉はたくさんありますが、どれも文語体表現で会話向きではありません。
言葉とは難しいものであります。
他に、最上級の言葉で暑さを表現できないかと考えると結構いろいろあります。
最も暑い「さいあつ」。
ラグジュアリー暑い「ラグあつ」。
ハイレベルに暑い「ハイあつ」。
天下一暑い「てんあつ」。
極め付き暑い「きわあつ」。
すごく暑い「すご〜いあつい」。
甚大に暑い「じんだいあつ」。
高次元な暑さ「こうじげんあつ」。(新種のプレッシャーみたい)
S級の暑さ「エスキューあつ」。
とびっきり暑い「とくあつ」。
暑い暑い「あつあつ」。(ヒューヒュー)
極限の暑さ「きょくあつ」。
エグゼグティブ暑い「エグいあつさ」。☆
いやはや、何を書き出しているのかとも思いますが、このような変な暑さ表現を日常挨拶に紛れ込ませるとキョトンとスルーする相手の顔が面白いかもしれません。
次世代の「ヤバイ」の「エグい暑さ・エグあつ」でいいのかとも思う☆のですが、こちらも品はありません。
太陽光に焼かれて、溶けていく、この猛暑に程よい表現とは何なのでしょうか?


ということで。

今はトウモロコシや茄子が旬の食べ物です。
旬であるものを積極的に食べることはお財布にも体にもやさしいことです。
茄子は油で炒めてお醤油をかけるだけでも断然美味しい。
トウモロコシも勿論美味しいのですが、室内で沸騰したお湯で茹でると室温が急上昇してしまうのが難点です。
そのような時に活躍するのはホットック等の電気調理器。
あの機械は夏の暑い時期にとっても活躍する調理機器でもあります。
その理由は調理しても熱を発さないので茹でても蒸しても室温も上昇させないで美味しいトウモロコシができます。
トウモロコシは粗熱を取る為に放置しているとしわしわに実が縮小してしまいます。
なので、出来たてが一番美味しくて見た目も良いトウモロコシとなります。
トウモロコシが野菜なのか?と調べたら、豆類と同じく副菜として食べるには野菜なのですが、主食として食する加工品の場合は野菜ではないと記載がありました。
当然といえば当然なのですが、何かむず痒い気分。
旬な食材をたくさん食べてこの猛暑を乗り越えたいものです。

 
■2023年7月28日(金)
■小皿に生けた草花から顔を見出す。
https://www.threads.net/@scos4375/post/CvOGIIDSyFq
■2023年7月29日(土)
■一日一文章トレーニング。

「昨日、メジロの後ろ姿を見かけた」

昨日、おそらくメジロを見た。
U字に羽根を広げて飛ぶ緑色の背中に「あの鳥はメジロだ」と思われます。
鳥の羽ばたきが早すぎて正確な識別をできませんがスズメ小程度の大きさに抹茶色とくれば、それはメジロです。
飛ぶ前にメジロの存在に気づけば良いのですが、毎度、空を低く飛ぶ緑色の残像を眺めながら「あれはメジロじゃない?」と遠くに飛んで行く様を目で追うだけのメジロ観察です。
それは年に1・2度ぐらいしか体験できない貴重な瞬間でもあります。
この場所は以前にもメジロらしき幻影を見た場所でもあるので、私の生活圏唯一のメジロ観察スポットかもしれません。
ここで、メジロを観察できなければ、もう二度と出会えないような気もしています。
以前は小さな蛇が道を横切っていたこともある道です。
大通りから1本中に入った裏路地には人や車の移動も多い場所ですが微妙にいろんな生物に会える場所でもあります。
イチョウの木々を止まり木々とすることは、イチョウの夏の青い実を受粉させる役目がメジロなのかもしれません。
どことなく、メジロのキレイな色合いとイチョウの葉っぱの青色や黄色な雰囲気は似ているような気もします。
メジロらしき小鳥はすぐにイチョウの葉が生い茂る枝の中に籠もりて、木々から木漏れる「ピーピーピーピー」の大合唱。
目の前にたくさんのメジロがいるのに、葉っぱに隠れて一羽のメジロの姿を観察できないことはもどかしきことでもあります。
メジロをよく観察する人からすれば、都内でもそんなに珍しい鳥でもないようでありますが、毎度、抹茶色の背中しか見ることができない私にとってメジロとはなかなかに相性の悪い鳥でもあります。
いつの日か、目の前にパタパタと向こうから飛んできて、私にその美しい抹茶色のボディーと目のまわりの白粉なお顔を見せて欲しいと願うものであります。
それは百人一首で言うところのなかなかに顔をガン見できないお公家様に会うような感じなのかもしれません。
そこで、百人一首風にメジロに会えない高貴な気持ちを綴ってみました。

俳句などは謳ったことはないので、以前分析した百人一首
(5+7写実)
(5出来事・事件)
(7+7心境)
のカタチで書きます。

炎天下 木陰めぐりて(写実)
メジロ飛ぶ(出来事)
背色(せいろ)のみ見て 次は無きかと(心境)
※炎天下はたぶん季語です?

ついでを言えば、スマホで撮影するまで飛ぶことを待って欲しいものでもあります。
猛暑の中を歩く鳩の群れにはうんざりすれば、カラスの「カアカア」の鳴き声にもまたお前かとうんざりで、スズメの茶色にも夏の暑苦しさを助長させるようなうんざりな気分にさせます。
もし、美しい羽色のメジロが街をパタパタと羽ばたくことがあれば、南国気分も高まりて、一羽ばたき毎に炎天下の東京リゾートに涼しげなそよ風を運んでくれるのかもしれません。
そんな気持ちでもう一句。

炎天下 木陰めぐりて(写実)
鳩歩く(出来事)
カラスにスズメ またお前らか(心境)
※「またお前らか」は「毎度の面子」でも良いです。

再びメジロに出会う為には「ピーピー」の鳴きに対して地獄耳を発揮する必要がありそうです。
そこで、追加のもう一句。
メジロな迷三句を完成させて大満足。

炎天下 木陰めぐりて(写実)
街歩き(出来事)
さえずり拾う 我が地獄耳(心境)

 
■2023年7月29日(土)
■ガチャンゴチャン・ガチャンゴチャン。
■2023年7月30日(日)
■一日一文章トレーニング。

「サブとメインの境界線には谷と尾根程の高低差があるのかもしれません」

暴走するものはネズミであれ、列車であっても何でも怖いものであります。「暴走」とは乱暴に無謀に走る暴走族のような意味でもありますが、運転者の制御の効かない乗り物も「暴走」と表現します。昨今のような猛暑日も続けば、当然、高負荷作業中のパソコンもファンの唸りを上げながら暴走することもあるのかもしれません。ちょっと前、インフレな世の中の半導体不足でパソコン価格も上昇するだろうと予測してNEWノートパソコンを購入しましたが、結局、よく使用するパソコンとは旧パソコンでもあります。OneDriveの害悪に苦しむWindows11よりもWindows10をついつい使用してしまう日常でもあります。2台持ちパソコンであれば慣れているものを使ってしまうのが人の心というものでもあります。ですが、旧パソコンとはとても、おんぼろなノートパソコンでもあります。経年劣化でバッテリーも膨らみ、そのまま圧迫続ければバッテリー袋が破ける危険性も感じます。なので、背面ネジを全部開放してパカパカと隙間の空くノートパソコンともあります。本体部分が密閉されていなければ高温で暴走することもないメリットはありますが、何せ基盤やバッテリーも見える状態は少しヤバ目のパソコンでもあります。タッチパッドは使用不可。バッテリーも死んでいるので充電もできません。なので、旧パソコンは私の80センチの書斎で使用する分に支障ありませんが、常に電源を挿しながら使わないといけない持ち歩き出来ないデスクトップパソコンみたいなパソコンでもあります。その意味では旧パソコンはすでに終わっています。

先日、その旧パソコンのマウスが「暴走」しました。マウスの「暴走」とは常に右下に移動して連続ダブルクリックするような症状です。当然、電源を切ることさえ出来なく、他のパソコン操作もできない怖い現象。このマウスの暴走は3度目の出来事で、1度目はマウスを再設定することで修復し、2度はタッチパッドを完全に無効化することで回復し、今回の3度目の正直ではマウスの再設定から再復活しました。なので、映画風に言うと「旧パソコンは3度死ぬ」みたいな感じです。「マウスの暴走をさっさと止めないと、ポイしちょうよ」と半ば昭和脳な機械との対話で修復します。不思議なことは、このような高次元圧は結構有効かもしれないこと。マウスの暴走を鎮めるのは画面タッチの横槍操作。パソコンを購入する際は少々高くなったとしても画面タッチ操作できるモニターを選ぶことは良い選択であると思われます。

ということで。

まだまだ生涯現役みたく酷使する旧パソコンも流石に今回の暴走でヤバイと観念しました。データのバックアップも取りNEWパソコンに全ての作業を移行します。新しいパソコンをメインパソコンに使い始めるとデスクトップ画面をおしゃれにしたり、パソコンの細かい部分を変更したりと愛着も湧きます。自分だけなのかもしれませんが、サブ・パソコンであった時は全く気にかけていなかったことをメインとなればやり始めることは面白いことでもあります。メインとサブの境界線とは平面的な線で区切られているものと思っていましたが、その差異は尾根と谷ぐらいの高低差があります。(たぶん)お洒落パソコンを抱えてカフェで開いても、エセアート系みたいなカモフラージュもできる仕上がりにはなってきましたが、小心者の私は一人でカフェ作業はできないので全く気にする必要もないのも実情です。そして、今一番気になることはキーボードの黒い金属部分に手汗跡が残ること。これこそ、最初だけ気になりことなのかもしれませんが、水で拭いても、アルコールで拭き取れども手の油の汚れはほぼ落ちません。なので、最近は料理前のように手をゴシゴシ洗ってから大切に使用していますが、そんなことは当然サブの時は全くやっていません。それでも手汚れはやっぱり付着する感じなので気になる手跡です。おそらく、オイリーな手に関係なくメーカーの金属チョイスの素材のせいだと思われます。因みに、旧パソコンの金属キーボードにはそのような跡は全く付きません。そのような手汚れをいろんな方法で除去する方法を調べたら水の激落ちくんで落ちることを発見します。これは電気分解されたアルカリ電解水という成分を使用した水です。2度拭き不要とは書いていますが、3度も4度も拭き取りながら汚れを落とします。※当方は間違いなく激落ちくんの回し者ではありません。パソコンの絵は旧パソコンでVAIOロゴの横にアップル信者のロゴマークを貼ったパチモノ感を表現しておりますが、今回のNEWパソコンにはどんなシールを貼ろうかな?と新しいパソコンのカスタマイズ熱も上がります。

 
■2023年7月30日(日)
■顔と顔。
■2023年7月31日(月)
■一日一文章トレーニング。

「私の激落ちコレクション」

激落ちくんにより、我がパソコンはとりあえずキレイです。
だがしかし、お習字のように手を上げて入力するのもちとしんどいので、使用すれば、する程に汚れてしまうキーボードでもあります。
我が汚れた手はパソコン入力する度に確実にキーボードを汚していきます。
何かコーティン剤を塗布したくも思うのですが、そのようなコーティング剤を塗ったとしても、いつの日かそれら塗膜も剥がれて酷い状態になることも予測できます。
なので、僕らは永遠にアルカリ電解水の激落ちくんを片手に使用後、キーボード面を拭き取る必要があるのかもしれません。
手放せない激落ちくん。
激落ちくんでキーボードを拭き取る時に気になるのが「intel CORE i5」や「intel iRISx GRAPHICS」のシール。
これらはパソコンのキーボードに「ドヤっ」と貼られているシールなのですが、毎日激落ち洗浄していれば、これらシールも汚く劣化しそうな予感もします。
これらシールとは結構、好きなシールでもあるのでシールはキレイな状態の内に剥がすのも一考です。
グラフィックボードとCPUのスペックとは、あまりハイスペックで組むと爆音パソコンにもなるので、ほどほどが、ほどほどに良きがノーパソでもあります。

通常、油汚れを拭き取るとなればアルコール洗浄一択ではありますが、アルカリ電解水という単なる水が油分をキレイに取り去る仕組みは不思議なことであります。
そこで、アルカリ電解水とはどのような仕組みなのか調べてみました。

水はH2Oですが、アルカリ電解水はOHの状態の水のことを指します。
OHの水はタンパク質や油分などの汚れと触れると、そこに含まれるH分子を取り込んで安定したH2O(水)になろうとする性質があります。
このHを取り込む時のOH からH2Oの変質時にタンパク質や油分の汚れを一緒に分解して汚れも一緒に剥ぎ取るようであります。
O-HがHと接触するとH-O-Hの安定したカタチになる性質をうまく利用した水となります。

ところで、

我が家には4つの激落ちくん在庫がありました!!
全部微妙に種類の異なる激落ちくんです。
アルコール除菌生活になってからは全然使うこともなかったのですが結構な愛用者でもありました。

1)水の【激落ちくん】除菌+消臭
2)お得用500ml水の【激落ちくん】(ノーマル)
3)泡タイプ セスキの【激落ちくん】(ノーマル)
4)泡タイプ セスキの【激落ちくん】除菌+消臭

はてまた、これらをどのように使い分けるのか?は難問ですが、それぞれ万遍なく使用していて(草)。
たぶん、泡と泡でないぐらいの使い分けです。

もう一つ、「詰替用もあるなー」と眺めていたら、そのネーミングが「落ち落ちV」という名前でした。
顔マークも顔の眉毛がVに繋がり、ほっぺの赤い部分まで【激落ちくん】にそっくり。(草)
おまけに、お店の売れ筋ナンバー3みたいな王冠まで付いて抜かりありません。www
このような類似品を買う人のほとんどは気づかず購入している訳であるので、知らず知らずの内に騙されて詐欺にあっているような感じもします。
そして、何より堂々と何も隠していないことに本質があるような気もします。
こういうのはできるだけソースを秘匿したい人とあまりにもやりすぎて麻痺してきた人に分かれてくるのかもしれません。
よくよく考えると、このようなモノマネはお化けに出会う時よりもゾッゾッと怖いものであります。
やっぱり、人怖(ひとこわ)は正解なのかもしれません。
夏でもあり、幽霊の力を借りて少し涼しくもなりたい季節でもありますが、「夏だパクリだ・パクリのパクリのパクリの大逆転みたいな恐怖のサスペンス・ホラー(ついでに血吹雪舞うスプラッター)」は新しいジャンルっぽい感じもして面白話なのかもしれません。

 
■2023年7月31日(月)
■羽ばたく・走る。